
短編小説 神のサイコロ
目が覚めたら、女子高生時代の部屋にいた。
いつもの煎餅布団ではなく、タオルケットをかけたベッドだ。
鏡台を覗くと、シミとシワだらけの69の婆さんではなく、ピチピチの16、17歳の女子の顔が映っている。
(何?何が起こったの?私、若返っちゃったのかい?)
呆然としていると、突然、部屋の中がまばゆい光で満たされた。
『おめでとうございます〜。あなたは、神のサイコロによって、運命の双六の、"振り出しに戻る"に進みました〜』
裸の子供の天使がふたり、パタパタと部屋を旋回しながら告げた。
「ええっ、どういうこと?これまでの私の人生は?なしになっちゃったのかい?」
『そうです〜。もうじきあなたは運命の岐路に立つでしょう〜。そこからまた新しい双六の目ができるのです〜。その時までは古い記憶が残っていますが、じきに消えます〜』
そしてさらに光が増すと、
『いと高きところにホサナ〜』
と歌って天使は消えてしまった。光も消えた。
「あ、待ってまだ聞きたいことが…」
取り残された私ははーっと息をついた。そういえば腰も膝も痛くない。若いっていいなあ。
私は自分の学生カバンの中を漁ってみた。教科書、ノート、筆記用具。ノートには、2-B猿渡悦子、と書かれている。確かに私の名だ。高2らしい。
そこで母の呼ぶ声がした。
「悦子!いつまで寝てるのおみおつけが冷めちゃったわよ!」
ああ、お母さん。生きてまた会えるなんて。
私は急いでパジャマを着替えて階下の食卓に向かった。
食卓で私はお母さん手巻きの卵焼きが美味しくボロボロ泣いて両親と兄に不審がられた。無理もない。私の不幸な人生がまだ始まらない、平凡で幸せな日常。
そう、私は不幸だった。高卒で東京に出て、働き始めたがいいことなんて何一つもなかった。男には騙され、たかられ、逃げられた。何度か転職したが、いわゆるブラック企業に当たり、身体を壊してしまった。実家に帰ることも考えたが、兄が結婚して家を継いでおり、両親は事故で早くに亡くなっていて、帰りづらかった。
結局わずかな貯金で食いつなぎ、SNSや動画を見ながら安酒を飲み、誰ともしゃべらず、カップヌードルやスナック菓子ばかり食べていたのだ。これを不幸と言わずに何と言おう。
さて、運命の岐路。確かに天使はそう言っていた。
部屋のカレンダーを探す。8月12日。私には、運命の岐路の心当たりがあった。机の引き出しにしまった日記帳。そこに挟まれた1通の封筒。
丁寧な字で書かれた私の宛名と名前。ひっくり返すと、野村照史、と名前だけ書いてある。中身の便箋には、
8月15日3時に、村の八幡様まで来て下さい。
話したいことがあります。
とだけ書いてあった。
ラブレターだ、と私は直感した。きっと告白されるんだと。
同じクラスの野村照史のことは、私も憎からず思っていて、告白されたらYESと答えるつもりでドキドキしたもんだった。
しかし、8月15日、私は神社に行かなかった。
台風が来たからだ。昼から暴風雨警報が出て、これじゃあ野村君も今日は諦めただろうと思った。まだスマートフォンどころか、携帯もない頃の話だ。
しかし、彼は諦めなかった。諦めずに傘一本で八幡様の鳥居のところで待っていたらしく、深夜に発見された時にはずぶ濡れで肺炎を起こしていて、意識もなく、2日後に亡くなった。
お葬式に参列して、私は彼をどれだけ好きか思い知らされた。涙が止まらなくて悲しかった。
あの日、私も行っていれば。
生涯残る後悔だった。
だから今度こそ。
台風の中、私も行こう。
運命に一矢報いるのだ。そのために周到な準備が必要だ。私は兄貴が風呂に入ってる途中こっそり部屋に侵入すると、衣類を失敬した。
そしてバスタオルをふたつ。
ゴミ袋をふたつ。懐中電灯。
それらを防水の大きなバッグに入れると、私は15日を待った。
ついに来た15日。
ついに来た台風。
神社までは20分ぐらい歩けば着くが、何しろ外は暴風雨だ。1時間くらいかかるだろう。そこで、玄関の振り子時計がボーンボーンと2つ鳴ると同時に、家族に気づかれないようにこっそりと、私は家を出た。
玄関を出たと同時に凄い衝撃に打たれてよろめいた。雨、というより水の塊がどどんぱ、と襲ってくる。傘がもみくちゃにされ、全く役に立たない。私の出立ちといえば、ズボンとTシャツの上に上下のカッパを着、その上にレインコートを二枚重ねで来ていた。足はもちろんゴム長靴だ。防水のカバンは右肩にしっかと抱えて離さず、私は歩くというよりよろめくように進んだ。野村君もこの中を通ったんだ、と乙女の純情とオババの根性で、私は進んだ。
八幡様の赤い鳥居が見えてきた時は、心底嬉しかった。あと少し、あと少し、と唱えながら石段に辿り着き、這うように登ると、そこにびしょ濡れの野村君が立っていた。目を丸くし、次いで満面の笑顔になった彼を見て、ああ、私はやったんだと言う満足感で足の先までいっぱいになった。家を出てから2時間が経っていた。
「の、野村君来たよ私。遅れてごめん」
「ありがとう!!!猿渡さん」
「野村君、まずはお堂の中に入ろう」
「えっまずいんじゃ」
「台風なんだから、緊急避難よ」
役に立たない傘を捨て、私たちはお堂の中に入った。まずは懐中電灯をつけ、次いで、
「野村君、下着までびしょ濡れでしょう。全部脱いでバスタオルで拭いて。あと着替えも兄のもので悪いけど、持ってきたから着替えて。でないと風邪ひいちゃうよ。あ、脱いだ服はゴミ袋に入れておいて」
と、言って防水バッグを手渡すと、野村君は感心したように
「用意がいいんだねえ。すごいや。猿渡さんは大丈夫なの?」
と聞いた。
私はレインコート2枚とカッパを脱いで、自分がほぼ安心なのを確かめてから、
「私は大丈夫。いっぱいカッパとか着てきたから。じゃあ私、むこうを向いてるねー」
と言って野村君に背を向けて座り、ぎゅっと目をつぶった。
野村君がゴソゴソ服を脱いでいる気配を感じているとドキドキしてお堂が台風に揺らされているのも気にならなかった。男の裸なんて見飽きるほど見たのに、69歳の私は、だんだん16歳の私になっていくようだった。
野村君は体を拭き終え、そして言った。
「うわーブリーフまである」
思わずチッとなった。うら若き16の乙女はブリーフなんて用意しないものなのだ。69のババアの感覚でつい着替えに入れてしまった。
「すごいなあ。なんて用意がいいんだ」
……ウケてるからまあいいか。
さて、全て着替え終わって。
「猿渡さん、もうこっち向いていいよ」
そこには、兄貴のジャージをすらりと着こなした野村照史くんがいた。
「野村君、カッコいい」
「そんなことないよ。それより話したいことがあるって書いたよね」
「う、うん」
「僕の気持ちは、あの手紙を書いた時と変わりました。好きです、付き合ってくださいって言うつもりだったんだけど」
「そんな」
「僕と、結婚してください」
「ええっ」
その言葉を聞いた瞬間、私はふっと気を失った。
『いと高きところにホサナ、グローリアス・ロード』
天使の歌声が聞こえた。
『おめでとうございます〜。運命を変えられました。69歳の悦子さんは完全に消えます〜』
『さようなら、自分に言うのも変だけど、幸せになれよ。私も嬉しいよ』
そして、一人分の人生が、天に昇っていったのだった。
目を覚ました私は、野村君の求婚にYESと答えた。台風一過、帰宅した私たちはこってり油を搾られたが、気にならなかった。
私は野村君の影響で大学進学を決め、福祉関係の分野を学んだ。野村君はバイオ関係の分野を学び、それを活かした職についた。私も福祉関係の仕事に就くべく、就職活動中だ。そして来年の春、私たちは教会で挙式する。
めでたい!!