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『義父の笑劇場』


    私はひと回り歳上の夫と結婚した。
    義父は親よりも祖父母の方が歳が近くて、《義父と息子嫁》よりも《祖父と孫》のような関係性だった。
    義父はただただ日々を生きているだけだが、その日々にはたくさんの笑いの渦が起こっていた。

    一番笑い、そしてもっとも苦しかったのは初対面だ。
    結婚の挨拶で訪れた私は極度に緊張していた。
    義父の印象は、道で会えば「どうも、どうも」と挨拶をしてくれる近所のおじいさん。
    地区に1人はこんなおじいさんいるよね、といったところだろうか。

    軽く挨拶を済ませると
    「実は歯がないんですわ。昨日、歯医者さんに行ったら、まだできてないって言われてねぇ。」
    と口に当てていた手を外すと、下の歯の真ん中に綺麗な隙間があった。
    いつも口が開いてそうな若干マヌケ面な印象もあり、綺麗な隙間はマヌケ面をグレードUP。
    こんな時に勘弁してほしい。極度に緊張している私と笑いを我慢しないといけない私、2人の私で心は大荒れだ。
    旦那君は知っていたのか?…
    横に座っていた夫の顔を見ると、私の疑問を察したかのように首を横に振り、笑わずに乗り切れるか?と言わんばかりの目で見つめてきた。
    笑いを我慢するということは共感者の存在に気づくと余計に辛いものになる。

    「この家はしきたりとか何もないから気楽に生きてもらえたらええもんで。」
    とあたたかいお言葉をいただき、アットホームな雰囲気になった頃、義母がお茶をだしてくれた。
    下の真ん中の歯がないから飲まないだろうと安心していたら、飲み始めたのだ。
    その瞬間、義父の口の真ん中から小さな細い滝が現れて、慌てた義父の手は滝壺となった。
    …私の我慢の糸が切れて、ついに笑ってしまった。
    なんとか止めようとする目の前で、義父がまた飲み、再び滝が現れた。

    どうしても笑いが止められなくて困っている最中、私に話し掛けてくれる義父に対して
    「もう緊張しちゃって笑いが止まらなくなっちゃいました。」
    と誤魔化すが、もうどうにもできず…
    失礼な子だと思われて結婚が破綻になるかもしれない。それはしょうがないと開き直り、ずっと笑い続けた。

    結婚は2人ではなく家族の問題。
    こんなカタチでこの言葉を噛み締め、体感することになるとは思わなかった。
    誰も「歯はちゃんと入ってますか?」なんて事前に確認した方がいいよなんてアドバイスをもらったことはないだろう。
    私達の結婚の行方は義親に委ねて、この日は家路へと向かった。

    それから9年後の春。
    義父は余命わずかの日々を在宅医療で過ごしていた。
    ある日、数本の入れ歯を、義母と旦那君と3人で分担して洗うことになった。
    偶然にも私の手元にきた歯は、あの時、対面することなく私を笑い苦しめた歯だ。
    君さえいれば…と蘇る初対面の記憶。
    そしてもうお別れが近づいている義父との時間を嘆き、丁寧に磨いた。
    この日の夜、義父は安らかに永眠した。
    初対面と最期、一本の歯との偶然になんとも言い表せない不思議な気持ちをもったまま、私はこの家族の仲間入りをして、今も幸せに暮らしている。

    #創作大賞2026 #エッセイ部門

     
     
    世界に一人だけの義父の日常は、毎日が笑劇場。 朗らかな風が吹く日々の記録エッセイ。 ほんのりと笑っていただけたら嬉しいです。

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