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仇討ちは罪か


    #創作大賞2026 #ミステリー小説部門

    あらすじ
     十年前、池上昭次(60)はある事情で早期退官した刑事だ。彼は退官当時にやり残した事件が未解決になっている事が気にかかっていた。
     米倉進(50)の息子は11年前15歳でいじめが原因で自死している。
     ある日、ビルから男が落ちて死んだ。詐欺事件で警察から逃亡していた男だった。池上も米倉も偶然その場に居合わせた。米倉と池上はそういった事情で知り合った。死んだ男は池上が気にする未解決事件と米倉の息子の自死に関係していた。
     米倉は男の死から、いじめに加担していた者たちに対して仇討ちを計画する。池上は元刑事として未解決事件を捜査することになった。その捜査の中で米倉の計画を知る。
    「仇討ちは罪なのか」と問う米倉に、刑事として答えに窮した。事件は思わぬ繋がりをみせ、池上は事件を解決していく。(300字)

      仇討ちは罪か
           
     
                  一
     池上昭次は警察学校を卒業し、新宿署で巡査、刑事として勤務していた。池上は妻との間に一男ヒカル一女サクラをもうけた。
    池上は妻の病気を機に定年前に退官をした時は巡査部長だった。これは彼の検挙率からすると遅い出世である。
    池上は妻が癌であるという宣告を担当医から受けた前年に、ヒカルを思わぬ事故の後遺症で亡くしていた。
     2000年平成12年3月に起きた営団地下鉄日比谷線中目黒における脱線衝突事故は死者5名死亡60人以上が負傷したと報道された。ヒカルはその電車に乗りそこない事故にあわずに済んだ。だが、事故の余波でホームはいつも以上に混雑した。苛立つ一人の乗客とぶつかり鉄柱にヒカルは後頭部を激しくぶつけた。ぶつかってきた乗客は「チッ」と舌打ちをし、人ごみの中に消えた。
     そんな出来事も脱線事故に比べれば大したことは無いと見過ごされた。ヒカルはその後数日激しい頭痛とめまいを繰り返し事故から一か月後に診察に訪れた待合室で一人静かに亡くなった。鉄柱にぶつかったことにより、少しずつ脳内出血が進んでいたのだった。脱線事故の死者数には入ってなかったが、遠因はあった。
     ヒカルが体調を崩していたその時は、池上に仕事を辞めるという選択は微塵もなかった。だが、病の妻を看病するために仕事を辞める判断をしたのはヒカルの異変に向き合っていなかったという後悔の気持ちがあったからだ。
    3年前に7年間の介護生活が静かに終わった。仕事を辞め、残された2人の人生を悔いなく過ごすと決めたのは、それはそれで良い判断だった。
     60歳になった池上の毎日は近くに住むサクラの子どもを保育園に送り迎えをする事と、週3回の小学校の放課後に校庭の見守りをすることだ。見守りの名目はボランティアだが僅かばかりの報酬がでる。
     朝のルーティンを終えるとコーヒーを飲みながら新聞の三面を見る。世間を賑わす事件を見るたび、気持ちがざわついたが、刑事だったのは昔の事だと笑ってやり過ごしていた。
     7月7日の七夕の日、五歳になる孫娘から貰った笹飾りがベランダで揺れていた。その傍に立ち、ぼんやり庭を眺めていた。そんな時、決まって思い出すのがある事件だった。「椿谷芳樹強盗殺人事件」である。
     池上は当時「椿谷事件」の担当だったにも拘らず、退官することでそれに携わることを放棄した形になった。池上が気になる事件は2001年(平成13年)、1月26日、午前零時10分。新宿区柏木町にある雑貨一般を取り扱う会社「椿谷」の会社兼自宅にて行われた強盗殺人事件である。
     池上の手元にある個人的に作成した資料によると、椿谷芳樹の妻の富江は仲の良い友人と一泊で温泉に出かけていて留守であった。第一発見者の長男の修一は独身で同居していた。事件当時、修一は商工会議所の集まりで午後6時過ぎに家を出ている。事件当夜は家にいたのは椿谷本人だけだった。
    午前零時に帰宅した修一によって事件は発覚された。
     社長の椿谷(当時71歳)は事務所の中で死体となって発見された。死因は心臓発作だった。心臓に持病があり、何らかの要因でショック死したと思われた。死亡推定時刻は午後10時30分。事務所は書類が散らばり、手提げ金庫の中身の49万の現金が紛失していた。
     ここまで事件を振り返って見て、一見単純とも思える強盗殺人事件が10年も未解決なのが悔やまれた。
    警察は事件が世の中の興味関心の多さに関係なく捜査をしているが、当時は事件発生の前年2000年3月に起きた営団地下鉄日比谷線の中目黒列車脱線衝突事故の陰で、強盗殺人事件にもかかわらず事件への関心は薄かった。
     池上は資料をカバンに入れて、家を出た。
     夏の陽は夕方まで続いていた。60を過ぎても池上の歩く速さは変わらない。刑事時代の健脚ぶりは健在だ。電車を乗り継いで国立図書館に出向き、当時の新聞記事にあたる事にした。
     事件当時の新聞をすべて読んだ。記事の大半は列車脱線事故の被害が判明してきた。その事実関係を伝えていた。そのたび、池上の胸にヒカルが蘇り痛みが走った。
     池上が探していた記事は社会面に小さく載っていた。記事の内容は警察の発表通りだった。犯人の行方を捜査しているに留まっていた。図書館の静寂だった空気が少しざわついてきた。池上は腕時計に目をやった。閉館時間が迫っていた。
     池上は図書館を後にして待ち合わせの居酒屋に向かった。新宿駅はいつ終わるとも知れない工事が続いている。サクラダファミリアのように未来設計図があるのだろうが、人々はその計画を知っているかのように、文句も言わず新しい道標に沿って上手く流れている。
     久しぶりに訪れた居酒屋は昔のままのたたずまいで池上を迎えた。
     馴染みの店員は独立して店を構えていた。二人だと告げるとカウンター席に案内された。手持無沙汰にすっかり古びたメニュー表を手にし、壁に掛かったお薦め品を眺めていると、「やあ」と声を掛け西田が池上の隣の席に座った。
     西田は池上と一緒に新宿署の刑事課で事件を追っていた刑事仲間だった。今では西田は警部という地位にいる。昇進試験には熱心に受けていたが、池上とのコンビで事件の解決率も上げていた事も昇進には一役を担っていただろう。
    「池上さん、久しぶり。会うのは貴方の奥さんの葬儀以来か。貴方は全然変わらないね。一人になってさぞかし老いぼれているかと思ったのに」
     肩書は遠慮のないジョークを笑に変える力があるのか。西田は自分の言葉に可笑しそうに笑い、空いている角のテーブル席を見つけると、店員に移ると伝え、さっさと移動した。西田はメニューに目をやり、自分で酒やつまみを注文すると真っ白い手拭きで指の先まで綺麗に拭いた。
     一連の有無を言わさぬ西田の行動を見ながら、池上は西田に今夜会う約束を取り付けた理由を話しそびれていた。
     酒がすすむうちに西田は刑事になりたての頃、犯人を追跡中に危うい所を池上に助けてもらった過去を懐かしそうに語った。当時、西田は子どもが直ぐにでも生まれそうだと連絡を貰っていて気もそぞろだった。池上はそんな西田を危うい所で援護し命を助けた。そして生まれて来る子供に会えた記憶が西田に残っていた。
     そんな思い出話をする西田に、遠い昔の彼のひょうひょうとして明るい姿が段々と戻って来た。運ばれた生ビールの空ジョッキが二人の前に三個ずつ並んだ時
    「ホントに、当時はお世話になりました」
     刑事だった頃の池上の姿を思い出し、西田は素直に頭を下げた。
    「いやいや、そんな」
     池上はホッとなって笑った。
    「ところで、最近どんな事件を扱っているんですか」
     昔の同僚とは言え、西田が警部であることに対して池上は敬意を持って話しかけた。
    「事件の発生率は増えたが、検挙率も上がったよ。昔と比べて防犯カメラとかね、広報とかね、結構役に立ってるよ。だけどさ、最近は詐欺事件が多くてね。どんなに注意を呼び掛けても、ころっと騙されちゃうんだよな日本人は。性善説見たいのが根強いっていうか」
     同意する意味で池上も頷いた。西田は頷く池上を見て酒を飲む手が止まった。
    「なんかあるって思ってるんだけどさ。急に一緒に飲もうなんて電話してきたりして。なに? 何企んでんの」
     確かに昔なじみの西田には池上の突然の誘いに一抹の企みを見抜けない訳が無い。
    「実は」
     池上は気になっている「椿谷芳樹強盗殺人事件」の名前を出した。
    「十年ほど前の未解決事件だね」
     西田は、池上の要件に関して首をひねった。
    「十年、何もしてないって訳じゃないんだけどね。遺留品も少ないし、だけど解決できない事件じゃなかった。初動捜査がミスったな。」
     椿谷の事務所は事務員、息子、本人の指紋は勿論だが、複数の指紋が検出された。だが、容疑に上がっていた幾人かの指紋は撮れていない。  遺留品の中には椿谷家族が決して手にしないガムの包装紙の切れ端があった。あまりにも小さくて指紋は取れなかったが、よく流通していた国産のガムだった。事件のあった年の一月は冷え込み、乾燥気味だった。靴底には乾いた土がついていたと思われたが、それも空気によって埃のように事務所中に散っていったに違いない。結果、手当たり次第に容疑者を挙げて尋問していったが、どれもアリバイがあり、確定には至らなかった。 
    逮捕にまでこぎつけたが嫌疑不十分で釈放される案件が出たことで上層部は慎重になった。しかし、池上刑事は上層部と真っ向対立し、積極的に事件を追うべきと主張した。
    「あんたが辞めて、そう言った意味で、上層部からの慎重論に真っ向対抗できる刑事が居なくなった。池上刑事が居たらと思うが、まあどうかな。ま、この話はやめましょう」
     西田は当時の呼称で池上を刑事と言い、当時を懐かしんだ。だが、なんとも煮え切らない言葉で西田が事件のあらましを締めようとした。池上は事件の解決にケチが付いたとはどういうことか知りたかったが、それ以上の追及は控えた。
    「それで」
     と池上は何も反論する事もなく、本題に入った。逆に話がしやすくなったと感じた。
    「私にもう一度、その事件を調べさせてはもらえませんか」
     突然の申し出に、西田は直ぐに頭を振った。
    「無理だよ。現役刑事でもない貴方に、それは無理」
     確かに西田の言う通りだ。そんな答えは池上にも予想できた。
    「そうですよね。ただ、私も少し残念で、あの時退官した事に後悔は無いのですが、この事件だけは。西田警部のおっしゃる通り私も関わっていた事だし」
    「だからあの時忠告申し上げたじゃないですか。退職だなんて言わずに長期の休みでも取ったらって」
     確かに当時の西田刑事は当時の池上刑事を引き留めた。池上が息子の不運な死を仕事に没頭する事で乗り越えたように西田には見えたようだが、それは表面的な事だった。池上にはもう二度と仕事に逃げるような真似はしたくなかった。心ゆくまで病に伏す妻と過ごすと決めたのだった。
    「暇を持て余して、刑事ごっこでも始めるつもりかね」
     西田の口調が部下に嫌味を込めて叱責しようとしているかのようだった。子供のようにごっこ遊びと揶揄されても池上は今西の言葉を素直に受け止めざるを得なかった。
    「確かに、そう思われても仕方が無いですね。全く馬鹿なお願いでした」
     最初から答えは分かっていたのに、どうしてそんな漫画のような無理を頼んだのか。年寄りが昔の職業にしがみ付き、独断的な思い込みから無理難題を吹っかけているような気がした。西田は池上の素直過ぎる反省の言葉に、少し気持ちが動いた。
    「で、何がしたいの?」
     その言葉を待っていたかのように
    「今は警察関係ではないので、私がもう見る事の出来ないような資料を、あの事件に関してですが、それを私に見せてもらえないか。無理なお願いですが」
     と池上は要件をまた持ち出した。それには西田は池上の持ち前のしぶとさに、苦笑いが浮かんだ。
    「で? どうするつもり?」
    「中途半端にかかわったあの事件の解明をしたいだけなんです」
    「あれから新しい資料と言っても無いですよ。細々と調査は進めてますがね」
    「担当は誰ですか」
    「鮫嶋という刑事だが。刑事でもない君が係わるって事、嫌がるんじゃないかな」
     池上の知らない刑事だった。
    「申し訳なかった。流石に出来ない相談だった」
     申し訳なさそうにきっぱり言う池上に、警戒しながらも西田はあからさまに拒否する事も出来なかった。
    「そうですね。しかし折角の申し出だ。ごく内密に言って、出来ない事ではない」
     と言った。
     池上は新宿署の方に話を通しておく約束を西田と取り付けた。西田は腕時計に目を落とし、2日後の17時00分と警察関係者らしい時刻指定をした。
    「持ち出しは禁止だよ。それに、他言は無用。池上刑事の折れたと見せて相手の懐に入り込む所は昔と変わらんね」
     そう言うと、西田は席を立った。酒も肴も残っていた。これ以上何も聞かないよと言う西田警部の無言の圧だった。立場の違いはあっても、それは、昔の仲間に対する西田の情と感じて池上は頭を下げた。
    西田が去って直ぐに池上も店を出た。
     自宅への帰り道、池上は久しぶりに飲んだ酒の酔いを、夜のささやかに吹く真夏の風は体にまとわりつく暑さを少しは和らげた。看護婦になった娘サクラの言葉を思い出した。
    「お父さん、仕事に戻りたいんじゃないの?」
     池上は「もう十分やったよ」と返事をした。本当にそうなのかと自問自答した。
    巡査になったのは、父親が同じ巡査だったこととは関係ない。  
    ただ、親の姿を見て自分が生涯安定して暮すには公務員になる道しかないと考えたからだ。
     だが、巡査から刑事になって、冷静に多くの事件を追えたとしたら、きっと天職だったのではないかと今なら思えた。それをすっぱり切った十年前の判断を悔いる事は無かった。その一方でやり残した仕事に、挑戦出来る喜びを感じた。確かに自分はまだ仕事に未練があるのだと苦笑した
     夏のそぞろ歩きにはぴったりの夜だった。七夕らしく暗闇迫った空には珍しく星が良く見えた。きっと、彦星は織姫に会えただろう。一体何を話しているのか、ふと池上は亡くなった妻と息子を思い出した。織姫と彦星だけではない。地上で離ればなれになった母と息子が、あの銀河の何処かで巡り合っているのかもしれないと、ふと柄にもなくセンチメンタルな気持ちになった。
     池上の前を歩いている男の足取りに目が行った。軽やかさと確信に満ちていた。
     そこに突然空から何かが、その男の右わきをすれすれに落下した。
     
                  二
     
     「鐘半(かねはん)」は四十名近い社員を抱える繊維関係の専門商社だ。十年前から社の総務課の課長として働いている米倉進は今日、七月七日の七夕の日に五十歳を迎える。
     実家の箪笥の引き出しにある米倉進の名を記した母子手帳には、1969年(昭和47年)7月7日、午後10時出産と記載されている。午後五時現在、米倉はまだ生まれてはいない。
     米倉はデスクのパソコンをスクロールしていた手を止めた。米倉はデーターに気になる箇所を見つけて顔を上げた。そして今部屋に誰も居ない事に気が付いた。部屋の壁掛け時計が五時十分を指していた。千葉も津田もすでに帰宅したらしい。多分誰ともなく「お疲れ様」だの「お先に」だの声を掛けたとは思うが、米倉はそれに気が付かないほど、パソコンに入力されていたデーターを見ていた。
     総務課は米倉含め三人の社員で、会計やら社内設備の管理やら人事に至る様々な雑務をこなしている。 
    今、帰宅したと思っていた千葉ユキの赤く染めた髪が机の上の書類の上を右に左に動くのが見えた。
    「千葉君、時間が過ぎているよ」
     息子の保育園の迎えの為に一番先に退社するはずのユキに米倉は退社時間が過ぎていると知らせた。ユキは何か探し物をしているようで「承知です」と言わんばかりに軽く頭だけを上下に振った。
     それから顔を上げて米倉を見た。
    その顔にはいつもの笑顔が無い。
    「ないんです」
     38歳の千葉ユキが10代の女の子のように不安げな声を上げた。米倉は「無いって何が?」と声を掛けた。
    「今朝貰った契約書です」
    「あの、角田商店の?」
    「はい」
     門田商店は大手の生地問屋で、今朝大型の契約を結んだばかりだった。その契約書が見当たらないと言う。ユキの狼狽ぶりに米倉も席を立ってユキの机の周りを探り始めた。
     几帳面に整えられたユキの机の上には何もなかった。閉じられた、ファイルを一つ一つ点検もした。この総部で信頼できるのは千葉ユキだと思っていた米倉は、「書類が無い」とうろたえるユキの姿に驚いた。
     入社して三十年のベテラン社員の津田の机の上はゴミ一つなかった。総部の次の課長は自分だと思っていたが、突然外部から米倉がやってきて津田の気持ちは長く落ち込んでいた。
     米倉は津田のパソコン周りの整理された書類の中に透明ファイルの角が少しはみ出でいたのに気が付いた。几帳面な津田が多分急いで書類の中に突っ込まれたものが何か気になった。
     ユキは米倉の視線の先のファイルをそっと引き抜いた。
    「ヤダ、ありました。こんなところに、でもどうしてかしら」
     一目見て直ぐに探していた契約書だと確認したユキは、少し間をおいて、「そうか」とつぶやいた。
     つぶやいたが、はっきりと言葉にはしなかった。ただ、津田は何かが起こり、それを自分自身で解決するたび「米倉課長の首が繋がったな」と言う。それがユキのつぶやきの原因なのだ。
    米倉にはユキが言いたい事が何なのか理解したようで、苦笑しながら「揉め事は沢山だ」と言った。書類をユキの手から受け取ると米倉はキャビナットに入れ鍵を掛けた。
    「千葉君、お子さんのお迎え、大丈夫なの?」
     米倉からそんな個人的な声を掛けられたことが無かったので、ユキは驚いた。喜怒哀楽が控えめで、米倉は仲間の私生活に関心を示さなかった。
     ユキは人事の関係で米倉の個人ファイルを見る機会があった。
     米倉は国立大学卒業後大手商社に入社。海外勤務も多く、バリバリの商社マンだったようだ。所謂、商社マンとして充実した時期に突然会社を辞め、「鐘半」のような中小の専門商社に移って来た。やり手の商社マンだったという噂が入社前にあったが、実際の米倉の物静かな印象から、激務の大手から打ち破れて移って来たのだろうという評価に代わった。因みに家族の欄は空欄であった。
     ユキは何事もなかったように席に戻った米倉に声を掛けた。
    「あの、課長」
     声をかけたものの、ユキに一瞬ためらいが起こった。だが、一呼吸置いた後
    「あの、課長。良かったら我が家にご招待したいのですが。今日は息子の誕生日で、もし良かったらですが。急にで、あの、もし、今夜予定が無かったらですが、如何ですか」
     と一気に声に出した。
     突然のユキの申し出に、直ぐには意味が掴めず、米倉は返事が出来なかった。
    「あの、大事な書類を見つけて頂いたお礼です」
    「気持ちは有難く貰っておくよ」
     米倉は苦笑交じりに応えた。
    「誕生日祝いと言ってもたいしたことはしないので。誘っておいて却って失礼ですよね。すいません」
     ユキはいつもの笑顔を米倉に向け、そして頭を下げた。
    「折角だから、よばれようかな」
     米倉はどういった心境の変化からか、パソコンを閉じて、恐縮するユキと一緒に会社を出た。
     会社のある駅からバスで30分ばかりの停留所で降り、歩いて15分の細い裏道にあるアパートに着くまでの間、米倉もユキも言葉を交わす事が無かった。ユキから見て米倉は招かれた事を喜んでいるのか迷惑と思っているのか読めない。仕方なく来ているのは間違いないだろう。だが、そう嫌がっている風でもない。何とも米倉の気持ちが掴めないのはいつもの事だ。
     米倉を自宅に誘ったのは、突発的な出来事ではあったが、洗練された米倉の立ち振る舞い、はユキにとって気になる存在でもあった。  二階建ての古いアパートが目の前に来た時、ユキは初めて口を開いた。
    「あの、驚かないで下さいね。部屋は狭いし、汚いです。その、誕生日会と言っても、息子の好きな唐揚げ位だし、お酒は缶ビールしかありません。お招きしといてなんですが、本当にすいません」
     ユキは突然の誘いにもかかわらず、米倉が快く応じてくれたという現実を目の当たりにし、冷静になった。赤く染めた髪の癖毛がいつもより跳ねている。自分の発した言葉の合間にそれが気になるようでしきりと髪に手をやった。「
    「止めてもいいですよ。そんなに気にするなら」
     米倉は優しく言った。
    「とんでもありません。私の、つまり、言い訳です。課長が驚かないように前もって言っておこうかなと」
     米倉は笑って、ユキが階段を上がる音に付いて行った。
     部屋のドアを開けると、クーラーの涼しい風を感じた。靴を脱ぎ始めた米倉の耳に、先に部屋に入ったユキと若い男の声が聞こえていた。何やら揉めているようだ。米倉は脱ぎ掛けた靴を再び履き直し、そっとドアを締めた。
     階段を下りた時、ユキが慌てて追ってきた。
    「課長、違うんです」
     揉めていた若い男はユキの弟の秀介だった。
     人見知りが激しく、突然連れて来た米倉にパニックになったのだと説明した。
    「それなら尚の事、今日は帰るよ」
     だが、ユキは米倉の腕を引っ張り部屋に連れ戻した。
     部屋は二間に台所で、確かに古い作りだったが綺麗に掃除されていた。
     ユキの息子は自分の誕生日祝いに無邪気にはしゃいでいた。名前はケンと言った。色の黒い子で、黒くウエーブがかかった髪の毛が頭を覆っていた。一目で父親は外国人だと分かる子供だ。五歳の誕生日を迎えたばかりの無邪気さとかわいらしさがあった。
    「ここに座って」
     とケンは米倉に席を示した。母親のユキ、叔父の秀介、最後に自分の席を定め十分に主催者としての役目を果たしているかのようだ。
     ユキは帰宅して直ぐにてきぱきと用意していた材料を調理し始めた。テーブルの上にはあっという間に唐揚げだの手巻き寿司だのが並んだ。
    「さあ、食べましょう」
     缶ビールからプッシュと音がはじけ、「ケンちゃん、誕生日おめでとう」とこれから息子の為の誕生日会の始まりを知らせた。
     ユキは秀介に米倉を「職場の課長」だと簡単に紹介した。米倉は秀介から特に語り掛けられる様子もなかったので、ただその場にいた。
    テーブルの上のポテトフライをケンは嬉しそうに口に入れる。油で光る手を何度も振り、幼児番組で人気らしい歌を繰り返して歌い踊った。ケンは人懐こく、見ず知らずの大人の存在さえ嬉しそうだった。その様子が誰もが子供に抱く暗黙の微笑みを引き出し、自然とその場を盛り上げていた。
    「上手ね、保育園で習った歌、何だっけ。ケンちゃん歌ってよ」
     ユキは母親らしくケンにリクエストをする。ケンはしばらく考えて
    「きらきら光る、お空の星よ……」
     とケンは真剣に歌いだす。
    秀介は頑なに米倉を見ようとしなかったが、可愛いケンの仕草には目を向けた。米倉もケンの歌に合わせて何度も手拍子で盛り上げた。
    米倉の胸の中で、「きらきら星」がいつの間にか英語の歌詞に代わり胸の奥深く閉じ込めていた思い出が顔を出した。
     twinkle twinkle little star……
    妻の美紀子は聡の教育に熱心だった。3歳から通っていた英語教室で習いたての「きらきら星」を、息子の聡が大きな声で歌っている。妻の美紀子がユキのように手拍子を取って何度も一緒に歌っている、そんな幻想を見ていた。米倉をその幻想から引き戻すようにユキの声がした。
    「さあ、おとなはビールで乾杯しましょう」
     と何度目かの乾杯の音頭を取った。ユキは米倉の沈黙が、弟秀介の不機嫌な態度のせいだと思っていた。このおとな達の気まずい状況を何とかユキなりに改修しようとしていた。
     今日の主役のケンは上機嫌ではしゃいでいた。大人の周りをクルクルと移動し、初対面の米倉にも臆さず、保育園の話やゲームのことを話しかけていた。米倉は「そう、楽しそうだね」と共感した。いつしか米倉の膝の上に座り込んだケンの体の温かさを感じる。だが米倉は幾分落ち着かない気分になる。しかし、いつしか疑似家族団らんの中に溶け込んでいった。
     お楽しみのバースデーケーキに蝋燭が5本灯された。ユキは部屋の明かりを消して「ハッピーバースデー」の歌を率先して歌い、更に誕生日気分をケンの為を盛り上げた。それは米倉にも秀介にも伝わったようで二人は声を出し、期せずして一緒に歌い祝った。
     秀介はケーキを食べ終えると帰り支度を始めた。米倉は呼応するように「私もこれで」と言って立ち上がった。
     ユキは「あら二人とも?」と言ったが無理に押し止める事もなかった。ケンは「帰っちゃだめ」と秀介の足にしがみ付いていたが、好きなテレビ番組に惹かれて離れて行った。
     
     米倉は秀介と連れ立ってユキのアパートを出てバス停まで来た。
    「じゃ僕は此処で」
     と、秀介が言った。
    「この近くにねぐらがあるんで」
     秀介は立ち去ろうとした踵をふと米倉に向けた。
    「良かったら、来ませんか? 安いウイスキーならありますんで」
     と米倉を誘った。
    この十年他人との関りを避けて来た米倉だが、今日はどういう風の吹き回しか知らないが、ユキといい、秀介といい一気に個人的なつながりができてしまった。
    今夜は素直に秀介の誘いに乗ってみる事にした。
    確かに秀介が言った「ねぐら」の指し示す言葉の通り古いビルの地下に繋がる階段を降りると、倉庫のようなむき出しのコンクリートの空間に案内された。
     住居らしいものと言えば一台のベッドと中古の小さな冷蔵庫。古い勉強机の上に2台のパソコン。一台はデスクトップに繋がれ、もう一台は画面がグラフを映し出していた。その傍に数冊の専門雑誌や参考書があった。パソコン画面は薄暗い部屋で浮かんでいるように見えた。
     秀介は米倉に年季物の色褪せた茶色い布で覆われたひじ掛け椅子を勧め、紙コップにウイスキーを数センチ注ぎ入れた。
    「パソコン好きなの?」
     2台並んだパソコンが気になった。変な質問だと思ったが、ゲームをしているようには見えなかったので米倉の質問の意図が曖昧になった。
    「まあ、将来はリサーチの仕事でもしようかと。勉強中だけど」
     と、秀介が答えた。
    米倉は紙コップのウイスキーを口に含んだ。
    「安物どころか、久しぶりに飲んだ上等品ですよ」
    と、米倉はウイスキーの感想を述べた。
    「バイト先で勧められた酒です。格安で譲ってくれたもんですから」
     秀介は酒の問屋で運送のアルバイトをしている。酒の入った箱は重く、それも毎日何箱も得意先に配送して回る。体は自然に鍛えられた。
     筋肉質で体つきはしっかりして見えた。本来は色白なのだろう、日焼けした顔は少し赤くなっていた。ユキと似て、目がくっきりとしていた。息子の聡が行きていれば同じ年頃だと思って聞いてみた。やはり「26歳」だと言った。
    「君たち姉弟は仲が良いんだね」
     と言った米倉の言葉に、秀介は
    「そうですか? 2人とも……つまり、姉は未婚のまま外国人の子どもを宿しシングルマザーに、私は登校拒否で中高とドロップアウト。親の希望をことごとく打ち砕いた子どもたちって訳で、親から見放されても仕方ない。今は二人で支えあうしかないんです」
    「そうか」
    親に見放された境遇と聞いて米倉の心が痛んだ。他人の人生を垣間見た居心地の悪さだった。そしてそれを敏感に感じ取ったようにまた秀介は黙った。
    「将来はリサーチの会社か、良い所に目を付けたね」
     机の上のパソコンに目をやり何とか秀介に話題を振った。
    「独学だけど」
     秀介がぽつりと言った。
     何処の企業も顧客の動向は気になる。統計やアンケート調査もよく使い、顧客の好みや流行りを何処よりも早く掴みたい。
    何より、そこから得た情報のデータ分析は必須だ。秀介が挑戦しようとしている分野は間違いなかった。
    「さて、そろそろ帰るとするか。思いがけなく楽しい時間だった」
     この言葉は米倉の真実の言葉だった。腰を上げそうな米倉に
    「あの、姉さんのことどう思ってるんですか?」
     と、秀介が激しい口調で問い詰めた。いきなりだったが、米倉は
    「どうって。君のお姉さんは優秀な社員で助かっているよ」
     と、落ち着いて返答した。
    「そうじゃなくて、あの、女性としてどう思っているかです。僕が聞いているのは」
     あまりにも予期しない質問に米倉は一瞬困惑した。千葉ユキを女としてどう思っているのかと問われても、答えに窮した。
    「妻も十年前に亡くしてね。私はもう二度とそんなことを考える気にもなれない生活を送って来たんだよ。君や千葉君にも大変な時期があったように私にもそれなりの人生があってね」
     秀介はじっと米倉を見た。
    「そうですか。僕はどうも早とちりしてしまったようです」
     秀介が米倉を彼の「ねぐら」に誘ったのはそう言った意図があったのかと米倉は思った。大事な息子の誕生会の日に、突然姉が連れて来た中年の男を、品定めしたかったのだろう。秀介はユキの男を見る目に疑いを持っているようだ。
     米倉と秀介は同時に、紙コップの底に残っていたウイスキーを飲み干した。それが、米倉の帰宅を促すサインか何かのように感じて米倉は「ねぐら」を後にした。
     
    米倉は自宅に戻る道すがら、この十年の間、押し殺していたはずの感情が蘇ってくるのを感じた。
     長く忘れられていた家庭の甘く細やかな幸せが、子供の誕生日やら、手料理やら、心からの笑い声によって呼び覚まされたかのようだった。その上、秀介から感じ取ったユキの自分に対する好意など、どれ一つとっても、遠い昔に置いてきた物だった。
     米倉は禁欲的な生活を進んでしていた訳ではない。自ら幸せを求めるなど、してはいけないと自然に思い込んでいた。何故なら、と考えを巡らせていた時、何やらものすごい勢いで物体が米倉の右肩から脇、足を通りコンクリートの道の上にドスンと落ちた。
     米倉は落ちてきた物体の風圧に押されて腰を抜かした。
    「大丈夫ですか」
     と米倉の後ろを歩いていた初老の男が駆け寄り声を掛けて来た。米倉は微かに頷き、必死に態勢を整えようとした。
    「そのまま動かないで、今救急車が来ますから」
     男の冷静な声は米倉を安心させた。通りにはすでにパトカーが止まっていた。警官が二人、マンションから慌てた様子で出て来たのも米倉は見た。
     米倉はマンションから出て来た警官たちに向かって男は何か話しかけていた。
     そして、男は米倉の方に戻ると
    「驚きましたね。貴方をかすめて落ちて来るなんて。数センチ右にずれていたら巻き添えになっていた。運が良かった。私、池上って言います」
     と言った。
    コンクリートに流れるどす黒い血が天から降って来た男の頭から流れ出ている。
     米倉が突然の出来事に腰を抜かし、震える体を支えられず、いつまでもその場にいた。池上と名乗った男から何度も気遣うように「大丈夫ですか」と優しく声を掛けられ励まされた。
    米倉はそれに頷き、必死に立ち上がろうとした。突然吐き気が襲い、ユキの家で食べたものがぐわっと口から吐き出された。
     救急車のサイレンが近づいてきた。
     米倉の呼吸も荒くなり、結局病院にまで運ばれて鎮静剤を打たれた。
     次の朝早く病室で目覚めた時、米倉は介抱してくれた男が一晩中待合室に居た事を知った。誰かに連絡する人はいるかと聞かれたが、誰も居なかったからだろかと思った。それにしても親切な人だと米倉は感じた。男の名は池上と言っていたのを思い出した。
     思いがけない出来事があって、米倉は病院の一室で50歳を迎えた。
     
                 三
     
     次の日の早朝に自宅に戻った米倉はソファーに腰かけ長い時間頭を抱えていた。まだ死んだ男の映像がくっきりと頭に浮かび、体が震える。
     朝食は喉を通らなかった。テレビのニュース番組から、昨夜の落下事件を伝えるアナウンサーの声がした。米倉はテレビのスイッチを切ろうとしたが、男の情報を伝える声にその手を止めた。
     亡くなった男は警察が内偵していた詐欺グループの一員だと伝えた。死んだ男の名前は海老沢劉生と告げた。アナウンサーは男が死んだ理由を説明していたが、そんな理由などは米倉の耳には入ってこなかった。
     米倉は落ち着きを無くし、部屋をグルグル回ると、箪笥の上の仏壇から位牌を二つ取り出しテーブルの上に並べて置いた。
    一つは息子の聡で、十五歳の時いじめを苦にして、当時住んでいたマンションの屋上から飛び降り自殺をした。地面に落ちた海老沢劉生が頭から血を流している状況は聡の自殺現場を彷彿させ、米倉を酷く混乱させたのだった。
    もう一つは妻の美恵子の位牌だ。息子の聡を追って風呂場で手首を切った。38歳だった。
     米倉は大手小事会社に勤め、第一線で活躍していた。将来を有望視され、仕事に生きがいを持っていた。
     聡が顔に痣を付けて帰宅した時、学校に抗議した。安心して学校に子どもを預けられない事に対する抗議に対して初めは上手くいったように見えた。しかし、いじめは誰にも気付かれずに奥深く心へと攻撃を始めていた。
     そして聡の、親には心配を掛けまいとした心が、ある日、限界突破し自ら命を絶ってしまった。
     美恵子は、米倉や周りの励ましや労わりが耳に入ってはいなかった。ただ一筋、我が息子への愛で一杯だった。聡の悲しみをわが身に受け、三途の川まで聡を追いかけて行ってしまった。
     二人の自死は、父親米倉へのバッシングや誹謗中傷になっていった。
     その裏には有名進学校だった高校からの口留めが原因で、自ら抗議する手段がなかったからだ。一時のいじめ問題は時間がたつにつれ、社会が持つ自死への偏見や差別に移っていった。いじめられる側の責任転嫁だった。その片方で子煩悩な父であり、妻を愛する普通の家庭人だったと自負していた米倉はだったが、家族を救えなかった父親に対する攻撃に米倉はだんだん自信を無くしていった。
     米倉は会社を辞め、口を閉ざしひっそりと十年の間一人で暮らしていた。
     米倉は聡がメモ書きに残していた一枚の紙を財布から取り出した。もう幾重にも折られた線が薄くなり破けそうになっていたが、捨て去る事が出来なかった。亡くなった時、聡が着ていたポケットに入っていた紙だったからだ。両親への感謝や詫びの言葉はなく、ただ四人の同級生に名前のみが書いてあった。
     望月一輝
     鈴木潤矢
     森下健司
     海老沢劉生
     
     それが何を意味するのか、米倉には痛いほど分かった。聡を死にまで追い込んだ奴らの名前に違いなかった。親に何も残す言葉が無かったがこの名前だけを残した重みが、ずっと米倉の胸を締め付けた。
     当時、死んだ聡の無念を晴らしたいとは思ったが、いじめていた同級生は生きていた。学校も社会も生きている人間に対して寛容であった。彼らは多少なりとも責任の一環はあると認められても、やはりこれからいかに生きていけばよいのかと諭すくらいが関の山だった。
     今、米倉は海老沢劉生の死のニュースを聞いた。マンションのベランダから落ちてきた男の名前が海老沢劉生だと聞こえた時、米倉は奇妙な気持ちになった。次第に体が震えた。当時、司法に訴えても、世論に訴えても結局は死者の声は届かなかった。米倉は自分の無力さを嘆くだけだった。どうする事も出来なかった。当時の米倉は黙ってその紙を長い間財布に潜ませていた。ただそれだけだった。
    朝刊の片隅に乗った海老沢劉生の死を乗せた記事を何度も読んだ。事情を聞くために現れた警官から逃れようとベランダから逃走を企てた。その果ての転落死とは願ってもない顛末だ。海老沢劉生が死んで、聡が自分以上に喜んでいるように感じた。その時米倉は仇討ちの良い方法を考えついた。
    米倉の携帯が鳴った。取った携帯から女の声がした。
    「課長ですか? 千葉ですが」
     出社時間が過ぎていた。心配したユキが携帯にかけて来たのだ。咄嗟に昨日の顛末を話し、「今日は休む」と米倉が言った。心配そうに詳しい話を聞き出そうとするユキに
    「大丈夫だから。連絡が遅くなったが、今日は少し体調が悪くてね」
    「大丈夫ですか」
    「ああ。私の事はあまり気にかけなくていいから。仕事の事は頼んだよ」
    「はい……。あの、昨日はすいません」
    「昨日? ああ、誕生日会の事? 楽しかったです。ありがとう。それから、私は結構一人暮らしを楽しんでいるから、気を使わなくって良いんだよ」
     昨日秀介から、ユキに対する気持ちを聞かれたのを思い出した。
    昨日死んだのは海老沢劉生でなかったら、もしかして米倉は、もっと電話で愛情深くユキと会話を楽しんでいたに違いない。もしかしてユキと次の約束をしていたかもしれない。そうして新しい人生が始まったかもしれない。幾つものもしかしてが、米倉の心から消え去った。今は過去にやり残した事をやるまでだ。今迄死んでいた魂が蘇ったのだ。米倉の顔に笑顔が戻った。
    米倉は計画を始めるにはまず紙に書かれた聡の同級生の今を知る必要があると考えた。
     秀介がパソコンで色々検索していると言う話から、昔、米倉はそんな仕事を得意としていた事を思い出した。そして米倉はコーヒーを淹れ、一息ついた。
     
                四
     
     池上は約束の日、十年ぶりに新宿署を訪れた。受付で名前を言うと、当時更衣室で使っていた部屋の鍵を渡された。西田警部からの直々の伝達だからなのか、その警官はまともに身元チェックをしなかった。
     今では顔見知りの刑事もいない。廊下を通る制服組も皆忙しそうだった。怪訝そうに池上を見る人もいたが、ほとんどの者は軽く頭を下げ通り過ぎて行った。池上はどことなく警察関係者の匂いをまだ放っていたに違いなかった。
     地下の部屋は更衣室の面影を残していた。壁に並んだロッカーはそのままで、段ボール箱がうず高く積まれていた。中身はいずれ処分されることになっている。
     スチール製の古い机が一つと、椅子が一脚あった。それらは綺麗に掃除されていた。西田は部下にどう伝えたか知らないが、池上がここに居て調べ物をすることを知っている者はいないようだ。池上を余計な事に首を突っ込む厄介者、秘密の存在者その扱いは気になる。それにしても、こうして安心して調べ物が出来るのは良いことだった。何もかもが完璧でなくても良いのだ。過去の未解決事件に関われたこと、それ自体が幸運だった。
     机の上には約束通り、「椿谷事件」に関する最新情報が茶封筒に入って置いてあった。
     池堂は袋から情報を取り出す。一枚一枚当時の調書を丁寧に読んでいく。自分が関わった事件なので懐かしくもあった。
     2001年(平成13年)10年前の「椿谷事件」は、当時直ぐに容疑者たちが逮捕されている。22時ごろ数人の男たちが慌てた様に家から出て来たと当時の聞き込みにはそう書いてあったが、男が若者に変わり、更に調書によると、目撃者はおらず、部屋で走る足音を聞いたとなっていた。
    その証言からコンビニでたむろしていた17歳から19歳の男たちが調査時に浮かんだ。万引きや恐喝の履歴もある。部屋を荒らし、金庫を開けさせ、現金を取る。殺人は行き当たりばったりの出来事だろうと当時捜査官たちは判断した。
     しかし池堂はその判断に慎重だった。何故なら逮捕された彼らは犯罪後、コンビニで酒を飲んでいたからだ。49万の金を手にした今時の若者なら女遊びのできる、それ相当の店に行く筈だ。暫く時間を置いたとしても遊ぶ金欲しさの犯行ならなおのことだ。だが逮捕された者達にはアリバイがあった。
    解剖による検視報告書を読んだ。死因は大動脈破裂による出血性ショック死となっていた。被害者椿谷は心臓に病を抱えていた所、何らかの要因があり死に至ったようだ。
     参考人として尋問した人数は多かった。椿谷商店は駅に近くはなかったが、周りに学習塾やコンビニがあり、マンションも何棟かあった。
     池上が事情聴収を受けた人の名簿を確認していると、カタン、カタンとコンクリートの階段をゆっくり降りて来る足音がした。ドアをノックすると同時に姿を現したのは背広姿の若い男で、緊張した面持ちでい池上の前に立った。
    「刑事の鮫嶋です」
     とその男が言った。西田警部の言っていた「椿谷事件」を担当している刑事だった。
    「どうですか」
     自己紹介の後、鮫嶋刑事は遠慮がちに抽象的な質問をした。
    「大丈夫ですか」
    「ええ、ご心配有難うございます」
     池上は調べ物の手を休め、改めて鮫嶋刑事を見た。鮫嶋は若く明るい目をしていた。刑事になって二年目だという。池上の事は何も知らない筈だが「大先輩と聞いてます」「今西警部からは勉強するようにと言われてきました」と立て続けに言った。
     自分の担当している事件に元刑事が口出ししてくるのは不愉快だろうに、鮫嶋刑事はその様な言葉はおくびにも出さなかった。
    「当時椿谷さんの店に大金があると知っていたのは誰なんです?」
     書類の中にはそう言った記述が書かれたものは見つからない。
    「息子の修一さんの話では常にと言う訳ではないが手元にはそれぐらいの現金は用意していたようです。まあ、それを知っていたのは父親と息子、あとはパートの女子事務員だけでしょう」
     女子事務員は近所に住む67歳の高齢者だった。
    「そうですか」
     第一発見者の修一は当然容疑者に挙げられたが、当時付き合っていた女性が居て、その女と一緒に過ごしていたと女によって証明された。今はその女と一緒になり五歳になる娘がいた。
    「他に何か、気になる事ありますか」
     鮫島は中嶋が手にしていた名簿に目をやった。
    「この、事情聴取をした名簿ですが」
    「はい。なにか」
    「この事件と関係があるか分からないが、この海老沢劉生って名前、結構珍しいですよね。この間マンションから落ちた、あの、海老沢劉生と同一人物かな? 何か聞いてますか」
     池上との短いやり取りで名簿を覗き込んでいた鮫嶋刑事は頷いた。
    「間違いないです。報道では住所不定となってますが、確か実家は飛び降りたマンションでした。当時、マンションには両親がいたそうです」
     鮫嶋は指で海老沢を示した。
    「この海老沢って奴は詐欺事件で内偵していたんですがねえ。事情聴収の為に署に同行願おうとしたら奴はベランダから逃亡を図って、誤って下に落ちたんです」
     鮫嶋刑事は詐欺事件の方に関心があったようで饒舌になった。詐欺事件はいろいろな形を変え、今では重大な社会問題になっていた。オレオレ詐欺やなりすまし詐欺など、派手な通称名が付き新聞誌面を賑わせていたが、こういった特殊詐欺に騙される人は後を絶たなかった。
    「この詐欺事件は奥が深いですよ。海外にアジトがあるようで警察も本腰を入れてます」
     だが、椿谷事件に関して言えば鮫島刑事は冷めた調子で
    「10年前にその時事情徴収受けたからって、奴は関係ないでしょう。たまたま偶然じゃないですか」
     と言った。「偶然」という言葉は刑事の判断を曖昧にさせる。
    池上は海老沢がマンションから落下した時、危なく巻き込まれそうになった男の後ろを歩いていた。
    鮫嶋刑事が言った偶然と言う言葉に引っかかった。偶然には何の意味もないのかと池上は思った。
    「どうして当時海老沢は事情を聴かれたのかね」
    「当時は16歳ですね。被害者の椿谷さんの近くの塾に通っていて、多分帰宅時間にその近くにいたようで、彼だけじゃなくて塾の他の仲間と一緒に事情を聴かれてます」
     海老沢は有名進学高の生徒だったようだ。海老沢の他にも名前があった。
    「容疑者として逮捕されたのは、コンビニ前でたむろしていたヤンキーだったんですが」
     結局、鮫島刑事が言うところのヤンキーたちは店の防犯カメラによって事件当時のアリバイが証明され、放免となった。
    「もう一度、息子さんに話を聞いてみてはどうですか。また何かわかるかもしれませんよ」
    「息子が怪しいって事ですか」
    「否、どうして椿谷が狙われたのか、そう、本当に偶然だったのか。なんとも気になりますね」
     ここでも偶然と言う言葉が出た。
    「もう息子にはさんざん話を聞いています」
     鮫島刑事は被害者椿谷の息子にはもう聞ける情報は無いと言った体で話を切った。
    「わかりました」
     素直に引き下がった池上に、どう思ってか
    「10年も未解決だった事件です。もう一度息子に当たってみるのもいいでしょう。池上さん、ご一緒にどうですか」
     と鮫島刑事が言った。西田が言った「引き下がったと見せかけて、相手の懐に入り込む」作戦はここでも功をなしたようだ。しかも聞き込みに立ち会えるとは池上にとって思いがけない誘いだった。
     
                 五
     
     7月に入って久しぶりの雨だった。昨日までの暑さの残りと雨による湿気で籠った蒸し暑さが体を覆う。吹き出てくる汗ではない湿気が体を覆う。米倉はシャワーを浴びた。
     シャワーを浴びながら昨日会社に突然であったが退職願を出した時の事を回想した。有無を言わせぬ強い決意に会社は米倉の申し出を受理した。
    当然のことながら課の二人は突然の出来事に面食らっていたようだった。
     千葉ユキは米倉に何か言いたげな表情だったが、最後まで何も言わなかった。ユキはあの誕生日会が米倉にとって不快な出来事だったのか、ユキの気持ちを察して離れていったのかと想像するすると何も言えなかった。一言そうだ言われる恐怖で言葉が出なかった。
     ケンの父親が突然アメリカに帰国した時も何も聞かなかった。帰国の理由が100あっても日本に残る理由が見つからないならそれも仕方がない。考えても詮無い事と割り切る癖がついていた。
     ユキは余計な言葉をかける事は無かった。
    津田は残念がってはいたが、「次期課長に推薦しておいた」と言われ笑みがこぼれた。また、米倉が退職する理由に興味があったが、余計な詮索をして、最後のチャンスを逃すようなことはしなかった。
     米倉はユキに昨日見つけたパソコンの中の不明金額を確かめるよう指示した。「それは、私がやります」と津田が言ったので「これからはしっかり間違いが無いように頼みますよ」と米倉は今までの経緯を頭に描き、津田に念を押した。津田は何とか米倉を陥れる事を考えていたので、もうその必要が亡くなった。これからのミスは自分の首に関わる事だと知って神妙な顔つきになった。
    二人の無言に気が付きながら言い訳めいた言葉で二人を納得させることはできないと感じた。
     これから自分が何をしようとしているか知らせる事は出来ない。
     
    リビングに戻り、聡の残した紙を見る。そこに書かれたひとりの名前を2本線で消した。海老沢劉生である。あの日、海老沢劉生は警察に追い詰められて自ら足を滑ってマンションから落下した。あれは天からの啓示だと米倉は思った。10年間眠っていた復讐したいという気持ちがあの出来事によって爆発したのだ。自ら手を下すことなく死に追いやることができる。それがあの落下事件がもたらした教示だと米倉は考えた。だが実際に手を下さなくても、死に向かわせようとする行為は教唆という罪もある。ここは慎重に行動しなければならない。
    世の中にはSNS、Instagram、Xなどなど情報は溢れかえっている。商社に勤めていた時代なら、常に顧客の動向が気になった。商社に勤めていたなら世界情報に接することはできただろうが、十年も社会と断絶していた米倉にとってすべてが新鮮だった。2017年はこういったネット社会が確立してきた時代でもあった。
    今の世の中は自ら発信して、インスタ映え狙いとか、そうやって自己アピールをする輩が多い。もし彼らがそう言った発信をしていれば直ぐに動向が掴めると考えた。
     先ずは望月一輝を検索した。一部上場企業の望月産業の次男と出た。マンション建設等で頭角を現した企業だ。現在父親は会長職で長男が社長、一輝は専務となっていた。
    26歳で専務。流石に同族会社。住まいは晴海のマンションでひとり暮らしと分かった。
     望月一輝の動向は難なく調べが終えそうだと判断し、米倉は次に鈴木潤也、森下健司と検索していった。
     鈴木潤也は望月産業の社員だった。たまにだがSNSで会社の不満を漏らしていたのが検索して出て来た。
    望月一輝と鈴木潤也の二人はグループの中でもとりわけ仲が良かったのだろうか。潤也のSNSによると、一輝が専務になった辺りからの不満が多いようだ。
     住所は中野のアパートだ。妻と一人娘がいた。潤也は家族持ちのようだ。それが何を意味するのか察しはしたが米倉は気にする様子が無かった。
    最後は森下だが、彼は何も引っ掛からなかった。だが、米倉の手が忙しく動く。ユーチューバーの花畑というアカウントの女性のあげた動画から「モリケン」というワードを拾った。
     どうやら花畑という名前の女性の誕生日会の動画らしい。数人の男女が写っている。その中の一人をしきりに名指しし、自分の彼氏と言っていた。花畑と名乗る女性は「彼氏、怒ってまーす」と奇声を発していた。
     確かに、手で顔を隠し動画に移らないようにしている。花畑は可笑しそうに彼を評して「彼って、×××なの」彼って何なのか、言っている言葉が分からない。クラッカーが立て続けに鳴り、嬌声が響いている。動画は終わった。
     一気に情報の渦の中に紛れて米倉は一瞬めまいを感じた。
    これは未来永劫続く仕事ではない。仇討ちが済んだら終わりだ。米倉は手帳に今得た情報を書き留めた。
     外は雨がやんでむせ返る暑さに覆われていた。シャワーを浴びて、さっぱりとしたはずが米倉の体はまた汗で濡れていた。
     
                  六
     
     池上と鮫嶋刑事は椿谷に向かっていた。十年前に訪れていたが、池上の記憶にあった古い問屋ではなく洒落たビルになっていた。
     応対した息子の修一はあの頃より少し肥満気味で、髪も薄くなり出していた。
     鮫嶋は新宿署の刑事と名乗り、今この事件を担当していると言った。池上の事を当時この事件を捜査していた刑事だと伝えるに留めた。修一に発見した当時の様子をまた一から聞く事となった。
     だが、10年前の記憶ははっきりしていて、池上の事も覚えていた。未だに犯人が検挙されてない現実に怒りを露わにしていた。
     だが、怒りのお陰か記憶が昨日の事のように鮮明に思い出されたようだった。修一は当時付き合っていた今の妻と遅くまで飲んでいたと証言していた。帰宅したのが零時を回っていた。
     裏戸が開いていた。疑問に思ったが酔っていたせいもあり父親がうっかり閉め忘れた位に考えていた。裏戸から事務所に入ると灯りがついていた。まず見えたのが散らかった事務所だった。父親が倒れているのを見て酔いも冷めた。
     慌てて携帯で警察に連絡を取った。
     修一は当時のことを思い出すと、今でもなぜ早く帰らなかったのかと後悔も蘇ったようで涙ぐんだ。
    「申し訳ありません。捜索は継続していますが」
     鮫嶋刑事の言葉にはやはり容疑者が定まっていない捜査状況が見え隠れした。
    「父にはいつも言ってたんですよ。もし強盗に入られたら、大人しく金を渡して抵抗するなって。幾分昔気質で悪い事は見逃さない的な父親でした」
     無念さがにじむ修一の声だった。
    「なにか、当時気になる問題でもありましたか?」
     池上の質問に、暫く考えて修一はある出来事を語った。
    「まあ、事件とは関係ないと思いますが」
    「何でも結構ですよ、気になった事があれば」
    「気になるって言うか」
     池上に促されて修一は事件の一カ月前にあった出来事を語り出した。
    その夜椿谷芳樹は町会の集会の帰りに、路地裏で煙草を吸っていた高校生たち数人を目撃した。
    そのまま黙って立ち去ろうとしたが防災対策は町会でも力を入れていたので煙草の火の始末の為にも一言声を掛けたくなった。
    だが、高校生たちはその注意をあざ笑い「消えろこのくそ爺」と言った。あの時の高校生たちの悪態は尋常ではなかったらしい。
    「何でも4人ぐらいいたそうです。いくら高校生でも多勢に無勢、親父はその時は黙って引いたそうだけど」
     賢明な対応だと池上は思った。
    「父親は生徒の校章で学校を突きとめて電話してたけど、学校の名前は覚えてません」
    「S高校じゃありませんか?」
     池上が言った。
    「ああ、そうそう。有名な進学高校ですよ。頭が良くてもろくな大人にならないぞって父親が言ってました」
     池上は当時事情を聞いた名簿から海老名劉生との関連で高校の名前を出した。
    「生徒の名前とか聞いてないかなあ」
     修一は首を振った。
    「もう十年ですよ」
     ため息交じりに修一が言った。
    「勿論、今は未だ捜査中ですから、色々な方から色々なお話を聞いて確認中です」
     と言った鮫嶋刑事に
    「そうですか。なんだか、早く解決しないと父親もなかなか成仏できなから。もう10年ですからね」
     修一は繰り返し10年と言った。事件を解決できない警察に苛立っていた。未解決事件は山ほどある。その未解決事件の関係者の諦めに似た悲痛な叫びが、修一の声になって池上の胸に届いた。
     それ以上の新しい話は無かった。
     池上は鮫嶋刑事と並んで歩きながら、息子の修一から聞いた情報を精査した。
    「死んだ海老沢劉生の容疑は詐欺でオレオレ系の、振り込めだったようだね」
     池上がそう語ったので、
    「裏には暴力団の関与がある筈なんですがね。海老沢は組織の名簿にはないようです。だがどこかの組織には属している筈だなあ」
     と解説した鮫島刑事の言葉に、彼が詐欺事件に大いに関心があるよだと池上には見えた。
     池上は最近の詐欺の傾向から海老沢劉生の立ち位置を考えていた。  警察庁は近年、暴力団は金の為ならどんな組織とも手を組む。そういった目に見えない、誰とでも組む今流の詐欺事件の解明に苦慮していた。 
    だが今は過去に戻らなければならない。
     鮫嶋刑事は椿谷の息子からの新情報を持って署に帰って行った。池上は聞き込みする中で、現役刑事ではない不便さを感じた。何故ならS高校に行って10年前の生徒の情報を得る事は出来ないと知っていたからだ。刑事でもない者が直ぐに情報を手に入れる術はない。当時事情を聞いた名簿を頼りに海老沢劉生と同時に話を聞かれた者たちにもう一度確認するしかないと思った。だが聞き出すための肩書が無い事が堪えた。
    鮫嶋刑事が池上を紹介した時「当時、事件を担当していた刑事」と言った。それは修一を安心させた。そのことを思い出すと、池上は過去に事件を担当していた刑事だったのは間違いないと苦笑いした。元刑事は使えると思った。池上は妙手を思いついたと頷いた。
     
                 七
     
     米倉は鈴木潤也の毎日の行動を調べていた。中野のアパートを出るのは朝7時半。7カ月になる一人娘を乳母車に乗せて駅そばの保育園に連れて行く。迎えはパートに出ている妻のようだ。きちんと役割分担を勤めていた。米倉はもし息子が生きていたら家族を持てていただろうか。そう考えると悲しみが沸き上がる。鈴木潤也の今の生活を見ても
    計画を止める事は無かった。
    それから電車に乗り会社のある駅で降りる。会社に着くのは9時近くになる。退社は17時はまれで通常19時。そしてまっすぐ家に帰る。
    しかし今日は追跡捜査を始めてから初めて潤也は寄り道をした。
    会社からほど近く、ビルの地下に「葡萄棚」という看板が掲げられたスナックに入って行った。
    中に入るとカウンターの端に鈴木潤也の姿が見えた。店内は10脚ほどのカウンター席と4つのテーブル席があり、客は好きな席に陣取って思い思いに楽しんでいる様子が見て取れた。米倉は潤也とは席を離してカウンター席に座った。
    潤也は入り口にしきりに目をやり、待ち人が来るのか気にしていた。バーテンが米倉の前に注文したビールをグラスに注いだ。その間にも潤也は幾杯もグラスを空にした。潤也はバーテンに絡みだす。酔いが回っていた。
    椅子の上の潤也の尻が動いた。待ち人が来たようだ。如何にも仕立ての良さそうな濃紺色のスーツを着こなした男が潤也の隣の席に腰を下ろした。
    「イッキ、遅いな。自分で呼び出しておいて。何時間待ったと思ってんだよ」
     潤也はその男の名前を親しげに呼び掛けて直ぐ「専務」と言い換えた。米倉は潤也の待ち合わせ相手が同級生だった望月一輝だと知った。呼吸が早まった。米倉がビールを飲み干す。
    「あいつ、馬鹿な真似して。海老沢劉生」
     潤也が、海老沢劉生と言ったのを聞くと米倉の気持ちが緊張した。
    「お代わりは如何いたしましょう」
     バーテンに声を掛けられ、米倉は気もそぞろに同じビールを注文した。
    「黙ってろ。今日呼び出したのはそれを言うためか?」
     一輝は冷ややかな声で返した。
    「否、でも、これで一人厄介払いができたようなものでしょ? そう思いません?」
     今は会社の上司である一輝に昔は同級生であったとしても、酔っても言葉に気を使うようだ。
    「黙ってろって言っただろ」
     一輝は苛立っていた。
    「お前、SNSで余計な事発信しているらしいじゃないか」
     潤也がjunというアカウントで発信していた記事に関して一輝が指摘した。
    「誰から聞いたんです?」
    「誰だっていいだろ」
    「あんたが専務になってから、俺の待遇が目に見えて落ちたから、つい」
     一輝は高校時代からの友人として成長期にあった望月産業の社員として潤也を入社させた。鈴木潤也はマンション建設予定地の買収や販売にこれといって実績も上げていなかった。だが、一輝の口利きだけで優遇されていた。いまは一輝に肩書も付き、会社も右肩上がりで成長中だ、不平等、不公平と言ったほかの社員の手前その優遇権利は少しずつ剝奪され、夏のボーナスも他の社員並みになった。
     望月産業の社長は一輝の兄である。口コミやSNSでの批判で会社の評判はいともたやすく崩れ去る。 一輝は兄から潤也の発信を口実に首を切るようにと言われていた。潤也の不注意な発信はアリの一穴になりかねないと社長として懸念していた。
    「すまん。本気で書いた訳じゃないんだ。つい酔っぱらってさ」
     一輝は潤也の言い訳をまともに受け取った訳では無いようだ。
    「お前を首にしろって、社長から言われてる」
     追い打ちをかけるように言った一輝の言葉に、潤也は苦虫を潰したような顔をし、
    「あいつが死んだって、全てがなくなった訳じゃないよ」
     と、吐き捨てた。
    「なんだ、お前、俺を脅してるつもりか。俺たちは一蓮托生。俺が終わればお前も終わる」
     一輝の言葉に鼻白んだのか潤也が言った。
    「確かに。俺たちは、その、仲間だったんだから」
    米倉の持つグラスのビールの泡が消え、耳が二人の会話を一言も聞き漏らすまいと研ぎ澄まされる。
    「10年も前の話だ」
     取り付く島もない一輝に潤也の声が大きくなる。
    「そうなんだけどさ、俺、誰かに付けられてるような気がするんだ」
     米倉は潤也に感づかれていたのかと肝を冷やした。追跡には気を使ったのだが、矢張り素人だと実感した。潤也に背を向け、米倉はバーテンに他愛のない話でその場をやり過ごす。
     一輝は潤也の言葉に取り合わないが、周りに目をやる。潤也と並んで座っている男はバーテンと何やら話し込んでいる。他に何も怪しげな者の姿が無いと確認したようで、ウイスキーの入ったグラスに手を伸ばした。
    「だけどお前は俺を首には出来ない。そうだろう?」
     潤也は一輝に絡みだした。何故一輝は潤也を切れないのか米倉は考えた。同級生だった聡をいじめ、揚げ句に死に追いやった仲間だと言っているのか。彼らはそれで繋がっているのか。米倉は確証が得たかった。だが、
    「劉生が詐欺なんかに関わっていたなんて知らなかった。ホントに。あいつとはあれ以来付き合いもなかったわけだし」
     潤也はあのマンションから落ちて死んだ海老沢劉生の話を再び持ち出した。一輝は話を遮るようにバーテンにグラスをかざした。
    「あれからですよね。何かついてないっすよね」
     彼らの言う「あれから」とは息子の聡の死を指しているのかと米倉は固唾を飲んだ。
    バーテンが新しいグラスを一輝の前に置いた。潤也が上目使いで
    「あのじじぃが」
     と言ったのを機に一輝と潤也は一瞬黙った。「あのじじい」とは何を指しているのか米倉は二人の話の行方に集中した。
    「今更そんな話をして、えー、どういうつもりなんだ?」
     低いが怒りの籠った一輝の声が何か波乱を含んで店に響いた。バーテンが一瞬、一輝と潤也の様子を窺った。バーテンはフルーツを切っていたナイフをカウンターの上に置いた。米倉の目はナイフを見た。米倉の頭の中にこの上もない偶然のチャンスが起きる事を祈った。喧嘩が起きて、どちらかがこのナイフを掴み相手を刺す妄想が広がる。米倉が描く完全な仇討ちだが、そうはならなかった。
    「俺は帰る。お前の事は何とかするが、お前も面倒なことは辞めるんだ」
    「ああ」
     潤也は弱弱しく一輝の腕を掴んで懇願するように見つめた。一輝はその手を乱暴に払うと席を立ち振り返ることなく店を出た。一人取り残されて気持ちが納まらない潤也はあおるように立て続けに2杯のグラスをカウンターに並べ一気に飲み干した。
     一輝がまだ席に残っていたら2人は争いになっていただろう。望むところだったのにと米倉は思った。
     潤也はいきなり米倉にむかって
    「お前、さっきから何俺の事じろじろ見てんだよ」
     と絡んできた。
    「いやいや」
     否定する米倉に
    「お前はいつもおれを付け回してる奴だな」
     と因縁を付けた。実際そうだったが、米倉は何の事だかと迷惑そうに席を移ろうとすると、米倉のいく手を阻むように立ち塞がった。
     店のドアが開いて客が入って来た。店内は一瞬緊張が走ったが、その緊張が客が開けたドアから外の蒸れた空気の中に放たれた。
    潤也は「チッ」と小さく舌打ちした。白けた様に勘定を済ませると潤也は店を出た。米倉にとって思いがけない危機だった。
    バーテンはカウンターの上のナイフをしまい、米倉の前に褐色の液体の入ったグラスを置いた。
     
                  八
     
     朝に孫娘を保育園に送り、新聞に目を通すと、池上の目に思わぬ記事が留まった。
     それは読者が日常の出来事を投稿する欄に載っていた。「仇討ちは罪か」という題に惹かれて読んでしまった。
     書き出しは「仇討ちは罪か、私は罪だとは思わない。私は死んだ息子の為に仇討ちをしようと決意した」だった。
     「明治に仇討ち禁止令が発令された。明治以前、仇討ちは暗黙に奨励されていた。但し、目上の人が殺害された場合に限られていた。目下の者、例えば子供のために親がその仇討ちするなどは認められなかった。2017年の今は、無念のうちに亡くなった子どもの仇討ちは許されるべきだと思う」
     何故その投稿が採用されたのか、最後に書かれていた文章で納得した。
    「今は裁判がある。被害者の親たちは被告人に重い刑を望むがそうはならない場合が多い。心の悲しみと刑の重さは比例しない。だが、今はそれを受け入れ、あくまでも仇討ちは絵空事だと感じている。静かに亡くなった息子に手を合わせる毎日だ」
     投稿者は、気持ち的には仇討ちは許されるべきだと言っているが、今は法に従っている。仇討ちも絵空事と認知しているようだ。だが、と池上は何かしっくりこない。投稿内容の前半の激しさが、如何して後半の静けさに代わったのか。元刑事の疑い深さの性なのかと苦笑いした。
     随分と危うい投稿だと思って名前を見た。米倉進(50)と記載されていた。名前に見覚えがあった。あの米倉と同一人物なら、彼にいったいどういった出来事があったのか気になった。
    だが、今は「椿谷事件」の発生前に起きた高校生と椿谷芳樹とのトラブルの方に気持ちが多いにある。新聞から目を放し、池上は手帳を確認する。
     死んだ海老沢劉生と一緒に当時事情を聞かれたのは、同じS高校の同級生で、同じ塾に通っていた鈴木潤也、望月一輝、森下健司である。潤也は一輝の父親の創業した望月産業に就職している。二人の聴収は直ぐに出来そうだと判断した。
     資料によると森下健司は住所や職を転々としていて所在が掴めていない。まずは実家から当たる事にした。
     森下健司の実家は立川からバスで十五分ほどの所で居酒屋をやっていた。駅前と違った場所での飲食店はハンデを背負うが、それなりに経営は成り立っているようだ。
     夕方前の客が少ない時間を狙って池上は店を訪れた。昼間に家に訪れるより互いの緊張感が和らぐと踏んだ。
     酒とつまみで人心地が付いた時、池上は酒のお代わりを持ってきた女将を呼び止めた。
    「息子さんの健司さんに会いたいんだけど」
     女将は「は?」と怪訝な顔をした。息子の健司と同じ年頃の子に聞かれたのなら理解できるが、中年過ぎの男がふいに息子に会いたいと言われたら「は?」となるだろう。
    「怪しい者じゃないよ。私、池上って言います。元刑事でしてね。十年前の「椿谷事件」は再調査してます」
     池上は身分を取り繕う事無く元刑事だと言ったが、健の母親は「再調査」と聞いて警戒したようだ。
    「私も何も知らないんです。健司はごくたまに携帯にかかってきますが、ねえ」
     健司の母親はカウンターの中で調理をしていた夫に声を掛けた。その夫も何も知らないと言い
    「何日か前にも変な男が来て、健司の事聞いてきたな」
     と言った。父親の説明によると、その男は息子がなくなって11年が過ぎた。早めの13回忌を迎えるに当たって高校時代仲良しだった友達を呼びたいと言った。唯一、健司の住所が分からないので、実家にまで来たらしいが、健司の事は息子だがよく分からない。連絡があったらそう伝えると言ったが、男はそのまま立ち去ったと言う。
    「その亡くなった同級生って言うのは、もちろんS高校ですね」
     米倉の質問に夫婦は同時に頷いた。そして、苦々しく
    「なんで、息子を呼びたいのか分からんがね」
    「その男の息子は何が原因で亡くなったの? 高校生の時ですよね。病気か何かかな」
     池上と問いに、夫婦は互いに顔を見合わせた。特にその話はしたくないようだった。
    「息子は大学にも推薦で合格したのに一年で中退しちまって。今思えば、あんな奴らとつるんでいたせいで、碌な目に合わなかった。でも今はいい仕事にありついたとかで、たまにですがお金振り込んできてくれます」
     森下健司は高校卒業後、仲間とも疎遠になり、今では付き合いもなくなった。
    「息子の健司は気の小さい、おとなしい子です。刑事さん、もう息子に関わるのは止めてくんないかなあ。あの事件には息子は何の関係も無いんですから」
     親は元刑事に息子の住所が分かった所で知らせる気はないようだった。そのうち健司の姉が店の手伝いに来た。馴染みの客で店はそれなりに成り立っているようだ。
    「じゃあ、これだけでも聞かせてもらえんだろうか」
    「何ですか」
     女将は渋々相手をしてくれた。
    「平成13年の1月26日、息子さんは塾だったと思いますが、何時頃家に帰って来たか覚えていますかね」
    「さあ」
     記憶を辿り、その日は皆で集まって勉強すると言って帰ってこなかったようだ。泊った家は望月の家だった。姉にも様子を聞いたが、姉も記憶が定かではなかった。「すいませんねえ、何か思い出したら直ぐお知らせします」愛想のよい返事が返ってきた。この店は娘の愛想のよさもあって繁盛しているのかもと思わせた。
     池上は目新しい情報は掴めなかったが、健司たちは事件のあったあの日の夜は望月一輝の家に集まっていたのを知った。
     池上は鮫嶋刑事にその事を連絡すると、森下健司は今、日本には居ないことを告げられた。シンガポールにいる事は確かだが、その情報は別の課の知り合いの刑事から得たと言った。森下健司は何やら海外で捜査対象になっているようだった。
     
    池上は鮫島刑事と待ち合わせし、一緒に鈴木潤也の家に向かった。土曜日の夕方だった。
     潤也は怪訝な顔をして鮫島刑事と元刑事の池上の訪問を受けた。
    「10年前の事ですか」
     潤也が言った。
    「そうです。まだ椿谷氏の強盗殺人事件の捜査は続行中です」
    鮫島刑事が言った。
     鮫島刑事の言葉は潤也を警戒させたようだ。
    「何も知らないし、どうして私の所に?」
     と言った。池上は潤也の疑問に答える様に10年前に担当していた刑事だと名乗り、当時事情徴収を受けた人々の再聴収を行っていると説明した。
    「でも、私は何も関係ないですから、お役に立てるかどうか」
     潤也は何度も「何も知らない」と言った。
    「分かりました。では、当時一緒に話を聞かれていた海老沢劉生をご存じですか。彼は事故で無くなりましたが」
    「え、劉生が亡くなったんですか」 
     驚いたようだったが、死因は聞かなかった。
    「はあ。でも、高校卒業後は付き合いもないし、知りませんよ」
     と素っ気ない言い分だった。
    「そうですか。では、高校生当時、煙草で誰かに注意を受けた記憶とかありませんか」
     池上は椿谷の息子の修一から聞いた話を持ち出した。椿谷が煙草を吸っていた高校生に注意した件である。潤也はしばらく考えるようだったが、早く質問から逃れるには知っていることは話してしまおうという考えに至ったようで、すらすらと答えた。
     学校に路上喫煙の電話が入った。電話の主は誰か特定できなかったようだが、確かに校章からS高校の生徒だと言った。
     校長は全校生徒に規律を守れない生徒は見つけ次第退学処分となると警告した。だが、学校側はその詮議を徹底的にすることはなかった。ただ、見えない圧が生徒にかかっていたことは確かだった。特に一輝のグループにはその圧は確かにかかっていた。
    「へえ、どうして」
     と鮫島刑事が突っ込みを入れた。
    「実は」
     椿谷氏に煙草を注意された前年に起こった出来事があったと潤也が語った。
     仲間のいじめで同級生が自死した経緯があり、その首謀者として望月一輝や森下健司、亡くなった海老沢劉生の名前が、その自死した生徒が残した紙に書かれていたからだ。
     健司の両親が渋った話はその件だったのか。
    「ほう、貴方はそれに関係していなかったの?」
    「私の名前もあったんですが、誤解なんです。私もグループの一員でしたが、私は特にいじめていたわけじゃありません。見ていただけですし、直接関係ないです」
     と言った。
    「見ていただけねえ」
     と咎めるように鮫島刑事が言ったので潤也は話をやめた。
    「そうでしたか。それは悲しい出来事でしたね」
     池上がその話に同情した。それに気をよくしたのか潤也は話を続けた。
    「そうなんです」
     それから、グループは喫煙の件で学校中から疑惑が向けられ、仲間が神経をとがらせていた。「あの爺、今度会ったらただじゃおかない」なんて校庭の隅っこで言ってましたと潤也が言った。
    「そう、それで? それ、誰が言ったの? ただじゃおかないって」
     池上の質問には「さあ、誰だったか」とだけ潤也の記憶が急に曖昧になった。
     潤也が素直に話した過去は、すべて自分には直接関係ないがと必ず前置きしていた。
     玄関ドアを細く開けて、中から妻が様子を伺うように顔を出した。
    「最後に」
     と池上が妻に最後の質問だと聞こえるように言った。
    「そのおじいさんは椿谷さんだったかどうか分かりますか」
     潤也はそれにも曖昧に「さあ」と返し「もういいですか」と言って、振り切るように家に入ってしまった。
     鮫島刑事と池上が立ち去ろうとした時、再び玄関ドアが開いて潤也が出てきた。
    「あの、刑事さん。この数日、何だか変な奴に後を付けられている感じがするんですが、まさか警察ではないでしょうね。何か、私に疑いがあるんですか」
     池上は、鮫島刑事を見たが、鮫島刑事は首を振った。
    「分かりました。こちらでも気を付けてみてみます」
     安心したように潤也は鮫島刑事と池上を見送った。
     
     池上は鮫島刑事と夕闇迫る街を歩いていた。
    「鈴木純也は、自分には関係ないと言いながら、どうやら何か隠してますね」
     と鮫島刑事が言った。
    「そうだな。それに誰かに後を付けられている感じがすると言っていたが」
    「気のせいじゃないですか」
    「うむ。だが、少しでもそんな感じがすると言う事は、他にもこの事件を追っている者がいるとか」
    「どうですかね。それはちょっと考えにくいですよ」
    「ならば、同級生が自死した話、どう思う?」
    「そうですね」
    「次は望月一輝を責めてみるか」
     池上の言葉に鮫島刑事は力強く頷いた。昔からのコンビであるかのように二人の呼吸が合ってきた。
     
                 九
     
     米倉はイライラとした感情を抑えようと部屋を動き回っていた。息子の仇を討つと言いながら、まだやり方もタイミングもつかめていない。
     海老沢劉生がマンションから逃亡を図りベランダから落ちて死亡するなどと誰が考えられるだろうか。偶然の出来事だった。
     スナックで一輝と潤也があわや喧嘩になり、もし、カウンターの上のナイフを掴んだとしたら、どちらかが命を落とす結果にだってなりそうだったのにそうはならなかった。米倉が目論む偶然の出来事を期待したがそううまくはいかない。逆に米倉が潤也に絡まれてしまった。あの時、客が来なかったらと思うとぞっとした。
     ニュースを見ていると人間はいともたやすく殺され殺し死んでいく。怨念やただの通りすがり、無差別に、行きずりに殺人が行われている。しかし、実際はこのような事件は人口のほんの数パーセントの出来事なのだろうと思った。
     だが自分はその数パーセントの事件を起こす可能性はある。動機もちゃんとある。死んだ息子の仇うちだ。誰でも良いわけではない。そう考えた時、米倉は迷いから覚めたように一つの決断をくだした。自分でやるしかないと。
     鈴木潤也と望月一輝の関係は大体把握できた。互いに大学を卒業し、就職活動の際、急成長していた望月産業に就職を勧めたのは一輝だ。
     それが今では何やら揉めているらしい。潤也の奥歯にものの挟まった言い回しや、それを苛立つ一輝の様子を垣間見て米倉はもう一押しで二人の間に何かが起こってもおかしくはないと睨んだ。
     さて、と米倉は考えあぐねた。今はやりの情報発信の手段を使って潤也に成りすまし、一輝を煽るのも一つの考えだと思った。だが、思いついたはいいが、潤也のアカウントを乗っ取って成りすます方法が分からない。
     少し検索すればやり方はすぐにわかるかもしれないが、時間が無い。米倉はある考えに至った。
     
     米倉はしばらく秀介の「ねぐら」の前で立っていた。時間は夜の9時である。戻っているとは思うが、突然の訪問に彼はどう思うだろうか。あまり人付き合いが得意ではないと聞いていたし、米倉の頼みを聞いて、どう反応するか分からない。兎に角せっかくここまで来たのだからと、米倉は思い切ってドアを叩いた。
     中から秀介が顔を出した。秀介は何も聞かず米倉を招き入れ、茶色いひじ掛け椅子を勧めた。
     秀介はユキの家で初めて会った時よりましに対応してくれているようだった。
     単刀直入に、つまり、ある人物に成りすまし、そのまたある人物に誹謗中傷したSNSを送りたいが、その方法が分からないと言った。
     秀介は米倉の言った言葉の意味を考えているようで、すぐには声を出さなかった。
    「そう、で、何で私に?」
     秀介が普通の人間ではないからと言いたかったが、それはまた己を表す言葉だったので「パソコンに詳しそうだったから」と答えるに留めた。それにはあまり納得がいかないようで秀介はさらに言った。
    「つまり、アカウントを乗っ取って、その人物に成りすます。それで、私にその手伝いをさせたいんですか」
     確かに、秀介にとって納得のいかない頼み事であった。
    「私のある計画の為に是非とも協力してほしい。貴方が詳しく知る必要はありません。それでだめなら、また考えます」
     秀介は2,3度うなずき、あっさりとパソコンに向かった。
     秀介の指が器用にキーボードを叩く。その音が部屋に小気味よく響く。
    「junですね。さて、これからどうします?」
    「いや、その先は自分でやるから」
    「そういう訳にはいきませんよ」
     秀介の覚悟のほどが見えた。
     
                  十
     
     池上は望月産業の受付にいた。一輝への面会を求めると、約束も取り付けていない元刑事では愛想のない対応だった。今日は鮫島刑事の応援が得られない。帰宅を待って一輝の自宅に赴くしかないかと踵を返したところで受付から声を掛けられた。
     用事があって外出するので「ロビーで良ければ会う」との伝言だった。
     ロビーは広々とした空間にあり、三方を大きなガラスに覆われて、真夏の暑さを遮るようにブラインドが窓の半ばまで下りていた。
     ソファーは三か所に品よく配置されていた。ホテルとは違って来客を迎える豪華な花飾りは無かった。ソファーの一つには先客がいた。
     池上は一輝が下りてきそうなエレベーターの傍に立っていた。
     エレベーターから降りて来た一輝は薄いグレーのスーツをお洒落に着こなしていた。そして池上の前に立った。一輝はソファーにいざなう様子はなく、立ち話で終わらせたいようだった。
    「10年前の事件は覚えてますよ。まだ子供だったけど、警察官に根掘り葉掘り聞かれて皆縮みあがってました」
     一輝は笑顔で、思い出話のように当時の事を語ったが、煙草で注意された記憶に及ぶと
    「まあ、当時はちょっと悪ガキでしたからね。あちこちでタバコ吸って。今思えばよく火事にならなかったと反省してます」
     更に学校から特段に注意を受けたことは無いと言った。
     池上は一輝の言葉が気になった。「火事にならなかった」とは、煙草から起草される火事、大人ならすぐに出てくる言葉でもある。だから大人になった今、「火事」それがすぐ記憶と共に出てきたのだろうか。だが、と池上は、一輝の言った言葉が椿谷の「防災のために注意をした」と言っていた椿谷の息子の言葉と重なった。
     更に池上が質問しようとした時、エレベーターが開いて焦ったような男が出てきた。男は扉の前で立ち止まった。そして、池上と話していた一輝に目が行くと、彼を目がけて突進してきた。その男は潤也だった。潤也の顔は青白く、目が尖がり殺気立っていた。池上はとっさに一輝を押しのけたが、運悪く潤也の持っていたナイフが池上の脇腹を切った。池上の白いワイシャツから血がにじみ出た。脇腹を抑えた池上の手が血に染まった。
     ロビーにいた人々は思いもよらない出来事に我先に外に逃げ出した。ドアの前にいた警備員は尚も一輝を追いかける潤也を取り押さえた。
     一輝は、潤也が取り押さえられるとその場に座り込み「お前。お前何で」と叫んでいた。
     池上はハンカチで脇腹から流れる血を抑えていたが、一瞬目がくらんで体がふらついた。
    「大丈夫ですか」
     と池上に声を掛けてきた男がいた。米倉だった。米倉はこの騒ぎをソファーに座って初めから終わりまで見ていた。しかし思いがけない展開になり、池上の介抱に向かわざるを得なくなった。池上は、海老沢劉生の事故現場に巻き込まれた米倉に終始付き添い励まして人だったからだ。米倉は自分の着ていたワイシャツを脱いで池上の体に強く巻いて止血を試みていた。
    「もうすぐ救急車が来ます」
     今度は米倉が池上を励ます立場になっていた。
     
     池上は病室で手当てを受け、命には別条ないと知らされた。傍らに連絡を受けた鮫島刑事が居た。
    「すいません」
     鮫島刑事は申し訳ないとばかりに頭を下げた。
    「いやいや、私の不注意です。昔とは違って、体は機敏には動かないもんだと思い知りましたよ」
     鮫島刑事は簡単に潤也の取り調べについての報告をした。
    「何でも、出社早々急に会社から解雇通知を言い渡されての行動だったようです」
     と言った。理由はSNSにおいて会社への誹謗中傷が目に余ると言う事だったらしいが、潤也には思い当たる節が無かった。一輝に注意されてからは一度も発信をしたことが無いと取り調べで言い張った。
     なんとも合点がいかないと、思い、一輝の嫌がらせだと恨んで蛮行に出たようだ。殺意は否認したものの、とっさに机の上にあったペーパーナイフを手にしていた。ペーパーナイフで脅してでも首を撤回させるつもりだったと言った。ロビーまで追いかけてきたが以前質問されたことのあった元刑事の姿を見て、思わず一輝を襲ったらしい。
    「私と話しているのを見て、どうしてそんな事に」
     疑問が池上の口から出た。
    「さあ、今は何だか錯乱状態で、見覚えの合った元刑事の男に何か告げ口をしているように感じたようです」
     それは森下が極限状態に陥っていた証拠のようだった。それが何か調べる必要があった。
     池上の傷の処置が終わり、様子を見るために今日は入院が必要だと医師に言われたがその日のうちに退院した。
     退院したその時に池堂は米倉に連絡した。自分のシャツを脱いで池上の出血を止めてくれた行為に感謝の気持ちを伝えたかった。それに、望月産業のホールに居合わせた米倉に関心を持った。米倉は海老沢がマンションから落下してきた場面でも居合わせた数奇な運命を共にしていたからだ。以外にも米倉は池上を自宅に招いた。
     米倉の住まいは駅から離れたマンションの1ⅮKの部屋で、きれいに整頓されていた。
     趣味の良い数点か家具の中に小さな仏壇があった。
     ダイニングテーブルは折りたためるようになっていて、池上の席を作るため、それをわざわざ広げた。
     コーヒーの豆を挽き、フィルターに流すお湯が静かな音を立てていた。暫くするとコーヒーの香りが部屋を覆うように漂ってきた。池上が飲むインスタントコーヒーの香りとは違った。
     池上は何処に何があるのか熟知している様子や、他に人の気配が感じられないことで池上の目にも、米倉が長く一人暮らしだったことが分かった。小さな仏壇にも目が行った。野暮な質問をすることは無い。
    「その節はいろいろ有難うございました」
     池上は望月産業のロビーで起きた事件を指して言った。
    「どうして貴方がその場にいたのか、本当に不思議な出来事ですね。あの飛び降り事故といい、たまたまとは言えない、不思議だ」
     池上が不思議だと言い、納得していない様子に、彼が元刑事だったと米倉に思い出させて警戒させた。
    「そうですか? 私、実は失業中でしてね」
    「あゝそうですか」
    「望月産業で社員募集がありましてね。あの日、ちょっとどんな会社かと思って、エントリーする前に様子見ですかね」
     失業中ではあるが、米倉の慎重な職場選びの姿勢に池上は感心した。
    「しかし、世の中は分からんもんだ」
    「何がですか」
    「凶行に及んだ社員は、その日、望月産業を首になった恨みからでした」
     池上は事件の経緯に少し触れた。
    「ほう」
     興味を持ったように米倉は簡単に相槌を打った。
    「去る者来る者。世の常ですが。そんな偶然もあるもんですね。あそこはブラック企業の様なので、ま、受けるのは辞めておきますよ」
     米倉はカップに残ったコーヒーを飲み干した。
    「ところで、米倉さん。気になる新聞の読者投稿を見ましてね。その投稿者の名前が米倉進と記載されていました。まさか、同姓同名とも思えなくて」
    二度も思わぬ場面で遭遇したのが何かの縁だとすれば、今はこの投稿も見過ごせないと池上が感じたのもごく自然なことだ。
    「何かありましたか、息子さんに」
     池上は元刑事ではなく、投稿から見えた疑問を投げかけた。
    「そうですね」
     と言って、米倉は引き出しから切り取った投稿記事をテーブルの上に置いた。
    「これですね」
     息子の聡はいじめにあい自死したと言った。言葉に抑揚も溜めもなく、ただ事実を言った。
    「それで、当時は学校に抗議したりしました。最初は学校に批判が集まり、私たち家族には同情が集まったんです。だが、それから、事情が一変したんです」
     米倉の妻が心の病にかかり、聡の後を追って自死してしまった。世間の評価は瞬く間に変容してしまった。米倉に家族を守れなかった父親だと烙印が押され、誹謗中傷の嵐が彼に向かった。米倉は疲弊し、会社を辞めた。そして社会から自分の存在を遮断した。
    「まあ、何というか。あれから10年以上が経って、社会へ自分の気持ちを今更ながらですが、訴えたくなったんですよ。まさか、投稿が採用されるなんて思いもしませんでした」
     池上は頷いた。だが、納得できなかった。
    「貴方のお気持ちはどっちなんですか。息子さんの仇討をしたいのか、それを社会の制度に任せるべきなのか」
     二杯目を注ぐために米倉が持ったコーヒーサーバーの手がかすかに揺れた。カップの外にあふれる茶色い液体がソーサーに溜まる。
    「米倉さん」
     池上の声に気が付き、あわててその手を止めた。そのまま米倉はドスンと椅子に腰を落とした。米倉の唇が震えていた。
    「死の責任て、いったい誰が持つのですかね」
     池上がぽつりと言った。池上の息子ヒカルは11年前の電車の脱線事故の余波で駅に大勢の人が溢れ、その中の乗客に押されて鉄柱に頭を打った。脳内出血があった事も知らずに、頭痛に悩まされていた。二度目の診察で訪れた病院の待合室であっけなく死んだ。あの時ヒカルにぶつかった男を探し出すことはできない。妻は病にかかり亡くなった。妻を病から助ける事が出来なかった医師を訴える事はない。そんな事情を米倉に語り掛け
    「私なんか、家族の死をいったい誰にぶつければいいんだろうって思いますよ」
     と池上が言った。米倉のように無念を晴らす相手がいるのは幸せだと言いたかったが、それは言えなかった。刑事でなければ、それも言えたのだろうが。
     米倉はその言葉を聞いて、堪えていた涙をぬぐう事さえ忘れていた。
     池上は米倉に、捜査中だがと説明し、今扱っている事件の概要をざっと話して聞かせた。
    「私は貴方が亡くなった息子さんの仇を取りたいという気持ちは理解できます。その為にも、私が追っている事件に和t氏が調べている容疑者たちが必ずかかわっているに違いないと思っています」
     池上は暗に、望月やその仲間が起こしたであろう事件の解決によって、米倉の仇討ちの一助になれると語った。
     
                十一
     
     警察の取調室に鈴木潤也が憔悴した面持ちで座っていた。
     取調官にベテラン刑事の須藤がいた。
    2017年当時の取調は密室で行われていたが、録音・録画は自主的に行う事は認められていた。ただ、それを自主的に取り調べに用いるのは少なかったようだ。
     鈴木潤也の取り調べを担当した須藤刑事は録音・録画を推し進めるタイプの刑事ではない。いつものように容疑者に向かった。望月一輝の殺人未遂と池上の障害事件に関しての取り調べを行う。
     望月一輝を殺意をもって襲った件に関して、当事件の被害者である望月氏から被害届の提出は無いがこれは親告罪ではないので、つまりは殺人未遂事件として取り調べは行われると伝えた。
     潤也はうなだれて須藤刑事の言葉を聞いていた。
    ただ終始トラブルの原因となった「最近の誹謗中傷の件は知らない」と繰り返し言っていた。
     
    望月一輝は新宿署に入り、地下にある部屋に案内された。そこは池上が椿谷強盗殺人事件の捜査の為に、特別に与えられた部屋である。
     初めて池上がこの部屋を訪れた時は、壁側にいくつものロッカーや段ボール箱が並んでいた。ロッカーや箱はいつの間にか処分され、部屋からその姿が消えていた。机と椅子が一脚あるだけの殺風景な部屋だったが、その景色が少し変わった。新しい机の上には録音用の機械が置かれ、椅子も数脚増えていた。
    鮫島刑事と池上は一輝の来るのを待っていた。
    「ご足労願って、申し訳ありませんね。どうですか、少しは落ち着きましたか」
     池上は一輝に穏やかな声掛けをした。一輝は頷いたものの、違った意味で落ち着けなかった。
    「鈴木潤也を訴えないそうですね」
     と鮫島刑事が言った。
    「はい」
     鮫島刑事に「それはどうしてか」と問われても「これ以上面倒なことにならないようにと会社からの提案です」とそっけなかった。
    「そうでしたか」と池上が頷いた。
     鮫島刑事は、録音スイッチをオンにした。この取り調べに元刑事が立ち会う事は後々、裁判で認められるか懸念があった。池上は慎重に臨みたかった。この録音は取り調べ側にとっても有効な仕組みなのだ。
    「10年前の未解決事件を担当している元刑事として、この場での立ち合いを認められています」
     池上はこの調査に参加できる許可を得ていると説明した。西田警部からやっと認可してもらった大事な場所だ。池上は無駄にしたくなかった。
    「いえね。これはこれで別件捜査なのよ」
     鮫島刑事が言った。池上は事前に鮫島刑事と打ち合わせをした。あくまでも立会人としての参加許可なので、自ら積極的な質問はできない。
     鮫島刑事は池上からの要請された質問をさりげなく出していく。
    「別件?」
    「そう」
    「何か、私、疑われてるんですか。弁護士とか、頼んだ方が良いんですか」
    「いえ、今はただ、お話をお聞きしてます」
     鮫島刑事は手に持ったファイルを開きその中に書かれている情報が何か大事なことが描かれているかのように、その目を落として質問した。
    「十年前の椿谷強盗殺人事件の調査対象になっていた件ですが」
     鮫島刑事の行動をじっと見ていた一輝は用心深くなっていた。
    「えっ? それ? それはもう済んだことですよね」
    「事件は解決していません。今、再捜査でね。十年たって新しい事実がでてきてさ」
    「新しい事実って何ですか」
    「事件があった前、殺害された椿谷氏から煙草の件で注意を受けたのを恨んでいたようなお話を貴方の友達から聞きましたが、それは事実ですか」
    「誰です?そんなこと言ったの。でもそれが何か? 覚えてないよ、そんな、それが何か? その事件に関係ありますか?」
     一輝はいらいらとした様子で激しく抗議してきた。
    「まあ、何とも言えません」
     池堂はさりげなく一輝に語り掛けた。
    「どうです、一服しますか?」
     煙草を出す。
    「いいです。私は煙草吸いませんから」
    「そうですか。今は愛煙家も辛い時代でね。どこも禁煙で」
     池上は煙草をポケットに仕舞うと
    「孫なんか、じいじは煙草臭いって言って抱っこもさせてもらえんですよ」
     と言って苦笑した。
    「確かに。私、高校時代は、校庭の隅っこでカッコつけて煙草吸ってました。授業に行く時はL製菓のクールミントガム噛んで煙草臭いの消して。馬鹿やってました。あのガムまだ売ってますよね」
     一瞬、鮫島刑事が固まった。現場に残っていた唯一の遺留品はガムの包装紙の一部だ。
    それをさりげなくカバーするように
    「孫はコンビニ行くとあれもこれも買えって、爺さんは大変だよ」
     池上はそう言うと声に出して笑った。
    「確かに、変な爺さんに煙草の火について注意されたこともあったし、学校に通報されたけど、だからって、そんな事件起こす訳ないじゃないですか。」
    「そうね。君たちが人を殺して、現金を奪った何て思いたくはないが」
     鮫島刑事の言葉に一輝は表情をこわばらせた。
    「これね、現場にあった証拠品の一つ」
     透明の袋に入った小さな紙片を机の上に置いた。
    「L製菓のクールミントガムの包装紙の一部。今の科学捜査では臭いとか、紙質でこれが何を表しているか分かるんですよ」
     一輝のごくりと唾をのみ込んだ音が部屋に響いた。
    「まさか、それ、本気で言ってます。私の物だと」
     確かに証拠としては弱かったし、何の決め手にもならなかった。
    「いいですか、殺人と強盗ですよ。死刑か終身刑。よく考えて、何か思い出すことあったら何でも言って。助けになると思うから」
     そういったのは池上だ。池上は優しく助言者のように振舞った。
     一輝は「死刑か終身刑」と聞いて身が縮む思いだ。
    「ま、待って。そんな。酷い。何もしてないのに、あいつが勝手に死んだ。こんな紙切れ一枚で、冗談じゃない」
     一輝は怒りに任せて当時の話を始めた。確かに椿谷老人に煙草の注意を受けたし、学校にも告げ口されたと思っていた。だが、名前は知られてなかった。今度であったら、仕返しをすると言ったこともあったが、本気じゃなかった。ものの弾みだと言った。それが実際に彼の家の前で姿を見た時、仲間の手前黙って通り過ぎり事はできなくなった。
     老人が家の中に入った時、そのまま後については行ったら、老人はすごく驚いて「この前のガキだな」と言った。
     それで、あの老人の胸を掴んだら、あいつが急に苦しんだから、俺たちは直ぐに家を出た。
    「俺たちって?」
    「潤也と劉生と健司」
     潤也は見張りで外にいたと言っていたが、どうやらその場に一緒にいたようだ。
    「どうして救急車を呼ばなかったんだね」
     と池上が言った。
    「何度も声を掛けたけど、返事はなかった。死んだと思った」
     椿谷は心臓病を患っていた。ちょっとしたショックが重なって一時的に心臓が止まった。一輝たちは慌てたに違いない不運な事実だ。
    「でも、金は奪った」
     鮫島刑事がそう言った瞬間一輝は激しく首を振った。
    金の事は知らないと否定した。そしてそれが今まで口を閉ざしていた理由だと言った。強盗殺人犯などと罪を着せられる恐怖があった。
     にわかには信じられなかったが、確かにあんな金額をもって、16歳の高校生が何も行動に移すこともなかったのは不思議だと、池上は端から思っていた事だ。
    「事件後、どうして貴方の家に皆で集まったんだね」
     鮫島の質問に
    「1人になるのが怖かったから。それに、皆で約束した。絶対他人や警察には言わないと、結束を固めたかった」
     と一輝は答えた。
    「なるほどね。それからは、あんまり付き合いが減ったようだが」
    「仲間はバラバラになったけど、潤也は私にしつこく付きまとって、って言うか、しがみついてきて、あいついつも自分を部外者みたいに言ってるけど、ほんと、わけわかんない奴」
    「なるほどね。就職も受け入れたと言う訳か」
    「はい。仕方がなかった。放っておいたら何言いだすか分かんなかったし」
     一輝の告白にも似た陳述書には疑いの余地はなかった。だが、それならあの49万円はどこに消えたのか。池上と鮫島刑事は顔を見合わせた。
    「あの、私の罪は何なのですか? 殺してないし、金も取ってない」
    「そうね、住居侵入と、それに連絡する義務はあった。あの時直ぐに救急車を呼べば助かった命だったかもしれないよ」
     池上が静かに諭した。そして、
    「貴方はS高校時代、望月や亡くなった海老沢、森下健司、鈴木潤也さんたちとは仲が良かったんでしたよね」
     一輝は心ここにあらずと見えたが、ゆっくりと頷いた。
    「貴方、米倉聡さんをご存じですね」
    「米倉、聡さん?」
    「S高校の同級生でしたよ」
    「あ、ああ」
    「どんな方でした? 米倉聡さん」
     一輝の語る米倉聡は、成績優秀で明るく、誰にでも親切だったと思い出を語るように言った。
    「そんないい子をなぜ、いじめたりしたの?」
     思いがけない直球な言葉に、一輝は身構えた。
    「それって、どういう事です? いじめたりしてません」
    「それが原因で、彼、自殺したんじゃないの?」
    「知りません」
    「そう、でも一時学校でも問題になりましたよね」
    「でも、それは、よく分かりません」
     一輝の頭の中には聡の存在が無かったのか、曖昧に答えた。
    「それが何か?」
    「事件のすべての起因がそこにあるんだよ」
    「はあ……」
     一輝は池上の言葉に鈍く反応した。
    「聡君に暴力をふるったり、尊厳を貶める言葉の数々を投げかけたり、裸を強いたり、それを何とも思わなかったの?」
    「冗談でやったけど、聡は何も言い返さなかった。何を考え居るのか、良く分かんない奴で……」
     一輝はそれ以上言う事は無かった。もう当時の高校生ではないのだ。人の見方も色々あると知ったからなのかと池上は思ったが、
    「なんでなんだよ。俺が何をしたって言うんだよ」
    苛立から発せられたその言葉で一輝が高校生に戻ったと感じた。
    部屋に妙な空気が流れた。それは、この若者が放つ無痛という空気だ。他人の悲しみさえも届かない、心がマヒしてしまった者たちが放つ空気だ。それはどうやら大人になっても持続するらしい。
    「俺ばっか、何だよ」
     一輝の嘆きなどに関心はない。池上は49万円の行方を探っていた。確かに一輝たちでないとしたら、考えられるストーリーの結末は椿谷修一にたどり着いた。
     
                  十二
     
     椿谷の息子、修一は鮫島刑事から容疑者逮捕を聞かされて安心したと言ったが、金の行方について尋ねる事は無かった。それは大いに刑事たちに疑惑を抱かせた。
    第一発見者である修一は父親が倒れているところを発見し救急車を呼んだ。警察が到着するまで何分かあった。
    結果的には警察で任意同行を求められた。その時の聴収から、観念した修一の供述から動きが分かった。
     倒れていた父親の姿を見て一瞬慌てたものの、手提げ金庫の金を調べたら、現金はそのまま残っていた。修一は女と飲んでいたと証言したが、実は仲間と賭けマージャンをしていたようだ。その日は負けこんで借金を作っていた。ついその金に手を出した。犯罪現場となった事務所はそんなに荒らされてなかったので、もっとひどく見せるために書類などをばらまいたと供述した。
     女には結婚を条件にアリバイを証明させた。
     修一は虚偽報告の罪と、窃盗罪で告発される。窃盗ではあるが、親子間の問題なので法律的には判断が分かれる。しかし、この事件をここまで長引かせた一抹の責任の一端はある。
     望月一輝、鈴木潤也、亡くなった海老沢劉生、海外にいる森下健司らは不法侵入に関しては、三年で時効となっているが、椿谷氏の死因が強迫によるものとなれば、不法侵入の件も含めて長期の判決になると予想された。
     
     池上は米倉の自宅を訪れた。
     米倉は池上からの報告を受けて仏壇に手を合わせた。その後ろ姿を見ながら池上が言った。
    「貴方の息子さんに対する仇討が果たせたかどうかは分かりませんが、これで納得していただくほかありません」
     米倉は頷いた。
    「私の新聞投稿は、仇討ちをしたい、しなければ前に進めない、そんな気持ちで書いたんです。それに、世間に対して、私は宣言しました。必ず私はやるんだと」
     そんな気持ちになったのは海老沢の死を目の当たりにした時だった。あの時の、あの何とも言えない感情、憎き仇が一人死んだと言う感慨は、米倉から世の常識を捨て去った一瞬だったのだ。そして世間に宣告したかった。自分は家族を見捨ててはいないと。
    「私は結局、何もできなかった。あの投稿は今考えれば私の心の揺れを表していました。法的装置に逃げ道を作っていたのです。世間が言うように、結局、私は家族をまともに守れない腰抜けだったって事です」
     米倉は自嘲気味に自分を貶めるように告白した。
    「違います。米倉さんがあの者たちを追っていなければ、この事件の解決はもっと先になっていたでしょう。なんにせよ、犯人たちは、あの時代から何も変わらなかったと言う事です」
    「私は告白することがあります」
     米倉は池上にそう言った。
    「何も言わなくてもいいんです。貴方がおっしゃりたい事は分かっています。でも、もう今はその証拠もないですから」
     秀介が鈴木潤也に成りすまし、望月産業を誹謗中傷した偽アカウントは消されていた。
     
     死んだ海老沢は森下健司と共に詐欺グループにいた。海老沢を洗ううちに、森下の存在が浮かび上がってきた。当時付き合いのあったインフルエンサーの花畑は脱税で起訴され、関係のあった森下の住居も特定された。森下は組織犯罪処罰法違反容疑で居住していたシンガポールから帰国の途中、日本警察に逮捕された。
     すべての事件の遠因は、十一年前のいじめ事件から発していたと池上は思った。
    彼らが聡に対して反省や後悔の念が無いことに無念な気持ちは残った。彼らがいじめをただの遊びと認識していたにすぎない。そのことを米倉に伝えるのは辛かった。
     だが、池上から、彼らはいじめなどなかったかのような振舞だったと聞いても、決して彼らも忘れてはいないのだと確信した。その過去の延長線上が今の彼らの生きざまになっている。過去は未来を映す鏡なのだ。
    忘れようとしても、決して消える事のない悪夢を引きずって生きていたのだろうと思えた。
    「仇討は罪なのか」
     米倉は誰がその問いに、答えを出せるのだろうかと自問する。
     
     
    米倉は秀介の元を訪れていた。新しい会社の設立の為に。
    秀介のパソコン技術を評価し、ともにリサーチの会社を作る計画を立てていた。これから伸びる業種でもあったため、銀行からの融資の話は進んでいた。
     秀介が馴染んでいる「ねぐら」を会社の本居地にした。数台の電子機種が並び、それなりの体裁が整っていた。
     ユキとケンが米倉の両脇に立って、それを写真に収めている秀介の姿があった。
     息子の後を追って米倉の妻は自死した。その死は夫として永遠に消えない心の傷ではあった。それで米倉が悪臭漂う年寄りになって朽ちる事を妻は望んでいない筈だとそう判断することにした。米倉は目の奥に浮かんだ涙を押し返した。
     米倉、ユキ、ケン、秀介は、それぞれが無くした家族を新しい形で作り上げようとしていた。
     
                  十三
     
     池上にいつもの朝がやってきた。孫を保育園に送り、一杯のコーヒーを楽しむ。新聞に目を通す。
     シンガポールから帰国途中の森下健司が国際詐欺容疑で飛行機内で日本警察に逮捕されたニュースに目が行った。近年、色々な種類の詐欺事件が東南アジアを拠点に広まっている。地道で困難な国際詐欺捜査は徐々にではあるが、近年効果を上げてきている。
     森下は詐欺事件ばかりか、椿谷事件の関係者としての取り調べが待っていた。事件の大小はあるが、その要因を含んでいる11年前のいじめ事件が闇に葬られる事はない。
     
     最近、娘のサクラに持たされた池上の携帯が鳴った。西田警部からの呼び出しだった。
    望月一輝を取り調べた地下に行くと、元ロッカー室は様変わりを呈していた。
     真新しい机が4台並び、その上にはそれぞれパソコンが置かれ、最新の電子機器が壁に並んでいた。
    「これは?」
     と問う池上に、西田は得意満面な笑みを浮かべ
    「ここは、特別未解決事件捜査班が使用する部屋になった。そこのチーフとして、池上さんをお招きしたいと思ってます」
     意外な要請に池上は続ける言葉が無かった。
    「貴方が、私に未解決事件の捜査をやらせてくれと懇願してきたのをお忘れですか」
     椿谷事件の件でそう言ったのは覚えている。だが、と池上は思った。
    「これはちょっと荷が重すぎる」
     池上の正直な意見だ。だが、今西は譲らない。
    「最新の機器は捜査に大いに役に立つ。だが、貴方のように人間らしい捜査も大事だと思いますよ」
     池上は辞退することはできない、するべきではないと考えた。
    「お役に立つことがあるなら、この老体、こき使ってください」
     と頭を下げた。そこへ鮫島刑事が部屋に入ってきた。鮫島は特殊詐欺捜査チームへの誘いを断って、池上の元にはせ参じた。
    「過去を知る事は、未来を知る事ですよね。池上チーフ」
     鮫島刑事の今時の若者らしいいじりに、池上は笑って頷いた。
     
     「仇討は罪か」と問うた米倉の新聞投稿に答えは出せたのかと池上は考える。
     それを問いかける記事から発して、事件は解決を見た。だが、米倉が考えた息子聡の仇討ちが成し得たのかというとそこには疑問が残るだろう。
     誰もが納得できる答えは、江戸時代の「仇討ち」にさえ見出すことはできない。
     被害者の為に未解決事件の解明は新しい現代の「仇討ち」になるに違いない。
     池上はその任務を与えられたのだと確信した。
                完


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