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ねねという女性の物語(5):天下分け目の選別

    彼女が城を出る理由

    慶長3年(1598年)8月18日、太閤秀吉薨去。
    わずか一年後の慶長4年(1599年)9月、ねねは大坂城を去ります。

    この素早い行動が茶々との不仲の根拠とされることがあります。
    しかしそれは、私的な感情よりもむしろ、極めて冷徹な判断に基づいていたかもしれません。

    まず、豊臣政権は、秀吉個人の圧倒的な知略とカリスマに立脚しています。
    その死によって、豊臣家の軍事的な求心力や裁定権が失われていくことは容易に予想できました。

    また、関白は天皇を補佐する実務職です。
    秀次亡き後、幼い秀頼が直ちに継承するなどありえません。
    元服を待つとしても、少なくともあと十年は必要です。

    一方、家康はきわめて強大です。
    五大老筆頭として抜きん出るだけでなく、秀吉の存命中から諸大名との私婚を画策し、着実に地歩を固めてもいます。

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    既存の学説と一次史料に基づき、歴史の点と点をつなぐ「空白」を、「エゴ」という(誰もが持つ)歪んだ防衛本能と生存の視点から埋めています。 いわば、歴史を自分事として捉えることで教訓を得る試み。 非歴女/京都LOVE/nerd/羽化登仙

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