
能楽は、私の脳に風景をつくる
十年前、初めて能楽を拝見した。
「一角仙人」でぐっすり気持ちよく眠ってしまった。
能はわからない、眠い、それがよく言われる感想だ。なぜか。
私の脳には、まだ風景を立ち上げるだけの言葉が入っていなかったのだ。
2年前、また能楽を見るチャンスがあった。ホール能で解説や字幕もあった。
「船弁慶」
寝もしなかったし、意味も分かったが、子方かわいー、なんか武将こわーい、で終わった。
その私が、能楽師の先生に謡本の内容を丁寧に教えてもらい、再度「船弁慶」を拝見すると、全く別の舞台になった。子方は消え、静が浮かび上がり、女性としての心の葛藤がしみ込んできた。知盛に至っては、怨みが押し寄せ、足さばきと地歌から荒れ狂う波が見え、大変恐ろしかった。
そして、知盛の感情は私の中にもあった。
平家で最も優秀な将のひとりであった知盛は、盛者必衰の大きな流れには逆らえなかった。彼が望んで怨霊になったのか、源氏が勝手に妄想で仕立て上げたのかは、今も私にはわからない。それでも舞台で暴れまわる知盛を見て、私は爽快だった。知盛ほど大きな怨みではないけれど、日常で嫌なことがあったとき、私は心の中で知盛の舞を思い出して、相手を切ることにした。
「小塩」では、「今までで一番印象に残った桜の風景を思い出しながら見てください」と言われて、そのようにした。桜の和歌が大量になだれ込み、業平のお面に自分の何かを投影したのか、大変に美しく純粋な男性が見えた。舞台の上の業平を見ながら、私の中で桜が散った。もう今年の春は、ここで終わりでいいと思った。
「卒塔婆小町」では、傲慢な小町の成れの果てと言われてもしょうがない状態でも、小町は小町であることに、同じ女性として安心した。後半の少将には、最初の怨みつらみや気持ち悪いという感情は抜け、純粋な思いが伝わってきた。私もそういうものを追い求めたい、と気づいた。
「絵馬」では、神であっても感情があり、好奇心があることに共感した。今も昔も、どうしようもないものはある。それでも神様たちは集まって、何かをしようとしていた。
地歌は、最初はお経のようにしか聞こえなかった。でもその意味や背景を理解してから、声の塊がサクラや海の激しさや神聖さを、私の脳に立ち上げてくれるようになった。映像のない舞台で、まさにVRのように。
能は変わらない。
変わったのは私だった——というより、私の中に眠っていたものが、言葉と経験によって呼び起こされた、というほうが正確かもしれない。知盛の怨みも、業平の春も、小町の矜持も、もともと私の中にあった。能は、それを見つける場所だった。
能を見続けている人やプロからしたら、滑稽な状態かもしれない。それでも私は、誰かが作った映像を受け取るのではなく、少ない情報から自分だけの風景を立ち上げられる人間でいたい。能はそのための一つの手段だ。
私は、まだ発見されていない宇宙だ。経験と学びによって、まだ出会っていない私がいる。
だから私は、もっと経験して、もっと学ぶ。
三回目の「船弁慶」はどんな景色が見えるのだろうか。