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Photo bycat299miel

「私の仕事は無駄でした」~存在しなくていい仕事は実在する。あなたの仕事は?~

    出社して、まず最初にメールを開く──。

    それが私の仕事の一日の始まりだ。

    前日の続きを確認し、関係者に共有し、念のためもう一度整理し、上司に報告するための資料を作る。これが毎日の流れだった。

    しかしある日、いつもの一連の作業を終えた後に、私はふと疑問に思ったのだ。

    「今の自分のこの作業は、何かを前に進めただろうか?」
    「今の自分のこの作業は、会社に利益を生むのだろうか?」

    誰かの問題は解決したわけでも、会社の利益を増やしたわけでもない。

    私がここでしっかりと見て改めて分かったのは、私の今の作業は『何も物事は動かしていない』ことだった。

    何も物事は動いていない。それなのに、「やった感」だけは堂々と残っていた。違和感だ。この日、唯一私の中に残ったのは“違和感”だけである。
    そしてその違和感は、翌日も消えなかった。むしろ、毎日少しずつ積み上がっていった。

    私のしている仕事に意味があるのだろうか?

    報告するための報告。確認するための確認。念のための念のため。

    例えばこんな仕事はどうだろう。

    「社内システムのパスワード変更の通知」は本来、システム側で自動表示すれば済むはず。
    しかし何故か「総務から全社員へメールで通知する」という運用が残っており、しかもそのメールは「重要なお知らせです」と件名を付け、更に別部署がその送信ログを「送信できているか確認する」ベくチェックする。
    そして最後に「全社員へ通知完了しました」という報告書が作られる。

    これはどれも丁寧で、真面目で、あたかも必要に見える。
    実際、誰もそれを疑っていない挙句、むしろ疑うこと自体がかえって仕事の質を下げるような空気さえあるぐらいだ。

    やはり、私はこの構造に違和感しかない。
    じゃあ、具体的になにが違和感か?

    その自問自答の答えは至ってシンプルだった。

    それはずばり、「自分の仕事は本当に必要か、否か」──だ。

    私は改めて、自分のしている仕事の「意味」や「本質」にちょっとだけ目を向けてみた。するとどうだろう。私は、目から鱗が落ちた。自分の仕事を客観的に見直した結果、私は思わず愕然としたのだ。

    だって、「私の仕事は無駄」だと気付いてしまったから。

    しかもそれは私の仕事にとどまらず、目を向けてみれば「社会全体」に蔓延っているではないか。
    この世の中は、「存在しなくてもいい無駄な仕事」で溢れていた。

    もちろん、全ての仕事がそうだという話ではない。

    社会には明確に必要な仕事があるし、止めれば困る仕事も当然ある。それは疑う余地がない。ただ同時に、無駄な仕事もやはり多くあるのだ。

    「誰かが作ったルールを守るための仕事」、「そのルールが正しいかを確認する仕事」、「確認したことを記録する仕事」、「記録が正しいかをまた確認する仕事」…などなど。

    これらは一見するととても大事な仕事に思えるが、実は“根っこ”の問題の対応さえすれば、これれは「本来なら存在しなくていい仕事」であるというのが分かる。
    最も厄介なのは、この「存在しなくてもいい仕事」というのが、誰の悪意でもないことだろう。

    正確さの為、丁寧さの為に、品質の為、お客様の為。

    そういった善意が積み重なり、人は無意識の内に巨大な「無駄」を生み続けてしまっているのだ。誰も無駄を作ろうとしていないのに、無駄は増えていく。
    その無駄な仕事は「必要なコスト」と呼ばれ、「品質の為」と説明され、「再発防止」として残される。

    そしてこうして一度生まれた「無駄」は雰囲気の善意で正当化され、「誰かの仕事」になっていく。社会がそれで回っていく。
    明らかに違和感なのに、止まる気配がまるでない。

    それでも、社会全体にその「無駄」が如実に表れた瞬間がある。それが他でもない「コロナ」の時だ。
    あの時は、会社に行かなくても仕事は回った。会議をしなくても意思決定は進んだ。出社しなくても組織は動いた。

    コロナの時、社会は「最低限=最も効率のよい形」で確かに回っていたし、回ることができていた──。

    コロナによって心配されていたGDPが、思ってたほど下がらなかったというデータもちゃんと出ている。

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    つまり、既に世に蔓延っていた「無駄な仕事」が無駄だったと露になったのだ。

    それにもかかわらず、2026年現在。多くの無駄な仕事は戻っている。当たり前の顔で。以前と同じ形で、以前と全く同じように。
    まるで、何も起きていなかったかのように「無駄」が甦ってしまった。

    私はその時、初めて思った。

    「この無駄な仕事は、誰のために存在しているのか?」という疑問だ。

    更にもう一つ、「もしそれが誰のためでもないとしたら、何故その無駄な仕事は消えないのか?」という疑問。

    そんな疑問を抱いた私は、暇つぶしにあれこれメモをしたのでまとめておきたいと思う。



    ♢メモ➀: 「仕事のための仕事」が増殖している


    『会議=“会議”という時間を終わらせる為に始まる』

    そう思ったのは、ある定例会議に出ていた時だった。
    当時の議題は三つほどあったが、どれも前回の会議で決まっていた筈の内容だった。

    ➀最初に進捗の共有→②次に進捗の遅れが指摘→③次に遅れの理由が説明→④最後に次回までの対応方針が決定。

    ざっとこんな感じだった。
    そして次回の会議では、④の「対応方針」が➀の「進捗」として共有されるのだ。

    これを俯瞰で一度見てみると、この会議はなんとなく前に進んでいるようにも見えるのだが、その実態は、ほとんど変わっていない。前に進んでいないことが分かる。

    本来の仕事はこうなるはず:

    問題 → 解決 → 消滅→完了

    しかし実際はこうなっている:

    問題 → 説明 → 対応方針 → 次回の“新しい問題化”→再び問題…

    つまり根本の「問題」が消えていない上に、その問題が「次の問題」を生んでいる。「消えない形式に変換されている」だけなのだ。
    こうなると、「問題を消滅させる」という会議の一番の目的を何も果たせていない。じゃあこの会議は一体何の為にしているのか?となるだろう。

    私はこれじゃあ「終わるものも終わらない」と思ったが、その考えすら私は間違っていた。終わるもの終わらない…ではなく、そもそもこの会議自体が「終わる形になっていない」のだ。

    この会議は問題を解決しているのではなく、問題を“次回に持ち越せる形に整形しているだけ”である。

    ここにも、「無駄な仕事」があった。
    そしてほら、この無駄な仕事から「更に無駄な仕事」が生まれているではないか。私の思った通りだ。

    この会議用に作った資料は無駄にページ数が増え、無駄にフォルダが増え、無駄に共有された。
    なにより、この仕事に関わった全ての「時間」や「労力」が無駄になった。

    しかし、本当に恐ろしいのはその無駄ではなく、その無駄に対して「誰も疑いを持っていない」ことだろう。

    疑う余地がない、という感覚のほうが正しいのかもしれない。
    多くの人は疑うどころか、「無駄な仕事=ちゃんと仕事をしている証拠」と認識して疑っていないだろう。

    どこからか仕事は成果ではなく「過程」で評価されるようになり、過程が長いほど「丁寧」に見え、丁寧に見えるほど「正しい」と錯覚させてしまった。更に正しさというのは、「量」にも置き換わっている。

    資料が多い。確認が多い。関係者が多い。承認が多い。

    気が付けば、一つの作業を通すのに三つの部署を経由するのが普通になっているではないか。
    一つの判断に、五人の承認が必要になっているではないか。
    承認の為だけに、無駄な説明資料が必要になるではないか。

    そもそも、今までのは何の為に始めた仕事だったのだろう?
    誰の何の問題を解決する為だったのだろう?

    それが分からなくなる瞬間がとても多くなった。

    ただ、分からなくなっても仕事は続くし、止まらない。止められない。
    何故ならそれは既に「当たり前の仕組み」になってしまっているからだ。

    仕組みになっているから、人は疑わずに動く。

    この仕組みはある日突然できたものでもない。悪意を持った誰かが設計したわけでもない。むしろこの仕組みは、小さな改善の積み重ねの結晶とも言えよう。

    「こっちが分かりやすい」
    「念の為に確認します」
    「リスクを減らそう」
    「誰が見ても理解できるように」

    それら一つ一つの意見は確かに正しい。間違っていない。正しいからこそ採用されている。だが正しさが積み重なりすぎると、どこかでそれは別のものに変わるのだ。

    最初は単純だった手続きが複雑になったり、一人で決められたことが数人の会議で決めるようになる。
    複雑になった分、人が増えた分、また「無駄」が生まれる。

    こうして生まれた無駄な仕事は、考えるものではなく従うものになる。
    そして従うものになった瞬間、無駄な仕事は増殖を始めるのだ。

    誰も気づかないまま。誰も止めないまま。ただ静かに。

    現代の無駄な仕事は、こうして増えている。


    ♢メモ②:コロナが暴いた「無駄」の証拠


    新型コロナウイルス──。
    当時、社会は一度、止まりかけた。

    正確には「人の移動」が止まり、「対面の前提」が止まり、「当たり前の働き方」が止まった。それでも、仕事自体が消えることはなかった。
    私はここでも、違和感が生まれた。

    止まった筈なのに、回っていた。減った筈なのに、消えていなかったのだ。むしろ一部では、以前よりも忙しくなっていた。

    この時に起きていたのは、単純な話だけではないだろう。

    「仕事が続いた」という事実ではなく、「仕事の中身は維持されたまま、形だけが変わった」という現象だ。

    例えば営業の仕事が分かりやすい。

    以前は会社に行き、相手先に訪問し、対面で説明していた。
    しかしコロナ後は、同じ説明をそのままオンライン会議で行うようになった。
    やっていること自体は変わっていない。変わったのは、「移動」と「対面」という外側の要素だけだ。

    つまり構造はそのまま残り、外側だけが入れ替わった。そして重要なのは、ここからだ。
    コロナは「仕事を減らした出来事」でもあると同時に、蔓延っていた「無駄な仕事を一時的に壊した出来事」でもあった。

    もしかすると、この時に私と同じように『この仕事はなくても動いてしまうのではないか?』という疑問が生まれた人も多いのではないだろうか?

    実際、多くの業務はオンラインに移行した。結果として起きたのは、削減ではなく再構築だった。
    そうなると、ここで一度、この再構築された構造を整理する必要がある。

    仕事には2種類あるのだ。

    一つは、目的に直結している仕事。
    もう一つは、その目的を成立させる為に、後から積み上がった仕事。

    コロナが暴いたのはもちろん「後者」であり、ここまで私がずっと唱えている「無駄な仕事」である。つまり、こういうことだ。

    『無駄な仕事はやはり無駄だった』ということが改めて立証された。

    その無駄な仕事がなくても、目的はちゃんと達成されてしまったのだ。

    だが、そこまでしても「無駄」は消えなかった。むしろ形を変えて残った。問題は「必要かどうか」ではない。問題は「必要でなくても残る構造になっている」という点だろう。

    一度作られた仕組みは、簡単には消えない。それは合理性によって維持されているのではなく、「説明可能性」によって維持されているだけ。
    誰かが説明できる限りそれは存在し続け、説明できる限りそれは改善され続ける。

    改善とは本来、「削減」の筈だった。しかし現実では、改善は「追加」になっている。

    そしてコロナ期間中にこの矛盾が一時的に露出した。出社しなくても意思決定は進んだ。移動しなくても成果は出た。
    だがそれでも、全ての無駄な仕事が消えることはない。ただ、形を変えて戻ってきただけだ。

    コロナは案外、社会を止めなかった。
    逆に一つの真実を暴いている。

    それは止まらなかったものの中に、「止めても困らなかったもの=無駄な仕事」が確実に混ざっていたという事実だ。

    今はとても効率化が進んだように見える。しかし同時に、説明は増え続けているのだ。
    削減されたように見えて、別の場所で新たに補填されている。

    これも仮説➀の会議と同じで、前進しているようで、その実態は何も変わっていない。
    コロナで仕事は減ったではなく、形を変えて維持された。
    そしてその維持のために、新たな「無駄な仕事」が生まれたのだ。


    ♢メモ➂:人間は「生産」の為ではなく、「存在証明」の為に働いている


    仕事は本来、生活を成立させるための手段として語られてきた。
    収入を得る為に働き、生活を維持する為に時間を差し出す。そういう前提だった。

    だが、この説明だけではどうしても割り切れない部分が残る。

    もしそれだけが目的なら、合理化や自動化が進むほど、人は素直にそれを歓迎する筈だ。仕事が減ることは、そのまま自由時間の増加として受け取られる。

    しかし現実は少し違う。

    仕事が減ることは、必ずしも安心にはならない。むしろ一部の人にとっては、不安として立ち上がる。
    その不安の正体は、単純な収入の問題だけではないだろう。もっと曖昧で、言語化しにくいものだ。

    それは「自分がどこに属しているか」という感覚であり、「自分はまだ機能しているか」という確認でもある。

    仕事はいつの間にか、収入の仕組みから役割の仕組みに変わっている。だから忙しさは、単なる状態ではなくなる。
    予定が埋まっていることは、自分が社会のどこかに配置されている証拠になるのだ。

    逆に、何もない状態は空白ではなく、接続が切れたような感覚を生む。

    その感覚を避けるために人は無理矢理に次の予定を埋める。
    必要性の有無とは関係なく、空白そのものを維持できないからだ。

    ここにあるのは効率の論理ではない。生産性の話でもない。もっと根の深い構造の問題だろう。

    人は働くことで成果を出しているだけではなく、働くことで「自分がここにいる状態」を維持している。証明しているのだ。

    もしそうだとすれば、「仕事」とは単なる作業ではない。社会に対して、自分の位置を更新し続ける行為であり、存在を消さない為の反復であるとも言える。

    そしてその前提の上に立つと、「無駄な仕事」という言葉の意味も少し変わってくるかもしれない──。

    人が仕事に求めているものは、必ずしも合理性ではないという事実だ。
    更にそのズレは、これから先でもっと大きくなる可能性がある。

    効率化が進めば進むほど、残るのは「必要な仕事」だけではなく、「必要とは別の理由で残る仕事」だからだ。


    ♢メモ④:それでも、人間に仕事は必要なのか


    ここまでの話を振り返ると、一周して原点に戻る。もっと根本の疑問が一つ浮かぶ。

    それは、『そもそも人間に仕事は必要なのか?』ということだ。

    この問いは極端に見えるが、既に現実のほうが少しずつその境界を曖昧にしている。

    AIは文句を言わなし、疲れない。だから休憩を必要としない。そして同じ作業を繰り返しても、人間のように意味を疑わない。
    もし仕事を「成果だけの問題」として定義するなら、理屈の上では、人間が担う必要は徐々に減っていくのだろう。

    実際、多くの業務は既に置き換えが始まっているとも聞くぐらいだ。
    しかし、それでもなお人間の仕事は完全に消えていない。

    ここで一度、視点を変えてみよう。

    仕事というのはまず、本当に「成果を出す為のもの」なのだろうか?

    この前提を外すだけで、別の輪郭が見えてくる。仕事には、もう一つの役割があるのだ。
    それは、社会の中に「自分の位置」を作ること。

    人は昔から、「役割」を通して共同体に所属してきた。
    狩りをする者、守る者、作る者、運ぶ者。それぞれの役割が、そのまま「存在の証明」になっていたからだ。

    「自分は何者か」という問いは、役割の名前によって一時的に安定していた。現代の仕事も、この構造から完全には離れていない。形を変えながら残っている。

    仕事を失うことへの不安は、収入の喪失だけでは説明できない。それはもっと静かな喪失だ。

    例えば、社会との接点が薄くなる感覚や、自分がどこにも配置されていないような感覚。あるいは役割が消えた後に残る虚無など。

    これらの感覚は、人間にとっては扱いづらい種類の沈黙に近いと言える。だからこそ、人は動く。合理性だけでは説明できない理由で働くのだ。

    必要だからではなく、「必要とされている状態を維持するため」に働く側面がある。
    ここまで来ると、仕事は「行為」から「状態」に変わるだろう。

    何かを作ることよりも、自分がそこに属していることのほうが重要になる。しかしこの構造を冷静に見直すと、また違和感は生まれるのだ。

    もし仕事が「存在の維持の証明書」だとしたら、その証明書はどこまで必要なのか?
    そして、どこから先は不要なのか?

    この境界は、誰もはっきり決めていない。
    AIや自動化が進めば進むほど、「人間がやるべき仕事」は減っていく。それと同時に、別の問題が残る。

    それは「人間がいなくても回る社会」の中で、人間は何の為にそこにいるのかという問いだ。

    だがここで再び、「仕事」の意味が反転する──。

    仕事は社会を回す為に手段であると同時に、人間を社会に接続するための装置でもあると考えられる。
    そしてもし後者が本質に近いとしたら、効率化は単純な善ではなくなるのだ。
    何故なら、「削減すべきもの」と「削減できないもの」が混ざり始めるから。

    このメモ④の結論は、明確には出ないだろう。考えたらキリがないし、立ち位置によって意見が変わる。

    それでも最後にまとめてるなら、「人間に仕事は必要か」というこの問いは、そのまま「人間は社会に必要か」という問いでもあるから、結局答えはその人の価値観と思考に委ねられるだろう──。


    ♢まとめ

    人間は、なぜここまで働こうとするのか?

    誰も読まない資料や存在理由の曖昧な会議。
    構造そのものではなく、構造を維持するために増殖していく無駄な仕事の数々。
    それらは確かに不思議な存在であり、しかも誰もが真面目に取り組んでいる。

    しかし全体を見ると、やはり何かがおかしいものだ。

    問題を解決するために作られた筈の仕組みが、いつの間にか「仕事を維持するための仕組み」になっている。
    しかもその内部にいる人間ほど、それを疑えなくなってもいるのだ。何故ならその構造の中で働くこと自体が生活であり、役割であり、その人の立ち位置になっているから。

    結局、私のメモは単純な効率化の話でも、無駄を削ろうという話でもない。むしろ、それなら答えは「AIに置き換えればいい」「自動化すればいい」「非効率を消せばいい」という簡単な答えに辿り着くことができた。

    だが、現実はそこまで単純ではないのだ。

    仕事には、「成果」とは別の役割があるのかもしれない。
    仕事は生産活動だけではなく、「誰か」の存在確認にもなっていた。

    だから人は「働かなくていい未来」をまだ素直に歓迎できないのではないだろうか。
    だから人は本来ならなくてもいい「無駄な仕事」を無意識に生み出してしまっているのではないだろうか。

    本来、「技術」は人間を楽にするために生まれた筈だ。
    しかし現実には、効率化によって空いた場所に、また別の仕事が流し込まれていく。

    気づけば人間は、空いた時間を休息ではなく、新しい労働で埋め戻している。まるで「働いていない状態に耐えられない」と本能に操られているように。

    この記事を書きながら、私も何度も不思議に思った。

    人間は、本当に仕事を憎んでいるのだろうか、と。

    もちろん、辛く大変な仕事は多くあるだろう。
    だがそれでも尚、多くの人はその辛くて大変な仕事よりも、「完全に働かなくなること」に対して更なる強い恐怖を抱いているのかもしれない。

    その恐怖はなにも金銭だけの問題ではない、もっと根本の、根深い“何か”だ。

    人間は働くことで社会を回しているのではなく、働くことで自分自身を維持しているのかもしれない。
    そして仮にそうだとしたら、この社会から最後まで消えないのは、最も必要な仕事ではなく、最も「人間らしい無駄な仕事」になる。

    もし、社会が本当に合理化され、必要な仕事だけが残ったとしよう。
    無駄が消え、曖昧さが消え、人間より正確なシステムが社会を完全に管理するSFちっくな近未来だ。

    しかしそのSF近未来が本当に訪れた場合、逆に、そこに人間は必要なのだろうか?

    それを踏まえると、効率だけを追い続けた先で、最後に不要になるのは「人間らしい無駄な仕事」ではなく、“人間らしさ”たるものを残す『人間という存在そのもの』が不要になるに違いない。

    どうだろう?
    私のここまでの記事を読んで、このSF近未来の話が実はもう近い将来に見えてしまったあなた。

    そんなあなたは自分の仕事が無駄だと思いますか?
    それとも、自分……ひいては「人間そのもの」が無駄だと思いますか?

    あなたはどう考えるでしょう──。



     
     
    ワンピースが好きな平凡な2児のパパ。同じワンピースファンの人と繋がれたら、とnoteで色々記事を書いてます。同じワンピースファンの方がいましたら、気軽にお声がけください!

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