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『透明な契約』第五章「もう一つの欲」

     メッセージが届いたのは、夜の十一時を過ぎた頃だった。

     悠はその文字を、三度読んだ。

     両親が事故に遭いました。今、病院にいます。命に関わるかもしれないと言われています。この数ヶ月、準備を済ませました。悠さんは、準備できましたか。

     画面を閉じた。また開いた。文字は変わらなかった。

     靴を履きながら、悠は自分が何をしようとしているのかを、うまく理解できなかった。行かなければ、とだけ思った。それ以外の言葉が、頭に浮かばなかった。

     外は冷えていた。春の手前の夜気が、コートの隙間から入ってきた。駅まで走った。改札を抜けてホームに降りると、ちょうど電車が滑り込んできた。乗り込んで、端の席に座った。

     車内は空いていた。蛍光灯の白い光の下で、数人の乗客がそれぞれ画面を見ていた。誰も悠を見ていなかった。

     奈緒が、準備を済ませた。

     その言葉の意味を、悠はゆっくりと解体した。母の入院からこの数ヶ月、奈緒は両親に感謝を伝え、言えていなかった言葉を渡してきた。それが何のための準備かを、悠はずっと知っていた。知っていて、考えないようにしていた。

     悠さんは、準備できましたか。

     悠は自分の手を見た。膝の上に置いた手が、少し震えていた。

     準備。

     自分の棚を、久しぶりに覗いた。幼い頃からずっとそこにあった棚。旅行に行きたい、美味しいものを食べたい、人を殺してみたい——それぞれがそこに並んでいた。

     棚は、あった。あれも、あった。

     ただ、あれの中に、奈緒がいなかった。

     いつからだ、と悠は思った。気づかなかった。気づこうとしていなかったのかもしれない。

     代わりに何があるかを確かめようとした瞬間、電車が駅に止まった。乗り換えだった。悠はホームに出て、別の路線に乗り換えた。また走った。

     次の電車の中で、悠は続きを考えた。

     あれの中から、奈緒がいなくなっていた。でも奈緒は棚の外にもいなかった。棚の中の、別の場所にいた。あれとは違う、新しい場所に、いつの間にか収まっていた。

     奈緒に、生きていてほしい。

     言葉にした瞬間、それが最初からそこにあったものだとわかった。あれが消えたのではなかった。奈緒だけが、別の欲望に変わっていた。あれと同じ棚に、奈緒に生きていてほしいという欲望が、静かに収まっていた。

     病院の最寄り駅で降りた。走った。夜の道に、自分の足音だけが響いた。

     病院の自動ドアをくぐると、消毒液の匂いが鼻をついた。以前来た時と同じ匂いだった。でも今夜は、来る理由が違った。

     ロビーを見渡した。

     奈緒は、廊下の突き当たりのベンチに座っていた。背筋を伸ばして、両手を膝の上に置いて、ただそこにいた。泣いていなかった。取り乱してもいなかった。いつもの奈緒だった。でも悠には、その静けさが、これまでとは違って見えた。

     足音に気づいて、奈緒が顔を上げた。

     目が合った。奈緒は少し、目を細めた。驚いているような、安堵しているような、どちらとも言えない表情だった。

    「来てくれたんですね」と奈緒は言った。

    「来ました」と悠は答えた。

     隣に座った。しばらく、二人とも何も言わなかった。廊下の奥から、微かに機械音が聞こえた。

    「準備、できましたか」と奈緒は静かに聞いた。

     悠は少し間を置いた。

    「一つ、言っていいですか」

    「どうぞ」

    「契約を、破りたい」

     奈緒は動かなかった。

     表情も変わらなかった。ただ、膝の上に置いていた手が、ゆっくりと、自分のコートの裾を一度だけ、握った。それだけだった。

     悠は続けた。

     「棚を確かめたら、奈緒さんがいなかった。代わりに、奈緒さんに生きていてほしいという気持ちが、別の場所にあった。それが、僕の準備です」

     奈緒はしばらく、前を向いていた。廊下の蛍光灯が、白く二人を照らしていた。

     やがて奈緒が、小さく息を吐いた。

    「そうですか」とだけ言った。

     返事とも、了承とも、拒絶とも取れない言葉だった。でも悠には、それで十分だった。

     二人は並んで、廊下のベンチに座っていた。契約は破られたのか、続いているのか、まだどちらでもなかった。ただ悠の棚には今、生まれて初めて、名前のつく欲望が一つ、静かに収まっていた。

    ▶︎第六章「透明な契約」

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