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【第2部】『井通遺跡にみる井の国の古代』~はまはく講座プラス②~を聴講して。  さやのもゆ

    前回の第1部では、基礎知識として浜名湖沿岸に散在する古代遺跡について、浜名湖の地形の変遷からたどる形でお話がスタート。
    奈良時代において、行政にともなう地域区分(国・郡・郷)で統合されたうちの一般的な郡家を事例として取り挙げ、整備された施設と機能について、詳しく解説して頂きました。

    今回の投稿内容である第2部「井通遺跡の古代遺構」では、井通遺跡の古代における有りようについて、その特徴的な遺物および遺構を紹介されるとの事で、いよいよ本題に入っていきます。

    2. 井通遺跡の古代遺構
    「井通遺跡のある場所は、浜名湖の北東岸にあたり、地図(下の写真)で見ますと〝引佐細江(いなさほそえ=浜名湖の入り江)〟のある一番奥まったところでしてー浜名湖に注ぐ都田川に井伊谷川が合流する地点より、井伊谷川を遡った地点になります。ちなみに、合流点の北方を渡る橋は、天浜線(天竜浜名湖鉄道)の橋梁(きょうりょう)ですね。

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    井通遺跡(井伊谷川左岸の河川敷)と、
    井伊谷川が都田川(写真左上)との合流を経て
    浜名湖に注ぐところ。
    (『井通遺跡ー井伊谷川流域の遺跡II』
    静岡県埋蔵文化財調査研究所、2007より引用)

    この井伊谷川左岸の河川敷を拡幅(かくふく)する工事の際、残っていた古い堤防を掘削したら土器が発見されまして、これが井通遺跡の発掘調査が行われるきっかけになりました。
    写真の奥(南西)には浜名湖が見えておりー同遺跡は、まさに浜名湖を目前に控えているのです。

    ◆掘立柱建物(総柱建物)
    井伊谷川河川敷(発掘調査場所)を北方から見ますと、柱の穴がたくさん出土(しゅつど)しているんですね。
    無数にある、大きな穴の中底には、さらに小さな穴が空いているのが見えるかと思いますが、
    これは、本来の姿ではなくてー発掘調査の〝掘削テクニック〟なんですよ。
    なぜ、このような手法を取るかといいますとー。
    地面に柱を立てる際、まずは柱より半径の大きな柱穴(はしらあな)を掘って、柱を穴の中に入れる。それから、柱の回りの隙間を土で埋めもどします。
    その後、年数が経って柱が腐りー新しく建て替えるか、このまま廃絶するかになった場合は、たいてい柱は抜き取らず、そのまま残すことが多い。
    そうすると、柱の痕跡が残りますから、大きく掘った穴の中に小さな柱の穴が見える、というような(穴の痕跡を残す)発掘作業が可能になるわけです。

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    井通遺跡の南部微高地(びこうち)に造営された、
    主に掘立柱建物群の遺構。
    発掘調査時のテクニックで、
    柱穴と柱の痕跡が残されている。
    (『井通遺跡ー井伊谷川流域の遺跡II 図版編』
    2007、静埋研より引用)

    本来なら、穴全体を掘ってしまうのですが、それだと柱の痕跡が分かりにくくなりますね。
    なので、穴堀りを途中までに留めることで段差を作り、柱と柱穴とを識別するために、このような方法を取っているわけです。
    もっとも、柱が腐らずに残る場合もありますし、上手く抜き取れてしまうこともあるのですが。
    こうした柱と柱穴について、位置関係を細かく観察していきますと『この建物は、真ん中にも柱穴があるから、倉庫が造られたのだろう』と、いうような事が分かったりするわけです。


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    井通遺跡の南部微高地
    (調査区南限~約200mまでの範囲)で発掘された
    掘立柱建物(総柱建物)の実測図。
    建物の内部・中心にも柱穴の痕跡が見える。
    (『井通遺跡ー井伊谷川流域の遺跡II本文編2』
    2007、静理研より引用)

    さらに言えば、こういった建物遺構がズラリと並ぶ場合もあることからー井通遺跡は、浜名湖北岸に程近い位置にあって、古代から8世紀を中心に9世紀まで、無数の建物群が時代を越えて、造営されていたことが分かってきています。

    3. 井通遺跡の古代出土遺物

    ◆役人の持ち物
    さて、遺構の次は遺物ー出土品のお話になりますが、
    遺構には、それこそ穴があったり川の跡があったりするものですから、大量の出土品が埋もれているんですね。
    このうち、8世紀頃の出土品のなかで特徴的な物と言いますとーひとつには、金属製の飾り金具が挙げられます。
    古代人というのは、中国風の衣服を身に着けていたのですがー腰回りを帯で締める際に、この飾り金具を使っていたと思われます。

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    井通遺跡で出土した金属製の帯飾りと
    錠前(右上)の実測図。
    (『井通遺跡ー井伊谷川流域の遺跡II』
    2007、静理研より引用)

    もっともこの帯飾りは、石で造られる場合もあるのですが、井通遺跡で発掘されたのは金属製で、4品も出土しているんですよ。
    ただしこれは、普通の人が使っていたのではないーつまり『役人』が身に付けていたのです。
    さらに言えば、こうした帯飾りのような装飾品が出土したという事実は、当地に郡の役所が存在した事を示す証拠にもなり得る。

    仮に、これが1つだけならまだしもー4つもあるわけですから、それこそ『ここに役人が居た』と、言ってもおかしくないですね。
    あと、同遺跡では『錠前(じょうまえ)』も発見されています。
    ただし、西洋のそれとは違って、昔ながらのガチャン、と掛けるタイプですがーしかし、錠前があるということは、もはや普通の集落ではありません。
    つまり、倉を管理するために使われた道具があった事になります。
    もっとも、遺跡を発掘調査して建物群が見つかること自体、ただ事ではないのですがー。
    このように、井通遺跡では、既に出土品によって、(政務を執る)役人の存在した事実を裏付けるだけの証拠があるわけです。

    ◆墨書土器
    これまで、金属製の出土品をご紹介しましたが、土器においても同遺跡ならではの出土品があるんですよ。

    それは、『墨書(ぼくしょ)土器』です。
    その名の通り、井通遺跡では、文字が書かれた土器が大量に出土していましてー事前に数えたところ、全部で450点もありました。

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    井通遺跡で発掘された、墨書土器(左)と
    墨書された文字の一例。
    『引佐一・ニ』や郡名と位置表記、
    人名『犬若万呂』なども書かれている。
    (講座資料引用、出典は
    『井通遺跡ー井伊谷川流域の遺跡II 図版編』
    2007、静埋研)

    皆さんにもお考えいただきたいのですがー。『土器に文字を書く』って、どんなシチュエーションが想像されますか?現代では、『お茶碗のフタ』とかお皿の底、高台(こうだい)に、メーカー名が表示されてたりしますがーそれではなくて、古代の場合は『引佐』とか人名が書いてあるんですね。

    イメージとして、いかがでしょうふか?
    ヒントを言いますと、『土器』を『どんぶり』と見立てたら、分かり易いでしょう。
    例えば、食堂でカツ丼を注文したとします。
    で、食べるときに開けたフタに『◯◯屋』とか店名が書いてありますよね。そういうノリなんです。
    つまり、給食施設で食事を作って運んでいくのですが、器は共有ではありませんから、返して貰わなくてはいけない。
    それで、何処の施設の食器なのかを、分かるようにしておくわけですね。

    そう考えますと、この墨書土器のように『引佐一(いち)』とあれば、その『引佐一』に所属する器、なのでしょう。
    また、他には『犬若万呂(いぬわかまろ)』というような、人名が書かれた土器もある。
    これも同様に『犬若万呂さんの所に返して下さい』と、いう意味だと考えられます。

    同遺跡の墨書土器では、『引佐一』とか『引佐ニ』と、書かれたものが特に多いのですが、これについては諸説あり、確定的な事は言えません。

    今の時点では(引佐郡家に関わる施設、という前提で)、『引佐一』と認識される場所に関わる文字であろう、という所までは、お話できます。
    ここからは、諸説分かれるところですがー。

    例えば、施設に管理された棚が設置されていて、給食を運び込む所があり、引佐郡のなんとかの一番、二番というように区分けされた形で所属する食器ではないか。
    あるいは、棚ではなくて倉庫そのものだったかもしれませんし、棚番号になっていたかもしれないーこのようなことが、考えられています。

    また、墨書土器の中には『引佐ニ』に加えて『引佐ニ酒(さけ)』と、書かれたものもあります。
    そうしますと『引佐ニ』という場所に、お酒に使う何らかの食器(酒器しゅき)もあった可能性も出てくる。
    したがって、『引佐一・ニ』というのは『棚』というよりも『施設』そのものー今で言うところの『(会社の)倉庫1号・2号』に相当したことも考えられます。

    このような墨書土器からは、文字を書く人が存在したことーそして、土器を不特定多数の人々が使うので、指定の場所に返却してもらうために、文字が書かれことが分かります。

    つまり、井通遺跡は相当な人々が出入りして、関わっていた遺跡であったと言えるでしょう。

    ◆陶硯(とうけん)

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    井通遺跡では、墨書土器が数多く発掘されているが、『陶硯(とうけん)』と呼ばれる、
    墨書に使う硯(すずり)も発掘された。
    左列上より、円面硯三点と宝珠硯、
    右列上から円面硯、転用硯、
    把手(はしゅ)付き円面硯、二面硯
    (『井通遺跡ー井伊谷川流域の遺跡II 本文編2』
    2007、静埋研より引用)

    次は、文字を書く(墨書)時に使う『硯(すずり)』ですね。(スライド画像を示して)円錐台形をしていて、上部の真ん中に内円が浮き出た所が、墨を擦るところで、その回りの窪みに水を湛えるというものです。
    このような形の硯を『円面硯(えんめんけん)』と呼んでいますが、他にはバリエーションとして取っ手付きの携帯用円面硯、何て言うのもあるんですよ。
    あとは『宝珠硯(ほうじゅけん)』といって、よく仏像が手にしている、花を型どったアイテムを硯に作った物もありますが、これは東海地方、現在の豊田市・猿投(さなげ)のあたりでしか、造られていません。
    主に、東海地方を中心に分布する専用の硯でありー井通遺跡では、このような物が発掘されました。
    この他には、普通の土器の裏側を硯として使う『転用硯(てんようすずり)』があり、この種の遺物は大量に出土しています。

    このように見てきますと、これほど多くの硯があるということは、同遺跡でいかに文字が大量に書かれていたか、ということになりますね。
    この事からは、井通遺跡が郡の役所としての色彩を色濃く残した遺跡であることを、示しています。

    ◆祭祀(さいし)土器

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    土製品(ミニチュア土器)は、
    祭祀に用いられたと推測されている。
    (『井通遺跡ー井伊谷川流域の遺跡II 図版編』
    2007、静理研より引用)

    硯などの持ち物以外にも、役所的な要素をもつ遺物として、神様にお祈りを捧げるために使われた『ミニチュア土器』があります。

    特殊なものでは『人面が描かれた土器』というのもありまして、これはイメージしにくいかもしれませんので、解説しますとー。

    例えば、疫病神のような禍(わざわい)をもたらす神の姿を描いて、これを退散祈願するーつまり、祀(まつ)りごとに使われた土器なんです。

    この際、墨で人の顔を描くところから、普通の一般的集落ではなく、役人が関わるような所であったのではと考えられます。
    でも、これだけではありません。
    祭祀用土器では、あともうひとつー同遺跡では、馬を型どった物も出土しています。

    まず、馬の頭ーたてがみがあって、尻尾が付き、本当なら胴体の付け根に4本の脚があるのですがーこの馬形(うまがた)には、脚がありません。
    正しくは『脚が取られている』状態なのですがー何故だと思われますか?

    この馬形は、ある祭祀行為を経て脚が取られているのです。
    言い換えれば『馬の脚を取る』儀式が行われたということーお分かりになりますか?
    つまり『馬を犠牲にしている』という事に他なりません。
    でも、本当に生きている馬を犠牲にするのは、大変な事ですから(本式に行うに越したことは無いのですが)、馬を殺さずに儀式を行う方法を選んだのです。
    土で造った馬形のイミテーションを使い、形式的に脚を取る所作を行うことで、本来の儀式行為を模擬的に踏襲していたのでした。

    では、なぜ馬なのでしょうか?
    それと言うのは、古代では馬というものが疫病神といいますかー禍い(わざわい)をもたらす神の乗り物、または神そのものであるーと、考えられていたからです。
    そうしたわけで、生きた馬を殺すことによって神様に願いを伝えようとしたのです。
    つまり、馬を殺して不浄なものとして、これを川へ投げ入れる事で、神様がビックリしてお怒りになるーそのような儀式なんですね。

    ちなみに、雨乞いの儀式を行う時も、水神(すいじん)様に向かって同じようにすると、水神様もまた怒り出して、雨をもたらすかもしれない。従って、そういう儀式にも使うわけです。

    もっとも、馬の屠殺儀礼には色んな意味があるので、雨乞いに限って言うことは出来ませんがー可能性はあると見て良いでしょう。

    このような祭祀も、普通の集落では行わなくてーやはり、お役所が儀礼的な意味をもって、役割を担っていたわけです。

    ◆計量器と竿秤(さおばかり)の錘(おもり)

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    計量カップ『陶製計量器』(右・左)と
    竿秤(さおばかり)の錘(おもり)。
    規格性をもった造りでであり、流通や税など、
    物品の計測に用いられたとされる。
    (引用同)

    井通遺跡では、『計量カップ』のような物も出土しているんですよ。
    それも、計量のために特定の容量でつくられた、規格性のある計量器です。
    さらには、竿秤の錘(おもり)まで発掘されているのですから、こうした計り物、度量に関わる遺物があることを考えますとー。
    当地には、流通とか納税にまつわる物品が運ばれてきており、これを役所として検品するための計測が行われた事実を伺わせる形跡があったことが、認められるわけです。

    ◆獣脚壺(じゅうきゃくつぼ)

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    獣の足を型どった脚台をもつ『獣脚壺』。
    身分の高い人物が所有したと考えられる。
    (引用同)

    これも、特別な土器になりますが、同遺跡には『獣足(じゅうそく)』といいまして、獣の足を型どった脚台が付いた土器(獣足壺=じゅうそくつぼ)も発見されてます。

    中国の焼きものにも、このような装飾性のある土器があるのですがーこれにしたって、普通の集落で使うなんて事は、あり得ない。
    なので、これもまた身分の高い人が出土地の付近に居て、このような壺を用いていたのでしょう。

    ◆製塩(せいえん)土器

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    井通遺跡で数多く発掘された、
    製塩土器片。
    三河地方・知多半島で製造されたものが
    運ばれてきたとされ、
    同遺跡ならではの、出土品のひとつと言える。
    (引用同)

    次にご紹介する遺物は、食事にまつわる土器ですがー『製塩土器』と言いまして、どういった物かと言いますとー。
    器(本体)の底、真ん中に支柱がついていて(両手で形を示しながら)高さは30センチくらいでしょうかー支柱の付いた所から器が広がる感じです。
    これは名前の通り『土器で塩を作る』というものでしてーまず、塩水を煮出して塩分濃度を高めていき、最後に器の下に伸びた支柱の部分を炉に挿して煮詰め、塩を作るわけです。が、
    こういった製塩、というのは引佐郡はもとより静岡県では殆んど行われていません。
    では、どこで製塩してるのかといいますと、おとなりの愛知県は知多半島なんです(ちなみに、三河湾南岸の渥美半島でも製塩が行われていました)。
    現在の西尾市とか、吉良町にあたりますがー。

    このように、三河地方で作られた塩が土器に入った状態で井通遺跡まで運ばれてきているわけで、製塩土器とは言うものの、これは塩の入った『容器』ですね。
    今で言う『塩入ビニール袋』に相当するでしょうか。この製塩土器の遺物が、同遺跡では大量に見つかっているのです。

    つまり、井通遺跡では塩を大量に消費していたことが分かりますね。
    繰り返すようですがー製塩土器もまた、普通の集落だったらまず、発掘されることは無いでしょう。
    この事からは、役人が食事をする時の調味料として塩を使っていたことが分かりますし、
    あるいは(出土地で)給食を作るとか、宴会を催していたのではないかーそんなことも見えてきます。

    ◆鉄器(てっき)生産

    古代の井通遺跡では、鉄器の生産も行われていましたが、遺物には鉄器の他に、鉄器生産に使われた物ー『ふいごの羽口(はぐち)』や『砥石(といし)』、あと鉄器を作った時に排出される『鉄滓(てっさい)』も出土しています。
    これには、解説を加えた方がよろしいでしょうか?
    まずは、鉄その物についてー。
    鉄、というのは、不純物が混じっていると成分として良くない。そこで熱を上げて純度を高くするには、炭素の含有量を変えていく必要があります。
    鉄自体も熱を加えることで形を作り変えることができますがーこれを鍛造(たんぞう)といって、鉄の素材を1000℃以上の高熱で熱して叩いていくことで、自由な形に作ることができるんですね。
    では、どうしたら高い温度の環境を作れるのかといいますとー。
    皆さん、BBQでもやりませんか?(両手をパタパタさせながら)いや、団扇(うちわ)じゃなくて。
    答えは、『ふいご』なんですね。
    木の箱とか、皮袋で出来てる物なんですけども、それをフゴフゴやって、強い風を送り出す方法です。で、そういった道具を取り付ける際、最終的に炉へ風を送り込む接続部分は、土で作られた『土管』。
    これを先端に付けることで、炉の中へ強い風を送り込むことが出来るわけでして、この土管を『ふいごの羽口』と、いうんですね。
    ふいごには、足で踏むようなものもありますがーとにかく、鉄を産する炉に強い風を送り出す、その一番先端の部分が、今日遺物として目にしている土管(どかん)、なのです。
    この『土管』が、井通遺跡ではたくさん出土しているのですが、この他にも鉄生産にまつわる遺物があります。
    高温に熱せられた炉の内部は『炉壁(ろへき)』と呼ばれていて、一部分に風が送り込まれることで鉄素材の不純物が溶けていき、炉の下に溜まっていくのですがーそういったものを『鉄滓(てっさい)』といい、手のひらサイズの椀形をしています。
    これにより、鉄素材の不純物が沈着して鉄器が加工されていくのですが、例えば、鉄の刃物を造るとなれば『砥石(といし)』を使って研ぎ出す作業が必要になります。

    そうしたわけで、『ふいごの羽口』『鉄滓(てっさい)』『砥石』といった遺物がそろった所で、『あ、ここでは鉄器を生産していたんだ』と、いう風に考えることが出来ますね。

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    井通遺跡より出土した、鉄製品の数々。
    鋤(すき)や鎌(かま)などの農具から
    刀子(とうす=小刀)に鏃(やじり)、
    紡錘車(ぼうすいしゃ=糸を撚る道具)に至るまで、
    さまざまな種類の道具が作られていた。
    (引用同)

    このように、炉を使って鍛造された鉄器ですが、何が造られたかといいますとー。

    『鍬鋤(くわすき)』の先端部分や『鎌(かま)』の刃先、それから『刀子(とうす)』と呼ばれる小刀に、鉄製の『紡錘車(ぼうすいしゃ)』ーこれは『錘(つむ)』で糸を撚る(よる)道具ですーあと、鉄製の『鏃(矢じり)』などが、出土しています。
    このうち、井通遺跡は鏃の出土品が結構多いのも、特徴と言えるでしょう。
    もしかしたら、『あれ、役所なのに、どうして鏃が要るの?』と、思われるかもしれません。

    確かに、お役所というのは税を納めるところですからー当然、税の管理をするわけです。が、それ以外にも『軍団(ぐんだん)』といいまして、兵力を納めるような場所が役所の付近にありーもしかしたら、鉄器の生産も行っていたかもしれませんがーそこに武器を備蓄させるのです。
    言ってみれば〝郡の公安施設〟といった所でしょうか。

    ◆移動式竈(かまど)

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    カブトのような形をした、移動式竈(かまど)。
    上の穴に土器鍋をかけて、
    下の空洞から火をおこすというもの。
    (引用同)

    道具類の遺物でも、まだまだ珍しいものがありましてー『移動式の竈(かまど)』と、いうのが造られていたんです。

    これは、中に火を起こして上の穴に土器をかけるというもの。
    もっとも竈は本来、土で出来ていて、建物の中に造り付けるものですがー何とこれは、携帯用なんですね。

    出掛けた時なんかに、コレを使って食事を作れるという『便利グッズ』です」

    ここまで、古代の井通遺跡で出土した遺物をご紹介しましたがー。

    同遺跡で発掘された出土品というのは、一般的な集落のそれと比べますと、変わっているといいますか、役所的な要素が相当強いことが分かります。
    役人の持ち物(帯飾りの金具など)も然ることながら、墨書土器とか、果ては鉄器生産に関連した遺物まで、出土しているのですから。

    このように、多種にわたる指標(遺物、遺構)を有している中にあってーほぼ、役所の存在を認定しても良さそうな要素が、揃っていると言えるでしょう。
    ともあれ井通遺跡は、一般の集落とは違う、ということなんです。

    ただしーひとつ言うならば、郡役所の存在を示す指標、となる遺物で、現段階の井通遺跡に無いもの(遺物)は『木簡(もっかん)』なんですね。

    これは、文字の書かれた〝木の札〟です。
    もっとも、同遺跡の立地は低湿地ですから(泥土の中は遺物が残存しやすい)、木簡が出土してもおかしくないのですがー。

    もしかすると、木簡の件は井通遺跡の最終的な性格(役割機能)を考える上で、決め手となるのかもしれません。
    もし引佐郡家に大量の木簡がもたらされて、これが配置されるような事は、充分想定できますがー。
    逆に、もとより木簡を使うような場所では無かったのではないかーそうした特徴が見られるのも、事実です。

    (第4部『井通遺跡の推移と性格』につづく)

    〈参考・引用文献〉
    『井通遺跡』井伊谷川流域の遺跡II 本文編1・2、図版編 (2007、静岡県埋蔵文化財研究所)


     
     
     
    日常の気付きや想いを、生まれ育った地· 奥浜名湖の風景に寄せてお届けします。 お時間頂けましたら、お読みくださいね。

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