「水の音」#シロクマ文芸部

「水の音」
水の音が聞こえていた。ポタポタと。
あの女が、また水道の蛇口を閉め忘れたのか、止めに行ってやりたいけど、手足が痺れて動けない。いつの間にか、瞼まで重い。俺は、何を飲まされた?意識が遠退いていくのを必死で堪えた。
※
初めて殺人計画を思いついたのは、ずっとずっと以前のことだった。いつだったのか、はっきりとは覚えていないけれど、もちろん思っただけで想像の域を脱する事はなかった。実際に行動に移す事になるなんて、あの頃は思ってもいなかったから。
※
あれから、どのくらいの月日が経ったのだろう。
今、私は目の前に倒れている元人間だったモノをぼんやりと眺めている。
元人間、元男、元カレ、元……
公園に転がっていた見知らぬ野良猫の死体を見た時には、とめどなく涙が溢れてきたのに、ずっと知っていた筈のこのモノに対しては感情が揺れ動かない自分自身に驚いた。
嫉妬も憎しみも達成感も喜びも悲しみも同情も、ありとあらゆる感情と言うものが「無」となって、私に覆い被さっているような感覚だった。
「全ての色を混ぜれば黒になる」
ふと、そんな素っ頓狂で当たり前の事が頭の中に浮かんで消えた。
何故、この人を殺しちゃったのかしら?
理由って、何だっけ?
ハイヒールを履いたつま先で、ツンツンとそのモノの脇腹を突いてみた。コツコツとあばら骨から私のつま先を通して小気味良い振動が身体に伝わってきた。
「どうせ殺るなら滅多刺しが良かったかしら?」
私は自分自身が選択した毒殺を後悔した。
「でも仕方ないわよね。床が汚れるのが嫌だったんですもの」
吐かれなくて良かったとつくづく思った。このモノの吐瀉物の掃除をするなんて想像しただけで虫唾が走る。
動かなくなった元人間の不細工な顔立ちは苦痛に歪み、いつもよりも少し渋く私の目に映った。
「こういうのを『怪我の功名』って言うのね」
そう言えば、あんなに抱いていたこいつへの嫌悪感も物体となってしまった今は「無」の感情の中に閉じ込められた。
私はこいつから自由になりたかったのよ。だって「別れて」って何度言っても受け入れてくれなかったんですもの。
警察に言えば良かったって?言ったわよ、近所の交番のイケメンのお兄ちゃんに。でも彼『巡回を強化します』って言っただけで、全然頼りになりそうになかったわ。だから待ちきれなかったの。
それから私の中の「殺意」ってヤツが、どんな感情に変化するのか実験してみたかったの。
結果は、この通り。成功とまでは言わないけれど、まぁまぁなんじゃないかしら。後は、この物体を処分して私は何処か遠くへ旅立……
ピンポーン
玄関のチャイムが鳴った。
誰かしら?私を訪ねて来る人なんて居ないはずなのに。
この日のために通販の買い物もしていないから、宅急便でもないはず。
恐る恐る玄関に近付いて、ドアアイを覗き込んだ。
「あっ」
其処には例の交番のイケメンお兄ちゃんが真剣な顔でこちらを睨んでいた。
「今まで一度も来なかったくせに、今日に限って?」
どうしよう、どうしよう、どうしよう……。
※
遠くに玄関チャイムの音が聞こえる。助けてくれ。俺はまだ生きている……。
※
ーー居留守を使おう。そうよ、ただの交番勤務の巡査じゃない。
「笠谷さん、ご在宅なのは分かっているんですよ。水道メーターが動いています」
心臓がどくんと一度大きく跳ね上がった。
「……はい」
仕方なく私はドアを開けた。巡査は私を無視するように、ずかずかとリビングのモノに駆け寄った。モノの脈を測り声を掛ける。
「大丈夫ですか? 笠谷さん、しっかりしてください」
「う、う……」
モノは男に戻り、小さくうめき声を上げた。巡査に続いて白衣を着た男たちが入って来た。男になったモノの腕に何かの注射を施す。
「これで今月、三回目ですよ」
巡査は厳しい目つきで、私ではなく男に言った。
「どういうこと?」
ーーああ、それよりも、水道の蛇口を止めなくちゃ。
「あなたのご主人は酷い記憶障害と妄想癖があります」
白衣の一人が言った。
「ご主人?」
「あなたを殺人犯にしようとしている。だから入院を勧めているのに」
※
助けてくれたのはいいが、こいつらは何を言っているのだろう。俺が精神疾患だって? いい加減にしろよ。
※
ポタポタと水の音がする。
「点滴取り替えますね」
勝手に人の部屋に入って来た女がにこやかに輸液バッグを替えた。
「そろそろ効いてきたかしら? 痛みは落ち着いた?」
「……」
ーー痛み? 何言ってるんだろう、この女。
「一緒に乗っていた男は?」
「え……。あなた一人でしたよ」
「そんなはずないわ」
「いいえ、あなたお一人でした」
ポタポタ……。
水の音がまた響く。
「私のハイヒールは?」
「とても酷い事故でした。命を救うことに全力を尽くしたけれど……」
白いシーツをめくり上げた。
「わ、私の足!」
「今は良い義足がありますから」
女は今度は私を憐れむように微笑むと、もう一度、輸液バッグの名前を確認して部屋を出て行った。
「笠谷誠司」
誰だ?それ。
(了)
小牧幸助さんの企画に参加させてください。
よろしくお願いします。
