
君を知らないままで 《最終話》
【EP.23(END) 新汰 / それでも、そばにいたい】
里香に会えない金曜日が続いた。
一週間、また一週間と過ぎていった。連絡しようとして、できなかった。何を送ればいいかわからなかった。あの夜、里香の腕の中で眠って、朝が来て、別れて。それから里香は静かになった。メッセージが来なかった。
終わりが近づいている。
痛いほどわかっていた。こういう静けさを、里香は選ぶ人だ。何も言わずに距離を置いて、自分の中で整理して、それから言葉にする。その整理の時間が、今だとわかっていた。
数週間が過ぎた頃、メッセージが来た。
「今週の金曜日に、外で会おう」
外で、という言葉が目に刺さった。
里香の部屋じゃない。外で。それが意味することは、ひとつだった。別れを告げるつもりだ、と確信した。返信した。「わかった」とだけ。他に何も書けなかった。
約束したのは、小さな喫茶店だった。
落ち着いた店だったが、長居するつもりのない選択だとわかった。
先に着いて、里香を待った。
五分ほどすると、里香が入ってきた。
久しぶりに見る里香は、少し痩せたように見えた。頬のあたりが、前より細かった。でも、歩き方はいつも通りだった。背筋が伸びていて、ゆっくりとしていた。
「久しぶり」
「うん、久しぶり」
向かいに座った。コーヒーを頼んだ。重苦しい空気が、テーブルの上にあった。
里香が口を開いた。
「新汰に、話したいことがあって」
「うん」
「ちゃんと話したことなかったから」
里香がカップを両手で包むように持って、少し俯いた。
「わたし、恋人がいるって新汰に言ったよね」
「うん…」
「五年前に亡くなってるんだ…」
静かな声だった。
僕は顔をあげて里香の顔を見た。
「どういうこと?」
「交通事故だった。その日、わたしたちは喧嘩して別れ話になった。彼がわたしのところに来ようとして、事故に遭って…」
手の中のカップを、里香はじっと見ていた。
「わたしはずっと彼の愛を信じられなかったの。わたしを愛してくれてたんだと、別れ話の時に知った。そして…その日に……亡くなった」
喉のあたりが、締まる感覚があった。
「それから、ずっと彼がわたしの中にいた。今も恋人のままなの。亡くなってからも、ずっと……」
里香が顔を上げた。
「新汰の年齢が彼と同じで……彼が生きていればって新汰に彼を重ねてた…」
知らなかった。
「でも、彼とは違うってすぐにわかった。それでも、新汰といると、止まってた時間が動くんじゃないかって。また前に進めるんじゃないかって」
里香の目が、少し赤かった。
「でも、結局は新汰のなかに彼を探してた。新汰を利用してたんだと思う」
「ごめんなさい…」
僕はなんて言ったらいいのかわからなかった。
テーブルの上で、里香の手が静かに動いた。
「新汰のおかげで、また楽しいって思えることを取り戻せた。また恋愛したいって思えた。それは本当のことで…」
里香が僕の顔を見た。
「感謝してる」
里香が息を吸った。
「素敵な時間をありがとう。今まで利用してごめんね」
少し間があった。
「新汰、好きだったよ」
過去形だった。
里香が伝票を持って席を立った。僕はただその姿を呆然と見ていた。
里香が店を出ていく。
コーヒーカップが、テーブルに残っていた。
震えていた。
自分の手が、震えているのに気づいた。
勝てないと思っていた恋人は、もうこの世にいなかった。
五年前に亡くなっていた。里香はずっとひとりで、その人を抱えていた。愛されていたと知った日に失った人を、五年間ひとりで抱えていた。
里香がどれだけ苦しかったか。
考えたら、胸が痛くなった。里香は僕を利用した、と言ったけれど、僕には里香の苦しみが痛いほどわかった。ずっと苦しんでいたんだ。ひとりで抱えていた重さの前に、僕の惨めさなんて小さかった。
今もまだ、里香はひとりで苦しんでいる。
その事実が、体を動かした。
「利用してくれよ」
呟いた。声に出たのか出ていないのかわからない。でもそれが僕の本心だった。
椅子を引いて立ち上がると、急いで里香を追いかけた。
また同じことの繰り返しかもしれない。僕はきっと彼には勝てない。勝てないとわかっていても、足が動いた。
里香のそばにいたい。
「そばにいたいんだよ、僕は」
走りながらそう呟いた。
その思いが僕のすべてだった。
** お礼 **
最後まで『君を知らないままで』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
この物語は、派手な出来事よりも、言葉にできない気持ちや、少しずつ変わっていく心の距離を大切にしながら書きました。
誰かを知りたいと思うこと。
それでも、最後までわからないこと。
そんな切なさごと受け止めながら、ページをめくってくださったことに、心から感謝しています。
この作品が、読み終えたあとも、ふと誰かを思い出すような物語になれていたら嬉しいです。
また次の物語で、お会いできますように。
本当にありがとうございました。
IZU