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【短編小説】 夢中人散歩

    一吾(イチゴ)

    ※この短編小説は、お題を使ったブロマンス小説企画の参加作です。


    ⭐︎主要登場人物⭐︎
    芹(セリ)16歳の威嚇系男子×紘(ヒロ)昭和なマンションの管理人をしている29歳


    ✏︎✏︎✏︎

     薄手の大きなストールは母親がくれたものだ。シルクとカシミヤの。
     ずっと昔、母親が夜、出かけていってしまうのが悲しくて、その豪奢な布を引っ張って呼び止めた。母親はストールを俺の身体に巻き付けて、自分は何も巻かずに出かけていった。
     母親の使っている香水をこっそりストールに吹きかけておくのは、ささやかな、今となってはどうでもいい習慣だった。
     甘い匂いのとがったところが抜けて、自分の体温と混ざってくる頃の、いちばんさみしい時間帯のその匂いが好きだった。

             ◆◆◆


     ヒロは今日も夜勤だと言って出かけていった。この部屋へ来て一週間。まだたったの一週間。だけど、一週間、毎晩夜勤というのはあり得るんだろうか。

     信頼関係、とヒロは口にした。最初の日だ。
     男に振られたんだって。
     そのことを俺に内緒にして生活を共にするのは、信頼関係に関わるだろうと。
     一週間は、他人を信用するには短い。

     ダイニングの椅子は不揃いだ。
     ヒロはいつも背もたれのついた椅子を使う。アボカドグリーンのプラスチックのシェル型の椅子。背もたれがついているとはいえ、寝るには適さない。
     そこでうたた寝なんかしているあいつに、ストールをかけてやったのは、ほんの出来心。
     目を覚ましたヒロは、そのストールの柔らかい手触りよりも、生地にうっすらと浮かび上がる二匹のレオパードの柄よりも、香水の残り香のことを口にした。
     すごく良い匂いがする。
     甘くて良いにおいだね、と。

     かっと、視界が赤くなった。頬が熱くて、くらくらした。
     母親の匂いに包まれていたいだなんて。そんな甘ったれたところを指摘されたようで、耳の奥で血液が唸った。
     それを返せ、と言った。
     触るな、とも。
     自分が何を言ったか覚えている。
     自分の舌が動き出した瞬間から後悔する。一度口から出てしまった言葉は巻き戻したり取り消したり、出来ない。
     分かってる。分かっているのに。

     悲しそうな顔をしてヒロは上着を着た。今夜はちょっと厚手の上着を着ていたから、徒歩で出かけていくらしい。
     夜に出かけるひとを見送るのは嫌なんだ。
     何で置き去りなんだって。もう子どもでもないのに浮かんできて、そんな自分が気に入らない。
    「帰ってくんな」
     一度放った言葉は取り消しが効かない。そんなの知ってる。
     傷を負ったような顔をしてヒロは出かけていった。

     夜中だけどウッドブラインドを上げて、外を見る。腰高の出窓。部屋の明かりを絞っておくと、街灯の明かりに桜の花びらが浮かび上がる。この部屋は五階だから桜を上から見下ろす風情。きれいなんだ。
     窓際にヒロの椅子を寄せて、ガラスに頬をくっつける。窓からの冷気に肩をすくめる。
     母親のストールを身体に巻き付けてみた。
     
     とてとて、と小さな足音をたててコウタロウがやって来た。ストールの中に抱き上げる。
     人間みたいな名前の白いトイプードル。
     それなりにインテリアにこだわっている様子なのに、ラグやクッションが部屋中に不規則に散らばっているのは、犬がフローリングで滑って足腰を痛めない配慮らしい。
    「帰ってくるよ」
     犬の耳に唇を寄せる。
     獣の腹の温かさ。
     ヒロは帰ってくる。帰ってこないはずはない。だってここはヒロの家なんだし。コウタロウだっているのだし。

     捨てられそうになった犬を引き取って、大事に育てている男。親戚とも呼べないような関係性の俺の面倒を押しつけられて、引き受けてしまった男。
    「帰ってこないはずない。絶対に」
     でも、面倒を投げ出したくなったら?

     夜中の歩道を散歩している影を見下ろす。
     自分も出て行ってしまおうかな。義理堅く、毎晩留守番なんてしなくたっていい。

     かすめた違和感にコウタロウを抱き直し、身を乗り出す。ガラスにおでこが当たった。スマートフォンで時間を確認する。
     午前一時過ぎ。
     桜の下。街灯に照らされたふたつの人影。
     ひとりはスキーのストックのようなものを持っている。まずそこに目を引かれた。背が丸い。老人のようだ。
     もうひとりはセミロングくらいの髪の、ひょろっと手脚の長い人物。あのフード付きの上着とボトムスから出ているくるぶしには見覚えがある。
    「何やってんの? あいつ」
     ひょろっとした方の人物は眼鏡をかけている。眼鏡が街灯の明かりを反射して存外鋭く光る。
     そのレンズの分厚さと、レンズの下の、らくだのような優しげな目を知っている。

     スマートフォンをスウエットパンツのポケットに突っ込む。コウタロウを膝から放り出しそうになって焦る。
    「おまえも来る?」
     コウタロウは弾丸のように玄関に走った。リードが下がっているフックの前でくるくると回ってお座りをした。

     渡されていた合鍵を初めて使った。
     花冷えという言葉を思い出す。四月になったばかり。ストールを首に巻き付けた。
     エレベーターを待つのももどかしく、コウタロウを抱えて階段を駆け下りる。
     エントランスの古めかしいガラス戸を押し開けると、例の人影が目に入った。

     マンションはゆるい斜面に沿って建っている。
     慌てる必要なんてなかった。ふたつの人影はゆっくり坂を登っていく。
     風の無い夜。動かない桜。
     揺らめかない街灯の明かりが等間隔に並ぶ住宅街の歩道。
     その中をゆっくりと遠ざかっていくふたり。
     老人は時々立ち止まり、スキーのストックを振り上げる。
     セミロングのカツラを被ったヒロが老人に何か話しかける。老人の腰の辺りに手を添えてやっている。
     老人とヒロが手を繋いだ。
     車のヘッドライトが、老人に微笑みかけるヒロの横顔をくっきりと浮かび上がらせ、通り過ぎていく。

     変態、と何度かあいつを罵ったことがある。
     ヒロは嫌がるふうでもなく、そっと目を伏せる。らくだのようなまつげをばさばささせて目を伏せるんだ。
     だけど、あいつ本当に変態なんだろうか。遠目からでも明らかにカツラと分かるカツラなんか被って。女装にしてはあまりに中途半端で。
     何で、老人と夜中に手なんか繋いでるんだろう。男が恋愛対象ってだけじゃなくて、あいつ、じじいが好み、なんだろうか。
     
     老人とヒロは駅の方面へ向かった。駅前の大通りに出た。タクシーだけが時々行き交う。
     のどかな歩みのふたり。老人が時々スキーのストックを振り上げるのだけが不穏だ。目が離せない。
     路地に入ったふたりを見失わないよう急いで追う。コウタロウを抱いたまま。コウタロウに何も着せてこなかったことを思い出して。コウタロウにもストールを巻く。首だけ出してかわいらしい。

     見失わなかった。路地に入って見上げると歩道橋がある。普段は気にもとめないちっぽけな歩道橋だ。坂の多い街の、路地の上の、住宅街と駅を繋いでいるちっぽけな。
     そこにふたりは立っていた。
     見上げた瞬間にヒロと目があってしまった。勢いよく路地に飛び込んだので、隠れる暇も場所も無かった。
     ヒロは俺を認めて、陸揚げされたばかりの魚みたいに口をぱくぱくさせて目を見開いた。

    「おかあさん」
     幼子のような声に、背骨が冷えた。
     おかあさん、と老人は呼びかけていた。歩道橋の欄干につかまって、その先の空間に向かって。
     ぽたりと落ちたようなその声は、真夜中の路地に思いの外はっきりと響いた。響いていた。しわがれてもひび割れてもいない、およそ老人らしくない声だった。

     老人が右手を掲げる。緩慢な動き。右手にはスキーストックが握られている。振り上げられた右手が落ちてくる。ストックが歩道橋の欄干を叩く。軋むような嫌な音。右手がまた上がる。下がる。
     欄干が軋みをあげる。
     ストックが叩き付けられる。
     繰り返されるその動き。段々と激しさを増す。緩慢な動きが逆に恐ろしい。
     徐々にコントロールを失いつつあるように見える。

    「やめろ、じじい!」
     今回ばかりは、罵る言葉を放つことに躊躇いはなかった。あのじじいにあんな凶器を持たせたのは誰だ。馬鹿。
    「何やってんだ。離れろよ」
     ヒロに呼びかける。
     凶暴じじいから逃げろって。
     だけどあいつ、むしろ、じじいに引っ付いてる。背乗りバッタみたいで滑稽だ。じじいの脚が生まれたての子鹿みたいに震えてて、それを後ろからヒロが支えてる。じじいの右肘が今にもヒロの眼鏡を吹っ飛ばしそうだ。
     肘ならまだしも、あの凶器がまともにヒロの頭に当たったら。

     路地の左右に目を走らせる。歩道橋に上がる階段が見付からない。このあたりかと検討をつけて、急勾配の坂を駆け上がる。
     俺の腕の中でコウタロウが身をよじった。
    暗い路面にダイブしかけたコウタロウをアスファルトに降ろす。
     海みたいに暗い。白い犬でよかった。光を失わない。犬が存外力強くリードを引く。俺の右手首が引っ張られる。

     コウタロウは、正しかった。

    「ヒロ」
     駆け上がった。
     歩道橋の真ん中でもつれ合っているふたりが、同時にこちらを向いた。
     ヒロの、カツラがずれてて、ほんとに変なことになってる姿とか。
     近くで見たじじいがかなりのじじいで、眉毛が枝垂れ柳みたいで、じじい本当に生きてんのかなとか。あれはスキーのストックじゃなくて先っぽが三つに割れた杖だったんだとか。
     いろんなことが一気に視界に飛び込んできて、一拍の、奇妙な間。
     相撲の立ち合いの直前みたいな。
     ふたりの力士とひとりの行司と。力と力がぶつかり合う直前の。

     コウタロウは機敏に身をかわした。
     杖は老人の手から離れて落ちて、機敏じゃないヒロの肩の辺りにぶつかった。からからと、杖が地面に転がる音がした。
     俺は身をかわせなかった。
     老人は俺にぶつかってきた。前につんのめるみたいな勢いで。
     よけたらじじいが転ぶって分かってたし。凶暴老人のくせに、顔を見たらほんとにじじいで、枝垂れ柳みたいな眉毛の下の目が、潤んで光ってた。

     芹、とヒロが俺の名を呼ぶのと、じじいが俺を抱きしめるのがほとんど同時だった。
     じじいは俺を突き飛ばす気かと思った。そうじゃなかった。
     命綱みたいな切実さで俺を抱きしめた。
    「節子」
     息を止める。

     ダメだ。俺。年寄りの匂いって。
     長いことしまい込まれてたマフラーみたいな匂いと、固まった皮脂の匂いと、頭皮の匂いと、渾然一体となってぎゅうぎゅうに俺を締め付けてくる。
     嫌だ。じじいなんて嫌いだ。俺に触るな。
    「節子」
     死にかけの匂いに圧死しそう。
    「節子」
     じじいが口を開く度に、口臭が鼻を刺す。乾いた口の匂い。

     芹くん、とカツラのずれたままのヒロが呆気にとられた顔で俺を呼ぶ。
    「芹くん、大丈夫?」
     大丈夫なわけ、あるか。
    「芹くん、勇さんって、呼んであげてくれるかな」
     ヒロが俺の左耳に囁く。俺の右耳のあたりにはじじいの顔がある。じじいのひげと髪の毛がちくちくする。
    「誰?」
     俺も囁き返す。
     勇って、誰?
    「この方、勇さんっていうんだ」
     このじじいの名前か。
     ヒロの、いつもの丁寧な口調が苛々させる。「節子は?」
    「たしか、奥さんの名前なんだ」
    「死別?」
    「何?」
     ヒロが首を傾げて、またカツラがずれる。
    「だから、死んだのかって」
     鋭く囁く。
     節子と死別。
     何となくそんな気がした。俺は地獄からじじいを迎えに来た、亡き妻の使い、みたいな。そんなふうに見えたのかなって。
    「奥さん生きてるよ。家で待ってる」
     なんだそれ。
    「芹くん、若い頃の奥さんに、似ているんじゃないのかな」
     なんだそれ。
     巻き付けていたストールがじじいの涙で湿っていく。嫌悪感と馬鹿らしさで、わめく気にもなれない。
     このじじい、目がいかれてやがる。
     老眼だか白内障だか。無駄に長生きしやがって。

    「勇さん」
     仕方ない。じじいに抱きしめられたままなんて、嫌だ。
    「芹くん、勇さん、耳が遠くてね」
     耳も馬鹿なのか。クソじじい。
    「勇さん!」
     俺は腹から声を出した。
     じじいの頭に向かって。

    「節子」
     じじいが顔を上げた。
    「節子」

    「はい!」
     元気よく、俺は答えた。もう破れかぶれだ。

     俺を締め付けていた力が緩む。ヒロが慌ててじじいのズボンのウエストの辺りを支えた。背後から。
     じじいの顔を見たら、罵る気も失せてしまった。落ちくぼんだ、伸びすぎた眉毛に装飾された目。
     らくだみたいに優しい目をしていた。


     並んで手を繋いで、欄干にもたれて線路を眺めた。ヒロ、勇、俺。それからコウタロウ。
     勇が見つめていた空間の先には私鉄の線路があった。歩道橋と線路がわずかな区間だけ併走する。もちろん今は終電も去った後。 
     駅からの薄ぼんやりした明かりだけが、線路と、珍妙な取り合わせの俺たちの姿を照らしている。
     線路の先は闇だ。今夜は風もなくて。桜の花びらが降り注いでくるわけでもない。

     おかあさん、と勇がぽつり。

    「この光景がすごく重要らしいんだ」
     ヒロが説明する。
    「勇さんにとって、ここは船の甲板らしいんだ」
     言われてみれば、そう見えなくもない。手の届きそうな距離に併走する線路。見えているのに飛び移るのは難しい、向こう岸のような。
    「勇さんは奉天の生まれでね」
     満州国。
     俺は勇の顔をまじまじと眺めた。垂れ下がった眉毛と丸まった背と、がっしりした肩と。
     じじい、歴史の生き証人か。

    「日本への引き揚げの光景を思い出しているのかなって、奥さんは言ってたよ」

     おかあさん、とまたぽつり。
     さっきまで節子ってうるさかったくせに。「勇は母親とはぐれたわけ?」
     おかあさん、と勇が切なげに俺の顔を見る。「それが、そういう訳でもないんだ」
     なんだそれ。
    「だって、おかあさんって」
     呆れた俺の顔に、ヒロが笑いかける。勇の頭越し。ヒロはまだカツラを被ったまま。
    「この年代の男の人は、お母さんも、奥さんのこともお嫁さんのことも、全部、おかあさん、なんだよね。呼ぶときにさ」
     ヒロがカツラを被っている理由。
     セミロングの髪の女は全て、長男の嫁に見えるらしい。だから世話を焼かせてくれる。杖を振り回すと奥さんでは対応しきれないし、かといって男には身体を支えさせない。男が触ると怒るらしい。
    「芹くんのことは、女の子に見えちゃっているんだろうな。ほら芹くんの髪ってふわふわしてかわいいよね。節子って、奥さんを名前で呼んだの、初めて聞いたよ」 

     おかあさん、と俺の手を撫でさする勇の手が、気持ちいいわけじゃないけど、振り払えない。
    「男って、甘ったれてるな」
     身の回りの女は全部、おかあさん、か。

     お母さんって、呼んだのはいつが最後かな。母親が俺に優しくなるのは、男とダメになった時なんだ。ほら見たことか。この女とやっていける男って俺しかいないんじゃないかって。
     そんなふうに思ってた。

    「きっと帰ってくるよ」
     勇が俺の手を撫でた。
    「みんな帰ってくるよ。全部終わっちゃったけどね。ぜーんぶ無くなっちゃったけどね。おかあさん。帰ってくるよ。みんな帰ってくる。わたしらも、帰ろうかね。おかあさん」

     じじいって水分が足りないんだきっと。
     ひからびかけてて、しゃべると渇いた口の匂いがする。目だって、あんなに潤んでるくせに涙は出てこない。目の端に目脂が浮かんでて、小汚い。死にかけのじじい声が優しくって。じじいの爪って変形してて、なのに手が意外とすべすべしてる。
     
     俺はじじいに比べて水分が余ってるだけなんだ。じじいに慰められて泣いたりしてない。


    「帰ろうかね」が出たら、終わりのサインらしい。勇は俺とヒロに手を引かれて帰った。凶器の杖は俺が持った。コウタロウのリードはヒロが。
     帰りながら勇は時々立ち止まって女たちに呼びかけた。
     おーいこっちだ、とか。そこは深いから渡っちゃいかん、とか。普段はその度に杖を振り上げるらしい。
     俺におかあさんと笑いかけながら、勇にしか見えない幻の女に向かって、おかあさんと呼びかけている。
     じじいは時空間を自在に操る。見たいものが見える。すごい存在だ。びびった。

     俺の感想に、ヒロは微笑んだ。
    「僕はね、年を取るのが怖かったんだ。ほらきっとひとりぼっちで死ぬことになるから」
     両想いなんて、ヒロには一生無いからって。
    「勇さんが羨ましいと思ったんだ。いろんな苦労があっただろうけど、ちゃんとひとりの女の人を愛して、家族を愛して、そういうのって伝わってくるよね」

     じじいの勝手な思い込みかもしれないだろって、こんなこと思う俺は、可愛げがないんだ、きっと。
     愛してるなんて。
     じじいの勝手な押しつけかもしれないじゃないか。俺のことを勝手に節子と勘違いして。

     ふはっと。柔らかい紙をくしゃっと丸めるみたいにヒロは笑った。
     中途半端な女装の、間抜けな笑顔。分厚い前髪と眼鏡。
    「そこなんだよ。年を取って、目も耳も悪くなって、だんだんと記憶がおぼろになって、そんなの悲劇的だと思ってたんだ」
     俺だったらそうなる前に死にたいけど。
    「だけど、勇さんは帰りたい場所や時間に帰れるし、好きな人に会えるし、好きな人の若い頃にも会えちゃって。そういうの羨ましいなと思ってさ」
     じじいは宇宙的だ。人に迷惑をかけまくりながら、時間や空間を飛び越える。

    「僕もすごく歳を取ったら性別を飛び越えられるかな」
     笑い事じゃないことを、笑いながら言いやがって。


     勇の住居はヒロのマンションの一室だった。二〇七号室。しわしわと微笑む節子が出迎えてくれた。
    「いつも、大家さんにお世話になっちゃって」
     おかあさん帰ってたのか、と呟きながら、勇はドアの中に消えていった。幸せそうに。

     少しでも長く、一緒に暮らせたらいいよね、とヒロも幸せそうな顔をした。

     シャワーを浴びて出てきたら、ヒロは椅子の上でうたた寝をしていた。カツラは節子に返した。いつもはさらさらのヒロ髪がぺっしゃりして、みすぼらしい。
     夜中に杖を振り回す入居者に付き添う、マンションの管理人。
     何が夜勤だ。お人好し。この昭和なマンションの家賃なんて、たかが知れてるのに。
     腰を悪くしそうな姿勢で寝ている。上着を着たままで。ヒロの上着の袖口のかぴかぴしたシミは俺の涙と鼻水だ。あの歩道橋の上でヒロが俺の顔を拭ってくれた。

     俺も年取って死にかけたら、母親に呼びかけたりするのかな。結局のところ、ひとを生み出して、最期に包み込んでくれて、そういうのって女にしか出来ないんだろうか。

     ヒロはどうなんだろ。
     死にかけたときにヒロが会いたいと思っているのは誰なんだろう。ヒロを振った男?

     俺はストールを手にしてヒロに近付いた。ストールには勇の匂いが染み込んで、母親の香水の匂いはもう、かき消されてるはず。

     ひとりぼっちだなんて、言いやがって。
     ひとの心配と世話ばっかりで。
     あんたを振った男、死ぬときに絶対ヒロのことなんか思い出さないぜ。


     時間も空間も飛び越えられない。

     俺とヒロしか、いま、ここにはいないんだ。だから、あんたにストールをかけてやれるの、俺しかいないだろ。
     ひとりぼっちだなんて言いやがって。

     床にしゃがむ。大判のストールに包まれて不格好な置物ふうになった男の膝に、頭をそっとのせてみる。コウタロウがやってきて、俺の膝に頭をのせた。
     そうだった。コウタロウもいた。馬鹿。ひとりぼっちだなんて言いやがって。
     痩せた男の膝は頭の置き所が微妙だ。コウタロウの耳の後ろを触ると温かくて、指先がじんわりする。
     自分の頭にも手が触れた気がした。そっと。耳の後ろ辺りをそっと、撫でられているような。

    「ヒロ、あんたさ」
     これは俺の寝言だ。
    「死にかけたら、俺の名前、呼べよ」
     
     おかあさんでも、別れた男の名前でもなく。

    「お前をひとりぼっちから救ってやれるのは、俺しかいないんだからな」
     だから俺をひとりぼっちにするな。
     
     目を閉じる。夢の中で俺を呼んでくれたのは、母親の声じゃなかった。      


    《 完 》


     なみ様の小説企画に参加させていただきました!
     なんと企画一周年✨おめでとうございます!!

     お題は『生きる時間』
     生と死をテーマにしたBL(ブロマンス)小説を10,000字以内で、という企画。
     拙作の登場人物は、以前にこちらのnoteでBL企画にも出させてもらった『おまえはクロエじゃない』の芹×紘です。
     この短編自体は元々はエブリスタのコンテストに応募したものです。
     今回のお題を聞いて、私なりに思う『生きる時間』を読んでいただきたい気持ちが強くなって、そのままの形で参加させてもらいました。


     なみ様、企画に参加の皆さま、読んでくださる皆さま、いつもありがとうございます!




     
     
     
    2020年末から創作を始めました。note では、主に短編小説を載せています。ドロップス書房のメンバーとして文学フリマにも出店しています!https://drops-shobo.booth.pm/

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