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「チャルメラが聞こえる夜」#片桐みかんさんの企画


すずしくなれるかなぁ



「チャルメラが聞こえる夜」


 灰色の雲が重く垂れこめていた。昨夜降った雪が消える間もなく、今にもまた新しい雪が、その上に覆い被さりそうだった。
 早朝の小さな公園の片隅。二基のブランコの前に老人が一人倒れていた。その手には空のラーメン丼が握られていた。そして、その横に古ぼけて片車輪が外れたラーメンの屋台があった。

※

 茂三は毎日、深夜になるとラーメンの屋台を押して、街を回っていた。ところどころメッキが剥げたチャルメラのラッパを長いこと、後生大事に使っている。

ドレミレード ドレミレドレー

この音色を、何千回、何万回と吹いてきただろう。それでもまだ、良い音を出す。
 茂三は週末に古い借家が建ち並ぶこの通りを歩くのを密かに楽しみにしていた。

ドレミレード ドレミレドレー

大きくチャルメラを響かせると、いつもの窓から顔を覗かせる少年がいた。目を輝かせて
「おじちゃん、もう一回ラッパ吹いてよ」
小学校の低学年くらいだろうか。青地にドラえもんの絵がついたパジャマがよく似合っていた。
「坊っちゃん、夜ふかしてお母さんに叱られないかい?」
茂三は、いつも決まってそう訊いた。
「お母さんは、お仕事でいないよ」
少年の答も決まっていた。
父親はいないのだろうか。茂三は、ずっとそう疑問に思っていたが、その言葉を飲み込んでラッパを吹く。

ドレミレード ドレミレドレー

「いいなぁ、そのラッパ」
「坊っちゃん、ラーメン食べるかい?」
その日、初めて茂三は少年に訊いてみた。
「……ぼく、お金持ってないから」
少年は恥ずかしそうに俯いた。
「お金は要らないよ。おじさんのラッパを誉めてくれたお礼だよ」
「……でも、知らない人に物をもらったらダメだって、お母さんが……」
「坊っちゃん、おじさんはもう知らない人じゃないだろう?」
「本当にいいの?」
「ああ、もちろんだよ」
「ぼくの名前はタカキ 高い樹って書くんだよ」
そう言ったかと思うと高樹の姿は窓から消えた。
ガラガラガラと玄関の引き戸が勢いよく開くと、大きなサンダルを履いた高樹が小さな背で現れた。
「本当はぼく、ずっとおじちゃんのラーメン食べてみたかったんだ」
弾んだ声とは裏腹に高樹は、寒空にパジャマ一枚で震えていた。
「よーし! 腕によりをかけた一杯をご馳走するからな」
 茂三のラーメンはシンプルな醤油ラーメンだ。鶏ガラで丁寧に出汁をとったスープに細いちぢれ麺。柔らかく煮込んだチャーシューが一枚とメンマ、刻みネギ、それに申し訳程度に薄いナルトが乗っている。
「高樹くんにはおまけだ」
茂三は、麺の上にチャーシューを一枚余分に乗せた。
「おじちゃん、ありがとう」
高樹は上手に割り箸を割って、ふーふーと熱いラーメンを啜った。
「美味しいねぇ。ぼく、大きくなったら必ずおじちゃんにお金払うからね」
高樹がまくった袖の腕に、青い痣がくっきりと浮かんでいるのを茂三は見逃さなかった。
「これ、どうしたんだい?」
「……転んじゃったの」
「……そうか」
茂三は本能的に、それ以上高樹を問い詰めてはいけないと感じた。
「ごちそうさまでした」
高樹はスープの一滴まで、綺麗に飲み干すと屋台に頭を下げた。
「ドラえもんの『どこでもドア』があるといいな」
茂三は高樹の隣に座って、煙草をふかしながら、星空に向かって呟いた。
「うん、ぼくドラえもん大好き」
「じゃあ、寒いからおかえり」
「ありがとう、おじちゃん」
「しげぞう。おじさんの名前は茂三だよ」
「茂三おじちゃん、来週も来てね」
高樹はもう一度、今度は茂三に頭を下げると家の中へ入って行った。
 
 それから茂三は何度も高樹にラーメンをご馳走した。その度に、高樹の腕や首筋に新しい痣は増えていたが、それには何も触れなかった。ただ、いつも訊ねた。
「お母さんはやさしいかい?」
「うん、とっても!」
高樹はその度に大きな目をきらきらと輝かせた。
「それならいい」

 茂三は人には言えない過去があった。高樹にだって人に触れられたくないこともあるだろう。茂三は、そんな風に自分を納得させていた。
 ところがある週末、高樹の借家の前まで来ると人集りがあった。チャルメラを吹くのをやめて、近所の女性に声を掛けた。
「何かあったんですか?」
「この家の坊っちゃん、亡くなったの……まだ八歳だったって」
「え……」
茂三は足の力が抜けて、その場にへたりこんだ。頭の中を『児童虐待』『ネグレクト』と言う言葉が激しく渦巻く。
ーー俺が、俺が……ちゃんと注意してやれば良かった。

※

あれから二十年の月日が経った。茂三の背は曲がり、屋台を引く力もすっかり衰えた。
ーーそろそろ潮どきかな。
そんなことを考えていた寒い夜更けだった。ちらちらと粉雪が舞い降りてきた。茂三が片方の手の平を差し出すと、落ちた雪はあっという間に溶けて消えた。
ーー儚いもんだ。
やがて粉雪は、ふわりふわりと大きな牡丹雪に変わった。その時、ガタリと音がして降り積もった雪で片輪が外れた。
ーー俺もやきが回ったな。
茂三はため息を漏らし、小さな公園の片隅に屋台を止めた。ブランコに腰を下ろし、医者から止められている煙草に火を点けた。
 その時だった。
「ラーメン一杯ください」
どこからともなく現れた、黒いトレンチコートを着た青年が、茂三に声を掛けた。
「もう今夜はおしまいだよ」
「どうしても茂三さんのラーメンが食べたいんです」
「どうして俺の名を?」
青年は答える代わりに瞳をきらきらと輝かせた。
「チャルメラ吹いてくれないかなぁ」
「ま、まさか……」
「約束を果たしに来ました。あの時のお代を払いに」
「……」
青年は穏やかに笑って続けた。
「ドラえもんの『どこでもドア』があればいいって茂三さん言ってたじゃないですか」
茂三はそれ以上は聞かず、ラーメンを作った。チャーシューを一枚余計に乗せて。
「やっぱり美味しい!」
スープを一滴も残さず飲み干すと青年は深く頭を下げた。
「ご馳走さまでした」
そして、コートのポケットから小さな郵便ポストの貯金箱を出した。
「これを」
「……」
「ぼくは、あの時が一番幸せでした。茂三さんのラーメンを食べていた時が」
「やっぱり、お母さんから虐待を受けていたんだろう?」
「ああ、それは違います」
青年は静かに首を横に振った。
「ぼくは白血病だったんです。治療費のために、母は昼も夜も働いていました」
「……そう……だったのかい」
茂三の胸の奥で二十年間燻っていた黒い悔恨が、あの雪のように溶けていった。
「じゃあ、茂三さん。一緒に行きましょうか」
「ああ」

雪はしんしんと降り続いた。


(了)


片桐みかんさんの企画に参加させてくださいね。
長くなってしまって、ごめんなさいm(__)m

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