
長らく、私の部屋に「同居」している蜘蛛がいた。手足を伸ばしても、せいぜい5ミリほどの小さな蜘蛛だ。
このマンションの10階の一室に、もう1年近くも暮らしていただろうか。忘れた頃にふらりと姿を現すが、いつも1匹きり。
傷つけず、驚かさずに、うまく捕まえる自信がなくて、ずっとそのままにしていた。
それが今日シンクに現れて、側にあった空のペットボトルを差し出すと、自然とすんなり誘導することができた。
大事に蓋をして、階下に降りた。そして、ペットボトルをそっと傾け、蜘蛛を土の上に促した。
しばらく外を動く姿を見ていようと目で追っていた。
ペットボトルに残っていた水に体が洗われたのか、部屋で見た色とは違って見えた。降り立った土の上を忙しなく歩き回り、何度か顔を洗うような仕草をしたと思ったら、ヒュンと見たこともないような速さで跳んで、そして私がその先に目をやったときには、もうどこに行ったかわからなくなってしまった。
誰かのようにも思ってたり、見守ってくれているようにも思ってたり。
ただ今日、偶然のタイミングで、私も外に逃がそうと思ったし、その全てがうまく行った。あまりにもスムーズに行きすぎて、あまりにも別れが突然で、しばらく喪失感が消えなかった。
蜘蛛の顔を洗う仕草が何なのかを調べたら、複眼や触肢の掃除だという。長らく変化の乏しいマンションの部屋にいたから、突如として土の匂いを感じて、自分の感覚を再び研ぎ澄まそうとしていたのだろう。
まもなく、今いる会社を辞めて新しい転職先に行く。変化の乏しい屋内から、濃い土の匂いがたち込める外の世界に降り立つのだ。
きっと、新しい転職先に行ったら、その全てを感じようと五感を研ぎ澄ませるだろう。そして、しばらくの間忘れていた跳躍だって、きっとすぐに、できるだろう。
この蜘蛛のように、私も。