
エッセイ【あたりまえという贈りもの】
毎朝5時に起きる。
シャワーで頭を濡らし、洗濯機を回す。
白湯をゆっくり飲みながら、その日の気分で音楽を選ぶ。
ジャズの日もあれば、ボサノバの日もある。
クラシックを流したくなる朝もある。
静かに流れる音楽をBGMにコーヒーを淹れる。
お湯を注ぐたびに立ちのぼる香り。
窓から差し込む朝の光。
少しずつ目覚めていく街の気配。
仕事の日も休日も、この時間はほとんど変わらない。
誰かに話すほど特別な朝ではない。
でも私は、この何気ない時間が好きだ。
私は介護予防の仕事をしている。
日々、多くのシニアの方と接する中で、「あたりまえ」が決してあたりまえではないことを教えられる。
「去年までは一人で買い物に行けたんだけどね。」
「昔は階段なんて気にしたこともなかった。」
「家族がいた頃は、毎日がにぎやかだった。」
何気ない一言の奥には、その人が積み重ねてきた人生がある。
年齢を重ねると、体は少しずつ変化する。
子どもたちは巣立ち、生活の景色が変わる。
そして、大切な人との別れが訪れることもある。
自分ではどうすることもできない変化は、静かに、けれど確実に日常を書き換えていく。
そんな話を聞くたびに、私は自分の朝を思い返す。
今日も自分の足で起きられたこと。
好きな音楽を選べること。
コーヒーの香りを心地よく感じられること。
何気なく過ごしている朝は、本当はたくさんの「あたりまえ」が重なってできている。
健康であること。
家族が元気でいてくれること。
仕事があること。
行きたい場所へ行けること。
笑えること。
それらは決して永遠ではない。
だからこそ、「いつも通り」が、実は人生でいちばん贅沢な時間なのかもしれない。
もちろん、毎日を気を張って生き続ける必要はないと思う。
頑張り続ければ、心も体も疲れてしまう。
だから私は、現実から少しだけ離れる時間も大切にしている。
美味しいものを食べる。
景色のいい場所へ出かける。
音楽に耳を傾ける。
旅に出る。
そんな非日常は、日常から逃げるためではなく、日常をもう一度好きになるためにあるのだと思う。
少し心を休ませるからこそ、また「あたりまえ」の毎日へ、穏やかな気持ちで戻ってこられる。
時間には限りがある。
だからといって、毎日を慌ただしく生きる必要はない。
限りがあるからこそ、今日という一日を丁寧に味わいたい。
明日の朝も、私はきっと5時に起きる。
白湯を飲み、音楽を選び、コーヒーを淹れる。
来年も、再来年も、同じ朝を迎えられる保証はどこにもない。
だから私は、今日の朝を大切にしたい。
「あたりまえ」とは、毎日繰り返されるものではなく、
毎朝、新しく贈られているものなのかもしれない。