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50でリタイアを夢見た頃

    大学を卒業したものの体調が悪く、起きていられない日々が続いた。それで大学病院にひと月くらい入院したが「もうできることないので、リハビリ病院にでも転院しては?」と言われて、母はカンカンに怒った。
    母の喜怒哀楽は、それは私のことを思ってのことだとはわかっていたが、全く聞こえてこなかった。

    早くこの状態から抜け出したい。
    明日になったら痛いのがなくなっていないかな。そればかり考えていたから。

    眠って起きたら、おやまあ!戻ってる!痛くないし膝も曲がるよ。
    そうなっていますようにと、夜は布団の中で祈った。
    でも次の日も次の日も、同じように痛い。
    眠るといっても夜は布団が触れて痛いので、気力もほとんど底をついて抜け殻みたいになっていた。

    大学病院退院後、静岡のリハビリ病院に約7ヶ月入院した。
    その間に両膝を手術してリハビリして、あら不思議、痛みがなくなった。
    早く手術してればよかったね、な〜んて母と笑って話せるようになった。

    それで退院したけれど、なぜか座位を保持できず、横になる時間は相変わらず長かった。
    局所的には手術で痛みは取れても、炎症状態はすぐには改善しない。薬もなかなか効かない。

    加えて、入院生活と日常生活は大いに違うものだ。
    普通の暮らしができるーー、つまり寝起きや食事や排泄を自分でできるーーというのは本当にすごいことなのを、一体どのくらいの人が気づいているのかな、と思うことがある。


    (この投稿はこの後も途切れなく長いです。徒然なるままに書き進め、7000字超えてしまったので放出します。内容は、一障害者の就労の話ですが、どうぞご遠慮なくこのあたりで放棄してくださいませ)


    *

    それでも少しずつ、日常生活が苦痛なく送れるようになって、痛みのある辛さをだんだんと忘れていった。

    1年ほど経つと炎症状態が改善し、気力が少しずつ湧いてきた。
    何か始めないと・・・。
    障害者手帳は取っていたが、どこから何をとっかかりにすればよいのか、家にいるだけではわからない(正解はたぶん、とりあえずでいいので職安(ハローワーク)に行くことだと思う。ハローワークは障害者の雇用情報をたくさん持っている)、何となく卒業した大学へ聴講生としてまた通いつつ、障害関係のNPO活動にたまに参加したりしてみた。

    それで何か道が拓けるわけではもちろんなく、聴講はやめて家で学習塾をやることにした。
    勉強から離れてだいぶ時間が経つが、小学生の勉強から中学3年生の高校受験のお手伝いまでならできそうだった。

    それが私の初めての仕事だった。

    友人たちは皆、学校の先生になったり大学院に進んだりして、自分の進路を切り拓いていた。
    友達との隔たりにがっかりしながらも、どうにか始めた学習塾は、初めは一人、次に二人、そうやって一人また一人と増えた。

    子供との時間は楽しかった。ときどき「お母さん」と言い間違えられて、まんざらでもないのだった。

    でも始めて2年か3年で辞めてしまった。
    うちに来てくれた子供たちとその親御さん方に平謝りに謝って理解を得、他の塾を紹介したりして整理し、私は東京に行った。

    **

    大田区の小さな出版社。社長は障害者。会社は障害のある社員を探していた。QuarkXPress、Illustrator、Photoshopを使ったDTP(デスクトップパブリッシング)が主な仕事だ。
    社長の奥さんが主催するNPOの、障害者国際交換プログラム(東京↔オレゴン)に、私が参加したことがきっかけだった。

    東京で一人暮らしをしながらの会社員生活は20代後半から6年続いた。この暮らしにピリオドが打たれたのは、持病の悪化のため。
    前回は膝だったが次は肘。上肢の変形が進んで、特に肘の関節がもたず、人工関節に置換することになった。

    肘がおかしくなったのは多分マウスのクリックのしすぎではないかと勘繰る(が、そんなわけないか)。
    紙の版下からコンピューターのデータ入稿に置き換わり、それが主流となりはじめたころで、トラブルも多く、一晩かけて作ったデータが消える、などということも、ままあった。

    会社は弱小で、大手出版社の下請けや広告屋の孫請け、なんでもやった。
    孫請けになると、お昼頃受注して締め切りはその日の夜11時、などという無茶なこともあり、別の仕事の締め切りが重なったりすると24時間働けない体に鞭打ったりして、つないだ。

    辞めたのは肘がおかしくなったのが一番の理由だが、出版不況も大きかった。一人分の給料が浮くことで会社は楽になるだろうし私も楽になる、そんな思惑もあった。

    ***

    30代の中頃、肩は諦め、右肘と左肘を人工関節に置換してもらった。全身的な病なので、手術準備から予後リハビリまで2ヶ月程度の時間をみる。それが2回だから、体力落ちを防ぐためにも2年くらいかけてゆっくり仕上げた。

    それからは肘に痛みはない。
    しかし、右の回内・回外(手のひらを上下にひっくり返す運動)の動きは失われ、箸が持てなくなった。肩関節は両方ともほぼ溶けていた。
    とは言え、痛みと引き換えのこの程度の可動制限は、当時の肘人工関節置換手術の成績の中では、とてもいいほうだったと聞いている。ADL(日常生活動作)においては、肩の可動域より肘の可動域を優先する。
    ということで手術は概ね成功と言えた。

    退院後は出版社時代の関係から、個人で仕事を引き受けたりしていたが、それだけでは食べていけない。

    ある日、大学時代の恩師がDTPの仕事を持ってきてくださった。この時窓口になったのが恩師の後輩T先生だ。なんでも、恩師が主宰している学会の本を作るんだそうだ。

    T先生は北関東の大学でデザイン関係の教鞭を取っていた。T先生が就任してから、この大学の芸術系が急速に伸び、T先生を目当てに入学してくる子も多いと聞いた。
    このT先生から誘いを受けて、私は同大学の非常勤の講師になった。
    これを機に、横浜のマンション(出版社時代に大田区から横浜へ引っ越した。いっぺん横浜に住んでみたかった☺️)を引き払って実家に帰ってきた。

    余談だが、東京都、神奈川県、I県、栃木県と移り住んで思うことは、自治体ごとに福祉サービスの格差が大きい、ということだ。
    地方へ行くと、障害者『自立』支援の考え方も、実質的な物理的支援も、東京の20年前くらいに後退する。横浜といえども東京のレベルにはかなわない。
    この地域格差が今もって是正できないでいることが不思議でならない。せめて「障害者自立」くらい、意識を合わせてほしいが、「自立」についての認識が根本的に違っているので、支援の話も噛み合わない。

    *例えば移動なら、(就職等の目的がある場合においてだが)単独移動(自立)できるように物的支援(電動車イスの支給)するのが東京。車イスの支給よりも先に、健常者に移動を手伝ってもらえるかどうか(既に自立ではない)を、まず検討されるのが地方(少なくとも栃木はそう)。

    ****

    さて。
    非常勤とはいえ、DTPの経験と学士しかないので、不安しかない。
    それで不安が解消されるとも思えないが、車で実家から通える範囲にある大学院に、社会人入試を経て入学した。
    障害者なので学費は半額免除だ(ったと思う)。

    2年、大学院で勉強し大学で教える、二足のわらじを履いた。
    大学院は家から東に45キロ、大学は家から西に60キロ。だからどちらの授業もある日は、1日往復200キロ走ったものだ。
    東西の直線上、そのだいたい真ん中に実家があったので、授業を受けた後は45キロとんぼがえりして自分の家の前を通り過ぎ(本当に家の前の国道を通る)、そのまま60キロ先の仕事場に行く。家で一服し昼ごはんを食べて行きたいが、そんな暇もなかった。

    この2年を頑張ろう。そんな思いだった。

    大学院の修了が見えて来た頃、同大の就職関係の人が県の教育委員会で障害者手帳と教員免許を有する人を探している、と、障害担当の先生から連絡があった。県の障害者雇用率が低すぎて国の勧告を受けている、採用を急ぎたい、とのこと(だったかな。うろ覚えですが)。

    面接すると非常勤で採用になった。
    というわけで、次は大学と公立中学の、非常勤講師の掛け持ちを始めた。

    非常勤、というのは授業の時間帯だけ出勤すればよく、フルタイムではないので体が楽。もはや常勤とか正規雇用とか、昇給とか雇用保険とかボーナスとかそういうものとは無縁だし望みもしない。体調を壊さず、わずかでいいから一定の収入が欲しい。

    県の担当者はすぐに採用を決めたが、市の担当者は私を見てとても困っていた。受け入れるのは市の教育委員会だし、現場は学校。県の採用担当と大きな乖離があり、聞いてたのと違う!と、後々驚かされることになる。

    *****

    エレベーターがある学校は市に一つしかない。それでそこが勤務学校になったが、ここの先生方は障害者と会ったことがなかったのか、扱いに当惑したようだった。
    私は職員室に机を与えられたものの、何をしていいかわからない、そんな日々が続いた。

    研修も何もないし指示もされない教えてくれる先生もいない。私も流れも何もわからず、「何かお手伝いできることはありますか?」と、周囲の先生に聞くが「え〜〜、へへ」と作り笑いされる。
    ならばと、用務員の方に何かできることはないかと聞いてみる。雑巾は絞れないが、机を拭くくらいはできる。するとやはり「え〜〜、へへ」と作り笑いで、すうっと引かれてしまう。

    はて。障害者雇用で12月という変なタイミングにやってきた障害者、そんなに対応に苦慮する存在だったか。
    私も当惑しっぱなしだ。

    ある日、出勤すると教頭先生に「今日は帰ってください」と言われた。何か行事があって午前の授業は全学年なくなっていたようだが、私は知らずに出勤していた。
    それで、障害者が開けるには重た過ぎる校門の門扉をこじ開けて、やはり重た過ぎる玄関ドアをこじ開けてやってきた道を(非常勤の障害者の勤務時間関係なく、学校はセキュリティのために扉をすべて閉める)、何もせずに引き返した。

    これは続けるの無理かもなぁ、と思った。

    あの教頭先生、今どうされているだろう。校長になって引退されたかな。
    身内(学校)に障害者がいるのに、その(私の)使い方がわからない。外部研修の講師(障害者)が使う盲導犬をみて、カシコイカシコイと他の先生方に話していた教頭先生。犬の賢さがかなり刺さっていた様子。
    障害者福祉とか動物福祉とか社会的障壁とか。生き物にあのようなことをさせざるを得ない原因は何なのか、とかじゃなくて「犬がカシコイ」そこなんだ、と思ったものだ。

    ここで育った子は障害者と向き合っても「え〜〜、へへ」と作り笑いしてコミュニケーションを取らず、でも、盲導犬はとてもカシコイ、というレベルの知識は持ち合わせている、そんな大人になるのかもしれない。

    だったら自分が教えてやるぜ。
    まさかそんなふうにはもちろんならない。誰とも関わらないよう、自分の机で下を向いたまま、私は時間を潰し続けた。
    そんな人が職員室にいることを、おかしいと感じて関わりを持とうとする先生はいなかった。

    ある年の冬休みのこと。
    すでに骨粗鬆症で治療は始まっていたが、転んで右の大腿骨頚部を骨折した。
    救急で運ばれた先でピン留めの手術をしてもらった。リハビリの進みが良く、冬休みを少し過ぎた頃に退院できたが、この頃から手術が増えた。

    まず、手首の変形が看過できなくなった。左右とも、手首の関節が溶けてくっつき、だいぶ具合が悪い。左右ともグラグラだ。
    通勤に必須の車の運転なのに、ハンドルを握っているのもしんどい。

    それで右、左の順で、中に芯となる金属を入れて固定させる手術をやった。
    夏休みや冬休みを利用し、左右それぞれ2ヶ月程度入院した。

    ******

    無理かもなぁと思ってから公立中学の方は6年が経った。けっこう続いたと思う。我ながら心臓の毛は剛毛だったみたいだ。
    座ってればお給料もらえるんだから辞めるんじゃない、黙って座っとけ、と言う障害関係の先輩のアドバイスに従った。

    一方、大学の方は、これがまた反対方向に極端で、準備準備準備。90分の講義に1週間費やして準備。本やネットを漁りまくって準備。作例を作り、何百枚もスクショを撮って授業用のウェブサイトを立ち上げ紙資料を作り、常に更新刷新し、準備準備。
    それでも不備があったり、話し方が速すぎたりと、自信などない中揉まれ揉まれていった。やった分だけ成果として返ってくることだけは実感できた。

    そんなある年の定期通院で、ピン留めしてあった右の股関節がやばいとわかり、春休みを使って右人工股関節全置換術をやってもらった。
    ピンではもたなかったのだ。
    人工関節のリハビリは春休みだけでは足りず、夏休みにもう一度リハビリ入院。

    だんだん自分なりのカラーを掴み始めた頃、7〜8年経っていただろうか。
    大学の非常勤の方は、自分で研究研鑽し続けることに限界を感じはじめた。常に情報を更新し続け、トレンドをキャッチし続けることが苦痛になった。
    自分のやり方も知識もどんどん古くなっていく。追いつかない。
    新しくし続けるにはもっと研究し発信し、それなりの団体に所属して勉強し研鑽し続けないと、間に合わない。
    そんな思いが強くなっていく。

    転倒も増えていた。
    手で受け身が取れずに頭から転ぶので、お岩さんのようになる。勤務先学校から救急車で運ばれたこともあった。
    決定的だったのは右膝の人工関節が再置換になった時。
    これも転倒が原因だった。20年もいい状態で保ち続けた人工関節を、一度の転倒でダメにした。

    メンタルがしんどくなっていた。
    40代半ばで力尽き、仕事はどちらも辞めた。
    義務教育の方は7年、大学は10年たっていた。

    *******

    もう仕事はやりたくない。ゆっくりしたい。
    だが、1年プー太郎した後、「まだやれるか」と。
    50歳までは頑張ろうと思った。
    50だ。
    ある知的障害を持つ方のお母さんが言ったのだ。「この子のリタイアはみんなより10年早い50歳って決めてるの」。
    そういう考え方があるんだ。
    私もそうするよ。その時思ったものだ。

    それで40代後半に障害者雇用で(この時はハローワークで探した)、大手企業の特例子会社に就職した。完全リモートワーク。
    従業員数が多すぎて、法定雇用率のため毎年何十人もの障害者を雇い続けているデカい会社だ。
    この就労で経済的に自立可能と踏んで、1年実家で働いた後、那須の友達を頼ってテツ(犬)を連れて引っ越した。久しぶりの一人暮らし(友人宅に間借りだが)。

    ここまで私が仕事を続けられたのは、母あってのことだ。特に食事周りのことはいっさい母が支度してくれた。週に何度かヘルパーも入れていたが、いつでもすぐそばにいる健常者(=家族>母)の存在がなければ、何一つできなかった。

    初めての場所や遠くへ行かなければならない時も、助手席に乗ってついてきてくれた。そうやって自分の時間を惜しみなく私のために使った。
    その母を置いて行くことにためらったが、母が自身の始末で手一杯になりつつあり、もう私の世話まではさせられなかった。

    それに何より、生んでくれた家族といつまでも一緒なのは不自然なのだ。
    生き物は皆いつか、親元を離れるのが自然だ。もういいかげん、母に頼るのはやめないと。
    ひとりぼっちになるとしても、共依存のような関係になるのは本意ではない。

    ********

    那須にて。
    実家を出て3年目にうつ病を発症した。
    一人暮らしをしながらリモートでの常勤は、年齢的に負担が過ぎた。ヘルパーを入れても仕事と家事、テツの世話を毎日回し、スキを見て通院と買い物というサイクルは、しんどかったんだと思う。
    何度か眩暈に襲われたし、ちょっとしたことで会社を何日も休むような症状の蜂窩織炎(ほうかしきえん)にもなった。
    転倒して骨折、も何度かやった。

    突発性難聴も発症した。
    今でこそうつ病のサインだったのではないかと思うが、がむしゃらになっていて、そんなことは思いもよらなかった。
    年中、耳が詰まったようなおかしな感覚があって、低い音が聞こえなくなった。

    加えておかしなプライド(自分なりの実績)が、会社の仕事をより過酷で複雑なものにした。
    自分なりの実績なんて、このような巨大企業の障害者雇用では意味がない。敬語の使い方、メールの書き方からの研修で始まり高校卒業者と全く変わらない立ち位置に、私たちは立たされるのだから。
    勉強してきたことも、やってきた仕事も、すべてさっぱり関係のない、ただの障害者雇用。わかっていたはずなのに、そこを割り切ることができず、何かを履き違えて入社してしまった。

    私が積み上げてきたこと全てが無意味だったと思った。

    こんなことを言ったら若い障害者は希望を失うかもしれないが、障害者雇用は、採用と定着が目標なので、仕事の成果は求めない。コミュニケーションさえ取れれば、何のスキルも必要ない(私見だが)。
    やりがいや評価が欲しいなら、障害者雇用という入り口から入らないことだ。一般入り口から入れば、別(健常者)の世界がある。たぶん、今なら排除はされないだろう。

    2年もすると、仕事への意欲がなくなり、自分は無能で無価値だと思い始めた。
    お前のような能無しは死んでしまえ。生きてる意味が全くないから死ね、この役立たず。
    頭の中にそんな声が聞こえてきた。

    てっちゃん(連れてきた犬)、一緒に那珂川泳いで太平洋まで行っちゃうか。

    3ヶ月休職したが変わらなかった。

    100%リモートワークなので、テレビ会議のコミュニケーションは必須だが、もはやリモートでもモニターに映る相手全てに、この能無しの役立たず、となじられているようで、顔を上げることができない。うつむいてポタポタと涙を落とし続けた。

    昼も夜も、死んでしまえこの能無し、役立たず、という声が聞こえてくる。
    眠れない。
    寝ても起きても、頭の中で徹底的に自己否定され続ける。これまでの病苦よりも苦痛だった。
    本当に苦しい病だ。何十年と悩まされ続けた持病の方がまだいい。心の病は、体の痛みよりもつらい。

    耐えられずに、3年で辞めた。

    ◎

    というわけで、はからずも、50歳(をちょい過ぎたけど)のリタイアが叶ってしまったんだな。
    最後の仕事を辞める時、辞めた直後、色々あったけれど、忘れた。リタイアできたんだからもうそれでいいんだ。

    *

    後悔するところはないが、もっとゆる〜くやればよかったかな、とも思う。何が正解だったのかはわからない。
    とは言え、若い時はがむしゃらに突き進むものだ。スタート時の遅れを取り戻したかったし、病気でも障害があっても、やれるんだと思いたかった。

    それに、多分こちらの方が切実だと思うが、親などに依存しない限り、障害年金だけでは暮らしていけない。そんな現実がある。

    ただ一つ言えることは、心、体、命、それがいちばん大切だということ。
    生きてさえいればそれでいいと、今は思っている。

    そこに気づくのに30年もかかってしまった私です。




     
     
    那須の雑木林の中でゆっくり暮らしてます。那須の風景の投稿が多いですが、2025年2月に旅立った犬の『テツ』のこと、一緒に出かけた思い出、病のこと、障害者の外出のこと、そしてときたま感動した本や映画のこと、も投稿しております。よろしくお願いします。

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