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本とTシャツと私

    割と本を読むのが好きで、時間もたっぷりあるとなると、どうせならこの国の文学を読んでみたくなる。

    とはいえ日本人が想像する本屋さんは首都に1つしかなく、置いてあるのも基本的には外国の本ばかりで、国内産は自然公園の写真集か、子ども用教科書くらいだ。ググってみても有名作家はほとんど出てこない。

    考えてみると、現地語は文字を持たない。表記はラテンアルファベットを借用しているだけだ。もともとこの地で暮らしていた民族はバントゥー系に属する口語のみを操っていた。ヨーロッパによる占領以後、英語と共に「言語を表記する」という概念も輸入されたのだろう。調べてみると最初に現地語を表記したのはドイツ人の旅人だという。確かに街中の看板なども多くは英語表記であり、彼らの中には、現地語は書き言葉に似つかわしくない印象があるのかもしれない。

    物語は口から口へ、口伝によってのみ語り継がれるものであり、明確な「誰か」によって作られるものではなかったのだろう。21世紀になる頃まで、この国出身の有名作家が出てこなかったことにも納得がいく。

    彼ら(わずか数人の)現代作家も英語での創作をしている。経済的優位性はもちろんのこと、表記による創作をする時には、現地語よりも英語の方が捗るのかもしれないな。つまり普段の会話(スピーディーな対話、瞬発的な思考)には現地語の思考回路が、一方表記(ゆっくりした思考、残存するもの)には英語の思考回路が用いられているのではないか。『ファストアンドスロー』の思考の別が言語の別にも繋がっている感じ。

    かたや私は日本語で考えることしかない。特に書き言葉では。喋る時には瞬発的に日本語を介さず〜なんてろくにできないながらもイメージはわかるが、書く時には日本語で考えてから訳す過程を必ず踏んでいる。ノンネイティブ言語でスロー思考を辿ることはとても難易度が高いことに感じる。

    ・この国の人々は、歴史的にネイティブ言語が書き言葉に似つかわしくないから、表記を筆頭とするスロー思考は英語によっても行っている。しかしノンネイティブ言語によるスロー思考は負荷が高く、現代に至っても作家業者は数えるほどしかいない。

    よし、なんとなく納得のいく妄想ができたな。



    ベッシーヘッドという南ア出身の作家がおり、任地の村に移住してきて、ここで生涯を過ごしたらしい。村の博物館に行くと、初代大統領や部族の歴史と共に、彼女にまつわる展示もされていた。

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    超有名作家というわけではないのだろうが、なんと日本語訳が二冊も展示されていた!日本は翻訳文学がとても盛んで、世界中のあらゆる作家たちに日本語でアクセスできると大学時代に聞いたような気がするが、本当だったのかと感動した。任地で日本語見たの初めて〜!

    おそらく写真にあるのは絶版本であり、古本もすごい値段になっていたが、『雨雲の集まるとき』という小説の日本語訳が近年出版されたようで、紙の本でなら手に入りそうだと分かった。頼れる後輩(AWSレイオフのガキ)に頼んでこの国まで輸送してもらうことにしよう。



    村のマラソン大会記念Tシャツ、とても日本じゃ着られないデザインでワロタ。

     
     

    Tomo

     
     
    最近の推し:ダウ90000、さむわんへるつ、匿名ラジオ 現在はアフリカ某国に滞在中。

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