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【オートフィクション小説】自慰に耽る【R-18】

    作者自身の体験を元に再構築したオートフィクション作品です。15禁程度の性的描写(法律上未成年者の性的描写も)が含まれています。虐待やネグレクトに関する描写、トラウマや自己否定と向き合う描写があります。


     
      神よ、
      変えることのできるものについて、
      それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
      変えることのできないものについては、
      それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
      そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
      識別する知恵を与えたまえ。
       (ラインホルド・ニーバー"The Serenity Prayer"大木英夫訳)
     
     
     
     
     唇から葡萄ぶどうの粒が零れ落ちた。……ああ、違う。葡萄じゃない。小さな水泡だ。くぐもった音を立て海藻めいた黒髪に絡まりながら、ゆらゆらと水中を昇っていく。
     辺りは暗い。身体を包む水はひんやり静かで、遥か彼方にある水面越しの丸い光だけが唯一の光源だ。
     高く、遠く、かすかな音がする。水面から引っ張り上げようとしているみたいに、近づいてはまた遠のく。人の声だ。呼んでいる。近づいてくる。
     うるさいな、ほっといてや。
     不満の泡を口から出して、そっぽを向いた。
     
     
     ――私はここから出たくない。
     
     
     
     
     
     
     すうすうする下半身を掴まれた。掴むものなんてあるはずのない箇所を。
     その瞬間、私は1年8か月ぶりにベッドから跳ね起き、産声じみた悲鳴を上げていた。
    「どうしたの? もしかして痛かった!?」
     看護師が持っていた尿瓶を放りだして、私の身体を抱き支えてくれる。感覚的な違和感が一瞬よぎったものの、そんな些細な引っかかりなんて全然目じゃなかった。今目の前にある自分の剥き出しの股間に比べたら。
    「な、なん、しょれ……。しゅよお……? がん……?」
     舌ったらずな己の声を聞く。病衣がはだけた股間の真ん中には、肌色のナマコの赤ちゃんみたいな物体がくたっと寝そべっている。
     単体で見れば、けしてグロテスクなものではない。だけどそれは、明らかに私の股間と繋がっていた。融合していた。事故によってできた腫瘍なのだろう。毛がないのも、腫瘍のせいで寝ている隙に剃られたのだ。
     何が、「大きな怪我はないし、その内すっかり元気になるよ」やねん。好々爺そうな担当医の顔が脳裏に浮かぶ。気休めも大概にしてほしい。腕や足にできた腫瘍なら切除することも可能だろうけど、この腫れものは位置的に私の……――
    「喋れるようになったのね、尚くん」
     医者が医者なら、看護師も看護師だ。年若い彼女は患者の動揺なんてお構いなしに笑うと、立てた枕に私を凭れさせた。
    『ナオくん』、確かにそう聞こえた。今までのは聞き間違いじゃなかったらしい。
    「恥ずかしいのかな? 大丈夫ですよ。すぐ慣れるからねー」
    「あにょなぁ、あぁしのなまえはぁ……」
     約2年ぶりの発話はどうしても覚束ない。SM譲みたいなセリフを吐く看護師に、痺れた舌を駆使して反論しかけたところで、いきなり病室のドアが開いた。
    「大丈夫か、尚!?」
    「せやかりゃなおちゃう……!」
     甲高い子供みたいな声が出た。しんと部屋中が静まり返る。
     ドアを開けた智也ともやとかいう男の子は、今日も青い作業着姿だった。痛ましげに眉をひそめて私を見つめている。数秒遅れてやってきた弁護士の男が、智也とかいう子に耳打ちしてすぐに部屋を出ていく。
    「あ……藤咲ふじさきくん。木邑きむらさんはどこ行ったの?」
     廊下を歩いていく足音が遠のいてから、我に返ったように看護師が口を開いた。智也は「先生呼んでくるって」と返し、ゆっくり部屋に入ってくる。
     この二人は歳が近いのもあってか、お互いくだけた口調で話す。それとも、プライベートでも付き合いができたのかもしれない。私は意図せず恋のキューピット役を押しつけられているのだ。そうでもなけりゃ、会ったことも名前すら聞いたこともなかった遠い親戚の彼が、2年近くも私の見舞いに通い詰めるはずがない。
    「いきなりどうしたの、尚くん。そんなにおしっこするのが恥ずかしい?」
     顔を覗きこんできた看護師の言葉で、下半身丸出しなことを思い出した。急いで病衣で隠そうとするが、ちっとも腕が動かない。看護師の陰になっているとはいえ、若い男の子が近くにいるというのに、火事場の馬鹿力はさっき飛び起きたことで打ち止めらしい。
     それにしても、この看護師のデリカシーのなさは一体なんなのか。看護学校を出て間がないようだが、女心には素人も玄人もない。名前の言い間違いはともかく――大方、事故現場の混乱で他の被害者と所持品が入れ替わりでもしたのだろう――、年上の女性を『くん』付けで呼ぶのは個性が強いってレベルじゃないし、幼児に話しかけるような口調も常識外れだ。
     ――何かが、変だ。
     股間からぴょこんと飛び出ている腫瘍を睨みつけていると、医者とさっきの弁護士が部屋に入ってきた。
    「あ、先生。こいつどうもパニックになってるみたいで……」
     智也とかいう子が不安そうに言うのを頷きで制し、担当医が枕元に立つ。
    「喋れるようになったんだってね。若いからどんどんよくなるね。私なんか膝が痛くて痛くて」
     老人ジョークを口にする医者からすれば、28歳の私――いや、1年昏睡してたらしいから今は29か――は確かに小娘だろうが、自分が同年代と比べて健康体だとは思えない。短大を出てからずっとバーテンダーをしてきたから、太陽を浴びると灰になる吸血鬼のような夜型人間だし、食事をとらないことはあっても酒を飲まない日はなかった。不摂生が蝶ネクタイをつけてシェイカー振ってるみたいな生活を続けていたのだ。特に事故前の3か月間は、半同棲状態だった彼氏が出ていって気兼ねする必要がなくなったから、連日明け方まで飲み歩いていた。
     1年寝たきりのあとの8か月間。この回復速度は平均以下なんだと思っていた。なんせ半年はまばたきしかできず、1日の9割以上を寝て過ごしていたのだから。
     更に顔を俯かせて医者の視線から逃げた。直感が言っている、下手に喋るのはまずいと。私の勘はよく当たるのだ。伊達に28年間、人の顔色を窺って生きてきたわけじゃない。
    「どうしたんだ、尚。腹でも痛いのか?」
     智也とかいう子の心配そうな声がする。しばらくして、医者が静かな声で言った。
    「君の名前は『西川にしかわ尚』じゃない?」
     やはり子供扱いの猫なで声だ。警戒しながら無言で頷いた。
    「じゃあ、なんて名前?」
     曖昧に首を捻る。言っていいものか判断がつかない。医者は温和な口振りと態度なのに、やけに威圧感があった。まるで尋問を受けているようだ。寄ってたかって得体の知れない宇宙人たちに囲まれながら。
     そこまで考えて、医者の威圧感の正体に気付いた。身体が大きすぎる。痩せた老人なのに、身長は180センチを優に超えているだろう。目線で確認してみると、他の連中も平均より随分大きい。さっき看護師に身体を支えられたときに違和感があったのは、このせいに違いない。
     この場にいる私以外の全員が、2メートルほどの高身長。そんなこと有り得るだろうか。そもそも、彼らがみんな標準語なのも、よく考えてみるとおかしい。よそから来たとしても、大阪弁は移りやすい。住んでいれば少しは感化されるはずだ。
     実はここは大阪ではなく、私は標準語地域で入院しているのかもしれない。確かに事故当時の記憶がないから、旅行中だったというのは有り得る。しかしそれでも疑問は残る。見舞いに来るのが、この事故を担当している弁護士と遠縁の青年だけとはどういうことだ。千里ちさとは? 美琴みことは? マスターは? 私が寝ているときに来てたのだろうと思っていたが、それなら名前を間違えられる道理がない。
     最早自分をとり巻く連中がエイリアンにしか見えなくなった。油断なく彼らを睨んでいると、医者が白衣の胸ポケットから平べったい物を私の眼前に差しだした。銀色の表面には、やつれた子供が映っている。
    「君の名前は西川尚くん。3日後の10月10日で7歳になる。ここに来たときは小学校入学前だった。思い出したかな?」
     優しい声に茫然と首を振る。鏡の中の、色白で目の大きい男の子も首を振る。疑いようもなくただの鏡だ。こんなに薄い映像装置なんかあるわけない。この医者が宇宙人でもなければ。
    「何か覚えてることは? 例えば……最後にしてたこと、とか」
     もう一度首を振る。私以外の全員がほっと安堵したのが判った。
    「そうか……。何、心配はいらないよ。その内思い出す。今はゆっくり休もうね」
     医者は私の肩を叩くと、看護師に耳打ちで指示を出して病室を出ていった。智也という子と弁護士も続けて退室する。弁護士がドアを閉め切る直前、智也の不安そうな早口が聞こえた。
    「事故のショックで……」
     あとはドアが閉められて、ぼそぼそと聞きとれないやりとりに変わる。
    「さあ、おしっこしましょうね。大丈夫、ちゃんとできるよ! 前までやってたんだから」
     看護師が見当違いの励ましをしながら、ナマコの赤ちゃん改め私のムスコの赤ちゃんを尿瓶の口に入れる。よく見ると、その下にふたつの肌色の団子もあった。本当に腫瘍じゃなくて男性器らしい。
     膀胱は最早限界だが、こんな状況で出せるわけない――と思ったら、いきなり看護師に腹を手の平で押された。手付きは優しいものの、かなり強引に押してくる。「ほら、ね。手伝ってあげるから」って、一体なんのプレイやねん……!
     パニくっている内に、ささやかな水音が聞こえた。同時に「うあっ」と思わず声が漏れる。
    「大丈夫、零れてないよ。上手上手」
     看護師がにこやかに褒めてくれる。が、そんなん気にしたわけとちゃう。排尿の感覚にびっくりしただけだ。女のときと違って、短いけれど細い管を通り抜けていく独特の感覚が確かにある。なんやこれ、めっちゃ変な感じ。
     水音がやむと、看護師は後始末をし始めた。いつの間にか廊下の声も聞こえなくなっている。
    「いっぱい出たねえ」
     これまたアダルトビデオみたいなことを言う看護師の無邪気な声を聞きながら、私は脳内で自分の状況について整理する。
     ある日目覚めたら事故で1年経っていて、しかも7歳の男の子になっていた。あ、もうあかん。意味不明すぎて頭が理解を拒もうとする。
     聞きたいことは山ほどある。だけど、おかしいのは私の頭かもしれない。周りから見れば、今の私はいたいけな子供だ。そんな子が理路整然と話したり、自分は30前の女だと言い張ったりすれば薄気味悪がられる。最悪政府に捕まって、解剖されてしまうかもしれない。幸い、事故のショックで記憶を失っていると思われているようだから、とりあえずだんまりを決めこんで情報収集が妥当か――。
    「じゃあ、私行くね。何かあったら、いつもみたいにそこにフッとして」
     私の顔の上、数十センチのところにある高感度センサー付きのナースコール――すごい技術だ――を指差した看護師が、「あ、もう声出るか」と笑った。
    「ここあ……とうきょ……?」
     反射的に言っていた。ドアノブに手をかけた看護師が振り返って頷く。
    「そうよ、大槻総合病院。今は知らない大人たちばっかりでつまらないだろうけど、すぐに尚くんと同じ歳ぐらいのお友達とも遊べるようになるからね」
     
     
     
     看護師と入れ替わりになって、智也と弁護士の木邑が戻ってきた。
     私が記憶喪失だと判明したからだろう。一度聞いていた自己紹介を今度は詳しく話し始めた。
    「俺の名前は藤咲智也。尚とは、はとこっていう遠い親戚になるんだってさ。俺、自分に親戚がいたなんて知らなくて、木邑さんから尚のこと教えてもらったときすげえ嬉しかったんだ。これからよろしくな。退院したらいろいろ遊びにいこうぜ」
     そう言って本当に嬉しそうに笑う彼は、少し癖のある前髪に変な跡がついている。今日が初めてというわけではなく、会えばほとんどの確率でついていた。引っ越し業者のバイトをしているらしいので、汗抑えのタオルを巻いていた名残だろう。年齢は22、3歳くらいか。大学生には見えないからフリーターなんだろうが、ちゃらついた感じのない勤労好青年という風貌だ。バイト先で可愛がられているに違いない。口調や仕草は歳相応なものの、社会人らしい落ち着きがあった。
     それにしても……さっきのこの子の言葉がなんとなく引っかかる。私が違和感の正体に気付く前に、木邑が話し始めた。
    「おじさんは尚くんの担当になった木邑って言います。尚くんが入院してる間のお金の支払いなんかをやってるよ。だから君は安心して、早く元気になってね」
     実際は事故の加害者から示談金をふんだくったりもしているのだろう。前回同様弁護士と名乗らなかったのは、私が子供だからか。襟に弁護士バッジが見えないから、お人好しの営業マンのようにも見える。それでも彼が弁護士なのは、自己紹介される前から気付いていた。バーの勤務中に客から教えてもらったのだ。「知っとる、明里あかりちゃん。ほんまの弁護士はドラマみたいにバッジ見せびらかしてへんのやで」とチラッと襟を捲って。木邑の上質なスーツの襟の裏側にも、小さな法の向日葵がひっそり咲いているのだろう。
     木邑の話で違和感は確信に変わった。この西川尚という男の子には肉親がいないのだ。寝たきりになるほどの事故だ。保護者がいても弁護士は就くだろうが、入院費の支払いなどは通常弁護士業の管轄外のはず。
     恐らく、尚の親は事故に巻きこまれて亡くなった。祖父母や叔父叔母もなく、だから遠縁の藤咲家まで連絡がいったのだ。木邑はこの尚という子の財産管理も任されているのだろう。
     7歳で天涯孤独の孤児。なかなかハードな状況だ。なのに全然危機感が湧いてこない。知らない子の話を聞いているようにしか感じない。事実、西川尚と私はまったく赤の他人なのだ。こんな状況のとき、一体何をすればいいんだろう。私がしたいことってなんなんだろう。
     ゆっくりと視線を巡らせ、窓の外に目を向けた。秋の空は澄んで白く見えるほどに遠い。薄緑色のカーテンが午後の陽射しに透けている。やっぱりどことなく白っぽくて、夢の中の景色みたいだ。そっとまばたきをしてみても、四角く切りとられた秋空が続いているだけだった。
     と、小さく跳ねるような声が聞こえた。声の主の智也に視線を向けると、「やべ」と呟いて携帯電話の画面を見ている。
    「次の作業始まる。先輩たちに無理言って抜けさせてもらってんだ」
     目が携帯に釘付けになった。初めて見るデザインだ。未来的なメタリックブルーのボディはパクンと軽い音を立てて折れ曲がり、手の中に納まるサイズになる。私が入院している間に出た最新機種だろうか。そんな物を持っているなんて、案外いいところのお坊ちゃんなのかもしれない。孤児の私が個室に入院しているのは、彼の親の計らいによるものだろうし。
    「ん? 尚、もしかして目が悪いのか?」
     携帯を作業ズボンのポケットに入れたその指で、眉の間を撫でられた。無自覚に目を眇めていたらしい。視力が悪いのは明里のときからだから気付かなかった。違和感がないということは、明里と同じ左右0.4ぐらいの近視なのだろう。
    「メガネも用意しないとな。じゃ、今日のところは帰るけど、思い出そうとして無理なんかするなよ。全部俺に任せとけ」
     智也はいかにもお坊ちゃん然とした力強い発言をして私の頭を一撫ですると、「木邑さんも。お先に」と慌てた様子で病室を出ていった。手を上げて見送った弁護士が私に向き直る。
    「僕も仕事があるから帰るね。尚くんが喋れるようになったから、これからいろんな大人の人が尚くんに会いにくるけど、僕もできるだけ一緒にいるようにするから」
     少し考えて、無言で頷いた。『いろんな大人の人』というのは行政の人、特に児童福祉に関わる人間のことだろう。
     
     
     
     
     自分が西川尚という男の子になっていると知ってから、半年が過ぎた。
     この半年間は、智也が持ってきたジオラマセットを組み立てて過ごした。土台は30センチ四方の薄い箱。そこに配置する家や車などのミニチュアは数も種類も豊富で、子供用のオモチャながらかなり本格的な代物だった。買ったのか、自身の子供時代の持ち物だったのかは判らないが、どっちにしろやはり智也は見た目よりも裕福らしい。
     暦が3月に入ると、自力で身体を起こせるぐらい回復した私はリハビリテーション病棟に移されることになった。暦といえば、今年は西暦2008年らしい。正月頃、新しくあつらえられたメガネのレンズ越しにテレビを見させてもらったときは、「え!? 2002年やろ!?」と思わず声を上げてしまった。
     それ以外ではこの半年間、私は沈黙を貫いてきた。大阪弁を標準語に直すのはそう難しくもないが、イントネーションを直すのは並大抵のことじゃない。店で働いているときも、他県から来た客に散々からかわれた。接客では敬語を使うから標準語と同じはずなのに、「めっちゃ大阪弁やん!」とイントネーションの違うエセ大阪弁で。喋れば同じことが起こってしまう。
     黙っていても怪しまれることはなかった。私は『可哀想な男の子』だった。木邑が言っていた通り、体力が回復してくると頻繁に大人たちが病室を訪れるようになった。基本的には優しくされた。子供の権利と生活を守る仕事を選ぶような人たちだし、私は可愛らしい顔立ちに長い入院生活のせいで歳よりも小さく華奢な身体と色白な肌という、いかにも庇護欲をそそる見た目をしていた。特に中年の女性職員は、庇護欲が高じてお節介になりすぎるきらいがあった。
    「可哀想に。こんなに小さいのに恐ろしい目に遭って。まったくなんて母親かしら……!」
     感極まったように呟かれた小声の独り言を聞きつけたとき、私はすべてを理解した。推理のピースはこれまでに揃っていた。
     
     
     西川尚は、母親に殺されかけたのだ。
     
     
     
     
     
     早速その推理の裏付けをとるチャンスが巡ってきた。リハビリ病棟の四人部屋に移って3日目のことだ。
     完成したジオラマセットの隣、床頭台の上に大量の紙が挟まったファイルが無造作に置かれている。窓から差しこむ陽射しがスポットライトのように、小さな小さな町と巨大なファイルを照らしている。
     素早く部屋の中を見渡した。体質柄かメガネ酔いするため、普段はメガネをかけていない。裸眼では端のベッドがはっきり見えないが、人の気配も感じないので、恐らく全員出払っているようだ。時刻的にリハビリ中だろう。
     今さっきトイレに立った木邑も、腹を押さえていたからすぐには戻ってこないはずだ。私がまだ就学前で、識字能力がないから仕事道具を油断して置いていったのだ。
     身体ごと床頭台に向いて、慎重に分厚いファイルを持ち上げた。予想以上の重みにすぐに腕が音を上げたが、なんとかばらけずに膝に置くことに成功する。それでも重い。重すぎる。
    「あかん、膝ミシミシ言うとる……」
     沈黙の掟を破って呟きながら、忙しなくページを捲った。木邑が今受け持っている案件の資料が纏めてあるのだろう、ほとんどちんぷんかんぷんだ。付箋の日付で当たりをつけて探す。
     ハッとするフレーズが視界に飛びこんできた。『西川尚・一家無理心中事件』。その文字の下には、新聞の切り抜きが貼られている。小さな記事に素早く目を通した。
    『2月3日午前8時頃』、『母親の運転する自動車が急加速して一直線に海へ』、『後部座席には当時6歳の男児と4歳の女児』、『長男は意識不明の重体』、『母親と長女は死亡が確認された』、『遺書はなく、発作的な行動だったと』、『長男の身体には複数の古い痣が』――
    「やっぱり……」
     呟いて、ページを捲る。数ページに渡り、インターネットの記事をプリントアウトしたらしい紙がファイルされている。内容は似たり寄ったりだったが、救出の経緯が書かれたものを見つけた。私が助かったのは、偶然その場に居合わせた一般人男性が身を挺して救助してくれたかららしい。彼は私と一緒にこの病院に搬送され、間もなく死亡したそうだ。……見るんじゃなかった。
     ずっしりと重くなった紙を捲る。おおげさな書類のようなものが出てきた。住民票に似ているが、微妙に違う。戸籍謄本というやつなのだろうか。上質な分厚い紙に氏名や本籍が載っている。30代男性の証明書らしいが、名前に見覚えはなかった。本籍も大阪だ。
     西川尚に関する資料はここまでかと思いながら、惰性でもう一枚捲ってみる。同じ形式の書類だ。名前が藤咲智也になっている。
    「あれ? 挟み間違い……?」
     独り言を言いつつ、内容を確認する。昭和63年6月18日生まれの19歳……って、まだ未成年やん。とっくに成人してると思ってた。落ち着いてるのもあるけど、老け顔――
     ガチャッと音がして、反射的にそちらを向いた。伸び上がった背筋と、無理やり動かした首の筋が引き攣っている。
     私の膝上のファイルを見た木邑は、微笑を浮かべて部屋に入ってきた。
    「気になるかい?」
    「あ……トイレは……?」
     声が出てしまっていた。イントネーションは問題ない、はずだ。
     木邑が照れくさそうに笑う。
    「清掃中だった。他のトイレ探してる内に波が引いちゃって」
     次に言われる言葉を予想して身構えた。
     私が喋らなくても済んだのは、喋れないと思われていたからに違いない。記憶喪失を当然だと捉えられるのも、事故の外傷性ショックからくるものではなく、母親に殺されかけた心因性ショックからくるものだと思われていたからだろう。智也が持ってきたジオラマはただの見舞い品なんかじゃなく、心の傷を癒すための箱庭療法の一環だったのだ。言葉を失っていないと判れば、滞りまくっているだろう業務手続きを進めるために、質問攻めにされるに決まっている。
     俯いて、ファイルを掴んでいる自分の左手を見つめる。未だに自分のものだとは思えないその小さな手は、5本の指先すべてに引き攣れた手術跡がある。皮膚移植の痕だ。右手の指はもっと酷く、皮膚の表面が抉れて筋肉が剥き出しになっている。両足の先もゾンビの皮膚のように青黒く変色してしまっていた。
     これらは凍傷の結果だろうから、今回の交通事故とは関係ないと勝手に決めつけていた。実際は今回の事故――いや、殺人未遂事件で負った怪我なのだ。実の母親に殺されかけた証、二度と消えることのない傷跡として。
     勝手に目から涙が滲んだ。尚に同情したからじゃない。自分と重ねてしまったからだ。
     初めて私は西川尚本人なのかもしれないと感じた。30前の女の私と、7歳の男の子である尚。なんの接点もないはずの私たちは、その実『魂の業』、カルマで結ばれていた。そして、死んだ私は西川尚として生まれ変わった。私の明里としての記憶が途切れたのが2000年の8月で、尚の誕生日は同年の10月だから、時期的にも辻褄が合う。
     事故のショックが引き金となって前世の記憶が顕在化し、尚のこれまでの記憶を上書きしてしまったのだろう。そうとしか考えられない実例は過去に何件もあると、外科医をやっているバーの常連から聞いたことがある。
    「その傷が嫌? 怖いかい?」
     私が泣いているのを誤解したらしく、木邑が声をかけてきた。無視していると困ったような苦笑が聞こえて、次に静かな声が降ってくる。
    「君のその指、色の違う部分は元々智也くんのものなんだよ。右手は傷が深くて剥がれちゃったけど、そうやって動かせてるのは、あの子が自分の皮膚を君に分けてくれたからなんだ」
     びっくりして木邑の顔を見上げた。木邑はゆっくり頷くと、ベッドの脇でしゃがんで私と目線を合わせた。
    「確かに尚くんにとって僕たちは知らない大人で、怖いかもしれない。でも君は一人じゃない。智也くんと君は、少しだけど血が繋がった家族なんだ。あの子は君と一緒に暮らしたいんだって。考えておいて。君もそうしたいなら、おじさん絶対に叶えてみせるから」
     
     
     
     藤咲智也はよほど恵まれた幸せな家庭で育ったのだろう。法律的にも感情的にもただの他人である遠縁の子供のために、自分の身体に一生残る大きな傷跡をつけるだなんて、偽善ではできない。天真爛漫な優しさが心の根っこにまで沁みついている。愛情深い両親によって与えられていた子供の頃の美しい世界が、今もそのままに見えているのだ。
     それを知った私は、なおさら智也に対して頑なになった。別にいけ好かないとか、妬ましいとかじゃない。むしろ好ましい人種だ。幸せな家庭で育った人間は裏表がなく無邪気で、言うことにも他意がないから、『今の発言は嫌味だろうか』などと身構える必要がない。ただ、あまりに眩しすぎるのだ。自分じゃ相応しくないと、劣等感に苛まれてしまう。そんな状態で付き合っては相手に悪いし自分も疲れる。少し離れた位置からそっと眺めて憧れるくらいがちょうどいい。
     それでも私は児童養護施設じゃなく、智也に引きとられるほうを選んだ。彼が一人暮らしだと知ったからだ。木邑がどんなに優秀な弁護士でも、法律上の血縁関係でもない20歳の智也が私の養育権を勝ちとれるわけがない。実家からの援助が前提なのだろう。親と住んでいないのなら気が楽だし、施設で子供たちと共同生活をするよりは自由も金銭的余裕もありそうだ。
     現状に満足しているわけではけっしてない。子供の身なんて不自由だ。だけど積極的に元に戻りたいとも思えなかった。一度美琴や千里に電話をかけようと病院内の公衆電話の前に立ったものの、携帯電話の番号が思い出せず未遂に終わった。実家にはたとえ番号を覚えていたとしても、かける気なんて起きない。相変わらず私はただ流されるだけ。自分で自分のしたいことが判らない。何ができるか判らない。
    「じゃあ、行こうか」
     看護師たちの見送りに手を振っていた智也が、ジオラマの入った包みを抱え直して晴れやかに笑う。夏の熱量が残る9月の日差しを浴びて輝くこんがり焼けた肌に、白い歯のコントラストが清涼飲料水のCMみたいだ。だけど風に乗って、不釣り合いな匂いが私の鼻先を掠めた。
     彼はこう見えて喫煙者だ。しかも随分前から吸っているらしい。数か月前、中庭をリハビリスタッフと移動中に、喫煙スペースで煙草を吸っている姿を目撃した。時期は6月の下旬で彼は20歳になっていたけど、数日であれほど手慣れた吸い方はできない。別に意外とも思わなかったし、失望もしなかった。リラックスした様子で深々と吐き出される白い煙を見て、私も少し吸いたくなった程度だ。
     喫煙者と暮らして我慢できるか少し心配だったが、杞憂だったようだ。煙草の匂いを嗅いでも吸いたくならない。精神的な依存は残っていても、身体的な依存がないからだろう。
     小さく安堵の息をつくと、いきなり右手を掴まれた。咄嗟に振り払って、それだけじゃ治まらずに半歩後退る。バランスを崩してよろけている私に、智也が困ったように笑った。
    「ごめん、びっくりさせちゃったか。病院の前、車多くて危ないから、手繋いで行こうぜ」
     俯いて両手を胸に抱く。右手を掴む左手の指先が、指貫をつけているかのように感覚が鈍い。今目の前にいる、他人の男の子の皮膚が貼りついた場所。
     黙りこむ私を智也は見つめているようだったが、ゆっくりしゃがんで顔を覗きこんできた。
    「木邑さんから聞いたよな? 今の俺はまだ尚を預かってるだけだって。でも俺は尚を養子……えっと子供っていうか、家族として迎えたいって考えてるんだ。苗字も俺と同じ藤咲になってな。本当の家族になりたい。考えといてくれよ」
     まっすぐ注がれる視線が気まずくて目を逸らすと、少し遅れて頭を撫でられた。
    「よし、帰るか。俺が車道側歩くから、尚は左側歩けよ」
     歩き出した智也の斜め後ろを、俯きがちについていった。
     
     
     
    「今日からここがお前の家だ。遠慮なく寛いでくれ」
     開いたドアの前で茫然としてしまった。古いアパートで一人暮らしだということは事前に聞いていたが、まさかここまでとは。
    「すごく散らかってますね……」
     今日までの間に一人練習してきた発音で注意深く口にすると、智也が段ボール箱を足で退けながら板張りの床に上がった。
    「これでも片付いてるほうなんだぞ。児童福祉の人が視察――尚が暮らせる部屋か調べにきたから。でもいろいろ足りないもん買い足したら、また散らかっちまった。あ、トイレは横のドアな。風呂も。で、ここが台所で、そっちが居間。奥が寝るとこ」
    「見たら判ります……」
     頭痛がしてきた。三和土からの続きになっている猫の額も真っ青な台所には大きなゴミ袋が放置され、引き戸がとり払われて丸見えの居間には壁沿いに本が積み重なり、今にも崩れそうになっている。奥の和室にも本と服が散らばっていて、布団も敷きっぱなしだ。せめて寝室の襖ぐらいは閉めとこうや。お代官様でもおなーりーするんか。
     彼との同居を選んだのは失敗だったかもしれない。私も自分のアパートは散らかりがちだったが、若い男の子の部屋というだけでなんだか不潔な感じがして、爪先立ちで台所に上がった。その間に智也は抱えていたジオラマをテレビの上に飾ると、引き返してきて冷蔵庫を開ける。
    「ほれ、麦茶。暑かっただろ。勝手に出して飲んでくれていいから」
    「はい。……これ、藤咲、さん、が作ったんですか?」
    「一人暮らし長いからなあ。買ったら高いし」
     学生の頃から一人暮らししているとは聞いていた。進学のために上京してきたのだろう。彼は現在フリーターだ。大学に入学したものの、辞めてしまってそのままなのかは判らないが、とりあえず実家からの仕送りなしで自活しているらしい。私が初見時、最新機種だと勘違いした携帯電話も、実際は型落ちの0円機種だった。
     質素な生活に甘んじてまで東京に居座っているのは、社会勉強のつもりなのだろうか。まだ若いから、大した考えもなく都会の空気を楽しみたいだけなのかもしれない。それとも、私を育てることで発生する国からの支援金が目当てか。
     安っぽいグラスに口をつけてみた。冷たい麦茶の味は、祖母の家で過ごした夏休みを思い出させた。
     
     
     
     昼食は宅配ピザだった。
     宅配ピザなんて見るのもうんざりだったけど、退院祝いで奮発してくれたのだろう智也の厚意を無下にすることもできない。渋々一切れとろうとしたら、チーズを下にしてテーブルに落としてしまった。
    「ご、ごめんなさ……」
    「いいよいいよ。Lサイズはまだ尚には重かったな」
     智也は笑って私の落としたピザを咥えながら、台所から小皿とナイフをとってきた。箱の中でピザを一口サイズに切り分けてから、皿に載せて渡してくれる。
    「これで大丈夫か?」
     赤ん坊みたいに世話をされ、居たたまれなさに背中を丸めた。
     まだリハビリの途中だから腕力も握力も心許ないものの、ピザを落としてしまったのは左手でとろうとしたからだ。私は明里だったとき、左利きだった。しかし尚はどうやら右利きだったらしく、左手だと上手く力が入らない上に、左の指は智也の皮膚が移植されているため触覚も鈍い。できるだけ右手を使うように気をつけているのだが、油断すると左手が出てしまう。
    「美味いか? 耳の部分、残してもいいから。少食だもんな、お前。俺が食うから美味いとこだけ食えよ」
     にこにこ訊いてくる智也に、まさか「ピザ嫌いです」とは言い出せず――そもそも尚にとっては初めてのピザだ――、無理やり胃の中に押しこんだ。昔みたいに。
     明里として生きていた頃も、宅配ピザが苦手だと言うと珍しがられた。普通の人にとっては、楽しい思い出のある特別な食べ物なんだろう。だけど私の家の朝食と夕食はいつもピザだった。母の帰りが遅いため、出前をやっているのが宅配ピザ屋くらいしかなかったのだ。朝はその残りを食べる。美味しいと思ったことなんて一度もない。冷蔵庫の野菜室に残っていた干からびた人参を齧っているときのほうが、よっぽど生き返る心地がした。おかげで小学校中学年の頃には自炊できるようになっていたから、悪いことばかりではないが。
     もうひとつ。幼い頃の食生活のおかげで人より得していることがある。
    「夕メシに何か食いたいものあるか?」
     智也が訊いてきた。沈黙のあと私は、「いいえ、何も」と応えた。
     彼の作るインスタントラーメンが食べたいとは、とても思えなかったから。
     
     
     
     ピザを食べ終わると、空き箱をゴミ袋に突っこんで片付けた智也が寝室の奥のベランダを指差した。
    「ちょっと煙草吸ってくる」
    「ここで吸ってもいいですよ」
     テーブルの端に置かれたままの灰皿を見て言う。しかし、「いや、副流煙……えっと、煙草の煙って尚の身体によくないんだ」と、灰皿片手にベランダへと出ていった。
     結構律儀だが、きっと養育するにあたって厳しく決まっていることなのだろう。定期的に視察の人間が来るみたいだから、部屋で喫煙していると匂いでバレてしまう。
     智也はベランダに干してあった洗濯物をとりこんでいる。そのまま洗濯物の山を畳の上に置くと、窓を閉めて煙草に火をつけた。
     手摺に凭れかかった後ろ姿を眺める。白い煙が塊になっては消えていく。知り合って2年近く経つが、いまいちキャラの掴めない子だ。屈託のない態度と善良な優しさを持っているのに、どことなく胡散くさい雰囲気があるのはなぜだろう。単に私が彼を信用していないだけかもしれない。ここまで一方的な善意をかけられたことなんて、今まで一度もなかったから。
     ぼんやり考えていると智也が振り返った。部屋に入ってくるや、いきなりジーンズを脱ぎ出す。咄嗟に顔を背けた。
    「バイト行ってくる。7時には帰ってくるから」
    「は、はい」
    「夕メシ、ホカ弁でいい?」
     動揺している私に気付かず、作業ズボンを履き終えた智也がキッチンに移動してくる。
    「いいです」
    「あれ? ホカ弁判るのか。知らねえのに返事してたりして?」
     軽い笑いにギクリとする。智也は私に背を向けたまま、「遠慮すんなよー」と吸殻を始末している。
     確かに子供に気を遣われるほうが堪えるだろう。判っているのだが、そこまで無邪気にもなれない。本来は私が面倒を見るような年下の子だからかもしれない。肌を見ることに抵抗があるのも、彼に異性を感じているからではなく、無防備な姿を盗み見てしまっている後ろめたさからだろう。
     灰皿を片付けた智也は奥の和室に引き返すと、とり入れた洗濯物の山から作業上着を手にとった。畳まずに丸めて小脇に抱え、玄関で運動靴を突っかけてから振り返る。
    「じゃ、行ってきます」
    「行ってらっしゃい」
     平坦な挨拶を返すと、やけにはにかんだ笑みを浮かべて出かけていった。金属の階段を降りていく足音が遠のいていったあとは、どこかで掃除機をかけている音だけになる。
     やっと、やっと一人になれた。病室で目が覚めて約2年、プライベートな空間なんてないに等しかった。一時期病室は個室だったけど、スタッフはノックもなしに入ってくるし、トイレもお風呂も個室じゃなく、いつも誰か――しかも男の人――が利用していた。
     俯いて長いため息をつく。だけどリラックスにはほど遠い。足を伸ばせば本を崩してしまいそうなこの部屋は、藤咲智也の私物だけで構成されている。私のものなどひとつもない。私が使うために買い足した物だって、全部彼のものだ。
     しばし肩を揺らしながら部屋の中を見渡し、いつまでもそうしているわけにもいかないため、入院中に智也から与えられた勉強ドリルをテーブルの上で開いた。当たり前だが、小学1年生用のドリルだ。最初は内心苦笑したものだが、これが結構曲者で、子供らしい字や不正解のバランスに気を遣う。
     1時間ほどかけて今日のノルマをこなしてから、ドリルを元通り紙袋に仕舞いトイレに立った。ドアに鍵をかけて便座に座ると、少しだけ肩の力が抜ける。
    「癖になってんやろな……」
     安堵の吐息と共に独り言を漏らす。
     子供の頃、家の中で落ち着ける場所はトイレの中だけだった。しかもその安らぎは数分間だけ。朝まで閉じこもっていたいと、何度強く思ったことか。だけど少しでも遅いと、「私から逃げてんやろ。あんま舐めてんちゃうで」と余計に母の機嫌が悪くなるから、すぐに出てそこから更に何時間も続く母のお小言――という名の人格否定攻撃に耐え続けなければいけなかった。
     今は母が理不尽なのだと判る。非力で無力な孤児になってしまっても、私はもう何も知らない子供ではない。もし智也が態度を豹変させたとしても、児童施設に逃げこめばいいだけだ。今の私には選択肢がある。なのにどうして恐れてしまうんだろう。疎まれることを、嫌われることを。あの子がいなくても、私は生きていけるのに。
     とりあえず、病院の多人数用のトイレから解放されたのは嬉しかった。児童施設じゃなく智也との同居を選んだ理由も、この辺は大きい。
    「今はええけど、学校行ったらまた大変やろなあ……」
     そのときを想像してげんなりしながら、トイレから出た。
     部屋に戻ったあとは、テーブルの前に座ったまま裸眼でぼんやりとテレビを見続けた。
     
     
     
     智也は7時前に帰ってきた。
     ホカ弁を食べてからテレビを眺めていると、居間の明かりを頼りに寝室で洗濯物を畳んでいた智也が声をかけてきた。
    「そろそろ風呂沸くな。一緒に入ろっか」
    「はあっ?」
     思わず普段の発音で聞き返していた。ドスの利いた声――大阪弁は語尾が低くなる――に、智也が「そんな嫌がんなよ。傷つくだろ」と眉を下げる。
    「一人でいろいろやってみたい年頃だろうけどさあ。俺兄弟いねえし、誰かと一緒に風呂入ったことねえんだよ。な? 背中の流しっこしようぜ」
    「絶対嫌です」
     異性として見ないといっても限度がある。20歳の男の子と仲よくお風呂で背中の流し合い……完全にアウトやろ。
    「えー、楽しみにしてたのにー」
     最早別の意味に聞こえてしまう。つい尖がった声が出た。
    「勝手に楽しみにしないでください。一緒に入るくらいなら、入れなくていいです」
     言いながら、母親に銭湯に連れていってもらえず泣いていた子供時代を思い出し、図太くなった己を実感した。そう、私はもう子供じゃない。いつでもこの狭い瓶を割って外に飛び出していける。
     内心悦に入っていて気付くのが遅れた。文句が返ってこない。智也に視線を向けると、彼は薄暗い部屋の中で膝に洗濯物を広げたまま、ぽつんと座っていた。さすがに言いすぎたかと慌てると、すぐに明るい笑顔になる。
    「仕方ねえか。自分で風呂入るのもリハビリになるしな。じゃ、先に入ってこいよ」
    「そんな、別に2番目で……」
     言いかけて口を噤む。古いアパートだからシャワーがついていないかもしれない。
    「じゃあ、先に入らせてもらいますね……」
     独り言みたいに言って、そそくさと立ち上がった。紙袋から病院で着ていたパジャマと下着をとり出し、脱衣所に入る。
     案の定、浴室にはシャワーがなかった。風呂桶を手にとろうとして一瞬躊躇する。自分は潔癖症ではないが、男性不信の気はある。男性と飲み物の回し飲みはできても、プライベートな接触は彼氏だろうといつも抵抗があった。生々しい部分に触れるのが苦手なのかもしれない。生きていると感じる部分に触れるのが。
     そっと桶を掴んで風呂の湯を掬った。椅子にかけながら、反射的にそこに座っている智也の姿を想像してしまう。二度三度湯をかけてから、渋々端に腰を下ろした。まだ足元がおぼつかないから、立ったままだと転んでしまいそうだ。
     全身を洗ったあとは、しばらくそのままぼうっとしていた。あまり早く出ると智也に怪しまれる。一番風呂なら湯船に浸かるのは抵抗がないが、私が入った痕跡が残るのが嫌だ。他人の生々しい部分に触れたくない気持ち以上に、自分の生々しい部分を人に見られたくない。
     3分ほど経ってから汗を流すために頭から湯を被り、風呂場を出た。今は夏やから問題ないけど、冬場は風邪引きそうやな。そんなことを考えながら。
    「お、出たか。ゆっくり浸かったか?」
     部屋に戻ると、まるで見透かされたような言葉をかけられた。実際は彼にそんなつもりはなく、ただの決まり文句だろうから、平然と「はい。いいお湯でした」と応える。智也が可笑しそうに笑った。
    「お前、大人みたいなこと言うなあ」
     私がギクリとしている間に立ち上がり、狭い脱衣所に入っていく。
    「俺も入ってくる。ちゃんと水分とれよ。冷凍庫にアイスもあるから」
     水音が聞こえ出してから、麦茶を少し失敬しようと冷蔵庫を開けた。食材どころか、調味料すら入っていない。いつもコンビニやレトルトで済ませているのだろう。
    「若い子って感じやなあ」
     呟きながら麦茶を入れて、テーブルの前に座って飲む。ここが定位置みたいになってきた。それぐらい物――特に本――が多くて、居場所がないのだ。
     テーブルに突っ伏して空になったグラス越しにテレビを眺めていたら、風呂の引き戸が開く音がした。しばらくして裸足で床を歩く音と、冷蔵庫のドアが開く音が横から聞こえてくる。
    「アイス食ってないじゃん。一緒に食おうぜ」
     声に釣られて横目で窺ってみて、思わず目を見開いた。
    「な、なんちゅーかっこしと、んですか!」
     ギリギリで大阪弁アクセントから方向転換する――しきれてない――私のツッコミに、智也があっけらかんと返事する。
    「え? 暑いから」
     そのまま腰にバスタオルを巻きつけただけの恰好で私の側までやってきて、「はい。尚の」と袋入りのアイスを寄越す。結構ええ身体しとんな。さすがピチピチの勤労青年。――って、そうやないやろ、私!
     キュッと締まった腰付きに目が釘付けになって離れないでいると、私の視線が質量でも持っていたかのように、バスタオルが緩んで滑り落ちた。
    「おっと」
     こちらに背を向けていた智也が、太腿の半ばまでずり落ちたタオルを片手で引き上げる。のんきな口調と態度を装っていたけど、少し慌てているのが判った。きっと正面を向いていたなら、落ちるままに任せていただろう。私に向けているのが他でもない尻だったから隠したのだ。
    「あの、それ……すいま、ごめんなさい……」
     俯いて呟くと、智也が振り返る気配がした。
    「見えた?」
     茶目っ気を含んで笑ってから、「別に隠すつもりもねえけどな。一緒に風呂入ろうとしてたんだし」と続ける。
    「尚が気にするだろうから、さっさと見せときたかったってのはある。俺、全然気にしてないからさ。尻なんて普段隠れてる場所だし」
    「でも結構すごかったですよ。困りませんか? 温泉入るときとか、彼女さんとか……」
     智也の尻は両方に文庫本サイズの長方形の傷跡があった。左側はあまり目立たないが、右側ははっきりと赤く痛々しい傷跡が残っている。つまり右側が私の右手に移植された分厚いほうの皮膚だったのだろう。自然な傷跡ならそんなに目につかないが、明らかに人工的な形状の見慣れない傷跡はいやでも人目を引きつけてしまう。
     左右の指が勝手に痙攣する。持っていた袋入りアイスが畳に落ちた。拾い上げて顔を上げると、智也がキョトンとした顔をしている。
    「どうしました?」
    「……ああ。お前ませてんなあ」
     やっと納得がいったと言う風に笑われて、こっちもようやく気付く。西川尚はもうすぐ8歳だが、ずっと入院していたため、幼稚園児並みの知識しか持ち合わせていないはずなのだ。言い訳したほうがいいだろうか。だけど墓穴を掘るだけかもしれない。
    「昼ドラでも見てたんだろ? 興味津々な年頃だもんな」
     困っていたら、智也のほうから助け舟を出してくれた。
    「別に、面白いのが他にやってなかっただけです」
     子供らしい反論で便乗しておいて、溶けてきた棒アイスの袋を開く。智也もアイスを齧りながら、寝室に行って着替え始めた。
    「俺彼女いねえし、できる予定もないから大丈夫だって」
    「それは僕、がいるから……?」
     ああっ、標準語は大分慣れたけど、アラサー女が『僕』呼びはきつい……!
    「尚がもちろん一番大事だけど、それだけじゃねえかな。あんま恋愛に向いてるタイプじゃないんだ、俺」
     尚にはまだ判んないかなと聞こえてくる声に、テレビを見たままで「判るよ」と小さく呟く。私もそう。きっと恋愛に向いてない。
    「女の子でも男友達でも、みんなでわいわい遊ぶほうが好きだな」
    「じゃあ、あの看護婦さんもただの友達?」
    「看護婦? 佐久間さんのこと?」
     着古したTシャツとジャージのハーフパンツに着替えた智也が居間に入ってきた。アイスの棒を灰皿に置いて煙草を手にとる。
    「病院以外で会ったことねえけど? あ、もしかして尚の初恋だったか。焼きもち焼くなんて、可愛いとこあんじゃん」
     ニヤニヤとからかいの笑みを向けると、「ちょっと一服」と灰皿を持ってベランダに出ていった。誤解だけど、子供らしいと思ってもらえたならラッキーとしておこう。
     それにしても、ほんまにコミュ能力高いんやな。付き合ってるんやと思ってたわ。
     
     
     
     
     
     
     
     藤咲智也の家に来てひと月が過ぎ、体育の日――あ、祝日じゃなくなったんやっけ。平日の10月10日を迎えて、私は8歳になった。
     智也はケーキを買って祝ってくれたが、元々の誕生日ではないし、そもそも誕生日自体に思い入れがない。正直ありがた迷惑でしかなかった上に、彼がプレゼントしてくれたのは、テディベアの形をしたリュックサックだった。8歳の男の子への贈り物として、ベストチョイスとは言えないだろう。
    「こんなの買ってくれなくてよかったのに。高かったでしょ、これ」
     文句を言ったら、「あー……やっぱ子供っぽいよな。尚が背負ったら可愛いだろうなあと思って、つい」と頭を掻いていた。
     彼は私の母と同じで、私のことをペットだとでも思っているようだ。その証拠に、機嫌がいいと私を「お[[尚なお」と呼ぶ。初めて聞いたときは危うく大阪弁でツッコミそうになってしまった。
     しかもまた、悔しいことに私は彼がくれたクマのリュックを内心気に入っていた。背負ってみると本当に似合っていたのだ。普通、人は自身の美醜を正確に判断できないものだが、この身体は本来の私のものではないから客観的に見られる。あまりに客観視するせいで、主観が出すぎてしまうことも多かった。
     普段着を買い揃えたときも、連れていかれた総合スーパーの子供服売り場で「なんでも好きなの選べよ」と言われて、つい『8歳の男の子が好みそうな服』ではなく、『西川尚に似合う服』を選んでしまった。智也に「随分可愛い服選ぶなあ」と笑われたが、言い訳はやめておいた。これから先も、私の女の部分はいろんなところで出てしまうだろう。最初から『女の子っぽい男の子』と思われておいたほうがいい。
     
     そんなこんなで過ぎ去った誕生日の1週間後、ついにリハビリ期間が終わった。クマのリュックの代わりに真新しいランドセルを背負い玄関を出る。行き先は2年生の教室ではなく、特別支援学級室だ。そこで小学1年生の勉強をさせられる。
     どうせ1年生の勉強も2年生の勉強も変わらない。そう思っていたのに、ものの2日で教室の環境に耐えられなくなってきた。常に誰かが声を上げ、ときに癇癪を起こして泣き出す。柔らかな物腰で対応している若い女性教師を心底尊敬した。私には無理だ。子供の楽しそうな騒ぎ声は聞き流せるが、不安定で不満げな声はストレスになる。
     改めて児童養護施設に行かなくてよかったと思いながら、募る苛立ちについ誤って算数のプリントを全問正解してしまった。これまではどれぐらいの正解率が妥当か判らなかったから、多めに間違えるようにしていた。年下の先生は驚きながら、ひとつひとつに大きな花丸をつけてくれた。
     あまり急だと怪しまれる。しかし、できるだけ早く一般学級に編入したい。3年生ともなれば授業中に騒ぐこともないだろうし、4月の新年度に編入できるように合わせて、段階的に正解率を――
    「あ、待って西川くん」
     考えながら教室を出ようとしたら、呼び留められた。振り返ると、先生がクラスの子供に通学帽を被せている。
    「お家の人にお願いして、お掃除用の新品の雑巾を2枚持ってきてね。先生言うの忘れちゃってた」
     帽子を被せられた子が、鬱陶しそうに帽子を毟りとって床に投げつけた。彼女はそれを拾ってまた被せる。
    「ああ……はい……」
     ほんま大変な仕事やな。せめて聞き分けのいい空返事をしながらも、内心では私も帽子を床に投げ捨てたかった。そういやこんなんあったなあ。すっかり忘れとった。
     子供の頃は、新学期ごとに聞くことになるこの言葉が憂鬱で仕方なかった。母に言っても縫ってもらえることはなかったから、自分で縫えるようになるまでは、「今日も忘れました」を貫くしかなかった。それが続くと、教師のほうも事情に勘付く。それでもクラス全員が用意するノルマな手前、「じゃああなただけはいいですよ」と言うわけにもいかず、「明日は持ってきてね」「はい」を連日繰り返すあの虚しさと絶望感。先生は気付いていても何もしてくれない。優しい拒絶はたまに、泣いてしまいそうなほど心に堪えた。
     一旦家に帰り、通学帽とランドセルを置いてクマのリュックを背負うとすぐに家を出る。今は雑巾なんか縫わなくても、ワンコインで買えてしまう。いい時代になったものだ。月に300円の小遣いは全額貯めこんである。100円均一ショップの入ったスーパーは少し遠いが、向かう足どりは軽かった。しかし店に雑巾はなく、仕方がないのでその場でフェイスタオルと携帯用のソーイングセットを購入し帰宅した。
     宿題を70パーセントの正解率で片付けてから、雑巾を縫い出す。元々裁縫は苦手だったが、予想以上に酷い。尚の利き手である右手だと動きがギクシャクするし、左でやるにも力が弱い上に移植皮膚のせいでまともに針を抓んでいられない。重ねたタオルも革のような頑丈さだ。
     3時間かけて長辺の一辺も縫いきれなかった。寝室へ行き、縫いかけの雑巾と裁縫セットを万年床になっている自分用の敷布団下に隠す。しばらくすると智也がバイトから帰ってきた。
     スーパーの半額シールが貼られた惣菜で夕飯を済ませ、今日も一番風呂の湯舟に浸からず入浴を終える。
     最近夜は肌寒くなってきた。湯冷めした二の腕を両手で擦りながらトイレに立ったら、風呂場から智也の鼻歌が聞こえてきた。リラックスした様子のハミングを聞きながら、彼に雑巾のことを話そうかと考える。
     その途端、不意に鼻歌が途絶えた。トイレのドアの前に立ったまま耳を澄ませても、水音ひとつ聞こえない。
     訝しんでいると、いきなり大きな水音が上がった。ほぼ同時に、智也の「うおっ!?」という声。
    「……あっぶね。寝てた」
     一人苦笑している声に、静かに脱衣所をあとにした。彼にこれ以上迷惑はかけられない。今夜も私のせいで夜更かしするのだから。
     できる限り智也の手を煩わせないようにしているが、学校の持ち物に名前を入れる作業は最初から彼に任せた。私の普段の筆跡で書けば誰がやったんだという話になりかねないし、子供の筆跡の名入れには正直ロクな思い出がないのだ。
     最近子供時代のことを次々思い出す。身の回りにあるものが当時と同じだからだろう。
     小学5年生になって数か月経った頃、母の再婚でそれまでの団地住まいから一軒家に引っ越した。私と妹は転校することになったが、当然母は娘たちの都合や苦労なんか眼中になかった。
     仕方なく私たちは、持ち物に入っていた苗字の部分を油性ペンで塗り潰し、端に小さく新たな苗字を書き足した。教科書やノート、絵の具セットや習字道具、体操着のゼッケンやいつも人目に晒される上履きまで、暴走族の名入れみたいに真っ黒になった。
     書き直しの作業は夜中までかかった。川の流れに翻弄される木の葉のような自分たちの境遇に腹が立ったけれど、別に傷つきはしなかった。私たちの持ち物は、私たちのものではない。その頃にはもう、それを思い知らされていたから。
     私が男性に対して抵抗感があるのは、思春期の頃に父と暮らし始めたからだろう。突然知らない大人の男性と生活を共にしなければいけないというのは当時相当なストレスだったが、再婚自体は別に反対でもなかった。母のヒステリーが治まるのならと、むしろ歓迎していた。
     しかし再婚して生活が変わることは受け入れられても、学校だけは転校したくなかった。内向的だった私には友達もいなかったけれど、3年ほど片想いしている男の子がいた。その子は私の唯一の希望だった。明るくて優しくて、クラスの人気者で。喋ることもなかったけど、その子を遠くから見ているだけで元気になれた。その子だけが、私の世界の暗闇に灯るかすかな光だった。
     そんな唯一の救いとすらあっさり引き離されて、私はそれ以来一度も彼と会うことはできていない。母は早く新生活を始めたかったらしく、引っ越しは突然だった。悲しむ暇もなく、ただただ茫然としていたら、学校の最後の1日も終わっていた。
     考えが逸れてしまった。本当に最近、思い出したくもないことを次々思い出してしまう。もっと思い出したくないことは心の海の底に沈めて隠してあるけれど、それだってきっとその内浮かび上がってきてしまうのだ。この生活をしている以上、どんなに上から押さえつけても。
     昏睡状態だったときに見た、海の底にいる夢はぼんやりと覚えている。あれは私の精神世界、心の繭なのだろう。印象的な夢だったから、未だにちょくちょく見る。夢の中の私はいつも渡辺明里だ。慣れれば尚の姿で見るようになるんだろうか。
     今のところ智也は優しい。でもその甘さは毒だ。私は早く瓶を割って、ここから出ていかなければ。
     
     
     
     
     冬休みに入った。年末年始は智也の実家に帰省することになるだろうと憂鬱だったが、もうひとつ始めたバイトが忙しいらしく、大掃除も初詣もせずに終わった。増やしたのは夜のバイト、恐らく水商売系だ。とはいえ、ラフな服装で出かけていくから裏方仕事なんだろう。酒の匂いを漂わせて帰ってくることもない。
     智也が夜も仕事するようになって、私は密かに準備していた計画を実行に移すことにした。三が日を過ぎ、学校がまだ冬休みの間に、お誂え向きに智也が長時間家を空ける日がやってきた。
    「今日は夕メシに帰ってこれないけど、冷凍庫のスパゲッティ、レンジでチンして食べるんだぞ。やり方判るか? 何かあったらいつでも電話してこいよ」
    「昨日聞きましたよ。冷蔵庫にメモも貼ってるんでしょ」
    「昼はパン買ってあるから。足りなかったら、お菓子も好きに食っていいからな。ジュースも」
    「はいはい。早く行かないと遅刻しますよ」
     心配だと言いながら出かけていった智也を見送ってから、早速コートを羽織り、毛糸の帽子を目深に被る。今日はクマのリュックはお留守番だ。服装もできるだけ地味なものを選んでいる。尚はかなり可愛い。それでなくても目立つのに、変質者に目をつけられると厄介だ。
     前日に用意していた手提げ鞄に昼食のメロンパンを突っこみ、鞄の中身を改める。ケースに入れたメガネ。安物の腕時計。図書館でコピーしてきた地図。乗り換えの時刻と順番を記したメモ。それから私の全財産が入ったがま口財布。金額は1万4千円ほどで、これまでに智也からもらった金をコツコツ貯めこんでいたものだ。学校に通うまではリハビリも兼ねて毎日自分で昼食を買いにいっていたから、結構貯まった。
    「よし、行くか!」
     首から提げた鍵で戸締まりをし、出発する。
     
     行き先は大阪。渡辺明里わたしはやっぱり死んでしまっているのだろうか。
     
     
     
     行きは節約のため、普通電車を使って移動した。見知らぬ大人の側について、親子を装いながら。
     地図は用意していたものの、目線が低い上に土地勘もないから結構迷ってしまった。迫る乗り換え時刻と行き交う大人たちの流れに焦りながら、幼い妹と二人祖母の家に向かったときのことを思い出した。あの底知れない心細さを。
     小学校低学年のある晩、母が帰ってこなかった。仕事先の電話番号も教えられていなかった私たちは不安で押し潰されそうになり、「おばあちゃんに電話してもらおう!」と家を出た。
     まだ未就学児だった妹の手を引いて深夜の町をうろついた。妹には大丈夫だと言っていたけれど、実は私は道順に自信がなかった。車の窓から見ていた特徴的な建物を探してキョロキョロしながら、泣き出してしまいそうなのを必死に堪えていた。
     雨上がりの夜だった。アスファルトの道路が大きな水鏡になって月を反射していた。大人はたまに見かけたが、優しい人も悪い人もおらず、ただの影絵に過ぎなかった。世界中に自分たち二人しかいない感覚に陥り、このまま永遠に彷徨い続けることになるのかもしれないと思うと、しゃがみこんで一歩も歩けなくなりそうだった。
     このときのことは神視点でよく夢に見る。妹の手を引いて歩いている小さな私を俯瞰で眺めていると、我がことながら強い庇護欲を覚える。母の代わりに私が抱きしめてあげたいと思うけれど、そんなことはどう足掻いてもできないし――今のところできずにいるし――、きっと子供の私も望んじゃいないだろう。
     現代版ヘンゼルとグレーテルのような子供時代の深夜の大冒険がどんな結末を迎えたのかは、記憶に残っていない。とりあえず、めでたしめでたしではなかったのは確かだ。これだけの恐怖と不安を覚えたのなら、祖母の家に辿り着くなり警察に保護されるなりしたときの安堵感を覚えていそうなものなのに、なぜか記憶からごっそり抜け落ちている。恐らく、連絡を受けた母が激怒して、私たちに当たり散らしたのだろう。その恐怖で記憶に蓋が被さっているのだ。なぜならそれ以来、祖母に――人に頼ろうという気が一切起きなくなったから。
     今はもう、道に迷ってもあの頃のようなパニックじみた恐怖は感じない。だけど身体が子供だから、何かあっても身を守れないという現実的な不安はある。容赦なく日が暮れていく中、見覚えのある大阪の駅に電車が入ったときは内心ほっとした。
     自分のアパートに着いたのは、19時を回った頃だった。外から見上げた際、部屋の窓に見慣れないカーテンがかかっていたから予想はしていたが、玄関先まで行ってみると他人の表札が出ていた。やはり私は死んでいるらしい。
     仕事先のバーの開店時間を過ぎたので駅前へと引き返せば、見慣れない店がかなり増えている。その分馴染みの店が減ったということだ。それはそうだ。私が最後にここに来てから、もう8年も経っている。
     うちの店は残っているだろうかと心配になったが、記憶よりくたびれた看板がスポットライトに照らされていた。しかも見知った人物がドアに手をかけている。郵便局員の常連さんだ。少し髪の毛が寂しくなったけど、あの狸の置物みたいな体型は見間違えようもない。
    「……っ!」
     手を上げながら名前を呼びかけようとして、声が出なかった。足も何かに引っかかりでもしたかのように前に出ない。上げた左手の指先を見ながら、怯えている自分に気が付いた。
     話しかけたところで私だと気付くわけがないし、初対面の子供に対する態度をとられるだろう。自分の正体を明かすなんて絶対に無理だ。じゃあ、美琴や千里なら? 美琴とは転校して以来小学5年生からの付き合いだし、妹の千里にいたってはあの子が生まれて四半世紀の血の縁がある。お互いだけしか知らない思い出話をすれば、頭ごなしに否定されることはないだろう。
     
     だけど……もし信じてもらえても、手に余る、邪魔だと見捨てられたら――?
     
     私が逆の立場だったら、きっと困る。中身は親友や妹でも、表面上は赤の他人の子供なのだ。匿うなんてできないし、連絡をとることすら社会的リスクを伴うだろう。そもそも、美琴や千里が今も独身とは限らない。結婚して他県に引っ越しているかもしれないし、それこそ子供が生まれていたら、私なんかの面倒を見る暇なんてないはずだ。
     駄目だ。やっぱり会いにいけない。私のこの危惧は、彼女たちの負担になりたくないから――ではない。私自身の心の平穏のためだ。信じてもらえないかもしれないという怯えではなく、私が誰のことも信じられていないのだ。
     知らない男の子になって、一人になってしまったと感じていたけれど、その前から私は気付いていなかっただけでずっと一人だった。親友も、実の妹でさえ、信用してなかったんだ――。
    「どうしたんや、こんな時間に一人で。お母さんとかお父さんは?」
     茫然と立ち尽くしていたら、後ろから声をかけられた。
     振り返ると、30そこそこの警官が訝しそうな顔でこちらを見ている。咄嗟に身体が動いてしまった。逃げ出そうとした私の手首を警官が捕まえる。
    「嫌や、離して! 私こんなとこおりたくない……!」
    「あれ? 女の子やったんか」
     警官の言葉で失態に気付く。
    「……男です。お巡りさん、僕の家に連絡するんでしょ。それが嫌だったから」
     慎重に、標準語のイントネーションで言い直した。
     
     
     
     警官に連れられて駅前の交番にやってきた。渡辺明里として生きていた頃は毎晩通勤で前を通っていたけど、中に入ったのは初めてだ。
     保護者の連絡先を聞かれて、渋々智也の携帯番号を伝える。交番に詰めていたベテランらしい年配の警官が受話器をとり上げた。ニ、三やりとりを重ねたあと、「え、東京の人!?」と声を上げる。
    「お宅の息子さんが――」
     続く言葉に机に突っ伏した。しばらくじっとしていたら、肩を軽く叩かれた。
    「飴ちゃん食べるか? 家出少年」
     年配警官に不二家の棒付きキャンディを差し出され、力なく首を振る。久しぶりに見た。子供の頃チョコ味が好きやった。懐かしいわ、『飴ちゃん』いう言葉も。
    「東京からこんなとこまで来るやなんて、随分思いきった家出やなあ」
     私に断られた飴の封を開いて咥えながら、年配警官が後輩警官の隣に座る。警官二人と机越しに対面。取り調べでも受けているかのような構図だ。
    「あの、藤……家の人はなんて?」
    「『急いでそっち行きます』やて。えらい若い子やったけど、君のお兄ちゃんか?」
    「いえ……親戚の人で……」
     よう言うわ。苗字がちゃうこと判っとるやろうに。
     俯きがちに睨みつけると、「ん? やっぱ欲しかったんか?」と口から飴を出して見せてきた。
    「もしかして手ェの怪我で袋開けられへんとか? 言うてくれたら開けたるのに。他にも怪我してるとこないか? 服の下とか」
     警官が何を聞き出したいのか理解して、膝の上で拳を強く握った。
     交番に入った際、若い警官がこの警官に何か耳打ちしていた。保護したときの私の抵抗を報告したのだろう。確かに私は、女言葉になったことを連れ戻されるのが嫌だからと説明した。別人のふりをするぐらいに帰りたくないのだと受けとられてしまったのだ。
    「違います。大阪に来たのもこの怪我も、藤咲さんとは関係ありません。あの人は僕にとても優しくしてくれます」
    「おお、しゃんとした喋り方するなあ」
    「……小さい子に見えると思いますけど、僕もう8歳だから」
     俯くと、それまで黙っていた若い警官が身を乗り出すのが判った。私を覗きこむようにして口を開く。
    「それだけしっかりしとったら、ちゃんと自分の思っとること言えるよな? 僕らは君の言うこと信じてええんかな?」
     顔を上げ、真っ直ぐに見返して頷いた。
    「はい。僕は藤咲さんから逃げたかったわけじゃありません。お巡りさんに捉まって、あの人の迷惑になりたくなかっただけです」
     帰りの新幹線のチケットを見せると納得してくれた。一人で遠出した理由も、「人には言いたくない事情があるやろうから。家の人にはちゃんと説明しいや」と聞き出そうとしなかった。
     その後警官たちは夕飯の出前をとり、私にもメニューを選ばせてくれた。出前は中華だった。
    「……カツ丼じゃないんだ」
     呟くと、「この辺うどん屋ないねん。これで辛抱してや」と笑われた。
     チャーハンを食べてから、部屋の隅でポータブルテレビを占領して時間を潰す。年配のほうの警官があくびをしながら、「時間やな。ほなちょい休ませてもらうわ」と立ち上がった。
     とはいえ、この交番は4畳ほどの正方形の詰所で、他に部屋もない。近くに休憩スペースでも借りているのかと思ったら、そのまま床に布団を敷いて寝始めたから仰天した。当直中はたとえ休憩時でも交番から出ないようだ。さすが公僕。警察官ってどことなく威圧感があって苦手だったけど、人知れずこんなにストイックで実直な勤務体制を貫いているのか。
     内心感動しながら、仮眠の邪魔にならないようにテレビの音量を小さくした。21時台の番組が終わった頃、駆けこんできた人影によって交番の静寂は打ち破られた。
    「尚くんの保護者の方ですか」
     待機中の若い警官が立ち上がる。
    「……あ、はい。藤咲です。すいません、ご迷惑おかけして」
     私を見た智也は一瞬気の抜けたような顔をしてから、警官に頭を下げた。
    「いえいえ、ええ子にしてましたよ。ほな、こっちの書類にサインと印鑑……はないですよね? 母印でええんで、お願いします」
     手招きで勧められた椅子に座らず、立ったまま書類に記入している智也は、上下とも青い作業着姿だ。引っ越し作業中に抜け出してきたのだろう。コートも羽織っていない。
    「書けました」
     智也が書類を差し出す。
     警官は受けとって目を通しながら、
    「この辺泊まるとこないですけど、ホテルの手配しましょか?」
    「いえ。来る途中に携帯で夜行バスの予約したんで」
    「ああ、ほな急がんと。書類もこれでオッケーやし、もう帰ってくれて大丈夫ですよ」
    「はい、ご迷惑おかけしました」
     もう一度頭を下げた智也がこちらに振り返る。
    「帰ろう、尚」
     小さく頷いて、先に交番を出た。背中に軽く手を当てられ、「あれ?」と声が降ってくる。
    「リュック忘れてんぞ」
    「持ってきて、ないから……」
     手提げ鞄の持ち手をギュッと握り締めると、「……ああ」と聞こえた。
    「ならいいんだ。行こう」
     
     
     夜行バス乗り場まで移動する間、智也はほとんど何も言わなかった。
     私に窓側の席を譲ってバスに乗りこんでからも、自分の前の座席裏に設置された灰皿をジッと見つめている。煙草を吸いたいのだろうか。確かに急いで駆けつけただろうから、吸う暇なんてなかっただろう。無言の詰問が痛い。まだ声を荒げて怒ってくれたほうがマシだ。
    「あの……すいません」
     息が詰まりそうになって声をかけた。智也がハッとしたように灰皿から目の焦点を外す。
    「ん? ――ああ、いいよ。怒ってない」
     私を一瞥して、すぐに目線を戻す。
    「疲れただろ? 起こしてやるから、ちょっと寝とけ」
     彼が本音を話していないのは判ったが、怒っている様子でもない。こんなとき子供をどう叱ればいいのか判らず、うろたえているのかもしれない。
     こちらとしても気まずいため、背を向けて寝る体勢をとった。どんなに疲れていても外じゃ眠れないタチだから、ただのふりだ。
     しばらくして薄く目を開くと、智也が私を見つめていた。黒い窓ガラスに映った彼とまともに目が合い、つい身体を強張らせる私に彼は小さく呟いた。
    「思い出したんだな……」
    「え……?」
    「……尚はやっぱ俺じゃ、」
     淋しそうな声で言いかけて、「……悪い、なんでもない。おやすみ」と通路側の肘置きに頬杖をつき、顔を背ける。
     窓ガラスに映る智也の斜め後ろの横顔を眺めながら、彼が言った言葉の意味を考えた。『思い出した』とは、私の記憶が戻ったという意味だろう。西川尚には大阪に来る何かしらの理由があったのだ。
     思い当たるのは、入院中に盗み見た木邑のファイル。大阪在住の30代男性の資料が挟まれていた。あれは尚の父親なのだ。だから智也は私が父親に会いにいこうとしたと考えた。
     彼はどう感じただろう。私が遠縁の智也に引きとられたということは、父親は尚を見捨てたということだ。智也からすれば説明のしようもない。私を不憫に思うと同時に、自分では力不足なのかとやるせない思いを抱えこんでいるだろう。私と祖母が妹の夜泣きをとめられなかったのと同じように。己の無力さと無意味さを思い知らされて。
     真っ黒なガラスの鏡に映るまだ幼さの残った頬のラインを見つめながら、胸が締めつけられた。私はこの子を傷つけたのだ。優しさを裏切りで返してしまった。
     もう大阪には来るまい。
     目を瞑りながら心に誓う。母や妹がどうしているのか、自分がどうやって死んだのか。気にならないと言えば嘘になる。しかし咄嗟に口をついた『こんなとこおりたくない』、きっとあの言葉が私の本心なのだ。
     心の整理がつくまでは、ひとまず記憶から追いやっておこう。私自身と、この遠い親戚のために。
     
     
     
     
     
     
     
    「じゃ、行ってくる。今日ちょっと遅くなるかもしれねえ」
     作業着の上にジャンバーを羽織って、慌ただしく智也が出かけようとする。……なんだかなあ。玄関先まで見送りに立ちながら、痒くもないふくらはぎを足先で掻いて口を開いた。
    「掃除とか……やっていいですか?」
    「そりゃもちろん助かるけど、無理はしなくていいぞ」
     振り返った智也はクマで黒く縁取りされた目をにっこりと細めると、「行ってきます」と私の頭を撫でて玄関を出ていった。
    「……行ってらっしゃい」
     
     無理したくもなるわ。君が私のためにそんな無理すんのを見とったら。
     
     
     
     夜行バスで東京に帰ってきた日も、智也は私を家に送るとそのままバイトに出かけた。
     あまりにも仕事ばかりしているので、それとなく聞いてみたら、なんと私の指の手術代を貯めているらしい。病院に運びこまれたときは、私の容態が危険だったのと、まだ身体が小さかったのもあって智也が皮膚を提供したのだが、自分自身の皮膚を移植すればほとんど手術跡が残らない上に、神経も繋がって指紋まで復活するのだそうだ。
     驚く私に彼は更にこう言った。
    「左の指、動かしにくいだろ。本来は他人の皮膚って絆創膏代わりみたいなもんで、右の指みたいにすぐに剥がれ落ちるんだって。くっついちまったもんだから、手術した先生が奇跡だって驚いてたよ」
     つまり彼は使い捨てにされると判っていて一生の傷を負ったのだ。一応遠縁とはいえ血の繋がりがあるため、偶然適合したのかもしれない。
     確かに左手のほうは感覚が鈍くて不便だが、治すのなら自分の稼いだ金で手術する。そう言ったのに、「ま、金はないよりあったほうがいいし」と取り合ってくれない。私としても彼が仕事で留守なほうが気が楽だから、そんな内心を見透かされたみたいで、余計に後ろめたさが募る。
     少しだけ、子供ができる範囲の家事なら。そう心に決めて腕捲りをした。
     洗濯機を回し、割ってしまわないように注意しながら皿洗いをする。今までは人の物だと気後れして一切手をつけなかった本も、どんどん重ねて整理していった。本はどれもこれも古びていて、古本屋の値札が貼りっぱなしだ。物を捨てられないタイプなんだろう。
     絵本、純文学、大衆小説とジャンルもバラバラな本を片っ端から壁際に積んで、掃除機をかけていたら崩れ落ちてきた。
    「もー! ほられへんのんやったら、最初から買わんかったらええのに!」
     舞い上がる埃にくしゃみをしながら一人声を上げる。
     結局、掃除を終えても大して部屋は片付かなかった。あんまり綺麗にしても怪しまれるから、これでよかったと思うしかない。
     総菜パンで遅い昼食をとり、休憩のあとは風呂掃除をして水を溜め、麦茶を沸かす。そうこうしている内に日が暮れてきた。とり入れた洗濯物はちょっとした山だ。5日分ほど溜まった洗濯物を眺めながら、子供の頃を思い出した。
     昔はこれが辛くて仕方なかった。母の再婚相手は建設会社で働いていた。男物の作業服は子供の腕と指の力だと重くて硬く、1枚畳むだけでクタクタになる。全部畳むと日が暮れる。学校から帰ってきて、とり入れた洗濯物の山を見つめながら何度泣いたか判らない。大声を上げて1枚残らずズタズタに引き裂いてしまいたかった。実際、踏みつけたりめちゃくちゃに振り回したりは日常茶飯事だった。
     今から思えば、何がそんなに苦痛だったのかと自分に呆れるぐらいだが、子供の頃は『どうして私ばっかり。他の子は呑気に遊んでるのに』というやっかみの気持ちがあったからだろう。今はむしろ、嬉しいくらいだ。家にいてもすることもないから、できることがあってよかった。智也に返せることがあってよかった。それはただ、借りを作りたくないだけなのだろうけど。
     洗濯物を片付けると、やることがなくなった。冬休みの宿題は年内で済ませているし、元々テレビを見る習慣もない。今までは他にすることがなかったから見ていただけだ。
     チラリと壁沿いに積んである本を見る。これまでは人のプライバシーを覗くみたいで躊躇していたが、掃除で多少なりとも触ってしまったから今更な気もする。
    「そういやエロ本見てへんな。まあ、さすがに隠してるか……」
     呟きながら、山を崩さないように上のほうに積んである1冊を手にとった。タイトルは『星の王子さま』。私も子供の頃は本の虫だったが、これは読んだことがなかった。パラパラと捲ってみるとそれなりに文章量は多いものの、児童書の類らしい。これなら、もし読んでいる痕跡を残してしまったとしても怪しまれないだろう。ページに開き癖をつけないように気を付けながら読み始めた。
     30分ほどで読み終えた。感想は可もなく不可もなくといったところか。大人になりきれない男性飛行士と、不思議な子供の王子との交流を描いた絵本らしい話だった。
     ファンタジーの世界のような夢見がちなこの本を、現実主義的なところのある智也が読んでいるというのが少し意外だ。もしかしたら、中高生時代のガールフレンドからの贈り物なのかもしれない。自分は恋愛に向いていないと言っていたが、思春期に淡い恋心のひとつやふたつ抱いたこともあるだろう。管理が杜撰なのも納得がいく。私も初恋の男の子からもらったキーホルダーを、いつの間にか失くしてしまった。あんなに心の拠り所にしてたのに。
    「あれ? ほんまにキーホルダーなんかもらったんやろか……?」
     今から思うと夢だったような気もする。私の自我は『女の渡辺明里』のままだけど、明里として生きてきた人生の記憶はかなり薄れてきた。夢の中のもう一人の自分のような感覚だ。
     夢と言えば、数日前に例の水底に沈んでいる夢を初めて尚の認識で見た。水面から聞こえる声も『呼ばれている』という感じはせず、静かな語りにそっと耳を傾けているような、とてもリラックスできるいい夢だった。
     絵本を本の一番上に戻すと、腹が鳴った。壁かけ時計は夜の9時を示している。もう1冊読もうとしたが、空腹で集中できそうになかった。
     寝室へ行き、ベランダのカーテンを開ける。この部屋は2階にある。当然部屋の中からじゃ地表の様子なんて判らないし、智也がどの方向から帰ってくるのかも知らない。それでも寒々とした夜の風景を眺めていると、子供時代を思い出す。
     母が再婚するまで団地の4階で暮らしていた。居間の窓からは母が車で帰ってくる道が縦に真っ直ぐ見通せた。私は妹が不安を感じて愚図る泣き声を聞きながら、その真っ暗な道に光が現れるのをいつも待っていた。ヘッドライトが見えると、顔を窓に貼りつかせる。そして光が右や左に曲がっていく度に同じ分だけ落胆して、また母の帰りを待ち望む。
     記憶にある部屋の中は真っ暗だ。どうして照明をつけなかったんだろう。……ああ、夜中に電気をつけていると、帰ってきた母が「夜中まで起きてるなんて世間体が悪い」とヒステリーを起こすからだ。だから私は母の車が見えたら、布団に潜りこんで寝たふりをしていた。今日あったことを話したい、それが無理ならせめて『おかえりなさい』と挨拶だけでも交わしたいと、胸の中で暴れる言葉たちを握った拳で押さえつけて。
     この記憶も捏造なのかもしれない。一度や二度経験したことが誇張され、まるで何度もあったことのように感じているだけかもしれない。だけど思い出す度、私の胸は淋しい冷たさにひたされる。私にとっての思い出は、私が感じてきた感情に支配されているのだから。
     冷たい窓ガラスに当てていた手をギュッと握りこむと、突然固定電話が鳴った。
    『もしもし、尚!?』
     受話器をとった途端、つんのめるような呼びかけが聞こえてきた。
    『悪い! もっと早く連絡したかったんだけど、手が離せなかった。まだかかりそうなんだ。ごめんな、お菓子でも食って待ってて』
     心臓が緩く解れるのが判った。小さな吐息をついて口を開く。
    「大丈夫ですよ。遅くまでお仕事お疲れ様です」
     電話の向こうが沈黙した。名を呼びかけると、『あ、うん。……メシ、ホカ弁でいいか? スーパー閉まってるし』と呆けたような返事が戻ってくる。
    「まだかかるんですよね? なら僕、お米炊いておきます」
    『マジで!? ありがとな。じゃあ、できるだけ急いで帰るから』
    「急がなくていいです。気をつけて帰ってきてください」
    『……うん、判った』
     照れくさそうな笑いを零して、智也が通話を切った。
     私は受話器を置いてから、炊飯の仕方が判らないふりをし忘れたことに気付く。
    「まあええか……。これくらい子供でもできるやろ」
     呟いて、シンクの前に立った。
     
     
     
     10時過ぎに帰ってきた智也は、玄関を開けるなり「床が見える!」と驚きの声を上げた。
     おおげさに私を褒めてから、テーブルの上に持ち帰り弁当を並べていく。蓋を開けると惣菜だけが入っていた。唐揚げ、野菜炒め、エビチリ、ポテトサラダにアジフライ。パーティーでも開けそうな量だ。明日の朝食に持ち越すつもりなんだろう。
    「好きなだけ食えよ」
     取り皿を渡され、向かい合って食べ始めた。
     ご飯は少し柔らかすぎた。初めて使う炊飯器で水加減が判らなかったからだが、それでも普段はパックに入った白米か、保温して何時間も経ったご飯だ。炊き立てというだけでびっくりするぐらい美味しい。
    「お前、腹減ってる? お菓子食ってないの?」
     食べすぎてしまわないように気を付けていたつもりだが、普段よりペースが早かったのだろう。智也が不思議そうに訊いてきた。
    「……お菓子食べると、ご飯食べられなくなるから」
    「あー、まーた遠慮してんな。お菓子全然減らねえもんな。うちにあるもんはなんでも好きに食っていいって言ってんだろ。ここはお前ん家なんだから」
    「それもあるけど……一人で食べても美味しくないし、藤咲さん帰ってくるって判ってたし」
     茶碗の中の真っ白なご飯を見つめながら言うと、智也が沈黙した。かと思うと、「っかー! 可愛いこと言うなあ、お前!」と声を上げる。
    「俺とメシ食いたかったのか! ほらほら、もっと食え! いっぱい食え!」
    「ちょ、こんなに食べられませんよ……!」
     取り皿にてんこ盛りにおかずを入れられた。実は半分くらいリップサービスだったのだが、いたいけなこの外見だと予想以上の効果を発揮するらしい。これからは気を付けよう。
     到底食べきれない量のおかずを前に困っていたら、智也が明るく笑った。
    「余ったら俺が食うって。だからいつもこれくらい欲張れ」
     確かに子供はあれもこれもと欲張って、親が食べさしを食べる羽目になるものだ。だけど君は私の親でもなければ兄弟でもない。
     そういや、別れた彼氏とは付き合いが長かったから、食べきれなかった分をよく食べてもらっていた。恋人同士らしくはなかったものの、姉弟のような仲だった。だから上手くいかなかったのだ。それでなくてもセックスが苦痛だったのに、後ろめたさまで感じるようになった。
     付き合いにおいて性交渉が必要ない智也と私のこの関係は、あの頃の私たちをいつか永遠のものとして実現する効力を持っているのだろうか。
     
     
     
     
     3学期も過ぎ、春休みが終わる頃、学校から家に電話がかかってきた。
     用件は私が新学期から3年生の一般学級に編入することになったという知らせで、私にとっては計画通りだった。逆に想定外だろう智也は受話器を置いたあと、「お前、賢いんだなあ」と感心したように呟いて私の頭を撫でた。
    「明日はバイト休みだから、お祝いに外食しようぜ」
     翌日の昼下がり、約束通り智也に連れられてファミリーレストランへ出かけた。店内は平日だというのに混んでいた。新学期直前で、学生たちが集まっているのだ。ドリンクバーひとつで粘りながら、宿題らしきものを写したり、携帯ゲーム機で通信プレイを楽しんでいる。ワイワイ騒がしい声が高校の教室に迷いこんだみたいだ。
    「いらっしゃいませ。2名様ですか? ただ今、禁煙席は満席なんですが……」
    「煙草吸う席でいいです」
     智也が返事する前に口を開いた。待っていたら、いつになるか判らない。喫煙席はチラホラ空いている。
     通された角席に座ってメニューを開く。隣の席から不機嫌そうな声がした。
    「さっさと食べて帰るわよ。ママ忙しいんだから」
     チラリとメニューの端から横目で窺うと、母子家庭らしい家族が座っていた。30前の若い母親と、小学校中学年くらいの男の子と、4歳くらいの女の子だ。母親はすでに食べ終わり煙草を吸っている。
     母親の言葉に、すぐに男の子も食べ終わった。しかし女の子の前に置いてあるお子様ランチはまだ半分以上残っていて、お腹がいっぱいだと愚図り出した。
    「アンタがそれ食べるって言ったんでしょ! 食べないならもう出るわよ!」
    「まだたべる。でもごはんが……とうもろしも……」
    「何をグズグズ言ってるの! だからアンタと店来るの嫌なのよ、いつも文句ばっか言って!」
    「だって、だって……」
     女の子の目に大粒の涙が溜まる。危険を察知したらしい男の子が席を立ち、何食わぬ顔でトイレに入っていった。彼の気持ちはよく判る。薄情に見えるかもしれないが、これがこの子の優しさであり処世術なのだ。妹を庇えば余計に母の機嫌を損ねて、妹にもきつく当たるから。
     案の定、女の子は泣き出してしまった。母親は「勝手に泣いてろ!」と言い捨てて、店を出ていく。放置された女の子は最早大号泣。泣き声も見捨てられる恐怖の声色へと変化している。
     メニューに隠れて身体を強張らせ、辺りを見回した。誰も女の子に気を払っていない。店員も素通りだ。元々騒がしいし、厄介事に関わりたくないんだろう。
     心臓がバクバクする。空回りで高速回転しているみたいだ。息苦しい。眩暈もする。だけど今は智也の目がある。耳を塞ぐことも、この場から立ち去ることもできない。やめて。やめてやめてやめて……!
     メニューの裏に隠れて固まっていたら、いきなり手首を掴まれた。
    「出よう」
     そのまま智也は私の手を引いて、店員に短く断りを入れると店のドアをくぐった。外は嘘みたいに長閑な天気だった。店の入口でさっきの母親が、「すいませんすいません」と携帯に向かって謝っていた。
     店をあとにし、ぽかぽかした陽気の中をしばし無言で歩く。智也が「うーん」と頭に手を置いた。
    「静かな店とか連れてってやれたらいいんだけど、そこまで余裕ないしな。俺の作るハンバーグでいいか?」
    「……作れるんですか」
     硬い声でツッコミを入れる。智也は瞬時に、「作れるっつの。嫌味なやつだな」と吹き出しながら応える。
    「一緒にスーパー寄って帰ろう」
     柔らかな微笑みを浮かべて歩き出した智也に手を引かれながらついていく。彼の手はあたたかく、私の手は冷たい汗に濡れて震えている。自分で判るぐらいだから、智也からは丸判りだろう。
     緊張が限界点を超えて手を振り解いたら、智也は少し驚いたようにこちらを見下ろし、困ったみたいな苦笑を浮かべた。しかしすぐに前に向き直りながら、手だけを伸ばして頭をポンポンと撫でてくれる。
     先に歩き出した彼のあとについていきながら、胸にあたたかくて少し染みる塩水が湧き出してきた。
    「あの……す、ごめんなさい……」
     背中に小さく声をかけると、智也が笑いながら振り返る。
    「いいよ。子供が遠慮するなよ。しんどかったら、ちゃんと言えよ?」
    「なんか……」言っちゃまずいのは判ってる。でも吐き出したい。「ああいう泣き声聞いたら、胸がドキドキするんです」
    「……あーうん。そうなんだろうなあと思ってよ。もう大丈夫か?」
     智也が自分の首に手を当てた。どうやら困ったときの癖のようだ。
    「僕って妹がいたんですよね?」
    「やっぱ思い出してたのか」
     気まずさの原因を突かれたらしい。智也は開き直った苦笑を浮かべた。
    「ところどころ……ぼんやりとですけど」
     勢いで始めた会話だが、今後のためにはよかったのかもしれない。尚と私の生い立ちは似ている。完全に忘れている演技をするよりも、これくらいのほうが立ち回りやすそうだ。
     智也も隠そうとはせずに、「尚は妹想いのお兄ちゃんだったってさ」と応えてくれる。しかしその発言が妙なことに気が付いた。
    「……なんでそんなこと知ってるんですか? 僕のこと知ってる人、誰もいないのに」
    「あー……」
     また後頭部に手を回す。
    「どうしてですか? ちゃんと知りたいです。教えてください」
    「……手を、繋いでたって聞いたんだ。その……病院で」
     気まずそうな彼の言葉で、左手の凍傷が右手に比べて軽かった理由を悟った。真冬の海の中で妹の手を離さなかったから、妹の体温の分だけ冷えるのが遅かったのだ。要は妹の体温を奪って生き残ったようなものじゃないか。
     口を開けたまま黙りこむ私に、智也はふっと優しい笑みを浮かべると、二歩ほど離れていた距離を詰めて目の前に立った。
    「思い詰めるなよ」
     言いながら、ゆっくりとしゃがんで私と視線を合わせる。
    「それ聞いて俺さ、どうしてもお前にこの皮膚やりたいって、あの頃まだ未成年だったけど、移植手術強行したんだから。お前の強さと優しさに俺も続きたかったんだ。頑張ったな、尚……」
     頭を撫でられて、詰まった声が漏れた。喉で引っかかった言葉は、前世のことだ。
     
     ――聞いて!
     私は親に一回捨てられたことがあるねん! そのときの妹の泣き声が……!
     
     身体中で暴れる叫びを必死に飲みこんだ。
     吐き出すわけにはいかない。彼が認めた西川尚は、今の私の中にはいない。
     
     それどころか、私は尚とは真逆の仕打ちを自分の妹にしたのだ。
     
     
     
     
     結局黙りがちなままスーパーで買い物を終え、アパートに戻ってきた。
     台所の調理台にレジ袋を置き、智也が腕捲りをする。
    「よーし、待ってろよ。美味いハンバーグ作ってやるからな」
    「洗濯物とり入れてきます」
     横を通りすぎようとしたら、「いいって」と引き留められた。
    「休みの日くらい俺がやるよ。尚の進級祝いなんだし、今日はのんびり好きなことしてな」
     そう言われても、彼の前でできることなんて限られている。
     アニメや教育番組を見るよりはいいかと、一度読んだ星の王子さまを手にとった。これなら絵本だから変に思われないだろう。座って本を読みながら、米を研ぐ音を聞く。しばらくすると智也がベランダへ出ていった。
     ベランダから聞こえてくる物音をBGMに、更にページを捲る。読む前から薄々予想はしていたが、じっくり読んでみると初見時とは印象が変わった。
     この話に出てくる不条理な物事は現実世界のメタファーなのだろう。王子がバラの花から受けていたのはモラルハラスメントだし、王子も一旦は逃げ出しておきながら、結局は自らの意思でバラの花の元へと帰ろうとする。そして恐らく、彼は命を落としている。
     その結末が、両者の共依存関係の行く末を示唆したものなのは推測できるが、引き留められなかった飛行士の心情を思うとなんとも後味が悪い。『大切なものは目に見えない』。語り手である彼のその切なる想いこそが、この物語の美しさでもあるのだが。
     この絵本は、幼かった私が探していた本に限りなく近い。この世界の現実を絵本の形で説明して、子供に注意を促している。とはいえ、子供の頃に読んでも本質はほとんど理解できなかっただろう。大人になって初めて、本当の意味が判る類の物語らしい。やっぱりこの本も智也が自分で選んで――
    「それ、面白いだろ?」
     いきなり飛んできた声に顔を向けると、智也が洗濯物を抱えてベランダの鍵を閉めていた。
     頷くと、「他のはどう?」と訊かれる。「え?」小さな声が漏れた。
    「俺がいないとき、他のも読んでるだろ」
     どっかり腰を下ろして洗濯物を畳みながら言う彼の言葉にギクリとした。
    「どうして……?」
     この返事がすでに肯定を表しているものの、聞かずにはいられない。
    「俺、好きなシーンにしおり挟んでんだよ、すぐ読めるように。その位置がちょこちょこ変わってるからさ」
     気を付けていたつもりだったのに迂闊だった。確かにどの本も面白くて、夢中になってしまうことがあった。この部屋にある本はすべて、時間潰しに買われたものじゃない。恐らく最初は図書館で借り、本当に気に入ったものだけを購入して手元に置いているのだ。古本だったり管理が杜撰なのは、読めればそれでいいからなのだろう。掃除嫌いで金がないというのもあるのだろうが。
    「かなり難しい本も読んでるよな? 尚はほんっとしっかりしてるなあ」
    「……気持ち悪いですか」
     低く呟くと、「なんでだよ。褒めてるのに」と笑われた。
    「勉強頑張って家事もして、こんなに本まで読んで俺は鼻が高いよ。……お前がさ、勉強頑張ったのって、子供の泣き声聞きたくなかったから? 早く3年生のクラスに行きたかった?」
    「……はい」
     そのときはただのストレスだと思っていたが、きっとそうなのだろう。癇癪の泣き声は、今日聞いた声ほどの威力はないが。
     
     私は尚と同じく母子家庭で育った。母と私と妹、家族構成も尚と同じ。幸い母に殺されることはなかったが――殺意を向けられたことはある――、ずっと育児放棄ネグレクト気味だった。
     小学校中学年の頃、ついに母が私たちを児童養護施設に入れようとし、祖母に保護されて1年ほど祖母の家で生活していた。そのとき、3歳下の妹は小学校に入学したばかりだった。
     私は恐ろしい母から離れられて心底ホッとしていたのだが、幼い妹にとってはそうじゃなかったらしい。情緒不安定になって、身体のあちこちに不調が起きた。そして毎晩夜明けまで夜泣きを繰り返す。私がどれだけあやしても、祖母がどれだけ甘やかしても無駄だった。妹が求めていたのは、母の存在だけだったから。代役なんていはしなかった。
     一軒家を揺るがすほどのけたたましい声で母を求めて泣き叫ぶ妹が憎かった。私のことはともかく、祖母の優しさを踏みにじるのが許せなかった。うろたえて悲しそうに背中を丸めている祖母の姿を見ていられなかった。――いや、本当は私も妹のように泣き喚いてしまいたかったのかもしれない。自分だけが我慢して『いいお姉ちゃん』を演じなければならないのが、苦痛だったのかもしれない。とにかく、おばあちゃんの優しさに応えてあげられない自分たちが、とてつもなく惨めで仕方なかった。どうして判らないんだろう。お母さんの愛は私たちには手に入らないのに。
     ある晩、苛立ちが頂点に達した私は、気付けば妹に吐き捨てるように言っていた。そのセリフを今でも一字一句違わずに覚えている。
    「なんで? 前みたいにお母さんに怒られて泣きたいん? 私は会いたくない。おばあちゃんがいい。千里は一人でお母さんとこ行ったらいいやん。そんで怒られて一人で泣いたらいいやん」
     妹は一旦ピタリと静かになって、それから凄まじい声で泣き喚き出した。あまりの恐怖でパニックになったんだろう。そのときの妹の泣き声が耳に張りついて離れない。理性も計算もない、幼い子供の放つ純粋な恐怖の叫び。聞いたこちらのほうが恐ろしさで気を失いかけた。
     妹が泣いたのは私のせいだ。妹にとって、私はたった一人の絶対的な味方だった。それを知っていて、私はあえて『一人』を強調し、思いっきり妹を見放してやった。
     私は八つ当たりの自業自得で、PTSD――心的外傷後ストレス障害――になっているだけなのだ。
     
     苦い記憶に強く唇を引き締めたら、「あー、やっぱり」と智也の声が聞こえた。
     顔を上げると、彼は自分のうなじに回していた手を下ろして、膝の上のタオルを畳み出す。
    「確かにお前大人びてるけど、別に驚かねえよ」
     なんの話だ? ……ああ、私が家事をしたり難しい本を読んだりと、子供らしくないって話か。
    「実は俺もお前ぐらいの歳の頃、似たような感じだったんだ。お前ほど賢くはなかったけどさ。子供って案外子供じゃねえよな」
     自虐に笑いながら、智也が畳んだタオルを抱えて立ち上がる。居間まで来てテーブルにタオルを置くと、私の前にしゃがみこんだ。
    「実はな、俺もお前みたいな子供時代過ごしてたんだ。母子家庭で子供の頃から育児放棄受けてて、中学からバイトで生活してた。そしたら16のとき、どこで何してるかも判らなかった母親が交通事故で死んだって、いきなり木邑さんから聞かされてな。ずっと宙ぶらりんだった」
     びっくりして目を見開いている私に、「お前も……そうだろ? 戻ってんだろ、その辺の記憶も」とぶっきら棒に言う。
     言われてみれば、智也には確かにその片鱗があった。歳の割に世慣れているところ。飄々とした雰囲気。人当たりがいいくせに、どことなく冷めているところ。それに何より、親の話は一度たりとも出てきたことがない。
     なのに私は、彼が幸せな家庭で育ったのだと信じて疑わなかった。それは彼がひたすらに優しかったから。無償の善意を当たり前のように振りまいていたから。
    「どうして俺がお前を引きとったと思う?」
     私の考えを読んだかのようなタイミングで智也が訊いてきた。伏し目がちに私を見下ろす視線は、なんだか冷ややかだ。
     彼は私の返事も待たずに淡々と続ける。
    「きっかけは確かにその左手の怪我の意味に気付いたからだ。でも決定打になったのは、あれが単なる事故じゃなかったから。自分と同じ傷を抱えてる子を幸せにしてやれば、自分も救われるんじゃないかと思った。つまり俺は尚に自分の昔の姿を重ねて、身代わりにしようとしてる」
     赤裸々な物言いに驚愕した。無償なんかじゃなかったのだ。彼にはちゃんと私を助ける理由があった。
    「この話をお前にすることにしたのは、俺が親みたいに接しても、お前は満たされそうにないって判ったからだ。親からの愛情には代用品がないってのは、お前もすでに感じてるだろ?」
     智也は軽く首を傾げてみせてから、「ぜんっぜん懐かないもんな、お前」と可笑しそうに笑う。すぐに笑いを引っこめて、どこか眩しそうな淋しげな顔付きになった。
    「尚にはまだ早いけど、それは男女の愛情、恋人から与えられる愛情でもけっして満たされない、むしろ虚しくなっちまうもんなんだ。親の愛情を受けずに育つと、愛を受けとるセンサーみたいなもんがぶっ壊れちまうのかもな。だから俺はお前の中の自分を愛することにした。お前も俺の中のお前を愛せばいい。尚おれを抱きしめてみたい。いいか?」
     ただ口を開けていたら、そっと腕が伸びてきた。すぐ目の前にある襟足の生え際から、若い男の子特有の若草のような汗の匂いがする。智也の身体は大きかった。すっぽり包みこまれる初めての感覚はただひたすら居心地が悪く、少し恐怖さえ覚える。やっぱり男は苦手だ。
    「ちょっと……っ」
     汗の滲む両手で胸を押し返すと、すぐに彼は離れていった。私を見て、淋しそうに笑う。
    「やっぱ駄目か? 他人にしか思えねえ?」
    「そんな……いきなり言われても困りますよ……。話自体、寝耳に水だったのに」
    「寝耳に水! ほんと賢いな、お前」
     目を丸くして笑った智也が、「よっこいしょ」と立ち上がる。まだ若いのに、変に年寄りくさいとこがある子だ。――いや、実際に彼は疲れきっているのかもしれない。一人きりで続けてきた日々の生活に。
    「確かにお前からしたら寝耳に水だよな。よく考えて、少しずつでも噛み砕いてってくれ」
     テーブル上に積んでいたタオルを仕舞ってきた智也が、「とりあえずハンバーグ作るわ」と台所に立つ。
     その背中を見上げながら、小さく声をかけた。
    「藤咲さん、料理どれくらいできる?」
    「また? 俺、そんなに信用ねえ?」
     背中を向けたまま、智也の肩が可笑しそうに揺れる。
    「普段自炊しねえけど、かなり作れるぞ。いろんなメシ屋でバイトしてきたから」
    「じゃあ……リクエストしてもいいですか?」
    「いいぞー。煮こみハンバーグでもチーズ入りでも」
    「インスタントラーメンが食べたい。袋のやつ。買い置きありましたよね?」
    「ラーメン? そんなもんで……」
     不思議そうに振り返った智也は、私の顔を見るとにっこり笑った。
    「いいよ。卵と野菜もいっぱい入れてな」
     
     
     
     星の王子さまを十数ページ読み進めたところで湯気の立つどんぶりがテーブルに置かれた。
     本当に手慣れている。ラーメンにはスープが見えないほど大量の野菜が載っており、卵は半熟の溶き玉子で、もやしや人参に絡まってくっついていた。全体的に大雑把な作りだが、だからこそ食欲をそそる。
    「……いただきます」
     手を合わせて箸をとった。麺を持ち上げると、途端に湯気がもうもうと立ちのぼる。
     一口で判った。違う、自分が作ったものとは。ラーメンも醤油味だというのが判るだけだ。買い置きしてあったラーメンの中で醤油味のものはひとつしかなかった。何度も食べたことのあるメジャーなラーメンなのに、全然違う。
    「美味いか?」
     どんぶりの中身を見つめて沈黙している私に、智也が訊いてきた。
     コクリと頷く。でも本当は、美味しいというよりとにかく初めて食べる味だ。
     なんだか気持ちがソワソワして、崩した正座で座っていた尻を揺すった。その間に智也は鍋に入ったままの麺を啜り出した。
    「あー、この味。久しぶりに食ったな」
     彼には馴染みの味なのだろう。同じ粉末スープで同じように調理しても、インスタントラーメンは作る人によって驚くほど味が変わる。私はそれを、祖母の作ったラーメンで知った。引きとられた祖母の家で、「ちょっとお腹空いてへんか? 千里ちゃんとおばあちゃんと三人で分けようね」と、甘やかされて作ってもらった初めての夜食の味。美味しいと思えること、それ以上に嬉しいと思えることに感動して、自分がまだ人の心を失っていないことを茶碗1杯のラーメンで噛み締めていた。
     人に作ってもらうインスタントラーメンはこれで2回目だ。渡辺明里だった頃の彼氏は、料理が一切できない人だった。作れるなら頼めば作ってくれただろうけど、ここまで美味しいとは思えなかっただろう。『作ってもらうことが特別』じゃ駄目なのだ。『作ってもらえて当然』の関係じゃないと、この感動は味わえない。
     彼氏とは正確には別れたんじゃなくて、彼がアパートを出ていったのだが、明里として生きていたとしても、きっとあのまま自然消滅していただろう。彼が帰ってこなくなって3か月、メールのひとつも来ないことを悲しむどころか、どこかホッとしている自分がいた。
     今から思うと、最初から好きじゃなかった気がする。セックスも日々の家事も、やらなきゃいけないという義務感で最低限を機械的にこなしていた。多分それは相手も同じ。なんとなくの流れで付き合い始めたあとは、お互い恋人という固定観念に囚われて、人付き合いの中での情があっただけだった。
     智也は私にとって赤の他人だ。祖母のような身内でもなければ、恋人のような関係でもない。それなのにインスタントラーメン――いわゆる日常の食事を作ってもらえて当たり前だと感じる間柄にある。だから違和感があって落ち着かない。君は私の中に自分自身を見てるのかもしれない。でもそんなもんはただの幻想や。私は本当は子供じゃなく、当然、私は君じゃない。
     とは言え、ラーメンを口にした智也の反応には大いに共感するところがあった。私にとっての宅配ピザが、彼にとってのインスタントラーメンなのだろう。私の手前旺盛に食べてはいるが、内心うんざりしているはずだ。
    「……食べ飽きた?」
    「ちょっとな」
     上目遣いに小さく訊くと、微苦笑された。やっぱり。ハンバーグの舌になっていただろうに、申し訳ないことをしてしまった。目線を下げようとすると、「でもさ」と声が聞こえてくる。
    「だからこそ、お前の気持ちは判るよ。大きくなったら、今度はお前が俺に作ってくれよ」
     智也は静かに微笑んでいた。成長した私を想像するように。
     少し眩しそうなその眼差しを受けとめきれず、目線どころか俯いてしまう。
    「……その内ね」
     そう。きっとその内実現する。私は君の側にいるしかないんだから。
     
     
     
     
     
     
     
     通常学級の3年生に進級してひと月半が過ぎた。子供の泣き声から離れられてすっかり快適――とはいかないのが、この世のサガだ。
     小学3年生ともなると、男の子は生意気盛りになる。自我も芽生え、人との違いを気にし始める年頃だ。つまり、トイレの個室が閉まっていると、「誰かウンコしてんぞー」と騒ぎ出す。違う。私はただ小便器で用を足せないだけだ。
     もう大分男の子の身体には慣れてきた。立って用を足すのも簡単だったし、むしろ開放的だったりするのだが、個室以外ではどうしてもできない。人がいなくても、どんなに力んでも、誰か入ってくるかもしれないという思いが無意識レベルでストッパーをかけてくる。30年近く生きてきた女としての価値観が、仕切りがない小便器を排泄場所と認識してくれないのだ。
     今日も今日とて、悪ガキ男子たちの「やーい、西川のウンコ垂れー」攻撃を計3回受けた。泣かない代わりに常に騒がしい子供たちのタフさに精神的疲労を感じながら、今週最後のショートホームルームをやりすごしていると、隣の席の女の子が声をかけてきた。
    「楽しみだね、月曜日。ちょっとドキドキするけど!」
     一瞬『何が?』と思ったが、男子たちの騒ぐ声に紛れて、担任教師の「授業参観」という言葉が聞きとれる。そう言えば、ゴールデンウィーク前に案内のプリントが配られていた。
    「うちはお母さんが来てくれるの。西川くんは?」
    「来ないよ。仕事なんだ」
     授業のためにかけていたメガネを外しながら、嬉しそうな問いに平然と返す。プリントは配られた当日、下校途中の公園のゴミ箱にさっさと捨てた。特に感慨もない。
     明里だった頃は未練を振り切るために自分で捨てていた。授業参観が怖かった。嫌いなんじゃなくて、怖かった。母親が仕事で来られないことが悲しいんじゃない。団地に囲まれた学校だったのもあり、親が来ない子は他にも何人もいた。ただ、母に来たいという気持ちが一切ないことを思い知らされるのが苦痛だったのだ。
    「授業参観があるんやけど」と切り出したときの、あの鬱陶しそうな、憎しみさえこもったような顔。実際母は、「行けない」とすら口にしなかった。授業参観のプリントだけでなく、学校から配られる書類はすべて、私がテーブルに置いた位置から1ミリも動くことはなかった。見るのが辛いから、すぐ捨てるようになった。サインが必要な場合、妹の分まで私が大人の筆跡をまねて書いた。母にとって私たちは気にかける価値すらない、煩わしいだけのコバエのようなものだった。
     智也は授業参観があると知れば、きっと仕事を休んで来るだろう。そこには里親としての義務もあるかもしれない。私のことで煩わさせるのが、申し訳ないというより面倒くさい。普段以上に子供の演技に気をつけなければいけないし、単に借りを作るのが憂鬱なのかもしれない。
     学校から帰ってきた。今日は金曜日、智也が夜の仕事に出かけたあとは、布団の中に入って待望の週末読書タイムだ。寝坊したところで別に予定もなく、智也も土日は必ず仕事が入っている。
     最近私は星新一のショートショートにすっかりハマっている。元々SFは好きだったけど、子供のときはSFは漫画やアニメのイメージだった。こんなに面白いSFを見逃してたなんて今まで損していた。これなら小学生が読んでいてもおかしくないから、布団の中で寝落ちしてしまうこともしょっちゅうだ。
     また1冊読み終わった。読んでない本はまだまだある。枕元に積んでおいた文庫本を1冊布団の中に引っ張りこんで、一人にんまりする。ちゃんと分類整理していないから断言はできないが、多分この家には刊行されたすべての星新一短編集が揃っているんじゃないだろうか。智也の持つ蔵書はどれも本当に面白い。読めば読むほど、彼を好ましく感じる自分がいる。本が作者自身を表すわけではないように、彼の愛読書が彼自身でもないのに。
     
     
     
     結局昨夜も寝落ちしてしまったらしい。目が覚めたら部屋の中はすっかり明るくなっていた。
     カーテンを全開にしたベランダの窓から、日差しがいっぱいに差しこんでいる。その前で、胡坐を掻いた智也がこちらに背を向けて、小さく鼻歌を歌っていた。知らない曲だが、いつものメロディだ。この鼻歌のせいで目が覚めたんだろう。
     彼の身体の輪郭が逆光になった日差しで光っている。5月の太陽が差しこむ薄暗い部屋は妙に緑色っぽく、まるで平和が可視化したような光景だ。まだ夢の中なんじゃないか。まるで現実味がない。
     ぼんやり眺めていたら、智也が不意に振り返った。私に微笑みかけ、口を開く。
    「起きたか。いい天気だぞ。どっか遊びにいこう」
    「……藤咲さん、仕事は?」
    「引っ越し屋は休んだ。ゴールデンウィーク中、どこも連れてってやれなかったからな」
    「別にいいのに」
     のそりと上体を起こす。アパートの通路から子供の泣き声が聞こえてきた。耳障りではあるが、単に癇癪を起こしてわがままを言っているだけだ。母親の困ったような猫なで声も――
     突然、智也に飛びかかるように両耳を塞がれた。
    「ちょ、これくらい大丈夫ですよっ」
     私が手を退けようとしているのにも気付かず、更に頭ごと抱きしめてくる。押しつけられた胸元からなんとか顔を出すと、左右を落ち着きなく見回している彼の顎が見えた。
     
     ……あ、泣きそう。
     
     私よりよっぽどパニくっている智也を見上げながら、目頭が熱くなるのを感じる。
     なんて平和な日。このまま緑色の日差しに溶けて消えてしまえたら、どれほど気持ちいいだろう。
     
     
     
     
     智也に連れられていった映画館でアニメ映画を見たあと、外の広場でハンバーガーを食べた。
    「あー……尚?」
     包み紙を丸めた智也が言いづらそうに口を開く。
    「お前、俺に学校来てほしくねえか?」
    「は……?」
     咥えたポテトが地面に落ちた。智也はそれを拾って紙袋に放りこみながら、
    「授業参観。あるんだろ、月曜に。昨日スーパーで偶然親子が話してるの聞いてさ」
    「だって藤咲さん仕事あるでしょ。別に遠慮したわけじゃないですけど」
     サラリと返すと、智也が紙袋を膝に置いて俯く。
    「……そうだよな。俺みたいな若い男が来たら、絶対クラスメイトにあれこれ言われるもんな」
     そういう見方もあるのか。確かにこれじゃ、複雑な家庭を詮索されるのが嫌で隠したと思われても仕方ない。
    「そんなの僕、気にしてません」
     面倒くさい。内心でため息をつきながら口にした。
     智也が「え?」と顔を上げる。
    「小学生の授業なんか見ても面白くないかなと思っただけです」
    「お前、相変わらず可愛くないこと考えるなあ」
     苦笑して、別の紙袋からナプキンをとり出す。
    「つまらないわけないだろ。学校のお前見てみたい」
    「……がっかりしても知りませんよ」
     呟いて、紙ナプキンを受けとった。
     
     
     
     智也は家に私を送ったあと、夜のバイトに出かけていった。
     今までに聞いた話から推測するに、ホステスの送迎ドライバーと店の雑用もやっているようだ。車の運転があるため、酒の匂いをさせて帰ってくることはなかったが、たまに女性用香水の匂いが彼の洗濯物から漂ってくることがあった。単に酔っ払ったホステスに抱きつかれたのだろう。百戦錬磨のホステスたちにとって、智也は『構いたくなる可愛い男の子』だろうから。
     彼女らの気持ちは判る。智也は人目を引く美貌の持ち主ではないが、地味ながら纏まった顔立ちをしている。恋愛ものの漫画やドラマでいうところの、ヒーローの親友ポジだろうか。ヒーローの影に隠れて目立たないが、『単体でじっくり見てみると実は悪くない』というやつだ。何より、智也には愛嬌がある。何不自由なく育ったのだろうと私が勘違いしたほどの人当たりのよさは、実際は世間を渡り歩いていくための処世術なのだけれど、その分大人の分別と加減を弁えており、まったく嫌味がない。
     彼が本当の肉親だったら、さぞや鼻が高かったろう。子供の頃、私は兄が欲しかった。妹を守らなければという思いは私を強くもしたが、プレッシャーでもあった。誰かに思いっきり寄りかかって、わんわん泣いてみたかった。その反動なのか、大人になってからの私は結構涙腺が緩い。親しい人の前では相変わらず泣けないが。
     智也の前でも私は泣けないだろう。中途半端に距離が近いと逆に泣けないものだ。子供だって打算で泣く。泣いても大丈夫な人を見極めて泣く。それと同じことだ。
     智也が出かけて1時間後、ザザッと砂嵐のような音が外から聞こえてきた。夕方頃に干した洗濯物が濡れないか確認してみると、雨音だと思ったのは風の音だったらしい。カーテンを開いた向こうには、星ひとつない濁った空に半分の月が浮かんでいる。
     祖母の家に預けられていた私と妹は、母に恋人ができたことによって連れ戻される運びとなった。そこからの母の再婚と引っ越しはとてつもなく急だった。団地で過ごす最後の夜、家具のなくなったガランとした部屋で横になると、カーテンのない窓から満月が見えた。ものすごく明るくて青白い、冷たい色をした満月だった。あんなに眩しい月を見たのは、あれが最初で最後だ。当時は知らなかったが、特別なスーパームーン――地球との距離が近付くことで月が大きく明るく見える現象――だったのかもしれない。
     月を眺めながら、子供だった私は茫然としていた。眠気は訪れず、この夜が一生続くのではないかとすら思った。泣いてしまいたかったけど涙は流れてくれなくて、水の膜が張った目に月の光が乱反射して痛かった。月光はガラスでできているのだなと思い、そんな感傷的で乙女チックなことを考える自分があまりに陳腐でやるせなく、腹が立って仕方なかった。ただ流れに身を任せることしかできないちっぽけな自分にも、この世にも、これから先の生活にも、何もかもにうんざりして、今すぐ私を消してくれと月を睨みながら一晩中強く願い続けていた。
     東京の空に浮かぶぼやけた半分の月は、ガラスというより白い綿の塊みたいだ。なのに当時の気持ちが蘇ってきた。これも明日の授業参観のせいに違いない。もやもやした気分をカットするように勢いよくカーテンを引き、ランドセルから数枚の紙をとり出した。
     緑色の枠線の中には、子供の字を模した文字が並んでいる。しばらく眺めてからテーブルの上に置き、消しゴムを手にとった。
     
     
     
     月曜日の昼休みになった。
     5限目の授業参観を控え、今日ばかりは男の子たちもグラウンドには飛び出していかず、窓から校門を落ち着きなく見張っている。
    「あ、来た……! あのピンクのスカート、あたしのママ!」
    「げっ、母ちゃん化粧濃すぎ!」
     私は自分の席に座ったまま、キャイキャイと騒ぐ声を楽しく聞く。
     その内教室の後ろのドアが開いて、保護者たちが入ってきた。やっぱりほとんどが女性だ。小学3年生の親だから、若い母親なら私と同年代のはずなのだが、みんな私よりずっと年上に見える。よそ行きの、母親の顔をしているからだろうか。
    「うわっ、若い男の人入ってきた! 結構かっこいい!」
     隣の席の子が黄色い声を上げている。
     滑り込むようにして教室に入ってきた智也は、確かに小洒落た服装をしていた。ネクタイは締めていないものの、ストライプのシャツに紺色のサマージャケットを羽織っている。あんな服持ってたのか。昼まで引っ越し業者のバイトをしていたはずだから、一旦着替えに帰ったのだろう。髪もセットしてあるし、風呂まで入ったようだ。
     別に作業着のまま来てくれてよかったのに。私に恥を掻かせないようにという配慮だろうが、明らかに浮いて目立っている。隣の子も、「誰かのお兄さん? にしては大人すぎるし……」とチェックに余念がない。
    「あれ、僕の父さん。来てくれたんだ」
    「え!? 若すぎない!?」
    「いいでしょ?」
     目を丸くしている女の子に笑ってやった。彼女は難しそうな顔付きになって、自分の口元に拳を当てる。
    「クラスの男子よりはいい感じだけど、西川くんのお父さんならもっとかっこいいと思ってたのに……」
     漏れ聞こえてきた独り言に内心苦笑する。そこまで考えてたのか。この子は強かな女になりそうだ。
     智也は他の保護者たちから場所を譲られて、恐縮しながら教室後ろの中央付近に落ち着いた。最後に来たのに、全体を見渡せる特等席だ。保護者たちから見て、一回り以上年少の智也は私たち子供と変わらないのだろう。それとも、人好きのするあの笑顔に騙されているのか。
     ペコペコ頭を下げながら愛想を振りまいている智也を眺めていたら、目が合った。私に向かい、嬉しそうに手を上げる。目線だけで返事して、すぐ前を向いた。同時にチャイムが鳴る。
    「起立!」
     日直が緊張気味に号令をかけ、椅子の動く音が響く。
     生徒が着席するのを待ってから、教卓を前に立っていた教師がおもむろに口を開いた。
    「待ちに待った授業参観ですね。みんな緊張してるかな? お家の人にいつものみんなを見てもらいましょう。今日の授業は国語。前にみんなに書いてもらった作文、テーマは『最近見た夢』の発表会です」
     セリフの後半で保護者に向けて説明をし、「じゃあ早速席順で。松本くん」と指名する。
     指された子はしゃちほこばって立ち上がり、腕を突っ張って構えた作文用紙を読み上げ始めた。
    「旅行へ行った夢。3年2組16番、松本俊介。僕は、ゴールデンウィークに、お母さんとお父さんと弟の恵介とおばあちゃんとで、温泉旅行へゆきました。旅行にはバスで行きました。旅館で寝たときに夢を見て、そのときに見た夢を作文に書こうと思いました。どうしてかとゆうと、旅行が楽しかったからです」
     一応国語の授業ということになっているけど、どちらかといえば道徳に近い。たまに音読に詰まる子を指導したり、言葉足らずな部分を質問で補完するくらいだ。支離滅裂で荒唐無稽な子供たちの夢の世界は、ファンタジーのおとぎ話を聞いているようで、面白くもあり不思議な気分にもさせられた。
    「楽しそうな夢でしたね。じゃあ次は西川くん」
     私の番が回ってきた。返事をして立ち上がり、作文用紙を構える。紙は全体的にかけた消しゴムで毛羽立っている。
     軽く咳払いをしてから読み上げ始めた。
    「穴を見上げる夢。3年2組13番、西川尚。僕は何度も同じ夢を見ます。6歳の頃からです。気付くと一人で海の底に沈んでいて、辺りは真っ暗です。だけど夢の中の僕は怖いとは思いません。たっぷりの水はひんやりと冷たくて、とても満ち足りた気持ちで沈んでいます。元々僕は水が好きなんです。雨の日は落ち着くし、プールで泳ぐのも大好きです。だけど本物の海はちょっと苦手です。サメがいるかもしれないし、足が海底につかなかったら怖いと思います。でも沈みきってしまえば案外怖くないことを、僕は知っています。だから夢の中でも僕は平気です。それに海面のほうには満月が見えます。真っ暗な水の中から見る月はゆらゆら揺れていて、小さな栓の開いた瓶の口みたいです。地球も本当は丸い壺の底なんだと思います。そして月は穴です。本当は月はただの岩の塊で、うさぎとかカニみたいに見える模様があるのも知ってるけど、僕は目が悪いから、そっちのほうがニセモノみたいに感じてしまいます。僕にとって月は穴だったり、ガラスだったり、べっこう飴みたいだったりします。べっこう飴のときはほんとのほんとに薄っぺらくなって、手にとってバリバリ齧っちゃいたくなります。でも夢では穴だから齧れません。穴の月を見上げていたら、上から僕を呼ぶみたいな声が聞こえます。その声は優しい声なんだけど、夢の僕はここから出たくないと思ってしまいます。だって海の底は気持ちがいいし、それにそこから出ちゃったら、あの声はもう僕を呼んでくれなくなるかもしれないから」
     読み終えて、席に座る。
     教卓に視線をやると、先生がポカンとした顔をしていた。私の視線に気付いて、弾かれたように口を開く。
    「……あっ、すごくいい作文でした! えっと、月が岩でできてるとか、難しいこともよく調べてありますね」
     拍手に混じって、クラスメイトたちの「すごーい」と無邪気な声も聞こえてくる。
     後ろをチラリと窺ってみたら、智也が『良かったぞ』と言うように親指を立ててきた。そこへ隣のふくよかな体型の女性が、「お兄さん? 自慢の弟さんねえ」と声をかけている。
     照れ笑いをしている智也を見ながら、小さく苦笑した。
     変な光景。これこそ夢の景色みたいだ。何やってるんやろ、私。わざわざ書き直しまでして、下手に目立って。でもまあ……たまにはええか、恩返しも。
     
     
     
     全員の発表が終わり、作文を回収したところでチャイムが鳴った。
     そのままショートホームルームに移り、保護者と帰ることになる。智也と並んで教室を出たら、「西川くん、ちょっと」と先生に呼び留められた。
    「はい?」
    「今日の作文、作文コンクールに出していいかな?」
     予想外だ。困惑していると、「本当によく書けてた。西川くん、作家さんになれるかも!」と褒めてくる。
     そりゃそうだろう。8歳の子供たち相手に30女が大人げなく本気を出して、しかも大人受けを狙って書いたものなのだから。月の見え方などは子供時代に実際に感じていたことだが、あれくらい子供なら誰だって考える。ただ、子供はそれを特別な感性だと自覚してないだけだ。
     結局断るわけにもいかず、全国小学生作文コンクールに出展することになってしまった。大ごとになってしまったと内心頭を抱えながら、下駄箱で靴を履き替える。隣で自前のスリッパからカジュアルな革靴に履き替えた智也――革靴も初めて見た――が声をかけてきた。
    「ほんとお前文才あるなあ。俺もびっくりしたわ」
    「……まあ、家にある本ずっと読んでるから」
     校舎を出て、校門に向かう。
     周りは親との下校ではしゃいでいる子供たちで騒がしい。前のほうにいる母親を引き連れた男の子が、プリントらしきものを頭上に掲げて、「こーれ誰のー? おっとし物ー」と大きな声で歌っていた。
    「うわー、すげえ懐かしい……」
     目を細めた智也が、私に視線を向ける。
    「先生の言う通り、小説家目指してみたら?」
    「うーん、その内」
     声を上げて笑われた。
    「相変わらず、大人みたいな切り返しするなあ」
     確かに今は神童だろう。だけど大人としては平凡だ。内容も、私が子供に戻ったから思い出しただけだ。
     校門を出た。通り雨でも降ったのだろうか。アスファルトの車道に水たまりができている。智也は私の隣を歩いたまま、駅に背を向ける。
    「仕事、急がなくていいんですか」
    「あとは夜の仕事だけだから。喫茶店でも寄ろうぜ。パフェ食おう、パフェ」
    「ランドセル背負ってるのに」
    「大丈夫だって。保護者の俺が一緒なんだし」
    「そんな適当な……」
     下校の道から寄り道して、商店街に入った。私は東京に詳しくないが、この辺りはかなり下町の部類なんじゃないだろうか。商店街なんか長閑ながらもごみごみとした活気があって、なんとなく大阪を思い起こさせる。
     営業している店々を通りすぎ、昔ながらの純喫茶店のドアを開いた。チリンとベルの音がして、「いらっしゃいませ」と声が聞こえる。
     智也に促されて中に入ったら、たちまち喫茶店特有の匂いが鼻腔をいっぱいにした。古くさい埃のような、木の匂いのような、紅茶に入れたあとのレモンの輪切りのような匂いだ。なぜかコーヒーの匂いはしない。それが昔からずっと不思議だった。
     レースの白いカーテンがかかった窓際の席に、智也と向かい合って座る。
    「何食いたい?」
    「……なんでも」
    「んっと、じゃあチョコレートパフェと……このお勧めフルーツパフェってやつください」
     カウンターの老店主に注文している声を聞きながら、抱えていたランドセルを横の椅子に置く。
     注文を終えた智也が、「お、今週号あるじゃん」と席を立った。
    「ごめんな。ちょっとこれだけ読ませて。今いいとこなんだ」
     熱心に漫画雑誌を読みふけっている智也を見ながら、ワイン色の椅子に両手を突いて身体を小さく揺すっていると、18、19くらいのウエイトレスがお冷を運んできた。
     喉も乾いていないのに一口含むと、レモン水だ。店に充満しているレモンっぽい香りの正体はこれなのかもしれない。どことなく物悲しい気持ちになる匂いと後味……。
     雑誌を閉じた智也は、「ぐわ~っ、続きが気になる!」と呻いている。
     結構若者らしいところもあるんやな。そう思っていたら、視線を感じた。見れば、さっきのウエイトレスがパッと視線を逸らす。確かに智也ぐらいの歳の男の子がこの店に来るのは珍しいだろう。しかし別に一目惚れしたわけでもないだろうに、過剰に気にしていない素振りを見せるところが微笑ましくもあり、こちらまで照れくさいような気分にもさせられる。
     ビロードのクッションの上で尻の居所を決めかねていたら、注文のパフェが来た。
    「おー、すっげ! 折角だからお前こっち食えよ。チョコもあとでやるから」
     目の前に押し出されたフルーツパフェは圧巻だった。桜桃、パイン、イチゴ、メロン、葡萄……色とりどりの果物が塔のように積み重なっている。
    「どした? 食いきれなくてもいいぞ。俺が食うから」
     椅子の座席部分に両手を突いたままモジモジしていると、智也に声をかけられた。
    「それもあるけど……まあ、いいです」
     外国の王様が所有している国宝のレイピアみたいな、ピカピカのロングスプーンをそっと手にとる。……宝石食べるみたいや。真っ赤なイチゴを掬いながら胸の内で呟いた。こんなこと、前の人生で大人になってから友達と自由に食べたときだって、ちっとも感じなかったのに。
     結局パフェは半分ほどしか食べられなかった。満腹で喫茶店から出て、ランドセルを背負ったままスーパーへ寄る。
     まだ半額になっていない総菜コーナーのおにぎりやサンドイッチを買って自動ドアをくぐると、日が暮れかけていた。
     影絵みたいな家々の屋根の上を智也が指差す。
    「ほら、尚。見てみろ。月が出てる」
     指の先には、サーモンピンクの夕空に透き通ったレモン色の月が浮かんでいた。
    「ほんとべっこう飴みたいだな。噛りつきたくなる気持ち判るわ」
     彼はそう言って歩き出しながら、「あの作文の夢ってさ、入院中に見てた夢?」
     振り返る智也の頬のラインを眺めた。頬骨の高いその輪郭は、熟れる前の野生の桃みたいだ。夕日に染まるさまは、真っ赤なグレナデンシロップに浸かったかのよう。
    「……そうです。初めて見たのは」
    「やっぱり。あの声って俺か。見舞いに行く度に話しかけてたからさ。心配しなくても呼んでやるよ、これからもずっと」
     そう言って智也は微笑んだ。ザクロシロップ漬けの桃が少し丸みを帯びる。
     目線を逸らして俯きがちに歩みを再開した。少しして、前から鼻歌が聞こえてきた。
     いつもの曲だ。さっき返事をしなかった代わりに、「それ、なんの歌ですか?」と訊いてみた。智也が振り返る。
    「『ペーパー・ムーン』っつー昔の洋画の主題歌。家に本もあるだろ」
    「本?」
    「見たことねえ? 三日月に座ってる表紙の――あ!」
     私の背後に目を向けて、いきなり声を上げる。かと思うと、手をとってグイグイ引っ張ってきた。
    「写真撮ろう、写真! 記念撮影!」
    「ちょ、何、急に……!」
     意味が判らないまま、引きずられるように来た道を戻り、小さな写真館に入る。
     店主は口ひげを生やした中年男性だった。ちょっと腹が出ていて、赤いチェックのベストがずり上がっている。
     智也が記念写真を撮りたい旨を伝えると、棚から分厚いアルバムのようなものが差し出された。背景用のセットやスクリーンの見本らしい。
    「ペーパームーン、ないんすね」
     捲りながら、智也が残念そうに言う。
     チャップリンみたいな見た目の店主は、「お客さん、若いのに古い映画知ってますねえ」と笑っていた。
     結局シンプルなダークグリーンのスクリーンを背景に撮ることになった。プロのカメラマンに撮ってもらうのなんて成人式以来だ。母は世間体を気にする人だったから、無理やり振袖を着せられた。記念写真を撮らせたのも将来の見合い用だろう。結局私は短大を卒業してすぐ実家を出たから、その写真は無用の長物になった。今も実家のタンスに眠っているのだろうか。
     写真は苦手だ。特に記念撮影は。成人式のときも着付けで腹にタオルを何枚も巻かれて酒樽みたいにされ、カメラマンにお世辞を言われながらなぜか少女漫画のような乙女チックなポーズをとらされて、自分は狐に化かされてるんじゃないだろうかという気分になったものだ。
     智也に引っ張られてスクリーンの前に立つ。
     背負っていたランドセルを下ろしたら、智也がすぐ持ち上げた。悪戯っぽく笑いながら、「こーれ誰の? 落っとしー物」と歌う。
    「僕のに決まってるでしょ。嫌ですよ、こんなの子供丸出しじゃないですか」
     担ぎ直させようとしてくる彼に抵抗する。
    「それがいいんだよ。あっという間にでかくなるんだから」
     あっけらかんと言い返された。
     気持ちは判る。私だって、『8歳の男の子ならこう言うだろう』と予想したことを予定調和で口にしただけだ。
     念押しであからさまなため息をついてから、ランドセルを背負ってカメラに向き直った。
     店主が「ぼく、両手を肩紐に」と言ってくる。すぐに希望通りにしてやった。なんでもいいから早く終わらせてほしい。
    「いいですねえ。いい写真になりますよ、これは」
     営業トークのお世辞を聞きながら、狸――彼は狐というより狸だ――にそそのかされている気になった。
     とはいえ、頭の片隅では同意している自分もいる。この身体も大分慣れてはきたものの、私の主観は大人の女のままだ。尚は可愛い。それは判断できる。ただ、そう思う自分自身にナルシシズムも感じ出したのが厄介ではあるけれど。
     
     どこからが私で、どこまでが尚なのだろう。
     私が尚の前世の人格なら、私の自我ごと尚と言えるのではないか?
     
     そんなことを考えていたら、気難しそうな顔付きになったらしい。「ぼく、笑顔笑顔」と苦笑しながら、店主が自分の眉間をつつく。
     一旦目を閉じて、ツンと澄ました顔をしてやった。やけくその笑顔を作るより、こっちのほうが小学生の男の子らしい。
    「いいね! そのまま。はい、チーズ!」
     満足そうにシャッターの目蓋が落ちた。
     狐と狸の化かし合い。店主が狸なら、今の私は狐だ。
     それも尻尾が2本生えた妖狐になりかけの。
     
     
     
     写真の納品は1か月後になるらしい。
     思わず「そんなに?」と言ってしまったら、軽い説明をしてくれた。ネガに鉛筆で影の濃淡を塗りこんでいく、修正作業というものがあるらしい。1枚ずつルーペで見ながらの手作業なのだという。
    「最近はデジタルカメラも増えたし、パソコンなら修正も簡単にできるんだけどね。それでも、フィルム写真にしか出せない味はあるから」
     誇らしげな店主の表情が印象的だった。しかし店を出てすぐ智也は、「デジカメかあ。買おうかな。手軽だし、安上がりだし」と言い放ち、私を内心苦笑させた。やっぱり基本、即物的な子だ。若者らしいとも言える。
     家に帰ると、智也が家中を引っ掻き回し始めた。
    「あれー? 捨ててねえはずだけど……まあ、まだ尚には早いし」
     なんのことかと気になったが、「あ、やべ! バイト遅れる!」とスーパーで買ったおにぎり片手に智也は家を飛び出していった。
     あとに残ったのは、引っ繰り返った部屋。
    「もー。最近あの子甘えすぎ!」
     文句を言いながら片付けている内に、さっきの疑問はすっかり忘れてしまっていた。
     
     
     
     
     
     
     
     居間の古ぼけたテレビの上に写真立てが飾ってある。
     2年前、初めての授業参観のあとに智也と写真館で撮った記念写真だ。その前には、病室で作ったジオラマ模型。
     写真の中の私は、生意気そうな冷めた顔で小さなその町を見下ろしており、隣の智也は少し強張った表情で、それでも満足そうに静かに微笑んでいる。
     眺めていたら、脱衣所のほうから智也の声がした。
    「地デジかあ。まだ映るのにもったいねえなあ」
     私が見ていたのは写真立てだが、テレビを見ていると思われたようだ。確かにモニターでは、1週間後のアナログ放送終了を知らせるコマーシャルが流れていた。
    「尚も夏休み入るし、今度の休みの日に買いにいくか」
    「ほんとギリギリですね。ていうか服。着てくださいよ」
     上半身裸で戻ってきた智也に文句を言う。
    「暑いんだよ。メシ、待たせたな。腹減ったろ」
     冷蔵庫から出した麦茶を美味しそうに飲んだ智也が、しゃもじ片手に炊飯器に手をかける。そこへ1枚の厚紙を差し出した。
    「そうだそうだ、通知表! ま、お尚は賢いから……」
     ウキウキと通知表を開いた彼の目が見開かれる。
    「オール5じゃん!」
     私ももらったときは驚いた。今回も今まで通り、平均で4強ぐらいになる調整をしたつもりが、どうやら5年1組の担任は判定が甘いらしい。
    「……まあ、まぐれだと思うんですけど」
     照れている風を装って言い訳しておいた。
     しかし智也は、「いや、お前ならやれるって、俺は確信してたね」と力強く反論してくれる。信じなくていいから、そんなの。
    「頑張ったなあ。体育も5だし。最近背、伸びてきたしな。まだまだこっからだよ」
     通知表を見ながら興奮気味に頷いている。「先生のコメント、『いつも礼儀正しく親切で、みんなから頼りにされています』だって!」と、我が事のように喜んでいる姿がなんだか面映ゆい。
     明里だったときも、一度だけオール5をとったことがある。そのときの私は平凡な子供だったから、努力して勝ちとったものだ。見栄っ張りな母のことだから、私が優秀になれば気にかけてもらえる、褒めてもらえると思った。だけど通知表はいつも通り、開いてすらもらえなかった。それ以来、私は勉強に興味がなくなった。
     今から思えば、ささやかながらも青くさい反抗期だと自分に呆れるばかりだ。勉強の大切さに気付くのは大人になってからだ。大人になって世界を知ると、ただ純粋に知識を欲するようになる。しかし学びたいときには学べる環境になく、内心後悔していた。折角生まれ変わったのだから、今度はしっかり勉強したい。高校辺りから地頭での勝負になって、脱落してしまいそうだが。
     通知表から顔を上げた智也が、私にニコニコと話しかけてくる。
    「何か欲しい物ないか? お前いっつも遠慮するし、こんなときくらい好きな物言えよ」
     値段設定がない。彼にしてはかなりの太っ腹発言だ。
     ここまで極端な目立つ成績をとってしまったのはただの調整ミスだったが、ちょうど欲しい物があった。
    「欲しいのは……パソコン」
     やはり智也は固まった。私が明里として生きていた頃より安くなったとはいえ、まだまだパソコンは高価なものだ。毎月の通信費も家計を圧迫するだろう。
    「やっぱ厳しいですよね。テレビも買わなきゃだし」
     助け舟を出してやると、眉間に皺を寄せ難しそうな顔付きになる。
    「確かに厳しい。俺、クレカ持ってねえからなあ。尚の手術代は定期で貯めてるし」
    「ですよね。指の手術代は自分で貯めるから、別にどうでもいいですけど。大丈夫です、気にしないでください」
    「いやいや。すぐには買えねえけど、金貯めて買ってやるよ。パソコンで何がしたいんだ?」
     やりたいことはネットサーフィンだ。ネット上でぐらい大人の女としてありのままに振る舞ったり、興味のある記事や通販サイトを閲覧したい。実際に身につけることはできなくても、久しぶりにワンピースやアクセサリーを眺めたかった。
     当然、智也にこれらのことを言うわけにはいかない。本心ではないけれど、気になっていた話題を振ってみることにした。
    「パソコンって……エッチなのとか見れるんですよね……?」
     一瞬目を丸くした智也が大声で笑い出す。
    「そうかあ、お前もそういう年頃だもんなあ」
    「藤咲さんはどうしてるんですか?」
    「んー?」
    「エロ本とか家にないけど。携帯?」
     困ったように空笑いをしながら、「そー」
    「場所は? トイレとか? それともオレが寝てるときにこっそり?」
     わざと一人称に『オレ』を使った。学校ではたまに使うようになったが、智也に対して言うのは初めてだ。
     彼も気付いたのだろう。苦笑に少し複雑さを滲ませつつ応える。
    「ノーコメント。あんま突っこんでくるなよ。一応俺、お前を預かってる身なんだからさあ」
    「別に余所の人に言いふらしたりしませんよ。信用問題にかかわりますもんね」
    「はー、お前ほんっと可愛くねえな」
     はぐらかされてしまった。
     確かに私は可愛げがないが、別にからかっているわけではない。
     私がいるせいでそっちの面でも不自由をさせているだろうと、内心ずっと気にかかっていたのだ。
     
     
     
     数日後、智也の休みの日に二人で電気屋に出かけた。
     予定通り、地上デジタル放送対応の薄型テレビを選び、レジに行こうとする智也の服を引っ張る。
    「欲しい物ありました」
    「ああ、パソコン? 値段だけでも見とこうか。どこだ?」
    「これなら、今買えますよね」
     小さな箱型の機械を指差すと、智也が声を上げた。
    「これ俺が欲しいっつってたデジカメじゃん! お前の欲しいもんじゃないだろ!」
    「でも藤咲さんが撮るのはどうせ僕でしょ」
     写真館での記念撮影以来、智也はことあるごとに私の写真を撮るようになった。デジカメが欲しいと言いながら、気軽に買える使い捨てカメラで撮るものだから、今までの分を合わせたらデジカメの1、2台くらい余裕で買える額になっていた。どうも彼は金の使い方が大雑把だ。現像代も馬鹿にならないし、私がパソコンを欲する理由のひとつには、写真をデータで残しておけるからというのもあるのだ。
    「えー、お前俺に写真撮ってほしいの? いっつも仏頂面するじゃん」
    「使い捨てカメラ代がもったいないからですけど。まあそういうことにしてあげてもいいです」
    「可愛くねえやつ……。なあ、ほんとに買っていいのかよ?」
     ぼやきながらもソワソワ嬉しそうに訊いてくる。実物を見たら殊更欲しくなったのだろう。
     微笑ましさに思わず口元を綻ばせながら頷いた。
    「いいですよ。藤咲さんが喜ぶなら」
     
     
     買ってすぐに、智也は試し撮りだとか言ってメモリーカードの容量をいっぱいにしてしまった。
     しかもその写真――私がアイスを食べているだけの姿や、新しいテレビを眺めている様子が写っているだけ――を、翌日全部プリントアウトしてきた。全然節約になってない。でもまあ、その内飽きるだろう。
     ――と思っていたら、3週間後、今度は男児用の浴衣を買ってきた。飽きるどころか悪化してるじゃないか。
    「ほら、早く脱げ。着せてやるから」
     携帯電話で着付けのサイトを見ているらしい智也が急かしてくる。
    「……急すぎ。僕、汗だくなんだけど」
    「どうせ風呂入ってもすぐ汗掻くよ。今日も熱帯夜だ」
    「……藤咲さん、仕事は?」
    「夜のは休み。早くしろって、もう盆踊り始まってるんだから」
     渋々Tシャツの裾に手をかけた。智也が携帯を見ている隙にササッと下着姿になり、急いで金魚と花火柄の青い浴衣を着こむ。
    「えっと、襟は左が上で、子供はしっかり……」
     携帯を床に置いて確認しながら、膝立ちになった智也が腕を伸ばしてきた。腰に紐を巻かれて、彼の顔が私の胸にくっつきそうになる。
     汗くさくないかと思うと、余計新たな汗が滲み出した。同時に智也が顔を上向ける。
    「子供の汗の匂いがする」
     ぶわっと汗が噴き出すのが判った。咄嗟に手が出る。
     顔面を手の平で押し返された智也は、仰け反りながら「何すんだよ、いきなり」と文句を言ってきた。
     
     それはこっちのセリフだ!
     いきなりなんてこと言うんだ、君は!
     
     内心で散々喚くも、彼にセクハラ発言をしている自覚はない。
     歯噛みしながら身体を強張らせて泣き寝入りしていると、智也の明るい声が聞こえてきた。
    「よし、完成! おー、かっわいー!」
    「…………」
    「あ、いや、かっこいいかっこいい! すげえ似合ってるぜ、お尚!」
    「……どうも」
     私にとっても、小学5年生の男の子は『可愛い』だ。だけど智也に言われるのは腑に落ちない。
     23歳の君だって、私からすれば『可愛い年下の男の子』なんだからね。
     
     
     
     釈然としない気持ちのまま、智也に連れられて家を出た。地元の夏祭りに行くらしい。
     すっかり見慣れた日暮れ後の町に、下駄の音がノスタルジックに響く。わざわざ下駄まで買ったのは、被写体の見栄えをよくするためだろうか。現にさっきから何枚も写真を撮られている。ただ近所を歩いてるだけなのに。
     彼がこんな風に写真を撮ったり、遠出はしないものの私をいろんな場所に連れ出すのは、私に友達がいないと思っているからだろう。実際彼の推測は正解で、学校ではそれなりに喋ったり行動を共にする子はいても、学校の外で会ったことは一度もなかった。30女と小学生じゃ、遊ぶというより『面倒を見る』だ。疲れるだけだから、最低限の演技以外では距離を置いている。
     一度も友達の話をしない私を、智也は内心心配しているだろう。それでも口に出さないのは、彼なりの礼儀と私のことを理解してくれているから。彼のこういう距離感は一緒にいて居心地がよかった。似た者同士だからこその無言の連携とでも言おうか。
     考えている内に祭囃子が聞こえてきた。浴衣の通行人も増えてくる。連れ立つように普段はゲートボールなんかに使われている町内のグラウンドに立ちいった。中央にやぐらが建ち、ぶら下がった提灯が見える。生温い空気を揺るがす太鼓の音。輪になって踊る人々の熱気。
    「踊るか?」
     智也の言葉に首を振る。
    「いいです。疲れるし暑いし」
    「お前は休日のおっさんか」
     智也は呆れたようにツッコんでくるが、実は私は結構盆踊りが好きだったりする。
     断ったのは、休み中で読書三昧の私と違い、引っ越し屋の肉体労働後で疲れているだろう彼を慮ってのことだ。
    「じゃあ屋台で夕メシ食うか」
     結局大蔵省――今は財務省というんだっけ――の鶴の一声で、夜店を見て回ることになった。
     お面売りの屋台の前まで来ると、智也に「買ってやるよ」と言われた。『欲しいか?』ではなく断定口調なので、被写体の小物にしたいのだろう。
    「これなんかかっこいいんじゃねえ?」
     今はやりの特撮ヒーローのお面を渡されそうになり、慌てて端に飾ってあった白狐のお面を指差した。笑ったみたいな細い目に、赤い隈取りがしてある。
    「それ、可愛いよな。ほんとは俺もそれつけてほしかった」
     笑いながら智也がお面を斜め掛けにつけてくれた。支払い後、すぐに写真を撮られる。やっぱり。
     イカ焼きに齧りつき、ソース焼きそばを啜っている間もフラッシュが眩しい。智也はデジカメを構えながら、「ほんとお前、祭りに来たくて人間に化けてる子狐っぽさがすげえ」と肩を震わせている。画像データを確認させてもらったら、案の定ブレて余計にもののけ感が出ていた。
     東京では、イカ焼きがイカの姿焼きを示すことは知っていた。大阪でイカ焼きといえば、小麦粉の生地にイカの切り身を入れてクレープ状に焼いた、いわゆる粉もの料理だ。
     しかし、腹もふくれてそろそろ帰ろうかと言い合いながら歩いていたら、見たこともない屋台が視界に飛びこんできた。
    「食いたいのか?」
     私の視線の先に気付いた智也が訊いてくる。
     首を振ったが、「遠慮すんなって」と強引に引っ張られて、屋台の前に立たされた。
     遠目に見た宝石細工のような飴たちが、屋台用の強いライトを浴びてキラキラ光り輝いている。やっぱり初めて見る食べ物だ。
     屋台に『あんず飴』と書かれてあるから、りんご飴やべっこう飴と同じ系統なんだろうが、土台になっているのは氷の塊で、そこに水飴のかかった様々な果物が割り箸に刺さって並んでいる。
     数年前に喫茶店で食べたフルーツパフェと同じ、まるでガラスに包まれているみたいだった。
    「どれにする?」
     促され、妥当に一番数の多い赤い果物を選んだ。あんず飴というからには、この果物があんずなのだろう。食べたことはないが、甘酸っぱいに違いない。
     智也はパイナップルを選んでいる。金を支払うと、最中の皮を皿代わりにして渡された。なるほど、これなら水飴が垂れないし、ゴミも出ない。本当にユニークな食べ物だ。
     智也は割り箸を抓んで最中の皮から引き剥がすと、パイナップルを頭上へとかざした。
    「ちっちゃなお月さまみたいだな」
     笑いながら月に重ねて覗きこむと、パクリと一口で咥える。
     私もルビーのようなあんず飴を齧ってみた。途端に噎せた。
    「大丈夫か。変なとこ入った?」
     智也が可笑しそうに苦笑しながら訊いてくる。
    「何これ。酸っぱいと思ってなかった。梅干し?」
     甘いと思ってたのに騙された。祖母の家で、だし汁を麦茶と間違って飲んだときよりも衝撃的だ。
    「え、お前すもも漬け……」
     キョトンと呟いた智也はここで何かに気付いたようにハッとした顔をすると、「よし! 全屋台制覇しよう!」と私の手をとった。どうやら不憫だと思われたらしい。
     
     単に大阪の駄菓子屋には、すもも漬けが置いてなかったからなんだけど……。
     
     引き摺っていかれながら、胸の内で苦笑した。
     
     
     
     
     
     
     
    「邪魔。さっさと退いてよ」
    「え、あ、ごめ……っ」
    「はあ? 『すいません』でしょ。まだ小学生気分なわけ?」
    「そのくせハイソックスなんか履いてるしー。先生にちょっと褒められたからって、調子乗るとかキモいんだけどー」
     
     アホらし。
     中学校に上がり、すっかり標準語にも慣れたのに、わざわざ大阪弁を使ってしまうほどの馬鹿馬鹿しさだ。
     
     横目に見る視線の先では、3年生の女子三人が私のクラスメイトでもある1年女子に寄ってたかって難癖をつけている。私が中学生だった頃から変わっていない。女のこういう陰湿なところは本当に大嫌いだ。
     女だった私にも当然こういう部分は存在する。だから出してしまわないように極力注意していた。いつ何時も、愚かしさを自覚していない人間が一番醜い。物心つく前から母を見てきて、それを直感的に感じていた。
     中学生は自我の確立と無知の間で迷走する暗黒期だ。そんな時代を再度過ごす羽目になるとは。自発的に入った吹奏楽部とはいえ、ため息のひとつもつきたくなる。
     大人しい性格のクラスメイトは、先輩方に楽器の片付けを命じられたらしい。実際にため息をついてから、大きなケースを持ち上げようとしている彼女に近寄った。
    「手伝うよ」
    「あ、ありがと……」
     礼を言われる筋合いはない。本当は無視したいところだが、クラスメイトのよしみで渋々声をかけたのだから。
     思った通り、3年女子の視線が痛い。私がなまじ美形なのが悪いんだろう。
     もうこの身体はすっかり自分のものという認識になり、明里だった頃の顔は思い出せないくらいなのだが、それでも人生2周もしていると客観的に己を見るようになる。達観していると言ったほうが正しいかもしれない。元が女だから、普通の男より身嗜みにも気を遣う。このまま成長すれば雑誌のモデルぐらい務められるルックスをしているが、今のところメリットよりデメリットを感じることのほうが多かった。そしてそれは大人になってもきっと変わらないだろう。私には恋愛をするつもりがなく、目立ってしまう芸能界にも興味がない。
     こちらを見ながらヒソヒソ話をしている3年生トリオに内心ため息をついていると、「せんぱーい」と明るい声がした。
    「オレ、ロングトーン10秒吹けたんですよ! すごくないですか?」
     クラスは違うが、同じ1年生の今間こんまだ。パートはトロンボーンで、今も手に大きめのマウスピースを持っている。
     私が彼のパートまで覚えているのは、彼が非常に目立つからだ。いつもニコニコと愛想がよく、アイドルみたいな愛嬌のある顔立ちをしているので、男女問わず誰からも好かれている。
     現に不機嫌だった三人組もコロッと相好を崩し、「ほんと? 吹いてみてよ」「へろっへろじゃん!」「でも音が続くだけでもすごいよ、コンちゃん!」と彼に夢中になっていた。
     ――助けてくれたのかもしれない。チラッと思ったが、あまりいい気はしなかった。
     中学生や教師たちは騙せても、人生二度目の仮面を被って生きている私の目は誤魔化せない。彼は本音を隠し、上っ面だけで笑っている。
     思春期によくある、『周りが馬鹿に見えている』タイプの子なのだろう。何不自由なく育ち、なんでも人並み以上にこなせてしまうものだから、周りが低レベルに見えて見下してしまうのだ。
     なんとなくいけ好かない子。それが私の今間に対する印象だった。
     
     
     
     私が中学入学と同時に吹奏楽部に入ったのは、トランペットを吹くためだ。
     明里としての人生でエレクトーンを習っていたが、母に無理やり習わされていたものだったため、8年やっていたにもかかわらず楽譜も満足に読めなかった。
     とはいえ、楽器に興味がなかったわけではない。当時本当に習いたかったのはピアノで、好きな楽器を思い通りに演奏できれば、きっと楽しいだろうと憧れていた。
     吹奏楽はピアノパートがほぼないので、次に興味のあるトランペットを選んだ。早めに朝練に行き、ピアノも独学で弾いていた。
     そしたら例の3年生女子の一人、リーダー格の子が私につっかかってきた。
    「勝手にピアノ弾かないでくれる? 素人に弾かれると、鍵盤の調子が悪くなるのよね」
     彼女はクラブ内でピアノパートを兼任している。可愛さ余って憎さ100倍といったところか。癒しの今間ワールドでも、女子中学生の嫉妬は抑えきれなかったらしい。
    「弾くんですか。なら代わりますよ」
     さっさと椅子から立ち上がって、音楽準備室のドアに手をかけた。
    「ちょっと、どこ行くのよ」
    「自分のパート練習しようと思って」
    「そういうことじゃないでしょ。勝手にピアノ使っといて、ごめんなさいの一言もないわけ?」
     謝罪をするのは容易い。バーテンダーをやっていれば、酔っ払った客から難癖をつけられることだってあった。だけどそのときこちらが折れるのは、それが業務のひとつだから。
     同じ生徒同士で、なぜこちらだけが理不尽に頭を下げねばならないのか。年功序列というのなら、彼女は実際には私より20歳近くも年下なのに。
    「大体西川くん、指がボロボロだからか知らないけど、運指がめちゃくちゃなのよ。頼めば教えてあげなくもないのに、ちょっとかっこいいからっていい気にならないでよね」
     私がすぐ謝らなかったのが気に入らないらしく、彼女は本心さえ丸出しで激昂している。恋する女の子の言動は可愛らしいものだが、これはいただけない。気を引くつもりで嫌われることをやっていることに、自分で気付いていないのだからタチが悪い。
     若い女の子特有の金属的な声に頭痛がして、故意の大きなため息を吐き出していた。彼女がビクッとする。
    「オレは先生にちゃんと許可をとってます。先輩が来たらすぐ退くし、迷惑もかけてないでしょ。大体、このピアノは先輩のもんじゃない。学校からの借り物ですよ。愛着湧くのは判りますけど、それを人にまで強要しないでください」
     冷静に並べ立てたら、「え、あ」とうろたえた素振りを見せた。子供は感情の生き物だ。特に女の子社会は。こんな風に理詰めでやり返されたことなど一度もないのだろう。
     ポカンとしたままの彼女に背を向け、備品のトランペットを取り出すため準備室の中へと入った。
     
     
     
     お灸をすえすぎたらしい。その日の放課後になると、部員全員が私と距離をとるようになっていた。
     女の子は口コミが広がったようで私を遠巻きにするし、その気配を察した男子たちも女子を敵に回さないために、触らぬ神に祟りなしと傍観を決めこむ。すっかり浮いてしまったが、怖がられているようで、陰湿ないじめなどはなかった。
     私の介入を恐れたのか、いじめられっ子だったクラスメイトもいじめられなくなったようだ。それはいいのだが、当の本人までが私が声をかけるとそそくさと逃げていく。私と関わることで無視されるのを恐れたのだろう。まあ仕方ない。みんな自分が可愛いのだ。私自身も含め。
     私は自分のことを特別な存在だと感じている。明里だったときも、人より少し特殊な幼少期を過ごしたために、「大人びている」と言う大人たちの言葉を真に受けていた。実際は、『可愛げがない』という嫌味の言い換えに過ぎないとも気付かずに。
     その歪んだ自尊心は、二度目の人生を生きることになって更に肥大化している。智也と喋っていても、たとえ私の合計年齢より年上の相手であっても、常に心のどこかで見下す気持ちがあった。
     私が今間を嫌うのも、同族嫌悪の一面があるのだろう。たった12、3年の人生ですべてを理解した気になっている彼の未熟さを見るのが、居たたまれなくて恥ずかしいのだ。そんな彼が人に囲まれているのが妬ましく、羨ましいのだ。
     私は愛想笑いなんてできない。肥大化したプライドが許さない。本当のことなんか、口が裂けたって言えるわけがない。二人分の人生を生きてきた私はこれから先、誰とも深く関わることなく孤独に生きるしかないのだ。
     
     
     
     孤立したままひと月が経過した。
     放課後、部活のために音楽準備室に入ろうとしたら、ドアが少し開いていた。
     中から女子の話し声が聞こえてきて、ノブにかけた手が固まる。子供相手でも避けられるのはやはり堪える。嫌われての無視ならこちらも嫌ってしまえるが、恐れられているとなると、変に自尊心もくすぐられてしまうものだから始末が悪い。
     幸い話し声は棚の向こう側から聞こえてくる。声を潜めているわけでもないから、陰口や内緒話の類じゃなさそうだ。
     気付かれないように持ち出してしまおうと、手前のほうに置いておいたトランペットケースを持ち上げた。
     その瞬間、「知ってる? コンちゃんってさー」という声が聞こえてくる。つい中腰のまま身体が固まった。
    「親もおばあちゃんたちもいないらしいよ。あの子と同小おなしょうの子から聞いたんだけど」
    「え、じゃあどうやって生きてるの?」
    「養護施設に住んでるんだって。ほら、マッピも自前じゃないでしょ、コンちゃんって」
     マウスピースも学校の備品を使っているとは知らなかった。私ですら、マッピは智也に買ってもらったのに。
     今間と同じクラスらしい二人は、「でも普通に持ち物持ってるじゃん」「寄付なんじゃない? やっぱ制服もお下がりなのかなあ」「そういや、持ち物のテイストがバラバラだよね。ハートだらけのシャーペン使ってたり」「そうそう、あれコンちゃんに似合ってるよね」「可愛いよねー」と声を潜めることもなく笑い合っている。
     彼女らは別に残酷なのではない。今間の雰囲気が彼女らを無邪気にさせているのだ。
     確かに彼は本性を隠していた。だけどそれは、傷口を他人に晒さないための防御策だった。
     
     
     
     今間はいつも人に囲まれている。
     なかなか話しかける機会が訪れず、業を煮やして放課後の自主練中にトイレに立った彼を追いかけた。
    「今間。お前さ、児童養護施設に住んでるんだって?」
     小便器の前に立つ背中に声をかける。彼は用を足したまま顔を振り向かせ、「そうだよ」とすぐいつも通りの人懐っこい笑みを浮かべた。
    「それが何?」
     にっこり笑う目の奥がちっとも笑っていない。それが判っていて、私も平然と応える。
    「オレ、施設に興味があるんだ。どんな暮らしなのかとか聞きたい」
    「……なんで?」
    「誰にも言うなよ」
     出入り口に人が来ないか視線をやりつつ、
    「実はオレ、孤児なんだ。里親と暮らしてる」
     今間の目が見開かれた。同時に水音が止み、彼の肩が小さく震える。スラックスのファスナーを上げ、私のほうを見ずに呟いた。
    「逃げたいの?」
    「いや、里親はいい人だよ。でもオレの実の母親がどうしようもない人間だった。しょっちゅう『お前なんか施設に捨ててやる。そしたらお前は一巻の終わりだ』って、施設のことすげえ怖い場所、ほら、ドラマでよくあるみたいなさ。あんな風におおげさに言って、脅されてたんだ」
     これは前世の母親の話だ。西川尚の記憶はいまだに戻っていない。だけど恐らく似たようなことを言われていただろう。
    「当時は真に受けてビビってたんだけど、この歳になったら、施設に預けられてたほうが良かったんじゃないかって思うようになった。そしたら、こんな傷なんかつかずに済んだ」
     両手を軽く開いて見せる。一応傷隠し用の手袋の着用は学校から許可を得ているが、邪魔になるし暑いしでほとんど使っていない。
     今間もすでに気付いていたのだろう。「それ、お母さんにされたの……?」と訊いてくる。
    「まあな、無理心中図られて。母親と妹はそのとき死んだ」
    「……でも西川くんは今は幸せなんでしょ。ならそれでいいじゃない。興味本位で聞かれたり、同情とかしてほしくないんだ」
     一瞬心を開きかけたように見えたが、さすがに手ごわい。
     閉ざされた心を開く鍵は本音だけだということを、私はよく知っている。バーのカウンターに立っていたとき、客はどんなに酔っ払っても本音を吐き出すことはなかった。腹を割った話ができるのは、こちらから打ち明け話をしたときだけだ。
     その経験にのっとり、肩を竦めてチラッと本音を晒してやった。
    「キツいこと言うようだけどさ、同情するのは仕方ないよ。オレの知らない世界なんだもん。オレだって、周りのみんなからすりゃ同情される側だ。でも同情されたくないからって本心を隠してちゃ、判ってもらうこともできないよ。だから今間に打ち明けたんだ」
     しばしの沈黙のあと、重い口の扉が開かれる。
    「……楽しいよ、施設は。みんなが思ってるような、ドラマみたいな酷いとこじゃない」
    「やっぱそうか。毎日修学旅行、みたいな感じ?」
    「そうだね。いろいろ規則とかあって、ちょっと面倒くさいとは思うけど」
    「規則って、例えばどんな?」
    「門限が決まってたり、家事当番があったり」
    「その辺は一般家庭の子でもあるとこはあるよ。破れば叱られるのも同じ」
    「……職員の人がさ、小さい子ばっか世話してて、年長になるとほったらかしにされるんだ。まともに話も聞いてくれない」
     口が滑らかになってきた。私は更に火種を投入してやる。
    「それも普通の家でもそうだな。よく聞くだろ、妹弟ばっかりえこひいきするって愚痴」
    「でもそれは……」
     言葉が出てこないらしい。歯痒そうな彼の代わりに答えを言う。
    「まあ結局は甘えだよな。なんだかんだ言っても血の繋がりがあるから、いざとなったら親が自分を見捨てるわけないって判ってると思うよ、言ってるやつらも」
     私もそれは心のどこかで思っていた。だけど、だからこそ腹立たしいのだ。
     母が私たちを今度こそ施設に入れると騒ぎ出したときも、祖母がその情報をキャッチできたということは、結局母は祖母に預けるつもりで、私たちを手放す気はなかったのだろうなんて考えてしまう。そんな風に八つ当たりのオモチャにされてなお、自分の内にある甘えや執着をいつまで経っても捨てられないのが、心底腹立たしくて心苦しい。
     家庭には家庭の、施設には施設の、悩みや欠陥がある。どっちにしろ満たされることなんてないのだろう。
     俯いた今間が唸るように言う。
    「そう……普通の家の子の愚痴と、施設の子が漏らす不満は、似てるようでも全然違うんだ。上手く言えないけど、施設の子は明るい子でもどっか普通の子とは違う。なんていうか……雰囲気が危ういっていうか」
    「悪い感情を押し殺すのが癖になっちゃうんだろうな。お前は?」
    「まあ……我慢はしてるよ、いろいろ。オレ、西川くんのこと前から気になってた。なんか他の子と違うなって」
     彼だから気付いたのではなく、ほとんどの子がそう感じているだろう。子供は案外鋭い。自分とは異質な者を嗅ぐ嗅覚は、きっと大人以上だ。
    「オレもそこそこ修羅場くぐってきてるから」
     冗談ぽく笑いながら言った。「確かに」と今間が笑う。
    「やっと笑ったな」
     一瞬で彼の顔が強張った。私の一言で、すぐに自分の笑みが共犯意識と選民思想を滲ませていることに気が付いたのだ。
     恥じている、彼も。自分を特別な存在だと感じてしまう傲慢さに手こずっている。
    「似た者同士だと落ち着くよな。オレもだよ。やっぱ同情されると傷つくもん、どんなに強がったって」
     サラッと言葉が零れた。自分の肩から力が抜けたのが判る。
     今間も毒気の抜けた顔付きで、
    「うん……。だから最初から見せないほうがいいんだ。みんな同情を優しさと勘違いしてるんだから」
    「そうかな? オレ思うんだけど、傷ついた気持ちの正体って、『自分のことを判ってない』と感じるからで、それって要は自分のことを判ってほしいからだろ。オレとか今間みたいなやつって、確かに普通のやつよりその辺敏感だろうけど、でも多分普通のやつだって、誰かに近付くのは怖いんだ。だけどそれ以上に自分のことを判ってほしいから、がむしゃらに突っこむ。オレらはさ、そうするだけの勇気も持てなくなっちゃってるくらい弱ってるんじゃないかな」
    「……西川くんはそんなことないと思うけど」
    「ふてぶてしいって?」
     笑ってから続ける。
    「そんなことない。多分君と一緒だよ。勇気をふり絞ってまで、仲良くなりたいと思えるやつがいなかった。君以外には」
    「……え?」
     今間の目が軽く見開かれた。
     ごめん、ほんとはちょっと話盛った。声をかけるまでは、単に情報を引き出してやろうという魂胆しかなかったんだ。――だけど。
    「オレが考えなしに君に話しかけたと思った? すげえ考えたって。どう言ったって傷つけるだろうなって」
     これも本当のことなのだ。傷つくより、傷つけてしまうほうが怖い。それだって、結局は我が身可愛さのナルシスティックな思考なのだが。
     苦笑混じりの冗談めかした私の言葉に、今間は沈黙している。こんなこと、人に言われたことがないのだろう。私だって初めて言った。こんな、本音丸出しの傲慢で上から目線な言葉。
    「確かにオレは興味本位で君に施設のこと聞いたよ。オレの選択は正しかったのか、もしオレが施設に行ってたらどうなってたのか、確認して自己満足するためにさ。今はそれなりに幸せだし」
     ふと、智也のことを思った。彼といるときにたまに感じる、あの現実味のない浮遊感を。
    「……ひとつ、一番キツかったときのこと話してもいいか?」
     訊いておいて、返事も待たずに口早に捲し立てる。
    「ある晩、母親が今日こそオレと妹を捨てるって言い出して、オレたちの持ち物を片っ端からゴミ袋にぶちこみ始めたんだ。きっかけはあんま覚えてないけど、いつもと同じ。使った物を片付けてなかったとか、寝ないでテレビ見てたとか」
     ずっと心の底に沈めていた思い出だ。大人になってから妹に軽く聞いてみたら、彼女はすっかり忘れていた。無意識に記憶を改ざんしたんだろう。己を守るために。
    「ただ捨てるだけじゃなくて、オレたちの目の前でわざわざぐちゃぐちゃにしてから袋に突っこむんだ。宝物を壊されるのも堪えたけど、それ以上にキツかったのは普段使ってる物。ランドセルとか教科書とかクレヨンとか」
     髪を振り乱しながら教科書やノートを破り、クレヨンや筆箱は床に叩きつけるようにしてゴミ袋にぶちこみ、タンスの引き出しを開けては中の普段着を手当たり次第に袋に押しこむと、ご丁寧に蓋を開けた墨汁をその上からぶちまけてくれた。
    「血の気が失せたよ。見ながらガタガタ震えてた。目の前で、母親の手によって、自分の普段の世界が壊されていくんだ。怖すぎて気絶しそうだった」
     言ってて足元がふらつく。やはりまだ、囚われている。
    「そのあと、ゴミ袋と一緒にパジャマ1枚で真冬のベランダに締め出されたんだけど、そのときはなんかもう逆に振り切れすぎて現実感なかったな。夜の団地に、妹のギャン泣きと『ごめんなさい。捨てないで』って悲鳴がこれでもかと響き渡ってるのに、並んでる暗い窓の照明ひとつ付くでもなく、シンと静まり返ってるんだ。それでも電話の通報ぐらいならって期待してたけど、いつまで経っても何も変わらなくって、寒さに凍えながら、『世間って冷たいなー』『でもちょっとファンタジーの世界みたいでワクワクするなー』とか考えてた」
     いいか悪いかは別にして、あんな非現実感はそうそう味わえるものじゃない。私は特にSFの中で終末ものが好きなのだが、その嗜好の元になったのは、もしかしたらこの出来事が原因なのかもしれない。
    「そうやってベランダでは現実逃避できたけど、母親の気が済んで家に入れてもらってからはキツい現実が待ってた。母親が寝てるから、妹と二人で静かにゴミ袋の中の物を整理したんだ。プライベートの物は捨てればいいけど、学校で使う物は捨てるわけにもいかない。破れて皺くちゃになった教科書をテープで貼り合わせたり、粉々になったクレヨンを箱に拾い集めたり。小学校中学年ぐらいまで使う算数セットって覚えてるか? おはじきとか時計の模型とか、細かい部品を見つけて壊れたとこを見た目だけでもそれなりに見せかけるのに、すごい時間がかかるんだよ。しかも子供のやることだから、どんなに頑張っても明らかに不格好でさ。教科書もクレヨンも算数セットも、ボロボロのソイツらをクラスメイトや教師から隠して使わなきゃいけない。作業中、オレも妹も無言だった。泣いてたけど、無言だった。慰めや励ましを口にしたら、その途端ペシャンコに潰れちゃいそうな気がして、そうなったらもう立てないと……やべ、泣けてきた」
     熱くなった目頭を指で圧迫する。手で覆ったまま今間を窺うと、彼のほうがよっぽど辛そうな顔をしていた。
     思い出したんだろう、自分自身の忘れたい過去を。だけど私の話を遮らないのは、悲しみに負けたくないから。私と妹が強がって無言を貫いたように、彼も強がることで踏ん張っている。
     ちょっと笑って、手を下ろした。
    「いきなり悪かったな。吐き出すなら今しかないと思っちゃって。多分オレは君より恵まれてる。なのに、こうやっていつまでも昔のことで悩んだり苦しんだりして、自分でもただのナルシストなんじゃないかってうんざりするときもあるよ。でも自分の辛さを一番判ってるのって、自分自身だろ? だから最近こうも思うんだ。自分が自分のことを可哀想だって思ってあげてもいいって。大事な人が悲しんでたら、『甘えるな。世の中にはアンタよりも悲惨な人が大勢いる』なんて思ったりなんかしないだろ? それと同じでさ、自分のことだって一生懸命慰めるみたいに」
     今間の目がゆっくりと見開かれた。それはまさに開眼の体現だった。
     そう、この考え方があるだけで、ずっと心は楽になるんだよ。人生二度目の先輩からの教訓だ。
     傲慢さは人が持ってる長所なのかもしれない。ふとそう思った。隠すほうがタチが悪いんじゃないか。智也は私のことを扱いにくいやつだと辟易しているだろう。きっと私は、そんな彼を試して甘えているのだ。子供か、オレは。
     へへっと気の抜けた苦笑が漏れた。なぜか今間が驚いたような顔をする。
    「何?」
    「いや……西川くん、そんな笑い方もするんだね。なんか……女の子みたい」
     油断してたか。殊更に怫然とした表情を作る。
    「それ何気に気にしてんだけど。そんな女みたいな顔してるか? 気をつけて口調も男っぽくしてるのに」
    「普段はそんなことないけど。オレのほうが女子に子供扱いされてるよ。ねえ、何考えて笑ったの?」
    「こんなとこでオレ、何を真剣に熱く語ってんだろうなあって」
     今間が笑った。無邪気な子供の笑みだ。
    「ほんとだ。早く戻って練習しないと。一緒に合わせてみようよ」
    「いいのか? オレみんなからシカトされてるけど」
    「正直あれ、バッカじゃないのと思ってた。空気読んで合わせてたさっきまでのオレも」
    「言うなあ、今間!」
     私の口から出る楽しそうな笑い声は大人の笑い声だ。
    「行こう」
     歩き出そうとした今間が立ち止まる。
    「あ、西川くん、トイレは?」
    「君に話しかけるために来たから」
     今間は嬉しそうに笑った。
     そう、確かに嘘じゃない。でも私が君と並んで用を足す日は永遠に来ない。
     今日も私は仮面をつけて生きている。これまでも、これから先も、ずっと。
     
     
     
     
     
     中学に入り、学校では初めての友人ができたわけだが、私生活のほうでも変化があった。
     智也がバーテンダーのバイトを始め、私も店に出入りするようになったのだ。
     彼がバーテンダーになったきっかけは、夜にバイトをしていたクラブのコネらしい。客からも可愛がられていたのだろう。雑用でバーテンダーのまね事をする内に、常連から店を紹介されたのだそうだ。
     勤務中に飲酒する機会もあるバーテンダーになったことで、智也は引っ越しのバイトを辞めた。今はバーとコンビニバイトをかけ持ちしている。
     バーは私たちが住んでいるアパートの最寄り駅近くにあった。店名は『ブルー・ムーン』。老年のマスターが営んでいる店で、小さいながらも落ち着いた佇まいの本格的なショットバーだ。アパートの最寄りといっても徒歩数十分の距離だが、智也が作るまかないを私もご相伴させてもらうために、開店前の夕方頃に毎日自転車で通っていた。
     その相伴に今間も預かることになった。中学最初の夏休みのことだ。児童施設は中学生の門限が午後6時のため、外泊の手続きをとる必要があった。フラッと友達の家で夕飯をご馳走になることもできないなんて、確かに窮屈で仕方ないだろう。だけどルールが明確化しているというのは、羨ましくもある。
     母はワーカーホリックだった。いつもイライラしていて、私と妹に言うことがコロコロ変わった。振り回された私たちは、怯えながらも子供心にずっと不満だった。確かに経済的に困窮した覚えはない。あの時代に女一人で子供二人を育てることが、どれほど大変だったのかも今は判る。
     それでも納得なんかできはしない。母は目に見えない子供との絆よりも、目に見える社会的成果や収入に自分の価値を見い出そうと必死だったのだろう。人は何かをひとつ失うと、その失われたものをとり返そうとして躍起になり、結果的に複数のものを失う。母が前の夫――私の実の父――と別れたのは、彼の借金が原因だった。
     智也も金で苦労してきた境遇のせいか、貯蓄額で精神の安定を図ろうとするところがある。母との違いは、客観性の有無だ。智也はいつも、一種冷徹とも言えるほど己を客観的に分析する視点を持っている。その能力は読書から得たものだろう。何も判らないまま一人で生きていかなければならなくなった彼は、きっと生き方を本の中に求めたのだ。
     私もそうだった。本は父親であり、母親であり、友人であり、人生を照らす光でもあった。現実で困窮するほどに、縋るように本の中に答えを探した。だけどインターネットもなかった時代だ。そう都合よく自分の悩みにマッチする本に巡り合えるはずもなく、寝る間も惜しんで手当たり次第に乱読を繰り返していた。一番本を読んでいた小学校高学年から中学生時代は、夏休みともなると毎日図書館に通って上限の8冊を借りては、翌日返して次の8冊を選ぶというのが日課だったぐらいだ。
     あの頃はここまではっきり自覚していたわけじゃなかったけど、それでも確かに『私は本の中に何かを探している』という、焦りに似た感覚があった。その焦燥感が毎夜布団の中にスタンドランプを引きこんでまで、私を読書へと駆り立てていたのだろう。
     私は最近、よく昔のことを考える。自分のこと、母のこと、環境のこと。いろんな側面から見て客観的に分析しようとする。
     共に生活する内に、智也に似てきたのかもしれない。
     
     
     
     
    「おー! 来たか! 首が天井につくとこだったぞ」
     バーの重いドアを開いたら、途端に智也の声が飛んできた。
    「どうも。言ってた通り、友達連れてきましたよ」
     カウンターの前まで行って、いつもの止まり木に尻を引っかける。
     今間も隣の席にリュックを置き、ニコニコと自己紹介する。
    「初めまして、今間です。あだ名はコンちゃんです」
     彼は下の名前を人に言わない。あだ名を自分から口にするのも、下の名前で呼ばせないためだ。彼の名前は一人かずとという。まさか最初から捨てるつもりでつけたわけじゃないだろうけど、まるで親の残した不吉な予言、一生残る呪いのようだ。
     鉄壁の仮面でけん制する今間だが、今日はいつもより少し口角の上がりが弱かった。さしもの彼も初めての空間に緊張しているらしい。まだ開店前で私たち三人しかいないものの、準備中の店内は楽屋裏的なアウェー感があって、常連でもソワソワするものだ。
    「えっと、藤咲さん、かっこいいですね! オレ、バーテンさんって初めて見ました」
    「今間、バーテンは失礼な呼び方だから、他の人にはしないほうがいいぞ」
     場繋ぎの世辞を口にする今間に耳打ちした。「え、そうなの!?」と声が上がる。
     智也はロングカクテル用のコリンズグラスにトングで氷を入れながら、「俺はいいのか」と苦笑している。
    「すいません、藤咲さん。知らなかったとはいえ……」
     呼ばれ方に関しては思うところがあるからだろう。今間は無邪気さも忘れて恐縮している。
    「いいよ、俺気にしないし。実際フーテンだしな」
     繊細さなどとっくに捨てた智也は、グラスに烏龍茶を注ぎながら、あっけらかんと笑った。そんな彼に訊く。
    「バーテンってフーテンとかけてるんですか?」
    「そう」
     由来までは知らなかった。
    「さっすが雑学王ですね。どうでもいいことばっか詳しい」
    「うっせえよ」
     智也が苦笑いする。「お前だって中途半端に知ってたじゃねえか」
    「誰かに聞いたんですよね。マスターか沙織さおりさんかな」
     ということにしておく。実際はバーテンダー見習いだったときに聞きかじったことだ。
    「それにしても今間くん、俺の名前知ってるんだね」
     智也がグラスにバースプーンを差しこみながら言う。
     続いてクルクルとステアされる褐色の液体に、今間は「すげえ……かっこいい……」と今度はお世辞抜きで見惚れている。
     売り物でもないのに、ただの烏龍茶をわざわざ掻き混ぜてステアするのは、今間のためのデモンストレーションだろう。相変わらずサービス精神旺盛な人だ。その上器用。こんなに綺麗なステアを私は今まで見たことがなかった。細長いコリンズグラスなのに、氷の触れ合う音ひとつしない。元バーテンダーとして、羨望と嫉妬を同時に覚える。
    「ねえ、今間くん」智也が言う。「俺の名前知ってるってことはさ、尚から俺の話聞いたりするの?」
    「オレ、今間に藤咲さんが里親だってこと言ってますよ」
     今間の前にグラスを置きつつさっきの問いを繰り返す彼に、代わりに端的な答えを返してやった。
     智也は少し驚いた顔をして、「そんなに仲いいのか」と嬉しそうに笑う。
     聞きたいのはそっちだったのか。よっぽど私に友達がいなかったことが心配の種だったらしい。
     内心苦笑しながら、目の前に置かれた烏龍茶に口をつけた。
     
     
     
     今日のまかないはいつもの3倍は豪華だった。
     今間と揃って具沢山なパスタをちゅるちゅるやっていると、フラッシュが光った。
    「また写真? オレはいいですけど、今間は学校のアイドルなんですからね。撮影許可とってくださいよ」
    「よく言うよ。ファンクラブあるのは尚くんのほうじゃん」
     笑って軽口に乗ってくる今間に、智也がデジカメから顔を離す。
    「ごめんごめん。自然な姿を撮りたかったから。あとでみんなで撮ろう」
    「藤咲さん。今日のまかない、売り物使ってません? 中山さんに怒られますよ」
    「尚が友達連れてくるって言ったら、マスターが買いこんできたんだよ。当分はご馳走だぞ。腐らせるほどあるから」
     今度こそ苦笑してしまう。智也が私の兄きどりなら、中山マスターは祖父きどりだろうか。
     確かマスターは独身者だと聞いた。父性愛を持て余しているのだろう、智也にも私にもとてもよくしてくれる。普段から振る舞ってくれるまかないもその優しさのひとつだ。
     食べ終わる頃にマスターが出勤してきた。まだネクタイを締めていない彼と智也、今間と私の四人でタイマー撮影をする。
     データを見たら、完全におじいちゃんとその孫三人だった。智也は歳より老けて見えるから、末息子でも通るかもしれない。じゃあ、オレはこの人の子供? 嫌だ、こんなちゃらんぽらんなフーテンダーの親なんて。
     そんな話で盛り上がりながら、しばし雑談する。
     気付けば開店時間を過ぎていた。暇を告げて店を出ようとしたら、ドアが勝手に開かれた。
    「藤咲くん、すぐに――あら、尚くん」
     ぶつかりかけて、嗅ぎ慣れたラベンダーの香水が鼻先を柔らかくくすぐる。
    「いらっしゃい、沙織さん」
    「あ、後ろの子が例の、藤咲くんが最近うるさかった『尚くんの初めてのお友達』ね」
     客にまで自慢してたのか。
     呆れている私に沙織さんは、「ジュースでもご馳走してゆっくり話したいとこだけど、ごめんねー、仕事前で時間ないの」と、申し訳なさそうに片目を瞑って店内に入っていった。
    「藤咲くん藤咲くん、今すぐできるご飯ある?」
    「いらっしゃいませ。また寝坊ですか。まかないの残りならありますけど」
     智也の苦笑を背後に聞きながら店を出た。途端に今間が腕を引っ張ってくる。
    「今の綺麗なお姉さん誰!?」
    「店の常連さん。ほら、そこ」
     向かいのビルの3階を指差して、「音楽教室あるだろ。あそこでピアノの先生してんだ」
    「もしかして尚くん、あの人に近付くためにピアノの練習してるんじゃないのー?」
     男子中学生らしいからかいに苦笑する。
    「そんなんじゃないよ。たまに楽譜の読み方とか教えてもらったりはするけど、あの人からしたらオレなんてただのガキだろ」
    「何歳?」
     今間が年季の入った自転車に鍵を差しこみながら訊く。
    「25、6。藤咲さんのひとつ上らしいから」
     私もキーを押しこみながら応える。
    「いいなあ、大人のお姉さん。オレも早く大人になりたい……ような、なりたくないような」
    「大変だよな。強制的に住んでるとこ追い出されるんだもん。何歳で出ることになるんだ?」
    「……知らない」
    「ちゃんと調べといたほうがいいよ。勉強もしといたほうがいい。学歴は確実に武器になるから」
    「……藤咲さんって尚くんと苗字違うし、他人なんだよね?」
    「そう。児童福祉の代理でオレを育ててるだけ。オレのいろんな書類上の管理とかやってるのは、弁護士の木邑って人だしね」
     言って、自転車のペダルを漕ぎ出す。
    「じゃあ、尚くんもその内家を出ることになるんだ……」
     小さな呟きが遠のき、それから錆びついた車輪の音があとをのろのろついてきた。
     
     
     
     アパートに帰ってきた。今間は落ち着かない様子で部屋の中を見回している。
    「普通の家とは違うと思うよ。若い男だけで住んでる家だから」
     言ってから、「ちょっと待ってて。風呂沸かしてくる」と風呂場に向かった。
     戻ってみると、今間がパソコンの前で身体をモジモジさせている。
    「トイレならそこ。見りゃ判るだろうけど」
    「男二人なら……見てるよね?」
    「ああ、エロ動画? 見る?」
     とっくに予想はついていた。からかわずに、古びたパソコンの電源を入れる。
     このパソコンは、智也がバーの常連さんから譲ってもらったお下がりだ。私のためにもらってきたものだが、彼もデジカメのデータ保存や編集で使っている。一度好奇心を起こしてパソコン内を調べてみたけど、それ以外で使われている痕跡はなかった。私が賢いから警戒しているのだろう。それにわざわざパソコンで見なくても、今は携帯電話で見られる時代だ。
     パソコンは古いながらも私が知っているものよりずっと早く立ち上がる。適当なアダルトサイトのページを開くと、「すご、初めて見た……」と掠れた呟きが聞こえてきた。やはり今間は誰かの家に遊びにいったことがないのだ。あんなに友達がいても、一度も。
    「施設にパソコンないの?」
    「みんなで使えるのがあるけど、こういうサイトにはアクセスできなくされてる」
    「だろうな。はい、どれでも好きなの見ろよ。変なリンクは踏むなよ」
     パソコンの前を譲った。が、今間は私に性癖を知られるのが恥ずかしいらしい。「よく判んないから、尚くん選んでよ」と返される。人気女優らしい動画を再生してやった。
    「うっわ……すげえ……動いてる……」
    「胸でかいよな」
     すっかり語彙力を失くしている彼に無感動に返す。
    「尚くん慣れてるね。あ、もしかしてもう……」
     エイリアンに遭遇したみたいな目で見られた。
    「まさか。童貞だよ」笑い飛ばす。「単に動画見慣れてるだけ。藤咲さん仕事でほとんど家いないし」
    「いいなあ……。オレも藤咲さんみたいな里親欲しい……」
     今間は羨ましそうに呟きながらも、目は肌色の画面を食い入るように見つめている。
     オーソドックスなアダルト動画でも、彼には刺激が強いのだろう。額にうっすら汗を掻き、肩が上下していた。身体に現れる反応を必死に抑えこもうとしている様子を見ながら、やっぱり男ってこういうのに興奮するんだなあと内心で感心する。
     夏休みに入ってすぐ、私に精通がきた。望まない精通は夢精の形で現れた。智也を起こさないようにこっそり下着を洗いながら、どうにかせねばと考えて、一度アダルト動画を見ながら自己処理してみた。だけど射精の予兆どころか、快感ひとつ感じられなかった。
     私は男でもないし、当然女でもない。女だった頃はアダルトビデオを目にすると、ある種の心のざわめきがあった。それは興奮ではなく、見てはいけないものを見ている罪悪感、性に対する嫌悪感が強かったように思う。
     今はただ、居心地が悪い。興奮できない自分はやはり男にはなりきれないのだと思い知らされて、底なしに冷静になってゆく。そんな状態で達することなどできるはずがない。
    「そろそろ風呂沸いたかな。オレ、先に入るよ。20分くらいかかるから、好きにしてて」
     テーブルに置いてあったティッシュ箱を今間の隣に置いた。「え」と彼が動揺する。
    「見るだけなんて生殺しだろ。あ、ティッシュの後始末に困る? なら、トイレットペーパーでも使ってよ。トイレに流せばいいし」
    「……藤咲さんともそんなノリなの?」
     ――今間少年、未知との遭遇再び。
     思わず脳内でテロップを入れながら、「さすがにそれはない」と笑う。
    「あの人、あれでもオレの保護者だし。案外真面目だよ、ああ見えて」
    「尚くんって結構不良なんだね……」
    「今間はウブだな」
    「だって僕、施設では小3の子と相部屋なんだよ?」
     おっと、『僕』呼びだ。これが普段の口調なのだろう。施設のスタッフ、つまり仕事で世話をする大人たちに囲まれていれば、確かにこうなるかもしれない。
    「じゃあ君、普段まともにオナニーもできないんじゃない? 今日はのびのびやったらいいよ。オレ風呂出るとき、大声で歌いながら出てきてあげるから。あ、やり方判る?」
    「それくらい判るよ! 僕、尚くんより友達多いんだから!」
     顔を真っ赤にして今間が怒る。大半は照れ隠しなんだろうけど。
    「言うようになってきたな。じゃ、ごゆっくり」
     私は微笑ましさに笑いながら手を振って、大人しく脱衣所へと引っこんだ。
     
     
     
    「お、やっぱまだ起きてたか。青春だねえ」
     今間と動画投稿サイト――エロじゃないほう――を見たり、パソコンのフリーゲームをプレイして遊んでいると、智也が帰ってきた。
     フラフラと部屋に上がってどっかり腰を下ろし、両手に持っていたコンビニのレジ袋の中身を畳にぶちまける。
    「恋バナとかしてんだろ。ほら、これやるから、お兄さんも仲間に入れてくれよ~」
    「あ、また酔ってコンビニで買い物してる。割高なのに。ズボンも脱がないと皺になりますよ。シャツも先に脱いで、洗濯かご入れといてください。すぐそのまま寝ちゃうんだから」
    「尚くん、お母さんみたい」
    「こんな飲ん兵衛息子欲しくないよ」
     吹き出す今間に言い返してから、智也が買ってきたアイスや飲み物を抱えて立ち上がる。
    「あ、ビールは今から飲むんだってー」
    「え? オレたちに買ってきてくれたんでしょ? ありがたくいただきますよ」
    「揚げ足とってもダメなもんはダメー。お酒は20歳になってからー」
    「ほんとだ。結構真面目だね」
    「酔っててもこうなんだよな、この人」
     ため息をつくと、智也が私の手から缶ビールを1本奪い――油断も隙もない――、プルタブを開けながら眉間に皺を寄せた。
    「そりゃ俺には児童福祉所の監視があるからな。厳しいんだぜ、いろいろ。バーテンダーになるのも止められたし」
    「そうなんですか?」と今間。
    「でしょうね」と私。
     ビールに口をつけた智也の代わりに、私から説明を続ける。
    「数か月に1回福祉の人が調査に来るんだ。生活環境とかオレの様子とか見に」
    「俺のほうから報告書も出さなきゃいけないしな。バーテンダーは今は見習いだけど、その内店を任されて正社員雇用になるからって言って認めてもらった」
     今度の「そうなんですか?」は私だ。知らなかった。割と本気で取り組んでたんだ。
    「マスターももう歳だからな。後継者を探してたんだよ。フリーターだと不安定だし、俺も定職に就かなきゃなあってずっと思ってたんだけど……俺、実はさ。小説家になりたいんだ」
    「へえ! 確かに、ここにも本がたくさんありますね」
     今間が声を上げる。私の目はまんまるだ。
    「ま、結局思うだけで、今までまともに書いてこなかったんだけどさ」
     藤咲さんはあっけらかんと笑って空になった缶を握り潰すと、私の頭に手を置いた。
    「バーテンダー1本になれば書く時間もできるから。風呂入ってくる」
     視線を合わせずそう言って、私の頭を乱暴に撫でると脱衣所へと入っていく。
     引き戸が閉まってから、今間がポツリと呟いた。
    「尚くんの言ってた通り、いい人だね、藤咲さん」
    「……だろ?」
     違う。私が思ってた以上に、だ。
     バーテンダーは忙しい。店の経営を任されるとなると、執筆時間なんてとれないだろう。
     あの人はオレのために、自分の夢を諦めたのだ。
     
     
     
     
     
     
     二度目の中学時代、2回目の夏休みが来た。
     去年とは比べものにならないほど忙しい夏休みだ。去年も毎日部活はあったが、目標のない基礎練習だった。2年生になった今年は全国吹奏楽コンクールに出場することになり、しかも怪我をした3年生の代わりに自由曲のピアノパートを私が受け持つことに決まった。
     我が校の吹奏楽部はそれほど強くない。どうせ一次敗退だろうと軽い気持ちで引き受けたのに、地区大会を突破してしまった。有望校が集団食中毒で棄権するなど、運も味方した上での棚ぼた的金賞だった。
     とはいえ、こうなるとあまりマズい演奏もできない。8月半ばの都道府県大会に向け、部活での練習の他、沙織さんにも個人的に鍛えてもらっている。
     明日も早朝から部活、そのあとは沙織さんのレッスンだ。なのにオレはさっきまで、布団の中で本を読んでいた。中2ともなれば、ほとんどの本は堂々と読める。最近、江戸川乱歩に傾倒しているのだ。
     目を瞑っていても頭の中をグルグル回る物語の世界に思考を引き戻されながら、なんとかうつらうつらし始めた頃、不意にガタンと大きな物音が聞こえてきた。しばしぼんやりとして、夢の端っこをいじくり回す。井戸の中から見上げる曇り空の映像が残っていた。さっきまで読んでいた孤島の物語の影響だろう。
     オレが布団の中でぼんやりしている間も、襖で隔てられた隣の居間で人の動く気配がする。智也が仕事から帰ってきたようだ。私を起こさないように注意しているみたいだが、さっきの大きな物音――多分玄関の上がり框に足を引っかけた――のせいで台無しだ。今夜も酔っ払っているらしい。
     すっかり目が覚めてしまった。タイマー運転していた扇風機も止まっており、少し蒸し暑い。手探りで枕元の携帯電話を引き寄せる。中2になって智也から譲り受けたお下がりのガラケーは、4時すぎを表示した。くそ、あと2時間も眠れないじゃないか。
     携帯を手放してきつく目を閉じる。瞼の裏で、さっき一瞬見た携帯ストラップの蓄光素材のクラゲが緑の燐光を放っている。1週間ほど前にバーテンダー協会の講習会に参加した智也が、帰りにフラッと寄った水族館で買ってきたものだ。女の子向けらしいデザインに難色を示したのに、無理やり携帯に結びつけられてしまった。やっぱりあの人にとって、オレは未だに『可愛いお尚』なのらしい……って、そんなことよりさっさと寝ろよ!
     枕に顔を押しつけ、瞼の裏に居座る緑のクラゲを押し潰す。――と、やけに居間が静かなことに気が付いた。耳を澄ませても、畳の軋みひとつ聞こえない。
     うつ伏せのまま顔を上げてみると、襖の隙間から光が漏れていなかった。電気もつけずに一体何……もしかして酔い潰れて寝ちゃってるんじゃないだろうな。
     小さくため息をついて、腕だけ伸ばし細く襖を開ける。暗闇の中に光が見えた。スマホの光だ。どうやら起きてはいるらしい。
     四つん這いで布団から抜け出しながら、口を開きかける。声は出なかった。藤咲さんはこちらに背を向けて胡坐を掻き、スマホ画面を見ている。それだけで瞬時に気付くのは、私の女としての経験からだろうか。それとも同じ男としての直感か。
     身体を強張らせたあとで、彼の右肩が揺れているのが判った。動きは緩慢で、息遣いも水音も聞こえてはこない。後ろから見れば、ただ座っているだけの姿だ。それでも視線を外すのが礼儀だろう。いくらこんなところでおっぱじめるこの人が悪いといっても。
     なのに目を逸らせない。身体が固まったまま動かない。「はっ」と短い呼吸が聞こえた。心臓だけがでんぐり返る。
     藤咲さんがのそりと身体を揺らした。膝立ちになり、スマホを持った左手で仕事着の黒いスラックスを摺り下ろそうとする。一瞬ディスプレイが見えた。なんの画像かまでは判別できない。汗でスラックスが腿に張りつくらしい。結局スマホをテーブルの上に置き、鬱陶しそうに下着ごとスラックスを摺り下ろす。薄闇の中に尻がぼんやりと白く浮かび上がった。
    「はっ……はッ……」
     規則的な息遣いがかすかに聞こえる。これはさすがに見ては駄目だ。頭の片隅で思うのに、目が尻から離れてくれない。
     藤咲さんは両手を前に回し、全力で自身を追い立て始めた。軽く開いた太腿の間から、スマホの光が漏れて輪郭を照らしている。単細胞生物のように蠢くふたつの尻たぶは、右側のほうに未だ長方形の傷跡があった。赤茶色の四角い焼き印みたいなそれが、ブルブルと嬉しそうに身悶えている。
     こめかみにゴクリと振動を感じた。同時に聞こえていた息遣いがリズムを乱す。藤咲さんが焦ったようにテーブルの端に身を乗り出し、右頬と口元が一瞬見えた。舌舐めずりする舌も、スマホのライトを受けて軟体動物のように。
     小さな物音と何かが素早く引き抜かれる音。Yシャツに包まれた背筋が伸び上がり、感極まったような長いため息が聞こえた。そのあと一気に背中が丸まる。
     こちらに軽く突き出された尻が、キュウと緊張した。四角い傷跡も縮こまって、小刻みに震える。
    「……っ!」
     ビクッ、ビクンッと四角が痙攣した。まるで声なく叫ぶように。硬直した身体が、数秒後一気に弛緩する。
     長いため息を漏らして、彼はテーブルに突っ伏している。白いシャツの背中が呼吸で波打っている。
     しばらくして藤咲さんは気だるげに上体を起こすと、スラックスを引っ張り上げながら立ち上がった。スマホのライトが台所のほうへ離れていき、ため息のあと、カバーを閉じる音が聞こえて真っ暗になる。すぐに脱衣所の照明が灯って、引き戸の滑る音と共にまた暗くなった。
     遠く水音を聞きながら、オレは内側から胸を叩く心臓を拳で押さえつける。身体が熱い。外気を冷たく感じるほどに。はっと口から吐いた息が白く煙っているような気さえした。
     腰の辺りが重く疼いている。それよりもはっきりと、身体の中心のほんの一点が。
    「嘘だろ……」
     呟きはとことん苦い。オレはあの人を見て欲情している。そりゃ元は女だから、男に色気を感じるのは変じゃないかもしれない。でももう男の身体にもすっかり慣れた。声変わりが始まり、体毛も生え出した。更衣室でクラスメイトの裸を見てもなんとも思わないのに、これじゃまるで――。
     風呂場からガタンと物音がした。ギクリとして聞き耳を立て、また水音が聞こえ出したことに安堵の息をつく。勝手に手が股間に伸びた。下着の中に手を入れると、汗で湿った指が薄く張り詰めた粘膜に引っかかり痛みが走る。いや――違う。これは快感だ。痛いくらいの。
     気付いた瞬間、無我夢中で扱き上げていた。細めた目に涙が滲む。口は酸素を求めて開きっぱなしになった。吐息が熱い。顔も。逆上せて破裂してしまいそうだ。喉の奥からか細い声が漏れる。助けを求めてるみたいな。早く、早く。どうしようもなく急き立てられる。
     尿意めいた感覚が腰にせり上がってきた。急激な感覚なのに、だからこそ出せない。切ないほどに苦手な感覚で、無意識にストッパーがかかるのが判る。無理。出せない。助けて。
     半泣きで首を振ったら、脳裏に智也のキュッと緊張した尻の筋肉が見えた。生き物のような赤茶けた傷跡が。
     下着を掴んでいる左手の指先が痙攣する。無意識ではなく、自らの意思でギクシャクと左手を自身へと持っていった。深呼吸のようなざらついた長い息遣いが耳障りだ。
     触れた、と感じたのは、粘膜のほうが先だった。遅れて指先に感じる革手袋のような厚みを認識したその瞬間、身体の中で湿った熱い何かが一気に膨れ上がった。発散も制御もできない。凄まじい勢いでどんどん膨れ上がっていく。――ああ、すごい! これが興奮! 興奮してる興奮してるんだ、オレ……!
     カラカラの喉で喘ぐ。瞼の裏にあの人の尻の肉を映す。そこへ自身を――
    「あぁあ……っ」
     喘ぎのような呻きのような声が漏れた。ゾクゾクッと腰が冷たく、いや熱く、ああもうわけが、
    「ああ……――ッ!!」
     全身が木っ端微塵に弾け飛ぶ感覚がして、絶叫していた。意識も一瞬白く飛び、気付けばぜーぜーと耳障りな呼吸を繰り返している。畳に突いた膝はガクガクし、握りこんだままの先端もビリビリ痺れていて、意識したら勝手に身体が痙攣した。
     これは快感だ。まだ余韻が残っている。それほどの快感。
    「…………」
     しばらく信じられない気持ちで、ぬるついた左手の生温さを感じていた。それからハッと我に返る。
     急いで部屋を見渡し、垂らさないようにティッシュで拭う。粘膜にくっつく白い紙くずを指で抓みとりながら、泣きそうなくらいの虚しさに襲われた。これが噂の賢者タイムってやつか。想像の10倍はキツい。
     丸めたティッシュを恐る恐る嗅ぎ、生臭さに顔を顰める。ベランダから放り投げたい気持ちに駆られたが、なんとか抑えこんでゴミ箱の底から予備のゴミ袋を引っ張り出した。口を固く縛り、一番下に押しこんでおく。どうせゴミを纏めるのはオレだ。こうしてれば見つからない。
     部屋にも匂いが充満しているかもしれない。水音が聞こえるのを確認してから、ベランダの窓をカーテンと網戸ごと全開にした。サッシに手をかけたままスタンバイし、立てつけの悪い浴室のドアが開く音に紛れて窓を閉める。
     タオルケットに頭まで潜りこんで寝たふりをしていると、二の腕が痒くなってきた。蚊に刺されたらしい。そっと掻きながら、智也の動向に耳を傾ける。今は台所にいるようだ。
     10分ほど経ってから、智也は寝室に入ってきた。私が敷いておいた隣の布団に潜りこみ、扇風機の回る音が聞こえる。
     全然眠れない。眠れる気がしない。智也の立てる衣擦れひとつで神経が緊張する。――と、いきなりバチンと肌を叩く音がした。タオルケットの中で硬直する私の耳に、「……うぜ。蚊だ」という寝惚け声のぼやき。
     独り言だろうに、どうして人はこういうとき、誰かに説明してるような物言いをしてしまうんだろう。
     眠れない頭でそんなことを考えていたら、「くそ……刺されてる」とまたしても状況説明的な言葉が聞こえて、皮膚を掻きむしる音がした。きっと同じ蚊だ。じゃあ今蚊の腹の中では、この人とオレの血が混ざり合ってるのか……。
     やけに熱く感じる虫刺されを掻きながら、そう思った。
     
     
     
     
     結局、一睡もできずに朝を迎えた。
     それでも無茶が利くのが若さの特権だ。それなりに部活をこなしたあとは、予定通りに沙織さんの住んでいるアパートまでやってきた。寝不足で若干頭痛のする額を押さえつつ、インターホンを押す。
     しばらく待ったが出てこない。いつものことなので、すぐに携帯に電話をかける。コール音を聞きながら、額に滲む汗をハンドタオルで拭った。もう日も傾き始めたのに、涼しくなるどころか熱気がこもって蒸し暑い。
     数十回目のコール音で玄関ドアの向こうからドタバタと足音が近付いてきた。目の前でドアが開き、サングラスにマスク姿の沙織さんが顔を覗かせる。
    「ごめん、今起きた!」
    「今日は一段と独創的な髪型ですね、沙織さん」
     ウェーブがかかった栗色の鳥の巣を横目に玄関に上がる。
    「もー。からかわないでよー」
    「しかもお酒くさいし。今日は帰りましょうか、オレ」
    「大丈夫。ちょっと一人で練習しといて。シャワー浴びてくる」
     私を部屋に通すと、そそくさと脱衣所に引っこんでしまった。ベッドの上、皺くちゃになったシーツからはみ出している薄紫色のレースを見て、一人ため息をつく。
     沙織さんは雇われのピアノ講師だから、生徒じゃない私を音楽教室に入れるわけにはいかない。こちらとしてはバーで譜面を見ながらアドバイスしてくれるだけで御の字だったのに、「私が尚くんの演奏を聴きたいのよ」と半ば強引に部屋に連れこまれてしまった。子供扱いするのは構わないが、せめて脱いだブラぐらい洗濯かごに入れておいてほしい。
     
     最初はオレも今間と同じように、『綺麗なお姉さん』だと思ってたんだけどな。
     外面のいい人って、みんなこうなのか? 藤咲さんも外と家とじゃ――
     
     反射的に蘇ってきた昨夜の後ろ姿に身体が強張った。ギクシャクと電子ピアノの前に座り、譜面を広げる。
     自主練しようとしたものの、音符がひとつも頭に入らない内に、沙織さんが戻ってきた。髪もメイクも完璧。服装は袖なしのサマーニットに白いサブリナパンツだ。私の隣に腰かける際、ふわりとラベンダーが香った。
    「お待たせ。えっと、今何時かしら」
    「4時半ですね」
     スラックスのポケットから携帯を取り出して教える。
     ストラップを見た沙織さんが、「可愛いね、そのクラゲ」と言ってきた。
    「……そうですか?」
     今あの人を思い出す物事は鬼門だ。
     思わず身構えたが、沙織さんにとってはなんとはなしに口にしただけだったようだ。
    「遅くなってごめんね。すぐ始めよう」
    「はい、よろしくお願いします」
     さっさと戻った話題にホッとして、軽く会釈してから鍵盤に両手を置く。
     指を動かす内、浮ついた気持ちは五線譜と一緒に流れていった。
     
     
     
    「あ、ちょっと戻って。さっきのとこ」
    「え、あっ」
     レッスン開始からしばらく経った頃、譜面を捲ろうと伸ばした指先が触れ合った。
     咄嗟に手を引っこめる私を見て、沙織さんが楽しげに笑う。
    「ごめんね?」
     気まずくなって俯いた。
     反射的に出した手は左手だ。彼女は思春期らしい私の反応を微笑ましく思っているのだろうが、私は昨夜の名残がまだ指にへばりついているような気がしたのだ。
     
     ――私のほうこそ、ごめんなさい。あなたの綺麗な指を汚してしまった。
     
     心の中で謝っていると、沙織さんが自身の腕時計を覗きこんだ。
    「あ、もうこんな時間。ご飯食べにいこっか。遅くなると、また藤咲くんが嫉妬しちゃう」
    「……嫉妬?」
     あの人の名に思わずピクリと反応しながら聞き返した。
     沙織さんは楽譜を片付けながら笑う。
    「尚くん最近毎日私の部屋に来るじゃない? 私に取られるんじゃないかってやきもち焼いてるのよ。ほんと、子離れしないわよね」
    「ああ、そう言えば……」
     レッスンのあと、礼も兼ねて沙織さんと一緒にバーで夕飯を食べるのだが、いつも「遅い。折角作ってやったのに、冷めちまったじゃねえか。もう作ってやんないぞ」などと文句を言ってくる。自分から食事の提供を申し出たくせに。
    「あれは……オレに恩を売ってるんじゃないですかね。保護者のあの人の立場からしたら、自分の子供が客に世話になって礼をしないわけにもいかないし」
    「尚くん、藤咲くんが苦手?」
     仕事用の大きなバッグを肩からかけて、沙織さんが立ち上がる。
     反射的に見上げると、柔らかく細めた目が私を見下ろしていた。
    「他人だって思っちゃう? 信用できない?」
     重ねてくる問いかけに責めるニュアンスは感じない。じゃあ何が含まれているのかというと……意地の悪い挑発だろうか。
     図々しい人ではないから、お節介で人の家庭に口出しする気はないだろう。私の境遇が複雑なのは予想できるだろうが、詳しい話を知っているとも思えない。単に一定以上親しくなったから、純粋に私のためを思って、見て見ぬフリせずに本音を言っておく気になったみたいだ。
     それならと、私も沙織さんの気持ちに応えて、本音で返すことにした。
    「よくしてもらってるけど……オレのためじゃなくて、自分のためにやってんじゃないかって思うときはあります。ちょっとだけ、似てるとこあるんですよね、母親と」
     実際、あの人の口から言われたのだ。『俺自身を救うためにお前を身代わりにしている』、と。
     俯いて、知らず左手を膝の上で押さえこんでいると、頭上で声がした。
    「似てて当たり前よ。あの子、尚くんの『親』やってるんだもの」
     びっくりして顔を見つめた。型通りの『藤咲くんなら大丈夫よ。ちゃんと信じてあげなさい』なんて説教をされるとは思わなかったが、まさか真逆のことを言われるとは。
     目を丸くする私に、沙織さんが微笑みかける。
    「藤咲くんってあんなだし、あんまり親っぽくないかもしれないけど、それでも子供を育てるって責任がかかるものよ。尚くんだって、さっき自分で言ってたじゃない。『自分のせいで無理させてる』って。藤咲くんが私に見せる顔と、尚くんに見せる顔は絶対違う。尚くんのお母さんもそう。尚くんにとっては望ましいお母さんじゃなかったけど、他の誰かにとってお母さんはいい人かもしれない。それが尚くんには許せないんじゃない?」
    「だから……許せって言うんですか」
     低い声が漏れた。沙織さんは静かに、「ううん」と首を振る。
    「許す必要はないよ。ただ、こんな考え方もあるってだけ。行こうか」
     
     アパートの通路を歩く彼女の背中を見ながら、ぼんやり考えた。
     本音をぶつけてくるとは思ったが、まさかあの人の話にとどまらず、母親のほうにまで切りこんでくるとは。
     沙織さんは独身だけど、結婚して子供のいる友人たちの話を聞いたり、実際に様子を見たりする機会もあるのだろう。子供側じゃなくて、親側に立ったものの考え方だ。そして私は、その考え方に触れたのが今回初めてではなかった。
     子供の頃、母の友達が家に遊びにきて、帰り際に「力になれんでごめんな。明里ちゃんも辛いと思うけど、あの子のこと支えてあげてな」とこっそり耳打ちされたことがあった。そのときは、『この人は母が私たち娘にしている仕打ちを知っている。その上で、私じゃなく母の味方をするんだ』と子供心に傷ついたものだったが、あれはまさに沙織さんについさっき指摘されたばかりの心の働きによるものだったのだろう。『母は私たち本人には本音を見せないのに、他人の友達には本心を打ち明け頼っている』。それが何よりショックだったのだ。
     今なら沙織さんの言うことは判る。それでも、いや、だからこそ、私は母を許せない。
     許してしまったら、私は生きるための原動力を失ってしまう。あまりにも長く母の呪いに囚われてしまっていて、憎しみを忘れてしまったら、私が私じゃないものになってしまう気がするのだ。
     
     
     
     
     吹奏楽コンクールの二次予選は銅賞で終わった。実力もノウハウも勝利への執着もない烏合の衆なんてこんなものだ。
     一部の部員は悔しがり、来年こそはと盛り上がっているが、オレは受験のほうが大事だから正直鬱陶しい。まあどうせ夏休み明けには熱も下がっているだろう。唯一手伝ってくれた沙織さんに対しては心苦しく思うものの、バーには様々なイベントがあるから、彼女のために演奏する機会もきっとその内訪れるはずだ。
     夏休み中の練習も強制ではなくなったため、次戦に進んでいたら参加できなかったバーのイベントに今間を誘って参加した。交流のあるバーが集まって開催するビーチバーだ。場所は千葉県の海水浴場。朝から数台のマイクロバスを貸し切って、1時間ほどで到着する。
     綺麗な海だが、夏の終わり頃でクラゲがいて泳ぐことはできない。では何をするのかというと、浜辺に簡易的なバーカウンターを作り、酒を飲みながらバーベキューをして、店舗対抗ビーチバレー大会を開くのだ。
     とはいえ、参加するのは夜行性のバーテンダーたちと酒飲み客の集団だから、レベルなんて高が知れてる。そんな中、オレと今間は現役の健康優良児なので、成長途中のハンデがあるにもかかわらず、かなりの活躍を見せられた。まあ吹奏楽部はどちらかというと、体育会系に近い部活だ。
     勝ちとった3位の賞品はワイン1ダースだった。早速栓を開けて飲んだくれている智也に声をかける。
    「藤咲さん、『そろそろカウンター代わって』だって、犬飼さんが」
    「あー? お前やってきて。できるだろ、お前なら」
     この酔っ払いが。今間も隣で、「相変わらずですね」と苦笑している。首を振りながら重いため息をついて見せた。
    「できるけど、そういうわけにもいかないでしょ」
    「だいじょぶだいじょぶ。仕事じゃないお遊びだし、お客さんも作ったりしてるから。ほら」
     見れば確かに沙織さんが、犬飼さんに教わりながらシェイカーを振っている。今日の服装はつばの広い帽子に、ボタニカル柄のサマードレスを合わせたセレブリゾート風コーデだ。見た目は隙のない大人の女性の彼女が、へっぴり腰でシェイカーを振っている姿はかなり可愛い。
    「コンちゃんと一緒にやってこいよ。いい思い出になるだろ」
    「オレもいいんですか!? やりたい! 行こうよ、尚くん!」
     今間を引きこみやがった。ため息の尾を引きながら、友人に引き摺っていかれる。
    「犬飼さん、すいません。藤咲さんはフーテンダーです」
     カウンターの前に立って報告したら、犬飼さんが丸いサングラスを額に引き上げてアハハと笑った。彼は同じ駅の側にあるご近所バーのバーテンダーさんだ。
    「藤咲くんは肝が据わってるなあ。俺もこんなとこ立ってないで飲みたいよ」
    「中山さん、優しいですからね。代わりますよ、オレたち」
    「ああ、なるほど。確かに俺や藤咲くんが作るよりよっぽどサービスになるね。やり方は……」
    「判ります。判らないとこは携帯で調べられるし」
    「私が見といてあげる」
     沙織さんが口を挟んできた。自分で作ったらしいプラスチックコップのカクテルを飲んでいる彼女は、近くで見るとチークを入れていない頬がカクテルと同じピンク色だ。彼女も酔っ払いらしい。
    「じゃあ、頼むね」と犬飼さんが日よけテントの下に入っていき、オレと今間でカウンターに回りこんだ。簡易的なただの台とはいえ、こちら側に立つと勝手に背筋が伸びる。職業病が沁みついているようだ。
    「ほんとにできるの、尚くん」
     不安そうな今間に頷いて、作り置きしてあるライムの輪切りをプラコップに絞り入れた。そのままトングで氷を入れ、ジンの瓶を手にとる。
     右利きに直して正解だ。現役だった頃よりスムーズに動ける。左利きだと片手で瓶の開け閉めもできない。世の中は右利きの人間が思う以上に、すべてが右利き仕様になっているのだ。
     メジャーカップでジンを量り、コップに入れる。目分量でもいいのだが、今間には難しいだろう。一旦氷とジンだけでステアし冷やしてから、トニックウォーターを注いで今度は軽くステア。
    「できた。これがジントニック。多分一番頼まれる」
    「すっご……! 尚くん本物のバーテンダーみたい!」
    「ほんと、私完全に負けてるわ」
    「ずっと藤咲さんとかマスター見てますからね、素面で。沙織さん、これも飲んで」
     差し出したジントニックを受けとりながら、「どうせ私はいつも酔っ払ってるわよ」と沙織さんが頬を膨らませる。完熟した白桃みたいだ。――と、そこでいきなり黄色い歓声が上がった。
    「きゃー! 可愛い男の子がカウンター立ってる!」
    「何々? 君たちがカクテル作ってくれるの~?」
     見覚えのない女性二人連れだ。少し離れた地域のバーの客なのだろう。派手だけど、都会的な雰囲気がある。
    「あ、はい。初めてですけど、それでもよかったら作ります」
     しゃちほこばって応える今間に、
    「君の初めてもらったあ! じゃあねえ……セックス・オン・ザ・ビーチ!」
     
     セクハラか。
     
    「え、セッ……」
    「カクテル名。さすがにレシピは判んないから今調べるよ」
     真っ赤になっている今間にフォローを入れて、携帯のフリップを開く。「あ、クラゲ~」と横から沙織さんがストラップをつついてくる。
     メロンリキュールが置いてないから、ピーチリキュールのほうのレシピで……クランベリージュースもないから、グレナデンシロップで色付けするか。
     頭の中で考えてから該当レシピを一応表示し、携帯をズボンのポケットに入れた。
    「アレンジレシピになるけど、まずウォッカ。そこの瓶、それをメジャーカップの大きいほうに9分目」
    「うわっ、溢れちゃった! どうしよ、戻していいの?」
    「それ全部入れていいよ。お姉さんたちにはカクテルなんてジュースでしょ」
    「ひどーい。大人を酔わせてどうするつもり~?」
     わーわー言いながらなんとか2杯分のカクテルを作った。今間は二人に捉まって相手している。若干押され気味だが、元々社交的なやつだ。大人の女性との会話を楽しんでいるらしい。
     接客は今間に任せ、ぐちゃぐちゃになったカウンターの上を片付けていると、ハーフパンツのウエスト部分が引っ張られた。
    「ほんと可愛いねえ、このクラゲ」
     沙織さんだ。ジントニック片手に、オレのポケットからぶら下がっている携帯ストラップをツンツン引っ張っている。
    「そんなに言うならあげましょうか?」
     最初は単なるお世辞かと思ってたけど、こんなに何度も言うってことは、案外可愛いものが好きなのかもしれない。藤咲さんからのもらい物だが、別に気まぐれで買ってきただけだろうし、常連さんにあげるなら文句もないだろう。
    「んー? 尚くんがつけてるから可愛いんであって、アラサーの私がつけてもねえ」
     だけど沙織さんはさっきまでのニコニコ顔が嘘のように、眉じりを下げて難色を示す。酔っていても妙にシビアだ。女はみんなそうだが、私も含め。
    「じゃあ沙織さんにはお世話になってるし、今度別のストラッププレゼントしますよ。何が好きですか? やっぱクラゲ?」
    「好きなのはクラゲじゃなくってえ……」
     ベージュレッドの唇に人差し指が押し当てられた。思わせぶりな溜めと仕草に何を言うのかと思ったら、
    「尚くん! 尚くんが欲しい!」
    「酔ってますね」
     嘆息して、止まっていた台拭きを再開する。「酔ってないよお」ケラケラ笑う声が聞こえる。
    「酔っ払いはみんなそう言うんですよ」
     横目に嫌味を言うと、急に沙織さんが真顔になった。
    「本気よ。私、尚くんが欲しい」
    「……からかってんですか」
     掠れた声が漏れる。途端に、「わあ、大人みたーい!」
     しばし目が点になり、大きなため息を吐いた。変に大人びた子供だと思われているんだろう。確かに絶好のからかいの的だ。
    「子供をからかって遊ぶのはやめてください。店、出禁になっても知りませんよ」
     沙織さんが剥き出しの細い肩を震わせて、低い含み笑いを漏らした。なんだかやけに色っぽい笑みだ。
    「子供だから駄目なの? じゃあ、尚くんが高校卒業したら付き合ってくれる?」
    「そのときまで沙織さんが待っててくれるんならね」
     適当に返事すると、「お尚ー。俺にも何かシェイカー振ってくれよー」と千鳥足の智也がやってきた。
     私は毅然とした声で、
    「じゃあシンデレラ」
    「大人のシンデレラにしてくれ。ウォッカ30。オレンジ、パイナップル、レモン10ずつ」
    「全部15ずつ。アンタ飲みすぎ。そんなんで今日仕事できるんですか」
    「なるほど。尚くんはこうやって藤咲くんに鍛えられてるわけか」
    「こいつ、高校入ったらうちでバイトしたいんですってよ。あ、沙織さんも入って」
     私がシェイカーを振り始めると、すかさず智也がデジカメを構えた。
     沙織さんが笑いながら首に抱きついてきて、いつものラベンダーが強く香る。
    「ちょっ、リズム狂う!」
     非難の声を上げながらも、内心ドキドキした。元々憎からず思っていた人だ。オレは沙織さんを意識し始めているのかもしれない。
     それでいいんだ。実らぬ恋に終わるだろうけど、彼女はオレにとって異性なのだから。
     
     
     
     
     11月の第3木曜日がやってきた。初物のワイン、ボジョレー・ヌーヴォーの解禁日だ。
     智也の勤めているバー『ブルー・ムーン』も、去年と同じく開店時間を繰り上げてのイベント営業となった。カウンターの隅で夕食代わりのまかないを食べながら、酒池肉林のどんちゃん騒ぎを眺める。
     まだ宵の口だというのに、常連さんの顔ぶれは揃い、しかもすでにみんな出来上がっていた。入り口前のテーブル席の近くに、ワイングラスを手にした沙織さんが立っているのも見える。数日前に今間と行ったショッピングモールで、シックな携帯ストラップを見つけたから買ってきたのだが、しばらく見ていてもこちらに気付かない。
     ま、帰るときでいいか。思いながら、目の前のドリアを片付けにかかる。
     半分ほど食べたところで、智也がカウンターから出てきた。
    「メシ、遅くなって悪かったな」
     カウンターの上を手早く片付けながら、私に声をかけてくる。
    「忙しそうですね」
    「目ェ回りそう。お前がバイトオッケーなら手伝ってもらうんだけどな」
    「イベント時の手伝いぐらい、学校に申請すれば通ると思いますよ。事情が事情だし」
    「んー……いや、いいや。お前も部活とか勉強で忙しいだろ。帰るときにまた声かけてくれ」
     両手にワイングラスを10脚ほど提げて、智也が戻っていく。
    「後ろ失礼しま、ちょ、退いて、津田さんっ」
     狭い店内にすし詰め状態の常連さんたちの間を縫うように進んでいく姿を、なんとなく目で追う。
     智也の前に沙織さんが現れた。二人はぶつかる寸前に互いの存在に気付き、ハッと立ち止まる。その瞬間、絡まり合った視線。一瞬だけど、二人は確かに見つめ合っていた。場所も状況さえもきっと忘れて。
     別に身体のどこかが触れ合ったわけでもない。しかし雰囲気が尋常じゃなかった。すぐにその一種緊張感のある雰囲気は霧消して、智也は軽く会釈をして横切り、沙織も周りの客と談笑し始める。それだけで私は判ってしまった。根拠なんかない。だけど前世の女としての経験と勘が告げている。あの二人はただの店員と客の関係じゃない。
     そう言えば、あの人の自慰を目撃したのは夏の初めのあの夜だけだ。恐らく普段はオレが学校に行っている日中に済ませているのだろう。それがどうしてあの夜に限って居間なんかで? 酔ってはいたが、そんなのいつものことじゃないか。
     あのときあの人はスマホを見ていた。アダルトサイトでも見ているのかと思っていたけど、もしかしてあれは沙織さんの……。
     そうか、やっと判った。クラゲのストラップもただの土産じゃない。おかしいと思ってたんだ、いきなり水族館に寄ってきただなんて。
     講習会のついでだなんて言って、実際は沙織さんとのデートだった。多分、最後の。二人で出した結論を思い出すために、そこで買ったストラップをオレに押しつけたんだ。猫に鈴をつけるみたいに、戒めの象徴として。
     オレのせいなんだ。オレがいるせいで、あの二人はきっと『付き合わない』って選択肢を選んだんだ。
    「…………」
     皿の中のシーフードドリアを睨みつけた。
     ホワイトソースは冷めて、すっかり固まってしまっていた。
     
     
     
     いつの間にか強く握り締めていたスプーンで塩辛くなったドリアを無理やり胃袋に押しこみ、席を立った。
     満員電車のような店内から外に出る。一度も振り向かずに歩き出そうとすると、背後から声がかかった。
    「もう帰っちゃうのー?」
     振り返れば、沙織がワイングラスを持ったまま外に出てきている。
    「今日制服のままだし歩きでしょ。いつもより時間遅いし、タクシー呼んであげるから一旦店戻ろう。危ないよ」
     顔は赤いが、まだ大人の分別はつくようだ。いや、彼女が見境を失くしたことなんて一度もない。いつも私に優しかった。実年齢としては私のほうが上だが、守られているような感じがして内心満更でもなかったのだ。
    「どうしたの、そんな顔して。学校で嫌なことでもあった?」
     それが今や腹立たしい。オレは子供扱いだ。邪魔者でのけ者だ。大事なことは全部隠される。年上なのに。判るのに。男女関係の機微くらい。
    「ストラップ……」
     掠れ声で言った。
    「ストラップ?」
     沙織が小首を傾げる。判らないふりするつもりか。あんなに「クラゲクラゲ」ちょっかいかけてきといて。内心何を考えてたんだ。
    「買ったんです、沙織さんのために。紐が五線譜になってる、大人っぽいやつ……」
    「え、ほんと? でも高かったんじゃない? 無理しなくてもよかったのに」
    「無理してるのは沙織さんでしょう」
    「どういう意味?」
     キョトンとした顔をした。一気に頭に血が上る。
    「アンタが欲しいのは……!」
     言いながら手が出た。グラスを持つ華奢な手首を引き寄せる。腰にも手を回し、強引に口付け、舌を捻じこんだ。
    「……っ!?」
     次の瞬間、私は彼女から離れていた。彼女が離れたんじゃない。私から、離れたのだ。
     軽く瞠目していた彼女が、額に落ちてきたワンレンの前髪を掻き上げてふっと目を細める。
    「尚くんも子供っぽいとこあるのねえ……」
     非難しているニュアンスではなかった。子供の癇癪に困っているような、予想通りだと呆れているような。
     でも私は自分を恥じる余裕もなかった。震える足で後ずさる。
    「す、すいません……っ」
     呟いて、駆け出した。逃げるように。
     
     
     
     アパートの玄関に入り、己の肩を抱いていると振動が伝わってきた。
     最初は自分が震えているのかと思ったが、一旦止まってまた震え出す。振動の発生源がスラックスのポケットだと気付き、携帯をとり出した。
    『……ああ、やっと出た。今、家か?』
     脱力したような智也の声が聞こえてくる。聞きたくなかった、今この人の声は。「はい」渋々返事する。
    『電話出ろよ、携帯の意味ないだろ。てか黙って帰るなよ。沙織さんが気付いたからいいものの』
    「……忙しそう、だったから」
     どうやら彼女は黙っているつもりらしい。ホッとしていいところなのか判らないが。
    『まあ無事ならいいんだけどよ。戸締まりちゃんとしとけよ。今日かなり遅くなりそうだ。予想通りだけどな』
    「ほんとに仕事な――お疲れ様です。おやすみなさい」
     一方的に通話を切った携帯電話を眺めた。そこから垂れる音の鳴らない鈴。鳴らないけれど、音よりも雄弁な想いを叫び続ける鈴。引きちぎってしまいたい。だけどできない。オレは何も知らないはずのガキだから。
     まだ手の平に沙織さんの柔らかな腰の感触が残っている。未だに慣れ親しんだ感覚のままの、ラベンダーの香水に混じった女性特有の甘い体臭も。
     舌の粘膜が触れ合った瞬間、オレは咄嗟に気持ち悪いと感じた。誤魔化しようがない、生理的な嫌悪感だった。普通に接触するだけならなんとも思わないが、女性を性的対象にすることは不可能なんだ。考えるより先に身体が勝手に拒絶して、痛感させられてしまった。
     沙織さんのことを好きになれると思っていた。明里だったとき、オレは特定のタイプの女性に淡い恋心のようなものを抱く傾向があった。大人っぽくて面倒見のいい、自分に優しくしてくれる女性。母親と重ねていたのだろう。母親から得られない愛情を、彼女たちに代わりに求めて憧れていた。
     思春期の頃はそれで自分は同性愛者なのかもしれないと悩むこともあった。ある意味正しかったのではないだろうか。『女が好き』なのではなく、『同性が好き』。母親を見てきた過程で男女間の関係に不信や汚らわしさを感じるようになってしまっていて、下心のない同性じゃないと好意を感じられないのかもしれない。
     今の自分で同性となると、相手は――。反射的にあの夜の智也が浮かんだ。心臓がギクリとする。
     男として生きることに慣れてきたから、男と肌を重ねることに当然嫌悪感は覚える。しかしそれは不特定多数に対するイメージ的なものだ。好きな相手じゃないと抵抗を感じるという貞操観念に近い。基本の感じ方が女のときと変わらないのだろう。
     藤咲さんに感じる嫌悪感は、もっとはるかに強力な本能的嫌悪のようなものだ。その証拠に、沙織さんに感じた嫌悪感よりも更に酷い。オレはあの人のことを親だと思ったことなどないけど、やはり長年共に生活してきたから固定観念で肉親関係だと誤認していて、近親相姦の本能的嫌悪を感じてしまうのかもしれない。
     そもそもオレがどう思ったところで、あの人は今もきっと沙織さんのことを……
    「くそっ! 関係ない、オレには……!」
     二度と恋なんてしない。どうせオレには判り合える相手なんて現れない。これから先もずっと、大きな隠し事を抱えて生きていくんだ、一人きりで。
     あの人はオレに過去の自分を重ねることで、愛情の受信機をまんまと直してしまったんだろう。それぐらいで直るのなら、きっと最初から壊れてなんかいなかった――いや、それだってまやかしだ。幻想の愛を受信しているだけに過ぎない。オレは前世でも結局一人だったけど、オレが一人だということは、周りにいる全員も一人きりだったということ。『一人じゃない』なんて幻想だ。ただ『一人』が集まってるだけ。オレも今間も沙織さんも、あの人も、みんなみんなこの地球上の全員が。
     照明をつけていない玄関の中で、ストラップのクラゲが間抜け面で薄ぼんやりと光っている。
     お前も一人だ。あの人にいいように使われて見捨てられたんだ。――おい、何がそんなに可笑しい?
     
     
     
     
     
     
     
     藤咲さんがのこぎり片手に日曜大工をしている。
     外は行楽日和らしい五月晴れが広がっているが、窓のないバーは1日中夜の世界だ。
    「そこの釘とって」
    「藤咲さん、こんなこともできるんですね」
    「昔、リフォーム工事のバイトやってたからな」
     オレが渡した釘を口に咥えて藤咲さんが笑う。彼はこれから、この狭い夜の世界に三日月を出現させるのだ。
     オレが高校生になって1か月。バーのバイトに慣れ始めると同時に、マスターの中山さんが勇退することになった。長時間の立ち仕事が身体に堪えるようになってきたらしい。惜しまれながら現役をしりぞき、藤咲さんに店を任せてオーナーの座に就いた。
     独身の中山さんは、その内藤咲さんに完全に店を譲るつもりなのだろう。この機会に店の改名と改装まで許可した。雇われマスターとなった藤咲さんは早速店を一時休業にして、こうして昼間から汗を流している。
     店の看板はもう出ている。『ブルー・ペーパー・ムーン』だ。多分造語なんだろうが、ひとまず前名の『ブルー・ムーン』を引き継いでいる。ブルー・ムーンはスタンダードなショートカクテルの名前で、『滅多に起こらない幸せな瞬間』という意味がある。
     ペーパー・ムーンのほうは、今藤咲さんが手製の台座に釘で打ちつけている顔の描かれた三日月板のことらしい。サイズは大人が両手を広げたくらいで、黄色いペンキが若干色褪せてところどころ剥げているのが、不気味というか妙に味があるというか。昭和時代のマイナー遊園地にありそうなレトロなデザインだなと思ったら、実際に年代物らしく、海外の子供用フォトスタジオで使用されていたものをネットオークションで落札したそうだ。
    「それのことだったんですね」
    「ああ、店の名前?」
    「それもあるけど、藤咲さんの写真癖。昔、写真館で撮ったでしょう。記念撮影とか言って」
    「そうそう、ペーパームーンってこのハリボテの月の台座のこと。営業中に店のモニターで映画も流すつもりだけど、昔アメリカの庶民の間でペーパームーンに座った記念写真を撮るのがはやってたんだ。激動の時代だからこそ、ささやかな幸せの瞬間を切りとっておきたかったんだろうな」
     じゃあ意味も『ブルー・ムーン』と被ってるんだな。なかなか気の利いたネーミングだ。
    「俺、元々写真とかどうでもよかったんだよ。ガキん頃の写真なんか残ってないし、自立してからも自分で撮らなかったしな。でも毎日どんどん成長してくお前見てたら、残しておきてえなあって思うようになって」
    「……それで写真撮るようになったんですね」
    「もうすっかり趣味だな」
     笑いながら立ち上がった藤咲さんが、カウンターの止まり木に腰かけて煙草に火をつけた。
     オレが高校に入ってから、この人は店ではオレの前で煙草を吸うようになった。自分が吸わなくても客が吸うからだろう。家でもオレがいないときは吸っている。オレが部屋に入るとすぐに消してくれるが。
    「結構上手く作れたな。やっぱアンティークは味があるわ。早速座ってみろよ」
     藤咲さんは口に煙草を咥えたまま、二代目の高性能デジタルカメラをオレに向かって構えた。
     この月の台座に座るものはもう決まっている。オレよりあっちを写せばいいのに。
     床に置かれている水槽を見ながら思ったが、さっきの話を聞いたあとだと無下にするわけにもいかなくて、渋々腰を下ろした。
     すると藤咲さんが、「ピースしろよ、ピース」などと言い出す。
    「……嫌ですよ。何も楽しくなんかないのに」
    「『何も』ってことはねえだろー、ささやかな幸せの瞬間ってやつなのに。指、大分綺麗になってきたろ? これで心置きなくピースできるじゃねえか」
    「…………」
     気付いていたのか。ここ1年半ほど、オレがカメラを向けられてピースしていなかったことに。
     仕方なくおずおずと二本指を立てた。すかさずフラッシュが光る。
    「うん、写真だと手術跡も判んねえくらいだな。でも相変わらず写真写り悪いなあ、お前」
     藤咲さんは撮った画像を確認しながら笑っている。
     中2の秋頃、沙織さんへの気持ちが思いこみだったことに気付いたオレは、藤咲さんから費用を前借りして指の形成外科手術を受けさせてもらった。移植した皮膚はオレ自身の尻の肉だ。藤咲さんとお揃いの傷跡ができてしまったわけだが、自分の尻なんて見えないからどうでもいい。それよりも彼の皮膚が指にくっついているほうが問題だったのだ。
    「……なあ、尚」
     唐突に名前を呼ばれた。改まった声色にタイミングを逃して、台座に座ったまま口を開く。
    「なんですか」
    「ほんとでかくなったよな、お前。俺も定職に就くし、お前が同意してくれるんなら養子縁組できるんだ。本当の家族にならないか?」
     世界がシンと静まり返った気がした。
     まるでここは夜の海の底だ。穴もない、欠けたハリボテの月しかない、八方塞がりの。
    「こんにちはー、お届け物でーす!」
     何も言えずにいると、外で急に大きな声がした。
    「あ、沙織さんのピアノ来た!」
     ギクリとするオレに構わず藤咲さんはドアに駆け寄ると、ノブに手をかけたまま振り返った。
    「考えといて。今すぐじゃなくてもいいから」
     
     
     
     
     数日のリニューアル期間を経て、バー『ブルー・ペーパー・ムーン』――常連さんがつけた愛称は『ブルぺパ』――が開店した。
     バーでのオレの仕事は、開店前の掃除と買い出しにフードの下ごしらえ。開店中はフード調理にホール業務、暇なときはピアノも演奏している。
     ピアノは沙織さんが昔実家で使っていたグランドピアノだ。場所をとるから処分したいと聞くや、藤咲さんが引きとって店に入れてしまった。そのせいでドア前のテーブル席は全部潰れた。
     オレは人に聴かせられるほどピアノが上手いわけじゃない。藤咲さんもオレの練習用に引きとったのだろう。「ただ置いとくだけでも様になるし。ま、できれば物置きにならねえように精進してくれ」と無茶振りされてしまった。職場の私物化だ。
     職権乱用と言えば、もうひとつある。店でクラゲを飼い始めたことだ。藤咲さんが店舗リニューアル用の資材を買いに立ち寄ったホームセンター内のペットショップコーナーで、インテリア用の瓶に入った小さなミズクラゲを衝動買いしたのがきっかけだった。結局、水槽や飼育グッズを買い揃え、クラゲも追加購入して店で飼うことになった。藤咲さんの思い付きで、水槽にはオレが子供の頃に作ったジオラマ模型がコーティング剤で表面を固めて沈められている。このクラゲの世話もオレの仕事。バーとなんの関係があるってんだ。
     薄暗い店の中でクラゲは月の台座に鎮座し、ミニチュアの町の上をアクアライトの光を浴びて緑色に漂っている。ジオラマに配置された小さな人形がもしも生きていたら、馬鹿でかい三日月に見下ろされ、緑色に光る大きなクラゲが夜空を泳ぎ回る、永遠の夜の世界だと感じるのだろう。
     まるでファンタジーの世界のようだが、オレにとっては悪夢だ。実際世話していると、クラゲの表面にデフォルメされたあの笑みが浮かび上がって見えて、そんなとき、オレはつい何度でも舌打ちしたくなってしまう。
     嫌々世話をしていた。そうしたら開店前、クラゲたちがなんだか小さくなっていることに気が付いた。数匹は傘が破れて、ビニールのように水中に漂うだけになっている。
     慌てて藤咲さんを呼んだら、オレがやろうと出していたオレンジ色のプランクトンのエサを水槽に入れ、「そこの小っちゃいやつだけ食った。あとは全滅だな」と言った。
    「……すいません」
     まだ飼い出してひと月半だ。しかも今日はこの人の誕生日なのに。
     俯くと、藤咲さんがあっさり笑った。
    「いいよいいよ。死んだのは捨てといて」
     思わず彼の顔を凝視した。目を見開くオレに、藤咲さんは煙草に火をつけながら、
    「上手く飼えたとしても、クラゲって元々短命なんだよ。1年ぐらい。最初から古いの掴まされたのかもしれねえし、気にすんな」
    「……ゴミ箱に捨てていいんですか?」
    「いいんじゃねえ? 海洋生物だから、土に埋めるほうが問題だしなあ」
    「でもなんか……」
    「尚は優しいな」
     優しくない。オレは単に後ろめたいだけだ。苛立ちをクラゲに向けていたことが。
     問題に向き合いたくないから、世話の手を抜いて八つ当たりする。やってることが前世の母親と変わらない。藤咲さんが極端なまでにシビアな言動をするのも、オレが気に病まないように配慮してくれている側面があるんだろうし。
     俯いていると、「なあ」と穏やかな声が降ってきた。
    「お前はこのクラゲたちが可哀想だと思うか? 狭い水槽の中に閉じこめられて、死んだらゴミ箱に捨てられて」
    「…………」
    「俺はこいつらはそれなりに幸せだと思うよ。危険を感じることなく一生を終えるんだから。そもそも、水槽に閉じこめられてるって判んねえんじゃねえかな。こいつらにとっては水槽も海なんだよ、敵のいない安全な」
     狭くても、安らぎを感じることはある。狭いからこそ、安らぎを感じることだって。
     前世の子供時代、不機嫌な母から逃れて家のトイレに入った数分間以上のあの安らぎを、オレは今まで感じたことはない。今もたまに見る水底から月を眺めている夢は、その気持ちを追憶しているものなのかもしれない。
    「……オレもそう思います。安心に勝る幸せってない」
     死んだクラゲを網で掬い、新しいゴミ袋に入れて他のゴミとは別に置いた。
    「1匹残ったこいつだけでも、のんびり長生きさせてやりたいです。ちゃんと飼い方調べます」
     藤咲さんが微笑んだ。大人っぽい優しい笑みだった。
     彼は今日、オレの前世の享年と同じ、28歳になる。
     
     
     
     その日の深夜頃、大きめの地震があった。揺れで目覚めて隣を見ると、藤咲さんが寝ている。
     声をかけたが起きなかった。部屋の空気が酒くさい。オレが10時でバイトを上がったあとも、常連さんたちに祝われてずっと飲んでいたんだろう。
     ため息をついて枕元の携帯電話を見る。時刻は4時半すぎだった。
     まだ揺れている気がする枕に顔を埋めるようにして、強く目を瞑った。
     二度寝で眠りが浅かったのか、夢を見た。夢の中で自分は久しぶりに渡辺明里の認識だった。ただ無言で、小さな金魚鉢に入っている2匹の赤い金魚を愛おしい気持ちで眺めていた。
     朝、目が覚めてから、夢の金魚は前世の子供時代に実際に飼っていた金魚だったと思い出した。夏祭りの金魚掬いでとってきた金魚だ。冷えた飯粒をひと月にニ三度、思い出したときに数粒やるだけの適当な飼い方をしていたが、それでもオレはあの頃、この金魚たちになりたいと心底羨ましく思っていた。現に金魚たちは愛情なんて与えられなくても、かなり長生きした。過干渉にならなかったのが、逆によかったんだろう。いつまでも可愛らしいサイズのまま、小さくて安っぽいプラスチックの金魚鉢の中で2匹のんびり漂っている姿は、オレに安らぎと励ましを与えてくれた。
     懐かしさに浸りながら、学校に行く準備をし家を出た。藤咲さんは相変わらず寝こけていた。
     高校でもオレは引き続き吹奏楽部に所属している。とはいえ進学校なので、部活動はそんなに活発じゃない。土曜日の午後練以外は顔も出さずにバイトに行っていた。ちなみに今間は別の高校で吹奏楽部に入っている。オレと同じ学校に来たがったが、偏差値が足りなかった。
     授業が終わると店に直行した。昨夜の地震で店内が荒れているかもしれないと、半日気が気じゃなかったのだ。
     店長が呑気に寝こけているのに、なんでバイトのオレが心配しなくちゃいけないんだよと思いながらも、渡されていた合鍵でドアを開ける。店内に足を踏み入れた瞬間、頭を抱えた。ドア横に設置してあるペーパームーンの台座から水槽が倒れて完全に割れてしまっている。
     慌てて雑巾をとりにいき、ピアノの脚を浸している塩水を拭きとりにかかる。水槽のガラス片が散らばっていて、怪我をしてしまいそうだ。底に沈めたジオラマも、ミニチュアが粉々に壊れてしまっていて修復のしようがない。仕方なくゴミ袋に入れ、一通り片付けが済んでから、1匹だけ残っていたクラゲが見つからなかったことに気が付いた。爪の先ほどの小さなクラゲだ。フローリングの隙間にでも入りこんでしまったのかもしれない。
     水槽とジオラマ以外には大きな被害はなかった。グラスはいくつか割れていたが、簡単な柵を作ってあったボトル棚のほうは無事だ。高校の制服からバイトの仕事着である白いYシャツとソムリエエプロンに着替え、ため息混じりにグラスの破片を片付ける。
     よりにもよって、水槽が割れるだなんてついてない。大きな地震ではあったけど、水槽は水も入っているし台座もちゃんと安定していた。割れた瞬間、1匹だけ残っていたあのクラゲはどう感じただろう。藤咲さんが言っていたように、海が壊れたと感じたのかもしれない。クラゲにとってはあの狭い水槽の中が自分の世界だったのだ。
     今朝見た夢は、この出来事の暗示だったようにも思う。オレが月を穴だと感じるのは、前世の境遇が元となっている。
     子供の頃、オレにとって世界は母親に詰められた瓶の中だった。子供心にもそれを感じており、小学校の図工の授業で瓶の中に閉じこめられている自画像を描いたこともあった。こう言うと、いかにも精神面に問題のある子供が描くような閉塞的で暗い絵を想像しがちだが、オレの描いた絵は瓶の外のキラキラした風景を眺めて笑っている明るい雰囲気のものだった。当時、担任にも「素敵な絵だ」と褒められたものだ。
     瓶は分厚くて割ることはできないが、透明で外の世界は見えるのだ。大人になれば自分の力でぶち割って、本来の広い世界に出ていける。そう信じていた。
     だけどその一方で、不自由だった子供のオレは金魚鉢の金魚を羨ましく思っていた。矛盾だということすら気付かずに。オレが本当に欲しかったのは、今も求めてやまないのは、きっと絶対的な――
     いきなりドアが開いて、藤咲さんが駆けこんできた。オレに脇目もふらずスタッフルームに入っていき、ベストとソムリエエプロンを持って戻ってくる。
    「走ったら余計気持ち悪くなった……。仕事したくねえなあ」
     社会人失格なことをぼやいている彼に、「おそようございます」と声をかけた。
    「水槽、割れちゃいましたよ。残念ながらジオラマも」
    「割れた? なんで?」
     家から着てきたシャツの襟のボタンを留めている手をとめて、藤咲さんがキョトンとする。
    「早朝に地震があったんですよ。ボトルは被害なかったですけど、グラスが少し割れてました。あと、これが水槽。こっちがジオラマ」
     破片を入れたゴミ袋を持ち上げてみせた。
     藤咲さんは「マジかー。水槽は買い直せばいいけど、ジオラマは痛いなあ」と、慣れた手付きでネクタイを締めている。
    「……もうクラゲもいないし、買わなくてもいいんじゃないですか」
    「でも折角お前がやる気になってくれたのに。お客さんの評判もいいしな」
     評判がいいのは、不特定多数の客にじゃないだろ。
     心の中で呟くオレに、藤咲さんは「ネットで安いの探してみるよ」と笑った。
     
     
     
     二代目の水槽がペーパームーンに据え置かれた頃、オレと藤咲さんは家族になった。オレがあの人の養子になったのだ。
     高校生になってから、あの人はオレに彼女ができたかと打診してくるようになった。否定すると「もったいねえ」と言われ、オレが同じ質問をすると、「お前が一人前になるまでは、模範的な人間でいなきゃだからなあ」と返ってきた。
     昔オレに「恋愛に向いてるタイプじゃないんだ」って言ったのは、どこのどなたでしたっけ? この通り、所詮人の心なんてあっさり変わってしまう。沙織さんはいまだに店の常連だ。
     そのことを考えると、胸がモヤモヤと黒い煙でいっぱいになる。認めたくないが、オレは藤咲さんに惹かれているのだ。正式な家族になれば、この宙ぶらりんな気持ちも治まるに違いない。それに里親と里子の関係だと様々な制約もある。
     里子の場合、オレに関する決定権は行政が所有している。代理で育てているにすぎない藤咲さんは、定期的に報告書を提出する必要があったりと、かなり手間をかけさせてしまっていた。もしどちらかが事故にでも遭って緊急搬送されたとしても、身内ではなく他人判定なため、すぐには連絡が来ない。病院に到着後も面会の権利はなく、説明も受けられず、手術の決定権も当然ないのだ。
     オレは藤咲尚になって、彼の人生に一生関わる権利を得た。この、どうにもなりようがない慕情と引き換えにして。
     
     
     
     
     
     
     
    「いらっしゃいませ」
     バイト中、開いたドアに反応して声をかけてから硬直した。
     入ってきたのは、大きなバックパックを背負った白人男性二人組だ。旅行中なのだろう。かすかな期待も虚しく、「ヘイ」と手を上げてペラペラ喋り出した彼らに眩暈が起きる。
     何を言っているのかさっぱりだったが、一人が店の奥に2台だけある二人掛け用のテーブルを指差してくれた。席に案内し、ドキドキしながらメニューを渡したら、開きもしないで話しかけてきた。
     せめてゆっくり喋ってくれ! 何か質問しているみたいだが、単語も聞きとることができない。明里としてバーテンダーをやっていたときも、たまに外国人の客は来たものの、観光地でもない立地だったため、日本語も片言ぐらいは喋れる人ばかりだった。しかし彼らは完全に英語しか判らないらしい。都会ならそれでもなんとかなるんだろうが、ここに英語が喋れる人間なんて――
    「Beer?」
     いきなり背後で声がした。振り返ると藤咲さんが立っていて、フレンドリーな笑みを浮かべながら、短めのフレーズでペラペラと喋り出した。
     やりとりをポカンと見守っている内、客が力強く親指を立てる。どうやら意思疎通に成功したらしい。
    「アンタ英語できたんですね」
     カウンターに戻っていく藤咲さんを追いながら、驚き気味に声をかける。「職場で『アンタ』はやめろ」と苦笑された。まだ開店直後で、日本語の通じる客がいないから大目に見てくれたのだろう。家族になった途端『アンタ』と呼び始めたオレを最初の内は咎めていたが、もう諦めたようだ。
    「前に常連さんで海外の人がいたんだよ。もう国に帰ったけどな」
     言いながら、まな板の上でライムを2片くし切りにする。察したオレは、冷蔵庫からコロナビールの瓶をとり出した。
    「へえ、知りませんでした」
    「いっつも遅い時間に来てたからなあ。何言ってるかは大体判るけど、喋るほうは片言ぐらいしかできねえぞ。ほれ、できた。持ってけ」
     瓶の飲み口に塩をつけ、そこにライムを押しこんだものを渡される。なるほど、コロナをスノースタイルにしてほしかったのか。
    「お待たせしました」
     日本語で給仕を終え――英語の成績はそれなりだけど、スピーキングに自信がない――、カウンターに戻ろうとしたらドアベルが鳴った。
    「あ、津田さんいらっしゃ……本気だったんですか、あれ!?」
     彼が抱えていたサックスケースに思わず声を上げていた。
     
     
     
     津田さんは中山マスターの代からこの店を贔屓にしてくれている常連さんだ。歳は34で、独身貴族を謳歌している。バーの常連というものは、未婚でも既婚でもノリがよくて遊び心のある人が多い。彼もその典型的な例で、自らイベントを企画するなどして店を盛り上げてくれていた。――が、まさかここまで行動力があったとは。
     日曜日にオレの通っている高校の文化祭があった。吹奏楽部も一応簡単な演奏会のプログラムがあったため、常連さんたちが見にきてくれた。文化祭のあと、うちの店で打ち上げをしながら、津田さんが「俺も楽器がやりたい」と言い出し、現役プロの沙織さんや趣味で音楽をやっているお客さんたちと「みんなでバンドを組もう!」と何やら盛り上がっていた。たった数日前の出来事だ。
     どうせ酔っ払いの戯言だろうと聞き流していたのだが、その数日の間に最低限ビッグバンドを編成できるだけのメンバーを揃え、津田さんにいたっては触ったこともない高価なサックスまで購入してしまったと言うのだ。
    「尚坊なおぼうも参加するだろ?」
     いつものジャックコークを飲みながら、津田さんが訊いてくる。ヘンテコなあだ名といい、この人ちょっと適当さが藤咲さんと似てるんだよな。親しみの表れだとは理解してるけど。
    「津田さんのことだから、オレは最初から頭数に入れてたでしょ。自前のペットも持ってるし。今間も誘ってみますよ。あいつも最近、バイト代でトロンボーン買ったんで」
    「絶対引きこめ! トロンボーンは一人しかいなかったんだ!」
     すげえな。一人いるのかよ。
     津田さん以外は経験者らしいから、元吹奏楽部員が多いのだろう。みんな楽器を演奏する機会を窺っていたのだ。
    「ビッグバンドって他にどんなパートが要りましたっけ?」
    「ドラムとベースとキーボード。この辺はやってるやつ多いからな。キーボードはもちろん沙織だろ。ドラムは『サムライ』の大将が――」
    「俺もやろうかなあ……」
     少し離れた所で話を聞いていた藤咲さんがボソッと呟いた。
     この人はオレがいる間、オレに接客を任せて傍観していることが多い。アンタ、仮にもこの店のマスターだろ。
    「入れ入れ! お前が入れば、店をたまり場にしやすい。リーダーは俺だがな!」
     津田さんも津田さんだ。相変わらず身も蓋もない。
    「藤咲さん、何か楽器できるんですか? みんな経験者ばっかですよ」
    「何も。でも前からお前見てて羨ましかったんだよ。サックスがしたいかな、かっこいいし」
    「おー! 初心者同士、一緒に頑張ろうぜ!」
    「三浦さんが可哀想……」
     色めき立つ津田さんの声に紛れて呟いた。もう一人のサックスパートだ。
    「すぐ追いつくって」
    「あの人、中学からずっとサックスやってたそうですよ。音大生だったって」
     オレをダシにするなよ。沙織さんがキーボードやるから入ったくせに。
     
     
     
     藤咲さんは本当にめきめき上達していった。嫌になるくらい器用な人だ。初めてサックスを吹いたとき、「久しぶりだと難しいな」なんて言うから、ちょっとは齧ったことがあるのかと思ったら、縦笛と比較してやがった。
     バンド結成から約1年が過ぎたハロウィンに、お披露目も兼ねてうちのバー主催でライブハウスを貸し切ったイベントが行われることになった。来年はオレも受験生だから、遊ぶなら今しかない。今間も給付型の奨学金制度がある大学、できれば音大を狙うつもりだと言っていた。夢はプロのトロンボーン奏者だそうだ。
     ライブイベントはオレたちのバンド以外にも、他の常連さんや付き合いのあるバーの同業者たちが出演する。プロ並みの人もいるというから驚きだ。みんな爪を隠して生きている。
     出演者の条件は仮装すること。特に藤咲さんとオレが所属しているバンドは、企画者側だからと力を入れた。
     そしてついに本番当日。控室でメンバーそれぞれがハロウィンにちなんだ仮装をする中、オレはといえば雇い主の命令で、なぜかフリフリのメイド服姿だ。
    「きゃー! 尚くんやっぱすっごい似合う! 化粧乗りもいいし、嫉妬しちゃうわー」
     衣装も揃えてくれた沙織さんが、化粧道具を持ったまま歓声を上げる。
    「……どうも」
     口を動かすだけでリップグロスが粘ついて気持ち悪い。10年振りの化粧だけど、女だったときはよくこんなこと毎日やってられたもんだな。
    「ほんと似合うね、尚くん。でも女の子には見えないよ。大丈夫」
     今間が包帯をグルグル巻きにした節約コスプレのミイラ男姿で、何が大丈夫なのか判らない慰めをかけてくれる。
    「背も高いし、『女装した綺麗な男の子』って感じよね。ポイント高いわあ」
    「なんのポイントですか……?」
     いや、判る。判るところがまた辛い。
    「スカート短けえな。中どうなってんだ、それ」
     藤咲さんが膨らんだスカートをたくし上げようとしてきた。すぐさまその手を叩き落とす。
    「やめてください。パニエが擦れて痒いんですよ」
    「パニエって何?」
     しまった。「沙織さんが、このレースのこと、そう言ってて」
    「そうそう。そのスカートとパニエ、私の私服だから尚くんだとミニになっちゃうわね。でもコスプレ衣装じゃないからリアルでしょ」
    「ほんとだ。生地しっかりしてる。このブラウスも?」
    「だから、引っ張らないでくださいって」
    「ブラウスとか靴は通販。トールサイズのやつ。エプロンとヘッドドレスは自作しちゃった」
    「気合入ってんなあ。沙織さんに任せて正解だった。俺のと合わせていくらかかりました?」
    「半分自分の趣味だし、まけとくわ。自分より尚くん着飾ったほうが楽しいんだもん」
    「……着せ替え人形ですか、オレは」
     別に女装が嫌というわけではない。大分女としての感性も薄れたが、久しぶりに着飾るのは楽しいし、自分が似合っているのも判る。ただ、藤咲さんと沙織さんの間に立つのが嫌だった。二人は吸血鬼と魔女の黒いクラシカルな衣装に身を包んでいて、まるでペアルックみたいだ。これじゃ一人浮かれたメイド姿の自分はピエロそのものじゃないか。
    「藤咲くん、アコギと譜面立てどこに置いといたらいい?」
     控室のドアが開いて、弁護士の木邑さんが入ってきた。彼は藤咲さんがバーでバイトを始めた頃からちょくちょく店に来てくれていて、オレの未成年後見人から外れた今も変わらず常連のままだ。今日も弾き語りで出演してくれる。
    「あ、しつれ……え、もしかして尚くん!? どこの美人さんかと思った!」
     オレの側を横切ろうとしておおげさに反応する彼に、にっこりと笑みを浮かべた。
    「楽器類はこのライブハウスの向かいのビルに運んでおいてください。大部屋の控室を用意してあります。ここは手狭なんで、一旦そっちに置いてもらっておいて、出番が近付いてきたら、こっちに運び入れてスタンバイしてもらう手順になっています。これ、進行表です。今日一日、よろしくお願いしますね」
    「すごい。さっきまで仏頂面だったのに」
     自身もファミレスでバイトしている今間が呟いている。
    「尚に任せてたら問題ないな」
     藤咲さんは漆黒のマントを翻すと、スマホ片手にパイプ椅子に腰かけた。
    「尚、犬飼さんたちが駅に着いたって。荷物が多いらしいから、手伝いに行ってくれ」
     
     
     
     横暴な雇い主のせいで、オレは半日中ライブハウス周辺をメイド姿で走り回る羽目になった。ゴスロリ風の厚底靴に何度も足をとられながら、何をやってるんだと思わないでもなかったが、目の回る忙しさで羞恥心も吹っ飛んだ。
     フワフワのパニエで膨らんだスカートをなびかせて、ニーソックスで街を駆けるオレを道行く人が指差していく。夢の中にいるみたいな感覚で、正直解放感もあった。白兎を追うアリスにでもなった気分だ。
     駅で犬飼さんと合流したときには、知らない大学生風の女子二人がオレのスタッフ用の腕章を見て、「そこのライブハウスのイベント? 当日券って残ってる?」と声をかけてきた。もしかしたら藤咲さんはこうして新規客を開拓するために、オレを広告塔代わりに使ったのかもしれない。
     総合的に見て、忙しくはあったものの充実したイベントだった。ただ、藤咲さんが本当に何もしないのには腹が立った。オレに進行を任せて自分は酒を飲み、それでもサックスはそれなりに演奏するんだから尚更ムカつく。とにかく要領と外面がいいのだ。
     イベント終了後も、オレは撤収作業で奔走していた。服を着替える暇もない。ライブハウスのスタッフに呼ばれて話を聞くと、藤咲さんの確認が必要なことだった。
     探し回ってライブハウスの裏口から出られるゴミゴミした路地裏に、設置された灰皿の傍らで煙草を吹かしている彼をようやく発見した。少し離れたところに、この辺りの店舗が共通で使っているらしい共同トイレの入り口が見えるから、混雑している店内のトイレを避けて見つけた穴場なのかもしれない。こういうとこ、ほんとちゃっかりしてる。お客さんだって、トイレの数が少なくて困ってたのに。
    「こんなとこにいたんですか」
    「ん? 終わったか?」
     とぼけ顔で応えるその姿は、暇なら売るほどあっただろうに、いまだコスプレのままだ。その上、左手には赤い液体の入ったプラカップを持っている。レモンのくし切りが入っているから、ブラッディメアリーだろう。血の代わりにウォッカのトマトジュース割りを飲む吸血鬼か。健康的なんだか――いや、ただの酔っ払いだな。
    「終わるわけがないでしょ、主催者のアンタがこんなとこで怠けてちゃ。ライブハウスの人がなんか書類にサインしてくれって」
    「あぁ? お前代わりにやっといて」
    「無理ですよ。てかアンタ、丸投げしすぎ! オレただのバイトですよ。今日全部オレが仕切ってるじゃないですか。こんなんじゃ割に合いませんよ!」
     口を開くと、次から次へと鬱憤が噴き出してきた。この人の他人任せはいつものことだし、自分でもそれほどのことかと思うのに、「そう怒んなって」とニヤニヤ笑いを浮かべる藤咲さんの反応で、更に制御を見失う。
    「怒りもしますよ! こんな恰好までさせられて、一日中外を――っ!?」
     いきなり煙草を挟んだままの右手で肩を掴まれた。キャビンの甘ったるい匂いが一瞬鼻先を掠め、首筋に硬いものが軽く食いこむ感触がする。普段は離れた位置から眺めるだけの襟足が、なぜかすぐ目の前にあった。反射的に両手を突っぱねる。
    「何すんだよ……っ!」
     口から飛び出した声は裏返っていた。
     突き飛ばされた藤咲さんは、よろけながらもオレを見て不敵に笑う。
    「なんかうるせえから、血ィ吸えば大人しくなるかなって」
    「このっ……酔っ払い野郎!」
     子供みたいな悪態が口をついた。
     藤咲さんは怯むことなく、ヒラヒラと手を振りながら去っていく。
    「さっさと終わらせて打ち上げ行こうぜー」
     ライブハウスへと続くドアが閉まった。
     しばし茫然と眺めてから、噛まれて熱を持った首筋を手の平で押さえつける。
    「バッカじゃねえの……。オレは女じゃねえのに……」
     唇を噛み締め、きつく目を瞑る。それでも胸の痛みは消えてくれない。
    「……っくそ」
     呟きとほぼ同時に物音が聞こえた、予想もしていない方向から。
     ハッとして顔を上げると、トイレの入口に今間が立っている。
    「今間……いたのか、お前」
     声をかけたが、魂が抜けたように微動だにしない。
    「あの、今のは別に……」
     オレを見る目も見開かれたまま。『信じられない』、その目が言っている。
    「違うんだ、今間。あの人は酔ってただけで、オレらはそんな関係じゃないし、オレが一人で勝手に、」
     自分でも何を言っているのか判らなかったが、急に今間が痛そうに顔を歪ませた。
    「こっち来んな……ッ!」
     激しい語調にびっくりする。こいつがこんな声を出すなんて初めて聞いた。
    「気持ち悪い! 黙って何考えてたんだよ、この変態! その服だってほんとはお前の趣味なんだろ!」
     一方的に喚いて走り去っていく。オレはその背中を見送っていた。ショックとかじゃなく、ただ意味が判らない。何が起きたか理解できない。
     今間は打ち上げに来なかった。メンバーたちから「コンちゃんは?」と訊かれ、その都度「急用ができたとか」と曖昧に返す。顔では笑いながら、頭の中はぐちゃぐちゃだった。
     オレの唯一の友達。本当のことは言えなかったけど、一番気兼ねせず付き合えた。それがいけなかったのか? 中途半端に心を許したから。藤咲さんのことを相談すればよかった? 言えるかよ。友人面で正しい道に戻そうとする説教を聞く羽目になるだけだ。そんなのオレだって判ってる。判ってるのにどうにもできないから苦しんでんだろ!
     後日、リーダーの津田さんから、今間がバンドを脱退したという知らせを受けた。その頃にはオレはもう、1ミリも動揺しなかった。
     どうせ人とは判り合えない。40年も生きてりゃ、人に期待なんてできなくなっている。
     思春期でもあるまいし、いつまでも煩い事で悩んでなんかいられないんだ。
     
     
     
     
     気持ちを切り替えて日々の生活を淡々とこなし、ハロウィンイベントから2か月半が過ぎた頃。
     バイト中、客がゼロになったときに藤咲さんが声をかけてきた。
    「コンちゃんとケンカした?」
     みんなとっくに気付いているのだろう。腫れものに対するような扱いを受けていた。リーダー辺りから、「話を聞いてみてくれないか」と根回しでもされているのかもしれない。
     気を遣われるのも面倒くさい。ボトルを磨きながら、渋々頷いた。
    「仲直りはできねえ感じ?」
    「そうですね」
     藤咲さんが煙草に火をつける。客が来ないかドアに視線をやったまま、
    「人との関係って難しいよな。時間が必要なこともある。……なあ、尚。お前今淋しいか? ちゃんと悲しんでる?」
     チラリと静かな目線を寄越され、心臓の端がジリッと焦げた。誰のせいでこうなったと思ってんだ。
    「別に。仕方ないですよ。人と判り合うなんて元から不可能なんだから」
     ボトルを棚に戻して背を向ける。
     店の奥のモニターでは、映画の『ペーパー・ムーン』が無音字幕で流れている。丁度主題歌が使用されている遊園地のシーンで、自動的に藤咲さんの歌ういつものメロディが脳内再生された。
     そこに彼の小さな笑い声が混じる。
    「お前もまだまだ子供だなあ」
     背後から聞こえてくるその声は、からかっている感じではない。どちらかというと喜んでいる。
    「他人は自分を映す鏡なんだぜ?」
     諭すような口調に反感を覚えた。この人もオレを下に見ている。オレが本当は10も年上なことを知らないから。オレのことを見ずに、重ねた過去の自分を見ているから。
    「その言葉、オレはまったく信じてません。オレが絶対にしない恥知らずなことを平然とやってのけるやつらと、オレが同じなわけないだろ」
     口を開いたら、予想よりもずっときつい物言いが飛び出した。
     藤咲さんは、「んー、そういうわけじゃねえんだけど」と苦笑している。
     少しばつが悪くなってこっそり様子を窺うと、作業台に置いてある灰皿に吸い殻を押しつけていた。俯きがちになった彼のシャツの襟首から、うなじがほんのわずかに覗いている。家ではボサボサの髪も櫛目が判るくらいきっちり整えられていて、禁欲的なその姿に不意に強烈な色気を感じた。自分が魅了されていることに気付いていて、それでも目を離せない。
     まばたきすら忘れていると、いきなり藤咲さんが顔を上げた。
    「あ、いらっしゃいま――なんだ、津田さんか」
    「なんだってなんだ。俺で悪かったな」
     可笑しそうに苦笑しながら、津田さんが店に入ってくる。コートを着た二の腕を擦り擦り、止まり木に腰かけて、「うー、さみぃ。ホットワインくれ」と注文した。年中、「とりあえず、ジャックコークいつもの」な人が珍しい。
    「ちょっと暖房上げますね」
     空調のリモコンを操作した藤咲さんが、隣のデジタル時計に目をやってオレに振り返った。
    「もう10時だな。上がっていいぞ、尚」
     オレがいなくなったあと、リーダーにさっきのことを報告するんだろう。
     二人して、「あいつもまだまだ青いな」なんて笑いながら。
     
     
     
     真っ暗な家に帰ってきて風呂に入り、学校の宿題を済ませてから部屋干しにしていた洗濯物を畳んだ。
     藤咲さんの仕事着が一式揃っている。白いシャツ。黒のベストとスラックスに、ソムリエエプロン。それから濃いワインレッドのネクタイ。
     ほぼほぼ白と黒で構成されたそれらにアイロンを当てながら、先ほどのあの人の姿を思い出した。
     色っぽいとは思ったけど、即性欲には結びつかなかった。欲求を感じていたら、自己嫌悪と絶望で打ちのめされていただろう。
     確かに、触れたいという願望が出なかったわけではない。だけど同じくらい、『冒しがたい』とも感じた。
     あの人は魅力的だ。それは認める。普段は判りにくいけど、30を目前にして、だんだん大人の落ち着きや貫禄も出てきた。憧れに近いのかもしれない。なんせこっちは子供の肉体に押しこめられているのだから。
     アイロンを当てたシャツを持ち上げる。スウェットを脱ぎ、まだ熱を持った袖にそっと腕を通した。
     スラックスとエプロンも身に着け、ネクタイはネットで締め方を調べる――オレの高校は学ランだ――。
     上にベストを着こんでから、姿見の前に立った。
    「んー……?」
     立ち位置を替え、前髪を両手で後ろに撫でつけてみる。癖のない髪はさらさらと零れ落ちてしまう。せめてキリッとした表情を作ってみる。ポーズを決めてみる。
    「やっぱガキだな……」
     腕組みしたまま鏡に顔を寄せ、がっくりと項垂れた。
     見下ろした自分の身体が視界へと入ってくる。腰に纏わりつく黒いエプロン、少し緩いベスト、折り目のついた白いシャツの袖……。
     不意に、今自分の全身を包んでいる衣服が、普段はあの人を覆っているものであることを強く意識した。
     途端に心臓と腹の下に、不自然な熱が生じる。
    「くそ……」
     違う。違う。両腕を掴みながら必死で抑えつける。
     オレ自身は性に関心がなくても、この肉体は貪欲だ。ただのスキンシップの願望でも、ちょっとしたことで性欲と勘違いして暴走しようとする。そんな自分の中の『男』の部分に、オレはいまだ慣れることができない。精神は分別も貞操観念もある大人の女が元になってるのに、身体は若い男というアンバランスさで、突発的な性衝動をコントロールしきれずにいる。
     手段なんか選んでいられない。早くいつもみたいに発散させなくては。なんでもいい。男女のエロ動画でも、女同士の絡みでも、男同士のものだって。とにかくあの人を頭から追い出せれば、なんでも。
     まずはこの服を脱いでしまわねえと。首を絞めつけるネクタイを毟りとろうとした、その時。
    「……何してんの、お前」
     横を向くと、藤咲さんが玄関先に立っていた。
    「え、あ、なんで……!?」
    「雪降ってきたんだよ、ほら」
     一旦身体を横にずらしてから、ドアを閉めて部屋に入ってくる。
    「お客さん来ねえし、積もりそうだったからさ。何? その服着てみたかった?」
     ニヤニヤからかいの笑みを浮かべる彼に、無言で俯いた。
    「高校卒業したら、カウンター立ってシェイカー振れよ。お前なら、背中の開いたカマーベストかな。細身だから似合うぜ、きっと」
    「……すいません。もう一回洗います」
    「いいよ、ちょっと着ただけだろ? お前結構潔癖だよな」
     
     
     アンタは笑ってるけど、そうじゃない。
     オレはこの服を汚したいと思ったんだ。
     
     
     
     
     
     
     
     3年生に進級した。これまでも進路調査はあったが、保護者も同席しての正式な面談が始まった。
     担任には、「君ならいろんな大学を選べますよ」と太鼓判を押されたものの、どの道に進みたいというはっきりした目標もない。強いて挙げれば、ずっと続けてきたトランペットやピアノの技術が磨ける音大だろうか。
     だけど音楽は趣味で十分な気もする。義務になったら楽しめなくなりそうだし、今間と顔を合わせる可能性があるのも気がかりだ。
     受験のモチベーションが上がらず、一学期の期末テスト前だというのに、藤咲さんと一緒になってぼんやりテレビなんかを眺めてしまう。放送しているのは、『月に囚われた男』というSF映画だ。オレもある意味では月に囚われているのかもしれない。
    「面白いですね、これ。オレ、結構SF好きなんですよね……」
     テーブルに頬杖をついたまま呟いた。「ああ、俺も好き。感化されちゃった?」と藤咲さんが悪戯っぽく笑う。
    「そうですね。アンタが持ってる小説、どれも面白かったから」あと、オレ自身がSFみたいなもんだから。「ネットで宇宙に関する記事読んだりもしますよ」
    「そんなことやってるのか。エロ動画じゃなくて?」
     この人には珍しい下世話なからかいに咄嗟にギクリとする。視聴の痕跡は残していないから、ただの鎌かけだろうが。
    「宇宙の法則も、最近動画サイトで見たんですけど面白いんですよ。常識が通用しない、ほんとSFの世界みたいな話がいっぱいで。授業でちょっとでも教えてくれてたら、物理とか数学ももっと勉強したのに。そういや星って、写真でしか見たことないですよね。土星とか。実物はどう見えるんでしょうね」
     後ろめたさが拭えず、コマーシャルが終わったというのに長々と喋ってしまった。藤咲さんもそれ以上は深追いしてこずに、サラッと言う。
    「見にいってみようか」
     
     
     
     こういうとき自営業は融通が利く。
     オレが試験休みに入ると早速店を臨時休業にし、一泊二日で天文台へ行くことになった。
     どうせならということで、日本で一番大きな公開天体望遠鏡があるところを選び、いざレンタカーで出発する。
    「ほんと辺鄙なところにあるんですね」
     7時間以上かけてやっと車が所在県内に入った。まだ山の裾野だが、畑ばかりでびっくりするほど建物がない。見晴らしがよすぎて殺風景にすら感じる景色を眺めていると、運転席の藤咲さんが「疲れたか?」と声をかけてきた。
    「それを言うならアンタでしょ」
    「全然余裕。座りっぱなしで尻が痛えけど。いやあ、俺もまだまだ若いな」
    「そういうこと言うのが、もう中年なんですよ」
    「中年はやめろ。そりゃお前から見たらおっさんだろうけどさあ」
     そんなことはない。人生二度目のオレからすれば、30歳のアンタなんてここからがちょうど……何がちょうどなんだ、何が。
    「体力面はともかく、内臓は酒でボロボロでしょうね。ちょっとは節制したら?」
    「してるっつーの。お前いっつも俺が飲んだくれてるみたいな言い方するけどな、そんなことないぞ」
    「だって閉店時間に帰ってきたことないじゃないですか」
    「早仕舞いできた日は小説書いてんだよ、店ん中で」
    「……そうなんですか?」
     びっくりして顔を見た。ハンドルを握ったまま藤咲さんが、肩を竦めて笑う。
    「ま、なかなか進まないけどな」
    「それでも書いてるんだ……」
     すっかり忘れてた、この人が小説家志望だったなんてこと。
     諦めてなかったんだ。この人には夢がある。
    「……なんか焦ります。オレ、何すればいいんだろう」
    「それを今から探しにいくんだろ」
    「見れますかね、星。また雨降るかも」
    「雨? こんなに晴れてるのに?」
    「裸眼でもはっきり見えるのに、これだから夜行性のバーテンダーは……。ちゃんと見て運転してください」
     真っ直ぐに続く、広々とした道路の先の大きな水たまりを指差しながら言った。
     しばらくエンジン音だけが響いたあと、藤咲さんがいきなり大声を上げる。
    「……あ! もしかしてお前、逃げ水知らねえ!?」
    「ニゲミズ? なんです、それ」
    「うわー、マジかあ。確かに最近どこも混んでるもんな。俺がガキの頃なんか……あー、やっぱ俺もうおっさんだわ。凹む」
    「一人で凹んでないで、さっさとなんなのか言ってください。雨じゃないなら、道路の洗浄液とかですか?」
     ハンドルに凭れかかった藤咲さんをせっつく。彼が姿勢を戻した。
    「あれ全部、蜃気楼の一種。逃げる水。水たまりじゃねえの。地鏡ともいう」
    「騙されませんよ。あんなにはっきり見えてるじゃないですか」
    「近く見てみろよ。濡れてないだろ、近づきもしねえし。お前が子供のときにも、1回くらい一緒に見たことあると思うぞー」
    「そう言われればそんな気も……」
     そうだ。確かにあった。いつ見たかも、どこで見たかも覚えていないが、側にこの人がいた印象は残っている。雨は降ってなかったのに水たまりがあるから、少し不思議に思ってたんだ。気付かない間に、にわか雨でも降ったのだろうとすぐ意識から外したが、あれも逃げ水だったのだろう。
    「写真にも写るぞ。撮ってみたら?」
     促されて、グローブボックスから藤咲さん愛用のデジカメをとり出した。画像にもはっきり写っている。地鏡という名に相応しく、映りこんだ横のガードレールや側を通る車の色までくっきりと反射して。
    「……ほんとだ。何が正しいのか判んなくなりますね……」
     子供時代のある日、オレが水たまりだと思って見ていたものは、藤咲さんにとっては幻覚だった。
     40年も生きてきて知らなかった。他にもまだまだオレの知らないことが、この世界には溢れているのかもしれない。
     
     
     
     夕方頃に山の頂上にある天文台に到着した。
     敷地内は広大な緑地公園のようだ。部活動中らしい走りこみをしている若者や、ダンスの練習をしている集団もいる。
    「楽器の練習してる人もいますね。ギターとかだけど」
    「持ってきて正解だったろ? 大学の研究施設だから結構自由なんだよ」
     一泊にしては多い荷物を車から降ろし、まずは受付で手続きを済ませる。今日の宿泊者はオレたちだけらしい。確かに試験休み期間とはいえ、平日のど真ん中だ。梅雨明けが発表されたのも一昨日のことだったし、この時期遠方からの来訪者は稀なのだろう。受付員に楽器ケースを見せつつ、「外で吹いてもいいですか?」と訊いたら、なんなくオッケーをもらえた。
     宿泊施設はファミリータイプの社宅みたいな造りになっていた。カウンターキッチン付きのリビングに寝室。風呂とトイレも別々で、家具や電化製品、ティッシュペーパーやまな板などの日用品まで揃っている。
     部屋に荷物を置いてから、早速芝生の上でバンドの練習曲『ゴッドファーザー』を吹いていると、さすがに音が大きいからか人が集まってきた。その中にいた白衣姿の中年男性に、藤咲さんがサックスのリードから口を離して話しかける。
    「ここの職員さんですよね? 俺たち今日ここに泊まるんですけど、夜は迷惑ですかね? 星を見ながら吹いてみたいんですけど」
    「あー、どうやろ? 研究中の先生おったかなあ。ちょお待っとって。訊いてきたるわ」
     男が建物の中に入っていった。
     久しぶりに生の関西弁を聞いた。イントネーションも言葉遣いもほぼ前世の地元と変わらなかったが、懐かしいというより新鮮味を覚える。もうオレは大阪弁を喋れないだろう。
     白衣の男が手を振り振り戻ってきた。「9時までやったらええってー!」
     パッと顔を輝かせた藤咲さんがリードを咥える。吹き鳴らしたのは、メンデルスゾーン『夏の夜の夢』の一曲、その冒頭部だ。
     感謝の気持ちを伝えたかったんだろうけど、なんで結婚行進曲なんだよ。
     
     
     
     しばらく練習してから部屋に戻った。
     夕食は最後に立ち寄ったサービスエリアで済ませてある。少しの休憩後、午後7時からの天体観測会に合わせて第一天文台に向かった。
     天文台は外から見ると、ケーキ箱の上に載った巨大な白いドームケーキ状の形をしている。1階のケーキ箱部分のロビーに入ったら、先客がいた。50代半ばの口ひげを蓄えた物静かな風貌の男性が一人、惑星の模型を眺めている。一瞬ここの研究員なのかと思ったが、それにしては赤いチェックの半袖シャツにジーンズとラフな服装だ。藤咲さんが軽く会釈をすると、男も無言で会釈を返した。
     それから少しの間、男三人が無言で展示室をグルグル回るというなんとも気詰まりな状態が続いた。しばらくして眼鏡に白髪、白衣姿のいかにも研究員らしい研究員がファイル片手にやってきた。
    「では、上に行きましょう」
     そう言うと、点呼や挨拶もなしに奥の階段へと歩き出す。
     最後尾について階段を上がる途中で、藤咲さんがオレに耳打ちしてきた。
    「あの人も参加者だよな?」
    「多分」
    「宿泊してないってことはこの辺の人かな。渋いなあ、一人でフラッと星見にくるとか」
     この人の言うように、恐らく地元の天体マニアなんだろう。もっと参加者が多くて、家族連れや学生の団体たちから奇異の目で見られるよりはマシだが、男三人だけというのもなんだか居心地が悪い。
     ため息をついて、階段を登りきった先にある薄暗い部屋の中に入った。
    「うわー、すげえ!」
     先に入っていた藤咲さんが声を上げている。
     オレはといえば、中央に設置された天体望遠鏡を前にして、声もなく立ち尽くしていた。
     
     ――なんだ、これ。
     でけえ。まんまSFじゃねえか。
     あれだ、SFアニメの宇宙兵器。ビーム出そう。
     
     圧倒されて、小学生みたいな感想しか出てこない。
    「予想以上にでかいな。びっくりした」
     開いた口も塞がらないまま、ただ茫然と見上げていたら、藤咲さんが声をかけてきた。
    「……オレも。現実感ないですよ」
     表情を正し、改めて辺りを観察する。
     外観から想像していた通り、部屋の形はドーム型だ。思ったより天井が高い。中央にそびえ立つ白い無機質な機械は、設置物というより最早建造物で、一戸建てぐらいのサイズがあった。その頭頂部は、天井に開いた切れこみの穴から外に突き出している。
     こんなに大きな望遠鏡なら、星も大きく見えるだろう。一応メガネを持ってきたが、出番はなさそうだ。
    「まだちょっと空が明るいですけど……」
     オレの背後でドアを閉めていた研究員はこう言うと、いつの間にか持っていたマイクに向かって声を発した。
    「金星、お願いします」
    「了解。望遠鏡、動かします」
     どこからともなくスピーカー越しの声だけが戻ってくる。その男の声が随分若い――多分20歳そこそこだ――ことに少し驚くと同時に、部屋全体が振動した。中央の望遠鏡が大きな軋みを響かせながら回り始め、何メートルもある鏡製の瞳の焦点を宇宙の彼方へと合わせていく。
     動いているのは天井と望遠鏡なのに、自分が立っている床のほうが回っている錯覚に陥った。つい俯いて足場を確かめていると、藤咲さんに「どうした?」と声をかけられた。
    「いや、床が動いてる気がして」
     ボソボソと応えたら、研究員が相槌を打つ。
    「たまにそういう方いらっしゃいますよ。あと、酔っちゃう人とか」
     そこで部屋全体に響いていた軋みが止まった。
     研究員が船の操舵輪のようなレンズを覗きこんでから振り返る。
    「手始めに宵の明星、金星です。どうぞ」
     藤咲さんがもう一人の参加者に顔を向けた。相手に『お先にどうぞ』とジェスチャーされ、ペコリと頭を下げると、「じゃあお前見てみろよ」とオレの背中を押してくる。年少順みたいな流れになって少し不服だったが、本当のことを言えない以上、言い返したところで子供の駄々になるだけだ。無言で操舵輪もどきを掴み、中央のレンズを覗きこんだ。
    「あ、欠けてる」
     予想外の形に思わず声を漏らしていた。
     後ろで藤咲さんの、「欠けてるって星が?」と興味津々な声。
    「まあ……自分の目で確かめてみてください……」
     気もそぞろに返事しながら、弓張り月のようなビカビカと輝く星を眺めた。
     そのあと藤咲さんに代わったら、「すげー! 金星って満ち欠けすんのか、知らなかった!」と騒がしい声を上げていた。確かにオレも知らなかった。何十年も見てきた星なのに。
     最後にレンズを覗いた男は、スッと見てスッと離れた。何も言わないから、感動しているのか退屈しているのか判らない。まあ天体マニアなら見飽きてるものなんだろうけど。
     参加者全員が金星を見終わると、研究員が「ちょっとこっち来てください」と、来たときとは違うドアから出ていった。小さくて簡素な、非常用みたいなドアだ。部屋の薄暗さと先ほどの金星の明るさとで目が眩んでいて、ドアの先は何も見えない。ただなんとなく明るいのが判るだけだった。
     半袖シャツの男と藤咲さんが研究員のあとに続く。オレは少し遅れて最後にそのドアをくぐった。金星の驚きを引きずったまま、なんの警戒もせずに。
    「……――ッ!?」
     上下左右、すべてが薄青いだけの空間に投げ出されていた。落ちる、と思った。身体が強張って悲鳴も出ない。
     衝撃が治まって反射的に後ろを振り返ると、出てきたばかりのドアがあった。当然、壁も床もある。隣から研究員と藤咲さんの、「さっきの金星はあれです」「こうやって見ると普通の星ですねー」という呑気なやりとりが聞こえてきた。
     ホッと肩を下ろして、改めて周囲を見渡してみる。そこは屋根のない広いベランダのような場所だった。床と転落防止用の囲いは白いコンクリートで、日没寸前の薄闇に染まり青灰色をしている。正面の囲いの向こうに見えるのも青灰色の空だけだから、咄嗟に見分けがつかなかったのだろう。
     オレが納得したあとも、藤咲さんと研究員のやりとりは続いている。
    「でも金星ってこんなに明るかったかなあ? この時間じゃまだ見えなかった気が」
    「随分都会からいらしたんですね。楽器をされてると聞きましたし、東京の音大生さんですか」
     言葉の発音で判るのだろう。この研究員は敬語を話しているが、それでもイントネーションが関西弁だ。「学生に見えますか、俺」と笑う藤咲さんに、「院生……オーバードクターの方なのかと」と軽口を返している。
    「楽器は趣味です。こいつ俺の親戚で、進路悩んでて。星が好きだって言うから、じゃあ一回見にいってみるかって」
    「それはそれは。では星の魅力をたっぷりお話ししないと」
    「俺が言うのもなんですけど、こいつ優秀なんですよ。同業者になったら、手強いライバルになっちゃうかも」
    「望むところですよ。ぜひ天文学を盛り上げてほしいですね」
    「ちょっと。オレ理系は苦手なんですって」
     軽口の応酬がエスカレートしていく二人を慌てて止めた。研究員は楽しそうに笑ってから、「そちらの方はどちらから?」と中年男性に話を振る。
    「大阪です。仕事で近くまで来たので久しぶりに。昔、娘とよく来てたんです」
    「あ、もしかしてお仕事ってそこの?」
    「そうです。よくお判りになりましたね」
    「この辺、他になんにもないですからね」藤咲さんのほうを見て、「この方、プロの演奏家さんなんですって」
    「へえ! すごいですね!」
    「楽器は何を?」
    「コントラバスです」
    「じゃあバイオリンの椎名さん、ご存知です?」
    「ええ、今日もご一緒しました」
    「彼、私の旧友で……」
     話好きなのだろう、研究員の話は途切れる様子がない。
     ポッカリとしたエアポケットのような空間に、天文学者と音楽家、バーテンダーに男子高校生、倍以上も歳の離れた知らない男二人と、よく知っている藤咲さんと自分とが当たり前のように一緒にいる。誰も、藤咲さんも、オレの正体を知らない。今オレが何を考えてるかなんて知らない。まるでぼんやりとした夢を見ているようだ。無意味で、だけど無害な夢を。
    「あ。なあ、尚。見てみろよ」
     藤咲さんに肩を叩かれた。指差しているのはベランダの横側。ベランダが長方形で正面よりも距離がある分、囲いの向こうに空の端が覗いていた。靄がかかっているのか夕日は見えず、グレーの山々の上に薄桃色が乗っかり、更に薄青い空が重なっている。目を凝らしてみたが、輪郭は判然としなかった。蕩けるようなグラデーションだ。
    「……なんか甘そうだなあ」
     藤咲さんがのんびりと呑気なことを言っている。
     その声に、不意に研究員の朗らかな笑い声が被さった。
    「そうでしょう、また聞いてみてください。――では、空もいい感じになってきましたし、次の星を見てもらいましょう」
     セリフの前半を音楽家の男、後半をオレたち全員に言って、部屋へと入る。
     望遠鏡が動いたあと、またしても最初にレンズを覗いたら、そこには星がふたつ映りこんでいた。同じくらいの大きさ、同じような黄色の光で、今にもくっつきそうな近距離で真横に並んでいる。まるで太陽の双子だ。
    「うわ……!」
     思わず声を漏らすと、研究員の笑い声がした。
    「そういうの、ダブルスターっていうんですよ」
     順番に見終わり――藤咲さんはやっぱり見ながら騒いでいた――、同じ手順で研究員が別の星の案内をする。
    「次は一等星のフォーマルハウトの右側、肉眼でも見える星です」
     促されて、望遠鏡を覗きこんだ。
     一瞬、ただの青白い星なのかと思った。だがよく見ると端にもうひとつ、暗くて小さな星がほくろのように映りこんでいる。
     一応これもダブルスターらしい。しかし距離も先ほどのより随分と離れているし、サイズも明るさも全然違う。比較するために見せたんだろうけど、それなら先にこっちを見せるべきじゃないか?
     そう思いはしたものの、失望はしなかった。青い星が単体でも十分に綺麗だったからだ。
     それほど大きくはないが、レンズフレアの七色の尾を四方八方に散りばめて、目に痛いほど青白く輝いている。その斜め下で縋りつくように鈍く光る星は、豆電球みたいな小さいオレンジ色。他に星はない。単体で凛と輝き、他を寄せつけない潔い冷淡さが、余計に青い星の魅力を高めていた。
     本当に綺麗だ。しかもこの奇跡のような光は録画映像なんかじゃない。実物の星から今まさに地球まで届いてきた光。そう思うと、ジワジワと打ち震えるほどの感動が胸にこみ上げてくる。できるならこの光景を箱詰めにして、いつでも覗けるようにしたい……。
    「おーい、尚。まだか?」
     見惚れていると、藤咲さんに注意された。
     謝罪を口にしながら場所を替わる。網膜に焼きついた青い光を未練がましく眺めていると、研究員が近寄ってきた。
    「随分熱心に見てましたね」
    「ええ。すごく綺麗だったから」
    「オレンジ色の星のほうは見ましたか?」
    「ああ、あっちは別に……」
    「今のは連星なんですよ」
    「レンセー?」
    「連なる星と書いて連星。最初のダブルスターは『見かけの重星』ともいって、単に重なっているから近く見えているだけで、実際は何万光年も離れてるんです。でもこっちの連星は本当にあの距離で引力で繋がっていて、一緒に宇宙を回ってるんですよ。通常は明るいほうが主星で、暗いほうが伴う星、伴星と呼ばれています」
     専門家からすると全然違うものなのかもしれないが、オレにはよく判らない。やっぱり見た目のインパクトに注目してしまう。
    「へぇ……」
     あまり興味もなく、適当に相槌を打って藤咲さんを見た。なんと、まだレンズを覗いている。
    「藤咲さん。ちょっと、藤咲さん」
     何度か呼びかけてから、腰のベルト部分を軽く叩く。ビクッとして、ようやく藤咲さんが振り返った。
    「あ……何?」
    「あんまり時間かけちゃ迷惑ですよ」
    「あ、すいません。どうぞ」
     藤咲さんが急いで音楽家に場所を譲る。
     彼が見ている間、藤咲さんと「アンタのほうが時間かけすぎ」「いやー、すげえ綺麗だったからさ」「それは判りますけど」と短く言葉を交わした。男性もすぐに切り上げて、レンズから離れる。
    「さて……そろそろ目玉のひとつにいきましょう」
     研究員が勿体ぶったように腰に手を当てる。
     マイクに向かって発せられた言葉は、「木星、お願ーい」
     スピーカーから「了解でーす」とくだけた返事が戻ってくる。普段から研究の助手でもやっているのかもしれない。
    「まさに『目玉がひとつ』、ですね!」
     藤咲さんが嬉しそうに研究員に話しかけている。
    「お? 上手い上に詳しいですね」
    「俺でもそれくらいは知ってますよ」
    「今日は風がないから、目玉どころかマーブル模様の具合までくっきりご覧になれますよ」
    「マジっすか! 楽しみだなあ」
     望遠鏡が動く大袈裟な騒音と能天気な会話を聞きながら、やっぱり夢みたいだ、と思った。
     無機質な部屋。精巧で馬鹿でかい機械。知らない人。よく知っている横顔。すべてが薄闇に沈んでいる。
     天井を見上げると、ハッチの穴は丸いケーキをカットしたみたいだった。暗くなり始めた空にまたたく名前も知らない星の側を、チカチカと飛行機のライトが追い越していく。あの宇宙は、一体どれほど離れているんだろう。
     
     ――ああ、今ここで……。
     
     ふとこみ上げたいつもの発作に、不意に目頭が熱くなった。
     
     
     
     
     
     観測会が終わると、急いで敷地内の丘に貸出の簡易デッキチェアと楽器を運び出した。
     見えないだろうと踏んで譜面は持ってこなかったけど、予想以上の真っ暗闇だ。敷地内は星の観測のために外灯が設置されていない。建物の窓も分厚い遮光カーテンを二重にかけて光が漏れないようにしてあった。アウトドア好きの常連さんから借りたキャンプ用ランタンを持ってきたのに、照らされているのは精々テーブル代わりの小さな折り畳みチェアの上くらいだ。
     様々な照明の光に塗れた街中では判らないけれど、本来の夜の闇は液体に近い性質を持っている。その暗い水の中で、オレたちは海面に向かって楽器を吹いた。
     ムーンライト・セレナーデ。フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン。藤咲さんがよく口遊んでいる、イッツ・オンリー・ア・ペーパー・ムーン。
     音色は真っ直ぐに宇宙へと吸いこまれていく。自分の出した音が聞こえないほどだ。当然演奏はめちゃくちゃで、残っている職員が止めに入ってきても文句は言えなかった。しかも今夜は新月。星がテーマのレパートリーがこれくらいしかないのだから、許してほしい。
     21時前に演奏をやめ、メガネをかけながらデッキチェアに寝転がった。
    「結構寒いな。上着持ってくればよかった」
    「貸しましょうか?」
    「いい。お前が風邪引いちゃうだろ。ミルクティ飲む」
     コポコポと液体を注ぐ音がする。ぼんやり空を眺めていたら、「ほらよ」とランタンの光越しに水筒のコップが差し出された。
    「アンタが飲むんじゃなかったんですか」
    「あとで飲む。お前、俺が口つけたの飲まねえじゃねえか」
     ……バレてたのか。
     あとじゃなければいいってことでもないんだけどと思いながら、湯気の立つコップに渋々口をつけた。分厚くて溝のある水筒コップならではの縁の感触がやけに気になる。ミルクティも市販のペットボトルのものを温めて詰め替えただけなのに、初めて飲むみたいな味がした。このあとを予想しているからだろうか。そうチラッと考えて、思わず顔をしかめる。
    「もう要りません。甘い、これ」
     なんとか全部飲み干し、折り畳みチェアの上に置いた。
     すぐに藤咲さんの手が伸びてきてコップを掴む。コポコポという音。夜の水で窒息してしまいそうだ。
     勢いよくデッキチェアに寝転び、大きく深呼吸して酸素をとりこむ。勘違いしたらしい藤咲さんが、「空気美味いよな」と言ってきた。液体を小さく啜る、音。
    「アンタからしたら清浄すぎるんじゃないですか、ここの空気は」
     嫌味が口をついた。苦笑いが聞こえる。
    「全面禁煙だからなあ、確かにキツい。コーヒーにしなくて正解だったわ」
    「……だからあの人もここ泊まらなかったのかな」
     ふと思い出して呟いた。隣のチェアで藤咲さんが座り直す気配がし、「あの人?」と聞き返される。
    「観測会にいた男の人。大阪から来たって言ってたでしょ。ここ以外の宿泊施設って、一番近いとこでも車で1時間くらいかかるのに」
    「きっとこの辺に他にもいっぱい思い出の場所があるんだよ」
    「思い出って娘さんの?」
    「うん。多分、男手ひとつで育ててきた大事な一人娘が、最近お嫁にいったんじゃねえかな」
    「そんな話してましたっけ?」
    「いや。でも左手の薬指に指輪嵌めてるのにシャツの襟がヨレヨレだったし、家のこと娘さんがやってたんじゃないかなあって」
    「探偵ですか、アンタは。いや、バーテンダーの職業病ですね」
    「だってあんなミステリアスな雰囲気の人、気になって当然だろ。望遠鏡のレンズの下にあった踏み台、すっげえ優しい目でずっと見つめてたりすんだぜ」
    「まあ変わった人だなとは思いましたけど」
    「それ、俺らには言われたくないだろうな」
     笑い混じりの声に、不本意ながら「……まあね」と返す。
    「手っ取り早く親戚ってことにしたけど、お前敬語使うくせに『アンタ』とか言うからなあ。カップルだと思われたかも」
    「……笑い事かよ」
     低く呟くと、すぐ近くで「嫌だった? やっぱお前、最近反抗期だな」と笑う声が聞こえた。身を乗り出してきたらしい。暗闇に慣れた視界の端で、ランタンの光に照らされた藤咲さんの頭が揺れている。
    「別に……そんなんじゃないです」
     デッキチェアの上で寝返りを打った。
     反抗期なんかじゃない。アンタがオレの悩みを笑い事にしたのがショックだっただけ。ショックを受けている自分がショックだっただけだ。
     奥歯を食い締めると、背後でデッキチェアの軋む音がした。
    「星があると空が近く見えるんだな。『手を伸ばしたら届きそうな満天の星』っていうの、おおげさな表現だと思ってたけど、マジでそう思っちまうもんなあ」
     オレの様子なんて全然気付いてない。それでいいんだ。この人はオレの『親』なんだから。
    「天文台で見た2個目のダブルスターってあの辺?」
     メガネ越しにチラリと窺うと、夜空に腕を伸ばす影絵が見えた。
    「そう。青いやつ」
    「肉眼でも見えるな。あの星さ、望遠鏡覗きこみながら、お前みたいだって思ったよ。凛としてて、キラキラ眩しいくらい輝いてて、可能性に満ちたこれからの星だ。ダブルスターなのに、もう1個の星が斜め下で大分離れてたのも。あの小っちゃいほうは俺だな」
     笑い声と共に突き伸ばしていた手の平が拳になって、星を握り潰すような仕草をする。
    「……あれ、正確にはダブルスターじゃなくて連星っていうらしいですよ。見かけだけ近いんじゃなくて、本当にあの距離で引力に引かれ合ってるそうです」
    「何? 後ろめたい? 親孝行か?」
     からかうような冗談っぽい声が聞こえた。そのあと少し真面目な、怒っているようにも聞こえる口調で、
    「言っとくけど、俺はお前を引きとったこと後悔なんかしてねえぞ」
    「……別に、オレは事実を言っただけです」
    「なら引力があるのは、でかさ的に青い星だけじゃねえ? あ、片っぽだけの力は重力だっけ?」
    「見たときは別になんとも思わなかったけど……」
     寝返りを打って、一人首を傾げている彼に身体ごと振り向いた。
    「確かにあの小さいほうの星、藤咲さんぽいですね」
    「上げて下げんなよ」
     藤咲さんがデッキチェアに突いていた頬杖からガクッと顔を落として、おどけてみせる。
     そんな彼を見ながら、オレは青白い星の下で穏やかに光っていたあのオレンジ色の星を思い返していた。つかず離れず、さり気なく。ずっと同じ明るさで寄り添っている。本当にこの人みたいだ。
     確か青い星は超高温で燃えているから、他の星より遥かに寿命が短いと何かで読んだことがある。一瞬で燃え上がって膨れて破裂するそのとき、きっと優しい光のあの星は巻きこまれて消滅してしまうだろう。
     ぼんやりそんなことを考えていたら、「しっかし」と妙に明るく藤咲さんが言った。
    「ほんとすげえ星の数だな。あの塵みたいな小っちゃいのも全部星で、しかも太陽よりずっとでかいのがあったりするんだろ? そう考えるとちょっと怖くなるよなあ」
    「オレは星が見えない東京の空のほうが怖かったですけどね、子供の頃」
    「なんで?」
    「一面のっぺり薄汚れた黒さで、見上げてると落ちてきそうに思いませんか? 押し潰されそうな気がして、思わずしゃがみこんだりしてました」
     藤咲さんがあははと笑う。
    「可愛いとこもあったんだな。俺の見てないとこじゃ」
    「悪かったですね、冷めたガキで」
     もちろん、実際は前世の子供時代の話だ。だけどそれも最早ぼんやりと遠い。
    「ここの空は暗いんだけど、星があるせいかなんか狭く感じます。プラネタリウムみたい」
    「それは思った。天井あるみたいに感じるよな。だから届きそうな気がすんのかも」
    「今日は栓も閉じてますし」
     デッキチェアの上で仰向けになって言う。
    「――セン? 何それ?」
     聞き返すタイミングで判った。この人は気付いていて、とぼけている。とぼける理由がないから、ただの会話の流れなんだろうけど。
    「新月のことですよ。子供の頃、授業参観の作文で言ってたでしょ。月が穴みたいだって」
    「ああ。あったなあ、そんなこと。でも宇宙って実際はベージュ色らしいぞ。人間の目には黒く見えるってだけで」
    「へえ。じゃあそれと同じ色なんだ」
     折り畳みチェアの上の魔法瓶を指差す。
     藤咲さんは、「そう聞くとなんか美味そうだな」と笑って、
    「しかも宇宙ってラズベリーの匂いがするんだってよ。なんちゃらエチルっていう化合物が宇宙空間に含まれてるとかで」
    「なんでそんなこと詳しいんですか」
    「ここ来るからネットで予習した」
    「相変わらず、中途半端に凝り性ですね。他には?」
    「その化合物が他のと反応起こして、ラム酒っぽい匂いのときも結構あるとか。あとなんだっけ……そうそう、丸々ダイヤモンドでできた星まであるらしい」
    「へえ……」
    「ミルクティ色でラズベリーの匂いがして、でけえ宝石まで浮いてるって、宇宙って案外メルヘンだよな」
     黙りこんだら静寂が訪れた。
     しばらくして、「……尚? 眠くなってきた?」とそっと声をかけられる。その声でキラキラと回転するダイヤモンドの星の幻想を振り払い、オレはゆっくり口を開く。
    「……いえ。アンタの声聞いてたら、なんかぼんやりして。別に眠くはないです。もっと宇宙の話してください」
    「そう?」
     微笑みを含んだ声がした。オレが薄ぼんやりとでも目を開いて、空を眺めていることを確認したのかもしれない。
    「えっと、あと仕入れたネタはなー。『人間がこれまでに観測した物質は、宇宙の4パーセントしかない』とかな。あとの96パーは未知の物質と正体不明の何からしい」
    「ダークマターとダークエネルギーですね……」
     ぼんやりした声で合いの手を入れる。
    「さすがにこれは知ってたか。宇宙って中二病っぽいの多いよな」
    「宇宙というより物理かな……」
    「そうなの? 俺、勉強はさっぱりだから」
    「量子力学なんか完全にSFファンタジーですよ……。ねえ、藤咲さん」
     デッキチェアの上で寝返りを打ち、机代わりの小さな折り畳みチェアに外したメガネを置く。
     彼に真正面から顔を向け、そのまま静かに囁いた。
    「『ホログラフィック原理』、って知ってます……?」
     暗闇に慣れた目は、ランタンの光だけで藤咲さんの顔をはっきりと映した。面倒くさそうな、嫌そうな表情をしている。
    「なんか難しそうな言葉だな。俺が強いのは、接客でウケるような雑学だけだって」
    「宇宙は一枚のホログラムに過ぎないのかもしれないという説ですよ。今日は出てないけど、まさに『ハリボテの月ペーパームーン』だ。地鏡にも似てますね。ロケットで追いかけたら逃げてくのかも。今オレたちが見てるものは、全部まやかしかもしれないんです」
     静かな声で説明した。藤咲さんが呆れたようにため息をつく。
    「お前はまたそういう……じゃあ何か? お前も俺も本当には存在してねえって?」
     それは発想が飛躍しすぎだろう。ああ、でもこの星空がただのスクリーンなら、この地球もまた単なるスクリーンなのかもしれない。そこに映っているオレも、この人も。
    「――オレ」
     勝手に口から言葉が零れた。
    「自分が見てるものが、嘘みたいに感じるときがあります。そういうとき、ふっと消えて無くなりたくなるんです。辛くも苦しくもないのに、なんの脈絡もなしに。例えば、今とか」
     藤咲さんが閉口するのが判った。呆れてるな。そりゃそうだ。オレだって呆れてる。40年も生きてきて、今更思春期みたいなこと言って。
    「変ですよね。今オレ楽しいのに。自分の好きなことやってるのに」
    「だから、じゃねえかな?」
    「え?」
    「順風満帆なときって不安になったりするもんだ。特にお前みたいな境遇だったやつはな。大丈夫、慣れりゃ怖くなくなるよ。お前は幸せになるための資質がある」
     前世でも、こういう気分になることはよくあった。母親に叱られているとき、自我すら揺らいでしまうほどに存在を否定されているとき、辛くて辛くて逃げ出したいとき。それは自己防衛のためのかい離症状だったのだろう。
     癖になってるんだ。不幸に慣れている分、幸せなほうが嘘だと感じてしまう。もう不幸になりたくなくて、幸せな瞬間に消えたくなる。無意識の逃避願望だったんだ。
    「……そうですね。さっきの青い星、綺麗だと思ったのは憧れがあったからだ。オレもあんな風になりたいって」
     素直な気持ちが口から零れた。藤咲さんが静かに微笑む。
    「俺はさ、宇宙はビッグバン――えーと、広がっては途中で縮むを繰り返してるんだと思ってるんだけど」
    「サイクリック宇宙論ですね。計算上は今の宇宙は50回目だって説もありますよ。今は広がってる途中ではあるけど、加速期ではなくて減速しながら広がっているそうなので、その内縮み始めるかもしれません」
    「そうなんだ……。てかお前、ほんと詳しいな」
     藤咲さんは少し感心したように呟いてから、笑みを深くして、
    「俺は宇宙がそのサイクリック論ってやつだと思ってるんだ。だから、星も人も近づいたり離れたりを繰り返してるってことで……そう考えるとさ、お前と今一緒にいること、心底奇跡だなって思うんだよ、いつも。俺にとっては、尚、お前はいつでもあの青い星だよ」
     目を大きく見開いた。彼の優しい微笑みが今にも消えてしまいそうで、――結局顔を背けてしまった。
    「さすがバーテンダー……。アンタのその口車に騙された客、たくさんいるんでしょうね」
     ――沙織さんとか。胸の内で付け足して、きりりと締めつけられる。
     わずかに顔をしかめると、視界の端で藤咲さんが頭に手をやったのが見えた。
    「口が達者なのは認めるけど、こんなこと誰彼構わず言ったりするかよ」
     ぶっきら棒な声に顔を上げる。
    「もし俺が誰にでもこんなこと言えるなら、そもそもお前と出会ってないし、今もお前とここにいたりしない」
     頭に手をやるのは、この人の困ったときの癖だ。だけど今は困っているというより、怒っているように見える。どうして信じてくれないんだと、子供のように不機嫌になっているように見える。
     少しなら――。
    「……オレも」
     掠れた声が聞こえなかったらしい。藤咲さんが「え?」と聞き返す。
    「出会ったのはただの偶然だし、人間には引力も重力もないけど、オレたちの関係が今日この日まで続いてきたのは、偶然でも必然でもない。オレがあの星みたいになりたいと思うのだって、オレンジ色のほうにアンタを見たからでしょ。オレも感じてますよ、アンタに運命ってやつを」
     藤咲さん以上にぶっきら棒な口調になった。ほとんどケンカ腰だ。心臓が胸の内で暴れている。
     許されるかと思ったんだ。こんな現実味のないロケーションだし、アンタもやけにロマンチックなこと言うし。ああ、だけどやっぱり迂闊だったかもしれない。この人はただ、家族が欲しいだけだ。自分を可愛がってるだけだ。
    「……そういうことですよね?」
     強張った顔を歪ませて、無理やり微笑んだ。
     ポカンとしていた藤咲さんの左目から、静かに水が流れ出す。「藤咲さん……」びっくりして、呼びかけた。
    「何?」
    「どうして泣くんですか……?」
    「は? 泣いてる? 俺が?」
     普段通りの声色で目を丸くして、藤咲さんが自分の目元を擦った。
    「うわ、ほんとだ。泣いてる」
     涙を拭っている様子もちっとも悲しそうではなく、本当に勝手に出ているらしい。かといって、嬉し涙にも見えない。
    「なんだこれ。涙腺壊れた」
     次から次へと流れてくる涙を拭っている藤咲さんは、笑ってはいるものの声も手も震えていた。いつも飄々と動じない彼がやけに小さくか弱く見えて、気付けばその手首を掴んでいた。
    「隠さないでください」
    「ちょ、見んなよ、離せ」
     珍しい。うろたえてる。この人自身、涙のわけが判ってないんだろう。
     手首を握る手に力を篭めた。藤咲さんがオレの肩に額を乗せる。
    「あーもー、いい歳してみっともねえ。止まんねえから肩貸せ」
     反射的に身を引こうとするオレの背中に手を回し、そっと引き寄せられる。硬直していたら、耳元でポツリと声がした。
    「言わせるかよ、まやかしだなんて」
     いつもの彼の声色だった。ただ、声がまだ少し震えている。
    「……そうですね」
     肩口が濡れていくのを感じながら、そっと目を閉じた。
     かすかに煙草の匂いがする。同じ洗剤を使っているのに、オレの衣服とは違う匂い。生活にまで馴染んだ、この人の匂い。
     薄く目を開くと、二人の身体の間にランタンの光が見えた。穴だ。穴が下にある。
     ふと、奇妙な浮遊感に囚われた。無重力に浮いている。もしかしたら、月に向かって落下しているのかもしれない。天地が引っ繰り返って、この人と二人きり、真っ暗な空に放り出されて。
     ほどけた身体が粒子になって無限に広がっていくのを感じる。こんな感覚初めてだ。これが人を好きになるということ。
     もう誤魔化せない。もう、誤魔化さない。オレはこの人が好きだ。この人だけが好きだ。
     宇宙や逃げ水が幻でも、アンタの腕の中だけは確かにホログラムなんかじゃない。
     
     
     
     
     
     
     
     ついにオレも大学生になった。東京の国立大学、専攻は天文学だ。
     天文学部に入ったのは宇宙への興味もあるが、去年の天文台での決意を心に刻むためでもあった。天文台でのあの夜から、ずっと藤咲さんが泣いた理由を考えている。あの涙は過去からの解放の証なのかもしれない。オレと心が通い合ったことで、あの人はオレの中にいる子供の頃の自分と触れ合うことができたんだろう。
     オレはどうだっただろう。あのとき、あの人の中に前世の自分を見ただろうか。
    『自分はこの人のことが好きだ』とはっきり感じることができたのは、初めての感覚ではあった。前世の頃からずっと、誰かを好きだと言い切ることが一度もできずにいたから。自分の心をなんら偽ることなくそう断言できるようになったのは、確かに自分自身と和解したということなのかもしれない。
     オレはもう、あの人への想いから目を背けようと思わない。あのとき言った通り、彼はオレの運命の人だ。これから先、あの人以上に好きになれる人なんて絶対現れない。絶対だ。言い切れる。人生2周もしていれば、大抵のことは予測できるし、それ以上にはっきりと『判る』のだ。
     藤咲さんへの想いを認めたことで、オレは覚悟が固まった。けっしてこの気持ちを伝えない。当然、前世のことも隠し通す。そうしている限りは側にいられるのだ。やけ気味に決めた養子縁組だったけど、こうなってみると正解だった。あの人が沙織さんと結ばれても関係ない。オレがあの人を好きでい続けることはオレの自由だ。
     開き直ったオレは図太かった。胸の内で彼のことを慈しみ、愛おしむ感情も存分に味わったし、同時に汚す喜びも堪能した。彼を自身の慰めに使うとき、そこには相変わらず拭えない生理的嫌悪感もついてくる。家族である以上どうしようもない。そんな不毛ささえ、やるせなさすらも愛おしかった。オレがそう感じるのは、あの人を好きだからこそなのだから。
     だけどひとつ問題がある。自覚するとどんどん想いが募ってきて、隠しきれなくなりそうだった。大学生になって本格的にバーテンダーのバイトをするようになり、家でも店でも四六時中顔を合わせる。その環境も想いの蓄積を後押ししているのだろう。今のオレに必要なのは、きっと適切な距離だ。
     
     
     
     目標額まで到達したのは、7月の給料日のことだった。
     閉店後、いつものようにビールサーバーの洗浄時にロスで出るビールをグラスに注ぎ、藤咲さんに差し出しながら口を開いた。
    「オレ、一人暮らししようと思ってるんです」
    「え? 俺もそろそろ広いとこに引っ越そうと思ってたんだけど?」
     止まり木に腰かけて、グラスに口をつけた藤咲さんが瞠目する。
    「いえ、窮屈だからとかじゃなくて……少しずつでも自立したいっていうか。養ってもらってる分際で生意気なんですけど、アパートの家賃はオレが出すし、アンタが鬱陶しくなったとかじゃないんで、」
    「知ってる。だってお前、俺が好きなんだろ」
    「えっ!?」
     当たり前みたいに被せられてギョッとした。大声を出すオレを藤咲さんが笑い飛ばす。
    「隠せてると思ってたのか? バレバレだって。女は作んないし、俺を目で追ってるし」
    「…………」
    「判るよ、お前が思ってることは。だって俺ら同類じゃねえか。それでずっと一緒にいたんだ。好きにもなるって。なあ?」
     この言葉で藤咲さんの考えが判った。ひよこの刷りこみ、ファザコンやブラコンに近いものだと思われているんだろう。確かにオレ自身そうではないと断言はできない。変わった関係な分、受ける影響は大きかったし、意識する機会だってきっと多かった。藤咲さんはオレをそうしてしまったことに、責任感や罪悪感があるんだ。それなら。
    「今だけです……。外に目を向けるためにも、一人暮らししたいんです」
     心にもないことを言った。彼を安心させるために。
     なのに藤咲さんは淋しそうな顔をする。
    「別に俺は……ま、店で会えるしな。お前のしたいようにすればいいよ」
     グラスのビールを飲み干して、しばらく考える素振りを見せてから、
    「って言った矢先だけど。やる、これ」
     カウンターの上に置かれたのは、拳サイズの正方形の箱だった。中にはプラチナのリングが入っている。
     ポカンとするオレに藤咲さんは止まり木から立ち上がると、背を向けてベストを脱ぎ始めた。
    「お前最近客からモーションかけられまくってるだろ。予想はしてたけど、制服効果凄まじいな」
     オレの仕事着を選んだのは藤咲さんだ。プリーツ付きの白いウイングカラーシャツにボウタイ、黒のスラックスとソムリエエプロン、そして背中の大きく開いた黒いカマーベスト。初めて着たときには、この人にも「似合いすぎ! 王子様みてえ!」と笑われた。
    「ストーカー対策だ。しつこいのがいたら見せりゃいい」
     自身のネクタイに指をかけて緩めながら、チラリとオレに振り返る。ただ仕事着を脱いでいるだけなのに、誘われているような気分になった。スタッフルームは物置程度の狭さだから、フロアで着替えを済ませることはお互いいつものことなのに。
     熱くなった顔を俯けて隠す。
    「買ったんですか、これ。高そう……」
    「安物じゃ効果ねえからな。気にすんな、経費で落としてるから。お前なら、それくらいすぐとり返してくれるし」
    「……アンタつけてないけど」
    「俺は駄目。つけてると逆に言い寄られるんだ。手軽な相手に見えるんだろうな。お前なら大丈夫だから、仕事中ポケットに入れとけ」
    「判りました。つけときます」
     左手の薬指に嵌める。「いや、客がいるときだけでいいんだぞ?」と不思議がられた。
    「大学でも困ってたんで。ちょうどよかったです」
    「ああ、なるほどな」
     藤咲さんが笑った。嬉しそうに。
     言うこともやることもバラバラだ。判っているのに、それでもオレたちは矛盾せずにいられない。
     
     
     
     夏休みに入った頃に引っ越した。店から少し離れた学生向けのワンルームだ。あまり離れると、バイトで酒を飲むようになったら帰れなくなるし、維持したいのは慕情と性欲をコントロールできる距離であって、気持ちまで押し潰したいわけじゃない。
     オレが引っ越すとほぼ同時に、藤咲さんも店のすぐ側のシングル向けマンションに引っ越した。結局、ただ寝る場所が別々になっただけで、生活自体はほとんど変わらなかった。週に3回は彼の部屋に行き、怠惰な彼の代わりに家事もしてやっている。『家族だから』。この隠れ蓑によって、オレは易々とあの人の一番近い位置をキープしていられる。
     そうしている内に8月の末になった。最早毎年の恒例行事となったビーチバーの時期だ。
     バーテンダーになったことでカウンターに立つ義務もこなしつつ、のんびりと夏の雰囲気を満喫する。さっき、知らない女性客にセックス・オン・ザ・ビーチを注文された。オレの中で今間との思い出は、まだあのカクテルのような甘酸っぱいものにはなっていないらしい。
     藤咲さんは相変わらずデジカメを離さない。犬飼さんにカウンターを代わってもらってから、ビーチの端にある岩場の潮だまりに足を浸けて涼んでいると、パシャッとまたも一枚撮られた。
    「どうした? こんなとこで一人で」
     彼の左手にハイネケンの瓶があるのを見て、ため息をつく。
    「アンタみたいな酔っ払いの相手に疲れたんですよ。オレも早く飲めるようになりたい」
    「20歳になったらすごそうだよな、お前。犬飼さんが驚いてたぞ。味見できねえのに、オリジナルで作っても味が纏まってるって」
     そりゃ、スピリッツもリキュールも全部味覚えてますからね。心の中で応える。前世の出来事はもう曖昧でも、一度馴染んだ味は忘れないものだ。
    「あ、尚。足危ない」
     藤咲さんが潮だまりの中を指差した。見れば確かに、1センチにも満たない小さなクラゲが数匹漂っている。
    「ベニクラゲですね」
     足を海水から引き上げる。藤咲さんが、「すっかりクラゲ博士だな」と笑う。
    「アンタのおかげでね。このクラゲすごいんですよ。不老……じゃないけど、死なないんです」
    「は? どういうこと?」
    「歳をとって死にそうになると若返えるんですよ。だから食われたり病気になったりしない限り、不死なんです」
    「マジで? すげえ生き物もいるもんだなあ。宇宙みたいだ」
    「ポリプっていうイソギンチャクみたいな形の幼生形態まで若返るから、実質生き返るようなものですよね。この宇宙は50周目らしいけど、こいつはクラゲ生何周目でしょうね……」
     自分のことを重ね合わせて言いながら、両手で海水ごと掬い上げた。婉曲的な秘密の吐露に、藤咲さんは返事を寄越さない。チラリと顔を窺うと、穏やかに目を細めてオレの手の中を見つめていた。
    「……ねえ」
    「…………」
    「ねえ、藤咲さん」
    「……あ? なんだ?」
    「こいつの記憶ってどうなってると思いますか? ポリプに戻るとき、分裂して増えるんです」
    「何回も若返ってたら、曖昧なんじゃねえの。経験から学習した結果だけが残ってそう」
    「そうかもしれませんね。いちいち全部覚えてたらパンクしちまいそうだし」
     オレがそうだ。前世の記憶は夢のように曖昧になっている。女の自分に戻っている夢も最近はまったく見なくなった。
     藤咲さんがオレの手の中を指差す。
    「こいつ、持って帰ろうかな。店で飼えねえ?」
    「……まあ、飼育自体はミズクラゲと一緒に飼えますけど。上手く若返るか判りませんよ」
    「お前なら大丈夫だって。入れ物持ってくる」
     浜辺のバーカウンターのほうに駈けていく後ろ姿を見送る。カウンターの側にいた沙織さんが、藤咲さんに気付いて手を上げた。
     並んで喋り出した二人を見ながら、さっきの彼の眼差しを思い出す。愛おしそうな、少し淋しそうな、その表情。沙織さんのことを考えていたんだろうか。水族館で、二人はクラゲを見たのかもしれない。フワフワと漂う無数の月のような姿を見ながら、忘れられないドラマチックな会話を交わしたのかも。そして、もしかしたら、最後のキスも。オレにできるのは、こうして想像することだけだ。
     手の熱で弱らないように、一旦静かにクラゲを潮だまりの中へと戻す。このまま高波が来て、こいつらを海に連れ去ってくれないだろうか。オレが知らないあの人の思い出ごと。
     そう言えば、地震で割れた水槽から投げ出された1匹だけのあのクラゲは、結局どこに行ったんだろう。フローリングの隙間に挟まって砂粒ぐらい小さく干からびてしまったのか、本当にこの世界から消えてしまったのか。ホログラムのバグで? まさか。
     ジリジリと夏の日差しが肌を焼く。熱中症になりかけているかもしれない。かすかに眩暈がした。
     濡れたままの左手薬指の付け根に唇を寄せる。潮の味、温かな金属の感触。心臓が熱く痺れた。こんなときでも恋は甘い。眉間に皺を寄せ、劇薬の甘さにしばし浸った。
     
     
     
     酒の空き瓶にクラゲを入れ、帰りの貸し切りバスに乗りこんだ。これでもう、このクラゲたちは二度と海に戻れない。生涯の安全と引き換えに。
     どっちがいいのか、答えは永遠に出ないだろう。でももしも、しっかり状況を理解した上で選択権が与えられたとしたら、ほとんどの野生動物は自由より安全を選ぶんじゃないだろうか。なぜなら、彼らは安全の価値を判っているから。原始人が社会を築き人間となったように。
    「おい、尚坊!」
     肘置きに頬杖を突いて窓の外の景色を眺めていたら、津田さんにいきなり首を絞められた。
    「黙っててやろうと思ったけどな! お前さっき、海でその指輪にキスしてただろ! そんなに好きか! ラブラブなのか!?」
     すっかり出来上がっている。津田さんの腕から逃れたら、今度は藤咲さんが寄ってきた。
    「マジで? いい加減店に連れてこいよ。紹介してくれよー」
     ニヤニヤとオレを見る目付きが、『そんなに俺が好きか』と言っている。口をへの字にして言い返した。
    「嫌ですよ。アンタに会わせたりなんかしたら、横取りされかねない」
    「身内の女とるかよ。そもそも俺、お前が独り立ちするまでは、そういうの考えてねえって言ってんだろ」
    「じゃあ初めての紹介は結婚するときになりますね」
     結婚相手を紹介するのは、オレじゃなくアンタだから。オレがそんなことをする日なんて永遠に来ない。
    「そんなに信用ねえか、俺」
     オレの内心の痛みなんて知りもせず、藤咲さんは笑っている。
     そこに、「聞こえちゃったわよー!」と黄色い声を上げて、常連の女性陣が雪崩れこんできた。
    「尚くん、もう結婚考えてんだー!」
    「イケメンで誠実で、完璧な彼氏じゃーん! 彼女さん羨ましー!」
     騒ぐ声に紛れて、藤咲さんが小さく呟く。
    「まあ、結婚してるようなもんだしな」
     オレとの関係のことを言っているんだろう。確かに養子縁組は婚姻関係とほとんど変わりがない。苗字が一緒になり、家族の絆が生まれる。それどころか離婚することも多い夫婦関係とは違って、親子関係としての養子縁組は非常に強固だ。それこそ死が互いを分かつとも。
     騒いでいる女性陣の中に沙織さんの姿はない。バスの中を見回してみると、前方の席から覗いている栗色の後頭部は振り返りもしていなかった。
     
     
     
     
     
     
     
     年が明けた頃、藤咲さんが全国バーテンダー技能競技大会に出場することになった。
     この大会は日本バーテンダー協会が主催する日本で一番大きなカクテル・コンペだ。面倒くさがりの彼は毎年スルーしていたのだが、我が店『ブルー・ペーパー・ムーン』の現オーナー中山さんが協会の理事長を務めており、愛弟子である藤咲さんにも周囲の期待が着々と伸しかかってきていた。
     中山さんは「出ろ」なんて言わないけど、彼のほうにも火の粉は振りかかっているのだろう。不甲斐ない弟子の悪口を聞かされ続けた心労が祟ったのか、ある日倒れて入院してしまった。幸いすぐに回復したものの、彼ももう高齢だ。
     かくして藤咲さんは、周囲の圧力と師への恩返しのため、出場を決意したのだった。とはいえ、同情の念など湧きはしない。渋々出場したくせに、順調に全国大会まで勝ち進んでしまったのだから。
     ――そりゃ、練習は真面目にやってたけどさ……。
     舞台上で実技中の彼の姿を客席からメガネ越しに見守りつつ、そっとため息をつく。白いジャケットに蝶ネクタイの藤咲さんは、初出場とは思えない堂々とした佇まいだった。器用なのもあるけど、それ以上に本番に強いのだ。緊張なんて無縁なんじゃないだろうか。手を動かす合間に客席に笑顔を向け、ポーズを決めるなどというサービスまでかましてくれる。
     彼が今作っているオリジナルカクテルだって卑怯な手を使ったものだ。出場前、藤咲さんは候補のカクテルを二種類考案した。ひとつは大会協賛の酒造メーカーが売り出したいリキュールを片っ端から使用した、デコレーションも派手な審査員受けのいいロングカクテル。ただし、味と飲みやすさは二の次になっている。
     もうひとつはブランデー、赤ワイン、紅茶のリキュール、クランベリージュースを使ったショートカクテル。ブランデーは白葡萄ぶどうから作られており、赤ワインの原料も言わずもがな葡萄だ。材料が同一原料で統一されているため、非常に味の纏まりがいい。更にアクセントになっている紅茶はベリー系の果実と好相性なので、味はスタンダードカクテルに匹敵するほどの出来栄えだ。
     デコレーションも枝付きレーズンがグラスの縁に引っかかっているだけのシンプルなもので、飲みやすく時間が経っても劣化しにくい。審査に劣化具合は含まれていないが、元々カクテルは人に美味しく飲んでもらうためのドリンクだし、大会のプログラムに組みこまれている一般参加者の試飲まで少し時間がかかるから、こちらのほうが親切だと言えよう。しかもレーズンはただの飾りじゃなく、マティーニのオリーブのように、カクテルの味を更に深めるためのおつまみチャームにもなっている。
     しかし、とにかく地味なのだ。深いボルドー色のショートカクテルに枯れた小枝がちょこんと引っかかっているのは、シックな内装の薄暗い我が店では似合うが、豪華な会場の眩いライトの中、花やフルーツでこれでもかと飾りつけられた色鮮やかなカクテルたちと並ぶと、どうしても見劣りしてしまう。肌も露わに着飾った若い娘たちの中に、きっちり着込んだ老婦人が一人紛れこむようなものだ。周囲から浮くなら目立つこともできるが、品がいいのが仇となって、陰で支える婆やのように引き立て役になってしまうのが実際のところだろう。
     閉店後、店で練習中の藤咲さんに「どっちにするんですか?」と訊いたら、「どっちが正解だと思う?」と聞き返された。
    「優勝狙うならそっち、信念を貫くならこっちですよね。……オレならこっちを出します」
    「青いなあ」
     言われなくても判っている。だからオレは、前世でも賞レース関係に出なかったんだ。
    「正解は受けを狙う。俺が勝手にチャレンジするだけなら予選落ちでもいいけど、オーナーへの恩返しで出るからな。顔に泥塗るわけにゃいかねえし」
     そうして今あの人が作っているのは、派手なほう――ではなく、地味なほうのカクテルだ。デコレーションも試作のときと同じだったが、大会で発行される冊子には創作理由を書く欄がある。そこにはシレッとこう書いてあった。
    『養子の息子が子供だった頃、当時バーテンダー見習いだった私を労って、たどたどしく淹れてくれた紅茶を元に作りました。家になかったレモンの代わりに葡萄ジュースが入っていたその紅茶は、私の涙の味がしました。今日この場に立てたのは、今では同じ店で私を支えてくれている彼のおかげです』
     優勝のためなら身内でさえ売り物にする。プロとしては正しい姿なのかもしれない。
     舞台上の藤咲さんが一礼し、拍手が起きる。優勝はあの人だ。そう確信したのは、きっとオレだけじゃないだろう。
     
     
     
    「改めておめでとう、藤咲くん! これ、僕たちからの祝勝祝い!」
    「ありがとうございます。……って、え、これ、バカラじゃないですか!」
     大会終了後のバー・ブルペパだ。もう夜も遅いが明日は祝日で、常連さんたちも勢揃いのまま、雪崩れこむように酒盛りが始まっている。
    「私からもおめでとう。これ、プレゼント」
     カクテルグラスセットの箱を覗いて目を丸くしている藤咲さんに、沙織さんが包みを渡す。中から出てきたのは白いシャツだ。ボタン穴に細い紺色のパイピングが施されている。
    「オーダーメイドのシャツが欲しいって言ってたでしょ。私の弟がスーツショップで働いてるの。着心地よかったら、贔屓にしてやってね」
    「ちょ、みんなして、俺ビリの可能性もあったんですよ」
    「優勝するに決まってるもん」
    「そうそう。藤咲くんはやればできるのよ。ただやらないだけで」
     相槌を打った沙織さんがカウンターに頬杖を突いて、上目遣いに彼を見る。
    「競技見ながら感動しちゃった。あのカクテルに尚くんとの思い出が詰まってるんだなあって」
    「嘘ですよ、捏造」
     グラスを拭きながら横から口を挟んだ。
    「藤咲さんお得意の口から出任せ。男だけの家に紅茶の葉があるわけないでしょ」
     藤咲さんがシャツを手に笑う。
    「人聞き悪いな。演出だよ、演出。みんなやってるって。ねえ、オーナー?」
    「まあね。あそこまでいかにもな話を書く人は滅多にいないけど。だから逆に真実味があったよね」
    「藤咲くんらしいわ。私の感動とシャツ返してよ」
    「いやいや、完全捏造ってわけじゃないんですよ? 実際に尚に作ってもらったのは、インスタントラーメンだったんです」
    「ラーメンをカクテルにはさすがにできないな」
     津田さんが笑って、ジャックコークを飲み干す。
    「よし! そのシャツとそのグラスで、みんなに日本一のカクテルを作ってやってくれよ、マスター」
     
     
     
     結局オレもみんなが帰る4時頃まで店に残っていた。酔っ払って前後不覚になった藤咲さんを担ぎ、マンションの8階にある彼の部屋に送り届けるまでが本日の仕事だ。
     ぐったりした彼の身体を、なんとかベッドの上に投げ出す。結構な衝撃だったろうに、藤咲さんは枕を抱え本格的に眠りに入ろうとしている。
    「ちょっと。沙織さんからもらったシャツ、早速皺くちゃにするつもりですか」
    「んー……脱がしてぇ」
     甘えているようにも聞こえる不明瞭な声に全身が凍りついた。この人は沙織さんが下心をこめてこのシャツを贈ったことを判っている。その上で、オレにこんなことを言ってのけるんだ。……なんて残酷なことするんだろう。
     中腰のままで身動きとれずにいると、藤咲さんが薄く目を開いた。そうしてオレの顔を見るなりしっかりした顔付きになり、身を起こして「わりぃ、水持ってきてくれるか?」と自分でシャツのボタンを外し出す。
     心臓が強く軋んだ。バレたのだ、この人に不埒な感情があると。
    「っすいません、帰ります、オレ」
     その場から逃げ出した。言い訳すらする余裕なく。
     
     それでもバイトは休めない。藤咲さんの優勝を祝いに詰めかけたお客さんたちで賑わう店の中、半日ぶりに顔を合わせた藤咲さんは平然としていた。あまりにも普段通りなので、一瞬酔って記憶をなくしたのかと思ったが、それならギクシャクしているオレを訝しむはずだ。
     つまりこれがこの人の返事なのだろう。こうして何も言わずになかったことにしてくれるのは、オレとしても一番ありがたい。元々関係を壊すつもりはないし、オレの想いを判ってほしいとも思わない。白黒つけないのが一番いい。これでいい。これでいいんだ。
     何度も自分に言い聞かせる。だからこそ、内心で傷ついている自分がいることに気が付かずにはいられなかった。
     藤咲さんはオレのことでは動揺しない。いや、実際は戸惑ったり悩んだりしているのかもしれない。オレの前世の母親みたいに。ただ、それをオレに見せないだけなのだ。当事者のオレには見せず、友人だったり、沙織さんだったりに見せているだけなのだ。
     その事実こそが、悩む価値がないと思われることよりもはるかに強く、何度だって徹底的にオレを打ちのめす。
     
     
     
     
     藤咲さんが日本一のバーテンダーになってひと月が過ぎた頃、オレはようやく20歳の誕生日を迎えた。スタッフの誕生日は店の書き入れ時でもあるから、藤咲さんは常連さんも巻きこんで盛大に祝ってくれた。
     次々差し出される奢りのグラスを片っ端から飲み干した。仕事中だからとか、明日に響くなんてことはどうでもよかった。ただ騒ぎたい。酔ってこの胸の重りを忘れたい。
     ぶっ倒れるまで飲みたかったが、仕事だと思うと酔いきれないのはもう性分らしい。週の始まりでもあったため、日付が替わる頃には「明日も仕事だから」と常連さんたちが帰っていってしまった。
     店の前に出していた立て看板を取り入れて、エプロンとベストをカウンターの上に放り出す。窮屈なタイを毟り取り、襟元のボタンを外しながら止まり木に腰かけると、一気に仕事モードがオフに切り替わったのが判った。
     力の入らなくなった身体でカウンターへと突っ伏せば、2席離れた隣では喉を仰け反らせた藤咲さんが、椅子からずり落ちそうになっている。セットした髪が乱れて――……ああ、もうこのまま、電源が落ちるみたいに眠ってしまえたらいいのに。
    「閉店作業……サーバーの洗浄……しねえと……」
     変な考えを振り払うために日常動作に縋ろうとした。
     藤咲さんが仰け反ったまま、「いーよ、もー。明日でぇー」と間延びした声を出す。
    「そういうわけにも……あれは糠床と一緒で……」
    「糠ぁ? お前時々、年寄りみたいなこと言うなあ」
     乾いた笑いを漏らしてから、「まーまー、座っとけ」と自分は椅子から降りる。
    「ちょっと、どこ行くんですか。危ないですよ」
     オレの制止も聞かず藤咲さんはフラフラとスタッフルームに入ると、長方形の箱を抱えて戻ってきた。
    「たんじょーびおめでとー」
    「プレゼントなら、もうもらいましたけど」
     言いながら反射的に腰の辺りを探ったが、ポケットにあるはずのソムリエナイフの感触がない。ああ、そうか。ベストはカウンターの上だった。
    「あれは店から。これは俺から。開けてみ」
     促されて包装紙を破く。中には機械仕掛けの地球儀のようなものが入っていた。家庭用のプラネタリウム装置だ。
     藤咲さんが勝手に抱えて、店の入口付近、比較的広々としたピアノの上に置く。
    「つけてみようぜー。電気消してくれ」
     重い身体で椅子から立ち上がり、照明を消した。暗闇の中でカチッとスイッチの入る音がして、壁や天井に無数の光の粒が映し出される。ひとつだけの大きな光はかりそめの穴だ。
    「結構はっきり映るもんですね。裸眼でもちゃんと見える。まあここは窓もないから、家だとさすがに、」
     喋っている途中で大きな物音がした。同時に藤咲さんのシルエットが視界から消える。
    「だから言ったのに。大丈夫ですか」
     薄暗がりの中歩み寄ると、ピアノの側でへたりこんだ藤咲さんが斜め上に手を突き伸ばしていた。
    「立ち上がれないんですか? どっか怪我でも――」
     藤咲さんは何もない壁を凝視している。
    「――あそこ。青い……俺の星」
     意味に気付いた途端、勝手に身体が動いていた。
     彼の手を掴んで強く引っ張り寄せる。体勢を崩した藤咲さんがオレに半分凭れかかってきた。目が合うなり、彼は一瞬泣き出しそうに顔を歪ませると、いきなりオレの頭を鷲掴みにしてくる。痛いと思う間もなく、唇に熱いものが触れた。
     目の前が真っ白になった。すぐにマーブル模様の渦が広がる。何も見えない。何も感じない。唇に触れる感触以外は。
     舌を捻じこめば、ぬるりとした内部の感触だけで背筋が震え上がる。恐怖すら感じるほどの興奮だった。もうオレはまともに戻れないかもしれない。
     はっきりと甘い舌を無我夢中で貪る。耳の下のリンパ線が痛いぐらいで、その痛みが煩わしい。彼の口の端から垂れた唾液を舌で追うと、小さな音がした。
    「……したい?」
     音、いや掠れた声か。『シタイ』ってなんだ。意味が判らない。
     馬鹿みたいに放心していると、温い手の平がオレの首筋を撫でた。ぞわりと皮膚に粟粒が流れる。
    「なんでもしてやるよ。お前が望むなら」
     いきなり目のピントが合った。藤咲さんはオレを覗きこんで薄い笑みを浮かべている。――なんだ、この顔。絶対正気じゃ……沙織さんと何かあったんだ。自棄になって、酔った勢いでオレを――
     藤咲さんが目を見張った。
    「すまん、酔ってた。忘れてくれ」
     立ち上がり、仕事着のまま店を出ていく。
     取り残されたオレは、一人茫然と座りこんでいた。彼は戻ってこなかった。
     
     
     
     
     藤咲さんは本当に『大人』だ。40年生きているオレよりもずっと。腹が立つくらいに。
     彼の態度はここに至ってなお、一切変化がなかった。斜め下で穏やかに光るオレンジ色の星のままだ。あの夜のことなんて、まるでなかったみたいに。
     あの出来事のあと、オレは自棄になった。彼に対する苛立ちと劣情を、妄想の彼へとぶつける。それまでは罪悪感と嫌悪感があって妄想でも最後の一線を越えられなかったが、一度ハードルを越えてしまうと罪悪感は吹っ飛んだ。生理的な嫌悪感は本当の家族になった今、この先もずっと拭えないままだろうが、だからこそ背徳感や興奮の度合いのほうがはるかに強い。
     だってオレは、アンタのことが好きなんだ。好きだから一生側にいたくて家族になることを選んだし、好きだからヤりたいと思うのだって当然のことだろ? アンタはなかったふりをするだけで、オレを止めようともしないんだから、オレだって心の中でぐらい好きにさせてもらうよ。
     だけど心の片隅では、今でも迷いがある。
     藤咲さんがオレの中に過去の自分を見いだしたように、オレもあの人の中にオレ自身を見てはいないか? あの人はオレのことを判ってくれる、そう勘違いしてるんだ。
     彼を一人の人間として愛しているのではなく、歪んだ自己愛の表れであると、誰がはっきり否定できようか。彼に劣情を催すのも、彼の中にある自分を完全に取りこんで己のものにしたくて、独り善がりに昂っているだけかもしれない。
     これじゃ前世の母親と同じだ。子供が親の所有物ではないように、親だって子供の所有物じゃない。こんなのはやっぱり、本当の愛ではない。愛ではない、はずなのに。
     ――どうしてオレは、こんなにもあの人のことが欲しいのだろう。
     
     
     
     
     
     
     
     内心の葛藤をよそに、月日はまたたく間に過ぎていった。大学3年の夏頃からは就職活動も入ってきて更に忙しくなった。
     ビーチバーで持ち帰ったベニクラゲはそれなりに若返りが成功し、着々と個体数を増やしている。ベニクラゲ用の水槽を買い、ミズクラゲとは分けて飼育していた。
     春が来た。就職活動が本格化する直前、最近店に来るようになった男性客から声をかけられた。
     その日は気もそぞろで勤務し、閉店後藤咲さんに打ち明けた。
    「新田さんに店を持つ気はないかって言われました。銀座の土地が確保できそうだからって」
    「へえ、あの人お前のこと気に入ってくれてるもんなあ。どうすんの?」
     今日も今日とてサーバーの洗浄ロスで出るビールで仕事終わりの一杯をやりながら、藤咲さんが訊いてくる。
    「それが、オレにも判んなくて。就職も自分の店も実感ないっていうか」
    「したいことねえの? お前ならなんでもなれるだろ」
    「選択肢が多いから悩むんですかね。実はゼミの教授から、大学院に来ないかって誘われてもいるんです。これで自分の道が決まると思ったら、なんか腰が重くて」
    「あー、それはあるかもな」
    「このままこの店でバーテンダーしてもいいかなとも思うし」
     ボソリと言ってみた。
    「おお! 俺としては歓迎だけどな、それ」
     藤咲さんが明るい声を上げる。
    「でもそれって単なる保留のような、逃げのような」
     このままここに居座っても、何も変わらないだろう。それだけは判る。
    「まあな。そのままズルズル行く可能性高いわな。俺もさ、最近小説家になるの諦めたんだ」
    「……そうなんですか?」
     ビールサーバーを洗う手を止めて聞き返す。藤咲さんはあっけらかんと頷いた。
    「うん。もうこのままでいいやって」
    「……藤咲さんのそれは、逃げじゃなくて選択ですよね。『このままでいい』じゃなくて、『このままがいい』でしょ? 自分の道を自分で決めたんだ」
    「30もとっくに過ぎてようやくって遅いけどな」
     この人は今年34だ。自虐して笑ってるけど、オレなんか四十路にもなって、いまだに悩んでいる。
    「羨ましい……」
     思わず小さな声が漏れた。
    「ま、まだ時間あるんだし、じっくり考えたら?」
     グラスを空にした藤咲さんが止まり木から立ち上がる。何をするのかと思ったら、デジカメで写真を撮られた。
    「将来に悩むお尚の図」
    「やめてくださいよ。その呼び方も」
     まったく、オレがどうして悩んでいるのか判ってるくせに。
     アンタはこんなときでも、斜め下でただ静かに光っている。
     
     
     
     しばらく悩んで、自伝小説を書くことにした。
     就職は気が進まないし、時間稼ぎで大学院に進むとしても、つぶしが効く学部ではないため、結局研究職への道を選ぶことと同義になる。そうなれば論文発表で海外に飛ぶことも多くなる上、就職先も他県や海外になる可能性が高い。
     天文学は自分のしたいことではあるけど、藤咲さんを捨ててまでしたいかというと比べるまでもない。この2周目の人生で一番の収穫は、間違いなくあの人と出会えたことだ。いわば彼はオレの世界の中心にいる。だからといって、このままバーテンダーとして生きていくのも流されている感じがする。だからとりあえず選択は保留にして、今自分の力で成し遂げられることをしてみようと思い立った。
     藤咲さんの真似をしている気がしないでもないが、学業とバイトの合間に執筆を進めていく。書いているのは私小説だけど、表向きにはフィクションということになっている。つまり内容はオレの前世、渡辺明里の人生についてだ。
     基本的には実際に経験したことをそのまま書いているつもりだが、曖昧になっている部分も多く、その辺りは適当に脚色した。こうして改めて自分の人生を客観的に文章に起こして纏めてみると、いろいろと気付かされることも多い。特に母親に関して。
     オレはあの人を愛していたのだろう。恐らく、今でも。昔沙織さんが言ったように、オレにとっての母はいい人ではなかったけれど、他の人、たとえば彼女の同僚や友人にとっては素晴らしい人であったのかもしれない。オレは、きっとあの人をそういう風に見たかったのだ。そういう関係になりたかった。今のオレがあの人の側にいられたとして、支えてあげられたり頼ってもらえたりしたかといえば、やっぱりどんなに望んだところで不可能に違いないけれど。
     こんな風に思うようになったのは、当然藤咲さんの存在によるところが大きい。最近実感もしてたけど、小説を書いていてはっきりと気が付いたのだ。藤咲さんに思う気持ちとよく似てると。
     藤咲さんはオレによくしてくれるけど、オレはそれだけじゃ嫌なんだ。もっと頼ってほしい。甘えてほしい。対等な立場になりたい。子供じゃなく、大人として接してほしい。オレを見てほしい。もっとさらけ出してほしい。駄目なところ、弱いところこそ、オレだけに赤裸々に。
     ほら、こんなにもよく似ている。親と子の関係では判り合えないから、別の立場を求めるのかもしれない。歪んではいるが、それも愛情の形のひとつだろう。親と子は、決して対等にはなり得ないから。
     それならと、出来心の勢いで小説に藤咲さんを登場させてみた。役柄は明里の新しい恋人だ。前の彼氏がアパートを出ていって、やけ酒を飲んでいるときに出会う。慰めて口説いてくる藤咲さんの描写を書きながら、我ながら都合のいい展開だと苦笑いした。
     それでも、明里として出会っていれば、ありえない話じゃないだろう。まあこんなに上手くいくわけがないけど、でも女だったらオレだって……いや、やっぱ都合よすぎか? なんか恥ずかしくなってきた……。
     デリートキーを長押しして、書いてきた数十行を消去した。
    「あ、最初から知り合いってことにすれば」
     思いついて書き直しては消しを繰り返し、ついにノートパソコンの上に突っ伏す。
    「何がしたいんだ、オレ。何が望みなんだろ……」
     目の前のモニターには、誤操作で選択反転表示された『許せない』の文字が点滅している。
    「許せない、か。オレもそう思ってたな……」
     『許さない』ではなく、『許せない』。許せないと思うとき、本当はもうすでに許しているんだろう。ただ、『許している自分』がまだ少し許せないだけで。
     
     
     
     結局というか案の定というか、執筆は遅々として進まなかった。3行書いて2行削るなんてことをやっている内に大学の卒業時期が迫り、消去法で自分の店と天文の道を蹴った。店を経営することになったり研究職に就いたりしたら小説なんて書いていられないし、執筆を続ける内、どうしても形にしたいという気持ちが強くなってきていた。
     人生をやり直したところで、どのみちオレは行き当たりばったりなのだ。自嘲しつつも、そんな人生も悪くないと思う。2周目ともなると焦らなくなるものだ。何をやってもオレはオレだ。小説家の夢を諦めた藤咲さんが、変わらずオレの光であり続けるように。
     大学を卒業し、正式にバー『ブルー・ペーパー・ムーン』のバーテンダーになって2か月が過ぎた頃、ついにオレの自伝小説が書き上がった。折角だから新人賞に応募を決める。
     結局作中に出した藤咲さんは、名前も外見の描写も本人そのままになっているけど、もし受賞したとしても彼には想いがバレているから今更だろう。あの人のことだから主人公の明里を見て、「お前、こんな女になりたいんだ?」と笑うかもしれない。それならそれでいい。本当のことを言えない以上、これが最大限の真実の暴露だ。
     作者と作品はイコールじゃないと思っていたけど、こうして書いてみて、この小説はオレそのものだと思った。自分自身のことを書いているからかもしれない。だけど多分、それだけじゃないのだ。オレから出てくる言葉は、オレだけしか出せない言葉。この小説は、オレのためだけの小説だ。我が子のように愛おしいどころじゃない。自分自身のように、愛おしい。愛おしいと思える、この小説を書いた自分自身を。
     想像以上に凄まじい達成感と解放感にハイになりながら、出版社の新人賞に勢い任せに原稿を送ろうとした。そうしたらさすがに一瞬我に返って、『こんな超個人的な私小説、誰にもウケないんじゃないか?』と思ったものの、すぐにそんな自分の考えに鼻で笑ってしまった。
     元よりこの話は人のために書いたものじゃない。楽しませるために書いたわけじゃない。だけどきっと必要としている人はいる。少なくとも、子供だった頃のオレあかりは喉から手が出るほどに切実に欲していた。この小説を読んだだけじゃ、子供のオレはまだ救われはしないけど、やり方が判るだけでもかなり心の支えになっただろう。
     そんな風に開き直りながら、出版社に原稿を送りつけたその矢先に、藤咲さんが営業中、常連さんたちに向かって突然こんなことを言い出した。
    「あ。来週の俺の誕生日ですけど、今年は臨時休業にさせてもらいますから」
    「えー! なんで!? 今年はサプライズしようって計画してたのに!」
    「さては女か!?」
     津田さんの追及に内心ギクリとするオレとは対照的に、藤咲さんは呑気な笑みを浮かべながら、
    「すいませんねえ。尚の卒業祝いと就職祝いもかねて、今年は家族水入らずでゆっくり旅行でもと思って」
    「尚坊か。それなら仕方ないな」
     すぐに納得する常連さんたちの陰で、沙織さんが心配そうに眉をひそめているのをオレは見てしまった。
     そうだ。オレは独り立ちした。これは彼の最後の家族サービスなのかもしれない。
     
     
     
     オレの卒業祝いと就職祝いも兼ねていると言っておきながら、当のオレはそのときが初耳だった。
     閉店後、改めてどこに行くつもりなのかと訊くと、「誕生日プレゼントにあの天文台に連れてってくれよ」と言う。場所まで意味深だ。いよいよかと内心覚悟を決めつつも、口では「この時期に行ってもどうせ雨ですよ」と悪あがきしていた。「もう予約入れちまったもん」と、まったく聞く耳を持たれなかったが。
     連れていけと言われたところで、オレは車の免許を持っていない。案の定降りしきる雨の中、藤咲さんの運転で目的地に向かった。
     現地も土砂降りの雨だった。景色が白くけぶるほどで、着いても部屋から出られない。
     夕食は部屋についているキッチンでオレが炊事をした。藤咲さんのリクエストは、袋入りのインスタントラーメン。野菜たっぷりのそれを食べながら、「いつ食っても美味くて感動する。俺の一番の好物だよ」と笑っていた。そんな打ち明け話聞きたくない。
     夜になると、雨天時用の講演会に参加した。参加者はオレたちだけだった。梅雨のド平日だ、当然だろう。解説している研究員――前回とは違う人――の顔にも、『この二人、なんでこの時期にわざわざ東京から?』と書いてあった。
     講演会が終わり夜が更けても、窓の外は滝のような雨が降り続いている。このまま壺みたいに地球に雨が溜まって、全部水底に沈んでしまえばいいのに。
     雨で隔離された室内に振り返る。藤咲さんはオレのあとで随分長湯だった風呂から戻ってくると、一人で機嫌よくワインを飲み出した。オレが渡した誕生日プレゼントだ。別に大した値段じゃないけど、すぐに開けるってどうなんだ。……まあ、記念にとっておかれてもムカつくんだけど。くそっ、一体オレはどうしたいんだよ。
    「お尚~。お前も飲まねえ? 結構美味いぞ、これ」
     イライラしながらソファ座ったら、床で胡坐をかいていた藤咲さんがオレの隣に移動して、肩に寄りかかってきた。
    「アンタ、酔いすぎ……っ!」
     びっくりして押し返す。この人はずっと態度を変えなかったものの、元々スキンシップが密なタイプではない。こんな風に接触してくるなんて初めてのことじゃないだろうか。
    「これくらいじゃ酔わねえよ。気分はいいけど」
     藤咲さんはオレに押し返されるまま寝っ転がり、頭をソファの端から落っことしながらヘラヘラ笑っている。声に合わせて、仰け反った喉仏が動いていた。目を逸らそうとしたら、ゆっくりとその頭が持ち上がる。
    「久しぶりだな。こうやって二人で部屋でのんびりするのも」
     ――来た……!
     身体が勝手に強張る。瞠目しているだろうオレを見て、藤咲さんは目を細めた。笑ったんじゃない。どこか切なげな表情だ。ソファの上でうつ伏せになって手に持っていたグラスを床に置くと、残った赤い液体に視線を落としたまま呟く。
    「お前は今のままでいいのか? 俺は……嫌だ」
    「な、にを……」
     強張った口から声だけが漏れる。沙織さんとのことだ。オレが障害になってるんだろう。子供の頃と同じく。
     目頭が痛くなった。今日が来ることはちゃんと判っていた。大丈夫。この人が沙織さんのものになっても、オレのこの気持ちまでは――
    「……尚」
     零れそうになった涙をすんでのところでせき止めると、名前を呼ばれた。
    「キスしたい」
     今度こそ、時間が止まった。あれだけうるさかった外の雨の音も聞こえなくなる。この浮遊感、オレは夢を見ているのだろうか。
     ――いや。
    「沙織さんと、駄目になったんですね」
     自棄になってんだ。それでオレに当てつけか。アンタは酒を飲むと、本当にロクなことをしない。
     しかし藤咲さんはソファに半分寝そべったまま、キョトンとした顔をオレに向ける。
    「沙織さん? なんで今あの人が出てくるんだ?」
    「しらばっくれないでください」
    「……あ。もしかしてお前、俺と沙織さんになんかあるとか思ってた?」
     言いながら、のそりと上体を起こす。見ないように顔を背けた。
    「思うも何も事実でしょ。オレを見くびらないでください」
    「お前が思ってるようなことはなんもねえよ。あの人は俺の同士みたいなもんなんだ」
    「なんだよ、それ。適当ばっか言ってんじゃねえよ。いつまでも子供扱いしやがって」
    「そんな怒るなよ。その内ちゃんと教えるからさ」
     聞こえてきた苦笑が、不意に鳴りを潜める。
    「あのさ、尚……」
     掠れた声が聞こえて、沈黙が続いた。
    「――そんなことより、夜は短いんだ」
     唐突なそのセリフは月並みすぎるものだった。はっきりと判る。言いかけていた言葉をとり繕ったのだと。
     誤魔化すように伸びてきた手を反射的に払いのける。かなり力が篭っていたらしく、乾いた大きな音が響いた。
    「そうビビるなよ」
    「ビビってない!」
     我ながらヒステリックな声だ。藤咲さんは困ったように苦笑して、上げっぱなしになっていた手をソファの上へと下ろした。
    「俺は怖いよ。今でも。こないだまでお前は俺に養われてる身で、立場的に逆らえなかっただろ。今だって、お前には俺しかいない。そうなるように俺がしたからな」
     びっくりして彼を見る。俯いた口元が、「迷ってる、今でも。だけど本当は――」と低く続ける。
    「……めちゃくちゃにしてやりたかったよ、いつでも」
     顔を上げた藤咲さんはうっすらと笑っていた。どこかで見た表情だと思ったが、思い出すことは敵わなかった。その前にソファに押し倒されたからだ。身動きなんて、とれるわけがない。
     噛みつくように唇を塞がれ、熱い手に身体をまさぐられる。頭は嵐の中にある。耳奥でごうごうと血流が鳴り響いている。まともに思考なんてできなかったが、ひとつだけ胸の中央でうるさく主張している思いがあった。
    『今を逃すな。もう二度とないぞ』
     打算だ、浅ましいほどの。こんなときですら――いや、こんなときだからこそ。何を躊躇うことがある。望むところの展開じゃないか。たとえそれが自棄や身代わりだろうが。
     壊したければ壊せばいい。どうせアンタが用意してくれた『我が家』という名の箱庭は、今夜限りで消滅してしまうんだ。家族の縁は一生ものでも、もうオレたちが「ただいま」と帰る場所が重なることは永遠にない。
     そう思うと途端に心細くなって、溺れ縋るように彼の頭を鷲掴み、空気を求めるように必死で舌を伸ばした。荒々しい手がオレのスウェットのズボンをずらし、尻の間に割り入ってくる。
    「……っ」
     咄嗟にその手を掴んでいた。藤咲さんはオレから少し離れて、「期待した?」と意地の悪い顔で笑う。
    「残念だけどこっちはお預け。お前準備してないだろ。俺に抱かれるのは次にとっとけ」
     いつの間にか掴んでいたはずの手を逆にとられていた。誘導された先は柔らかく濡れている。
    「なんでこんな慣れて……もしかして他のやつとずっと……」
     生唾を呑みながらも呆然と呟くと、一瞬目を丸くした藤咲さんが弾かれたように笑い出した。
    「っちげえよ! 勝手に人を節操なしにすんな! 自分でやってたんだよ、お前のこと考えながら!」
     オレの首にぎゅうぎゅう抱きついて笑いながらそう言うと、そっと背中を撫でてくる。
    「抱きたいとも思ったけど、それ以上に抱かれたい。ずっと待ってたんだ、ずっと。お前はまだ信じられねえかもしれねえけどさ。俺にはほんと、お前だけだよ。お前が思うより、ずっと、ずっとな。やっとだ、やっとこの日が来た。めちゃくちゃにしてくれよ。もう立てないってくらいに」
     火傷しそうに熱っぽい口早な囁きのその語尾が消える前に、すぐ目の前の首筋に噛みついた。
    「ああ!」と歓喜の声が耳元で上がった。
     
     
     
     藤咲さんは奔放に声を上げた。羞恥心や隠す気なんてないみたいだった。
     オレが名前を呼ぶと、「もっと呼んで。気付いてるか? 家族になってからのお前の『藤咲さん』、声にいろんなもん混ざっててマジで堪んねえよ。めちゃくちゃ興奮する」と散々煽られた。
     オレは彼の思うがままだった。翻弄するつもりで翻弄され、そしてそれを喜んでいた。制御できない己がいることが嬉しい。アンタだけだ。アンタだからオレはこんなに夢中になる。
     耳元で言うだけで、彼は身体を痙攣させ、射精を伴わない絶頂を際限なく繰り返した。
     その度に、あの夜と同じ長方形の傷跡が、激しく収縮して歓びに身悶えていた。
     
     
     
     
     
     
     
     脱衣所でタオルを濡らしていたら、藤咲さんの口遊むペーパー・ムーンが聞こえてきた。
     戻ってみると、全裸でソファに寝そべったまま煙草を吹かしている。
    「ちょっと。禁煙ですよ」
    「今更だろ。このソファも弁償だな」
    「風呂行きますか」
     体液でどろどろになっている彼の腹をタオルで拭いながら訊く。
    「無理。動けねえ。てかお前、マジで甲斐甲斐しいな。介護されてるみてえ。一気に歳とった気分だ」
     笑うその声は掠れきっている。腹も、くすぐったさではない動きでまだ不規則に痙攣していた。
     反射的につい先ほどまで身体の下にあった、妖しく蠢く長方形の傷跡を思い出してしまう。駄目だ、もう。ある程度予想はしてたけど、この人のあの傷跡、すっかり性癖になっちまってる。まったく、初心で乙女だった男子中学生になんつーもん見せてくれてんだ。
     性懲りもなく下腹部に溜まっていく熱を誤魔化すため、彼の手からとり上げた煙草を一口吸いこんだ。クラリとした浮遊感は、絶望のように軽かった。
    「アンタ……オレのことを自分の身代わりだって言ってましたよね。人を愛するということは、結局その人を好きな自分を愛するってことなんだろうけど。不健全で不完全ですよね、オレらの関係って」
     藤咲さんが口の端だけ曲げて笑った。オレから煙草を奪い返すとソファの上で頬杖を突き、煙をプカリと吐き出す。
    「なあ、尚。実は俺、小説家になるんだ」
    「は?」
    「書いたんだ、小説。明日本屋に並ぶことになった」
    「え、嘘でしょ? だって諦めたって……」
    「前から書いてはいたからな。中断してたのを書き上げて、出版社に送りつけただけ」
    「送りつけただけって……それで出版とかすごいじゃないですか。作者って見本刷りの本を事前にもらえるんでしょ。今持ってきてないんですか?」
    「ない。買って読んで」
    「普通、身内に買わせようとしますか」
    「だって恥ずかしいじゃん。読みたきゃ売り上げに貢献してくれ」
     
     
     
     そのときは冗談っぽく笑っている様子に、ただの軽口なのかと思った。
     帰りの道中で本屋に寄るように頼んでも、「駄目。俺のいない所で読んで」と頑なに拒む。そもそも、タイトルもペンネームも聞いていない。単なる嘘にしてはあまりにも突拍子なさすぎるから、サプライズでオレを本屋に向かわせたいのだろう。もしかしたら、雑誌の表紙でも飾ったのかもしれない。つい忘れそうになるが、彼は大会優勝経験もある一流のバーテンダーだ。
     東京へ戻ってきてレンタカーを返したあと、その場で藤咲さんと別れた。何か用事があるのかもしれないけど、あんなにフラフラで欠伸ばかりしていて、今日の仕事まともに使いものになるんだろうか。
     開店まで4時間ぐらいあるから家で寝てればいいのにと思いながら、一人で地元に帰ってきたオレは駅前の本屋に入った。雑誌コーナーに行くまでもなく、入口すぐの平台にその名前は並んでいた。
     藤咲智也/『穴の底で眠る君へ』
     ハードカバーの文芸書だ。正真正銘、活字が印刷された小説。
     慌ててレジに持っていった。アパートに帰る時間も惜しくて、本屋横の喫茶店に飛びこむ。
     席に座ってすぐページを開いた。冒頭はこうだ。
     
    『神よ、天に開いた穴の向こうにいる創造主よ。
     彼に変えられないものを受け入れる心の平穏を与えてやってくれ。
     変えることのできるものなら、変える勇気を。
     そして、変えることのできるものと、
     できないものを見分ける知恵を授けてやってくれよ。アーメン』
     
     どこかで読んだことのある文面だ。確か海外の神学者の言葉、それをもじっているのだろう。原文はニーバーの祈りと呼ばれ、依存症や精神疾患を克服するための会で使用されていると、テレビか何かで聞いた覚えがある。
     原文ではこのあとも神への謙虚で真摯な願いが続いているはずなのだが、藤咲さんの小説では、『それが叶わないのなら、神なんていないというのなら、いいよ、俺があいつの神になってやる』と続いていた。初っ端からすごい暴露だ。
     タイトルの時点で判ってはいたが、この『あいつ』とはオレのことだ。名前も展開も現実そのままの、いわゆる私小説。オレたちは同じようなものを書いていたらしい。ただし語り手である藤咲さんの視点は、常にオレにフォーカスしている。
     今となっては懐かしい子供時代のエピソードを読みながら気恥ずかしくなり、テーブルの上のアイスコーヒー――いつの間に注文したんだろう――で喉を湿らせる。オレの未熟な言動には正直目を覆いたくなったものの、地の文に現れる彼の当時の考えには目を見張った。
     元々歳より大人びた人だとは感じていたが、想像以上だ。今のオレよりも成熟している、老熟といっていいほどに。内容が終始オレに特化していて、彼の人生経験についてほとんど語られていないのが残念だった。どれほど壮絶な人生を歩めば、こんなにも深く鋭い洞察力と揺るぎない自身の哲学を得られるのだろう。
     かと思えば、いきなり俗にまみれた描写が紛れこんできたりもする。オレが中学生の頃のエピソードだ。彼がただ一度、居間で自慰をしたあの夜、なんとあの人はオレが覗き見ていることに気付いていたらしい。
    「マジかよ……中学生に見られて興奮するとか……」
     呆れながら納得する部分もあった。昨夜あの人は感極まったように、『ずっと待ってた』と言っていた。それは言葉通り、オレが子供の頃からだったのだ。養子を自分好みに育て上げるって光源氏かよ。オレの中に自分を見ていたのなら、ショタコンというよりナルシストのほうだろうか。確かにいつも飄々としていて、謎の自信を感じさせる人ではあるけど、あの人自身は自分のことをあまり好きそうには見えないんだけどな。
     今までの藤咲さんのイメージが崩れる暴露に若干動揺を覚えつつも、両目は赤裸々な描写で埋め尽くされたページをまばたきも忘れるほどに凝視した。彼には羞恥心や虚栄心がないのだろうか。文章の巧拙以上に、迫ってくるような生々しさと臨場感がある。中学生だったあの夜の、初めて感じた破裂しそうな興奮をあっさり呼び起こされてしまった。
     浅くなる呼吸を押し殺し、ページを繰っていく。自慰のときに彼のスマホに映っていた画像は沙織さんの写真などではなく、ただの待ち受け画面だった。オレに自分の姿が見えるように、光源代わりで開いていただけらしい――本当に変態だ――。これだけではまだ沙織さんに関する疑いを払拭できなかったが、すぐに二人の関係が判るエピソードが出てきた。
     場面は藤咲さんがクラゲのケータイストラップを購入した水族館。オレが勘ぐっていた通り、幻想的なクラゲの水槽の前で二人はやりとりを交わしていた。ただし、その内容は想像とは違っていたが。
     同士だと言ったあの人の言葉は正しかった。沙織さんは藤咲さんの同士兼ライバルだった。オレのことを庇護欲から気にかけていた沙織さんに彼の想いがバレてしまったらしく、「逃げられないように養子にして囲おうとするなんて、そんなのは歪んでる」と責められていたようだ。沙織さんのその主張にはオレも全面的に同意しかないが、彼女も彼女で藤咲さんに対する対抗意識からオレへの庇護欲が暴走してしまい、オレに色付きのちょっかいなんてかけてきてたのだろう。二人して大人げないったらない。
     彼らは互いに共感する部分と、相手のやり方に反感を覚え敵視する部分がある似た者同士だった。共犯者の同族嫌悪のような。ある意味では恋仲の関係より互いを理解していると言える。誤解は解けたものの、嫉妬を覚えずにはいられなかった。ボジョレー・ヌーヴォーのイベントで見た、二人の視線の絡まり。あれをオレと藤咲さんで再現することは、きっと一生不可能に違いない。
     それから、オレが知らなかったことがもうひとつ。今から4年ほど前に、藤咲さんが偶然街で今間と再会した際のエピソードが書かれていた。4年前といえば、オレが大学生になった辺りだ。しかし今間は平日昼間のパチンコ店から出てきたらしい。藤咲さんが「今何やってるの?」と訊いても、曖昧にはぐらかして応えなかった。
     逃げようとする今間を引き留めて会話している間、藤咲さんはあいつがオレのことを好きだという前提でやりとりを描写していた。藤咲さんにとっては判りきったことだったらしい。このエピソードを読むまでオレは考えもしなかったから、かなりびっくりした。でもそう言われてみると、腑に落ちる点はある。今間はオレへの想いをどうしても認められなかったのだろう。自覚すら、できないほどに。
     小説の中の藤咲さんは、今間に対してやけに辛辣だった。蔑んでいるようにも見える。彼の文体は、今間だけでなく地の文の登場人物全員が呼び捨てのスタイルだったが、今間に対して明らかに冷淡だ。「尚も淋しがってるよ。今度店に来てよ、奢るからさ」と一見すると優しい言葉をかけながら、その実、巧妙に彼の劣等感と猜疑心を刺激してオレから遠ざけようとしている。
     大して考えもせずに息をするように紡がれているそれらのセリフは、あの人の腹黒い二面性を知っているオレでもさすがにぞっとしないものがあった。口達者で済むレベルじゃない。あの人にとって客商売のバーテンダーは、あくびが出るほど簡単な仕事なのだろう。
     あまりにもすべてが赤裸々に書かれている。登場人物全員が実名だし、エピソードにフェイクもないようだ。オレとのことをカミングアウトするくらい会社員なら別に気にもしないところだけど、サービス業だと売り上げに影響も出てしまうだろう。あの人が「小説家は諦めた」と言っていたのは、この辺りが理由に違いない。なら、どうして発表する気になったんだ? バーテンダーを辞めるつもりなのだろうか。
     内心首を捻りながら読み進める。小説は、『今度の誕生日、尚をあの天文台に誘おう。そこで俺は積年の望みを叶える』という文言で章が終わっていた。まだ数十ページ続きがある。本は出版されるまでに時間がかかるから、昨日今日の旅行の様子を作品内に反映させることはできない。つまりここから先は、この小説を完成させる気になった理由なりが書かれているはずだ。
     チラリとポケットのスマホを見ると、時刻は18時半だった。家に戻らず直接出勤すれば、開店には間に合う。すっかり氷の溶けたアイスコーヒーを一口啜り、ページを捲った。目に飛びこんできた一行目の文章は、『レンタカーを借りて、天文台に向け出発した』。
     反射的に頭に疑問符が浮かんだ。自動的に視線が追う文章は、細部は違っているとはいえ、ほぼ昨日の展開と同じだ。予測してたってことか? それにしても……
     藤咲さん視点で書かれるオレたちの初夜の描写も、興奮するどころじゃなかった。まるで狐につままれているよう。釈迦ならぬ彼の手の上で踊らされてるみたいだ。
     上滑りに読んでいた文章が熱を潜めた。いわゆるピロートークシーンに入る。場所はベッドの上、藤咲さんは煙草を吸っていなかったが、情事後の睦言なんて内容はあってないようなものだ。
     最中のオレのとり乱しっぷりをからかっていた藤咲さんが、ベッドの上で頬杖を突いて、活字のセリフを言い放った。
    『尚、俺作家になった。明日本屋に並ぶから、読んでみてくれよ』
     目にした途端、身体中の血の気が失せた。
     なんだ、これ。何かがおかしい……。
     うるさい心臓を宥めながら、息を呑んでページを捲る。そこには無機質な活字が並んでいる。
     
     
    『尚、読んでるか? ここから読むなよ、ネタバレ章だから。そう、こっから先はネタばらし。小説で言やぁ、メタ構造文ってやつだ。
     早速ぶっちゃけちまうと、俺はお前の正体を最初から知っていた。お前に別人格の女の記憶があることをな。なんでかっていうと、俺にも同じ記憶があるからだ。
     意味が判らないって? 俺も驚いたよ、俺がお前だったとき。確か悲鳴上げたんだっけな。お前も今上げただろ。つまりそういうこった。
     俺はお前の人生も丸々体験してきている。いろんな人間に生まれ変わって、この同じ時間軸の世界線をループし、自分自身と関わりを持ち続けてるんだ。沙織も俺で、未来のお前。今間も俺で、未来のお前だ。
     ただ沙織はループの自覚を持ってるけど、今間は忘れてる。覚えてたら、お前のことを好きになるのなんて当たり前だからな。ループ一回目、無垢で可愛い生まれたての赤ん坊の自分自身なんだから。
     いや、中にはループの自覚を持ってて、お前を毛嫌いしてるやつもいる。ループ何周目かの新参者、同族嫌悪ってやつだ。無知だった頃のお前じぶんの呑気さが、見ててムカつくんだろう。ま、気持ちは判る。
     今間みたいな忘れてる人間たちは、俺より遥かにループを繰り返してきてるんだろう。途方もないほど人生をやり直してる内に、ベニクラゲみたいに自我を放り出しちまったんだ。今までの本文見てても判るだろうけど、俺はやつらのことを忌諱している。自分もいつかあんなゾンビみたいに、ただ生きてるだけの存在になっちまうんじゃないかって恐怖心から。
     だけど俺にはどうしようもない。ただ死んでは生き返ってを繰り返すだけだ。お前が関わってきた人間たち、木邑も津田も溺れかけのお前を救った見知らぬ恩人も医者も天文台にいた職員たちも音楽家も、この地球上にいるすべての人間が俺でありお前なんだ。
     大体な? お前は自分のことを元女だと思ってるけど、それだって怪しいもんだぞ。お前が抱えてる元の母親へのトラウマも、もしかしたら俺たちが自分で作り出した設定なのかもしれない。お前も薄々気付いてるのかもな。前に「宇宙はホログラムかもしれない」って言ってたし。
     コンピューターゲームの世界みたいだろ。ここには気晴らしのインスタントな楽しさしかない。苦しみがない分、強烈な感動がない。ゲームなら電源消しゃいいけど、ここじゃ生き返るだけだしな。まあいいさ。どうせ瓶の中から出られないなら。
     尚、お前が愛しくて憎くて堪らないよ。こんなに側にいても、お前は俺の遥か過去にいて、どうやっても手が届かない。
     俺の役割は、お前にこの世界の真実を伝えること。俺がお前だったときに、この文章を読んで思い知らされたように。
     ノルマは果たした。さあ、次は誰になるんだろうな』
     
     
     椅子を蹴立てて立ち上がった。持っていた本を放り出し、ドアから飛び出す。後ろで「お客さん、お代……!」と声がした。まるでドラマのセリフだ。
     心臓が喉から飛び出しそうだ。なんで? なんで? なんで? 馬鹿のひとつ覚えみたいにグルグル回る。足がうちの店の前を駆け抜けた。急カーブで引き返し、ドアの取っ手を掴む。
    「藤咲さん……!」
     押しても引いてもガタガタいうだけだ。すぐに見切りをつけて踵を返す。
    「尚くん!」
     いきなり呼びかけられた。反射的に左右を見ると、「上だよ、上!」とまた声。
     顔を上げると、沙織さんの音楽教室前の通路に今間が立っていた。
    「久しぶり。オレやっぱりこれ、」
     見覚えのあるケースを掲げる彼に、一瞬笑ってからハッとする。
    「悪い、今間! 今急いでんだ!」
     駆け出した背後で、「行ってらっしゃい。ここで待ってるからねー」と声が聞こえた。
     オレの足は勝手に動き、藤咲さんのマンションのエントランスに入った。エレベーターを見る。上にのぼっている。嫌になるくらいテンプレ通りだ。
     エレベーターを秒で見限って階段を駆け上がり、壁の8の数字で通路に――
    『上だよ、上!』
     耳元でさっきの今間の声が響いた。勝手に足が次の階段にかかる。
     直感だった、はずだ。でもこれさえも筋書き通りなのだろうか。息が苦しい。全力疾走のせいじゃない。間違ったことをしているかもしれない。いや、おかしい。さっきの今間はやっぱりおかしい。一瞬呑気に喜んだけど、登場の仕方もセリフも突拍子がなさすぎる。唯一の違和感。『行ってらっしゃい』『ここで待ってる』藤咲さんが嫌ってた今間がいきなり。
     屋上のドアに体当たりした。あっけなく開く。背中が見えた。宙に向かって前のめりに倒れていく。足がバネになり、魂に引っ張られる感覚。一瞬が無限に引き延ばされる。
     
     掴んだ――!
     
     そのまま思いっきり引っ張る。肩が嫌な音を立てた。
     後ろに倒れこんで、全力で息をする。凭れかかっている彼の身体を抱きしめる余裕もない。それでも手首を掴んだ手だけには、力を篭め続けた。痛いだろうに、彼からはなんの反応もない。
     夜空を眺めて、息が整うのを待つ。雨は降っていないが、厚い雲が垂れこめている。
    「……押し潰されそうだな……」
     呟くと、「なんで……」とようやく小さな声が聞こえてきた。
    「やっぱオレ、間に合いませんでした? いや、間に合わなかったのはアンタか」
     笑いながら藤咲さんを抱えて上体を起こす。
    「『変えることのできるものを変える勇気』、アンタが与えてくれるんでしょ?」
     顔を覗きこむと、一気にその顔が歪んだ。
    「引き留めんなよ。ちゃんと道は示してやっただろうが……っ!」
    「アンタは迷ってた。オレの側にいたかったからでしょう。なのに、どうして同じことを……」
     諭しかけて、やめた。
    「アンタは正しいんでしょうね。賢者の考えは赤子には判らない」
    「変に物分かりいいな、お前……」
     胡乱な目線を向けてくる彼に肩を竦めてみせる。
    「全然納得なんかしてませんよ。ショックすぎて実感湧いてないだけです。……嘘つき」
    「お前だって隠し事してたじゃねえか。お互い様だろ」
    「そっちじゃなくて。……次はオレの番だって言ったのに。次なんてないんじゃねえかよ」
     藤咲さんが面倒くさそうに顔をしかめた。
    「ネチネチうるせえな。なんだよ、お前の番って」
    「仕方ないでしょ、元々女なんだから。だから内心期待してたのに……酷いですよ」
     俯くと、「……ああ」と思い出した風な呟きが聞こえてきた。
    「『抱かれるのは次にとっとけ』ってやつか。あれは嘘じゃねえよ。お前が俺になったときにお前に抱かれるだろ? 俺がどんだけ待ったと思ってんだ。お前もお預け食らえ。ざまあみろ」
    「オレが嫌いですか?」
    「好きだよ」
    「そう……。引き留めるのは、やっぱ無理ですかね」
     藤咲さんがオレの手を払いのけようとする。
    「判ってんなら、さっさと離せ」
    「あのクラゲ、どこに行ったんでしょうね」
    「はあ?」
    「地震のときに割れた水槽から逃げ出したやつですよ。逃げ水みたいに消えちまった。ずっと気になってたけど、クラゲどころかアンタにとっては、この世界全部が逃げ水だったんじゃないですか。ああ、だから……」
     呟いて、彼の肩を抱き寄せた。
    「どうです? アンタだけは幻じゃない。あのときアンタが自分に言い聞かせてた通りに」
     茫然としていた藤咲さんの目が見る間に潤んでいく。天文台で見た星空のようだった。宇宙を内包した瞳。やっぱりオレの求めるものは、すべてこの人の中にある。
    「俺、尚……」
     視線を彷徨わせて藤咲さんがオレの名を呼ぶ。声が震えていた。迷子のように。
     一気に身体が熱くなった。ああ、本当にオレは、この人の見せる弱さに弱い。オレのすべて。一時的でも手の届く範囲に落ちてきた高揚感で、胸がいっぱいになる。
    「……オレにできることないですか?」
     気付けば口走っていた。藤咲さんが「え?」と聞き返す。
    「オレはアンタからしたら何も知らない子供みたいなもんだろうけど、それでも何かアンタにしてあげたいんです。いつもアンタに与えられるばっかだったから、オレもアンタみたいに何か……」
     どれだけ言葉を重ねても抽象的なことしか言えない。手振りを加えもどかしく言い募るオレを藤咲さんは茫然と眺めていたが、その口から不意に小さくしゃっくりのような音が漏れた。
     次の瞬間、わあと泣き声が上がる。藤咲さんは幼子のように声を上げて泣きじゃくっている。本当に、子供が乗り移ったかのように。
     あまりのことに瞠目していると、彼の髪にキラッと鋭い光が差した。
    「なんだ、あれ……」
     茫然と呟く。空がいつの間にか晴れ渡っている。星ひとつない暗闇の中央に眩い光の輪があった。どう見ても金環日食だ。月食なら、月が薄暗くなる。だけど今は夜で、その空に昇るのは太陽ではなく月――いや、あれは。
    「……栓だ」
     尚オレに掬われた手の平の中から見上げた、夏の日を反射する指輪の鋭い光が鮮明に蘇った。手の平と太陽で温められた海水の心地いい感覚も。
     今判った。オレはこの人だ。こいつは俺だ。
     この世界はループじゃない。
     目の前で私が空に手を伸ばす。
    「待って、まだ……!」
     辺りが光に飲みこまれた。
     
     
     
     
     
     
     
     鼻歌が聞こえる。独り言のような、途切れ途切れのペーパー・ムーンが。
     薄く目を開けた。辺りは真っ白だ。眩い光に満ちている。
     しばらくするといろいろ見えてきた。清潔な白い天井。消えた照明器具。点滴スタンド。視界の端には窓。染みついた消毒薬の匂いも。
     顔を横に向ける。窓の外は痛いほどの快晴だ。眩しすぎて白っぽく見える。目を細めていると、ペーパー・ムーンの歌を聞いた気がした。大好きな歌だけど、誰かに歌ってもらったことなんてない。病室を見回せど、私以外に人はいない。
     妙に緑色っぽく見える室内を眺めている内に、彼が見舞いに来てくれたのかもしれないと思えてきた。床頭台の上に置かれていた携帯を手に取り、番号を呼び出す。
    『……はい?』
     コール音5回で出た声は懐かしすぎて他人の声のようだった。この時点で歌の主は彼ではないと気付いたが、口は「私。もしかして見舞い来てくれた?」と喋っている。
    『行ったで。意識戻ったんやな。よかった……』
     心底心配してくれていたのが伝わってきて嬉しくなった。そこには保身もあるんだろうが、なぜか気にならない。こんなに素直に喜べるなんて自分でもびっくりだ。
    「私たち――」
     嬉しさに引っ張られるように復縁を求めかけて、言葉が途切れた。
     
     ――ちょっと待って。本当に私はやり直したいと思ってる?
     
     答えは驚くほどすんなり出た。唇に笑みさえ浮かばせながら言い直す。
    「今までありがとうな」
     別れの挨拶をして通話を切った。窓辺に歩み寄りながら呟く。
    「やればできるやん、私」
     窓から下を見下ろすと、人や車がオモチャのように蠢いていた。
     ひとりでにペーパー・ムーンを口ずさむ。
     ふと気付いた。誰も歌ってくれないといじけていたけれど、歌ってくれる人はずっと側にいたことに。
     静かな満足感がこみ上げてくる。
     そっと、自分で自分の身体を抱きしめた。
     
     


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