宿題の漢字プリントを少しだけ破った日のこと(933文字)
小学二年生の頃、宿題が嫌で嫌で仕方がなかった時期がある。
その日の宿題は漢字プリントだった。夕方、キッチンで夕飯を作る母に向かって、私はずっと文句を言い続けていた。
「そもそも宿題なんて仕組み誰が考えたんだよ」
と言っていた記憶がある。
漢字を書くことが嫌というより、宿題という仕組みそのものが理不尽に思えた。
なぜ家に帰ってまで学校の続きをやらなければならないのか。当時の私は本気で納得できず、泣きながら訴えていた。
そんな私に母はあっさりと言った。
「そんなに嫌なら破ればいいじゃん」
だが、それも怖くてできなかった。
宿題への怒りはある。けれど、宿題を破る勇気もない。破ってしまえば明日学校に持っていけなくなる。みんながこなせる漢字プリントをできないやつとして扱われる。
どうにもならない感情の行き場を失った私は、結局プリントを丸ごと破ることもできず、A4の漢字プリントの右下に指で小さな穴を開けただけだった。
「納得していないぞ」という精一杯の抵抗だった。
そして、その穴を自分でテープで補修し、何事もなかったように漢字プリントを埋め終えて翌日学校へ持って行った。
そんな人間が、よくここまで勉強を通じて一定の成果を出してこれたなと思う。勉強をしていて成績が上がるから楽しいとか、わかるようになることが楽しいとか思ったことは一切ない。
必要だからなんとかして仕方なくやってきた。
勉強する大切さが心の奥底では理解できないという部分はあの日から変わっていないのかもしれない。
ましてや勉強が楽しいと脳みそに言い聞かせることができる機能は、喉から手が出るほど欲しい才能だ。
大学生活を通じて、人生は勉強の連続だということ、その連続を乗り越えられる人が成果を出せるという事実を知ってしまって絶望している。
私は今後やりたくもないことを40年以上も続けなければならないのか。
そんな自分にとってみれば、やりたいことをやろう!とか仕事で自己実現!をとかを簡単に叫んでいる人が増えた時代は息苦しい。
これは社会の仕組みなので、反抗しても意味はなく、適応するしかない。
宿題の話はどっちにも振り切れない、自分の中途半端さがよく表れている出来事だったと思う。
中途半端な人間であることを表明することはある種の逃げでもあるが、それと同時に潔さでもあってほしい。