
誇れる居場所の作り方 〜明日を描くアールグレイ〜最終話
ガラスポットの底から、小さな泡が生まれては浮かんできらめき、消えていく。その静かな繰り返しが、今の自分の迷いにどこか似ている気がした。
湯がしっかりと沸いたところで、温めておいたティーポットへそっと注ぎ入れる。ポットの中で、深い赤みのある茶葉がふわりと広がり、上下にゆっくりと跳ねはじめる。
ジャンピング。
蓋をして、ティーコジーを被せる。三分。タイマーの電子音が鳴り、ストレーナーで茶葉を受けながら、最後の一滴――ゴールデンドロップまで静かに注ぎ切った。
ここは舞子だけの、小さな城だ。
趣味と言えるほどのものはないが、部屋の一角にある紅茶のコーナーだけが、舞子の心の避難所だった。
芳醇な香りが立ちのぼり、思わず深く息を吐く。
けれど、いつものように胸のざわめきは消えてくれない。
(正社員に、私が……?)
数日前、社長から会議室で告げられた言葉が、今も耳の奥で鳴り響いている。
『パシフィックホテルの件がなくても、僕はあなたを、うちの正社員として迎えたいと考えていました』
引き抜きの提案。それは本来、飛び上がって喜ぶべきことなのだろう。
前職で舞子のデザインを否定し、都合よく扱ってきた会社からも、コンペの結果を聞きつけて「戻ってきてほしい」と打診があったと派遣会社の営業から聞いた。
けれど、舞子の足元を掬うのは、いつだって自分自身の臆病さだった。
正社員になれば、これまで以上の重圧がのしかかる。求められるのは、パシフィックホテルと同等、あるいはそれ以上のクオリティだ。
――また逃げてしまうのではないか。「それ、誰でも描けるよ」と言われた瞬間みたいに、また手が止まるんじゃないか。
そんな不安ばかりが募り、仕事中もため息を止められないでいた。
***
「――眠そうですね」
昼下がり、あくびを噛み殺して立ち尽くしていた給湯室で、ふいに低い声が降ってきた。
振り返ると、マグカップを手にした社長が、柔らかな苦笑を浮かべて立っていた。
「あ、社長……。すみません、少し寝不足で」
「大丈夫ですか?」
いつもと変わらない、穏やかで、けれどまっすぐに自分を射抜く瞳。舞子はポーションミルクをかき混ぜながら、思わず視線を泳がせた。
「ひょっとして、この間の提案で、悩ませてしまっていますか」
「あ……」
否定はできなかった。俯いた舞子の耳元に、蒼真の静かな声が届く。
「そこまで考え込まなくてもいいんですよ」
「でも……期待に応えられる自信が、まだ持てなくて」
「青木さん」
彼は一歩、舞子との距離を縮めた。
「あなたを試すつもりはありません。コンペでの仕事を見て、決めました。――あなたには、ここにいてほしい。僕の隣で」
僕の隣に、留めておきたい。
その言葉の響きに、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
「難しく考える必要はありません。ただ、あなたの気持ちに素直になればいい。僕は、あなたが決めた道なら、どんな答えでも尊重します」
それだけを告げて、彼は小さく微笑み、給湯室を後にした。
残された舞子は、手元で冷めかけていくコーヒーを見つめながら、自分の心が驚くほど速く波打っているのを感じていた。
***
その日の夜、舞子はいつものダイニングテーブルで、蒼真の弟・悠真のカフェで買ったアールグレイを淹れていた。
ミルクフォーマーで作った濃密な泡を、濃く抽出した紅茶に注ぎ入れる。
ベルガモットの香りが、優しく鼻腔をくすぐる。
「……私の、気持ち」
舞子は、温かいマグカップを両手で包み込んだ。
なぜ、こんなに悩んでいるのだろう。
嫌なら断って、今まで通り派遣として別の現場に行けばいい。傷つかない安全な道は、いくらでもあるはずなのに。
(違う。私は、逃げたくないんだ)
あの時、前職の男に否定された自分を、誰よりも強く信じて、プロとして対等に扱ってくれたのは、蒼真だった。
彼の差し出す言葉の温かさに、どれほど救われただろう。
「……そっか」
舞子は、ぽつりと呟いた。
自分がこの会社に残りたいのは、居心地が良いからでも、正社員の安定が欲しいからでもない。
社長の隣で、彼が信じてくれたデザインを、もっと見てほしいから。それだけじゃない、と気づいてしまった。
デザインを見てほしいんじゃない。
——彼に、見てほしいのだ。
それは、デザイナーとしてのプライドであり――それ以上に、彼に惹かれているという、紛れもない、確かな恋心の自覚だった。
胸の奥にある想いに名前がついた瞬間、不安は消え去り、視界が鮮やかに開けていくのが分かった。
「――よし」
舞子は最後の一口を飲み干し、前を向いた。
***
「おはようございます、社長」
「おはようございます。青木さん」
翌朝、出勤した舞子は、まっすぐに蒼真のデスクへと向かった。
この気持ちは、派遣会社の営業を通すのではなく、どうしても自分の言葉で、最初に彼に伝えたかった。
「お時間、少しだけよろしいですか?」
「ええ、かまいませんよ」
通された会議室。あの時、コンペの勝利を信じて握手を交わした、二人きりの空間。
舞子は一歩踏み出し、蒼真の瞳をまっすぐに見つめた。
「例のお話、喜んでお受けしたいと思います。私を、この会社の社員にしてください」
一瞬、沈黙が落ちた。ほんのわずかな時間なのに、長く感じた。
蒼真の瞳が、驚いたようにわずかに見開かれ、やがて、見たこともないほど深く、愛おしそうな安堵の色に染まった。
「……ありがとうございます。本当によかった」
「不安はあります。正社員としての重圧に耐えられるか、最初は迷惑をかけるかもしれません。でも、逃げずに、ここで頑張ってみたいんです」
「あなたなら、大丈夫です」
蒼真は迷いのない足取りで近づくと、舞子の前に立ち、そっと右手を差し出した。
「これからも、よろしくお願いします。青木さん」
「はい。よろしくお願いします、社長」
その手を握り返した瞬間。
大きな手のひらの熱が、舞子の指先から、腕を伝って全身へと広がっていく。
それは、これまでとは違う、胸が高鳴るような確かな予感だった。
***
数ヶ月後。
舞子は、少し背筋の伸びる新しいスーツを身に纏い、初夏の光が差し込むオフィスに出勤した。
「おはようございます!」
席に着くなり、まどかや希、他のデザイナーたちが「今日からよろしくね、青木さん!」と温かい笑顔を向けてくれる。
仕事の内容や席の位置は、昨日までと何も変わらない。
けれど、舞子が持ち歩くステンレスマグの中には、今朝、自分のために丁寧に淹れた大好きな紅茶が入っている。
口を付ければ、ふわりと広がる芳醇な香り。
それはいつも舞子の心を支え、新しく踏み出す勇気を与えてくれる魔法の味だ。
ふと視線を感じて顔を上げると、オフィスの向こう側から、彼が静かに舞子を見つめていた。
目が合うと、彼は誰にも気づかれないほどのわずかな動作で、優しく微笑んでみせる。
舞子の胸が、小さく、けれど甘く弾んだ。
明日にはまた、デザインの壁にぶつかり、自分の不甲斐なさに悩む日が来るかもしれない。
それでも。
この場所で、彼の隣で歩み始めた私の未来を、私はもう、疑わない。
(さて、頑張ろう)
舞子は新調したばかりのノートを開き、朝思いついたデザインをスケッチする。
いつか、このアイデアが形になり、誰かの居場所を作るかもしれない。まだ、真っ白なノートの上の小さな線。それでも、舞子の新しい物語は、確かにここから始まっている。