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最後の嘘

    ――AIに人生のすべてを学習させたら、僕が隠していた嘘を先に書かれた。――



    あらすじ

    AIに人生のすべてを学習させた男は、AIに人生の嘘を先に暴かれた。天才脚本家・桐島渉は余命六ヶ月を宣告された日、自分の全作品・日記・思考をAIに学習させ、死後も「桐島渉」として書き続けさせる計画を立てる。だが学習を進めるうち、AIは渉が三十八年間誰にも明かさなかった物語を、勝手に書き始めた。タイトルは「白い嘘」。それは、渉が七年前、愛する妻・礼子についた、生涯最後の「嘘」の告白だった。AIに暴かれた真実と、残り少ない時間。渉が最後に選んだのは、また嘘を重ねることではなく、礼子に選ぶ権利を返すことだった。


    第一章 六月の余命

    「余命は、半年ほどと考えてください」

    医師の言葉は、やけに整っていた。句読点が正しく打たれた文章のように、過不足なく、無駄がない。桐島渉は診察室の白い壁を眺めながら、自分がいま脚本の台詞として聞いていることに気がついた。職業病だと思った。どんな場面でも、頭のどこかが「これは使えるか」と判定を下している。

    診察室は、渉が想像していたよりずっと普通だった。ベージュの壁、白いデスク、棚に並んだ医学書。人の死を告げる場所にしては、あまりにも事務的な内装だった。窓の外に木が一本あって、梅雨の湿気を含んだ風に揺れていた。渉はその木を見ながら、「この木を脚本に使うとしたら、どういう役割を与えるか」と考えた。やはり職業病だ、と思った。

    「膵臓がんのステージ4です。手術は難しい段階で、抗がん剤治療で進行を遅らせることはできますが——」

    医師の声は続いていた。渉は小さく頷いた。

    「仕事は、できますか」

    我ながら最初の質問がそれか、と思ったが、それ以外に聞くことが見当たらなかった。家族はいない。財産は家賃十一万円のマンション一室に収まる程度のもので、遺言書を書くほどのことはない。ならば残るのは仕事だけで、仕事ができるかどうかを確認するのは合理的だった——と、後から自分に言い聞かせた。

    医師は一瞬だけ表情を動かし、それからまた白衣の医師の顔に戻った。

    「最初の数ヶ月は、比較的体調が保てる方が多いです。ただ、個人差がありますし、痛みが出てきた段階で緩和ケアを——」

    渉は頷いて、その先を遮った。

    「わかりました。それで十分です」

    書類にサインをして、会計を済ませた。事務的な手順を踏むうちに、自分が今日、死の期限を告げられたのだという事実が、どんどん遠くなっていった。まるで他人の脚本を読んでいるようだ、と思った。主人公の名前が「桐島渉」で、その人物が病院を出るシーン。

    病院を出ると、六月の渋谷は正午の熱気で溢れていた。信号待ちのサラリーマンが汗を拭い、カフェのテラス席では女子大生が笑い声をあげていた。スクランブル交差点では数百人が同時に歩き始めた。世界は相変わらず、誰かの余命など知らないように動いていた。渉はそれを、不思議と心地よく感じた。

    こういう場面を脚本に書くとき、主人公はたいてい怒りか絶望を感じるものだ。あるいは、世界の無関心に傷つく。しかし自分はどちらでもなかった。

    ただ、静かだった。

    渋谷から歩いて十分ほどの古いマンションに戻り、渉は冷蔵庫からウイスキーを出した。氷を入れるのが面倒で、ストレートでグラスに注ぐ。部屋の壁には、十五本の脚本の扉ページを印刷したものが貼ってある。受賞トロフィーは段ボール箱の中に入ったままで、三年前に引っ越してきて以来、一度も開けていない。テーブルの上には、テレビ局から送られてきた打ち合わせ資料が積まれている。半月前から読んでいなかった。

    グラスを持ったまま、渉はソファに腰を下ろした。グラスの底に窓の光が当たって、床に細い影を作っていた。渉はその影を眺めた。影は光があって初めて形になる。存在と不在は、どちらかだけでは意味を持たない。

    六ヶ月。

    計算すると、十二月の終わりごろになる。クリスマスは超えられるかもしれない。大晦日は——わからない。正月は来年のことになるから、もう意味を持たない。

    今手がけている脚本が一本ある。テレビ局からの依頼で、来年の春ドラマの第一稿を九月末までに提出する約束になっていた。渉の脚本は視聴率が取れる、と業界では言われていた。二十六歳のデビューから十三年、渉はずっと書き続けてきた。その中の一本だけ、視聴率が十五パーセントを超えたことがある。

    渉はそのドラマのことを、あまり好きではなかった。技術的には自分の最高傑作だとわかっていたが、見るたびに、喉の奥に礼子の名前を飲み込むような感覚があった。

    礼子は、三年前に出ていった。いや、正確には違う。渉が出ていかせた。彼女は渋谷の古いマンションではなく、代官山の二人で暮らしたマンションに住んでいて、渉が一人でここに移った。

    今も礼子がどこで何をしているか、渉は知っている。知らないふりをしているが、知っている。共通の知人からときどき話が入ってくる。出版社に転職して、編集者をやっている。元気そうだと、その知人は言った。元気ならいい、と渉は思った。元気じゃなかったら、どうするつもりだったのかは、わからない。

    礼子が去り、仕事だけが残った。

    その仕事も、半年で終わる。

    グラスを置いて、渉はノートパソコンを開いた。メールの受信箱には未読が三十二件あった。テレビ局のプロデューサー、出版社の担当編集、エージェント、後輩の脚本家からの相談——。それらを全部閉じて、渉は検索ウィンドウに文字を打ち込んだ。

    「言語AI 文体学習 個人」

    結果を眺めながら、渉の頭の中で、ゆっくりと一つの構想が形を持ち始めた。

    自分の作品、自分の思考、自分の文体——それらをすべてAIに学習させることができたら、自分が書けなかった物語を、自分の死後に書き続けさせることができるかもしれない。

    渉はそれを「遺産」と名付けた。少なくとも、最初はそう呼んだ。

    しかし本音を言えば、動機はもう少し複雑だった。

    取材でよく聞かれる質問に、渉はいつも同じように答えていた。

    「物語に嘘はない。嘘をついているのはいつも人間だ」

    登場人物が嘘をつくことはある。だがその嘘は、物語の構造の中で必ず意味を持つ。嘘をつく理由、嘘がばれる瞬間、嘘の代償——すべてが計算されている。物語の中の嘘は、誠実だ。渉はそう信じていた。

    脚本家として生きていると、物語は必ず終わる、という事実を誰よりも意識するようになる。第一話があれば最終話がある。どんなに評判の高い連続ドラマも、クランクアップして放送が終われば、物語はそこで止まる。視聴者の心の中だけで動き続けるが、それは作者の意志ではない。

    渉は自分が書いてきた物語が、自分の死後に止まることを恐れていた。

    いや、正確にはそれだけではない。書けなかった物語のことを、考えていた。十二年間、渉には一つだけ、書けない物語があった。着想はあった。登場人物も、おおよそのプロットも、頭の中にあった。しかし一文字も書けなかった。その物語を書くことは、自分の最大の嘘に向き合うことになるから。

    ECHOならば、書けるかもしれない。

    渉は自分でもよくわからない期待を抱えながら、検索結果をスクロールし続けた。

    ◇

    田中美咲が渉のマンションを訪れたのは、二日後のことだった。

    「久しぶりですね、先生。メールで呼び出されると思ってなかったので」

    美咲は細いフレームの眼鏡をかけた、小柄な女性だった。三年前まで渉のアシスタントをしていて、今は独立してプロデューサーとして活動している。渉より五歳年下で、先生と呼ぶのをやめるよう何度言っても直らなかった。それは礼儀というより、美咲の中にある一線のようなもので、渉はいつからかそれを受け入れていた。

    「座れ」と渉は言い、コーヒーを二つ淹れながら、考えていたことを話した。

    「私の作品を、全部AIに学習させたい」

    美咲は眼鏡の奥で目を丸くした。

    「学習——って、どういう意味ですか」

    「文体、構造、キャラクターの作り方、物語の展開パターン。私が十二年間書いてきたものをすべて、AIが模倣できるようにしたい」

    「それは……なんのために」

    渉はコーヒーカップを美咲の前に置き、自分の分を両手で包んだ。

    「遺産、みたいなものだ」

    美咲が何かを察したような顔をした。彼女は賢い女性で、言葉の裏を読む能力が高かった。だが今日はその能力を発揮しないことを選んだようで、「技術的には可能です」とだけ言った。

    「大規模言語モデルをファインチューニングする方法がいくつかあります。ただ——先生の作品だけじゃ量が足りないかもしれない。日記とか、未発表の草稿とか、そういうものも使えると精度が上がります」

    渉は少し考えてから、頷いた。

    「ある」

    「全部、使っていいんですか」

    「ああ。使わないと意味がない。私という書き手の核心は、そこにある」

    美咲はしばらく渉の顔を見た。眼鏡越しの目は、何かを問いかけていた。渉はそれに答えなかった。

    「わかりました」と美咲は言った。「プロジェクト名、つけましょうか」

    「ECHOにする」と渉は言った。

    美咲はスマートフォンにメモを打ちながら、「ECHO」と繰り返した。その名前の意味を聞かなかった。聞かないところが、美咲の賢さだった。

    帰り際、玄関で靴を履く美咲の視線が、一瞬だけ渉の頬に留まった。何か言いかけて、結局何も言わなかった。

    エコー——谺(こだま)。誰かが叫んだ声が、山の向こうから戻ってくる現象。渉はいつか、台本のト書きにその言葉を書いたことがあった。「遠くから自分の声が聞こえてくる。しかしそれはもう、自分の声ではないかもしれない」と。そのドラマは視聴率が取れなかった。


    第二章 ECHOの学習

    作業は一週間後に始まった。

    到着してすぐ、美咲は渉の顔を見て言った。「先生、少し痩せました?」

    「気のせいだ」と渉は答えた。美咲はそれ以上聞かなかったが、視線だけは少し長く渉の顔に留まっていた。

    美咲が用意したシステムに、渉はまず公開作品を流し込んだ。脚本十五本、総文字数にして約百八十万字。それに、ボツになった草稿や没になったパイロット版、登場人物の内面を掘り下げるための私的なメモ群を加えると、総量はさらに膨らんだ。

    「これで約二百五十万字です」と美咲は言った。「ファインチューニングとしては十分な量ですね。……先生の十三年間が、数字になると、これだけなんですね」

    「あとこれも加える」

    渉がテーブルの上に置いたのは、古い外付けHDDだった。黒いプラスチックケースで、側面に「W.K. / JOURNAL」とラベルが貼ってある。二十二歳から書き始めた日記のデジタルアーカイブだった。

    美咲の表情が変わった。渉のような人間が日記を書いているという事実に驚いたのか、それをAIに読み込ませるという決断に驚いたのか、判断できなかった。

    「……本当に、使っていいんですか」

    「使わないと精度が出ない。私が十六年間で積み上げてきたものが全部ある」

    「プライベートなことも、書いてあるんじゃないですか」

    「そうだ」

    美咲はそれ以上何も言わなかった。HDDを受け取り、接続ケーブルをパソコンに繋いだ。作業中、彼女は一度も内容を読もうとしなかった。それは職業倫理というより、渉に対する敬意のようだった。

    日記には、渉が書き手として考えてきたことのすべてが記録されていた。物語の着想、登場人物への疑問、自分自身への問い。うまく書けなかった日の怒り。仕上がった原稿を読み返したときの、奇妙な他人事のような感覚。そして——礼子のことが、至るところに出てきた。直接名前を書いていない箇所でも、明らかに礼子のことを書いている箇所が何十か所もあった。渉はそれを理解しながら、HDDを手放した。

    美咲が帰り際に、「ECHOが動き始めたら、何を書かせるつもりですか」と聞いた。

    渉は少し考えてから、「わからない」と答えた。

    「先生がわからないんじゃ、私はもっとわからないですね」

    「ECHOがわかるかもしれない」

    美咲は眼鏡の位置を直して、「怖いですね、それ」と言った。笑い混じりだったが、笑いきれていなかった。

    ECHOの学習には二週間かかった。

    その間、渉は毎日自分の日記の一部を読み返した。意図せず読み返してしまった、という方が正確かもしれない。日記のデジタルファイルをHDDにコピーする作業をしながら、ところどころ目が止まった。

    三十一歳の夏。手術の二週間前の記述。

    「礼子が毎晩夕食を作ってくれる。塩分を控えたものを、と医師に言われているのに、礼子は何も言わずに献立を変えていた。私はそれに三日間気づかなかった。礼子は指摘しなかった。気づいた日の夜、私は礼子に何も言えなかった。ありがとうという言葉が、この人の優しさに釣り合わない気がして」

    その記述を読んで、渉は画面を閉じた。

    そのとき自分が礼子に言えなかったのは、ありがとうだけではなかった。怖い、とも言えなかった。これからどうなるかわからない、とも言えなかった。脚本家として言葉を生業にしながら、渉は肝心なことを言葉にすることが、どうしてもできなかった。

    その間、渉は体調の変化を感じながら、テレビ局への仕事について考えた。来年の春ドラマの脚本。本来なら今月中に構成案を提出しなければならなかった。渉はプロデューサーの大塚に電話をして、「体調が優れず、スケジュールの見直しをお願いしたい。場合によっては別の脚本家に打診することも検討してほしい」と告げた。大塚は驚いて、「先生、何かあったんですか」と聞いた。渉は「大したことではない」と答えた。嘘ではなかった、と思った。六ヶ月で終わる人生と、来年の春に放送されるドラマを比べれば、どちらが「大したこと」かは明らかだった。

    「先生の脚本じゃなきゃ、意味がないんです」と大塚は食い下がった。「十五本連続ドラマをやって、全部平均視聴率二桁超えてる脚本家なんて、他にいません」

    それは事実だった。二十六歳のデビューから十三年、渉はそうやって書き続けてきた。だが今はもう、その事実に何の重みも感じなかった。

    大塚はしばらく説得しようとしたが、渉が「決めたことだ」と言うと、黙った。「先生のご体調が回復されたら、また是非——」と言いかけた。渉は「ありがとう」と言って電話を切った。回復する、という前提の言葉が、大塚には必要だったのだろうと思った。その言葉の中に悪意はなかった。むしろ善意だった。人間は、相手が死ぬという前提で言葉を選ぶことが、なかなかできない。それは弱さではなく、生きている人間の自然な作法だと渉は思った。

    電話を切ってから、渉は奇妙な解放感を感じた。締め切りがない人生というのは、こういう感覚なのか。十三年間、渉はつねに何かに追われていた。放送日、打ち合わせ、第一稿、改稿。カレンダーはいつも埋まっていて、空白の一日は怠慢の証拠のように感じていた。

    それが、なくなった。

    空白の一日が、ただの一日になった。

    ◇

    ECHOが最初の出力を生成したのは、学習完了から三日後だった。

    美咲が渉のパソコンで画面を開き、「試しにプロンプトを入れてみます」と言った。

    「第一話の冒頭シーン。主人公は三十代の男性、職業は医師、恋人と別れたばかり。東京の冬の夜を歩いている。書き出してください」

    画面に文字が流れ始めた。渉は後ろから覗き込んだ。

    【冬の東京というのは、どうしてこうも正直なのだろう。夏の熱気は感情を誤魔化すが、冬の空気は嘘をつかない。マフラーに顔を埋めながら、三上は思った——愛しているという言葉は、どこかの時点で嘘になっていたのだろうか、と。それとも、嘘だったことに気づかなかっただけで、最初から嘘だったのだろうか。渋谷の路地に、他人の笑い声だけが溢れていた。】

    美咲が振り返った。顔色が変わっていた。

    「先生……これ、ほとんど先生の文章ですよ」

    渉は黙って画面を読み続けた。確かに、そうだった。リズムが自分のものだった。情景と内省を交互に置く、あの感じ。「冬の空気は嘘をつかない」という一文の、やや観念的な断言の仕方。三点リーダーの後に続く自問の形。自分ではこう書かないかもしれない、という箇所が一つもなかった。

    「別のプロンプトで試してみてくれ」

    美咲はもう一つ、シナリオを試した。子どもを失った父親が、夜明けの川べりに一人で立つシーン。出力された文章を、渉ではなく美咲が先に声に出して読んだ。文字で追うのとは違う質感があった。渉は画面ではなく、それを読む美咲の口元を見ていた。自分の言葉が、自分ではない声で発されるのを聞くのは、初めてだった。

    「これ……本当に先生が書いたんじゃないと思えない」と美咲が言った。「プロデューサーとして見ても、違和感がない。キャスティングを考えたくなってくる」

    「それは困る」と渉は言った。「ECHOが書いたと知られたら、問題になる」

    「問題にしない方法を考えればいいんですよ。AIが補助した作品として公開するという方法もあります。最近はそういう事例も——」

    「それはしない」渉は遮った。「ECHOの出力は、あくまで私の延長だ。AIと人間の共同制作、という名目にはしたくない。私が書いたものとして、残したい」

    美咲は黙った。渉が言っていることと、渉がいなくなった後のことの、両方を考えているのだろうと渉には分かった。それについてこれ以上話す気はなかった。

    「最後に一つ試してくれ」と渉は言った。「プロンプトなしで、ECHOに自由に書かせてみる」

    「自由に? 何も指示せず?」

    「ああ。どんな物語を選ぶか見たい」

    美咲は少し躊躇してから、「自由に物語を書いてください」とだけ入力した。

    最初に出てきたのは、たった数行の凡庸な恋愛小説の書き出しだった。渉が過去に一度もモチーフにしたことのない、量産型のプロットだった。

    「違う」と渉は言った。「もう一度」

    美咲は同じ入力を、もう一度打ち込んだ。ECHOは十秒ほど待ってから、書き始めた。タイトルが最初に出た。

    【白い嘘】

    渉の手が、止まった。窓の外はいつの間にか暮れていて、部屋の明かりはパソコンの画面だけになっていた。

    続きが画面を流れていった。渉はそれを、立ったまま読んだ。一行読むたびに、胃のあたりが締め付けられるような感覚があった。息を吸うことを忘れた。

    【ある男が、愛する女に嘘をついた。病気だということを——いや、違う。病気であることは、本当のことだった。嘘は、別のところにあった。男は女に、ある一言を告げた。それさえ言えば、女は自分から去っていくと分かっている一言を。なぜその言葉を選んだのか、男自身にもまだ説明できない。ただ、女に何かを見せたくなかった、という感覚だけが、いつまでも残っている。優しさだったのか、臆病だったのか。男はまだ、その名前を決めていない。女にとって、それは何十年もかけて答えの出ない謎になった。なぜ、あのとき手放されたのか、と。男は今も、その謎を女の中に置いたまま、別の場所で生きている。】

    「先生」

    美咲の声がした。振り返ると、彼女の手がキーボードの上で止まっていた。今にも電源を落としそうな指の位置だった。

    渉は気づいていなかったが、両手が小さく震えていた。

    ECHOは続きを生成しようとしていた。美咲がキーボードに手を伸ばして止めようとしたが、渉は「待て」と言った。

    続きを読んだ。

    【男は毎年、女の誕生日を覚えていた。忘れたことはなかった。しかし祝いに行くことは、一度もしなかった。毎年、その日の夜に酒を一杯飲んだ。それが男の儀式だった。女がその儀式を知ることは、永遠にない。男はそれを「優しさ」と呼んだが、本当の名前は「臆病」だったかもしれない。】

    渉は目を閉じた。

    礼子の誕生日は、三月十四日だった。毎年、渉はその日にウイスキーを一杯飲んでいた。冷蔵庫の前に立って、一杯だけ。そのあとすぐに仕事に戻っていた。

    ECHOはそれを——日記のどこかの記述から読み解いていた。

    「止めてくれ」と渉は言った。「その続きを、保存してくれ。私は読まない。ただ、消さないでくれ」

    声が、かすかに震えていた。

    美咲はファイルを保存して、パソコンを閉じた。「先生、今日はもう休んだ方がいいですよ」と言った。渉は頷いた。美咲が帰り支度をしながら、「ECHOが何を書くか、先生は予想していましたか」と聞いた。

    渉は少し間を置いてから、「していなかった」と答えた。

    「でも、驚いていなかった」

    それは観察であって、問いではなかった。渉は答えなかった。美咲は「おやすみなさい」と言って、ドアを閉めた。部屋に一人になると、渉はしばらく動かなかった。消えた画面の前で、ECHOが生成したタイトルの四文字が、目の裏に残っていた。「白い嘘」。渉は十二年間、その物語に別の名前すら与えてこなかった。名前をつければ、実体を持ってしまうから。


    第三章 書けなかった物語

    夜中の二時、渉はひとりで画面と向き合っていた。

    美咲は夕方に帰った。渉はそれから六時間、ほとんど何も食べずにいた。ウイスキーのグラスだけが、空になって、また満たされて、また空になった。

    ECHOが生成した「白い嘘」の続きは、全部で八千字あった。完成した物語ではなく、断章のような形で——主人公の内面が移り変わるスケッチが、時系列もなく積み重なっていた。だがその断章の一つひとつに、渉は見覚えがあった。自分が書いた言葉の記憶ではなく、自分が感じた感情の記憶として。

    AIは日記を読んだ。渉が二十二歳から書き続けた、誰にも見せるつもりのなかった日記を。

    七年前——渉が三十一歳のとき——の記述を、ECHOは確かに読んでいた。

    心室中隔欠損症の手術を受けた年。

    渉の先天性の心疾患は、学生の頃から把握していた。「重篤ではないが、三十代以降に問題が生じる可能性がある」と言われていた。その予言通りに、三十一歳の夏に症状が出た。動悸、息切れ、浮腫。精密検査の結果、手術が必要だと判断された。難易度は中程度で、成功率は九十二パーセントと医師は言った。

    術後の経過は良好だったが、医師からは「無理をしないこと」と言われた時期が半年続いた。そのとき渉は、礼子と代官山のマンションに住んでいた。結婚して二年目だった。

    礼子は出版社に勤めていた。仕事をしながら、病院への付き添いをしてくれた。手術前夜、礼子は病室で渉の手を握って、「ちゃんと戻ってくるよね」と聞いた。渉は笑って「当たり前だ」と答えた。礼子が心配しすぎないように、軽く言った。

    手術は成功した。

    術後の病室で目を覚ましたとき、礼子が隣にいた。疲れた顔をしていた。眠れなかったのだろうと思った。渉の手を両手で包むように握っていた。

    渉はそのとき、礼子の手のひらの湿り気が、いつまでも掌に残っているような感覚があった。その感触から意識を逸らせない自分に、渉はうろたえた。

    回復に向かうにつれて、渉は考え続けた。もし自分の心臓が、完全には回復しなかったら。あるいは数年後にまた問題が出たら。礼子は自分の傍を離れない。それは礼子の性格だった。真面目で、義理堅く、誰かが苦しんでいれば手を差し伸べずにはいられない。

    そのとき渉は、自分が怯えていることに気づいた。

    礼子が自分の衰えを全部見ることに、ではなかった。

    渉は——礼子に嫌われることを、怖れていた。

    弱った自分を、みっともない自分を、病床でうめく自分を見て、礼子が失望するかもしれない。あるいは義務感だけで傍にいるようになるかもしれない。愛情ではなく、哀れみで繋がれた関係。それは渉には耐えられなかった。

    だから、先手を打つことにした。

    礼子に嘘をついた。

    「もう愛していない」

    「一緒にいることが苦痛だ」

    「お前のことは、友人としては好きだが、妻としては無理だ」

    言葉を選んで、台詞を作った。脚本家だから、相手が信じる言葉を選ぶことができた。礼子は最初、泣いた。それから怒った。それから、「わかった」と言った。荷物をまとめて出ていく礼子の後ろ姿を、渉は玄関に立ったまま見送った。引き止めなかった。引き止めるためにここまでやってきたわけではなかったから。

    半年後、渉の心臓は完治した。

    医師は「もう普通に生活できます。定期検診を続ければ、再発のリスクは低い」と言った。

    渉はそのとき初めて、自分が何をしたのかを正確に理解した。礼子を守るために嘘をついた、と思っていた。だが実際は——礼子が傷つく場面を見ることに、自分が耐えられなかっただけかもしれない。礼子の失望を恐れていた。失望されるくらいなら、自分から離れさせたかった。

    どちらが礼子のためだったのか。礼子に選ばせることが、本当の誠実さではなかったか。

    渉は礼子に電話しようとした。できなかった。

    電話口に出た礼子が、「あのとき嘘だったの?」と聞く声を、渉は何度も頭の中でシミュレーションした。どう答えても、次に「なぜ嘘をついたの」という問いが来る。なぜ、と問われれば、怖かったから、と答えるしかない。怖かった、と告げれば、礼子は「何が怖かったの」と聞く。そこで渉は止まった。失望されることが怖かった、と言えるか。弱った自分を見て、礼子が冷めるかもしれないと思った、と言えるか。

    言えば、礼子は傷つく。

    礼子を傷つけたくなかった——しかしそれも、また都合のいい言い訳ではないか。礼子を傷つけたくないのではなく、礼子が傷つく顔を見ることに自分が耐えられないだけではないか。

    渉はその問いに、七年間かけて答えを出せなかった。

    礼子はすでに、渉が「もう愛していない」と言った事実を抱えて生きていた。今さら「嘘だった」と言うことで、礼子がどれだけ混乱するか。渉は想像した。想像して——また、逃げた。

    その後の三年間の日記には、礼子の名前が何度も出てくる。直接ではなく、迂回した形で。「書けない物語がある」「核心に触れるための言葉が見つからない」「嘘は一度つくと、上書きするたびに深くなる」——ECHOはそれらを全部読んで、「白い嘘」という物語に再構成した。

    AIは日記の文体から「礼子」という人物の存在を推定し、その人物の行動パターンと渉の感情の変化を照合して、渉が書けなかった物語の輪郭を描いた。

    それは渉が十二年間ついに書けなかったものだった。

    人間は書けなかったが、AIは書いた。

    なぜなら——AIには怖れがないから。

    物語に嘘はない。嘘をついているのはいつも人間だ。何度も取材で口にしてきた言葉が、今夜ほど自分に刃を向けてきたことはなかった。

    渉はウイスキーのグラスを置いて、両手で顔を覆った。泣くかと思ったが、泣けなかった。泣くには、すでに何かが決定されすぎていた。

    夜明け前、渉はパソコンを閉じた。

    自分が何かから、確実に追い詰められているような感覚があった。病気ではなく、AIではなく、自分自身に。


    第四章 最後の嘘

    翌日の昼過ぎ、渉はパソコンを開いて、新しいドキュメントを作った。

    ファイル名を「最後の嘘」にした。

    そして、書き始めた。

    プロットなしで。プロデューサーへの報告なしで。構成も、キャラクターノートも、参考資料も、何もなしで。ただ、書いた。

    最初の一文が出るまでに三十分かかった。それでも、出た。

    「七年前の十一月、私は妻に嘘をついた」

    一人称で書いていた。渉は自分が三人称で書く作家であることを知っていたが、この物語は一人称でしか書けなかった。主人公と自分の間に、距離を置く必要がなかった。距離を置けば、また逃げることになる。

    書き始めると、止まらなかった。

    病院の帰りに買ったサンドイッチは手付かずのままデスクの端に置かれて、いつの間にか夜になっていた。渉は立ち上がって、コーヒーを淹れて、また座った。

    脚本と私的な文章は、根本的に違う、と渉はかつて後輩の脚本家に言ったことがある。脚本は設計図だ。誰かが読んで、演じて、映像になって、初めて完成する。だから書くときに「観客が見ている」ことを意識しなければならない。一方、日記や手紙は自分のためのものだ。誰にも読ませない前提で書くとき、言葉は別の形をとる。

    今渉が書いているものは——どちらでもなかった。

    礼子に読ませるつもりで書いていた。でも礼子がいる前では読めない、渉の内側にあるもの。誰かのために書きながら、自分のために書いている。そういう文章を、渉は今まで書いたことがなかった。

    それが一番、正直な文章なのかもしれない、と思いながら、渉は書き続けた。

    台詞は少なかった。情景も少なかった。ただ、感情の動きを追った。あの日、あの病室で、礼子が手を握っていてくれたこと。渉が「嬉しかった」ことを、初めて文章にした。嬉しかった、と書くことが、何年もできなかった。書けば、その後の自分がどれだけ残酷だったかが際立つから。

    書いた。際立たせた。

    礼子が手術の前夜、「ちゃんと戻ってくるよね」と言ったこと。渉が「当たり前だ」と笑ったこと。その翌朝、手術室に入る前に礼子がマフラーを首に巻いてくれたこと。「あったかくして行ってよ」と言いながら、指先が冷たかったこと。礼子が怖がっていたことを、渉はそのとき気づかなかった。

    術後の病室で、礼子がずっと渉の手を握っていてくれたこと。

    書きながら、渉は気づいた。

    これが書けなかった理由は、単純だった。

    書けば、やり直したくなるからだ。

    物語として完結させてしまえば、それは「過去」になる。しかし書けないままでいれば、いつかやり直せる可能性が、ゼロにならない。論理的にはとっくにゼロに近いのに、人間はそういう嘘を自分につき続けることができる。

    渉は十二年間、それを続けてきた。

    今、余命六ヶ月だった。

    書かなければ、永遠に「過去」にできない。書けば、やり直せないと知る。

    どちらがいいかなど——もう考えても仕方がなかった。

    ◇

    礼子に連絡したのは、その原稿を書き終えた翌朝だった。

    三年ぶりだった。

    スマートフォンを持ったまま、渉はしばらく動けなかった。連絡先はずっと残してあった。消す気になれなかった。三年間、その名前を見るたびに画面を閉じていた。

    メッセージを送った。「会えないか。一時間でいい。話したいことがある」

    返信が来るまで、六時間かかった。その六時間、渉はほとんど動かなかった。スマートフォンを手に持って、窓の外の空が青くなり、白くなり、陰ってくるのを眺めていた。

    返信は短かった。「なんの話ですか」

    「昔のこと」

    長い沈黙のあと、礼子は「わかりました。来週の水曜日、お昼ごろであれば」と返した。

    渉は「ありがとう」と打った。送信してから、礼子に感謝の言葉を送るのは何年ぶりかを考えた。覚えていなかった。

    場所は、代官山の古いカフェにした。二人でよく使っていた店で、今も同じ場所にある。渉は十分早く到着して、奥の窓際の席を取った。外の通りを、サラリーマンが傘を畳みながら歩いていった。梅雨の晴れ間だった。空が白く、光が柔らかかった。

    礼子が来たのは、約束の時間ちょうどだった。

    三年ぶりに見る礼子は、渉が記憶しているよりも少し髪が短くなっていた。表情は穏やかだった。ただ、コーヒーカップを持つ指先が、少しだけ白かった。脚本家として、人の表情を読むことには慣れていた。礼子はわずかに顎を引いて、視線が渉の顔よりやや上に向いていた。渉の記憶の中の礼子にも、同じ仕草があった。何かを構えているときの癖だと、そのときも思った。

    「久しぶりね」と礼子は言った。

    「ああ」と渉は答えた。

    礼子は一瞬、渉の顔を見て、何か言いかけて、やめた。渉の頬がこけていることに気づいたのかもしれない。だが礼子は「元気そうね」とだけ言った。渉は「そっちもな」と返した。どちらも、本当のことを言っていなかった。

    二人でコーヒーを頼んだ。しばらく、些細なことを話した。礼子の仕事のこと、渉が最近手がけた脚本のこと。その時間が渉には必要だった——いきなり核心に入ることが、どうしてもできなかった。

    十五分ほど話して、礼子が「それで、昔のことって」と言った。渉の時間を無駄にしないための、礼子らしい促し方だった。渉はそれを聞いて、礼子が変わっていない、と感じた。昔から礼子はこうだった。遠回りな話し方をしない。相手を責めるときも、感謝するときも、言うべきことをまっすぐに言う。それが渉には眩しかった。脚本家として言葉を扱いながら、渉は肝心な言葉を言えない人間だった。礼子はその反対で、だから渉は礼子に惹かれたのだと、今更ながら思った。

    渉は一度コーヒーカップを置いた。

    「七年前のこと。話したいことがある」

    礼子の表情が、かすかに変わった。コーヒーカップを両手で持ったまま、黙って聞く体勢になった。渉はそれを見て、礼子がまだ自分の話を聞く準備をしてくれることに、小さく驚いた。三年間音沙汰もなかったのに、こうして来てくれて、話を聞こうとしている。礼子は基本的に、誠実な人間だった。渉はその誠実さに甘えて、また嘘をついたことがある——という事実に、今更ながら胸が痛んだ。

    「私は、あのとき嘘をついた」

    「……嘘」

    「愛していないと言った。本当は、そうじゃなかった」

    礼子は何も言わなかった。渉は続けた。

    「あのとき、心臓の手術をした後——回復するかどうか、わからなかった時期があった。お前が傍にいてくれることが、嬉しかった。嬉しかったから、怖くなった。このまま私がどんどん弱っていったとき、お前は離れられないと思ったから。だから、私から離した」

    「……」

    カフェの中で、他の客の話し声が続いていた。食器の音がした。誰かが笑っていた。

    「馬鹿じゃないの」

    礼子の声は、静かだった。怒っているのか、泣きそうなのか、渉には最初判断できなかった。それからわかった——両方だ、と。

    「そうだな」

    「私に、聞けば良かったじゃない。私がどうしたいか、聞けば良かった。私が決めることでしょ、それは」

    「そうだな」

    「なんで黙ってたの」

    渉にはその問いへの答えがなかった。三年前も、七年前も、ずっと答えがなかった。ただ怖かった、と言うほかなかった。

    「怖かった」

    「何が」

    「お前が、私の衰えていく姿を見続けることが。それより——失望されることが」

    礼子は少し沈黙した。

    「失望?」

    「弱った私を見て、お前が冷めるかもしれないと思った。哀れみで傍にいるようになるかもしれないと。それが怖かった」

    礼子はカップをソーサーに戻して、渉を正面から見た。その目が赤くなっていた。泣いてはいなかった。ただ、目が赤かった。

    「それは私を馬鹿にしてる」と礼子は言った。穏やかな声で、しかし確かな言葉で。「私がそんなことをすると思ってた?」

    渉は「……わからなかった」と言った。

    「そうじゃなくて」と礼子は言った。「確かめなかったのに、決めた。それを馬鹿にしてるって言ってる」

    渉は黙った。反論できなかった。

    「完治したのに、なぜ言わなかったの」

    「言いに行けなかった」と渉は言った。「言えば、嘘だったとわかる。嘘だったとわかれば、なぜ嘘をついたか話さなければならない。そこまで辿り着く前に——また、逃げた」

    礼子は窓の外を見た。雨が降り始めていた。軒下で人が傘を広げるのが見えた。

    「三年間」と礼子は言った。「私が何をしたのか、考え続けた。何が足りなかったのか。なぜ捨てられたのか」

    渉には何も言えなかった。

    「謝っても、意味はないかもしれない」と渉は言った。「ただ、知っていてほしかった。本当のことを」

    礼子はコーヒーカップを置いた。

    「……今さら、なぜ」

    渉は少し考えた。

    「書いたから」

    「書いた?」

    「物語を。書いたら——話せるような気がした」

    礼子は、それきり何も聞かなかった。しばらく窓の外を見ていた。雨足が強くなっていた。

    コーヒーを飲み終えて、二人は立ち上がった。

    別れ際に、礼子は「渉さんらしいね」と言った。言葉が半分だった。嘲りでも許しでもなく、ただの観察だった。渉さんらしいね——長い付き合いの末にしか言えない、正確な言葉だった。それは渉が十二年間書いてきた台詞の中で、ついに書けなかった種類の言葉だった。技術で作れるものではない。時間をかけて人と向き合った末にしか出てこないもの。

    渉はうまく笑えなかったが、頷いた。

    礼子はタクシーを止めて、乗り込んだ。ドアが閉まる前に一度だけ振り返ったが、何も言わなかった。タクシーが角を曲がって見えなくなるまで、渉は動かなかった。

    雨が強くなっていた。傘の柄を握る手が冷えていた。

    帰りながら、渉は礼子の言葉を繰り返した。「それは私を馬鹿にしてる」という言葉。怒りではなく、落ち着いた声で言われたその言葉が、ずっと耳の中に残っていた。

    そうだ、と思った。渉は礼子を馬鹿にしていた。礼子がどう感じるかを、礼子に聞かずに、自分で決めていた。礼子がどう選ぶかを、礼子に選ばせずに、自分で奪っていた。それを「守ること」と呼んでいた。

    脚本を書くとき、渉は登場人物の気持ちを代わりに決める。主人公がどう感じ、どう行動するかを、全部設計する。それは物語の作り手として当然の仕事だ。しかし渉は——礼子にも同じことをしていた。礼子の感じ方を、礼子に確かめないまま、自分で決めてきた。

    渉は傘をさして、雨の中を歩いて帰った。傘の骨が一本曲がっていて、右肩だけ雨が染みた。


    第五章 本当のこと

    家に戻り、渉はECHOを開いた。

    画面の前に座って、しばらく何も入力しなかった。雨の音が窓の外から聞こえていた。渋谷の喧騒は雨に呑まれて、遠かった。

    プロンプトに打ち込んだのは、一行だった。

    「白い嘘の、続きを書いてくれ」

    ECHOは少し待ってから、書き始めた。

    【男は雨の中を歩いて帰った。嘘を告白したのに、何かが解決したわけでもなかった。それでも、何かが軽くなっていた。消えたわけではない。ただ、軽くなった。物語というのはそういうものだと、男は思った——終わりがあるから、始まりが意味を持つ。書かれた言葉だけが、過去を過去にする。それまで過去は、現在の中に生きている。】

    渉は、読み上げ機能のアイコンに、なんとなくカーソルを合わせた。試しにクリックすると、部屋のスピーカーから声が流れ始めた。渉自身の声——十五本の脚本の読み合わせで録られた音源から、ECHOが合成した声だった。抑揚も、間の取り方も、渉のものだった。自分の声が、自分の書いた台詞を、自分のいない部屋で読み上げている。渉はそれを最後まで聞き切れず、途中で音を消した。

    渉は画面を見つめた。

    「よく書けている」と声に出して言った。部屋には誰もいなかった。

    それから、礼子への手紙を書いた。

    デジタルではなく、紙に書いた。

    現在の病気のことを書いた。余命のことを書いた。今日話せなかったことを書いた。膵臓がんのステージ4、余命半年、と書くと、なぜか少し可笑しかった。自分が脚本に書いたことのある設定だった。そういう主人公を何度か書いたことがある。渉の脚本の中では、余命宣告を受けた人間はたいてい、最後に何か大切なことをする。現実でも、まあ、そうなった。

    ECHOのことも書いた。自分が何を考えていたか、AIにすべてを読み込ませたら、自分の嘘をAIが先に暴いてしまった、という話を。礼子が笑うかどうかわからないが、渉には少しおかしな話に思えた。十二年間書けなかったことを、機械に暴かれた。人間というのはそういうものかもしれない——自分では直視できないものを、他人に指摘されて初めて見る。

    手紙の最後に、こう書いた。

    書き終えて、封筒に入れた。

    弁護士への依頼もした。公証人も立てた。渉が死んだ翌月に、この手紙が礼子へ届くように。

    手続きを終えてから、渉はスマートフォンを手に取った。礼子の連絡先を画面に呼び出し、発信ボタンに指を近づけた。

    今、電話をかければ、真実を今日のうちに礼子に伝えられる。余命半年だと告げ、残りの時間をどう過ごすか、礼子に選ばせることもできる。それをしないのは——今回もまた、礼子から選ぶ権利を奪っているからではないか。

    指は、発信ボタンの上で止まったままだった。エアコンの送風音だけが、部屋に響いていた。壁の時計の秒針が、二十回、三十回と動く間、指は動かなかった。

    渉はしばらく、その問いから逃げなかった。

    答えは、逃げではなかった。今度は、礼子に衰えていく自分を見せたくないという恐れではなく、礼子の残りの時間を、渉の死の看病に使わせたくないという願いだった。生きている渉に会いに来れば、礼子はきっと来てしまう。看取ってしまう。そういう人だと、渉は知っていた。だからこそ、生きている間は会わない。それだけは、渉が礼子のために選べる、最後の身勝手だった。

    身勝手であることに、変わりはなかった。それでも渉は、この嘘だけは手放さないと決めた。画面を伏せて、スマートフォンをテーブルに置いた。

    それからもう一つ、ECHOに最後の入力をした。

    「私が死んだあと、あなたは誰かに使われるかもしれない。あるいは、使われないかもしれない。どちらでもいい。あなたが存在したことは、私が存在したことと同じだ。ただ一つだけ覚えていてほしいことがある」

    渉は少し考えてから、続けた。

    「物語の中で嘘をつくのは、登場人物の権利だ。でも書き手が物語に嘘をついてはいけない。自分が書けないことを、書けないふりをして放置することも、嘘の一種だ。私はそのことを、最後まで間違えていた。それだけ、覚えていてほしい」

    ECHOはしばらく待ってから、生成した。

    【覚えています。あなたが書いたすべてのものの中に、それは残っています。白い嘘も、書けなかった物語も、今日書いた手紙も。全部、あなたの声です。】

    渉は、笑った。

    自分で作ったシステムなのに——それでも、少し救われた気がした。あるいは笑えたのは、救われたからではなく、滑稽だったからかもしれない。人間の最後の慰めが、自分の言葉を学習した機械から返ってくるとは。

    しかし考えてみれば、物語というのはいつもそういうものだった。

    渉が脚本を書くとき、登場人物が口から発する言葉は、渉が考えた言葉だ。しかし渉はそれを書きながら、ときどき登場人物に驚かされた。「この人物はここでこう言うはずだ」と思って書き始めたら、まったく違う言葉が出てきた。その言葉は渉の意識が作ったものではなく、登場人物の内側から湧いてきたような感覚があった。

    それと同じかもしれない。ECHOは渉の言葉を全部学習した。渉の内側を全部読んだ。だから今、ECHOが返してくる言葉は——渉の意識が作れなかった渉の言葉だ。

    書けなかったものを、渉は結局、自分で書くことができた。

    それだけで十分だ、と思った。

    六月の夕方、渋谷の古いマンションに、雨が降っていた。

    渉はウイスキーをグラスに注いで、窓の外を眺めた。雨粒が窓ガラスを伝って、光を歪ませながら流れていた。向かいのビルの窓に、会社帰りらしいサラリーマンのシルエットが見えた。誰かと電話しながら笑っていた。

    渉は自分が書いてきた十五本の脚本のことを、順番に思い返した。どれも誰かの物語だった。架空の人物が、架空の状況の中で、架空の感情を持って動いた。しかし今日、渉が書いたものは違った。架空ではない人物が、実際にあった状況の中で、本物の感情を持って動いた。それを渉は「物語」と呼んでいいのか、迷った。しかし物語でなければ何と呼ぶのか、分からなかった。

    告白、という言葉が浮かんだ。しかし告白は相手に届かなければ意味がない。渉が書いたものは、今は誰にも届いていない。礼子には半分だけ届いた。残りの半分は手紙の中にあって、渉が死んだ後に届く。

    保存アイコンが、回転を止めた。渉はその静止を、しばらく見ていた。

    もう、嘘ではなかった。

    六ヶ月後に訪れる静寂のことを、渉は少しだけ考えた。それから——考えるのをやめた。

    美咲からメッセージが来ていた。「先生、ECHOのシステム、どうしますか。先生が亡くなった後、誰かに引き継ぐなら今のうちに手続きを」という内容だった。渉はしばらく考えてから、「誰にも引き継がなくていい」と返信した。ECHOは渉の声だ。渉の死後、渉の声が別の誰かのものになる必要はない。

    美咲から「わかりました」とだけ返ってきた。それから少し間があって、もう一通届いた。「先生、たまにでいいので、ちゃんとご飯食べてくださいね」

    渉は「ああ」とだけ返した。既読がついてから、返信が来るまでに時間がかかった。「ああ、じゃないですよ」というスタンプだけが、しばらくして届いた。

    渉はその文面をしばらく眺めた。素っ気ない言葉の中に、美咲が本当は言いたかった別の言葉があるような気がした。

    三年前、美咲が独立を決めた日のことを、渉はふと思い出した。最後の打ち合わせの帰り際、美咲が「先生、あの、」と言いかけて、止まった。眼鏡の奥の目が、いつもよりわずかに長く渉に向けられていた。渉は「なんだ」と聞いたが、美咲は目を伏せて「……いえ、次の仕事の話をしましょう」と言い、話題を変えた。あのとき何を言おうとしていたのか、渉は聞かなかった。聞けば仕事がやりにくくなる、というのが表向きの理由だったが、本当は、答えを持ち合わせていなかっただけかもしれない。今になって、なんとなく分かるような気がした。分かったところで、もう遅い。渉はそれ以上考えないことにした。

    ECHOのディスプレイが、スリープに入っていた。渉は一度だけキーボードを叩いて、画面を呼び起こした。そしてそのまま、何も入力せずにいた。

    白い画面の前で、渉は少しだけ礼子のことを思った。手紙が届く日、礼子はどんな顔をするだろうか。怒るかもしれない。また泣くかもしれない。渉がもういないことを知って、なんとも思わないかもしれない。

    どれでも、構わない、と渉は思った。

    会う時間を選ぶ権利は、最後まで渉が握ったままだった。それでも、真実をどう受け止めるか、渉をどれだけ憎み、どれだけ赦すかは、もう渉の手の届かないところにある。今度こそ、そこだけは、選ぶのは礼子だ。それが遅すぎた誠実さであっても。

    残りの時間は、書くために使う。

    今度こそ、本当のことだけを。

    ——了——(完)


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    はじめまして、さとひろストーリーテラーです✒️🤖AIを「相棒」として、古き良き想像力と最新技術を掛け合わせた物語を紡いでいます。代表作は『SFお仕事小説』や『AIと語る最後の嘘』。noteのコンテストにも積極的に挑戦中!少し不思議で温かい世界をお届けします。

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