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苹果の下 5/5

     
     五話


     詩乃

     弥助とお園がいなくなってから邸に一人残された詩乃は何もかもやる気を無くして一日中自室のベッドの上でダラダラと過ごした。怠惰な生活という言葉があるなら見事にその通りの過ごし方だっただろう。日課にしていた小動物を捕まえ黒い淵へ生贄として差し出すことさえやめてしまった。あの子栗鼠をあと少しのところで手を差し伸べて助けてしまったからだと詩乃は思った。あれは衝動的に勝手に身体が反応して動いてしまっただけだ。子栗鼠の命を救いたいなどと善良な心が芽生えた訳では無い。ただ子栗鼠を生贄として生命を捧げることに突然馬鹿馬鹿しさを感じて殆ど怒りに近い感情でそれを奪い取り元の子栗鼠の巣穴にそれを投げ返してしまったのだ。こんなこと何度やっても意味が無い。全て無駄な事の様に思えて、勝手に身体が反応した。数馬は帰って来ない。
     それにしても連続児童殺傷事件の犯人は本当に弥助だったのだろうか? 弥助を助けたい気持ちなど微塵も無かったが、何かピッタリとその殺人鬼の像に弥助が当て嵌まらない。弥助にそんな度胸も大きな事件を引き起こすような度量など無い筈だと思えて仕方ない。それでも弥助には怪しいところがあるので何なりかの制裁は受けて欲しいとは思っていたのもまた事実だ。
     午後になって自室から出て邸内を散策して見た。食糧庫にはまだ当分の間飢えを凌げるだけの保存食が貯蔵してあるので、当面は大丈夫だと感じた。いつまでもという訳にはいかないが、今はまだ暫くこのまま何もせずふらふらとしていたい。邸内は閑散としていた。人がいないとこうも広く見えるのかと改めて気が付く。客間や父の書斎や寝室も覗いてみた。全てが整然としていて人の生活感などまるで感じない。本当にここに人が暮らしていたのだろうか? 弥助の私室も覗いてみる。こちらはいくらか乱雑に物が散らかっている。そうだ、先日番人達が念入りに室内を物色していた。番人達は何か手掛かりを探そうと部屋を引っ掻き回したに違いない。そして彼らは後片付けをするなんてことはないのだ。何か手掛かりは見つかったのだろうか、まあそんな事はどうでもいい。それからふと思い立って邸の裏の物置小屋を見に行った。こちらも番人達が念入りに捜索していた場所だ。中は薄暗く以前と何も変わりがないように思えた。手押しの一輪車があるだけで、もうここには何も残されていない。そう思って裏庭に出た。垣根の向こう、裏道を何人かの児童達が通り過ぎて行く声が聞こえた。その声に釣られ何気なく裏木戸から小径に出てみる。
     パラパラと数人の児童達が通り過ぎる。連続児童殺傷事件が騒がれているというのにこの子達にはそんなことなど無関係な様子で楽し気に朗らかな笑い声をあげながら通り過ぎて行く。まるで森の小動物達みたいだ。小径の通り沿いに木で出来た長椅子があったのでそこに腰掛けてぼんやりとそんな様子を見ていた。
     人気が少なくなった頃、ポツンと一人でやって来た少年が虚な目をして詩乃に近付いて来た。
     今日はいつものお爺さんではないの? 彼はそう言った。
     詩乃は首を傾げてお爺さんを知っているの? と尋ねた。弥助の事だろうか? 少年はうんと首を縦に振った。
     詩乃は少年を長椅子の隣に腰掛けさせ話を聴いた。そのお爺さんについて。
     少年は言った。甘いジュースを飲ませてくれたよ。その後眠くなって少しの間眠った。でも少ししたら目が醒めて一人で帰った。お爺さんは親切で優しかったよと。
     詩乃はその間のことを詳しく訊きたかったが少年の記憶は曖昧だった。起きた時身体が汗で湿っていたのでお爺さんは手拭いを手渡してくれた。着衣の着物は多少乱れていたけど、それは寝ちゃったらいつものことだからとその少年は言う。
     そう、と詩乃は答えて少年の名前を聞いて二人はそこで別れた。

     驚いたことにほんの数日で弥助が戻って来た。釈放されたという。何でも弥助が勾留されている間にも何件かの殺傷事件が行われていたという。弥助への容疑はそれで晴れたのかどうかは知らないが、どうやら殺人鬼は別にいるらしい。
     まあいい、これで邸の管理は何とかなるし、お園がいなくても食事の用意くらいは出来るだろう。溜め込んでいた洗濯物も下着は別にして弥助に丸投げすればいい。と、一時はそう思った。しかし何事も無かったような顔でいつもの通りたんたんと用事を済ませる弥助の姿を見ていて詩乃は内心に怒りを覚えてしまうのを感じた。
     その時、広間の洋卓の上に置かれた瓦版に気が付いた。何気なくそれを手に取って開いてみる。いつもの通り戦況の成り行きについてだが、記事ではこの国は有利に戦争を進めていると国民を煽っているが、それはてんで当てにならない。戦争がどちらに有利に働いているか、そんなこと誰にも判る筈が無い。自らを鼓舞する言論を聴く度、詩乃はゲッと反吐を吐きたくなる。戦争などさっさと早くやめさせるべきだ。そんなもの望んでいる者など誰もいない筈だ。誌面を裏返して別の記事を見る。またも児童殺傷事件か? との見出しが目に入る。詳しく記事を読んで見るとまたも少年が殺人鬼に狙われたらしい。運良く一命は取り留めたが、森の中で瀕死の状態で見つかったらしい。児童の名前が書かれてあり、それを見て詩乃は驚いた。先日裏の小径で話したあの少年だった。詩乃と別れた後、少年は殺人鬼に命を狙われたらしい。記事を読みながら身体が震えてしまう。
     弥助の仕業かと考えてもみたが、それは違う。けれど少年は以前弥助のジュースを飲んでいる。これが何を意味するのか、結び付きはしない。けれど……。
     弥助が仮に殺人鬼で無いにしてもあの少年の話を聞いた今となっては全く関わりが無いとは思えない。甘いジュースを飲んだ? 眠気に誘われた? 起きたら着衣は乱れて汗ばんでいた? 何か腑の落ちない部分がある。それが何かは判らないにしてもどこかでそれが事件に繋がっているような気がしてならない。
     長い時間、ベッドの上で仰向けになって思考した。弥助は詩乃が数馬と交際することに反対していた。
     甘いジュース、格子柄の手拭い、森の中で詩乃を羽交締めにして気を失わせた誰か、邸で目醒めた時、そこに居たのは弥助だ。さまざまな事柄が乱雑に混乱して脳内を駆け巡る。時々幻覚を見て気を失うという弥助、その間、何があったのか、少年が眠らされている間、弥助はどうしていたのか? 詳細は何もわからない、殺傷事件との繋がりも不明だ。しかし、唐突にこう思い付いた。
     弥助を殺すべきだ。
     そうだ。生贄としてあの黒い淵へと投げ込むのだ。そう決意した。
     とにかく弥助さえ殺してしまえば戦争が終わって数馬は帰って来る。連続児童殺傷事件も終結を迎えるに違いない。理屈や道理なんて要らない。そうすれば全てが終わるのだ。とにかく、全ての元凶は弥助にある。そうとしか思えない。だから、生かしておく訳には行かない。
     しかし、弥助は詩乃より小さくて老いぼれているとは言え人間だ。小動物のように容易くは行かない。どうすればいいだろうか? あの幻覚によって倒れたところを狙うか、でもそれはいつ起こるのか予測が出来ない。眠り薬もおそらくは番人が持って行ったに違いない、見当たらなかった。では、どうする。
     こうなれば実力行使しかない。背後から忍び寄り薪で頭を殴って昏倒させてやれば良い。そして手脚を縛り、目隠しでもして、物置小屋に置いてあった手押し車に乗せ森の中まで運ぶのだ。そして黒い淵へと投げ込む。
     そう手順を決め準備を整えて、詩乃はその機会を待つことにした。


     弥助

     突然釈放を告げられて追い出されるように屯所から外に出た。陽の光が眩しい。とにかくこれで自由だ。もともと殺人犯では無いし、少年に施した自らの性癖による悪戯(本人は愛撫と呼んでいる)もバレずに釈放だ。先ずは目出度き事に違いない。晴れて堂々とした顔で往来を歩き樺島邸へと向かう。途中で瓦版が配られていたので一部頂戴する。戦況などには興味が無い。どうなっても構うものか、社会面を見る。へえ、また児童が一人襲われたが、何とか一命は取り留めたらしい。早く本物の殺人鬼を捕まえて欲しいものだ。それが落ち着くまでは少しの間少年を漁る行為も少しは自重しなければいけないだろうか。あんな程度の事でも軽犯罪と見做され捕まったりしては詰まらない。全く世知辛い世の中になったものだ。
     弥助が願っていることは樺島家の復興と平和な世の中、自分が安心して少年達の柔肌を愛でる場所を確保すること、その三つだけだ。詩乃お嬢様に関してはもう諦め気分でいる。ただ何とかなるべく良い条件の下で世継ぎを産んで欲しいと望むのみだ。あの、何とか言う数馬なんて男はいけない。樺島家に相応しくない。家柄が大切なのだ。まあそれも戦争が終わって旦那様が邸に戻り次第、順次事を運べば良い。まだ詩乃は幼い。急ぐ事も無いだろう。それよりお園かそれに代わる人材を探さねばならぬ。そちらの方が当面の必要事項だ。
     そんなことをうつらうつら考えながら歩いていると突然どこかから大きなサイレンの音が鳴り響いた。空襲だ!と誰かの叫び声がする。えっと思う間もなく空に黒煙が立ち上がり近くの民家から炎が吹き出した。メリメリという激しい音。通りの向こうの空から何機もの戦闘機が爆音と共に飛来しダダダダッと機関銃を放射して行く。それに撃たれたのか血みどろの男達が数人逃げ惑って来る。女の叫び声、泣き喚く子供の声、どこにこれだけの人がいたのかと思うほど断末魔の叫び声が響き渡り、まるで地獄絵巻だ。弥助も砲弾に撃たれてその場に蹲り倒れ落ちる。すっと記憶を無くす。
     もしもし、大丈夫ですか?と声を掛けられ弥助は目を醒ます。ここは? と問うと町中ですよとのこと。ああ、また幻覚に襲われたらしい。辺りは平穏な昼下がりの町並みだ。すみません、すみません、何でもありませんと弥助はひたすら頭を下げその場を後にする。
     そうして何とか弥助は邸に戻った。戻ったことを詩乃に告げるとまるで幽霊でも見たかのような顔をして驚いている。手短に釈放された理由を説明すると、何も言わずにコクリと頷いて部屋の扉を閉めた。
     邸の中は何も変わらぬ状態だった。案の定だが、掃除も洗濯も何もせず、放ったらかしだ。食事はと言うと料理など一切やらず、保存食やら缶詰の類を漁っていた様子だ。流しに食べ残しや空箱空缶などが一緒くたに放り出されている。それらを一つ一つ片付けて行く。それから私室へ戻ると番人達が家宅捜査した跡がくっきりと残されていて嫌な気分になる。それも元通りに片付けるとひと息吐くため弥助は横になった。
     もうすっかり日暮れが近付いていた。まどろみの中で弥助は屯所で番人達に責められ続けたことを思う。彼らはしてもいないことを無理矢理口を割らせようと非道な振る舞いをした。この老人に対してはそんなもの何の役にも立たないことを弥助はよく知っている。やってもいないことは死んでも言わない。それに弥助がしていることは人を愛でることだ。本人が嫌がることは何もしていない。そして何より弥助自身がそれにより活力を得られる。番人は悪で弥助は善人である。その想いは更に強くなった。
     勾留されていた期間、弥助は殆ど眠らせて貰えなかった。四日いや、五日だろうか、年老いた弥助にはそれほど長い睡眠を必要とはしていない。しかし今、心安らげる自室に戻って弥助は静かに夢の世界への誘いに身を任せた。
     どこまでも続くような広い海の中を小舟は漂っていた。小舟には弥助が一人横たわっているだけで周りには誰もいない。小舟には櫂が装備されていなかった。漣のような波が小舟を揺らしゆっくりと何処かへ連れて行く。
     行く先を自分で選ぶことは出来なかった。何代にも続く樺島家への奉公、生まれながらにしてその道は決められていた。他に選択の余地はなかったから。何の疑いも持たず、当たり前に樺島家にて奉公を始めた。
     先代や先先代、当時邸に出入りしていた者達の顔が思い浮かぶ。いろいろな苦労をしたものだが、今となっては懐かしい。
     弥助は自分の人生を悔やんでいるかとの問い掛けには笑みを浮かべて首を振るだろう。人間として人生としてそれをするために生まれて来たのだ。そこに何の不満もない。仕事こそ我が人生だ。そして、生きる活力、悦びを与えてくれるのは幼い少年達の柔肌から滲み出るエキスだった。そんな自分がわざわざ好んで少年を殺そうとする筈が無い。
     戦争が始まり町から大人達の姿が消え、子供を守る体制が手薄になった。これは弥助にとって好都合な話であったが、同時に殺人鬼にとっても都合が良かった。ある意味弥助は殺人鬼の存在を忌み嫌っていた。奴らのしていることは弥助の対極であり妨害にも値する。殺人鬼は少年に苦痛を与え、弥助は悦楽を共有し合っているのだ。この世で悪なる者は子供を殺す殺人鬼であり誤った方法で他人を罰しようとする番人達だ。戦争は悲惨なものだが、それは災害によく似ている。人類の歴史は戦争によって出来ている。だがその一つ一つは早く終わらせるべきだ。でないと世界は先へと進めない。弥助の小舟は大波に揺られて大海に乗り出したように思えた。もう陸地はどこにもない。出口の無い迷路の中を彷徨っているようだ。
     樺島家、それが弥助の港だった。いろいろな小舟や帆船、時には大型船、貨物船、外国船、様々な船が邸を訪れた。ここに来る人々は皆笑顔で憩いのひと時を過ごし、そしてまた新しい海に戻って行く。それを見送ることが弥助にとってこの上ない喜びであった。筈なのに……、もうあんな栄華は望めないのだろうか? 時代が変わってしまったのか、この戦争のせいなのか、このまま人生を終えてしまうのか……。
     
     そんな夢をうつらうつらと見ていて気が付いた時、何故か手足が縛られ目隠しまでされていた。乗せられていたのは小舟ではなく手押し車のようなものだ。そしてここは大海などでは無く、森の中だ。幸いにも目隠しされた布は薄くぼんやりとあたりの景色が目に映る。すでに朝の光が辺りを照らしているようだ。
     手押し車の中で首を回し背後を目にすると誰かが手押し車を押している。誰だろう? その影のように見える姿は、こ、これは詩乃ではないか? 何故、詩乃がこんなことを?
    弥助は混乱した。眠っている間に何があった? 声を出してみる。何をしている。詩乃は笑って応える。
     あんたを生贄として捧げるのさ、まるで声がいつもと違う悪魔のような声色だ。笑っている。この悪魔は笑っているみたいだ。
     どのようにして?
     そんなこと聞いてどうする。悪魔の声だ。
     知りたいんだ。
     手押し車がごとごとと森の中をずんずん進む。
     この先に黒い淵があるのよ。そこにお前を投げ込むのさ。
     詩乃の形をした悪魔はそう言って笑った。
     何のために? 弥助は尋ねる。
     あんたを生贄として黒い淵に捧げる。そうすれば戦争は終わり、あの人も帰って来る。さらには連続殺人鬼もいなくなる。お父さまも戻ってらっしゃるわ。樺島家も安泰よ。もうお前は必要ない。安心して死になさい。
     そ、そんな、弥助は言葉を失った。自身を犠牲にすれば全てが終わる? まさか、まさか、そんなこと、あるはずがない。
     そうか、弥助は理解した。これは幻覚だ。幻覚を見てるに違いない。そうでなければ、そうでなければ、理屈に合わない。辻褄が合わない。これは幻覚だ。黙って目を閉じていればまた必ず目を醒ます。樺島邸の私室で、あるいはロビーの広間か、もしかすると裏の物置小屋かも知れないが、そこで幻覚は消える。そうに違いない。
     黒い淵が迫って来た。
     こんなところにこんなものがあったなんて知らなかった。何だろう、これは、まるで悪魔が作った儀式の場みたいじゃないか。
     黒い淵のほとりで手押し車は傾けられた。目隠しはいつのまにか取れていた。だが、両手両足は縛られたままだ。ずるりと音を立てて弥助の身体はゆっくりと黒い淵に滑り落ちた。黒い水はまるで密度の濃い泥のようで、その上に弥助の身体は浮かんだ。
     最初、暫くは何も動いてはいなかった。だが、やがてゆっくりとそれは渦を巻き始めた。同心円に広がる漣が揺らいで弥助の身体は少しずつ沈みながら流れに呑まれて行く。縛られている手足を動かし身をくねらせてみるが、どうにもならない。小動物と比べると老人であってもやはり人間は大きい。ほんの二、三周したところで弥助は円の中心の渦の中に今にも呑み込まれてしまうところだった。最期に弥助は黙って淵に佇む詩乃らしい人影を見据えた。何か呪文のようなものを唱える低い声が聴こえたが内容は掴めない。弥助の身体は強烈に回転する水力によって引き摺り込まれて行く。その刹那、森が見えた、その奥に空が、白く曇った朝の空が、手を伸ばせばそこに届く様な、空。
     黒い水の中に弥助が呑み込まれて行く、その瞬間、どこかからケタケタケタという声が聴こえた。ケタケタケタ、ケタケタケタ、何だろう?
    ああ、それは詩乃だった。詩乃が笑っている。実に愉しそうに、実に愉快な顔をして、ケタケタケタ、詩乃が笑っている。
     ケタケタケタ、ケタケタケタ、ケタケタケタ……。
     やがて黒い水が弥助の全身を包み、何も見えなくなる。詩乃の笑い声もどこか遠くへ消えて行く。薄れ行く意識の中、弥助は考えた。
     さて、この幻覚はいつ終わるのだろう?


     横溝

     森の奥、山深く、藪の中、姿の見えない黒い影に突然、体当たりされ、突き倒されたり押されたり。相手が誰なのかまるではっきり認識出来ない。
     思えば脱走者の立花とカズマを追って出た筈だ。それならばこれは奴等に違いない。知らない第三者の誰かかも知れないが、襲われる理由が解らない。
     もしこれが立花だとしたら、何故だ? 裏切りか? あり得ない事では無い。もともと奴は殺人鬼だ。奴はこの数日間俺の支配下でいた訳だが、状況が変わったという可能性もある。その可能性の一つがカズマの存在だ。
     もしや、アイツは俺と立花のして来た事に勘付いたのかも知れない。いや、多分そうに違いない。田山の話によると何度か牢を抜け出していたという可能性があるらしいから立花とどこかで会っていたとも考えられる。そこで俺と立花が手を組んでやって来た事を知る。そして、それを終わらせるため、二人して俺を嵌めた。そう考えると辻褄が合う。
     俺は早い段階で先に脱走した立花の居場所を突き止めた。奴は森に逃げ込んだのはいいが、そこから先に進めず困り果てていた。それを俺が匿ってやったのだ。ある条件をもとにして。
     俺はカズマから聞いて知っていた。あの樺島家に住んでる爺さんが子供に眠り薬を飲ませて裏の物置小屋で好きな事をしていると。それが何かは厳密には知らないが、爺さんは小児性愛者だ。爺さんは裏道で学校帰りの児童を物色し、言葉巧みに誘導し眠り薬入りの甘いジュースを飲ませる。少年は何の疑いも持たずそれを飲み干す。そして意識を混濁させて眠りに就くのだ。爺さんは少年を邸の裏庭にある物置小屋に連れて行く。中で行われていることは知らないが、大体の想像は付く。それはまあいい。そして事が終わると誰にも見つからないよう森に近い裏道から児童を帰らせる。まだ眠り薬から完全に抜け切らない児童はふらふらとまるで夢遊病者のような状態で森に近い小径を歩いて来るという。
     そこで俺は立花に話を持ち掛けた。脱走犯として捕まりたくなければその児童を森の中に連れ込んで襲えと。首を絞めるんだ。ただし殺してはいけない。死ぬ一歩手前で止めるんだ。そしてその場に置き去りにして放置しろ。後は俺に任せろ。いいかくれぐれも殺すな。それが条件だ。そうしたら俺はお前の事を軍には喋らない。匿ってやる。生き延びたければ、俺に従うんだ。そう強要した。
     立花は最初躊躇いはしたけれども素直に従った。そうさ最初から奴にどうするかという選択肢など無い。嫌なら牢獄に連れ戻すだけだ。脱走犯を待ち受けるのは地獄のような刑罰の日々だからな。
     それが連続児童殺傷事件の始まりだった。
     樺島家の爺さんが可愛がった後、ふらふらして歩いて来る児童を立花が森の中へ連れ込んで首を絞める。殺す一歩手前で止める。後はただ俺がその少年が死んで行くのを見て愉しむだけ。
     立花は殺しまではしていない。未遂だ。実際は死んでしまった子供もいるのでそれで通る話でもないが。いずれにしても立花は罪から逃れられない。この俺はと言えば児童には指一本触れていない。直ぐに誰かを呼んだり手当てをすれば少年の命を助けることは出来るのだから、まったく罪が無いとも言い切れないが、誰にも知られない限り捕まることも無い。
     俺は死んで行く少年の姿をそこで見ていたかった。それは至高の瞬間だった。こんな美味しいこと、そう簡単には止められ無い。
     しかし、子供達はそうそう簡単には死んでくれなかった。蘇生する場合も多かった。その場合俺はもちろんがっかりしたのだけれど、手出しはしない。勤務が始まる時間までに死なずにじりじりして仕方なくその場を後にした事も有る。それでもいい場面に出会えた事に満足した。
     そんな中、危険なことが一度あった。子供が倒れているところを人に見られたのだ。口封じのため立花に背後から襲わせて気絶させた。立花が言うにはその若い娘は小石川にある樺島家の娘だと言う。俺も顔を見てそうかと思い当たった。この町では有数の財閥の娘だ。そんな者がこんなところに倒れていては大事になる。番人達が多数この一帯の警護を始めたら何かとやり難くなる。俺は立花に指示し、娘を樺島家の正門前まで移動させた。後の事は知らぬが、多分上手く行った筈だ。
     だが、そんな事をしているのをカズマに気付かれたに違いない。立花とカズマは以前から繋がりが有った様だ。秘密の抜け穴の事をカズマが知っていたことからそれが推測される。おそらく抜け穴はカズマの発案だったのではないかと思う。
     更にカズマは田山を利用して俺を撹乱させた。横溝さんに可愛がられたいなどと嘘を付き、俺を翻弄した。狙い通り俺はその時少し怯んでしまった。田山から聞かされた以前の囚人による看守襲撃事件の話も俺をビビらせた。そこでふと思う、あの話は本当の事だろうか、まさか田山も一枚噛んでいるのか、あるいはカズマの入れ知恵なのか、真相はわからない。
     そんなこれまでの経緯はともかく、俺は今、非常に危険な状態にある。藪の中から縦横無尽に襲い掛かる黒い影はカズマなのか? 立花なのか? それは判らなくても闘うしかない。お互い命掛けだ。
     藪の中で周囲に気を配り身構えていると突然背後から強い衝撃を受けた。たまらず俺はその場にうつ伏せに倒れ込んだ。相手は背後から俺の身体を押さえ付け、身動き出来ない様にして、首を絞める。物凄い力だ。俺は懸命にそれを振り解こうとして身を捩る。その時、腰に装着していた拳銃を抜き去られてしまうのを俺は感じた。万事急須だ。反撃に出ようと背中に覆いかかる相手を力任せに投げ飛ばすも相手も素早い動きで藪に姿を隠した。
     これはまずい、戦いの中で相手の行方を見失うのはとても危険な事だ。しかも拳銃を奪われた状態だ。いつどこから弾丸が飛んで来るのか分からない。
     カズマ、出て来い! 俺はそう呼び掛けた。
     オマエ俺に可愛いがられたかったのじゃ無いのか? それともあれは嘘か? 返事をしろよ。
     返事は無い。
     おい、今静かに出てくれば全部水に流そう。俺は黙っておいてやる。立花も聞いてるか? なあ、俺達は互いに楽しくやっていたじゃないか、またあの関係でこれからもやって行こうぜ。なあ聞いてるか? 悪い話じゃ無い。俺達が生き残るためにもそうしようじゃないか、良いだろ。
     そう言った瞬間、轟音が轟き俺の背中を弾丸が撃ち抜いた。
     今まで味わった事の無い強烈な衝撃に俺は呼吸が出来なくなった。身体の真ん中に重い鉛の塊が食い込んで、痛いというより熱い。肉が焼け骨が砕けて血飛沫が飛ぶ。膝に力が入らなくなり堪らずその場にドサリと倒れた。
     何故だ?
     こんなところで俺は死ぬのか?
     目の前が霞んでドクドクと身体から血が噴き出して行くのを感じた。
     生い茂った緑の草の葉に色鮮やかに真っ赤な血液が滴り落ちる。
     綺麗だ。こんな時にそんな事を思っている場合では無いのだが、綺麗だった。
     小さな足音がして黒い影が近付いて来る。薄れ行く意識の中でそれを捉えた。
     ヨコミゾさんよ。もうアンタはおしまいだ。
     カズマの声がした。
     あ、あう、あう、言葉が出ない。
     カズマは俺の腰からナイフを引き抜くと俺の顔の前にそれを翳した。
     そらよ。よく見てみなよ。自分の顔を。
     ナイフの金属の部分にぼんやりと自分の顔が映っている。
     見たかったんだろ。人が死ぬところを。最期に自分の死に際をたっぷり見ておきなよ。あんたに相応しい幸福な最期だ。
     カズマの声をぼんやり聞きながら、ナイフに映った自分の顔が段々と見えなくなって行く事がとても残念だった。
     だがその時、薄れ行く意識の中でこう感じていた。これが死ぬということなのか、ああ、これなら、死ぬのも、それほど……、悪く、ない……。
     
     横溝は息絶えた。
     横に置かれたナイフには引き攣って笑っているようにも見える彼の死に顔が映っていた。
     その後、立花とカズマの行方を知る者は誰もいなかった。




     最後に

     次の日の夕方、号外としてこんな記事が瓦版に掲載された。

     軍からの発表
     二名の脱走兵が森の中へと逃走した。現在、軍当局はそれらの捜索に当たっている。不審な人物を見掛けたり、何かを発見したら直ちに報告せよ。
     脱走者氏名
     立花 要蔵 (たちばな ようぞう)
     一間 耕助 (かずま こうすけ)


     尚、上記脱走兵の捜索に当たっていた軍の兵士が何者かによって銃撃され、その死亡が確認された。冥福を祈る。
     死亡者の所属部隊及び氏名は次の通り

     陸軍五六四部隊二等兵
     横溝 数馬 (よこみぞ かずま) 



     終

     
     
    sakiと申します。 詩や小説を書いてます。ジャンル別、シリーズ別にマガジンを区分しました。 よろしくお願い致します。

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