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【創作大賞2026】『ふたつの世界、たったひとつの朝』第1話

    あらすじ

    「相対評価ですから」──評価面談で泣いた部下に、自分はそう告げた。優秀な人間が報われる社会で、評価する側にずっと立ってきた真木涼介。

    ある朝、寝室の古い文机の引き出しに、見慣れた筆跡で書かれた、覚えのないメモが入っていた。『今日、息子が初めて自転車に乗れた。妻と二人で泣いた』──だが、自分の息子はまだ補助輪を外せていない。

    差出人は、真木亮介。同じ姓、似た名前、同じ家族。けれど彼が住むのは、競争も評価もない、もう一つの世界だった。

    引き出しを通じて始まった、もう一人の自分との対話。それは、涼介がずっと「正しい」と信じてきた自分自身を、静かに揺さぶり始める。



    第一章 起こしちゃったか

    引き出しは、ずっと空のはずだった。

    目覚ましが鳴る前に、目が覚めた。

    カーテンの隙間から差し込む光は、まだ青みがかっている。スマートフォンを手に取ると、四時五十八分。アラームが鳴るまであと二分。

    僕はアラームを鳴る前に止めて、ベッドから抜け出した。隣で紗英は静かに息をしている。

    少し肌寒さを感じ、クローゼットからジャージを取り出そうとした時、ふと視界の隅に文机が入った。
    紗英の祖父から譲り受けた、古い木製の文机。寝室の隅に置かれたまま、ほとんど使っていない。

    なぜか、その引き出しに手を伸ばしたくなった。理由はなかった。ただ、手が動いた。

    カチ、と小さな音がして、引き出しが開く。
    中には、紙があった。

    ──え?

    二つ折りにされた、白い紙。便箋でも、コピー用紙でもない。少し厚みのある、表面がわずかにざらついた紙。

    僕は紙を取り出した。指先がほんの少し冷たくなる。誰かのいたずらだ、と自分に言い聞かせる。たぶん紗英だ。
    そう思いながら、紙を開いた。

    そこには、見慣れた、しかし自分が書いた記憶のない筆跡で、こう書かれていた。

    『今日、息子が初めて自転車に乗れた。妻と二人で泣いた。』

    僕は、何度かその文字を読んだ。
    僕の字だった。僕の字にしか見えなかった。
    だが、僕の息子は、まだ自転車に乗れない。今週末に、公園で補助輪を外す練習をする約束をしている。

    僕は紙を裏返した。何も書かれていない。もう一度読んだ。文字は変わらなかった。
    誰かのいたずらにしては、手が込みすぎている。そもそも、なぜ僕の筆跡を真似る必要がある?

    ベッドの方を見た。紗英は、静かに寝息を立てている。彼女がこんな意味不明なメモを書いて引き出しに忍ばせるなんて、一度もなかったことだ。

    僕は紙を二つに折って、引き出しに戻した。
    深く息を吐き、頭を振る。まだ寝ぼけているだけだ。

    リビングに降りて、ジャージに着替える。冷たい水を一杯飲んで、軽くストレッチをしてから玄関を出た。外はまだ薄暗く、街灯の光が滲んでいる。

    近所の公園まで二キロ。そこで筋トレを十五分。それから家まで二キロ走って戻る。
    走りながら、いつものように頭の中で今日の予定を並べようとしたが、どうしてもあのメモの文字がちらついた。コンビニの灯り。アスファルト。街灯。どれを見ても、あの文字が割り込んでくる。『息子が初めて自転車に乗れた』。

    家に戻ったのは、五時五十分。シャワーを浴びて、寝室で着替えていると、紗英が薄く目を開けて、こちらを見た。
    あの引き出しの中の異常を、彼女は何も知らない。その無防備な寝顔に、僕は少しだけ救われた気がした。

    「……起こしちゃったか」

    僕は声を落として言った。

    「ううん。もう起きるとこだった」

    紗英はそう言いながら、目をこすって身体を起こす。

    「今日、何時頃帰れそう?」
    「会議が長引かなければ七時くらい。たぶん八時かな」
    「了解。じゃあ夜ごはん、子供たちと先に食べちゃうね」
    「ごめん」
    「いいよ、いつものことだし」

    紗英はそう言って、一階へ降りていった。


    朝食を済ませて家を出たのは七時十五分だった。

    電車に乗り込むと、車内は満員の少し手前くらいだった。向かいの座席で、若い男がこっくりこっくりと頭を揺らしていた。スーツはまだ新しい。たぶん入社二、三年目。

    ふと、去年の冬に辞めた佐藤の顔が浮かんだ。入社三年目だった彼も、こんな朝を過ごしていたのだろうか。
    評価面談の席で、彼はずっと俯いていた。「私のどこがダメだったんですか」と、最後に絞り出すように言った声。僕は人事の方針通りに、「相対評価ですから」と答えた。彼は何も言わなかった。頷きもしなかった。机の端を、ただ見ていた。
    優秀な人間は報われ、そうでない人間は次の場所を探すべきだ。それが世の中の仕組みで、僕はそれに乗っているだけだ。乗っているだけだ、と、今も、自分に言い聞かせながら。

    会社に着き、十五階のプロダクト企画課のフロアに入る。
    「真木さん、おはようございます」
    入り口近くの席から、桐生が声をかけてきた。入社三年目、佐藤と同期だった男だ。彼はよく働く。手も早いし、頭もいい。たぶん来期にはチームリーダーに上げるつもりでいる。

    「おはよう、真木さん。今期も絶好調だってね」
    自分の席につくと、隣の課の北村課長が声をかけてきた。
    「聞いたよ、S評価続投だって。羨ましいよ、本当に」

    北村は同期入社だが、評価はずっとB。僕が部長に上がった今も、彼は課長のままだ。生涯賃金でも、たぶん何千万単位の差がついている。
    北村の「羨ましいよ」は、いつも同じ声色だ。腹に力のある笑いでも、作り笑いでもない。どこか半分だけ本気で、もう半分はとっくに諦めたような、そういう声だ。その声の意味を、僕はまだ、正面から考えたことがなかった。
    僕は彼に対して、いつも少しだけ後ろめたい気持ちになる。でも、それは僕のせいではない。優秀な人間が報われるのは、当たり前のことだ。

    その日は、長い一日だった。午後のキックオフで開発部のベテランと少し衝突し、夕方には人事評価のすり合わせ。
    結局、会社を出たのは八時過ぎだった。

    家に着いた時、リビングからはもうテレビの音が消えていた。
    「ご飯、温めようか」
    「いや、いいよ。シャワー浴びてから、軽く食べる」

    食事を終え、寝室に上がる前、子供部屋のドアを少しだけ開けてみた。
    悠真の枕元には、補助輪の取れない自転車のおもちゃが転がっていた。あのメモの文字が、またちらついた。

    僕は寝室に入った。紗英はもうベッドで静かに眠っている。
    まっすぐに文机へ向かった。

    カチ、と音を立てて引き出しを開ける。
    白い紙は、朝と同じようにそこにあった。

    僕はペンを取り、その紙の余白に殴り書きをした。

    『いたずらならやめてください。あなたは誰ですか。私の息子はまだ自転車に乗れません』

    そのまま紙を裏返し、引き出しの底に叩きつけるように置いた。
    引き出しを閉める。

    本当に誰かのいたずらなら、明日の朝にはなくなっているか、別の何かが書かれているはずだ。そのどちらでもなかったら──僕は、その先を考えないようにした。
    僕はスーツのジャケットを脱いで、ベッドに潜り込んだ。紗英の寝息が、薄暗い部屋の中にあった。



    『ふたつの世界、たったひとつの朝』は、全17話の連載小説です。 更新は月・水・金・日の週4回を予定しています。

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    はじめまして、さとひろストーリーテラーです✒️🤖AIを「相棒」として、古き良き想像力と最新技術を掛け合わせた物語を紡いでいます。代表作は『SFお仕事小説』や『AIと語る最後の嘘』。noteのコンテストにも積極的に挑戦中!少し不思議で温かい世界をお届けします。

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