
この世界を知るための言葉
ある方のエッセイを読んでいたら、
「〇〇の本が難しくて理解できず、何年もかけて勉強している」
と書かれていて、ちょっと安心してしまった。
一体、わたしは何に対して安心したのだろうか。
この「なんかホッとした」気持ちは、どこからやってきたのだろうか。
言葉が溢れるとき
一体、何に対する安心なのだろうか。
この気持ちの正体がなかなか掴めず、お風呂であれこれ考え込んでぼせてしまった。
ストレッチをしながら考え、書き物をしながら考え、書き出そうと思ったが何も書けなかった。
考えを書き出すための日記帳がある。
世間的にはジャーナリングと呼ばれる物なのかもしれないけれど、子供の頃から「考えを書き出すもの」こそが日記だと思っているので、ここでは日記、と呼ぶことにする。
日記に「△△について詳しいある先生は、〇〇の本について何年もかけて勉強しているそうです。」と書き出してみた。
大抵の場合、なにか一文でも書くと、ペンの先からどんどん言葉が溢れてくることが多い。
自分ではよく分からない・理解できていない・まとめられていないことも、とりあえず書き出してみると徐々に整理されることが多い。
けれどこの件に関しては、全くペンが動かなかった。
こういうことも、たまにある。
少し前に「なぜ気分が悪くなるのが分かっているのにお酒を飲んでしまうのか」と書いたときも、しばらくフリーズしてしまった。こんなどうでも良いようなことも、日記に書いたりしています。
ちなみに、お喋りもそうだったりする。
とりあえず口から言葉をいくつか出してみたら、後から後から文章が溢れて、まとまっていなかった感情が伝わる形で出てくることがある。
言葉はいつもわたしの内側で浮遊している。
それが何かのきっかけで綺麗な数珠繋ぎになり、ペン先や口からするすると流れ出す。
全く予期しない答えになっていることもあれば、ある程度自分で意識的に組み立てた状態のものに、うまい具合に肉付けされて出てくることもある。
不思議だなぁ、といつも思う。
けれど、いつもぽんぽん言葉が出てくるとも限らない。
言葉が詰まってしまうこともある。
今回のことのように、全く出てこないこともしょっちゅうある。
そういうときは、無理に書いたり喋らない。
黙っている。
沈黙の時間も必要なのだと思う。