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【第6回】国家存亡のパニックが「属人化」を破壊した。白村江の戦いが生み出した、古代日本最大の「酒造りマニュアル化」革命|一滴の酒が語る「もう一つの日本全史」

    サムネイル写真は奈良県・平城京跡にある「造酒司が使用していた水路の跡」です。
    今回の話には平城京は出てきませんが、その前身である藤原京にも造酒司はあったと記録されています。時代もそんなに離れていないので、造りは同じようなものだったと考えてもいいのではないでしょうか。

    前回はこちら!

    「日本という国が、外国の巨大な軍隊によって滅ぼされるかもしれない」

    日本の歴史上、我々の祖先が初めてそのような「国家存亡の極限の恐怖」を味わった出来事をご存知でしょうか。今から約1350年前、7世紀中頃に起きた「白村江(はくすきのえ)の戦い」です。

    当時の超大国である唐・新羅の連合軍の前に、日本(ヤマト王権)は壊滅的な敗北を喫しました。しかし、歴史の皮肉とは恐ろしいものです。実はこの未曾有のパニック状態こそが、列島を一つの強固な国家へとまとめ上げ、同時に「日本の酒造り」を、呪術から完全な「国家の独占システム(科学)」へと劇的に進化させる決定的な引き金となったのです。

    こんにちは、『一滴の酒が語る「もう一つの日本全史」』へようこそ。

    第6回となる本記事では、国家の恐怖とバイオテクノロジーの進化が交錯し、ついに酒が「文字(記録)」によって管理され始める飛鳥・奈良時代の歴史の裏側に迫ります。

    【本章で解き明かす歴史の謎】

    • 白村江の敗戦がもたらした「国家滅亡の恐怖」と中央集権化のリアル

    • 財務省の中に巨大醸造施設? 「造酒司(さけのつかさ)」とは?

    • 「呪術」から「データ」へ。文字がもたらした酒造りのマニュアル化

    • 記録が語る酒の役割の変化。『播磨国風土記』と『万葉集』

    なぜ、古代日本のリーダーたちは、国家の危機に直面して「酒を造るための巨大な役所」を作ったのでしょうか? 歴史の教科書では単なる「敗戦」として一行で終わる出来事が、いかにして日本の発酵文化を劇的に進化させたのか。知られざるテクノロジーと権力のドラマへご案内します。

    1. 白村江の敗戦と「パニック」が産んだ防衛国家

    7世紀中葉から後半にかけての東アジア世界は、唐帝国の強大な軍事的膨張により、未曾有の激動期にありました。660年、唐・新羅連合軍によって同盟国である百済(くだら)が滅ぼされると、ヤマト王権(斉明天皇および中大兄皇子、のちの天智天皇)は百済復興のために大規模な軍事介入を決断し、大軍を海の向こうへ送り込みました。

    しかし663年、「白村江の戦い」において日本・百済遺臣の連合軍は、最新の軍事力を持つ唐・新羅連合軍の前に壊滅的な敗北を喫します。

    【海を越えてくる「見えない恐怖」】

    この敗戦が列島にもたらした影響は、単なる「海外遠征の失敗」というレベルのものではありませんでした。 「強大な外国の軍隊がそのまま海を渡って、日本列島へ侵攻してくるかもしれない」。そんな極限の恐怖(国家滅亡の危機)が、日本の支配層全体をパニックに陥れたのです。

    ヤマト王権は、旧来のゆるやかな氏族連合(豪族たちの寄り合い所帯)のままでは、超大国に対抗しきれないことを痛感します。彼らは敗戦直後から異常とも言える速度で、九州に「水城(みずき)」という巨大な防衛用の防塁や大野城などの山城を築き、防人(さきもり)を配置して徹底的な防衛ラインを構築しました。

    【生き残るための「律令制(りつりょうせい)」】

    外敵から国を守るためには、強力な軍隊が必要です。そして軍隊を維持するためには、莫大な「富(米)」を一箇所に集めなければなりません。

    ヤマト王権は、土地と人民を国家が直接管理し、全国から効率的に税を吸い上げるための急進的な中央集権体制、すなわち「律令制(りつりょうせい)」へと猛スピードで傾斜していきます。 地方の豪族たちに任せていた富の管理をすべて国が奪い取り、「法律」と「役所」によって列島を一つのシステムに統合しようとしたのです。

    【初の本格的都城「藤原京」とルールブックの誕生】

    この中央集権化の壮大な総仕上げとして建設されたのが、唐の長安をモデルにした日本初の本格的な中国式都城「藤原京(ふじわらきょう)」です。 そして701年(大宝元年)、この巨大な都市と国家システムをコントロールするための最終的なルールブック、「大宝律令(たいほうりつりょう)」が制定されました。

    ここに、緩やかな氏族連合だった古代の「ヤマト王権」は完全に終わりを告げ、法律と官僚システムによって動く強力な「律令国家・日本」が誕生したのです。

    この「国家存亡のパニックから生まれた、すべてを国が一元管理するシステム」。 実は、この強烈な防衛国家化の波の中に、神聖な祈りの液体であった「お酒」も完全に飲み込まれていくことになります。

    2. 巨大醸造機関「造酒司」

    白村江の敗戦によって生まれた「防衛国家」としての凄みは、単に城を築くことだけではありませんでした。国家を維持するための儀式や外交において、最も重要な資材である「お酒」を、国家が自らの手で直接製造し、管理し始めたことにあります。

    飛鳥時代後期の飛鳥浄御原令(689年)によって設けられた「造酒司(みきのつかさ/さけのつかさ)」は、701年(大宝元年)に制定された大宝律令においてさらに体系化され、皇室の家政を司る宮内省の管轄下で強固な専門役所として機能するようになりました。

    【官公庁に醸造施設がある!?】

    現代の感覚で言えば、「財務省や宮内庁の敷地内に、国家予算を投じた巨大な最新鋭酒蔵が併設されている」ようなものです。

    その組織構造は驚くほど精緻に設計されていました。役所のトップである「正(かみ)」を筆頭に、実務を監督する「佑(じょう)」、公文書を厳密に管理する書記官「令史(さかん)」といった官僚たちが、お酒の製造と在庫を監視していました。 さらにその下には、実際に酒を造る「酒部(さかべ)」と呼ばれる60名の世襲的な専門技術集団が配属されていました。これに肉体労働や雑務を担うスタッフを合わせると、100名近い人間が常駐する、まさに「巨大な国立醸造施設」だったのです。

    【税としてのお米を「権威」に変える装置】

    なぜ、国家はこれほどまでに巨大な組織を作って酒造りを独占したのでしょうか? その最大の理由は、「税として集めたお米に、さらなる付加価値を与えるため」でした。

    律令国家は「租(そ)」という税制により、全国から膨大な量のお米を徴収しました。このお米は現代でいう「通貨」です。その貴重な通貨を、造酒司という国家専用の工場で、最先端の技術(カビの力)を用いて「最高級の美酒」へと加工する。 そうして造られたお酒は、天皇が主催する重要な神事や、官僚たちへの給与の代わりとして行われる饗宴(直会)において、独占的に振る舞われました。

    「自分たちは、天皇の配下にある役所でしか造れない、特別な飲み物を下賜されている」。 この強烈な特権意識を植え付けることで、ヤマト王権は血縁を越えた広大な官僚組織を一つにまとめ上げ、天皇を頂点とする厳格な身分秩序(ヒエラルキー)を維持したのです。

    【階級を可視化する「透明度」。給与としての酒システム】

    この時代、お酒は役人たちへの「給料(現物支給の禄)」やボーナスとしても機能していましたが、何より興味深いのは、「お酒の透明度」がそのまま「身分の高さ」を完全に表していたという事実です。

    当時の醸造現場には、現代の酒蔵のように圧力をかけてお酒と酒粕を分離する「上槽(じょうそう)」の高度な技術がまだありませんでした。 では、どうやって酒を分けていたのか。発酵が終わったドロドロの醪(もろみ)を大きな甕に入れ、じっと安置して固形物が底に沈殿するのをただ待ったのです(自然沈殿)。

    このタンクの中で分離した液体は、見事なまでに身分社会の構造を体現していました。

    • 最上級(澄み酒)
      表面にごくわずかに浮かぶ、キラキラと透き通った「上澄み」。これは天皇や一握りの高官だけが口にできる、文字通りの特権の味でした。

    • 中・下級(濁り酒)
      下にいくにつれて白く濁った部分が配分され、階級が下がるほどにお酒は「白く、重く」なっていきました。

    • 庶民(どぶろく)
      そして、沈殿を待つことすら許されない、固形物が混ざったままのドロドロの「どぶろく(濁酒)」が、かろうじて市民(庶民)の口に入るレベルだったのです。

    酒の透明度は、飲むたびに自分の階級を思い知らされる、視覚的な支配装置でもあったのです。

    【「器の内側」に模様がない理由】

    この「庶民の酒は白濁していた」という事実は、日本の工芸史にも面白い謎を残しています。 飛鳥・奈良時代の古い酒器(かわらけや漆器)を観察すると、外側には美しい装飾があっても、「器の内側(底)」には絵付けや模様がほとんど見られないことに気づきます。

    なぜでしょうか? その理由は極めてシンプルです。 お酒が白く濁っていて、注いでしまえば器の底など全く見えなかったからです。

    戦国時代劇などで、町民が透明な酒を飲んでいたり、模様の入ったお猪口の底を覗き込んだりするシーンがありますが、あれは後世の「清酒」が普及した後の文化。この時代の庶民にとって、お酒は「透かして見るもの」ではなく、器の底すら隠してしまう「白い塊」でした。

    現代の私たちが、お猪口の底にある青い二重丸(蛇の目)を見て透明度をチェックできるのは、実は江戸時代以降に清酒が大量生産され、お酒が「透明な液体」として解放されたからこそ生まれた、極めて新しい文化なのです。

    【機密としての醸造技術】

    このように、酒の透明度までをもコントロールし、身分社会の「境界線」を引くための魔法。 造酒司という国家専用の工場は、経済と宗教、そして「視覚的な身分差別」のすべてを掌握することで、ヤマト王権の中枢化を裏側から支え続けていたのです。

    3. 「呪術」から「データ」へ。文字がもたらした酒造りの科学化

    律令国家という巨大なシステムが、それ以前の「豪族の連合体」と決定的に違っていた点。それは、あらゆる情報を「文字(漢字)」によって記録し、管理する「文書行政」の徹底でした。

    この「文字」という新しいテクノロジーの導入は、日本の酒造りを「神秘のベール」から引き剥がし、論理的で再現可能な「科学」の領域へと押し上げることになります。

    【巫女の「勘」から官僚の「レシピ」へ】

    それまでの酒造りは、第4回までで見てきた通り、巫女が米を噛む(口噛み酒)といった、属人的で呪術的な行為が中心でした。そこには「なぜ発酵するのか」という理屈はなく、あるのは「祈りと経験」だけでした。

    しかし、国家の役所である「造酒司(さけのつかさ)」に集められた渡来人系の技術者たちは、そのプロセスを「文字」によって解体・再構築しました。 米、水、そして麹(カビ)を、いつ、どのくらいの割合で配合すれば、最も効率的に、かつ確実に美味しい酒が造れるのか。彼らはその「黄金比(レシピ)」を数値化し、木簡や紙に記録していったのです。

    これこそが、日本の歴史における「酒造りの科学化」の瞬間でした。 「文字で残す」ということは、特定の誰かの勘に頼らなくても、マニュアル通りに作業すれば「誰でも、どこでも、同じ品質の酒」が大量に造れるようになることを意味します。

    【『播磨国風土記』に刻まれた歴史的瞬間】

    この時代、酒造りのあり方が変わったことを証明する決定的な文献があります。8世紀初頭に編纂された『播磨国風土記(はりまのくにふどき)』です。

    そこには、神への供え物の米が濡れてカビが生えたので、それを使って酒を造り、神に捧げて宴をしたという記述(庭酒:にわき)があります。
    実は、日本で初めて「麹(カビ)」という存在が公的な文書に現れたのが、この記録だと言われています。

    それまでは「たまたま起きた奇跡」として片付けられていた自然現象が、文字として記録され、整理されることで、国家が共有すべき「バイオテクノロジーの知識」へと昇華されたのです。

    【大規模生産を支えた「再現性」】

    文字によるマニュアル化によって、酒造りは「個人の祈り」という小さな枠組みを完全に飛び出しました。 造酒司では、一度に数百リットル、数千リットルという規模で酒が仕込まれるようになります。これほどの大規模生産をミスなく成功させるためには、文字による厳密な工程管理とデータ共有が不可欠でした。

    白村江の戦い後のパニックから生まれた「文書による管理社会」は、奇しくも日本の酒を、現代の日本酒造りにまで通じる「緻密な醸造システム」へと進化させる土台となったのです。

    4. 文献が語る「酒の文化化」。『万葉集』に見る個人の情熱

    律令国家が「文字(文書行政)」を導入したことで、現代の私たちに大きな恩恵がもたらされました。それは、それまでの「遺跡から推測する歴史」だけでなく、当時の人々が酒を飲みながら何を考え、何を感じていたかという「生の感情(記録)」に触れられるようになったことです。

    「お酒から紐解く日本史」という視点で見ると、奈良時代は酒が「神や国家のためのもの」から、個人の孤独や歓喜に寄り添う「文化的な嗜好品」へと広がっていった、記念すべき時代でもありました。

    【大伴旅人が愛した「酒の力」】

    その変化を象徴するのが、日本最古の和歌集である『万葉集』です。
    なかでも有名なのが、大宰府に赴任していた高官・大伴旅人(おおとものたびと)が詠んだ「酒を讃むる歌十三首」です。

    「なかなかに 人とあらずは 酒壺(さかつぼ)に なりにてしかも 酒に染(し)みなむ」
    (中途半端な人間でいるよりは、いっそ酒壺になってしまいたい。そうすれば、いつもお酒に浸っていられるのに)

    これまでの時代、酒は「天皇への忠誠」や「神への祈り」の場に欠かせない、極めて公的な存在でした。しかし旅人の歌には、妻を亡くした悲しみや、地方赴任の孤独を紛らわせるための、極めて個人的で切実な「救いとしての酒」が描かれています。

    文字によって個人の想いが記録されるようになったことで、酒は初めて「日本人の精神文化」の一部として歴史に刻まれたのです。

    【階級を越えて広がる「宴」の喜び】

    また、この時代には『万葉集』に代表されるように、貴族だけでなく防人(さきもり)や農民たちの歌も記録されるようになりました。 厳しい労働や辺境での警備に就く人々にとっても、酒は「明日への活力」であり、仲間との絆を確認するための大切なメディアでした。

    造酒司(さけのつかさ)がマニュアル化して造り出した「高品質な酒」の技術は、徐々に民間の醸造にも影響を与え始めました。国家が管理する一方で、人々の暮らしの中にも「酒を酌み交わす楽しみ」が確実に根付いていったのです。

    結び 一滴の酒に宿る「国家」と「個人」

    白村江の敗戦という「国家滅亡のパニック」から始まった飛鳥・奈良時代の物語。 それは、生き残るために全てを管理しようとした「律令国家の執念」が生んだバイオテクノロジーの歴史であると同時に、文字という翼を得て、日本人の心が酒と深く結びついていった文化の歴史でもありました。

    国家のシステムとしての酒、そして個人の孤独に寄り添う酒。 この二つの側面が揃ったことで、日本の酒は、単なる飲料を越えて「日本という国」を形作る不可欠なピースとなったのです。

    【次回予告】

    さて、次回【第7回】のテーマは、時代が少し下った奈良時代中期。

    『パンデミック下の酒食禁止と大仏開眼 天然痘の恐怖と国家再生の祝祭』です。
    律令国家として完璧な体制を整えたかに見えた日本でしたが、今度は「目に見えない敵」が列島を襲います。致死率の極めて高いウイルス「天然痘」のパンデミックです。

    人口の約3割が失われたと言われる未曾有の社会崩壊の中、聖武天皇は「酒食禁止」という厳しい断酒令を出し、一方で国家の再生を懸けた巨大プロジェクト「東大寺の大仏」に挑みます。

    ウイルス対策の「断酒」と、再生を祝う「宴」。古代日本最大のトラウマと祝祭の歴史に迫ります。

     
     
    日本酒伝道師 / ITコンサルタント 「生まれ故郷に地酒がある幸せ」を伝えるため日本酒の魅力を発信中。 副業として夫婦で日本ワインとポルトガルワインの店「Casa do Vinho」も運営。 本業は通信インフラ歴18年のPM・専門学校講師。酒蔵DX支援に挑戦中!

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