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母と乳

    猿荻レオン

    「お母さん、牛乳ちょうだい」
    「自分で注ぎなさいよ」
    「おかんの入れてくれた牛乳がうまいんだって」

    息子はイタズラっぽく、へへっと笑った。
    その顔に、私は弱い。身長は、私とほぼ同じになった。数ヶ月のうちに、彼は私の背を追い越すだろう。大きくなっても、息子は変わらずに愛おしい。

    「今度から、ちゃんと自分で入れなさいよ。もう、6年生なんだし」
    私はブツブツと呟きながら、冷蔵庫から1リットルの紙パックの低脂肪乳を取り出した。
    「ほんと、あんたは牛乳で育ったみたいなもんよね。赤ちゃんの時から牛乳ばっかり飲んでたし。そういえば──」

    私は牛乳を透明のグラスに注ぎながら、息子が保育園に入ったばかりの時のことを思い出した。

    あれは次男が10ヶ月の頃。仕事復帰のために、私は息子を保育園に入れた。入園に際し、心配事がひとつだけあった。

    ── 離乳食。

    次男は当時から偏食の片鱗を覗かせていて、離乳食をすすんで食べることが、あまりなかった。

    ミルクをあげようにも、私のおっぱいがいいと泣く。
    白ごはんは大好きだけど、パンはイヤ。
    バナナはいいけど、ヨーグルトはムリ。

    かわいい顔で口を一文字につぐんで、食べたいもの以外は断固拒否。ああ、なんてこの子は頑固なんだろう。私はおっぱいに吸い付く息子のでっかい後頭部を、ゆっくりと撫でた。

    そんな中、入園の1ヶ月前から、私は断乳を始めた。母乳外来に通い、スケジュールを立てる。

    「ここまではしっかり飲ませてあげてくださいね。赤ちゃんも、ちゃんと話はわかっているので、カレンダーを見せながら、卒乳のことをしっかり伝えてください。やめる時は泣いてもおっぱいはやらないこと。卒乳が伸びちゃいますからね」

    「わかりました」
    私は次男を胸に抱き、しっかりと頷いた。
    育児休業中、私は息子を完全母乳で育てた。

    意識が高いとか、そういうことではない。単純におっぱいからシャワーのように母乳が出ただけだし、ミルクを作る手間が省けたからという理由だ。哺乳瓶を洗浄するのも、温度を考えながらミルクを作るのも、ズボラな私には、面倒ごとでしかなかった。それが、母乳なら楽チン。ぽろんとおっぱいを露わにして、ガバッと口に含ませるだけで、いつでもどこでも子どもに栄養補給ができる。それに、この時期はいくらでもご飯が食べられた。母乳に栄養が取られるからと、お腹いっぱい食べても太らない。今思えば、幸せな日々だった。

    卒乳は意外なほど、うまくいった。

    説得が功を奏したのか、次男はおっぱいを欲しがらなかった。しかし、相変わらず、食べるものには偏りがある。あまり牛乳は好きではなかったけれど、牛乳をカルピスで割ると好んで飲んでいた。

    行き場のなくなった母乳は、私の胸を張り裂けんばかりに圧迫した。ぱんぱんに膨れ上がったおっぱいは、横になるのも痛いほどだった。しかし、こればかりは仕方がない。ゆっくりと卒乳すれば、こんな苦労は経験しなくていいのだろうけれど。仕事復帰のために、強制的に赤ちゃんとおっぱいを引き離すのだから、この胸の切なさはどうしたって通らないといけない道なのだ。

    牛乳はよく飲むし、白ごはんとバナナは食べるけど、おかずはあまり食べなかった。食べたくないなら無理に食べさせなくてもいいかと、めんどくさがってついつい母乳をあげてしまっていた弊害かもしれない。そして、そのタイミングで保育園入園。

    「あまり、ご飯は食べないかもしれません。好き嫌いが激しくて」
    「わかりました。まずは環境に慣れることが大事ですし。お母さんは、お仕事頑張ってきてくださいね」

    優しい先生方に安堵しつつ、次男の鳴き声を背に浴びながら、私は職場へと向かう。
    仕事をしていても、顔をぐしゃぐしゃにして泣いてた次男の顔が、頭をチラついた。復帰、早すぎたかな。もうちょっと一緒にいたかったけど。そんなことを考えると、胸が締め付けられると同時に、おっぱいがギュウウっと張った。

    張り続けるおっぱいのせいで、母乳は仕事中もじわじわと滲み出ていく。これを飲ませてあげられたら、一番よかったんだろうけど。仕方のないことだとは思いつつも、かわいい我が子と過ごす時間を手放したことを、少しだけ後悔したりもした。トイレで母乳パッドを替えながら、小さくため息を吐く。

    久しぶりの仕事と育児の両立。自分で選んだ道だけど、なんだか慌ただしい。バタバタと仕事を終えると、私は急いで保育園へ向かう。

    息子に早く会いたい!
    ご飯はちゃんと食べただろうか。
    大丈夫かな?

    「おかえりなさい、お母さん」
    息を切らして、保育園に到着する。先生に抱えられた次男が、手をいっぱいに広げて私に飛びついてきた。
    「ただいま。ありがとうございます!」
    私は息子をぎゅっと抱きしめる。

    「どうでした? ご飯食べました?」
    「あ、全然問題なかったですよ。キレイに完食してました!」

    私は膝から崩れ落ちそうになった。
    「あ、そうですか。よかったです」
    頭を下げ、大きな荷物を受け取り、私は保育園を後にした。

    息子を自転車の前かごに載せ、次第に暗くなっていく夕暮れの中、自転車を漕ぐ。
    「ねえ、ほんとはごはん、食べれるんやん。家では食べんくせにさ〜。いや、でも偉かったね。お疲れ様」

    帰宅後、私は食事の用意をした。
    ご飯がちゃんと食べられると聞き、きっとご飯を食べてくれるだろうと期待しながら。

    その期待は音もなく崩れ去った。
    息子は安定のカルピス牛乳と白ごはんとバナナにしか手をつけない。なんでだ。私の飯が食えないと言うのか?

    私は首を左右に振った。この子は、外では頑張るタイプなのだろう。家では力を抜いて、好きなように振る舞いたいのかもしれない。仕方ない。諦めよう。栄養は保育園で取っていると思うようにしよう。幸いにも、ご飯と牛乳とバナナのおかげか、体は人一倍大きいんだし。

    それは、小学生になってからも変わらなかった。大きな体で、身長はいつも後ろの方。先生には「とても優しいしっかり者です」と言われる。学校での様子を聞く度、家でのマイペースな振る舞いとの違いに、私は膝から崩れ落ちた。ちゃんとしてるならよかったと、笑いが込み上げる。

    グラスに注いだ牛乳を受け取る次男の目線は、私と同じ目線。グラスを受け取ると、一気に牛乳を飲み干した。

    「今度は自分で注ぎなさいよ」
    「まあまあ」

    次男はへへっと笑いながら、空になったグラスを、ことりとキッチンに置いた。




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