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余白 第8話

     それから、しばらくの時間が過ぎた。
     ひよりは、もう誰の記憶にも長くはとどまらなかった。教室にいても、廊下を歩いていても、水のなかをすべっていくように、人と人のあいだをすりぬけていける。波は立たず、何も起こらない。それは、ひよりがずっと望んできた毎日だった。
     日々は、どれもよく似ていた。昨日と、今日と、明日の区別が、ほとんどつかない。けれどひよりは、それをさみしいとは思わなかった。見分けのつかない毎日のなかに、ひよりは静かに溶けていた。体育祭も、いつのまにか終わっていた。誰と何をしたのかは思い出せないが、困ることは何もなかった。
     ななみとは、相変わらずちょうどよく話した。動画を見ては、ちょうどよく笑い、ちょうどよく感心してみせる。それ以上、近づきも遠ざかりもしない。ひよりの、いつもの距離だった。

     三隅さんとは、もう何の関わりもなかった。同じクラスにいて、同じ廊下を歩いている、明るくて友達の多い子。それだけの存在だった。話したこともほとんどなければ、気にしたことも、気にされたこともない。ひよりにとって三隅さんは、たくさんいるクラスメイトの一人にすぎなかった。廊下ですれちがっても、ひよりの目が、その子の上で止まることはもうなかった。三隅さんの顔は、ほかの大勢の顔と同じように、ひよりのなかをただ通りすぎていくだけだった。

     ひよりの部屋には、まだ、あの小さなノートがあった。机の端に置かれたまま、ひよりはもう、それを開かなかった。
     前には毎晩、短い言葉が少しずつ書き足されていた。一日の終わりのその数分だけは、何も測らず、誰の目も気にせずにいられた。ひよりにとって、いちばん静かな時間だった。
     けれど、最後の一行のあとは、白いままだった。ページを開いても、もう、何も書けなかった。どうしてなのかは、自分でもわからなかった。
     ひよりは、何も失っていない顔で、いつもの一日を過ごしていた。

    (了)

     
     
    小説を書いています。ひそかな願いが、現実のほうを静かに書き換えていく話。完結『余白』『十五等星』。連載中『やさしいことば』。

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