
硬く、痛い左腕と生きる―自殺未遂と後遺症を力に変えて⑦
この投稿には、自傷行為・自殺未遂に関する記述が含まれます。
体調の優れない方は閲覧をお控えくださいますよう、お願いいたします。
閉鎖病棟での2か月
隔離室から、男性閉鎖病棟内の6人部屋に移った。
閉鎖病棟とは、病棟入り口のドアに鍵がついていて、限られた人しか出入りできないようになっている病棟だ。病棟内の窓には、すべて鉄格子がついていた。病棟には、6人部屋が8室程度あったと思う。満床ではなかった。他に、女性閉鎖病棟があるそうだが、中庭を挟んだ向こうの建物だった。
まず、明るい環境にいられること、他の誰かと一緒の空間にいられることがうれしかった。
薬は、朝昼晩3回、各人水を入れたカップを持って看護室の前に並んで受け取り、その場で飲む形だった。本人が名前を言い、看護師がボックスから該当する薬を探し出すスタイルだが、慣れている看護師がほとんどで、名前を聞かなくても顔を見ただけでボックスから探し出せる人がほとんどだった。薬を飲んだふりをして実際は飲んでいなく、叱られた人もいた。
食事も同様に、3食決まった時間に、食事・談話スペースに集まって食べる形だった。なぜかみんな急いで食べていて、早食いの私が急いで食べてもほとんど最後になってしまうことが何回もあった。おいしかったので、食べるのは唯一の楽しみだった。
死にたいという気持ちは、消えなかった。それ以上に、この、制限された場所からいなくなりたくて、とにかく出たくて仕方なかった。薬は飲まされているけれど、飲む前と何も変わらない、カウンセリングを受けたくても叶わない、ここは、医療「機関」ではなく、都合の良い人を見つけてきて隔離し、医療費を荒稼ぎしている悪質な集団だと思った。
医療費とは別に、家族が事務に預けている小遣い金があり、それで時々買い物を頼めることになっていたので、私は便箋と封筒を頼んだ。母に手紙を書いて、ここから出してもらえるよう、母からかけあってほしいと思ったからだ。でも内心、母にそんな交渉術はないだろうな、とも思った。
手紙を出すときは看護室にお願いして、小遣い金から切手代を差し引き、切手を受け取る仕組みだったが、切手を受け取れるのは、医師が認めた人だけ、ということだった。私がそれを認められるはずもなかった。
電話は、病棟に公衆電話が一台あり、同様に、医師が認めた人だけに、小遣い金からの引き落としで、テレホンカードが与えられる仕組みだった。テレホンカードは、他の人の手に渡らぬよう、都度、看護室で管理されていた。
なぜそこまで外とのやり取りが遮断されていたのか分からないが、私は、病院にとって不利なことが外に漏らされるのを、病院側が危惧しているのではないかと感じた。
こんな場所に自分が入れられていること自体、認めたくないし、この病院に対する怒りもあった。医師が廊下にいたり病室に来たりした時に、折をみて何度か、退院したい、退院して以前のように中国語を使った仕事がしたい、などと訴えたが、「将来的におもしろそうだけどな」などとかわされるだけだった。調子がいいおじいちゃん、という感じで、受け持っている患者数も多くて大変だったのかもしれないが、患者にしっかりと向き合っていく姿勢は感じられなかった。
誰かに相談したくて
家族に、必要なもので足りないものを頼めるという話になった。
隔離室の時は風呂でのカミソリの使用も禁止されており、隔離室からの解放感も相まって、ひげ用のカミソリのほか、眉用の小さなカミソリなども欲しいと、(おそらく)准看護師に言った。「カミソリはだめよ~、なぜとは言わないけど」と、少しニヤニヤしながら、私が危険行為に走る可能性があることを示唆した。
その人はA看護師に言ったようで、A看護師がつかつかと来た。「アナタ、隔離室から出てきていろいろリクエストしてるみたいだけど、我慢はどうしたの? 浮ついてるんじゃないの?」と言われた。医師からは、「カミソリなどの様々な便利用具は、作ってくれる人がいるからこそ使えるのであって…」などと、よく分からないことを言われた。
落ち着かず、毎日、死にたいという気持ちが強まり、これはもう、誰かに少しでも話を聞いてほしくて、先生と話したいと看護室にお願いした。応対した、カミソリのときの准看護師は、先生に聞いてみると言った。医師は、普段の対応から、私から逃げるのではないかと思った。以前「これってうつなんですよね?」と聞いた時は、「うつなんて誰でもなるもんなんだよ」とだけ言い残し、去っていったりもした。だが、夕方に時間をつくり、准看護士とともに面談してくれた。
准看護師は、カルテを見ながら「〇〇(オーバードーズで運ばれた病院)に4日も入院して~!」「車の運転で、ぶつかりそうになったからって死ぬ気になったの? 私だったらそういうことがあっても、腹にグッと力を入れて、切り替えて運転するけど」などと言った。車の運転のことだけが原因ではないので、違うと言ったら「だってここに書いてあるよ?」と言った。
祖母のことが心配だと話すと、「だったらなんでこういうことするのよ!」と言われた。
今の心境としては、「今まで、やりたいと思っていたことはすべてできたので、もう人生に悔いがない思いだ」と言った。准看護師は「私にもあなたと近い年の息子がいるけど、息子がそんなこと言ったらショックだわ」と言った。医師は、「もうおじいちゃんみたいな心境になってるんだよな」と言った。心が軽くなれるかと思ったが、ならなかった。
その後、医師と廊下で会った際、吐き捨てるように「お兄さんのことなんて、どうでもいいんだよ」と言われた。どうでもいい、という言葉だけで済むのであれば、これだけ苦しむことはないのに、と思った。
精神科病院に入院していた人たち
閉鎖病棟には、様々な人がいた。
30年近く入っていて、後見人をつけており、一生ここにいるつもりの人。アルコール依存症で、回復支援施設に入っていたが逃げ出さざるを得なくなり、親からは一緒には住めないと言われ、生活保護を受けながら入っているものの、いつ保護が打ち切られるか怯えながらいる人。親から家には置けないと言われ、入っている人。精神障害がある人。介護施設のほうが適しているのではないかと思われる高齢者など、様々だった。交通事故での脳機能障害なのに、なぜかここに入っている人もいた。
隣のベッドの人から、「向かいの人、〇〇さん(私の名前)のこと、ナヨナヨしてるって言ってたよ」と言われた。わざわざ私に言う必要はないのに、と思った。
なぜここに入っているのか、部屋の中で聞かれたけれど、言えなかった。一方で、食事で隣の席になる、少し親しくなった男性には言えた。その人は「死のうって思うのは、本当に大事な人がいないからだよ」と言った。同感したが、人それぞれ状況が異なるのに、と思った。
その人から、彼女はいないのか、など聞かれた。その人は、東京に同棲していた彼女がいて、彼女の誕生日におめでとうの電話をしたくて頼んだところ、A看護師から「そんなの自分の勝手な都合だ」と怒られた。夜、ベッドに手を縛られてしまうこともあった。かわいそうだと思った。
食事やトイレなどが、看護側の思うようにできない人がいた。A看護師がその人に、日常的に暴言を吐いたり頭を押さえつけるなどし、虐待だと思った。私は見ていることしかできず、心が痛んだ。
廊下から、ふとある病室を見たら、80歳を超えていそうな高齢者がマスターベーションをしている光景にも遭遇した。
A看護師からは、「アナタ、会話する時(顔が)近いんだよ」「なんだ、その不安そうな面は」などと言われた。
作業療法
しばらくして、週に2回の作業療法に出席できることになった。
作業療法士の先生は優しくて、お世話になったけれど、作業の時も、死にたい気持ちは全く消えなかった。作業は一応するものの、心ここにあらずという状態だった。作業より、きちんとしたカウンセリングを受けられたら、状況は変わっただろうが、叶わなかった。
作業は、閉鎖病棟から出た別室であったので、作業から抜けて、山に行って遭難したいと何度も思ったが、病棟との行き来はスタッフが監視していたので、難しかった。
作業中、死にたい気持ちがあることを周囲に打ち明けた。
自分もそうだったが、2年くらい経ったらその気持ちが消えた、という人がいた。毎日、寝ても覚めても死にたい、その毎日が2年も続くなんて、長すぎて考えられなかった。でも、今ならその人の言うことがよく分かる。その人は、生活保護を受けながら入っていて、一生ここにいたい、妹がときどき来てくれるのがうれしいと話していた。
自分で腹を刺し、痕が残ったという人もいた。
面会に来た母と伯父
病院を出たくて出たくて、母に電話がしたいと、医師に訴えた。医師が電話をかけると、伯父が出た。彼岸の日で、お墓参りに行っているという。出たいとの率直な気持ちを言ったところ、「仕事はどうするの?」と言われた。「今すぐにはできないけれど、退院して家の手伝いをしたい」と答えた。伯父にとっては深く考えないで出た言葉なのかもしれないが、私にとっては、現実を突きつけられ、金づちで殴られたような気持ちになった。
そして、「今やっている作業があるそうだけれど、俺はそういうことは教えてやれないから、そこで今やっていることを、できるまでやってみろ」と言われた。言われていることも分かるが、私の居場所はやはりこの病院なのか、と思った。
入院中、伯父と母は2回、面会に来た。伯父は農業の合間に、母は祖母の介護の合間に時間をつくって来たことになり、感謝とともに、申し訳なく感じた。私も憔悴していたけれど、母もそう見えた。
「春になっても、花も、桜も見られない、そういう環境なんでしょう?」と言われた。桜は、たくさん植えられていて、病室から見える中庭や、作業に行くときの廊下から、満開の桜を見ることができた。けれど、そこから生き物の生命力を感じるとか、自分も前を向いて生きていくとか、そういう感覚は全く起きなかった。
兄が騒ぎ、母が兄のいない時間帯に工事ができるよう調整していた、実家の風呂のドアや壁の改修が無事できたのか、祖母は無事デイサービスに行っているのかなど、心配していることを母に聞いた。母は同席した看護師に、「こんなことばっかり気にしてるんですよ」と言った。
住んでいる町の精神科病院のほうが、カウンセリングなどもしてもらえるのではないかと思い、転院できないものだろうかと言ったら、伯父が「どこに行っても同じだから」と言った。隣にいる医師は、何も言わなかった。
私は、病院への不信感から、「脈が速いだのなんだと、病気でもないようなことで病人扱いされる」と言ったら、医師が「それは、子供のわがままと同じだ」と口を挟んだ。
増幅した自殺念慮
転院して環境を変えることも叶わず、自殺念慮がますます強まった。寝ても覚めても、走行中の電車に飛び込んで死ぬ情景や、線路に横たわっている上を電車が通過する瞬間の情景がよく浮かぶようになった。
そして、首に包丁を刺した日、母に見つかっていなければとっくに死ねていた、なぜ母はあのタイミングで起きてきたのか、母に邪魔されて、私はこんなところに連れられて、死ぬこともできずに過ごさせられているという、怒りなのか憎しみなのかも増幅した。
眠りも浅くてすぐ目覚め、医師に言ったら強い薬を出してもらえることになった。何の薬なのかの説明は、相変わらずなかった。
薬は、はっきり言って私にはまったく効かなかったように思う。最近読んだ本で、カウンセリングなどの精神・心理療法との相乗効果での薬物治療のことが書かれていて、そうだよな、と思った。
食事と作業の時以外、病室でずっと横になっている私に、A看護師は「いつも病室で何してるの? これから社会に戻った時のことを考えると、そういうことではいけないんじゃないの? ここで自分にできることをしないと」と言った。
ここで自分に何ができるのか分からない、と言ったら「アナタだったら新聞の全ページ、一字一句暗記できるくらい読み込めるのではないか」と言った。横にいた年配看護師は、「そうだよ、看護師さんの言うとおりだよ」と同調した。何かしないと、というのは分かるが、何かズレている気もした。
もっとも、ロビーで新聞を読むかテレビを見るか、作業の時にもらった塗り絵などをするしか、することはなかった。
薬を強くした後は、副作用として便秘がちになり、便を柔らかくする薬も出してもらった。
障害年金をもらう?
G看護師は、私を割と好意的に見てくれていると思っていた。プレッシャーには感じたが、「あなたのポテンシャルなら、問題なく就職できるでしょう」と言ってくれたり、自身も以前勤めていた病院で無理をしてしまい、適応障害になって5か月休んだ後、今の病院と巡り合ったとの体験談も語ってくれたりした。G看護師のいとこも、私と同じような行為をした経験があるとも話した。
そのG看護師と医師に呼ばれ、話を聞くと、入院してそろそろ3か月になるが、もう少しいたほうがいいのではないか、と提案された。これ以上ここにいても、死にたくても死ねない毎日が続くだけで、もっといたいという気持ちはなく、出たいと言った。この打診も、病院の収入のためではないかと疑心暗鬼にもなった。
また、障害年金を受ける考えはないか、とも言われた。今まで考えたことのない選択肢だったので、驚いた。来た時にあった生活歴の聞き取りで、以前、航空会社を辞める時に抑うつと診断されたことがあると話していたため、それから時間も経っており、書類を揃えることができれば2級に該当するだろう、とのことだった。
以前、社会保険労務士試験の勉強をしたことがあったので、障害年金という制度は知っていたが、自分がもらえる立場になるとは思ったこともなかったし、自分のこの状態が「障害者」だという認識もなかった。
ずっともらっていなければならないわけではなく、自分で安定した仕事ができるようになれば、もらわなくすることもできる、などと言われた。
自分が障害者、と認定されることは、屈辱というか、現実を認めたくない気がしてしまって、受け入れられないと思ってしまった。ただ、そういう選択肢もあるのか、とは思った。
そして、作業所(就労継続支援B型事業所)に行くという方法もあり、行くつもりはないか、聞かれた。
退院は絶対したいけれど、作業所に行くという発想はなかったし、自分はそういうところとは縁がないと思っていた。偏見だが、自分は作業所に行くほど落ちぶれてはいない、というプライドがあった。でも、そこに行く形でしか退院できないなら、行くという手続きをして退院し、やっぱり行かないということもできるのではないかと思い、その方向で話を進めることにした。
作業所見学
希望の作業所を選ぶことになり、私は伯父宅から近いところを希望した。近くの地域に1件あり、先生による先方との調整後、外出許可を得て、そこに見学に行くことになった。見学には母と伯父が同行してくれた。
線路のそばに作業所があり、女性は縫製作業、男性は使わなくなった機械の解体などをしているところだった。説明してくれた責任者は良い人で、母は、家庭的な雰囲気で素敵だと言った。伯父は、解体作業の様子を見て、自分なら興味があると言った。
確かに良いところなのかもしれないが、私は、「こんなところ」で作業をするという自分が受け入れられなかった。作業代として月2万円程度しかもらえないというのも、会社員を経験している身からすると、あり得ないと思ってしまった。
質問すると、いつまでいなければならないということはない、自分のタイミングで就職したりする人もいる、とのことだった。
自殺念慮が続いていたため、ここで作業をすることになった場合、作業中にそばの線路に飛び込んで自殺をしてしまう自分を想像した。
昼食は、久しぶりに伯父宅に戻り、3人で、スーパーの弁当を食べた。隔離室や閉鎖病棟を経て戻り着いた伯父宅が懐かしいという気持ちと、食事後にまた、閉鎖病棟に戻らなければならないという焦りが募った。
作業所を見学した感想を母に聞かれ、「今はそういうところに行く気持ちではない、でも退院してここ(伯父宅)に戻ってきたい」と言った。伯父は、遮るように一言「気持ちは分かった」と言った。
退院したい、という気持ちを母が酌んでくれ、病院に戻った際、母が医師に言ってくれた。
医師は母の話を聞いて、「なんか息子を手元に置きたがるんだよな」「最初に危ない行為をした時、市役所とかに相談すべきだったのに、母親失格だよ」と言った。そして、「(こういう自殺関連行為を)社会的に防止していかないと」と言った。
母は私に「子供っぽい先生だね」と言った。
G看護師の言葉に
退院に向けての動きが進んだが、私は作業所に行くつもりはなかった。だが、行かないと言うと、退院が取り消されると思ったので、行くような素振りをしつつ、「落ち着いたらで、すぐに行かなくてもいいんですよね?」という感じで濁していた。
ある看護師に聞いたら、「自分のペースでいいんだよ」と言ってくれたので、安心した。
一方で、退院したら、自分が本当に確実な自殺行為をすると思った。自分が怖くて、このまま退院してはいけないのではないかという気持ちも出てきた。
作業所には行きたくない、伯父宅には帰りたいが、死にたい、という複雑な心情になった。
退院に向けて動いてくれたG看護師にそれとなく不安を伝えたら、「だから俺らは、落ち着くまでもっといたほうがいいって言ったんだよ」「今さら、もう退院の手続き中だよ」などと憤った。そして、「この年代の俺らは、仕事して、社会でやってかないといけないの」などと言った。
「自分のペースでいいんだよ」と言ってくれた別の看護師の言葉を思い出し、作業所にはすぐには行かなくていいんですよね? と言うと、G看護師は怒りだした。
「それは卑怯だ」「アナタ、自分は覚えてないって言うかもしれないけど、俺らの前で『はい、行きます』って言ったんだよ」「それだと(作業所を探してくれた)先生がかわいそうだ」「一度言ったことは戻せないんだよ? アナタの首にできた傷のようにね」と言った。
G看護師は勘違いをしていると言おうと思ったが、さらに続けて「また自殺未遂してここに運びたいって言われても、ここではアナタのことは見れませんって受け入れないよ」と畳みかけた。もう何も言えなかった。
医師が、私が作業所に入る手続きを進めているのかと思って直接聞きに行ったら、それは家族や自分でやることという認識で、医師は具体的な手続きにはタッチしていないとのことだった。
私の考えもよくなかったと思うけれど、G看護師は分かってくれる人だと思っていたので、裏切られたような感じがした。
退院の日
退院の日、お世話になった周囲の人たちに挨拶をした。
「もう問題行動起こしちゃダメだよ」と言う入院患者、「ゆるゆると(やっていって)ね」と励ましてくれる看護師もいた。
G看護師にもお礼を言ったが、「俺は、もうアナタの人生には関われないからさ」とだけ言った。
母が迎えに来てくれた。帰り、国道沿いの道の駅に寄り、母の妹が好きだというお土産品を母と一緒に探したが、売っていなかった。
伯父宅に行く道中もずっと、私は死ぬことしか考えられなかった。
最後の自殺未遂と救急搬送
結論から言うと、精神科病院を退院したその日に、時速90キロで走行中の列車に突っ込み接触した。10メートル以上は飛ばされたと思う。
ぶつかって飛ばされた瞬間と、地面に落ちた時、死ななかった、と思った。たくさんの方に迷惑をかけながら、生き残ったのだ。
その時、父がくれた、高校生の頃から使い続けてきた形見の腕時計を着けていた。腕から取れたのでずっと気になっていた。現場に戻って拾いたいと思っていた。後で知ったのだが、それは母が持っていた。小さな袋に入った状態で、警察から渡されたという。文字盤はそのまま残っていたものの、衝撃で両側のベルトなどはもげた状態だった。父が護ってくれたのだと思った。
前後のことは覚えているが、書けるような 書けないような、書きたいような 書きたくないような気持ちでいる。
救急搬送された病院では、厳しそうではっきり言う感じの医師に「こんなことしても死ねないもんだよ」「まだ死にたいと思ってるの? であれば、治療はできなくなるよ」などと言われた。
左腕の複数箇所を、複雑骨折などしていた。