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僕は、ママの救世主

    結婚してたった2年で、私たち夫婦はがん患者になった。

    子どもは親を選んで生まれてくるというけれど、もしそれが本当なら、息子は私の命を救うために生まれてきたのかもしれない。

    第一子を出産して2週間後、私は子宮頸がんを告げられた。

    夫はステージ4の肺腺がん、私は子宮頸がん、息子は生後2週間。

    これは、今からちょうど2年前、がんと新しい命と向き合った私たち家族の記録。


    今から4年前、長年婚活を経て、年下のシンガポール人と国際結婚をした。出会いからトントン拍子に進みすぎて、「これ、ロマンス詐欺じゃないよね?」と本気で疑ったほどだった。気づけば、出会って8か月後には本当に結婚していた。


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    結婚式(シンガポール)にて↑


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    日本で撮った結婚写真↑



    ごく普通の結婚生活がスタートし、短めの睡眠時間で活動的に仕事もこなし、コロナにも掛からなかったほど健康には自信があった彼。結婚する少し前から、片足が痺れると、針治療に行ったり、マッサージに通うも、足の痺れは良くなったり、また出てきたりの繰り返し。症状から座骨神経痛を疑った夫は、腰周辺だけMRIを撮るが異常なし。しばらくすると痺れの症状が無くなり、一安心していた。

    新婚4か月のある朝、それは突然の出来事だった。
    普段通り一緒に寝ていた私たち。ある月曜日の早朝、何の前触れもなく突然、雷に打たれたかのように激しい痙攣をしだす夫。大声で名前を呼んでも、反応はなく目をつぶったまま痙攣し続け、救急車を呼ぶが、私は絵に書いたようにパニックになり自宅の住所を言えなくなるほどだった。救急車で運ばれる前日まで元気だった夫、数日前には出会った日の記念でディナーを楽しんだ私たち、数日前の出来事が遠い過去のように感じられるほど、私は今何が起こっているのかを整理するのに必死だった。入院している夫、自宅で一人で過ごす私、結婚したばかりの夫が全身バタつかせていた姿が脳裏から離れない、恐怖と不安だけが終わりなく交互に押し寄せる、、、なぜ痙攣が起きたのか、検索すればするほど、更に恐怖が押し寄せ、生きた心地がしないとはこのことだった。何が起こっているのかわからない、ということが、どれだけ怖いことか、、、身をもって知った。

    肺腺がん(ROS1)脳転移あり、ステージ4
    夫の病名と進行状態を告げられた時の心境は、意外なものだった。
    衝撃と動揺、そして腹が決まった決心のようなすがすがしい気持ちも入り混じっていて自分でも驚いた。というもの、痙攣したあの日から何が起こっているのかがわからなかった時のほうがもっと怖かったし、病名と現状がわかり少しほっとしたのだ。

    新婚夫はがんステージ4
    始まったばかりの結婚生活に、初めての試練が訪れた、しかもなかなか大きな試練。結婚の誓いの言葉でよく言う、病める時も健やかなる時も、というアレ。結婚早々に“病めるとき”ってのが、早速来てしまった。
    それなのに、告知された夫は落ち込むどころか全くと言っていいほど、ことの重大さを気にしていなかったのだ。夫がいつも言っている言葉があった、『問題には必ず解決策がある』
    心配する私をよそに、肺腺がんなのに煙草を辞めようとせず、深夜を過ぎても普段と変わらず、ずっと起きている夫と何度も言い争いになった。心配性の妻VSとことん呑気な夫、こんな感じ。


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    脳腫瘍治療、ガンマナイフ治療風景↑
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    入院した時↑

    YOLO(You Only Live Once)人生一度きり❕そう、振り切った私たちが告知後したこと、それは旅行だった。バンコク、ベトナム、バリ、マレーシア、コロナで旅行ができない時期に出会った私たちは、これ見よがしに旅行に行きまくった。万が一を考え、病院に行きやすい大都市を選んでの旅行、旅行好きな心配性の私、とことん呑気なマイペース夫の共通の趣味であった旅行を思いっきり楽しんだのだ。

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    バリ旅行↑
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    ベトナム旅行↑


    この相反する性格の私たちだが、夫を心の底からすごいと思えたのは、夫が『がん、怖くない』と断言したことだ。そうはいっても、がんは、“がん”だ。しかもステージ4、怖くないはずがない。
    「私の前で強がっているだけ?」そう思ったこともあった。でも、普段の生活を見ている限り、どうやら本気らしい。いいのか悪いのか、告知前と変わらない生活。
    食欲は落ちるどころか絶好調だった。ミネラルたっぷりの塩に、オーガニックの野菜など、食生活を気遣う私をよそに、食事の内容なんてお構いなし、食後のデザートまでぺろりと完食する夫。夜遅くにだってお構いなし、大好物のアイスクリームが乗ったワッフルを一人で平らげる。深夜まで起きて、大好きなピーナッツ片手にワールドカップを観戦。薬の副作用で食欲が増し、短期間で体重はなんと24キロ増加。むしろ、別の病気にならないか本気で心配したほどだ。
    しかも、鼻歌まで歌っているではないか。
    この人は、一体何なんだ。
    脳に腫瘍がいくつもあるんだよ?あなたの頭の中に。
    それなのに、目の前の夫は、いつも通りなのだ、、、
    本当にあなたはステージ4のがん患者なの?と疑いたくなるほど、告知後もマイペースは健在だった。


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    薬の副作用で体重増加した時の夫↑


    告知から数カ月後、夫が唯一死を覚悟した時
    ある日曜日の午後のこと。
    夫が自宅で一人で過ごしていた時、突然、痙攣を起こしたのです。毎日服用していた抗痙攣薬を飲もうとしたその時の出来事、その日私は仕事で不在だったのです。徐々に痙攣が強くなる中、夫はなんとか意識を保ちながら、親友に助けを求めました。連絡を受けた親友が救急車を呼んだのですが、夫は自宅の中で倒れており、ドアを開けることができませんでした。駆けつけた消防士はドアを壊して室内へ入り、そのまま救急車で病院へ搬送されました。後に夫は、「あの時、自宅で一人だった自分は、死を覚悟した」と話していました。

    私の中の「がん=死」というイメージを覆した、マイペース夫
    主人の肺がんの種類は1万人に1人と言われるほど、稀ながんだった。そのため、ネットで調べてもなかなか情報が出てこないと、いつも夫が嘆いていた。原発がん肺の治療は、飲む抗がん剤での治療だった。幸い吐き気などどの副作用もなく、仕事にも支障をきたすことなく治療をすることができた。相変わらずマイペースな夫は、検査の結果を見ながら、自己判断で抗がん剤を飲まない日も少しずつ増えていった。

    がん宣告を受けてから、夫婦間でも変化があった。それは夫が強く子供を望んだことでした。生命の危機を感じると、その本能から子孫を残したくなると言うけれど、夫も例外なく、子供を強く欲しがった。もしも、夫に何かあったら、そう思うと子作りなんて考えられなかった私VS子孫を絶対残したい夫、意見の違いから言い争うこともありました。

    がん告知から1年の奇跡
    がん告知後、脳腫瘍はガンマナイフという放射線治療を受け、他の臓器などに転移無し経過も良好。そんな矢先に、想定さえもしていなかった妊娠が発覚する。がんを告知されてから、体外受精も考慮し一度受けていたブライダルチェック(卵子、精子の状態を検査するもの)、夫婦ともに問題はなかったものの、私の年齢で妊娠する確率は1%未満という現実を突きつけられるが、夫婦で話し合った結果、自然な流れに任せようと話していた半年後に想定外の妊娠だったのです。


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    まだお腹の中にいた時の息子↑


    夫はがん、そして高齢出産

    42歳での妊娠ということもあり、多方面で色々覚悟はしていたが、拍子抜けするほど順調な妊娠生活、各検査も問題なく、つわりもなし、仕事も出産直前まで働けるほど、健康と体力が取り柄の私らしい妊婦生活で妊娠中にも夫婦でたくさん旅行をした。

    出産予定日を数週間先に控え、仕事を終え自宅で過ごしていた時、突然の破水、予定日より6週間早く分娩室に入った。内診する度ドクターが『出血している、なんでだろう?』原因不明の出血、その後帝王切開に切り替わり6週間早く第一子の男の子が生まれた。


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    出産から2日後のMRI
    無事に第一子が生まれ喜びも束の間、帝王切開の傷跡が痛むままドクターの内診を受けた。出産後ということもあり出血していて、よく見えないと。そのままMRI、機械の中に入ると、涙が自然に流れた。生まれたばかりの息子、何が起きているのか、これからどうなるのか、不安が頭を駆け巡った。

    2010グラムの未熟児で誕生した息子は、自分でミルクを飲めるようになるまで病院で過ごし、私だけ先に一人で退院。MRIを受けた1週間後、CTスキャンの予約を入れらていた、嫌な予感しかしない。それから、数日後の深夜、トイレに行くと鮮血が止まらなくなり緊急入院をし、息子が入院している病院へ数日ぶりに逆戻りした。24時間面会可能だったため、息子に会いに行ける時間が唯一の救いだった。


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    念願のカンガルーケア↑



    子宮頸がんステージ2B

    「マザーキラー」そんな名前で呼ばれる病気、幸運にも出産してから告げられた私の病名。放射線治療を受ければ、もう妊娠はできない。緊急入院した翌朝伝えられた病名私の進行具合では手術という選択肢はもはや無く、抗がん剤、放射線治療のみ、丁寧に説明をしてくれたドクター、看護師さんに安心しつつ、窓辺のベッドで空を見つめる。今までできていた当たり前のことが、愛おしく感じた。夫婦でがん患者、生まれたばかりの息子、治療、人生、いろんなことが頭を駆け巡る。自分の手で育てたい、42歳で母となり、がん患者になった私。どうしても息子と一緒に過ごしたかった、母乳をあげたかった、治療の副作用のリスクを受け入れられず自然治療という望みに掛けたかった。

    私の決断を否定しなかった夫
    子宮頸がんになり、かなり進行が進んだ状態だったにも関わらず、副作用の説明も受けた私は、できることなら治療はしたくない、抗がん剤を投与したらおっぱいも上げられなくなることから、治療するという選択肢は私にはこの時なかった。がん患者の“大先輩”である夫は、だれよりもがん患者である私の気持ちを理解してくれ、周りに治療をしたらと言われても、何も言わず私の決断をサポートしてくれた。

    出産から1か月後、体重も順調に増えミルクも問題なく飲めるようになった息子は退院した。3,4時間に一度の授乳、おむつ交換、寝不足になりながらも息子と過ごせる時間は安らぎに満ちていた。生後三か月になった息子を連れて、岩手の実家にも帰省したが、どうしても両親に病気のことを話せなかった。生まれたばかりの息子、夫はがん、シンガポールで離れて住む私たち、私もがんだった、、、、なんて言えない。


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    生後3ヶ月で一時帰国↑
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    一時帰国、鎌倉にて↑



    2週間の一時帰国から戻り、数日後の日曜日。外出先でランチを食べ、夫の友人宅へお邪魔し、トイレに行った時、トイレが一瞬で真っ赤になるほどの大量出血、止まらない鮮血、息子は旦那に託し、私は救急車で搬送された。

    あの恐怖が、治療を決意させる
    救急車で搬送されてから2日たっても、完全に血は止まらずにいた。授乳していた胸は息子におっぱいを上げられなくなり、一度だけ胸はパンパンに腫れ上がったが、搾乳機で絞り出すと、それっきり全く出なくなった。

    ステージ3Cリンパ転移
    サプリメントに、スーパーフード、オーガニック食品などなどがんに効くと言われるものは試せるだけ試し、できる限りのことはやってきたが、3か月でステージ2Bからステージ3C、そしてリンパ2か所転移してしまっていた。

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    治療前に家族で
    イーストコーストパーク(シンガポール)へ


    納得し臨んだ、2か月にわたる治療
    私がなぜ、治療をはじめからしなかったのか、これには明確な理由がある。それは、自分が納得したうえで治療を選びたかったからだ。ドクターが言うから、周りに説得されたから、そんな他人の物差しで選択した決断をしたくなかったのだ。治療に切り替えると決めてからは、治療の準備のため毎週病院に通い、息子を近くに住む義理両親に預け、2か月にわたり平日毎日病院へ通い放射線治療と週に一度の抗がん剤治療に専念した。


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    抗がん剤治療↑


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    ムチムチ息子の手↑

    副作用で、以前は軽々抱けた我が子の抱っこがとてつもなくしんどく、老人のようにゆっくりしか歩けない、ベッドから起きられない日もあったが、息子と家族の存在がいつも私の支えだった。

    子どもを抱っこできる、
    食事が食べられる、
    普通に歩ける、
    今までできていたことができなくなっても、今までできていたことに感謝できるようになっていた。

    ふと、想うことがある。
    妊娠が判明する前に、検査していた子宮頸がん検診。
    この時の結果は陰性、そして妊娠。
    あの時のから腫瘍はあったが、たまたま見つからなかったのではないか。
    もし、あの時見つかっていたら、妊娠はしていなかっただろう。


    出産時に見つかった腫瘍、

    無事に生まれてきた息子、

    息子が生まれていなかったら、どうなっていたのだろう。

    2か月に渡る治療を家族の協力の元、乗り切った。順調に大きくなった息子を抱っこもできるし、友達とお茶にも行ける、マレーシアに家族でロードトリップもできる、治療を終えた私は以前よりも逞しくなった感じがしていた。


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    治療後、クアラルンプールへロードトリップ↑


    2か月後の経過観察と両親への報告

    治療を終えて初めてのMRIとCTスキャン。もちろん結果は気になった。でも、2か月の治療を乗り越えた私は、不思議と落ち着いていた。結果がどちらに転んでも大丈夫。そんなふうに思えるくらいの気持ちに余裕があった。

    夫と二人で診察室に入ると、ドクターは笑顔でこう言った。
    「Hello. とってもいいニュースよ。」
    推定7センチあった腫瘍と、2か所に転移していたリンパのがんは、私たちの目にもわかるほどきれいに消えていた。

    いい結果を聞いたその日のうちに、岩手の両親へビデオコールをした。今回の結果がどうであれ、今日は今までのことを伝えようと決めていた。
    出産時に腫瘍が見つかったこと、
    岩手に帰省した時には、すでに告知を受けていたこと、
    どうして今まで話せなかったのかという理由、
    そして、今日知らされた検査結果。

    治療中は義理の家族が生後間もない息子の面倒を見てくれたこと、家族の全面的なサポートに支えられたこと、その甲斐あって2か月に渡る治療に専念することができたことも伝えた。

    「がん」という言葉を聞いた瞬間、普段物静かな母は大きな声を上げた。それもそのはず、数カ月前に生後間もない息子を連れて帰った時は、すでに“”がん患者”だったのだから、驚かないはずがなかった。
    その隣で、いつも陽気でおしゃべりな父は、ただ静かに涙を流し私の話を聞いていた。やっと伝えられたこと、大変だった治療を終え今は家族で生活できていることを伝えられ、肩をなで下ろす私たち。
    一方で、寝耳に水だった両親は、まだ現実を受け止めきれていない様子も伺えた。

    結婚の報告をした時以来の、大きな報告。でも今回は、家族への感謝であふれる節目になった。


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    アクアリウムにて↑


    治療前の予祝と治療後の快気祝い
    治療が始まる前日に治療を終え完治したことを前提に“予祝”を焼肉屋でしていた私たち、治療が終わったら今度は快気祝いしようと約束していた行ってみたかった焼肉屋さん。予祝と快気祝いの焼肉の味は、格別だったし、両親へ報告も無事にできたことに改めて感謝し、何とも言えない安堵感と達成感でいっぱいだった。

    現在、がん告知を受けてから4年目になる夫、丸2年がたった私。
    もし、先に夫ががんになっていなかったら、、、私はがんに対する恐怖から前を向くことが難しかったかもしれない。がんを恐れなかった夫の姿を一番近くで見ていたからこそ乗り越えられたと感じている。

    現在夫は、3か月に一度の定期検査を行い仕事もバリバリこなせている。そして、私の救世主の息子はと言うと、先日2歳の誕生日を迎えたばかり、順調にすくすく育っている。結婚してから、既に“病める時も、健やかなる時も”体験し、なかなかハードな4年間を過ごした私たち。時々、夫婦喧嘩をするどこにでもいる家族として過ごせている。

    がんになりたい人なんて、誰もいない。
    私だって、できることなら経験したくなかった。

    がん、そのものより怖かったのは
    何が起こっているかわからないこと、
    一人で抱え込むこと、
    大切な人を失う想像をすること。

    私たちが本当に恐れていたのは、
    きっと「死」そのものではなく、
    「大切な日常を失うこと」だったのかもしれない。

    夫と焼肉を食べられることも、
    息子を抱っこできることも、
    両親と笑って話せることも、
    奇跡みたいに愛おしい。

    子どもは親を選んで生まれてくると聞いたことがある。

    もし、それが本当なら

    息子に一度だけ聞いてみたい。

    どうして、ママのところに来てくれたの?

    妊娠がわかる前の検査で、もし腫瘍が見つかっていたら

    私は妊娠していなかったかもしれない

    君にも会えていなかったかもしれない

    そう思うたび、不思議な気持ちになる

    出産と引き換えのように見つかった腫瘍

    そして、生まれてきてくれた息子

    あの日々を振り返るたびに思う

    君は、私の命を救うために生まれてきたのかな。


    がんを経験し命と向き合った私たち夫婦は、 元気すぎる2歳児に振り回されながら、 「どこにでもいる家族」として暮らしています。


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    My love♡ My boys↑
     
     
    英語力ゼロで世界一周→タイ・シンガポール移住→国際結婚→夫婦でがん患者。波乱万丈に見えるけど、全部本音とズレて生きていた証拠だと今は思っています。本音のズレは、人生のズレ。本音対話ネキSaki

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