メインコンテンツへスキップ
見出し画像

「スニーカーで歩く世界一周 〜国立民族学博物館をめぐる旅」

    いつか、行ってみたかった場所

     振り返ってみると、子供の頃から博物館の雰囲気が好きだったと思う。 ちょっと薄暗くて、 ほんのりと湿度を感じる空間。そこに教科書で見た「モノ」が、整然とそしてぎゅっと並べられている。学校の授業で勉強したことは「架空の世界の話」ではなく、現実の世界のできごとだったのだ。そんな知識と現実がつながる場所として、博物館が好きだったのだと思う。

     そんな私にとって、長らく行ってみたい場所があった。大阪にある国立民族学博物館(みんぱく)である。 本当は、昨年大阪・関西万博(2025)へ行った際に寄るつもりだった。しかし時間や日程の都合で、 実現することができず断念してしまった。

     振り返ってみれば、私は本当に行きたい場所へは一度で行けないことが多い。直前にキャンセルになる。何年も憧れ続けていた場所だと、とくにそうだ。太宰治の斜陽館も青森市から五所川原市へ向かう途中吹雪で断念した。 国立民族学博物館もその運命なのかもしれない。

     未練を残しつつも関西国際空港へ移動。帰りの飛行機に乗り込み定刻通り出発、のはずだったのだが、なんと、その便は離陸を開始した直後トラブルで急停止した。確認のため、とアナウンスがあり、そのまま機内で待機している間「もしこれでキャンセルになったなら、もう一泊して国立民族学博物館へ行けるのではないか?」と考えたりもしたが、確認後、無事に飛行機は離陸した。大阪が遠く離れて行った。

     あまりにも未練が強かったからだろうか。大阪・関西万博の翌年、つまり今年(2026年)に、国立民族学博物館へ行けることになった。しかも今回はほぼ1日、時間を確保することができた。本当に縁がある場所へは、キャンセル後すぐチャンスがやってくる。のかもしれない。執着はいけないが、あこがれを持ち続けることは次のチャンスを引き寄せるのかもしれないので、正しい欲望を持ち続けたいと思う。

    世界最大級の民俗学博物館「みんぱく」を巡る旅

     太陽の塔を背後にして奥へ歩いていくと、左手の奥に建物が見えてくる。想像していたよりもだいぶ大きい。ここには、世界中から「モノ」と「コト」が集まり、さまざまな思想が渦を巻いているのだ。 早く中に入って行きたい気持ちと、どこか尻込みするような矛盾した気持ち。そんな子供の頃のような気分を抱えながら、表面的には平静さを保ちつつトーテムポールの横を通り受付へ進む。

    画像

     入場券を購入し、さあいよいよ! と先に進みたいところだが、 ここで私たち(今回は妻と2人で旅をしている)は休憩を取ることにした。なぜなら「本館展示場の、オセアニアから東回りに地球を一周するコースは総距離約5km」と公式にあるように、かなり歩くことが確定していたことと、午前中に「太陽の塔」で階段を登り降りしていたため、腰痛が再発しないか心配だったからだ。

     50代ともなると体調が気にかかる。大学生の頃はアルバイトの夜勤明けでも「1日くらいの徹夜はなんてことない」と嘯いて動き回っていたのが嘘のようだ。と、過ぎ去った「若さ」を嘆いても仕方ないので、1階にあるレストランで早めの昼食をとり、気力と体力を回復させてから先に進むことにした。そう、つまりそのくらい私はこの時間を楽しみにしていたのだ。苦手な飛行機に乗って、時間をやりくりしてやってきたのだ。だからこそ、可能な限り万全の体制を整えて先に進むのだ。

     余談になるが、レストランでは配膳ロボットが食事を届けてくれる。 数年前にファミレスで配膳ロボットを目にした時は、驚きそして思わず写真を撮ってしまったものだが、最近ではめずらしい景色ではない。 近い将来、レストランのホールにはロボットだけが行き来しているかもしれない。
     水を注ぎながら「腰痛の具合はどうですか?」などと声をかけてくる。スマホのデータを読み込んで「たぶん、2時間は大丈夫ですが、3時間をすぎたあたりから疲労を感じるかもしれませんね」とデータをもとにアドバイスをしてくれるかもしれない。そんなことを考えながらオムレツを食べ、窓から見える外の風景を眺め、スニーカーの紐を結び直してから、展示場へ向かった。

    脳が、オーバーフローする感覚

     結論から書いてしまう。今回、国立民族学博物館には3時間以上滞在した。くたくたになった。 歩き回って疲れたという身体的疲労もあるが、どちらかというと圧倒的な情報量に触れて頭の中がオーバーフローしてしまった疲労感だった。一歩進んで、なんだこれは? 横を見て、ちょっと待てこれはすごいぞ! と立ち止まる。
     そうやって2時間ほど興奮状態で進んでいったのだが、後半の1時間は疲労感が蓄積したせいか集中力が切れ切れになり、なんとなくぼんやりとしてしまった。そのくらいの圧倒的情報量だった。

    画像

     「国立民族学博物館 展示案内(国立民族学博物館 編集)」に「諸民族の生活文化を「読む」展示」という一文がある。 この「読む」という言葉を私なりに解釈するならば、まずはそのデザインや佇まいを見て楽しむ。次に背後にある文化や、それを手がけた人の様子を想像していく。一人または集団で形成された人生と物語を、自分なりに深読みし受け取ろうとする時間。それが「読む展示」なのではないかと私は個人的に解釈している。
     
     そして私は、このような時間が本当に楽しく感じる。これを作った人は、時間と空間を越えた異国の地に展示されることを想像しなかっただろうな、などと考え始めると深読みが止まらなくなる。そんな要素が、次から次へと目の前にやってくるので、私の拙い脳の処理能力ではあっという間にオーバーフローしてしまったのだった。50代を越えたあたりから、一度に処理できる情報量が減った実感があったが、それをここで痛感してしまった。

     私に知識があればもっと掘り下げることができたろう。知識がないということは、見えないものが増えるということだから、私が受け取れたのはほんのわずかだっただろう。時間がなくて、ビデオテークも利用できなかった。それでも来て良かったという充実感はあった。事前に見たいと思っていたものを、それなりに確認できた達成感もあった。色々な国へ行って、現地を旅してみたいとも思った。
     そんな「好奇心」が湧き上がってきたのは久しぶりだった。私にとって博物館は、今も昔もそんな気分を刺激してくれる場所だったのだ。


     
     
    「もっと読書を楽しみたい」あなたのために、コピーライター(佐藤)が言葉の裏側から文学作品を解説します。Youtube &Podcastにて【佐藤ゼミ オンラインde文学講座】も配信中。

    あなたへのおすすめ