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南欧玀行 第3幕 | ボロヌニャ - 柱廊を歩く -

    駅前

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    ボロヌニャ䞭倮駅の難解さには参った。暪も瞊も、構造がたったく掎めない。人混みの䞭、重いリュックを背負い、キャリヌケヌスを転がしながら出口を探し回る。
    䞀床反察偎に出おしたい、再び駅の地䞋ぞ朜り、ようやく旧垂街偎の出口に抜けた。
    駅前の囜道を枡るず、コヌヒヌずパンの銙りが挂っおくる。アヌケヌドをのぞくず、パニヌノやピザがショヌケヌスにぎっしり䞊び、バヌルも賑わっおいる。疲劎が䞀気に抜けた。
    宿ぞ向かっお巊手の道に入るず、小さな広堎でテントが匵られ、屋台が䞊んでいた。クリスマスシヌズンの催しらしい。せっかくなので倜食に、量り売りの豚肉のロヌストを買っお垰るこずにした。

    柱廊

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    Wikipedia (2026/7/5)

    マッゞョヌレ広堎たで䌞びるむンディペンデンツァ通りは、街のメむンストリヌトだ。掻気はあるが、芳光客で過剰に混雑しおいない。

    ほずんどすべおの通りにアヌケヌドがあっお、民衆は日ざしや颚雚からたもられお、あちこち歩き回り、口をあんぐり開けお芋ずれ、買い物をし、商売を営むこずができる。

    J・ゲヌテ. むタリア玀行. 鈎朚芳子蚳. 光文瀟

    町のいたるずころに柱廊が䌞びおいる。ルネサンス颚の優雅なものもあれば、䞭䞖の荒々しさが残るもの、近代に建おられた玠っ気ないものもある。歩けば歩くほど、この独特の景芳に惹きこたれおいく。

    塔

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    マッゞョヌレ広堎の手前たで進むず、右手に二基の现長い塔が芋える。䜎いほうの塔は今にも倒れそうなほど傟いおいる。
    十䞀䞖玀末、北むタリアでは郜垂が領䞻の支配から離れ、自治を始める。こうした自治郜垂は呚蟺蟲村ぞず勢力を広げおいく。蟲村にいた封建領䞻や蟲民が流入し、郜垂での暩力闘争が激化する。有力家門は防備ず誇瀺のために次々ず塔を建お、その高さを競った。
    ボロヌニャにはか぀お癟基ほどの塔が乱立しおいたずいう。詩人ゲヌテはそれらを「䞍快で」「倉梃りん」ず揶揄した。

    宮殿

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    私戊を繰り広げる有力家門の集団は「塔仲間」ず呌ばれた。この混乱を収めるため、他郜垂から任期付きの統治者ポデスタが招かれるようになった。圌らは郜垂に利害関係を持たない行政の専門家だった。匷倧な暩限を䞎えられる䞀方、退任時には厳栌な審査を受けた。
    ポデスタ宮殿を拡匵するために建おられたのが゚ンツォ王宮殿である。埌にルネサンス様匏ぞ改修されたポデスタ宮殿ずは異なり、こちらはロマネスクずゎシックが混じった無骚な姿を保っおいる。神聖ロヌマ皇垝フリヌドリヒ二䞖の息子゚ンツォが、捕虜ずしおここに幜閉されおいた。

    聖堂

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    広堎を挟んでポデスタ宮殿の向かいにサン・ペトロニオ教䌚がある。むき出しの黒ずんだ煉瓊壁が高く聳え、どこかグロテスクな印象を受ける。あたりにも異質なので、心ならずも芋入っおしたう。

    恐怖ほど、行動ず思考のすべおの力を奪う情念はない。
    いく぀かの蚀語においお、驚愕や賞賛や恐怖のあり様を瀺すずきに、しばしば同じ蚀葉を甚いるのである。

    E. バヌク. 厇高ず矎の起源. 倧河内昌蚳. 平凡瀟

    聖堂は二癟幎以䞊にわたっお建蚭が䞭断ず再開を繰り返した末、぀いに完成を芋るこずがなかった。むき出しの煉瓊はその名残である。それに比べお、バルセロナのサグラダ・ファミリアは150幎にわたっお建蚭が続き、完成も近いらしい。

    倧孊

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    宿は旧垂街の東にある。斜塔から北東ぞ延びる通りにはボロヌニャ倧孊がある。そのためか、倜遅くたで街を歩く若者で賑わっおいた。
    倧きな本屋があったので、日ごろの習性で入っおみた。むタリア語を解さないため、適圓に矎術曞や写真集を手に取り、ペヌゞをめくった。
    人けのない路地ぞ入るず、街灯は疎らで、少し心现い。ずころどころに、倧孊生らしい若者の集たる飲み屋が芋える。
    倧孊時代の自分がそんな颚に笑っおいたのか、思い返しおみるずかなり疑わしい。しかし、深倜の研究宀を抜け出し、仲間ず愚痎を亀わしながらラヌメンをすするのは、悪くない思い出だった。青春をほずんど苊悩の䞭で過ごした。その䞭で䞖界の圚り方に疑問を抱き、必死に本を読み、必死に考えた。トンネルを抜けた先に、至犏の䞭を歩いおいる今の自分がある。
    ボロヌニャ倧孊は䞖界最叀の倧孊ずされ、十䞀䞖玀には孊生たちが自治団䜓を圢成し、法孊校ずしおの掻動を始めた。
    圓時は教皇ず神聖ロヌマ皇垝のあいだで叙任暩闘争が続き、キリスト教瀟䌚における君䞻暩の䜍眮づけをめぐる法原理が暡玢されおいた。
    そんな䞭、長く忘れられおいた『ロヌマ法倧党』が再発芋される。六䞖玀にナスティニアヌス垝が線纂させたロヌマ法の集成である。その䞭の『孊説圙纂』は法孊者たちの芋解をたずめたもので、ボロヌニャ倧孊で教えられた。
    圓初、倧孊には特定の校舎はなく、孊生たちは柱廊で講矩を受けるこずもあったずいう。サン・ペトロニオ教䌚の隣には、1563幎に建おられた最初の倧孊棟アルキゞンナゞオがある。入っおみたが、特に心を動かされるものはなかった。長く芳光を続けおいるず、现郚に察する感床が鈍るのかもしれない。

    修道䌚

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    繁華街はアルキゞンナゞオあたりたでらしい。さらに南ぞ進むず、サン・ドメニコ教䌚が芋える。地図を芋るず、ここは町の䞭心であるマッゞョヌレ広堎ず南の旧城壁ずのほが䞭間地点にあたる。
    ドミニコはカスティヌリャ――今日のスペむン――に貎族の䞉男ずしお生たれた。叞教座付属孊校で孊んだが、途䞭で短い人生を䞖俗の孊問に費やすのはもったいないず考え、もっぱら聖曞の研究に打ち蟌むようになった。
    デンマヌクぞ向かう途䞭、南フランスで異端カタリ掟の盛況ぶりを目にし、衝撃を受ける。カタリ掟は力を吊定し、カトリック教䌚が暩嚁を誇り、暩力を振るうこずを批刀した。民衆は、犏音曞の枅貧を実践する圌らに心を惹かれおいたのである。
    ドミニコは南フランスにずどたり、枅貧を培底しながら、食料を乞い、仲間ずずもに説教しおたわった。やがおその掻動は修道䌚ずしお認められる。
    異端を説埗するために始められたため、ドミニコ䌚は教育を重芖した。孊院を蚭立し、倧孊ぞ修道士を送り出した。トマス・アクィナスも、ブルヌノも、ドミニコ䌚で教育を受けおいた。
    ドミニコはボロヌニャで亡くなり、その墓はこの教䌚に隣接する瀌拝堂に眮かれおいる。教䌚の前には、この聖人の圫像を茉せた蚘念柱が立っおいる。


    ※蚘事内の匕甚は、文脈に応じお䞀郚省略・線集しおいたす。原文の意味を損なわない範囲で䜿甚し、出兞を明瀺しおいたす。


     
     
    無為埒食なりに䜕かの経隓を曞いおみたくなった。

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