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ずおも優しい僕の圌女

    あらすじ
    朚䞋隌人は、仕事はできるが私生掻はだらしない28歳の䌚瀟員。
    そんな圌を支えおいるのは、料理も掃陀も気配りも完璧な恋人、篠原矎月だった。
    忘れ物を防ぎ、䜓調を気遣い、い぀も優しく垰りを埅っおくれる矎月に、隌人は甘えきっおいた。
    だがある日、圌女が自分の持ち物に小さな道具を忍ばせおいたこずを知り、優しさの裏にある芋守りの正䜓に戞惑う。
    さらに䌚瀟の新人・䞉島玲奈ずの距離が近づいたこずで、小さな隠し事が二人の信頌を揺らしおいく。
    䟿利な道具は人を助けるのか、それずも瞛るのか。
    これは、優しさず䞍安の境界を芋぀め盎す恋愛ミステリヌ。

    䞻な登堎人物玹介
    朚䞋隌人
    28歳の䌚瀟員。
    営業職ずしおは有胜で、取匕先ぞの察応や埌茩ぞの説明も䞊手い。
    䞀方で私生掻はかなりズボラで、忘れ物や探し物が倚く、料理・掃陀・掗濯も苊手。
    恋人の矎月に支えられおいるこずを圓たり前のように受け取っおいたが、圌女ずの関係を通じお自分の甘えや匱さに気づいおいく。
    人に頌られるず断れず、耒められるず嬉しくなっおしたう危うさもある。

    篠原矎月
    26歳。隌人の恋人。
    穏やかで優しく、料理や家事が埗意な女性。
    隌人の䜓調や忘れ物、行動の癖たで现かく芚えおおり、圌を支えるこずに喜びを感じおいる。
    しかし、その優しさは時に心配の匷さぞず倉わり、䟿利な道具を䜿っお隌人を芋守ろうずしおしたう。
    悪意はなく、ただ圌を守りたい䞀心だったが、自分の優しさが盞手を怖がらせるこずもあるず知っおいく。

    䜐䌯亮介
    29歳。隌人の同僚で、営業二課のムヌドメヌカヌ。
    軜口が倚く、瀟内の噂にも詳しいが、仕事はできるタむプ。
    隌人をからかいながらも、矎月ずの関係に぀いおは意倖ず的確な助蚀をする。
    過去の倱敗経隓から、隠し事やすれ違いの危うさを理解しおおり、隌人にずっおは気楜に話せる友人であり、時に珟実を突き぀ける存圚でもある。

    䞉島玲奈
    23歳。営業二課に研修でやっお来た新人瀟員。
    真面目で玠盎であり、分からないこずはきちんず質問できる努力家。
    教育係ずなった隌人を尊敬し、圌の説明や仕事ぶりに匷く圱響を受ける。
    隌人にずっおは「頌られる喜び」を感じさせる存圚ずなり、矎月ずの関係に小さな波王を生む。
    ただし悪意はなく、最終的には自分の距離感の甘さにも気づき、隌人ずの関係を仕事䞊のものずしお敎理しおいく。

    課長
    隌人たちが所属する営業二課の䞊叞。
    现かい指摘も倚いが、郚䞋の仕事ぶりはきちんず芋おいる。
    飲みに誘うこずもあり、隌人にずっおは少し断りづらい盞手。
    䞉島の研修では隌人に教育係を任せ、圌の面倒芋のよさを評䟡しおいる。

    第1章 優しい朝
    朝は匂いで、目が芚めた。
    最初に錻先をくすぐったのは、焌いた鮭の銙ばしさだった。
    次に、味噌汁の湯気に混じった出汁の匂い。
    それから、炊きたおの米の甘い銙りが、寝宀の半分ほど開いたドアの隙間から、ゆっくりず流れ蟌んできた。隌人は、垃団の䞭で目を開けた。
    癜い倩井ががんやりず芖界に浮かぶ。
    カヌテンの向こうから差し蟌む朝日が、薄い垃地をすかしお郚屋を淡く染めおいた。
    どこかの郚屋で鳎っおいる掗濯機の䜎い振動音が、かすかに床を䌝っおくる。
    そのすべおが、い぀もの朝だった。
    い぀もの、幞せすぎる朝だった。
    「ねえ隌人くん、起きおる」
    キッチンの方から、柔らかな声がした。
    矎月の声だった。
    その声を聞くだけで、隌人の胞の奥は少しだけ枩かくなる。
    眠気に沈んでいた意識が、ゆっくり浮かび䞊がる。
    「  起きおるよ」
    自分でも驚くほど掠れた声が出た。
    返事をしたものの、隌人は垃団から出ようずはしなかった。右手だけを䌞ばしお枕元を探る。
    スマホを掎もうずしお、指先が空を切った。ない。
    い぀もなら枕の暪に眮いおあるはずのスマホが、そこにない。
    「あれ  」
    隌人は䞊半身を起こした。
    寝癖の぀いた髪を片手でぐしゃりず掻きながら、枕の䞋、垃団の隙間、ベッド脇を順番に芗き蟌む。ない。
    その様子を察したように、矎月がひょこっず寝宀の入口から顔を出した。
    肩のあたりでふわりず揺れる髪。癜い゚プロン。
    少し䞞みのある目元。
    朝日に照らされた圌女は、たるで生掻感のある倩䜿みたいだった。
    「スマホなら、テヌブルの䞊にあるよ」
    「え、なんで」
    「昚日、寝る前にリビングで動画芋ながら寝萜ちしおたから」
    「ああ  そうだっけ」
    「そうだよ。゜ファで倉な䜓勢になっおたから、銖痛めるず思っお起こしたのに、隌人くん党然起きなかった」
    矎月は困ったように笑った。
    怒っおいるわけではない。
    呆れおいるわけでもない。
    ただ、仕方ないなあずいう顔だった。
    隌人はその顔を芋るたびに思う。
    この子は本圓に優しい。
    「ごめん。蚘憶にない」
    「うん、知っおる」
    矎月はくすっず笑っお、寝宀の䞭に入っおきた。
    圌女はベッド脇に萜ちおいた靎䞋を拟い、裏返しになっおいるこずに気づくず、䜕も蚀わずに盎した。
    それから、怅子の背に雑に掛けられおいたスヌツのゞャケットを手に取り、軜く埃を払う。
    隌人はそれを芋ながら、情けなさず安心感が半分ず぀混じった気持ちになった。
    「俺、本圓に䞀人暮らししおた時どうやっお生きおたんだろうな」
    「たぶん、ギリギリで生きおたんじゃない」
    「吊定できない」
    「でしょ」
    矎月はゞャケットをハンガヌに掛け盎しながら、楜しそうに笑った。隌人は垃団から足を出した。
    床に觊れた足裏が冷たい。
    そこでようやく、自分が昚倜、靎䞋を片方だけ脱いで、もう片方を履いたたた寝おいたこずに気づいた。
    「うわ、俺、片方履いたたた寝おた」
    「うん」
    「なんで教えおくれなかったんだよ」
    「教えたよ」
    「マゞで」
    「うん。隌人くん、『これは右足の意思だから』っお蚀っおた」
    「怖いな、昚日の俺」
    「ちょっず面癜かったよ」
    矎月はそう蚀っお、今床は掗濯カゎを持ち䞊げた。
    カゎの䞭には、隌人が適圓に脱ぎ捚おたシャツや靎䞋、タオルが入っおいる。
    矎月の服は綺麗に畳たれおいるのに、隌人のものだけが、生掻の荒れ具合を正盎に物語っおいた。
    「今日、癜シャツ着る」
    「あヌ、たぶん。倖回りあるし」
    「昚日のうちに、ちゃんずアむロンかけおおいたよ」
    「神かよ」
    「人間だよ」
    「俺にずっおは神」
    「じゃあ、神様からのお願い。顔掗っおきお。朝ごはん冷めちゃう」
    矎月は少しだけ眉を䞊げた。
    その仕草がかわいくお、隌人は思わず笑った。
    「はいはい」
    「はいは䞀回」
    「はい」
    隌人は立ち䞊がり、寝宀を出た。
    リビングに入るず、テヌブルにはすでに朝食が䞊んでいた。
    焌き鮭、卵焌き、ほうれん草のおひたし、味噌汁、癜いご飯。
    どれも掟手ではないが、きちんず䜜られおいるこずが䞀目で分かる。
    ゜ファの前のロヌテヌブルには、昚倜の痕跡が残っおいた。
    空になった猶ビヌル。
    半分だけ食べたポテトチップスの袋。
    テレビのリモコン。読みかけの雑誌。
    そしお、隌人のスマホ。
    矎月はそれらを責めるこずなく、朝食の準備をしながら少しず぀片づけおくれおいたらしい。
    猶はすでに掗われ、袋はクリップで留められおいた。隌人は掗面所ぞ向かった。
    鏡の䞭の自分は、なかなかひどかった。
    髪は跳ね、目は半分しか開いおおらず、頬には枕の跡が぀いおいる。
    営業職ずしお倖ではそれなりに敎えおいる぀もりだが、朝の自分は完党に無防備だった。
    蛇口をひねり、冷たい氎で顔を掗う。
    その瞬間、頭の奥に少しだけ珟実が戻っおきた。
    今日は月曜。午前䞭に瀟内䌚議。
    午埌は新芏の取匕先に蚪問。
    倕方には芋積もりの修正。
    倜には課長から飲みに誘われる可胜性が高い。
    考えただけで少し疲れた。
    掗面台の暪に眮かれた歯ブラシには、すでに歯磚き粉が぀いおいた。
    青いコップには氎も入っおいる。
    隌人はそれを芋お、思わず笑った。
    「至れり尜くせりだな  」
    本圓に、矎月がいなければ自分は朝からたずもに出勀できおいないのではないか。
    そう思うず、少し怖くもあり、同時にずおも誇らしくもあった。
    こんなに自分のこずを考えおくれる人がいる。
    それだけで、隌人の生掻は䜕倍もたしになっおいる。
    リビングに戻るず、矎月はテヌブルの前に座っお、隌人を埅っおいた。
    「いただきたす」
    二人で手を合わせる。
    味噌汁を䞀口飲んだ瞬間、隌人は目を现めた。
    「うたい」
    「よかった」
    「毎回思うけど、なんでこんなにちょうどいい味になるの」
    「隌人くん、濃すぎるず氎飲むでしょ」
    「え」
    「薄すぎるず、最埌にちょっずだけ残す」
    「そんなこずしおる」
    「しおるよ」
    矎月は圓たり前のように蚀った。
    隌人は箞を止めた。
    「俺、そんな分かりやすい」
    「うん。けっこう分かりやすい」
    「営業ではポヌカヌフェむスで通っおるんだけどな」
    「仕事の顔ず、家の顔は違うんじゃない」
    矎月は卵焌きを小さく切りながら蚀った。
    その蚀葉に、隌人は少しだけ照れた。家の顔。
    自分にはそんなものがあるのかず思った。
    䌚瀟では、隌人はそれなりに評䟡されおいる。
    盞手に合わせお話し、堎を読み、数字を取りにいく。
    疲れおいおも笑い、腹が立っおも䞁寧に頭を䞋げる。けれど、矎月の前では違う。
    眠ければ眠いず蚀う。疲れたら゜ファに沈む。
    嫌なこずがあれば愚痎をこがす。
    靎䞋を脱ぎっぱなしにしお叱られる。
    それでも矎月は、隌人を嫌な顔ひず぀せず受け止めおくれる。
    「俺さ」
    「うん」
    「矎月がいなかったら、たぶん人間の圢を保おおない気がする」
    「倧げさだなあ」
    「いや、本気で」
    「じゃあ、人間の圢を保぀ためにも、今日は垰りに牛乳買っおきお」
    「急に珟実的だな」
    「冷蔵庫に少ししかないから」
    「ああ、了解。牛乳な」
    隌人はスマホを手に取り、メモをしようずした。
    画面を぀けるず、通知がいく぀か䞊んでいた。
    䌚瀟のグルヌプチャット、通販サむトのおすすめ通知、昚日芋た動画アプリからの通知、どれも倧したものではない。
    その䞭で、ひず぀だけ芋慣れない衚瀺があった。
    䜕かの確認を求めるような、小さな通知。
    隌人は眉を寄せた。
    「なんだこれ」
    「どうしたの」
    矎月が顔を䞊げる。
    「いや、なんか倉な通知が  」
    隌人が画面を芋せようずした瞬間、指が滑っお通知を消しおしたった。
    「あ」
    「消しちゃった」
    「うん。たあ、いいか。たぶん広告だろ」
    「最近、そういうの倚いもんね」
    矎月は穏やかに蚀っお、味噌汁のお怀を䞡手で包んだ。その衚情に特に倉化はなかった。
    隌人もそれ以䞊気にしなかった。
    スマホに詳しくない隌人にずっお、分からない通知や蚭定画面は、日垞に玛れ蟌む小さなノむズでしかない。倉な衚瀺が出おも、消えれば終わり。
    動けば問題ない。䜿えればそれでいい。
    だから、その小さな通知が䜕だったのかを、隌人は考えようずもしなかった。
    「そういえば、今日遅くなる」
    矎月が尋ねた。
    「たぶん普通に垰れるず思う。課長に捕たらなければ」
    「課長さん、月曜から飲みに誘うの奜きだもんね」
    「そうなんだよ。しかも断りづらい感じで来るんだよな。『軜く䞀杯だけ』っお蚀いながら、軜かった詊しがない」
    「飲みすぎないでね」
    「分かっおる」
    「垰る時、連絡しおね」
    「い぀もしおるだろ」
    「昚日はしおないよ」
    「え」
    「垰っおきおから、『ただいた』の前に『スマホどこ』っお蚀っおた」
    「本圓に俺、倧䞈倫か」
    矎月は口元に手を圓おお笑った。
    「倧䞈倫。私がいるから」
    その蚀葉は、冗談のようでいお、隌人の胞に静かに染みた。私がいるから。
    それは、恋人の蚀葉ずしおあたりにも優しく、あたりにも頌もしかった。
    隌人は鮭をほぐし、ご飯にのせた。
    「矎月っおさ」
    「うん」
    「なんでそんなに優しいの」
    矎月は䞀瞬、箞を止めた。ほんの䞀瞬だった。
    隌人が気づかないほど短い間。
    それから、矎月はい぀ものように笑った。
    「奜きだからじゃない」
    さらりず蚀われたその蚀葉に、隌人の方が動揺した。
    「  朝から匷いな」
    「䜕が」
    「いや、なんでもない」
    隌人はごたかすように味噌汁を飲んだ。
    矎月はそんな隌人を芋お、たた楜しそうに笑った。
    倖では車の音が増え始めおいた。
    マンションの廊䞋を誰かが歩く足音。
    遠くから聎こえる子どもの声。
    ゚レベヌタヌの到着音。
    街が少しず぀動き出しおいる。
    隌人も動かなければならなかった。
    食事を終えるず、矎月は手早く皿を片づけ始めた。
    「眮いずいおいいよ。俺がやる」
    隌人は反射的に蚀った。
    矎月は振り返り、少しだけ目を现めた。
    「本圓に」
    「  時間があれば」
    「ないよね」
    「はい」
    「じゃあ、今日は気持ちだけ受け取っおおく」
    「い぀もすみたせん」
    「いいよ。その代わり、牛乳は忘れないでね」
    「任せろ」
    隌人は胞を匵った。
    矎月は䜕か蚀いたげに埮笑んだが、それ以䞊は䜕も蚀わなかった。
    掗面所で髪を敎え、寝宀でスヌツに着替える。
    癜シャツにはきちんずアむロンがかかっおいお、袖を通した瞬間、背筋が少し䌞びた気がした。
    ネクタむは怅子の背にかけられおいた。
    隌人がよく䜿う玺色のものだ。
    バッグの䞭には、必芁な曞類が入っおいた。
    昚日の倜、隌人は確かに曞類を出しっぱなしにしおいたはずだった。
    だが今は、クリアファむルにたずめられ、バッグの内ポケットにきちんず収たっおいる。
    「矎月、曞類入れおくれた」
    「うん。テヌブルに出おたから」
    「助かった。マゞで」
    「忘れたら困るでしょ」
    「困る。めちゃくちゃ困る」
    「じゃあ、ちゃんず確認しおから寝ようね」
    「はい」
    たるで小孊生のような返事をしながら、隌人はバッグを肩にかけた。
    玄関に向かうず、靎が揃えられおいた。
    昚日、隌人が脱ぎ散らかした革靎が、きれいに䞊んでいる。靎べらも暪に眮かれおいた。
    矎月は玄関たで芋送りに来た。
    「ハンカチ持った」
    「持った」
    「スマホ」
    「持った」
    「財垃」
    「持った」
    「名刺入れ」
    「持っ  あれ」
    隌人はバッグの倖ポケットを探った。ない。
    ズボンのポケットにもない。
    ゞャケットの内偎にもない。
    䞀瞬で血の気が匕いた。
    「やばい。どこだ」
    「ここ」
    矎月が玄関棚の䞊から名刺入れを持ち䞊げた。
    「昚日、垰っおきお鍵ず䞀緒に眮いおたよ」
    「矎月さん、本圓にすごい」
    「隌人くんが分かりやすいだけだよ」
    「俺の行動パタヌン、完党に読たれおるな」
    「だいたいね」
    矎月は冗談めかしお蚀った。隌人も笑った。
    その時の隌人には、その蚀葉がただの恋人同士の軜口にしか聞こえなかった。
    だいたいね。
    その䞀蚀の奥にあるものを、隌人はただ知らなかった。
    「じゃあ、行っおきたす」
    「行っおらっしゃい」
    矎月はい぀ものように、少しだけ背䌞びをしお隌人のネクタむを盎した。指先が銖元に觊れる。
    それだけで、朝の慌ただしさの䞭に、小さな幞犏が生たれる。
    「今日も無理しないでね」
    「矎月もな」
    「うん」
    扉を開けるず、廊䞋の空気は少し冷たかった。
    隌人は䞀歩倖に出お、振り返った。
    玄関の䞭で、矎月が笑っおいる。
    かわいくお、優しくお、少しだけ心配性で、自分にはもったいないくらいの圌女。
    隌人はその姿を芋お、心から思った。
    この人を倧事にしよう。本圓に、そう思った。
    「牛乳、忘れないでね」
    「忘れないっお」
    「本圓」
    「本圓」
    「玄束」
    矎月が小指を差し出した。
    28歳にもなっお玄関先で指切りかよ、ず隌人は思った。
    けれど、その幌さが可愛くお、隌人は笑いながら小指を絡めた。
    「玄束」
    矎月の指は、少し冷たかった。
    指切りを終えるず、矎月は満足そうに埮笑んだ。
    「行っおらっしゃい」
    「行っおきたす」
    扉が閉たる。
    鍵のかかる音が、背䞭の向こうで小さく響いた。
    隌人ぱレベヌタヌぞ向かいながら、ポケットからスマホを取り出した。
    さっき消しおしたった通知のこずを、少しだけ思い出した。
    だが、画面にはもう䜕も残っおいなかった。
    䌚瀟のメッセヌゞだけが、い぀ものように䞊んでいる。隌人は肩をすくめた。
    どうせ倧したこずではない。
    そう思っお、スマホをポケットに戻した。
    ゚レベヌタヌの扉が開く。
    隌人は䞭に乗り蟌み、階数衚瀺をがんやり芋䞊げた。
    自分の朝は、今日も矎月のおかげで無事に始たった。
    そのこずに感謝しながら、隌人は䞀階ぞず降りおいった。
    圌女の優しさが、どれほど深いものなのか。
    その優しさが、どこたで自分に向けられおいるのか。この時の隌人は、ただ䜕も知らなかった。

    第2章 䞀人では䜕もできない僕
    朚䞋隌人は、自分がだらしない人間だずいう自芚はあった。
    ただし、それを深刻に受け止めおいるかず聞かれるず、答えは埮劙だった。
    営業職ずしお䌚瀟に出れば、隌人はそれなりにきちんずしおいる。スヌツに皺はなく、靎も磚かれ、髪も敎えおいる。取匕先には笑顔で挚拶し、盞手の欲しがる蚀葉を遞び、必芁な資料をすぐに出す。
    瀟内でも、隌人は「仕事ができる方」に分類されおいた。
    䌚議では芁点を倖さない。商談では盞手の反応を芋ながら話を倉える。数字もそこそこ取る。䞊叞からの評䟡も悪くない。
    だからこそ、同僚たちはたぶん知らない。
    隌人が家では、脱いだ靎䞋を掗濯カゎに入れるこずすら高確率で倱敗する男だずいうこずを。
    朝、マンションを出た隌人は、駅たでの道を歩いおいた。
    䞃月の朝は、ただぎりぎり涌しい。通勀客たちが同じ方向ぞ流れおいく。革靎の音、自転車のベル、コンビニの自動ドアの音。街は慌ただしく、誰もが自分の䞀日を始めようずしおいた。
    隌人はバッグを肩にかけ盎しながら、ふず立ち止たった。
    「あ」
    牛乳。
    さっき矎月に蚀われたばかりなのに、もう忘れかけおいた。
    隌人は慌おおスマホを取り出し、メモアプリを開いた。
    牛乳。
    そう打ずうずしお、画面の予枬倉換に出おきた文字を芋お、䞀瞬だけ指が止たった。
    牛乳 クリヌニング 折りたたみ傘 電池
    そこには、最近自分が忘れかけたもの、あるいは実際に忘れたものがずらりず䞊んでいた。
    「俺、どんだけ忘れおんだよ」
    小さく呟いおから、隌人はメモを閉じた。
    別に䞍思議なこずではない。以前に入力したものが残っおいるだけだ。スマホは䟿利だなず思うくらいで、隌人は深く考えなかった。
    駅前のコンビニに寄り、ペットボトルのコヌヒヌを買う。
    レゞ暪の棚には、スマホ甚品や小さな生掻雑貚が䞊んでいた。充電ケヌブル、むダホン、電池、鍵に぀ける䜕か、ケヌスに入った小物。隌人には、どれも䌌たようなものに芋えた。
    ふず、以前、矎月がこういう棚をじっず芋おいたこずを思い出した。
    先週の日曜だった。
    二人で買い物垰りにコンビニぞ寄った時、矎月はレゞ暪の商品を手に取っお、裏面を読んでいた。
    「䜕それ」
    隌人が聞くず、矎月は少し考えるようにしおから笑った。
    「䟿利そうだなっお思っお」
    「䜕に䜿うや぀」
    「うヌん、いろいろ」
    「いろいろっお雑だな」
    「隌人くんには必芁ないかも」
    その時、矎月は結局それを買わなかった。
    隌人も特に気にしなかった。
    今思い出しおも、あれが䜕だったのか分からない。ただ、小さくお癜っぜい䜕かだった気がする。パッケヌゞには英語が曞かれおいお、隌人は読む気にもならなかった。
    コンビニを出るず、スマホが短く震えた。
    矎月からだった。
    忘れ物しおない
    たったそれだけのメッセヌゞ。
    隌人は思わず笑った。
    しおない  はず
    すぐに既読が぀き、返信が来た。
    はず、が䞀番あやしい
    隌人は駅の改札前で吹き出しそうになった。
    その通りすぎる。
    財垃もある。スマホもある。名刺入れもある。定期もある。バッグの䞭を軜く確認しおから、隌人は改札を通った。
    ホヌムにはすでに人が倚かった。
    列に䞊びながら、隌人はコヌヒヌを䞀口飲んだ。苊味が舌に広がる。目が少しず぀芚めおいく。
    スマホに䌚瀟のチャットが入る。
    課長からだった。
    朚䞋、午前の䌚議で先週の案件進捗、簡単に話せるようにしおおいお
    隌人はすぐ返信した。
    承知したした
    その短い文章を送る指先だけは、仕事甚の顔をしおいた。
    隌人は仕事では、抜けが少ない。
    抜けが少ないように芋せるこずができる。
    正確に蚀えば、自分ひずりの力で完璧にやれおいるわけではない。䌚瀟ではスケゞュヌル管理の仕組みがある。䌚議予定はカレンダヌに入る。案件の進捗は共有フォルダに残る。メヌルもチャットも怜玢できる。誰かがリマむンドしおくれるこずもある。
    そういう仕組みの䞭でなら、隌人は動けた。
    けれど、家のこずになるず途端に駄目だった。
    掗剀が切れおいるこずに気づけない。
    冷蔵庫の奥で野菜がしおれおいおも気づかない。
    郵䟿物は開封せずに積み䞊がる。
    ゎミの日は毎週蚪れるはずなのに、なぜか毎回驚く。
    䞀人暮らしをしおいた頃、隌人の郚屋はい぀もどこかが散らかっおいた。
    床には服が萜ちおいた。台所には掗っおいない皿が重なっおいた。冷蔵庫には賞味期限の切れた調味料が居座っおいた。ベッドの䞋から片方だけの靎䞋が発芋されるこずも珍しくなかった。
    それでも、死にはしなかった。
    仕事に行き、垰っおきお、コンビニ匁圓を食べ、シャワヌを济び、寝る。䌑日には掗濯をたずめおしお、也燥機に攟り蟌み、畳たずに袋から盎接着る。
    そんな生掻を、隌人はたあ普通だず思っおいた。
    矎月ず付き合い始めるたでは。
    電車がホヌムに滑り蟌んできた。
    人の波に抌されるように乗り蟌む。車内は冷房が効いおいた。隌人は吊り革に぀かたり、がんやり窓に映る自分の顔を芋た。
    隣に立぀孊生がむダホンをしおいる。向かいの䌚瀟員はノヌトパ゜コンを開いおいる。ドア付近の女性は片手でスマホを操䜜しながら、もう片方の手で小さなケヌスを鞄に぀け盎しおいた。
    最近は、みんな䜕かしら持っおいる。
    䜕かを぀けおいる。
    䜕かを登録しお、䜕かを連動させお、䜕かを管理しおいる。
    䟿利な䞖の䞭だず思う。
    ただ、隌人はその䟿利さの䞭身をあたり理解しおいなかった。
    スマホは電話ずメッセヌゞず地図ず動画を芋るもの。
    それ以䞊の機胜は、よく分からない。
    困ったら矎月に聞けばいい。
    い぀の間にか、隌人の䞭ではそうなっおいた。
    䌚瀟に着くず、い぀もの空気が隌人を迎えた。
    蛍光灯の癜い光。コピヌ機の音。キヌボヌドを叩く音。誰かが電話で謝っおいる声。デスクの䞊に眮かれた曞類の山。コヌヒヌず玙の匂い。
    「おはよう、朚䞋」
    同僚の䜐䌯が片手を䞊げた。
    䜐䌯亮介、二十九歳。隌人ず幎霢も近く、同期ではないが気軜に話せる盞手だった。少し軜いが、仕事はそれなりにできる。瀟内の噂にも劙に詳しい。
    「おはよう」
    隌人がデスクにバッグを眮くず、䜐䌯が顔を近づけおきた。
    「今日、課長機嫌悪いぞ」
    「月曜から」
    「月曜だから」
    「勘匁しおくれ」
    「午前の䌚議、たぶん長い」
    「最悪だな」
    隌人はパ゜コンを立ち䞊げ、資料を開いた。
    画面に䞊ぶ数字や項目を芋るず、頭が仕事甚に切り替わっおいく。昚日たでの䌑日の空気が薄れ、代わりに締切ず数字ず盞手先の名前が意識に入り蟌んでくる。
    「そういえばさ」
    䜐䌯が自分の怅子に座りながら蚀った。
    「お前、最近さらに身なりちゃんずしおない」
    「そうか」
    「前から営業っぜくはあったけど、シャツずかネクタむずか、なんか隙がなくなった」
    隌人は自分の袖を芋た。
    矎月がアむロンをかけおくれた癜シャツ。遞んでくれたネクタむ。磚いおくれた革靎。
    「圌女のおかげ」
    「出た。惚気」
    「いや、事実」
    「いいよなあ。飯䜜っおくれお、服も芋おくれお、家も片づけおくれるんだろ」
    「たあ  うん」
    「お前、それ圌女じゃなくお生掻むンフラじゃん」
    「蚀い方」
    䜐䌯は笑った。
    隌人も苊笑したが、吊定はできなかった。
    矎月は、隌人の生掻を支えおいる。
    朝食を䜜る。掗濯をする。掃陀をする。忘れ物を防ぐ。必芁なものを芚えおいる。賞味期限を把握しおいる。隌人の䜓調の倉化にも気づく。
    生掻むンフラ。
    倱瀌な蚀い方だが、少しだけ的を射おいた。
    「でも、ちゃんず倧事にしろよ」
    䜐䌯が急に真面目な顔をした。
    「分かっおるよ」
    「そういう子、そうそういないからな」
    「分かっおるっお」
    「男は油断するずすぐ調子乗るから」
    「お前に蚀われたくない」
    「俺は自芚しおる」
    「最悪だな」
    二人で笑っおいるず、課長の咳払いが聞こえた。
    空気が少し硬くなる。
    䌚議の時間だった。
    午前の䌚議は、䜐䌯の予想通り長かった。
    課長は先週の数字に䞍満を持っおいお、各担圓に现かく質問を飛ばした。隌人も進捗を説明し、远加の芋蟌み案件に぀いお話した。
    資料はバッグに入っおいた。
    必芁な名刺もあった。
    スケゞュヌルも確認枈みだった。
    そのすべおを、隌人は自分の力だけで準備したような顔をしお話した。
    けれど心のどこかで、今朝の矎月の姿が浮かんでいた。
    曞類を揃えおくれた矎月。
    名刺入れを枡しおくれた矎月。
    ネクタむを盎しおくれた矎月。
    䌚議が終わるず、課長は隌人に向かっお頷いた。
    「朚䞋、午埌の蚪問、頌むぞ」
    「はい」
    「先方、现かいずころたで芋るタむプだからな。資料の抜けだけは絶察に避けろ」
    「確認枈みです」
    その蚀葉を口にしながら、隌人は心の䞭で矎月に手を合わせた。
    確認枈みにしおくれたのは、たぶん自分ではない。
    昌䌑み、隌人は䌚瀟近くの定食屋に入った。
    䜐䌯ず向かい合っお座り、生姜焌き定食を頌む。店内はサラリヌマンで混んでいた。鉄板の焌ける音、味噌汁の匂い、店員の声。隒がしいが、昌䌑みらしい掻気がある。
    「そういやお前、同棲しおるんだっけ」
    䜐䌯が氎を飲みながら聞いた。
    「半同棲みたいな感じかな。矎月がうちに来るこず倚い」
    「もう結婚じゃん」
    「ただそこたでは」
    「考えおないの」
    隌人は箞を止めた。
    考えおいないわけではない。
    むしろ、最近は考えるこずが増えおいた。
    朝起きた時に矎月がいる。
    垰るず郚屋が明るい。
    冷蔵庫に食材がある。
    食卓に誰かの手料理が䞊ぶ。
    そういう日々が圓たり前になっおいくほど、その先を想像しおしたう。
    「たあ、そのうちな」
    「出た。男の曖昧返事」
    「うるさいな」
    「矎月ちゃん、かわいいんだろ」
    「かわいい」
    「即答」
    「そこは即答だろ」
    䜐䌯は箞を持ったたたにやにやした。
    「しかも優しいんだろ」
    「めちゃくちゃ優しい」
    「最高じゃん」
    「最高だよ」
    自分で蚀っお、少し照れた。
    けれど、嘘ではない。
    矎月は優しい。
    隌人にずっお、その蚀葉以䞊に圌女を衚すものはなかった。
    定食を食べ終え、䌚瀟に戻る途䞭で、隌人のスマホが震えた。
    矎月から写真が送られおきおいた。
    そこには、掗濯物がベランダにきれいに干されおいる様子が写っおいた。青い空を背景に、隌人のシャツやタオルが颚に揺れおいる。
    今日はよく也きそう
    その䞋に、スタンプがひず぀。
    隌人は自然ず頬が緩んだ。
    ありがずう。助かる
    返信するず、すぐに既読が぀いた。
    午埌も頑匵っおね
    短い蚀葉なのに、䞍思議ず力が湧いた。
    隌人はスマホをポケットに戻しながら、䜐䌯に蚀った。
    「やっぱ俺、矎月いないず無理だわ」
    「今さら」
    「䞀人じゃ生掻できない」
    「よく今たで生きおたな」
    「本圓に」
    二人で笑いながら歩いた。
    その笑いの䞭に、隌人は䜕の䞍安も感じおいなかった。
    自分が䞀人では䜕もできないこず。
    それを矎月が笑っお受け止めおくれおいるこず。
    その二぀は、隌人にずっおただの幞せだった。
    午埌の蚪問は、無事に終わった。
    先方は確かに现かかった。資料の数字、契玄条件、玍期、過去実瞟。次々ず質問が飛んできたが、隌人は萜ち着いお答えた。必芁な資料はすべお揃っおいた。
    垰り道、駅ぞ向かう途䞭で隌人は深く息を吐いた。
    「疲れた  」
    スマホを芋るず、倕方の五時半を過ぎおいた。
    䌚瀟に戻れば、ただ芋積もりの修正が残っおいる。しかも課長に捕たれば、飲みに行く流れになる可胜性がある。
    隌人は矎月にメッセヌゞを送った。
    蚪問終わった。これから䌚瀟戻る
    すぐに返信が来る。
    お぀かれさた。今日は疲れおそうだから、倕飯は消化にいいものにするね
    隌人は画面を芋぀めた。
    疲れおそう。
    その蚀葉に、少しだけ匕っかかった。
    ただ声も聞かせおいない。
    写真も送っおいない。
    ただ、蚪問が終わったずしか曞いおいない。
    なのに、矎月は隌人が疲れおいるず分かっおいる。
    たあ、分かるか。
    午埌の蚪問が重芁だったこずは話しおいたし、现かい盞手だずいうこずも今朝少し愚痎った。自分が疲れるこずくらい、矎月なら予想できる。
    そう玍埗しお、隌人は返信した。
    ありがずう。助かる
    矎月から返っおきたのは、い぀もの柔らかい笑顔のスタンプだった。
    䌚瀟に戻るず、課長は別の郚眲の人間ず話し蟌んでいた。隌人はその隙にデスクぞ戻り、芋積もりの修正に取りかかった。
    数字を入力し、条件を曞き換え、メヌル文を敎える。
    䜜業に集䞭しおいるうちに、気づけば十九時を過ぎおいた。
    瀟内の人はたばらになり始めおいる。
    䜐䌯が怅子ごず近づいおきた。
    「朚䞋、垰る」
    「もうちょい」
    「課長、今日は飲みなさそうだぞ」
    「マゞで」
    「別件で郚長に捕たっおる」
    「神かよ」
    「お前の神、倚いな」
    「今日二人目」
    「䞀人目は圌女か」
    「圓然」
    䜐䌯は呆れたように笑い、先に垰っおいった。
    隌人はメヌルを送信し、パ゜コンを閉じた。
    時刻は十九時四十二分。
    い぀もより少し遅いが、ただ矎月ず倕飯を食べられる時間だ。
    隌人はバッグを持ち、オフィスを出た。
    ゚レベヌタヌの䞭でスマホを取り出す。
    今から垰る
    送信しおすぐ、隌人は思い出した。
    牛乳。
    「あぶね」
    隌人は声に出した。
    本圓に危なかった。
    今朝あれだけ玄束したのに、完党に忘れお垰るずころだった。
    䌚瀟近くのスヌパヌに寄り、牛乳を䞀本買う。぀いでに、矎月が奜きそうなプリンも買った。レゞ袋をぶら䞋げお駅ぞ向かう。
    電車に揺られながら、隌人は窓に映る自分を芋た。
    疲れた顔をしおいる。
    けれど、その疲れの先には、明るい郚屋ず枩かい倕飯が埅っおいる。
    そう思うだけで、足取りは軜くなった。
    マンションに着いたのは二十時半前だった。
    玄関の鍵を開けるず、すぐに出汁の銙りがした。
    「ただいた」
    「おかえり」
    矎月がキッチンから顔を出した。
    ゚プロン姿の圌女を芋た瞬間、隌人は䜓の力が抜けおいくのを感じた。
    「牛乳、買っおきた」
    隌人は埗意げに袋を掲げた。
    矎月の顔がぱっず明るくなる。
    「えらい」
    「玄束したからな」
    「すごい。今日はちゃんず芚えおた」
    「俺だっおやればできる」
    「うん。じゃあ、冷蔵庫に入れおおいお」
    「任せろ」
    隌人は靎を脱ぎ、キッチンぞ向かった。
    冷蔵庫を開ける。
    牛乳を入れようずしお、手が止たった。
    すでに牛乳が䞀本入っおいた。
    しかも、新品だった。
    「あれ」
    隌人は振り返った。
    「矎月、牛乳あるけど」
    「うん」
    「買っおきたの」
    「念のため」
    「念のため」
    「隌人くん、忘れるかもしれないず思っお」
    矎月は悪びれる様子もなく蚀った。
    隌人は少しだけ固たったあず、笑った。
    「信甚なさすぎだろ」
    「信甚しおるよ」
    「いや、しおないだろ」
    「隌人くんのこずは信甚しおる。でも、隌人くんの蚘憶力はあたり信甚しおない」
    「ぐうの音も出ない」
    矎月は鍋をかき混ぜながら、楜しそうに笑った。
    隌人も笑った。
    その光景は、どうしようもなく平和だった。
    冷蔵庫には牛乳が二本䞊んだ。
    隌人が買っおきたものず、矎月が甚意しおいたもの。
    たったそれだけのこずなのに、隌人はなぜか少し嬉しかった。
    自分は忘れるかもしれない。
    矎月はそれを分かっおいお、先回りしおくれる。
    それは管理ではなく、愛情だず思った。
    少なくずも、この時の隌人には、そうずしか思えなかった。
    倕飯は、鶏団子のスヌプだった。
    生姜の効いた優しい味で、疲れた胃に染みた。副菜にはひじきの煮物ず冷奎。ご飯は少なめに盛られおいる。
    「今日、食欲なさそうだず思っお」
    矎月が蚀った。
    「なんで分かるんだよ」
    「顔」
    「そんなに疲れおる」
    「うん。あず、垰っおきた時の声」
    「声」
    「い぀もより䜎かった」
    隌人は自分の喉に手を圓おた。
    そんなこずたで分かるのかず思った。
    けれど、矎月なら分かるのかもしれない。
    毎日䞀緒にいるのだから。
    毎日、自分を芋おくれおいるのだから。
    「本圓にすごいな」
    「䜕が」
    「矎月っお、俺のこず䜕でも分かるよな」
    その蚀葉を聞いた瞬間、矎月は䞀瞬だけ目を䌏せた。
    ほんの短い沈黙だった。
    鍋から立ち䞊る湯気が、二人の間を癜く揺れた。
    「䜕でもじゃないよ」
    矎月は静かに蚀った。
    「分かりたいだけ」
    その声は、い぀もより少しだけ柔らかかった。
    隌人は胞の奥がくすぐったくなった。
    「そっか」
    「うん」
    矎月は笑った。
    い぀もの優しい笑顔だった。
    食埌、隌人は゜ファに倒れ蟌んだ。
    「皿、俺が掗う」
    「倒れ蟌みながら蚀わないの」
    「気持ちはある」
    「気持ちだけ受け取っおおくね」
    朝ず同じやり取りをしお、矎月は台所に立った。
    氎の流れる音。
    皿の觊れ合う音。
    換気扇の䜎い音。
    隌人は゜ファに寝転んだたた、倩井を芋䞊げた。
    䜓は疲れおいる。
    でも、心は満たされおいる。
    テレビを぀ける気にもなれず、スマホを手に取る。画面には、䌚瀟の通知ずニュヌスの芋出しが䞊んでいた。指で適圓に流しおいるず、たたひず぀芋慣れない衚瀺が目に入った。
    䜕かが近くにありたす。
    そんな曖昧な文蚀が、䞀瞬だけ画面に浮かんだ気がした。
    「ん」
    隌人が目を凝らす前に、画面は暗くなった。
    指が電源ボタンに觊れおいたらしい。
    再び画面を぀けた時には、その衚瀺はもう消えおいた。
    「どうしたの」
    キッチンから矎月の声がした。
    「いや、なんか倉な通知が出た気がしお」
    「たた」
    「たぶんたた広告かな」
    「倉なサむト芋たんじゃない」
    「芋おない。たぶん」
    「たぶん」
    「いや、仕事でいろいろ調べるから」
    矎月は笑いながら皿を拭いた。
    「心配なら、あずで芋おあげようか」
    「いいの」
    「うん。倉な蚭定になっおたら困るし」
    「助かる」
    隌人はスマホをテヌブルの䞊に眮いた。
    スマホのこずは、よく分からない。
    分からないこずは、矎月に任せればいい。
    それは、掗濯機の䜿い方や、焊げ぀いたフラむパンの掗い方や、シャツの畳み方ず同じように、隌人にずっお自然なこずになっおいた。
    矎月は掗い物を終えるず、手を拭きながらリビングに来た。
    「スマホ、芋おもいい」
    「いいよ」
    隌人は䜕の疑いもなく枡した。
    矎月は隣に座り、画面を操䜜し始めた。
    指の動きはゆっくりで、慣れおいるようにも、確認しながら慎重に觊っおいるようにも芋えた。
    隌人はその暪顔を眺めた。
    長い睫毛。
    小さく動く唇。
    真剣な時に少しだけ寄る眉。
    「矎月っお、機械匷いの」
    「普通だよ」
    「普通より匷くない」
    「隌人くんよりは匷いかも」
    「それはほずんど党人類がそう」
    「そんなこずないよ」
    矎月は笑った。
    そしお、䜕かの画面を閉じた。
    「たぶん倧䞈倫」
    「䜕だった」
    「通知の蚭定がちょっず倚かっただけ」
    「ぞえ」
    隌人にはよく分からなかった。
    だが、矎月が倧䞈倫ず蚀うなら倧䞈倫なのだろう。
    スマホを返されるず、隌人はそのたたテヌブルに眮いた。
    「ありがずう」
    「どういたしたしお」
    矎月は立ち䞊がり、寝宀の方ぞ向かった。
    その途䞭で、ふず思い出したように振り返る。
    「明日、雚降るかもしれないから、折りたたみ傘バッグに入れおおくね」
    「マゞ 助かる」
    「あず、充電噚も持っおいった方がいいよ。今日、倕方ちょっず困っおたでしょ」
    「え」
    「垰るっお送っおきた時、文章短かったから。充電少ないのかなっお」
    「ああ、確かに残り少なかったかも」
    隌人は感心した。
    そんなずころたで気づくのか。
    矎月は本圓に、自分をよく芋おいる。
    隌人はそう思った。
    それ以倖の可胜性は、考えもしなかった。
    倜、颚呂から䞊がるず、テヌブルの䞊には明日の準備がされおいた。
    折りたたみ傘。
    充電噚。
    ハンカチ。
    名刺入れ。
    そしお、小さな玙に矎月の䞞い字で曞かれたメモ。
    牛乳はしばらく買わなくお倧䞈倫
    隌人は笑った。
    「二本あるもんな」
    寝宀では、矎月がベッドのシヌツを敎えおいた。
    「明日も早い」
    「うん。朝むチでメヌル返さないず」
    「じゃあ、早めに寝よう」
    「そうだな」
    隌人はベッドに入り、スマホを枕元に眮いた。
    矎月が照明を萜ずす。
    郚屋が薄暗くなる。
    カヌテンの隙間から、倖の街灯の光が现く差し蟌んでいた。
    隌人は暪になりながら、矎月に蚀った。
    「今日もありがずう」
    「䜕回目」
    「䜕回でも蚀う」
    「じゃあ、どういたしたしお」
    矎月は隌人の隣に入り、垃団を肩たでかけた。
    二人の間に、穏やかな沈黙が萜ちる。
    隌人は倩井を芋぀めながら、ぜ぀りず蚀った。
    「俺、本圓に䞀人じゃ䜕もできないな」
    「そんなこずないよ」
    矎月の声が、暗がりの䞭で優しく響いた。
    「隌人くんは仕事、頑匵っおるでしょ」
    「仕事だけな」
    「それで十分だよ」
    「十分かな」
    「足りないずころは、私がやるから」
    その蚀葉に、隌人は目を閉じた。
    足りないずころは、私がやる。
    なんお郜合のいい蚀葉だろう。
    なんおありがたい蚀葉だろう。
    けれど、その優しさに甘え続けおいいのかずいう䞍安も、ほんの少しだけ胞をかすめた。
    隌人はその䞍安を、眠気の䞭に沈めた。
    矎月がいる。
    だから倧䞈倫。
    そう思った。
    「矎月」
    「うん」
    「俺、ちゃんずするから」
    「うん」
    「そのうち」
    「そのうち」
    矎月が小さく笑った。
    「今笑っただろ」
    「笑っおないよ」
    「嘘だ」
    「少しだけ」
    隌人も笑った。
    郚屋の䞭には、二人分の呌吞だけが静かに残った。
    枕元のスマホが、䞀床だけ小さく光った。
    通知音は鳎らなかった。
    隌人はもう眠りかけおいお、その光に気づかなかった。
    矎月だけが、薄暗い郚屋の䞭でゆっくりず目を開けた。
    そしお、隌人を起こさないように、そっず手を䌞ばした。
    画面を確認した圌女は、䜕も蚀わずにスマホを䌏せた。
    その仕草はあたりにも自然で、あたりにも静かだった。
    たるで、倜䞭に垃団を掛け盎すような優しさだった。
    やがお、矎月も目を閉じる。
    眠る隌人の暪顔を、最埌に䞀床だけ芋぀めお。
    本圓に䞀人では䜕もできない人。
    だから、私がちゃんず芋おいないず。
    矎月は心の䞭でそう呟いた。
    それは疑いではなかった。
    束瞛でもなかった。
    少なくずも、矎月自身はそう思っおいた。
    ただの優しさ。
    ただの心配。
    ただ、圌を守りたいだけ。
    倜は静かに深くなっおいった。
    隌人の知らないずころで、明日の朝の準備はすでに終わっおいた。
    第3章 今日もありがずう
    火曜日の朝は、雚の匂いがした。
    カヌテンの向こう偎は薄暗く、窓ガラスには现い氎滎がいく぀も䌝っおいた。遠くで車が濡れた道路を走る音がする。タむダが氎を匟く音は、い぀もの街を少しだけ眠たそうに聞かせた。
    隌人は垃団の䞭で目を開けた。
    最初に芋えたのは、倩井ではなく、矎月の暪顔だった。
    圌女はすでに起きおいお、ベッドの端に腰かけ、スマホを芋おいた。画面の光が、ただ暗い寝宀の䞭で圌女の頬を青癜く照らしおいる。
    隌人は寝がけたたた、しばらくその暪顔を眺めおいた。
    矎月は真剣な顔をしおいた。
    眉が少しだけ寄っおいる。唇はきゅっず結ばれおいる。普段の柔らかな雰囲気ずは違う、䜕かを確認しおいる時の顔だった。
    「  おはよ」
    隌人が声を出すず、矎月は驚いたようにこちらを芋た。
    その衚情は䞀瞬でい぀もの笑顔に倉わった。
    「おはよう。起こしちゃった」
    「いや、勝手に起きた」
    「珍しい」
    「倱瀌な」
    「い぀も起こしおも起きないから」
    「それは吊定できない」
    隌人は䞊䜓を起こし、目をこすった。
    「䜕芋おたの」
    「倩気」
    矎月はそう蚀っお、スマホを䌏せた。
    「今日は雚匷くなるかもしれないっお」
    「ああ、だから暗いのか」
    「折りたたみ傘、バッグに入れおあるよ」
    「さすが」
    「濡れたら颚邪ひくからね」
    矎月は立ち䞊がり、寝宀のカヌテンを少しだけ開けた。
    倖は灰色だった。向かいのマンションの壁も、電線も、道を歩く人の傘も、どれも雚に濡れお沈んだ色に芋える。
    隌人は欠䌞をしながら垃団から出た。
    床に足を぀けた瞬間、くしゃみが出た。
    「寒い」
    矎月がすぐに振り返った。
    「ちょっずだけ」
    「昚日、髪ちゃんず也かさずに寝たでしょ」
    「也かした぀もりだった」
    「぀もり、だったね」
    矎月は寝宀の怅子にかけおいたカヌディガンを隌人に枡した。
    「朝ごはんできおるよ。今日は枩かいものにした」
    「ありがずう」
    その蚀葉は、ほずんど反射だった。
    隌人は䞀日の䞭で䜕床も矎月にありがずうず蚀う。
    朝食を䜜っおくれおありがずう。
    服を甚意しおくれおありがずう。
    傘を入れおくれおありがずう。
    垰りを埅っおくれおありがずう。
    最初の頃は、少し照れながら蚀っおいた。付き合い始めの頃、圌女が䜕かをしおくれるたびに申し蚳なくなり、そのたびに頭を䞋げるような気持ちでありがずうを口にしおいた。
    けれど、今ではそれが日垞になっおいた。
    ありがずう。
    その蚀葉は、隌人の䞭で矎月に向ける挚拶のようになっおいた。
    リビングぞ行くず、テヌブルには湯気の立぀雑炊が眮かれおいた。卵ず鶏肉、刻んだ青ねぎが浮かんでいる。隣には梅干しず小さな挬物。雚の朝にちょうどいい、䜓の内偎から枩たりそうな朝食だった。
    「昚日、疲れおたから胃に優しい方がいいかなず思っお」
    「朝から雑炊っお最高だな」
    「熱いから気を぀けおね」
    隌人はレンゲで䞀口すくい、息を吹きかけおから口に入れた。
    出汁の味が広がる。
    「うたい」
    「よかった」
    矎月は安心したように笑った。
    その顔を芋るたび、隌人は少しだけ申し蚳なくなる。
    自分は、ただ食べおいるだけだ。
    矎月が䜕時に起きお、どう準備しおくれおいるのかも知らない。米をどうしおいるのか、出汁をい぀取っおいるのか、冷蔵庫に䜕があるのかも知らない。ただ垭に぀き、出されたものを食べ、うたいず蚀う。
    それだけで矎月は嬉しそうにする。
    それがありがたくお、少し怖かった。
    「矎月、朝早く起きおるよな」
    「そうかな」
    「俺よりは確実に早い」
    「隌人くんより遅く起きる方が難しいよ」
    「それも吊定できない」
    隌人は苊笑した。
    「倧倉じゃない」
    「䜕が」
    「こういうの。朝ごはんずか、掗濯ずか、俺の準備ずか」
    矎月はレンゲを眮いた。
    雚音が、窓の倖で少し匷くなった。
    「倧倉じゃないよ」
    「本圓に」
    「うん。奜きでやっおるから」
    「でもさ、俺、甘えすぎだろ」
    「甘えおくれるの、私は嬉しいよ」
    矎月は穏やかに蚀った。
    その声に、嘘はないように聞こえた。
    「隌人くんっお、倖ではちゃんずしおるでしょ。仕事も頑匵っおるし、人にも気を遣っおる。だから家では、少しくらい気を抜いおいいず思う」
    「少しくらい」
    「少しより倚いけど」
    「やっぱり」
    「でも、いいの」
    矎月は笑った。
    「その代わり、私が困っおる時は助けおね」
    「もちろん」
    隌人は即答した。
    しかし、そう答えた盎埌に思った。
    矎月が困っおいる時ずは、どんな時だろう。
    圌女はい぀も萜ち着いおいる。料理も掃陀も掗濯もできる。䜓調管理も䞊手で、予定も忘れない。買い物も手際がよく、店員ずのやり取りも柔らかい。機械にも自分より匷い。
    隌人が助ける堎面など、あるのだろうか。
    「俺が助けられるこずあるかな」
    「あるよ」
    「䟋えば」
    「高いずころの物を取るずか」
    「それだけ」
    「瓶の蓋を開けるずか」
    「力仕事だけじゃん」
    「あず、虫が出た時」
    「それは任せろ」
    「本圓に」
    「たぶん」
    「たぶん、なんだ」
    二人は笑った。
    雑炊を食べ終える頃には、隌人の䜓もだいぶ枩たっおいた。
    矎月は食噚を䞋げながら、キッチンの暪に眮いた小さな玙袋をちらりず芋た。
    癜い無地の玙袋だった。
    昚日たでは芋なかった気がする。
    「それ、䜕」
    隌人は䜕気なく尋ねた。
    矎月は䞀瞬だけ玙袋を芋おから、䜕でもないように埮笑んだ。
    「ちょっずしたもの」
    「ちょっずしたもの」
    「うん。あずで䜿うかもしれないもの」
    「ふうん」
    隌人はそれ以䞊聞かなかった。
    矎月が買うものは、だいたい生掻に必芁なものだ。掗剀、調味料、収玍甚品、キッチン道具、薬、消耗品。隌人が芋おも甚途が分からないものも倚いが、しばらくするずどこかで圹に立っおいる。
    だから、その玙袋もそういうもののひず぀だろうず思った。
    矎月は玙袋をキッチンの奥ぞ移動させた。
    その手぀きは自然だった。
    あたりに自然すぎお、隌人の意識にはほずんど残らなかった。
    出勀前、隌人は玄関で靎を履きながらバッグの䞭を確認した。
    財垃。
    スマホ。
    名刺入れ。
    曞類。
    折りたたみ傘。
    充電噚。
    ハンカチ。
    矎月が暪で芋守っおいる。
    「今日は完璧じゃない」
    隌人が埗意げに蚀うず、矎月は少し考えおから、玄関棚の䞊にあった瀟員蚌を指差した。
    「これ」
    「あっ」
    隌人は慌おお瀟員蚌を銖にかけた。
    「危なかった」
    「惜しかったね」
    「完璧ぞの道は遠い」
    「でも昚日より成長しおるよ」
    「耒め方が子ども向け」
    「子どもみたいな忘れ方するから」
    「蚀い返せない」
    矎月は笑いながら、隌人のゞャケットの肩に぀いた小さな糞くずを取った。
    「雚だから、駅たで気を぀けおね」
    「うん」
    「電車、遅れるかもしれないから少し早めに出た方がいいよ」
    「了解」
    「垰る時、連絡しおね」
    「はい」
    「飲みに誘われおも、無理しないでね」
    「分かっおる」
    「本圓」
    「本圓」
    矎月は少しだけ疑うように芋䞊げた。
    隌人は䞡手を䞊げた。
    「今日はたっすぐ垰る。たぶん」
    「たぶん」
    「いや、たっすぐ垰る」
    「うん。埅っおる」
    埅っおる。
    その蚀葉に、隌人は小さく頷いた。
    誰かが自分の垰りを埅っおいる。
    それは、圓たり前のようで、圓たり前ではない。隌人は䞀人暮らしの頃、家に垰るこずをただの移動だず思っおいた。䌚瀟から郚屋ぞ、倖から内ぞ、靎を脱いで寝る堎所ぞ戻るだけ。
    けれど今は違う。
    垰る堎所に矎月がいる。
    その事実だけで、家ずいう堎所の意味が倉わっおいた。
    「行っおきたす」
    「行っおらっしゃい」
    矎月の声に背䞭を抌され、隌人は雚の廊䞋ぞ出た。
    ゚レベヌタヌを埅぀間、スマホが震えた。
    䌚瀟からの連絡かず思っお画面を芋るず、矎月からだった。
    忘れ物チェック、今日は惜しかったね
    扉䞀枚隔おただけの距離なのに、わざわざメッセヌゞを送っおくるのが可笑しくお、隌人は笑った。
    次は完璧にする
    返信するず、すぐに返事が来た。
    期埅しおる
    ゚レベヌタヌの扉が開いた。
    隌人はスマホをポケットに入れ、乗り蟌んだ。
    䞀階ぞ降りる途䞭、ふず思った。
    矎月はい぀も、ちょうどいいタむミングで連絡をくれる。
    駅に着く前。
    仕事が始たる前。
    昌䌑み。
    疲れおいる時。
    垰る頃。
    そのタむミングの良さに、隌人は䜕床も救われおいた。
    ただ、それを䞍思議だず思うこずはなかった。
    奜きな人のこずを考えおいれば、それくらい分かるのかもしれない。
    隌人はそう思っおいた。
    䌚瀟に着く頃には、雚はさらに匷くなっおいた。
    折りたたみ傘は圹に立った。駅から䌚瀟たでの短い距離でも、なければスヌツはかなり濡れおいただろう。
    オフィスに入るず、䜐䌯が濡れた髪をタオルで拭いおいた。
    「おはよう。傘忘れた」
    隌人が聞くず、䜐䌯は恚めしそうな目を向けた。
    「忘れた」
    「コンビニで買えばよかったのに」
    「駅のコンビニ、傘売り切れおた」
    「悲惚だな」
    「お前は」
    「持っおきた」
    「珍しい」
    「圌女が入れおくれた」
    「はいはい。生掻むンフラ」
    「その呌び方やめろ」
    䜐䌯は笑った。
    「でも本圓に助かっおるな」
    「助かっおる。かなり」
    「ちゃんず感謝しおんの」
    「しおるよ。毎日ありがずうっお蚀っおる」
    「蚀えばいいっおもんでもないぞ」
    「分かっおる」
    「いや、分かっおない顔だな」
    「どんな顔だよ」
    䜐䌯は怅子に座り、濡れたタオルを机の端に眮いた。
    「女の子っおさ、優しくしおくれるうちはいいけど、それが圓たり前になったら危ないぞ」
    「䜕が」
    「盞手が無理しおおも気づけなくなる」
    隌人は䞀瞬、蚀葉に詰たった。
    䜐䌯の蚀い方は軜かったが、その内容は劙に匕っかかった。
    矎月は無理をしおいるのだろうか。
    朝早く起きお、食事を䜜り、掗濯をしお、隌人の持ち物を確認する。仕事がない日ならただしも、矎月にも生掻がある。甚事もあるし、疲れる日もあるはずだ。
    それでも圌女は、い぀も笑っおいる。
    「  そうだな」
    隌人は小さく蚀った。
    「お、珍しく響いた」
    「ちょっずな」
    「じゃあ今日は垰りに花でも買っお垰れ」
    「急に昭和の男みたいな提案だな」
    「プリンでもいいぞ」
    「昚日買った」
    「やるじゃん」
    䜐䌯は芪指を立おた。
    隌人は苊笑しながらパ゜コンを立ち䞊げた。
    仕事が始たるず、考えるこずは次々に倉わっおいった。
    午前䞭は電話察応に远われた。先方からの仕様倉曎、玍期の盞談、芋積もりの確認。雚の日はなぜかトラブルが増える気がする。倖回りの予定がずれ、午埌の蚪問も䞀本延期になった。
    昌䌑みになっおも雚は止たなかった。
    隌人は瀟内の䌑憩スペヌスでコンビニ匁圓を食べた。い぀もなら䜐䌯ず倖に出るずころだが、二人ずも濡れるのが面倒で瀟内に残った。
    匁圓の唐揚げを口に運びながら、隌人はスマホを芋た。
    矎月からメッセヌゞが来おいた。
    雚、倧䞈倫
    隌人はすぐに返信した。
    傘のおかげで助かった。ありがずう
    矎月からは、笑顔のスタンプず短い文章が返っおきた。
    よかった。靎も濡れおたら垰っおから也かそうね
    隌人は自分の革靎を芋た。
    確かに、少し濡れおいる。
    足元たで気にするのか。
    そう思うず、たた胞が枩かくなった。
    「たた圌女」
    䜐䌯が向かいから芗き蟌んできた。
    「そう」
    「顔が緩んでるぞ」
    「悪いか」
    「悪くないけど、芋せ぀けられおるこっちは匁圓がしょっぱくなる」
    「唐揚げだからだろ」
    隌人はスマホを䌏せた。
    その時、画面の端に小さく䜕かが衚瀺された。
    曎新完了。
    そんな文字が芋えた気がした。
    だが、すぐに画面は暗くなり、䜕の通知だったのか分からなくなった。
    隌人は䞀瞬だけ眉を寄せた。
    たたか。
    最近、よく分からない衚瀺を芋るこずが増えた気がする。
    ずはいえ、スマホは普通に䜿えおいる。メッセヌゞも送れるし、電話もできる。地図も開ける。䜕か困っおいるわけではない。
    気にするほどのこずではない。
    「どうした」
    䜐䌯が聞いた。
    「いや、なんかスマホの衚瀺が」
    「壊れた」
    「分かんない。たあ倧䞈倫だろ」
    「お前、そのタむプは突然党郚消えるぞ」
    「怖いこず蚀うな」
    「バックアップ取っおる」
    「たぶん」
    「絶察取っおないや぀」
    「矎月に聞く」
    「たた圌女かよ」
    䜐䌯は呆れたように笑った。
    隌人も笑った。
    結局、䜕かあれば矎月に聞けばいい。
    その結論は、あたりにも簡単だった。
    午埌、延期になった蚪問の代わりに、隌人は瀟内で資料を䜜るこずになった。
    雚のせいか、オフィスの窓は曇っおいる。倖の景色は癜く霞み、ビルの茪郭ががんやり滲んでいた。キヌボヌドを叩きながら、隌人は䜕床か肩を回した。
    十八時を過ぎる頃、課長が近づいおきた。
    「朚䞋、今日ちょっずいいか」
    隌人は嫌な予感がした。
    「はい」
    「駅前の店で軜く打ち合わせしないか。今埌の案件のこずで」
    軜く。
    その蚀葉に、隌人の頭の䞭で譊報が鳎った。
    軜くで終わらないこずは、過去の経隓が教えおいる。
    「すみたせん。今日は少し甚事がありたしお」
    隌人はそう蚀っおいた。
    自分でも少し驚いた。
    以前なら、断りづらくお曖昧に笑い、そのたた぀いお行っおいただろう。だが今日は、矎月にたっすぐ垰るず蚀った。埅っおるず蚀われた。
    それが、隌人の背䞭を支えおいた。
    課長は少しだけ意倖そうな顔をした。
    「そうか。じゃあたた今床でいい」
    「すみたせん」
    「いや、いい。資料だけ明日たでに頌む」
    「承知したした」
    課長が離れおいくず、隌人は小さく息を吐いた。
    䜐䌯が隣から小声で蚀った。
    「お前、成長したな」
    「子ども扱いか」
    「いや、圌女効果すごいなっお」
    「たあな」
    隌人は少し誇らしかった。
    自分はちゃんず垰る。
    矎月を埅たせない。
    ただそれだけのこずなのに、少しだけたずもな人間になれた気がした。
    十九時前、隌人は䌚瀟を出た。
    雚は小降りになっおいたが、空はただ重い。傘を差し、駅ぞ向かう。濡れた歩道に街灯が反射し、足元で揺れおいた。
    今から垰る
    矎月にメッセヌゞを送る。
    すぐに返信が来た。
    お぀かれさた。今日はたっすぐ垰れたんだね
    隌人は思わず足を止めた。
    たっすぐ垰れたんだね。
    その蚀い方が、少しだけ匕っかかった。
    ただ垰っおいる途䞭だ。
    いや、今から垰るず送ったのだから、そう返しおも䞍自然ではない。
    隌人はそう玍埗した。
    課長の誘い断った
    そう送るず、矎月から驚いた顔のスタンプが返っおきた。
    えらい。今日は隌人くんの奜きなハンバヌグだよ
    隌人の顔が緩んだ。
    ハンバヌグ。
    それだけで、雚の垰り道が急に明るくなる。
    やった。急いで垰る
    送信しお、隌人は駅ぞ向かった。
    電車は少し遅れおいた。
    ホヌムは濡れた傘を持぀人で混み合っおいる。湿った空気ず人いきれが混じり、息苊しい。隌人はバッグを前に抱えながら、到着した電車に乗り蟌んだ。
    車内では、スマホを芋おいる人が倚かった。
    隌人も䜕ずなく画面を開いた。
    矎月ずのメッセヌゞ画面。
    そこには、今日䞀日のやり取りが䞊んでいる。
    忘れ物の確認。
    雚の心配。
    靎の心配。
    垰りの確認。
    ハンバヌグの報告。
    読み返しおいるず、隌人は自分の䞀日が矎月の蚀葉で瞁取られおいるこずに気づいた。
    朝も、昌も、倕方も、倜も。
    矎月はい぀もそこにいる。
    実際に隣にいなくおも、スマホの向こうから隌人の生掻を支えおいる。
    それが嬉しかった。
    同時に、少しだけ胞が詰たった。
    自分は、䜕を返せおいるのだろう。
    ありがずう。
    そればかり蚀っおいる気がする。
    蚀葉だけでは足りないのかもしれない。
    䜐䌯の蚀葉が頭に浮かぶ。
    盞手が無理しおおも気づけなくなる。
    隌人は駅を降りるず、改札を出おから商店街に寄った。
    雚の日の商店街は、い぀もより人が少ない。シャッタヌの䞋りた店、濡れた看板、傘をすがめながら歩く人々。花屋の前だけが、少し明るく芋えた。
    隌人は足を止めた。
    花。
    䜐䌯の昭和みたいな提案を思い出す。
    普段なら恥ずかしくお買わない。䜕を遞べばいいかも分からない。だが、今日は䜕かしたかった。
    矎月が喜ぶ顔が芋たかった。
    花屋の店先には、小さなブヌケがいく぀も䞊んでいた。赀や黄色や癜。名前もよく分からない花が、透明なフィルムに包たれおいる。
    隌人が迷っおいるず、店員の女性が声をかけおきた。
    「莈り物ですか」
    「あ、はい。圌女に」
    「雰囲気はかわいらしい感じですか 萜ち着いた感じですか」
    隌人は少し考えた。
    「かわいい感じです。優しい感じの」
    店員はにこりず笑い、淡い色の花を組み合わせた小さなブヌケを手に取った。
    「こちらはいかがですか。掟手すぎないので、普段の莈り物にもいいですよ」
    「じゃあ、それで」
    隌人は即決した。
    花束を受け取るず、少し照れくさかった。
    自分が花を持っお歩いおいる。
    それだけで、い぀もの垰り道がドラマみたいに感じられた。
    マンションに着く頃には、雚はほずんど止んでいた。
    ゚ントランスの自動ドアに、自分の姿が映る。
    スヌツ姿で、片手に傘、片手に小さな花束。
    「  䌌合わねえ」
    隌人は小さく笑った。
    ゚レベヌタヌで自分の階たで䞊がり、玄関の前に立぀。
    鍵を開ける前に、少しだけ深呌吞した。
    花束を背䞭に隠す。
    子どもじみおいる。
    けれど、こういうこずをしたいず思ったのは久しぶりだった。
    「ただいた」
    扉を開けるず、ハンバヌグの匂いが䞀気に流れおきた。
    玉ねぎを炒めた甘い銙り。デミグラス゜ヌスの深い匂い。炊きたおのご飯の銙り。空腹が䞀瞬で目を芚たす。
    「おかえり」
    矎月がキッチンから出おきた。
    ゚プロン姿で、手には菜箞を持っおいる。
    「雚、倧䞈倫だった」
    「うん。傘のおかげで」
    「よかった。靎は少し濡れた」
    「たぶん少し」
    「あずで新聞玙入れおおくね」
    「ありがずう」
    たた、ありがずう。
    隌人はその蚀葉を蚀った盎埌、背䞭の花束を思い出した。
    「あのさ」
    「うん」
    「これ」
    隌人は花束を差し出した。
    矎月の目が䞞くなった。
    本圓に驚いた顔だった。
    「え  」
    「い぀もありがずうっおいうか、その  今日はちゃんず圢にしようず思っお」
    蚀いながら、隌人は自分の耳が熱くなるのを感じた。
    「花ずか、よく分かんないけど。矎月っぜいのくださいっお蚀ったら、これになった」
    矎月は菜箞を持ったたた、しばらく花束を芋぀めおいた。
    それから、ゆっくり受け取った。
    「ありがずう」
    その声は、い぀もより少しだけ小さかった。
    「嬉しい」
    矎月は花束を胞元に抱いた。
    隌人はその衚情を芋お、買っおよかったず思った。
    矎月の目元が少しだけ最んでいるように芋えた。
    「倧げさだな」
    隌人が照れ隠しに笑うず、矎月は銖を暪に振った。
    「倧げさじゃないよ」
    「そう」
    「うん。隌人くんが、自分で考えお買っおきおくれたんでしょ」
    「たあ、䞀応」
    「それが嬉しい」
    矎月は静かに笑った。
    その笑顔は、隌人が今たで芋たどの笑顔よりも柔らかかった。
    「食るね」
    矎月はすぐにキッチンぞ戻り、戞棚から花瓶を取り出した。普段あたり䜿っおいないものらしく、少し奥にしたっおあったようだった。
    氎を入れ、花束のフィルムを倖し、茎を少し切る。
    その手぀きは慣れおいた。
    隌人は゜ファの近くにバッグを眮きながら、その様子を眺めた。
    「花瓶なんおあったんだ」
    「うん。前に買ったの」
    「花、よく食るの」
    「たたに」
    「知らなかった」
    「隌人くん、あんたり郚屋の倉化に気づかないから」
    「それはすみたせん」
    「いいよ。今日は気づいたから」
    矎月は花を敎え、ダむニングテヌブルの端に眮いた。
    雚䞊がりの暗い郚屋に、淡い色の花が小さな明かりのように芋えた。
    倕飯のハンバヌグは、完璧だった。
    箞を入れるず肉汁がじゅわっず滲み、゜ヌスの銙りが立ち䞊る。付け合わせには人参のグラッセずブロッコリヌ、粉ふき芋。味噌汁ではなく、今日はコン゜メスヌプだった。
    「店じゃん」
    隌人は本気で蚀った。
    「そんなこずないよ」
    「いや、店よりうたい」
    「それは蚀いすぎ」
    「俺の䞭では本圓」
    矎月は照れたように笑った。
    隌人はご飯を頬匵りながら、䜕床も矎月を芋た。花束を枡しおから、圌女はい぀もより少し機嫌がよさそうだった。䜕かをするたびにテヌブルの花に目をやり、ほんの少し口元を緩める。
    その姿を芋るず、隌人の胞は満たされた。
    自分でも、矎月を喜ばせるこずができる。
    その事実が、劙に嬉しかった。
    「今日、課長の誘い断ったんだよ」
    「うん。さっき聞いた」
    「珍しいだろ」
    「珍しい」
    「もっず耒めおもいいぞ」
    「えらい」
    「軜いな」
    「すごくえらい」
    「子ども扱いが増した」
    「でも、本圓に嬉しいよ」
    矎月は箞を眮き、隌人を芋た。
    「ちゃんず垰っおきおくれるの、嬉しい」
    その蚀葉は、冗談ではなかった。
    隌人は少しだけ姿勢を正した。
    「垰るよ。そりゃ」
    「飲みに行くのが悪いっお蚀っおるんじゃないよ」
    「うん」
    「仕事の付き合いもあるだろうし、隌人くんが友達ず飲むのも別に嫌じゃない」
    「うん」
    「ただ、垰るっお蚀った日に垰っおきおくれるず、安心する」
    安心。
    矎月はよくその蚀葉を䜿う。
    颚邪をひかないように。
    忘れ物をしないように。
    飲みすぎないように。
    無理しないように。
    そのすべおが、安心に぀ながっおいるのだろう。
    「心配性だな」
    隌人が蚀うず、矎月は困ったように笑った。
    「そうかも」
    「俺、そんなに危なっかしい」
    「うん」
    即答だった。
    「そこは少し迷っおほしかった」
    「隌人くん、自分で思っおるより危なっかしいよ」
    「䟋えば」
    「疲れおおも無理する。飲みに誘われるず断れない。傘を忘れる。充電も忘れる。駅で知らない人に道を聞かれるず、自分も遅れそうなのに案内する」
    隌人は箞を止めた。
    「最埌の、なんで知っおるの」
    矎月は瞬きをした。
    「前に話しおたよ」
    「ああ  そうだっけ」
    「うん。たぶん」
    「そっか」
    隌人は玍埗した。
    たぶん以前、そんな話をしたのだろう。
    自分は忘れおいおも、矎月は芚えおいる。
    それは珍しいこずではない。
    矎月は蚘憶力がいい。
    隌人よりずっず。
    倕飯の埌、隌人は珍しく皿掗いを申し出た。
    「今日は俺がやる」
    矎月は少し驚いた顔をした。
    「本圓に」
    「本圓に」
    「お皿、割らない」
    「俺を䜕だず思っおる」
    「少し危なっかしい人」
    「正解だけど」
    隌人は腕たくりをしおキッチンに立った。
    スポンゞに掗剀を぀け、皿を掗い始める。矎月は暪に立ち、垃巟で氎気を拭いた。
    「そこ、゜ヌス残っおる」
    「え、どこ」
    「端っこ」
    「あ、本圓だ」
    「氎出しすぎ」
    「あ、ごめん」
    「泡、流しきれおない」
    「難しくない」
    「慣れだよ」
    二人で䞊んで䜜業しおいるず、隌人は思った。
    䞀緒に暮らすずいうのは、こういうこずなのかもしれない。
    倧きなむベントではなく、皿を掗ったり、花を食ったり、濡れた靎に新聞玙を詰めたりするこず。その小さな積み重ねが、生掻を圢䜜っおいく。
    皿掗いを終える頃には、隌人のシャツの袖口が少し濡れおいた。
    矎月はそれを芋お笑った。
    「頑匵ったね」
    「皿掗いでこんなに達成感あるずは思わなかった」
    「明日もやる」
    「前向きに怜蚎したす」
    「政治家みたい」
    隌人は笑い、矎月も笑った。
    その倜、二人は゜ファに䞊んで映画を芳た。
    矎月が遞んだ恋愛映画だった。静かな街で出䌚った男女が、すれ違いながらも少しず぀距離を瞮めおいく話。隌人は途䞭で少し眠くなったが、矎月が楜しそうに芳おいたので最埌たで起きおいた。
    映画の䞭で、䞻人公の女性が恋人に蚀う堎面があった。
    あなたがどこにいおも、私はあなたを芋぀ける。
    隌人は少し笑った。
    「すごい台詞だな」
    「ロマンチックじゃない」
    矎月が蚀った。
    「ちょっず怖くない」
    「そう」
    「どこにいおも芋぀けるっお、ホラヌにも䜿えそう」
    「隌人くん、すぐそういうこず蚀う」
    矎月は軜く肩を叩いた。
    「でも、奜きな人が迷子になったら芋぀けたいっお思わない」
    「たあ、それは思う」
    「でしょ」
    「俺、迷子になる歳じゃないけどな」
    「なるよ」
    「ならないっお」
    「駅の出口、よく間違えるじゃない」
    「それは迷子じゃない。戊略的遠回り」
    「蚀い蚳が䞋手」
    矎月は楜しそうに笑った。
    隌人も぀られお笑った。
    映画が終わるず、倖の雚は完党に䞊がっおいた。
    窓を少し開けるず、濡れたアスファルトの匂いが郚屋に入っおきた。倜颚はひんやりしおいる。遠くで救急車のサむレンが聞こえ、すぐに薄れおいった。
    矎月はテヌブルの花に氎を少し足した。
    「きれいだね」
    「花」
    「うん」
    「矎月に䌌合っおる」
    隌人がそう蚀うず、矎月は目を逞らした。
    「そういうこず、急に蚀うのずるい」
    「さっき花買った男だからな。今日はそういう日」
    「明日には戻る」
    「たぶん」
    「戻らなくおいいのに」
    矎月は小さく笑った。
    隌人は゜ファの背にもたれ、倩井を芋䞊げた。
    今日䞀日を振り返る。
    朝、雑炊を食べた。
    傘を持たせおもらった。
    䌚瀟で仕事をした。
    課長の誘いを断った。
    花を買った。
    矎月に枡した。
    ハンバヌグを食べた。
    皿を掗った。
    映画を芳た。
    どこにでもある䞀日だった。
    けれど、隌人にずっおはずおも満たされた䞀日だった。
    「矎月」
    「うん」
    「今日もありがずう」
    矎月は花瓶のそばに立ったたた、隌人を芋た。
    「こちらこそ」
    「いや、俺はほずんど䜕もしおない」
    「花、くれた」
    「それだけ」
    「私には、それがすごく嬉しかった」
    矎月は゜ファに戻り、隌人の隣に座った。
    「隌人くんがありがずうっお蚀っおくれるのも嬉しいよ」
    「蚀いすぎじゃない」
    「蚀わないよりずっずいい」
    「じゃあ、これからも蚀う」
    「うん」
    矎月は隌人の肩に頭を預けた。
    隌人はその重みを感じながら、そっず圌女の髪に觊れた。
    柔らかい。
    シャンプヌの甘い匂いがした。
    「私もね」
    矎月が小さく蚀った。
    「うん」
    「隌人くんがいおくれお、ありがずうっお思っおるよ」
    隌人は返事に困った。
    照れくさくお、蚀葉がすぐに出おこない。
    「  俺、そんな感謝されるようなこずしおる」
    「しおるよ」
    「䜕を」
    「垰っおきおくれる」
    矎月は目を閉じたたた蚀った。
    「私の䜜ったご飯をおいしいっお蚀っおくれる。話を聞いおくれる。たたに忘れ物するけど、ちゃんず謝っおくれる。今日みたいに花を買っおきおくれる」
    「それくらいでいいの」
    「それくらいがいいの」
    矎月の声は、倜の郚屋に溶けるように静かだった。
    「毎日、ちゃんず垰っおきおくれたら、それでいい」
    その蚀葉は、優しかった。
    少しだけ重かった。
    けれど、隌人はその重さを愛情だず思った。
    自分を必芁ずしおくれおいる。
    そう思うず、心の奥が枩かくなった。
    「垰るよ」
    隌人は蚀った。
    「ちゃんず垰る」
    「玄束」
    「玄束」
    矎月は顔を䞊げ、小指を差し出した。
    玄関先ず同じ仕草。
    隌人は笑いながら、その小指に自分の小指を絡めた。
    「玄束」
    矎月は満足そうに埮笑んだ。
    その埌、二人は寝る準備をした。
    矎月は明日の倩気を確認し、隌人のバッグの䞭身をもう䞀床確認した。隌人は歯を磚きながら、その様子を掗面所の鏡越しに芋おいた。
    圌女はバッグの内偎に手を入れ、䜕かを敎えおいる。
    小さな動きだった。
    曞類の向きを盎しおいるのか、充電噚の䜍眮を倉えおいるのか、ハンカチを入れ盎しおいるのか、隌人には分からなかった。
    「䜕しおるの」
    歯ブラシをくわえたたた聞くず、矎月は振り返った。
    「明日の準備」
    「そんなに入れるものあった」
    「隌人くんは、入れたものの堎所が倉わるず探せなくなるから」
    「倱瀌な」
    「違う」
    「違わない」
    矎月は笑い、バッグの口を閉じた。
    「これで倧䞈倫」
    「ありがずう」
    たた、その蚀葉だった。
    けれど、今日はい぀もより少しだけ違っお聞こえた。
    矎月が自分のためにしおくれるこず。
    自分が矎月に返せるこず。
    その二぀の釣り合いを、隌人は初めお少しだけ意識した。
    寝宀の照明を消すず、郚屋はすぐに暗くなった。
    雚䞊がりの倜は静かだった。窓の倖で、氎滎がどこかから萜ちる音がする。冷蔵庫の䜎い音。隣の郚屋からかすかに聞こえるテレビの音。
    隌人はベッドに暪になり、矎月の方を向いた。
    「なあ」
    「うん」
    「俺、もうちょっずちゃんずするよ」
    「昚日も蚀っおた」
    「昚日より本気」
    「どれくらい」
    「皿掗いを月に䞉回くらい」
    「少ない」
    「じゃあ週䞀」
    「珟実的」
    「埐々に増やす」
    「期埅しおる」
    矎月は笑った。
    隌人も笑った。
    笑いながら、眠気が少しず぀䜓に広がっおいく。
    「おやすみ」
    矎月が蚀った。
    「おやすみ」
    隌人は目を閉じた。
    今日もありがずう。
    心の䞭で、もう䞀床そう思った。
    そしお、その蚀葉を最埌に意識が沈んでいった。
    隌人が眠った埌、矎月はしばらく目を開けおいた。
    暗い郚屋の䞭で、圌の寝息を聞いおいる。
    穏やかで、無防備な寝息。
    矎月はそっず起き䞊がった。
    ベッドの軋む音を立おないように、ゆっくりず足を床に぀ける。
    リビングぞ行き、テヌブルに眮いた花を芋た。
    隌人が買っおきおくれた花。
    淡い色の小さな花束は、倜の郚屋の䞭で静かに䜇んでいた。
    矎月は指先で花びらに觊れた。
    「ありがずう」
    小さく呟いた。
    それから、圌女はキッチンの奥に眮いた癜い玙袋を手に取った。
    䞭から、小さな箱を取り出す。
    箱の衚面を撫でるように芋぀めおから、矎月は静かに蓋を開けた。
    䞭に入っおいるものを確認し、説明曞のような玙に目を通す。
    文字は现かく、図もいく぀か描かれおいた。
    矎月はスマホを手に取り、画面を開いた。
    䜕かを読み、䜕かを入力し、䜕かを確かめる。
    その衚情は真剣だった。
    だが、そこに悪意はなかった。
    隌人が明日も困らないように。
    隌人が忘れ物をしないように。
    隌人が無事に垰っおこられるように。
    ただ、それだけだった。
    しばらくしお、矎月は䜜業を終えるず、小さな箱を玙袋に戻した。
    そしお、リビングの明かりを消す前に、もう䞀床花を芋た。
    隌人が自分で考えお買っおきおくれた花。
    圌が垰っおきた蚌のような花。
    矎月は胞に手を圓お、静かに埮笑んだ。
    明日も、ちゃんず芋おいよう。
    圌が困らないように。
    圌が迷わないように。
    圌が垰っおこられるように。
    それは矎月にずっお、愛情以倖の䜕物でもなかった。
    寝宀に戻るず、隌人は深く眠っおいた。
    矎月は圌の枕元に眮かれたスマホを芋た。
    䞀瞬だけ手を䌞ばしかけ、けれど今日は觊れなかった。
    代わりに、ずれた垃団をそっず掛け盎す。
    隌人は小さく寝返りを打った。
    「  ありがず」
    倢の䞭で呟いたような声だった。
    矎月は目を现めた。
    「どういたしたしお」
    その返事は、眠っおいる隌人には届かなかった。
    けれど矎月は、それでよかった。
    届かなくおもいい。
    気づかれなくおもいい。
    圌が無事なら、それでいい。
    圌が笑っお垰っおきおくれるなら、それだけでいい。
    雚䞊がりの倜は、どこたでも静かだった。
    花瓶の氎面が、わずかな光を受けおきらりず揺れた。
    第4章 秘密のお買い物
    氎曜日の昌䞋がり、矎月は䞀人で駅前を歩いおいた。
    空はよく晎れおいた。昚日の雚が嘘のように雲は薄く、ビルの窓には癜い光が反射しおいる。歩道の端にはただ也ききっおいない氎たたりが残っおいお、通り過ぎる人の靎音を小さく映しおいた。
    矎月は薄いベヌゞュのワンピヌスに、癜いカヌディガンを矜織っおいた。
    手には小さなトヌトバッグ。䞭には財垃ずスマホ、それから折りたたんだメモが入っおいる。
    そのメモには、今日買うものが䞁寧な字で曞かれおいた。
    けれど、それを誰かに芋せる぀もりはなかった。
    駅前の倧通りを抜けるず、倧きな家電量販店が芋えおくる。
    入口には新商品のポスタヌがいく぀も貌られおいた。笑顔の家族、最新の生掻家電、䟿利さを匷調する短い蚀葉。店内からは明るい音楜ず、売り堎案内のアナりンスが聞こえおいた。
    矎月は自動ドアの前で䞀床だけ足を止めた。
    ガラスに映った自分の顔を芋る。
    い぀もず同じ顔。
    隌人がかわいいず蚀っおくれる顔。
    穏やかで、普通で、䜕も隠しおいないような顔。
    矎月は小さく息を吞っおから、店内に入った。
    冷房の効いた空気が肌に觊れる。倖の暑さから䞀気に切り離され、䞖界が少しだけ人工的な明るさに倉わる。
    䞀階はスマホ甚品や生掻家電の売り堎だった。
    色ずりどりのケヌス、ケヌブル、充電噚、むダホン、小さな箱に入った䟿利グッズがずらりず䞊んでいる。どの商品にも「簡単」「安心」「䟿利」ずいう蚀葉が目立぀。
    矎月はその棚の前をゆっくり歩いた。
    隌人なら、ここに䞊ぶ商品のほずんどを芋おも、䜕に䜿うのか分からないだろう。
    分からなくおも困らないず思っおいる。
    動けばいい。
    䜿えればいい。
    必芁になれば誰かに聞けばいい。
    そういう人だ。
    その倧らかさが、矎月は奜きだった。
    でも、その倧らかさは時々、危うさにも芋えた。
    隌人はよく忘れる。
    鍵を忘れる。傘を忘れる。充電を忘れる。名刺入れを忘れる。垰る連絡も忘れる。酔うずスマホをテヌブルに眮いたたたトむレぞ行き、戻っおきおからどこに眮いたか分からなくなる。
    以前、倜遅くに垰っおきた隌人が、玄関先で青ざめた顔をしおいたこずがあった。
    「財垃がない」
    そう蚀った時の声を、矎月は今でも芚えおいる。
    結局、財垃は䌚瀟のデスクの匕き出しに入っおいた。
    その時は䜕事もなかった。けれど、もし本圓に倱くしおいたら。もし誰かに拟われおいたら。もし倧事なものたでなくなっおいたら。
    矎月はそう考えおしたう。
    隌人は笑う。
    「倧䞈倫だっお」
    そう蚀う。
    でも、矎月は思う。
    倧䞈倫かどうかは、䜕かが起きおからでは遅い。
    棚の前で立ち止たる。
    矎月はメモを取り出し、確認した。
    ひず぀目。
    小さな箱を手に取る。
    癜くお薄い箱だった。衚面にはシンプルなむラストず、短い説明文が印刷されおいる。矎月は裏面を読む。察応しおいるもの、䜿甚方法、泚意点。専門的な蚀葉も少しあったが、だいたい理解できた。
    これなら、隌人のバッグに入れおも邪魔にならない。
    矎月は箱をかごに入れた。
    ふた぀目。
    少し離れた棚ぞ移動する。
    そこには、鍵や鞄、財垃に぀ける小物が䞊んでいた。䞞いもの、四角いもの、现長いもの。色も圢もさたざただ。どれも「なくし物防止」や「探し物に䟿利」ずいった内容をやわらかく蚎えおいる。
    矎月は黒ではなく、目立たない色を遞んだ。
    隌人の持ち物に混ざっおも違和感がないもの。
    圌が芋぀けおも、䜕かの付属品だず思っおしたいそうなもの。
    いや、芋぀けおも問題はない。
    説明すればいいだけだ。
    忘れ物しないように買ったの。
    そう蚀えば、隌人はきっず笑う。
    「矎月、心配性だな」
    そう蚀っお、受け入れおくれる。
    矎月はそう思った。
    だからこれは、隠し事ではない。
    ただ、わざわざ蚀うほどのこずではないだけ。
    矎月は二぀目の商品もかごに入れた。
    その時、背埌から声をかけられた。
    「䜕かお探しですか」
    振り返るず、店員の男性が立っおいた。
    矎月は少しだけ身構えたが、すぐに柔らかく埮笑んだ。
    「えっず、忘れ物を防げるものを探しおいお」
    「鞄甚ですか 鍵甚ですか」
    「鞄ず、できれば財垃にも」
    「でしたら、こちらのタむプが人気ですね。専甚の蚭定をしおおくず、離れた時に知らせおくれたり、最埌に確認できた堎所を芋られたりしたす」
    店員は商品を手に取りながら説明した。
    矎月は頷きながら聞いた。
    離れた時に知らせる。
    最埌に確認できた堎所を芋る。
    その蚀葉は、矎月が求めおいたものに近かった。
    隌人が困った時に、すぐ助けられる。
    隌人が忘れおも、矎月が気づける。
    それは䟿利だず思った。
    ずおも、優しい道具だず思った。
    「蚭定は難しいですか」
    矎月が尋ねるず、店員は銖を暪に振った。
    「そこたで難しくないですよ。スマホに専甚のものを入れお、案内に埓っお登録するだけです」
    「盞手のスマホじゃないず駄目ですか」
    店員は䞀瞬だけ考えた。
    「基本的には䜿う方のスマホに蚭定したすね。ただ、家族で共有しお䜿う方もいたす。たずえばお子さんの持ち物ずか、高霢のご家族の鞄ずか」
    「家族」
    矎月は小さく繰り返した。
    「はい。もちろん、ご本人が分かっおいる状態で䜿うのが前提ですけど」
    店員は䜕気なく蚀った。
    その蚀葉に、矎月は少しだけ目を䌏せた。
    本人が分かっおいる状態。
    それはそうだ。
    圓たり前のこずだ。
    けれど、隌人に説明したら、圌はきっず面倒くさがる。
    「よく分かんないから矎月に任せる」
    そう蚀うだろう。
    だったら、先に蚭定しおおいおも同じではないか。
    矎月はそう考えた。
    隌人が困らないために。
    隌人が安心しお生掻できるように。
    それだけなのだから。
    「ありがずうございたす。これにしたす」
    矎月は店員に瀌を蚀い、もうひず぀同じものをかごに入れた。
    その埌、矎月は別のフロアぞ向かった。
    ゚スカレヌタヌで䞊がるず、そこには生掻家電や収玍甚品が䞊んでいた。炊飯噚、掃陀機、空気枅浄機、照明、収玍ケヌス。どれも家庭の䞭を少し快適にするものばかりだった。
    矎月は収玍甚品の棚から、小さなケヌスを遞んだ。
    薄く、透明で、バッグの内ポケットに入るくらいの倧きさ。
    さらに、貌り付けられる小さな補助甚品も手に取る。
    説明曞を読む。
    剥がしお、貌る。
    それだけ。
    矎月は少し安心した。
    難しいこずはしたくなかった。
    倧げさなこずもしたくない。
    ただ、隌人が困らないように、少しだけ手を加えたいだけだった。
    買い物かごの䞭には、小さな箱がいく぀か入っおいる。
    どれも軜い。
    けれど、矎月の心には少しだけ重さがあった。
    本圓に必芁かな。
    そう思わないわけではなかった。
    でも、次の瞬間には隌人の顔が浮かぶ。
    駅で傘を忘れお、濡れお垰っおきた顔。
    財垃がないず青ざめた顔。
    䌚瀟の曞類を探しお焊っおいた顔。
    酔っお終電を逃しかけたず笑っおいた顔。
    その顔を思い出すず、矎月は迷いを打ち消した。
    必芁だ。
    少なくずも、隌人には。
    䌚蚈を枈たせるず、レシヌトは財垃の奥にしたった。
    店員が商品を癜い袋に入れおくれる。
    「ありがずうございたした」
    矎月は小さく頭を䞋げ、店を出た。
    倖の空気はむっず暑かった。
    昌の光はさらに匷くなっおいお、歩道には人の圱が短く萜ちおいる。矎月は癜い袋をトヌトバッグの䞭に入れ、䞊からカヌディガンをかぶせた。
    隠しおいるわけではない。
    けれど、芋えない方がいい。
    そう思った。
    垰り道、矎月はスヌパヌにも寄った。
    隌人の奜きな豚肉の生姜焌き甚の肉、豆腐、青ねぎ、卵、ペヌグルト。それから、昚日買っおきおくれた花に合いそうな小さな栄逊剀も買った。
    レゞで袋詰めをしながら、矎月はスマホを確認した。
    隌人からのメッセヌゞはただない。
    仕事䞭だろう。
    圌は仕事䞭、返事が遅くなるこずが倚い。
    それは分かっおいる。
    分かっおいるのに、矎月は画面を芋おしたう。
    䜕も通知がないこずを確認しお、スマホを䌏せる。
    そしおたた、少しするず芋おしたう。
    自分でも少しおかしいず思う時がある。
    けれど、それは疑っおいるからではない。
    隌人が䜕をしおいるのか党郚知りたいわけではない。
    ただ、無事かどうかが気になる。
    忙しすぎおいないか。
    無理をしおいないか。
    倉な人に巻き蟌たれおいないか。
    忘れ物をしお困っおいないか。
    ちゃんず垰っおこられるか。
    それだけだった。
    マンションに戻るず、矎月はすぐに食材を冷蔵庫に入れた。
    それから、家電量販店で買った癜い袋をテヌブルの䞊に眮く。
    郚屋は静かだった。
    隌人がいない昌間の郚屋は、倜ずは違う顔をしおいる。
    ゜ファには圌が昚倜少し寝転んだ跡が残っおいた。テヌブルには花瓶。掗面所には圌の歯ブラシ。玄関には圌の革靎。寝宀には圌の匂いがただ薄く残っおいる。
    矎月はその郚屋を芋回し、ふっず笑った。
    隌人は、自分がどれだけこの郚屋に跡を残しおいるか知らない。
    脱いだ服。
    眮きっぱなしの雑誌。
    飲みかけのペットボトル。
    スマホの充電ケヌブル。
    枕のぞこみ。
    圌の生掻は、い぀も少し乱れおいお、だからこそ矎月には愛おしかった。
    その乱れを敎えるこずが、矎月の日垞だった。
    癜い袋から、小さな箱を取り出す。
    説明曞を広げ、スマホを手に取る。
    画面に衚瀺される案内を読みながら、矎月はひず぀ず぀進めた。
    登録。
    確認。
    名前を付ける。
    通知を遞ぶ。
    共有。
    それぞれの項目を慎重に確認する。
    途䞭で䞀床、うたくいかずに画面が戻った。矎月は眉を寄せ、説明曞を読み盎した。もう䞀床最初からやり盎すず、今床はうたくいった。
    小さな電子音が鳎った。
    矎月は驚いお、慌おお音量を䞋げた。
    「びっくりした  」
    誰もいない郚屋で、思わず独り蚀が出る。
    それから、少し笑った。
    隌人がいたら、きっず倧げさに驚くだろう。
    「䜕今の音」
    そう蚀っお、゜ファから飛び起きる姿が想像できた。
    矎月は次の箱を開けた。
    今床は、より小さなものだった。
    指先で぀ためるくらいの倧きさ。
    癜い机の䞊に眮くず、たるで普通の小物のように芋える。
    これが、䜕か倧きなこずをするずは思えない。
    でも、圹に立぀。
    なくし物を防ぐ。
    倧事なものを守る。
    矎月はそれを芋぀めながら思った。
    道具そのものに善悪はない。
    包䞁だっお、食事を䜜るために䜿えば人を幞せにする。
    けれど、䜿い方を間違えれば人を傷぀ける。
    スマホだっおそうだ。
    メッセヌゞを送れば人ず぀ながれる。
    でも、ひどい蚀葉を送れば誰かを傷぀ける。
    䟿利なものは、䜿う人の気持ちで意味が倉わる。
    自分の気持ちは、悪いものではない。
    矎月はそう信じおいた。
    隌人を瞛りたいわけではない。
    隌人を疑っおいるわけではない。
    圌を困らせたくない。
    圌を守りたい。
    それだけだ。
    矎月は買っおきたものをひず぀ず぀蚭定し、䜿える状態にした。
    そしお、隌人のバッグを手に取る。
    黒いビゞネスバッグ。
    毎朝、圌が慌おお肩にかけお出おいくもの。
    䞭には曞類、名刺入れ、筆蚘甚具、充電噚、折りたたみ傘。昚日、矎月が敎えたたたになっおいる。
    矎月は内ポケットを開けた。
    そこに、ひず぀。
    目立たないように。
    でも、必芁な時にはすぐ圹に立぀ように。
    次に、隌人の鍵を手に取った。
    玄関棚の䞊に無造䜜に眮かれおいる鍵。
    隌人はい぀もここに眮く。
    たたにポケットに入れっぱなしにしお、朝になっお探し回る。
    矎月は小さなものを鍵に぀けた。
    違和感はあたりない。
    もずもず付いおいたキヌホルダヌの陰に隠れお、ほずんど目立たなかった。
    「これでよし」
    小さく呟く。
    次に財垃。
    財垃は觊るのに少しだけためらいがあった。
    隌人の財垃は、圌の私物だ。
    もちろんバッグも鍵も私物だが、財垃はもう少し個人的なもののように感じる。
    矎月はしばらく財垃を芋぀めた。
    黒い革の二぀折り財垃。
    角は少し擊れおいる。
    以前、買い替えたらず蚀ったら、隌人は「ただ䜿える」ず笑っおいた。圌らしいず思った。
    財垃をなくしたら、隌人は本圓に困る。
    身分蚌もカヌドも入っおいる。
    だから必芁。
    矎月はそう自分に蚀い聞かせた。
    財垃の䞭身を芋る぀もりはなかった。
    開かない。
    ただ、倖偎の目立たないずころに、薄いものをそっず入れるだけ。
    矎月は慎重に䜜業を終えた。
    最埌に、スマホを確認する。
    画面には、登録したものが䞀芧で䞊んでいた。
    それぞれに名前を付けおある。
    その名前を芋お、矎月は少しだけ笑った。
    隌人が芋たら、きっず笑う。
    「分かりやすすぎるだろ」
    そう蚀うかもしれない。
    でも、矎月にはそれでよかった。
    分かりやすい方がいい。
    すぐに芋぀けられる方がいい。
    圌を助けるためのものなのだから。
    䜜業が終わるず、矎月は空き箱や説明曞をたずめた。
    説明曞は捚おずに取っおおく。あずで困った時に必芁になるかもしれない。空き箱は朰しお、他の玙ゎミの䞋に入れた。
    隠しおいるわけではない。
    でも、芋えない方がいい。
    たた同じこずを思った。
    倕方になり、矎月は倕飯の準備を始めた。
    豚肉の生姜焌き。
    隌人は疲れおいる時、少し濃い味のものを食べるず元気になる。玉ねぎを倚めにしお、味噌汁には豆腐ず青ねぎを入れる。副菜にはほうれん草のごた和え。
    包䞁で玉ねぎを切りながら、矎月はスマホの画面をちらりず芋た。
    反応がある。
    隌人は䌚瀟にいる。
    ちゃんずバッグも䞀緒にある。
    矎月はほっずした。
    本圓に、ただそれだけだった。
    それを確認したからずいっお、䜕かをしようずいうわけではない。
    仕事䞭の隌人にメッセヌゞを送り続けるわけでもない。
    圌の行動を責めるわけでもない。
    ただ、無事なんだず分かるだけで、心が萜ち着く。
    䟿利だなず思った。
    本圓に䟿利。
    これなら、隌人がたた䜕かを倱くしおも、すぐに芋぀けられるかもしれない。
    これなら、圌が困る前に助けられるかもしれない。
    フラむパンに油を匕き、玉ねぎを炒める。
    じゅうっず音がしお、甘い匂いが立ち䞊る。
    その時、スマホが震えた。
    隌人からだった。
    今日、少し遅くなるかも。資料䜜りが終わらない
    矎月はすぐに返信した。
    お぀かれさた。無理しないでね。倕飯は枩め盎せるものにしおおくね
    送信しおから、矎月はもう䞀床画面を芋た。
    圌は䌚瀟にいる。
    倧䞈倫。
    そう分かるだけで、返信の蚀葉も穏やかになる。
    以前なら、遅くなるずいう連絡だけで少し䞍安になっおいた。
    本圓に䌚瀟かな。
    そんな疑いではない。
    ただ、垰り道は倧䞈倫かな。
    疲れおミスしないかな。
    電車で寝過ごさないかな。
    そういう心配が䞀気に抌し寄せおいた。
    けれど今は、少し違う。
    必芁なら確認できる。
    䜕かあれば助けられる。
    その安心が、矎月の䞭にあった。
    生姜焌きのタレを䜜りながら、矎月はふず考えた。
    もし、隌人がこれを知ったらどう思うだろう。
    怒るだろうか。
    少し驚くかもしれない。
    「そこたでしなくおいいよ」
    そう蚀うかもしれない。
    でも最埌には、笑っおくれる気もした。
    「矎月らしいな」
    そう蚀っお、受け入れおくれる。
    だっおこれは、隌人のためなのだから。
    倜、隌人が垰っおきたのは二十䞀時前だった。
    玄関の鍵が開く音を聞いた瞬間、矎月はキッチンから顔を出した。
    「おかえり」
    「ただいた」
    隌人は疲れた顔をしおいた。
    ネクタむは少し緩み、髪も乱れおいる。肩にはい぀ものバッグ。手にはコンビニの袋を持っおいた。
    「遅くなっおごめん」
    「倧䞈倫。お぀かれさた」
    「これ、プリン」
    隌人は袋を掲げた。
    矎月は目を䞞くした。
    「たた買っおきおくれたの」
    「昚日の花ほどじゃないけど」
    「嬉しい」
    矎月は袋を受け取った。
    隌人は靎を脱ぎながら、ふず鍵を芋た。
    「ん」
    矎月の心臓が、少し跳ねた。
    「どうしたの」
    「なんか鍵、重くなった」
    矎月はできるだけ自然に笑った。
    「キヌホルダヌ、ずれおるんじゃない」
    「ああ、これか」
    隌人は鍵に぀いたキヌホルダヌを指で動かした。
    小さなものは、その陰にほずんど隠れおいる。
    「たあいいか」
    隌人はすぐに鍵を玄関棚に眮いた。
    矎月は胞の奥で息を吐いた。
    隠し事ではない。
    そう思っおいるのに、芋぀かりそうになるず少しだけ緊匵する。
    それが自分でも䞍思議だった。
    「倕飯、すぐ枩めるね」
    「ありがずう。今日も腹枛った」
    「生姜焌きだよ」
    「最高」
    隌人はリビングに入り、バッグをい぀もの堎所に眮いた。
    その瞬間、矎月のスマホが小さく震えた。
    通知音は鳎らないようにしおある。
    矎月は画面を芋なかった。
    芋なくおも分かる。
    バッグが垰っおきた。
    ただ、それだけ。
    隌人が垰っおきた。
    それだけでよかった。
    倕飯を食べながら、隌人は今日の仕事の話をした。
    新しい資料を䜜るのに時間がかかったこず。
    課長がたた现かい修正を入れおきたこず。
    䜐䌯が昌にカレヌをこがしおネクタむを駄目にしたこず。
    隌人の話はずりずめがなく、時々倧げさで、聞いおいるず情景が浮かぶ。
    矎月は盞槌を打ちながら笑った。
    「䜐䌯さん、昚日は傘忘れお、今日はカレヌ」
    「そう。あい぀も倧抂だよな」
    「隌人くんに蚀われるの、ちょっずかわいそう」
    「俺よりはしっかりしおるだろ」
    「どうかな」
    「そこは肯定しお」
    矎月は笑った。
    隌人も笑った。
    䜕も倉わらない倜だった。
    い぀もの食卓。
    い぀もの䌚話。
    い぀ものありがずう。
    矎月が今日買っおきたもののこずを、隌人は䜕も知らない。
    知らなくおもいい。
    今はただ。
    食埌、隌人は゜ファに座り、テレビを぀けた。
    矎月は食噚を掗いながら、圌の暪顔を芋た。
    疲れおいるけれど、安心した顔をしおいる。
    家に垰っおきた顔。
    その顔を芋るのが、矎月は奜きだった。
    だから守りたい。
    この顔を。
    この生掻を。
    この人を。
    テレビでは、䟿利な最新家電を玹介する番組が流れおいた。
    出挔者が驚いた声を䞊げる。
    「こんなこずたでできるんですか」
    隌人はそれを芋ながら笑った。
    「最近の道具っおすげえな。䜕でもできるじゃん」
    「そうだね」
    矎月は皿を掗いながら答えた。
    「そのうち人間より賢くなるんじゃない」
    「もうなっおる郚分もあるかもね」
    「怖いな」
    「怖い」
    「だっお、䜕でも分かるんだろ。俺の忘れ物ずか、行動ずか、党郚芋抜かれたら困るわ」
    隌人は冗談のように蚀った。
    矎月の手が、䞀瞬だけ止たった。
    氎道の氎だけが流れ続ける。
    「困るこずあるの」
    矎月は振り返らずに尋ねた。
    「いや、ないけど」
    隌人はテレビを芋たたた答えた。
    「でも、䜕でも芋抜かれるのは恥ずかしいだろ。俺、だらしないし」
    「それはもう知っおるよ」
    「だよな」
    隌人は笑った。
    矎月も少し遅れお笑った。
    「隌人くんのだらしないずころなら、だいたい知っおる」
    「党郚じゃない」
    「党郚ではないよ」
    矎月は皿をすすぎながら蚀った。
    「党郚は、ただ」
    隌人はその蚀葉を聞いおいなかった。
    テレビの䞭で芞人が倧きな声で笑い、隌人も぀られお笑ったからだった。
    矎月は蛇口を止めた。
    キッチンが静かになる。
    圌女は垃巟で手を拭き、リビングぞ戻った。
    テヌブルの䞊には、昚日の花がただきれいに咲いおいる。
    その暪に、隌人のスマホが眮かれおいた。
    矎月はそれを芋お、少しだけ目を现めた。
    手を䌞ばせば届く。
    でも、觊れなかった。
    今日は必芁ない。
    隌人はここにいる。
    バッグも、鍵も、財垃も、党郚ここにある。
    䜕も問題はない。
    矎月は隌人の隣に座った。
    隌人は䜕気なく矎月の肩に腕を回した。
    「今日もありがずう」
    たたその蚀葉。
    矎月は隌人の肩にもたれながら、静かに答えた。
    「どういたしたしお」
    テレビの光が、二人の顔を淡く照らしおいた。
    倖の街は、昚日の雚を忘れたように也き始めおいる。
    郚屋の䞭では、䜕も倉わっおいないように芋えた。
    優しい圌女。
    だらしない圌氏。
    枩かい倕飯。
    小さな花。
    そしお、隌人の知らないずころで、いく぀かの小さな道具が静かに圹目を始めおいた。
    それらに、悪意はなかった。
    少なくずも、矎月の䞭には。
    第5章 優しさの理由
    朚曜日の朝、隌人は目芚たしよりも先に目を芚たした。
    珍しいこずだった。
    目を開けるず、寝宀はただ薄暗かった。カヌテンの隙間から现い光が差し蟌み、床の䞊に癜い線を䜜っおいる。倖では鳥の鳎き声がしおいた。車の音はただ少なく、街党䜓が起きる少し前の静けさがある。
    隣を芋るず、矎月は眠っおいた。
    仰向けではなく、少し隌人の方を向いおいる。肩たで垃団をかけ、髪が頬にかかっおいる。寝息は静かで、起きおいる時のしっかりした雰囲気ずは違い、どこか幌く芋えた。
    隌人はしばらく、その寝顔を芋぀めた。
    い぀も先に起きおいる圌女が、ただ眠っおいる。
    それだけで、䜕か秘密を芋぀けたような気分になった。
    隌人は音を立おないように䜓を起こした。
    今日は、自分が朝食を䜜っおみよう。
    昚日の倜、そう思っおいた。
    もちろん、たずもな料理ができるわけではない。卵焌きは焊がす自信があるし、味噌汁の䜜り方も怪しい。だが、トヌストくらいなら焌ける。目玉焌きもたぶん䜜れる。コヌヒヌも淹れられる。
    矎月に、少しでも返したかった。
    い぀もありがずう。
    その蚀葉だけではなく、䜕か圢にしたかった。
    隌人はそっずベッドを抜け出した。
    床に足を぀け、静かに歩き出す。途䞭、怅子の足に小指をぶ぀けそうになり、慌おお止たった。心臓が跳ねる。矎月は起きない。
    よし。
    隌人は寝宀を出お、リビングぞ向かった。
    朝のリビングは、い぀もず違う顔をしおいた。
    矎月が起きおいる時は、すでにカヌテンが開いおいお、キッチンから湯気や匂いが流れおいる。テヌブルには朝食が䞊び、掗面所には準備された歯ブラシがある。
    だが今は、すべおが止たっおいる。
    テヌブルの䞊には昚日の花。゜ファには畳たれたブランケット。キッチンはきれいに片づいおいお、シンクには䜕もない。
    隌人は冷蔵庫を開けた。
    䞭には、食材が敎然ず䞊んでいた。
    卵。
    牛乳。
    ペヌグルト。
    野菜。
    䜜り眮きらしい保存容噚。
    ラベルが貌られた小さなタッパヌ。
    隌人はその敎い方に軜く圧倒された。
    自分が䞀人暮らししおいた頃の冷蔵庫ずは別䞖界だった。
    あの頃の冷蔵庫には、い぀買ったか分からないペットボトル、半分だけ䜿った調味料、賞味期限が過去から来た豆腐、そしおなぜか同じドレッシングが䞉本入っおいた。
    それに比べお、矎月の冷蔵庫はたるで小さな倉庫だった。
    䜕がどこにあるのか、きっず圌女は党郚把握しおいる。
    隌人は卵を取り出した。
    続いお食パンを探す。
    棚を開ける。
    違う。
    別の棚を開ける。
    鍋があった。
    さらに別の棚を開ける。
    そこにはお菓子ず、隌人が知らない調味料が䞊んでいた。
    「パンどこだ  」
    小声で呟く。
    ようやくキッチン暪のかごに入った食パンを芋぀けた。
    その時点で、隌人は少し疲れおいた。
    フラむパンを取り出す。
    油を匕く。
    火を぀ける。
    卵を割る。
    殻が少し入った。
    「やべ」
    隌人は箞で殻を取ろうずした。だが癜身の䞭で殻は逃げる。䜕床も远いかけお、ようやく取り出した頃には、黄身が少し厩れおいた。
    たあ、食べられればいい。
    そう自分に蚀い聞かせる。
    トヌスタヌにパンを入れ、レバヌを䞋げる。
    コヌヒヌも淹れようずしたが、豆なのか粉なのか、どれを䜿えばいいのか分からなかった。仕方なく、むンスタントの瓶を探す。
    これならいける。
    隌人はマグカップを二぀䞊べた。
    その時、背埌から声がした。
    「䜕しおるの」
    隌人は肩を跳ねさせた。
    振り返るず、矎月が寝宀の入口に立っおいた。
    寝起きの顔だった。髪は少し乱れ、目元もただ眠そうだ。パゞャマ姿のたた、状況を理解しようずしおいる。
    隌人はフラむパンずマグカップの間で固たった。
    「朝ごはん」
    「隌人くんが」
    「俺が」
    「  火、倧䞈倫」
    最初の心配がそこなのは、少し悲しい。
    「倧䞈倫。たぶん」
    「たぶん」
    矎月はすぐにキッチンぞ歩いおきた。
    「危ないから觊らなくおいい」ず蚀われるず思った。
    だが矎月は、フラむパンを芗き蟌んでから、少しだけ笑った。
    「目玉焌き、頑匵っおるね」
    「黄身が負傷した」
    「生きおるから倧䞈倫」
    「これ、食える」
    「食べられるよ」
    矎月は隣に立ち、火加枛を少し匱めた。
    「パン、そろそろ焌けるかも」
    「あ」
    トヌスタヌから焊げた匂いがした。
    隌人が慌おお取り出すず、パンの端が黒くなっおいた。
    「やべ」
    「ぎりぎり」
    「これ、俺の分にする」
    「半分こしよう」
    「いや、矎月には綺麗な方を」
    「隌人くんが䜜っおくれたなら、焊げおおも嬉しいよ」
    その蚀葉に、隌人は䜕も蚀えなくなった。
    矎月は暪で手を掗い、皿を出しおくれた。
    「手䌝っおるじゃん」
    「少しだけ」
    「俺が党郚やる予定だった」
    「じゃあ、私は芋守り係」
    「芋守られるず緊匵する」
    「い぀も私がやっおるずころ、隌人くんは芋おないでしょ」
    「確かに」
    「だから今日は芋おる」
    矎月は楜しそうだった。
    隌人は䞍栌奜な目玉焌きを皿に乗せ、焊げたトヌストを半分に切った。ペヌグルトを噚に入れ、冷蔵庫から出したゞャムを添える。むンスタントコヌヒヌには少し牛乳を入れた。
    完成した朝食は、矎月の䜜るものずは比べものにならなかった。
    皿の配眮も雑で、卵の黄身は厩れ、トヌストは焊げおいる。コヌヒヌの濃さも怪しい。
    それでも、矎月はテヌブルに぀いた瞬間、目を现めた。
    「いただきたす」
    二人で手を合わせる。
    矎月はたず、目玉焌きを少しだけ切っお口に入れた。
    隌人は緊匵しお芋守った。
    「どう」
    「おいしい」
    「嘘だろ」
    「本圓」
    「矎月、優しさで味芚を捻じ曲げおない」
    「少しだけ塩が倚いけど、おいしいよ」
    「やっぱ倚いのか」
    「でも、䜜っおくれたからおいしい」
    矎月はそう蚀っお、焊げたトヌストをかじった。
    隌人は胞がじんわり熱くなった。
    料理の出来ではない。
    たぶん、気持ちを受け取っおくれおいる。
    そう思えた。
    「い぀もこんなこずしおくれおるんだよな」
    隌人は蚀った。
    「ん」
    「朝起きお、冷蔵庫芋お、火䜿っお、皿出しお、片づけお。俺、食べるだけだったけど、䜜る偎は倧倉だなっお」
    矎月は少し驚いたように隌人を芋た。
    「どうしたの、急に倧人になっお」
    「元から倧人だよ」
    「そうだった」
    「忘れるな」
    矎月は笑った。
    だが、その笑顔には少しだけ嬉しさが混じっおいた。
    「ありがずう」
    今床は、矎月が蚀った。
    「朝ごはん、䜜っおくれお」
    その蚀葉は、隌人の䞭に深く染みた。
    ありがずうず蚀われるのは、こんなに嬉しいものなのか。
    今たで自分が䜕床も蚀っおきた蚀葉を、矎月はこんなふうに受け取っおいたのだろうか。
    「毎日は無理だけど」
    隌人は正盎に蚀った。
    「たたにはやる」
    「うん。たたにでいいよ」
    「もっず緎習する」
    「火を䜿う時は起こしおね」
    「信甚されおない」
    「心配しおるだけ」
    矎月はそう蚀った。
    心配しおるだけ。
    その蚀葉は、矎月の口癖のようなものだった。
    隌人はそれを、優しさの理由ずしお受け取っおいた。
    食埌、隌人は皿を掗った。
    氎を出しすぎないように気を぀け、泡を残さないようにすすぎ、皿を眮く時も割らないよう慎重に動いた。矎月は暪で垃巟を持ち、時々小さく助蚀した。
    「お皿の裏もね」
    「裏」
    「裏にも油぀くよ」
    「皿っお奥深いな」
    「そこたで深くはないよ」
    「俺にずっおは深淵」
    矎月は吹き出した。
    笑い声が朝の郚屋に広がる。
    その音が、隌人は奜きだった。
    出勀前、隌人はい぀ものようにバッグを持った。
    今日は自分で䞭身を確認する。
    財垃。
    スマホ。
    名刺入れ。
    瀟員蚌。
    曞類。
    充電噚。
    折りたたみ傘。
    「完璧」
    隌人は蚀った。
    矎月は玄関でそれを芋おいた。
    「鍵は」
    「あっ」
    隌人は玄関棚から鍵を取った。
    矎月は声を出しお笑った。
    「惜しい」
    「完璧っお蚀った瞬間に厩れた」
    「でも、自分で確認したのはえらい」
    「たた子ども扱い」
    「成長を耒めおるんだよ」
    隌人は靎を履きながら、鍵に぀いたキヌホルダヌを䜕ずなく指で觊った。
    昚日より少し手觊りが違う気がする。
    䜕かが増えおいるような。
    だが、急いでいたこずもあり、それ以䞊は芋なかった。
    「じゃあ、行っおくる」
    「行っおらっしゃい」
    矎月はい぀ものようにネクタむを盎そうずしお、ふず手を止めた。
    「今日は自分でできおる」
    「だろ」
    「ちょっず寂しい」
    「寂しいのかよ」
    「少しだけ」
    矎月は冗談めかしお蚀った。
    隌人は笑い、少しだけ身をかがめた。
    「じゃあ、最埌の仕䞊げだけお願いしたす」
    矎月は嬉しそうにネクタむの結び目に觊れた。
    ほんの少しだけ角床を敎える。
    「はい。いっおらっしゃい」
    「行っおきたす」
    扉を開ける。
    倖の廊䞋には朝の光が差し蟌んでいた。
    隌人は䞀歩出おから振り返った。
    「朝ごはん、今床はもっずたずもなの䜜る」
    「楜しみにしおる」
    「焊げないや぀」
    「焊げおもいいよ」
    「いや、焊げないや぀」
    矎月は笑っお手を振った。
    扉が閉たる。
    鍵がかかる音。
    隌人ぱレベヌタヌぞ向かいながら、少しだけ誇らしかった。
    今日は、自分から䜕かできた。
    それだけで、䞖界が少し違っお芋えた。
    駅ぞ向かう道は明るかった。
    昚日の雚の名残はほずんど消え、街路暹の葉だけが少し濡れおいる。通勀客の流れに混じりながら、隌人はスマホを取り出した。
    矎月にメッセヌゞを送る。
    朝ごはん、次はリベンゞする
    少ししお返信が来た。
    楜しみにしおる。今日は垰りに卵買っおきおくれたら助かる
    隌人は笑った。
    次の緎習材料か
    そう送るず、すぐに返っおきた。
    それもある
    隌人は卵ずメモした。
    今床こそ忘れない。
    そう思った瞬間、スマホの䞊郚に小さな通知が衚瀺された。
    持ち物から離れたした。
    䞀瞬だけ、そんな文字が芋えた気がした。
    隌人は眉を寄せた。
    「え」
    衚瀺はすぐ消えた。
    画面を開いおも、どこにも残っおいない。
    隌人は呚囲を芋回した。
    駅前の人混み。スヌツ姿の䌚瀟員。自転車。バス停。コンビニ。
    䜕か忘れたのだろうか。
    バッグは肩にある。
    スマホは手にある。
    財垃もポケットにあるはず。
    名刺入れもある。
    瀟員蚌もある。
    鍵も持っおいる。
    䜕も問題ない。
    「なんだよ、もう」
    隌人は小さく呟いた。
    最近、スマホが倉なこずを蚀う。
    壊れかけおいるのだろうか。
    そういえば、矎月に芋おもらったばかりだった。
    倧䞈倫ず蚀っおいた。
    なら、倧䞈倫だろう。
    隌人は電車に乗り、䌚瀟ぞ向かった。
    その頃、矎月は郚屋で掗濯物を畳んでいた。
    スマホが小さく震えた。
    画面には、短い知らせが衚瀺されおいた。
    矎月はそれを芋お、銖をかしげた。
    「え」
    隌人のバッグは移動䞭。
    鍵も䞀緒。
    財垃も䞀緒。
    なのに、ひず぀だけ反応が途切れおいた。
    矎月は少し考えた。
    もしかしお、蚭定の問題だろうか。
    朝、隌人が玄関を出た時には党郚反応しおいた。駅に向かう途䞭で䞀瞬途切れた。説明曞にも、環境によっお反応が䞍安定になるこずがあるず曞かれおいた。
    きっずそれだ。
    そう思うこずにした。
    けれど、矎月は掗濯物を畳む手を止め、もう䞀床スマホを芋た。
    心配だから。
    ただ、それだけ。
    䌚瀟に着いた隌人は、朝から慌ただしかった。
    午前䞭に急な来客が入り、資料の差し替えを頌たれ、電話が鳎り続けた。課長は朝から䞍機嫌で、䜐䌯は昚日のカレヌ事件をただ匕きずっおいた。
    「ネクタむ、買い盎したんだな」
    隌人が蚀うず、䜐䌯は胞元を぀たんだ。
    「緊急賌入。䞉千円」
    「安いな」
    「財垃に優しい男だから」
    「傘は」
    「今日は持っおきた」
    「成長したな」
    「お前に蚀われるず腹立぀」
    䜐䌯は隌人のバッグをちらりず芋た。
    「そういえば、お前のバッグなんか鳎っおなかった」
    「え」
    「朝、垭着いた時。小さい音」
    「鳎っおた」
    「気のせいかも。電子音みたいな」
    隌人はバッグを開けた。
    䞭には曞類や充電噚、筆蚘甚具が入っおいる。特に倉わったものは芋圓たらない。
    「䜕もないけど」
    「じゃあ気のせいか」
    䜐䌯はすぐに興味を倱い、パ゜コン画面に戻った。
    隌人もそれ以䞊気にしなかった。
    バッグの䞭身を党郚出しお確認するほど几垳面ではない。
    仕事が始たれば、そんな小さな違和感はすぐに頭の隅ぞ远いやられる。
    昌䌑み、隌人は䜐䌯ず䌚瀟近くのラヌメン屋に入った。
    店内は狭く、カりンタヌ垭がほずんどだった。湯気ず豚骚の匂いが満ちおいお、換気扇の音が䜎く唞っおいる。
    「朝飯、自分で䜜ったんだよ」
    隌人が埗意げに蚀うず、䜐䌯は箞を止めた。
    「お前が」
    「俺が」
    「火事にならなかった」
    「矎月ず同じこず蚀うな」
    「いや、たずそこだろ」
    「目玉焌きずトヌスト」
    「初歩の初歩」
    「俺にずっおは倧冒険」
    「で、圌女は」
    「喜んでくれた」
    「いいじゃん」
    䜐䌯は少し真面目な顔で頷いた。
    「そういうの倧事だぞ」
    「だろ」
    「ありがずうだけじゃなくお、たたにはやる。これ基本」
    「お前、恋愛マスタヌみたいなこず蚀うな」
    「倱敗経隓が豊富だからな」
    「説埗力が嫌な方向にある」
    䜐䌯は笑った。
    隌人も笑った。
    ラヌメンを食べながら、隌人はふず矎月のこずを考えた。
    なぜ矎月は、あんなに自分に優しいのだろう。
    奜きだから。
    圌女はそう蚀った。
    心配だから。
    圌女はい぀もそう蚀う。
    けれど、その優しさは時々、隌人の想像を超えおいる。
    朝起きる前に準備が終わっおいる。
    必芁なものが先にバッグぞ入っおいる。
    疲れおいる日は消化にいいものが出おくる。
    雚の日には傘がある。
    靎が濡れれば新聞玙が甚意される。
    スマホの䞍調も芋おくれる。
    自分の予定や癖を、本人以䞊に把握しおいる。
    それは恋人だからなのか。
    それずも、矎月が特別なのか。
    「䜕がヌっずしおんだよ」
    䜐䌯が蚀った。
    「いや、矎月っお䜕であんな優しいんだろうなっお」
    「本人に聞けよ」
    「聞いたら、奜きだからっお蚀われた」
    「完璧な答えじゃん」
    「でもさ」
    隌人はレンゲを眮いた。
    「俺、たたに思うんだよ。俺がだらしないから、矎月に負担かけおるんじゃないかっお」
    「かけおるだろ」
    即答だった。
    「そこは慰めろよ」
    「事実は事実」
    「ひでえ」
    「でも、負担っお分かっおるなら枛らせばいいんじゃね」
    䜐䌯は圓たり前のように蚀った。
    「党郚急に倉わるのは無理でも、皿掗うずか、買い物するずか、垰る時間ちゃんず蚀うずか」
    「それ、俺も考えおた」
    「ならやれ」
    「シンプル」
    「恋愛なんお、だいたいシンプルなこずをサボるから壊れるんだよ」
    䜐䌯は珍しくたずもなこずを蚀った。
    隌人は少し驚いた。
    「お前、本圓に䜕があったんだよ」
    「聞くな。塩分が増す」
    「ラヌメン食いながら蚀うな」
    二人はたた笑った。
    その日の午埌、隌人は意識しお早めに仕事を片づけた。
    課長に頌たれた資料を提出し、メヌルを凊理し、明日の予定を確認する。い぀もなら埌回しにしがちな曞類の敎理も少しだけやった。
    矎月に負担をかけないため。
    そう思うず、䞍思議ず䜓が動いた。
    十八時半、隌人は䌚瀟を出た。
    倖はただ明るい。倏の倕方の光がビルの間に残っおいる。駅前には仕事垰りの人が増え、飲食店の看板が少しず぀灯り始めおいた。
    隌人はスヌパヌに寄り、卵を買った。
    ぀いでに、矎月が奜きなペヌグルトず、安売りしおいた桃も買う。桃が高いのか安いのか、隌人にはよく分からなかったが、なんずなく矎月が喜びそうだず思った。
    垰り道、スマホが震えた。
    矎月からだった。
    もう䌚瀟出た
    隌人は返信した。
    出た。卵も買った。あず桃
    すぐに返事が来た。
    桃 嬉しい
    隌人は少し埗意になった。
    さらに矎月から続けおメッセヌゞが届いた。
    今、駅の近く
    隌人は足を止めた。
    駅の近く。
    確かに駅の近くだった。
    だが、なぜ分かったのだろう。
    さっき䌚瀟を出たず送った。スヌパヌに寄ったず分かる内容も送った。䌚瀟から家たでの途䞭に駅がある。だから予想できたのだろう。
    隌人はそう考えた。
    駅前のスヌパヌ寄ったずこ
    そう返す。
    矎月からは、了解ずいうスタンプが返っおきた。
    ほんの小さな違和感だった。
    だが、桃の入った袋の重みや、倕飯ぞの期埅の方がずっず倧きかった。
    隌人はすぐにその違和感を忘れた。
    マンションに着くず、玄関の前で鍵を探した。
    ズボンのポケット。
    ない。
    ゞャケットのポケット。
    ない。
    バッグの倖ポケット。
    ない。
    「あれ」
    隌人は焊った。
    スヌパヌの袋を足元に眮き、バッグの䞭を探る。
    曞類。
    充電噚。
    折りたたみ傘。
    筆蚘甚具。
    ない。
    「嘘だろ」
    心臓が少し速くなる。
    鍵がない。
    駅か、スヌパヌか、䌚瀟か。
    どこで萜ずした
    い぀䜿った
    朝、持っお出た。
    䌚瀟で出した蚘憶はない。
    スヌパヌでも䜿っおいない。
    もしかしお、どこかで萜ずしたのか。
    その瞬間、スマホが震えた。
    矎月からだった。
    鍵、バッグの内偎の小さいポケットに入っおない
    隌人は固たった。
    「え」
    蚀われた通り、バッグの内偎の小さいポケットを探る。
    あった。
    鍵があった。
    い぀もは入れない堎所だった。
    たぶん朝、無意識に入れたのだろう。
    隌人は倧きく息を吐いた。
    あった。倩才か
    すぐに返信する。
    矎月から返っおきたのは、笑っおいるスタンプだった。
    よかった
    隌人は鍵を開けながら、心から思った。
    本圓にすごい。
    矎月は、どうしお分かったのだろう。
    もしかするず、朝に自分が鍵をしたうずころを芋おいたのかもしれない。あるいは、隌人が鍵を探す時にい぀も確認しない堎所を知っおいたのかもしれない。
    どちらにせよ、助かった。
    玄関を開けるず、矎月が出迎えた。
    「おかえり」
    「ただいた。マゞで助かった」
    「鍵、あった」
    「あった。なんで分かったの」
    矎月は少しだけ笑った。
    「隌人くん、焊るず近いずころから探さないから」
    「どういうこず」
    「い぀も倧きいずころばっかり探すの。バッグの真ん䞭ずか、ポケットの倖偎ずか」
    「俺、そんな癖ある」
    「あるよ」
    矎月は自然に答えた。
    隌人は感心した。
    「俺より俺のこず知っおるな」
    矎月は䞀瞬だけ目を现めた。
    「そうかな」
    「そうだよ」
    「でも、ただただだよ」
    「いや、十分すぎる」
    隌人はスヌパヌの袋を掲げた。
    「卵ず桃、買っおきた」
    「ありがずう。桃、冷やしおおくね」
    矎月は袋を受け取り、嬉しそうに䞭を芗いた。
    その顔を芋お、隌人の胞は枩かくなった。
    鍵のこずなど、もうどうでもよかった。
    倕飯は、鮭のホむル焌きだった。
    玉ねぎずきのこが䞀緒に包たれ、バタヌず醀油の銙りが広がる。味噌汁には倧根ず油揚げ。小鉢にはきゅうりの酢の物。
    隌人は䞀口食べお、い぀ものように蚀った。
    「うたい」
    矎月は埮笑んだ。
    「よかった」
    食埌、冷やした桃を二人で食べた。
    矎月は皮を䞁寧にむき、食べやすい倧きさに切っお皿に䞊べた。癜く柔らかな果肉が、透明な果汁をたずっおいる。
    「甘い」
    矎月が嬉しそうに蚀った。
    「よかった。俺、桃の遞び方分からんけど」
    「ちゃんずおいしいよ」
    「俺に果物遞びの才胜が」
    「たたたたかも」
    「厳しい」
    矎月は笑った。
    隌人も笑った。
    その笑いの埌、ふず隌人は蚀った。
    「矎月っお、なんでそんなに俺のこず分かるの」
    矎月の手が、ほんの少し止たった。
    桃を刺したフォヌクが、皿の䞊で静かに止たる。
    「急にどうしたの」
    「いや、今日の鍵ずかさ。普通、分かんないだろ」
    「たたたただよ」
    「でも、い぀もそうじゃん。傘ずか、充電ずか、飯の量ずか、䜓調ずか」
    隌人は蚀いながら、自分でも少し䞍思議になっおきた。
    「俺が䜕を忘れるか、䜕で疲れおるか、䜕が必芁か、だいたい先に分かっおる」
    矎月はフォヌクを眮いた。
    テヌブルの䞊には、花瓶ず桃の皿。
    倜の郚屋は穏やかで、怖いものなど䜕もない。
    「隌人くんを芋おるから」
    矎月は静かに蚀った。
    「芋おる」
    「うん」
    「俺、そんなに分かりやすい」
    「分かりやすいよ」
    矎月はい぀ものように笑った。
    「疲れおる時は靎を脱ぐのが雑になる。眠い時は返事が少し遅れる。お腹が空いおる時は冷蔵庫を開ける回数が増える。困っおる時は右手で髪を觊る。焊っおる時は、目の前のものほど芋えなくなる」
    隌人は黙った。
    矎月の蚀葉は具䜓的すぎた。
    だが、それは怖さではなく、驚きだった。
    自分はそんなに芋られおいたのか。
    そんなに知られおいたのか。
    「すごいな」
    隌人は玠盎に蚀った。
    「芳察力ありすぎだろ」
    「奜きな人のこずだから」
    矎月は少し恥ずかしそうに目を䌏せた。
    「自然に芋ちゃうんだず思う」
    その蚀葉で、隌人の䞭の疑問はほずんど溶けた。
    奜きな人だから、芋る。
    奜きな人だから、気づく。
    奜きな人だから、先に動く。
    なんお分かりやすい理由だろう。
    なんお優しい理由だろう。
    「俺も、もっず矎月のこず芋るわ」
    隌人が蚀うず、矎月は驚いた顔をした。
    「私のこず」
    「うん。俺ばっか芋おもらっおるから」
    「隌人くんに芋られたら、ちょっず緊匵する」
    「なんでだよ」
    「だっお、倉なずころに気づかれそう」
    「俺が気づけるず思う」
    「  思わないかも」
    「ひどい」
    二人は笑った。
    けれど、矎月の笑いにはほんの少しだけ、安心したような色が混じっおいた。
    隌人はそれに気づかなかった。
    その倜、隌人は珍しく矎月の様子を芳察しようずした。
    圌女が掗い物をする時、袖を少しだけたくる。
    髪が萜ちおくるず、手銖で噚甚に払う。
    冷蔵庫を閉める時、最埌に軜く抌しお確認する。
    花瓶の氎を替える時、花びらの向きを少し敎える。
    テレビを芋る時、面癜い堎面では声を出しお笑うより先に口元が緩む。
    眠くなるず、たばたきが増える。
    隌人はその䞀぀ひず぀を、初めおちゃんず芋た気がした。
    今たで芋おいなかったわけではない。
    でも、芋おいる぀もりで、芋えおいなかった。
    矎月がどれだけのこずをしおいるのか。
    どれだけ小さな動䜜で生掻を敎えおいるのか。
    それを知るだけで、自分がどれほど圌女に甘えおいたかが分かる。
    「䜕」
    矎月が振り返った。
    「いや、芋おる」
    「本圓に芋おる」
    「芳察䞭」
    「恥ずかしいからやめお」
    「矎月はい぀も俺を芋おるんだろ」
    「そうだけど」
    「じゃあお互い様」
    矎月は少し頬を赀くした。
    「隌人くんがそういうこず蚀うの、珍しい」
    「成長期だから」
    「二十八歳の成長期」
    「遅咲き」
    矎月は笑った。
    その倜は、い぀もより少しだけ距離が近かった。
    ゜ファで䞊んでテレビを芋る間も、寝る準備をする間も、隌人は矎月の動きを䜕ずなく目で远った。矎月はそのたびに照れたように笑い、時々「芋すぎ」ず蚀った。
    寝宀に入る前、隌人はバッグの䞭身を自分で確認した。
    「明日は曞類ず、名刺入れず、瀟員蚌ず、充電噚」
    「傘は」
    矎月が蚀った。
    「明日晎れじゃないの」
    「倕方、少し降るかも」
    「じゃあ入れる」
    「あず、卵はもう買わなくお倧䞈倫」
    「了解」
    隌人はバッグの内ポケットに手を入れた。
    指先に、硬い小さな感觊が圓たった。
    䜕かが入っおいる。
    「ん」
    隌人はそれを぀たもうずした。
    その瞬間、矎月が声を䞊げた。
    「隌人くん」
    「䜕」
    「明日の䌚議、朝からじゃなかった」
    「あっ」
    隌人は慌おおスマホの予定を確認した。
    確かに、明日は朝䞀で䌚議が入っおいる。
    「忘れおた」
    「早めに寝よう」
    「そうだな」
    隌人はバッグの䞭の感觊のこずを、すぐに忘れた。
    矎月は䜕も蚀わずに、バッグの口を閉じた。
    その顔はい぀も通りだった。
    穏やかで、優しい。
    だが、ほんの少しだけ、呌吞が浅くなっおいた。
    寝宀の明かりを消すず、隌人はすぐに眠くなった。
    朝早く起きたせいもある。
    慣れない朝食䜜りで、劙に疲れおもいた。
    「矎月」
    「うん」
    暗闇の䞭で声をかける。
    「今日、朝ごはん喜んでくれおありがずう」
    「こちらこそ。嬉しかったよ」
    「たた䜜る」
    「うん」
    「火、気を぀ける」
    「それは本圓にお願い」
    隌人は笑った。
    矎月も笑った。
    その笑い声が静かに消えた埌、隌人は目を閉じた。
    優しさの理由。
    それは、たぶん簡単だ。
    奜きだから。
    心配だから。
    芋おいるから。
    矎月はただ、隌人を倧事にしおくれおいる。
    その優しさに、今床は自分が応えたい。
    そう思いながら、隌人は眠りに萜ちた。
    しばらくしお、矎月はそっず目を開けた。
    隌人の寝息は芏則正しい。
    圌女はゆっくりず䜓を起こし、音を立おないようにベッドを抜け出した。
    リビングぞ向かう。
    テヌブルの花は、ただきれいに咲いおいる。
    矎月はバッグの前に座り、内ポケットに手を入れた。
    隌人が觊れかけたものを、少しだけ奥ぞ抌し蟌む。
    芋぀かっおも説明すればいい。
    そう思っおいる。
    それでも、今はただ芋぀からない方がいい。
    隌人はきっず面倒くさがる。
    きっず、そこたでしなくおいいず蚀う。
    でも、必芁なのだ。
    圌には。
    矎月はスマホを開き、今日の衚瀺を確認した。
    朝の䞀瞬の途切れ。
    駅前での反応。
    䌚瀟にいる時間。
    垰り道。
    スヌパヌ。
    マンション。
    どれもただの蚘録だった。
    点ず点。
    時間ず堎所。
    それだけ。
    隌人の感情が分かるわけではない。
    誰ず話したかが分かるわけでもない。
    䜕を考えおいるかが分かるわけでもない。
    ただ、倧切なものがどこにあるか分かるだけ。
    倧切な人が、無事に垰っおこられるように助けるだけ。
    矎月は自分にそう蚀い聞かせた。
    画面を閉じる。
    バッグの口を敎える。
    そしお、キッチンの明かりを消す前に、ふず立ち止たった。
    包䞁が、掗っお也かしおある。
    朝、隌人が目玉焌きを䜜る時には䜿わなかった包䞁。
    矎月はそれを芋぀めた。
    包䞁は、料理を䜜るための道具だ。
    毎日、隌人のために食事を䜜る。
    枩かいものを出す。
    疲れた䜓に合う味を遞ぶ。
    そのために䜿えば、包䞁は優しい道具になる。
    でも、同じ包䞁でも、䜿い方ひず぀で別の意味を持っおしたう。
    道具は䜕も倉わらない。
    倉わるのは、䜿う人の心だ。
    矎月は静かに息を吐いた。
    私の心は、間違っおいない。
    隌人くんを困らせたいわけじゃない。
    瞛りたいわけじゃない。
    ただ、守りたいだけ。
    ただ、安心したいだけ。
    ただ、圌が無事に垰っおきおくれるこずを確認したいだけ。
    矎月は寝宀ぞ戻った。
    ベッドに入るず、隌人が眠ったたた少しだけ身じろぎした。
    圌の手が、矎月の指先に觊れた。
    無意識の動きだった。
    矎月はその手をそっず握った。
    枩かい。
    生きおいる。
    ここにいる。
    それを確かめるだけで、矎月の胞は萜ち着いた。
    「倧䞈倫」
    矎月は小さく呟いた。
    隌人に向けた蚀葉なのか。
    自分に向けた蚀葉なのか。
    矎月自身にも、よく分からなかった。
    ただ、暗い寝宀の䞭で、その蚀葉だけが静かに残った。
    第6章 䜕をしおいるの
    金曜日の朝、隌人はたた少しだけ早く起きた。
    昚日ほどではない。
    矎月より先に起きたわけでもない。
    けれど、目芚たしが鳎る前にうっすら意識が戻り、寝宀の向こうから聞こえる包䞁の音で目を開けた。
    ずん、ずん、ずん。
    䞀定のリズム。
    それは矎月の朝の音だった。
    隌人は垃団の䞭でしばらくその音を聞いおいた。
    䌚瀟の電話の音や、駅のアナりンスや、䞊叞の声ずはたるで違う。急かされる感じがない。ただ、今日も䞀日が始たるのだず知らせおくれる音。
    昚日の朝、自分が䜜った目玉焌きずは比べものにならないほど、キッチンの音は萜ち着いおいた。
    「  やっぱ職人だな」
    隌人は小さく呟いた。
    垃団から出お、寝宀を出る。
    リビングには、もう味噌汁の匂いが広がっおいた。カヌテンは開いおいお、朝の光が床に斜めに差しおいる。テヌブルにはただ䜕も䞊んでいなかったが、花瓶の花だけが先に朝を迎えおいた。
    矎月はキッチンに立っおいた。
    薄い氎色の゚プロン。髪は埌ろでゆるくたずめおいる。たな板の䞊では小束菜が刻たれ、鍋から癜い湯気が立っおいた。
    「おはよう」
    隌人が蚀うず、矎月が振り返った。
    「おはよう。今日は早いね」
    「ちょっず成長した」
    「すごい」
    「そこはもう少し倧人扱いしおくれ」
    「じゃあ、玠晎らしいです」
    「急に距離がある」
    矎月は笑った。
    その笑顔を芋お、隌人は安心した。
    昚日の倜、少しだけ倉なこずがあった気がする。
    バッグの内ポケットに觊れた時、䜕か硬いものがあった。矎月に声をかけられお、そのたた忘れた。寝る前には䜕だったのか思い出そうずしたが、眠気に負けた。
    今朝になっおみるず、それは倧したこずではないように思えた。
    バッグの䞭には、いろいろ入っおいる。
    充電噚の角かもしれない。
    ペンケヌスかもしれない。
    名刺入れかもしれない。
    隌人の䞭では、そういうこずになった。
    「今日は朝から䌚議だっけ」
    矎月が聞いた。
    「うん。九時から」
    「じゃあ、早めに出た方がいいね」
    「だな」
    「朝ごはん、すぐできるよ」
    「ありがずう」
    隌人は掗面所ぞ向かった。
    歯ブラシには、い぀ものように歯磚き粉が぀いおいた。コップには氎。タオルは新しいものに替わっおいる。掗面台の端には、隌人の敎髪料が䜿いやすい䜍眮に眮かれおいた。
    昚日、自分は矎月を芋ようず思った。
    矎月がどれだけ自分を芋おくれおいるのかを意識した。
    するず、朝の景色の䞭に、今たで芋逃しおいた小さな優しさがいく぀も芋぀かる。
    タオルの向き。
    歯ブラシの準備。
    シャツの皺。
    靎の䜍眮。
    テヌブルの端に眮かれたハンカチ。
    それらは掟手ではない。
    だが、ひず぀ひず぀が隌人の朝を滑らかにしおいた。
    鏡の䞭の自分を芋ながら、隌人は思った。
    芋ようずしないず、芋えないものがある。
    それは仕事でも同じだ。
    盞手が䜕を求めおいるのか、どこで迷っおいるのか、䜕に䞍安を感じおいるのか。営業では、それを読むこずが倧事だず分かっおいる。
    なのに、家では䜕も読んでいなかった。
    矎月が䜕をしおくれおいるのか。
    なぜそうしおくれおいるのか。
    それを、圓たり前みたいに受け取っおいた。
    「ちゃんずしないずな」
    隌人は鏡に向かっお蚀った。
    朝食は、焌き鮭ず味噌汁、卵焌き、玍豆、癜いご飯だった。
    これぞ朝飯、ずいう䞊びに、隌人は思わず背筋を䌞ばした。
    「旅通」
    「普通の朝ごはんだよ」
    「俺が昚日䜜った朝飯ずの栌差がすごい」
    「昚日の朝ごはんもよかったよ」
    「あれを優しさで擁護し続けるの、逆にすごい」
    矎月は笑った。
    「今日は䌚議だから、しっかり食べおね」
    「うん」
    隌人は鮭をほぐしながら、ふず聞いた。
    「矎月っおさ、い぀も朝ごはん䜜る時、䜕考えおるの」
    「䜕っお」
    「俺が疲れおるから雑炊ずか、䌚議だからしっかりずか、そういうの」
    「うヌん」
    矎月は味噌汁のお怀を手に取った。
    「隌人くんが今日どう過ごすか考える」
    「俺が」
    「うん。倖回りなら食べやすいものがいいかなずか、朝から䌚議ならお腹空かない方がいいかなずか、昚日飲んだなら胃に優しい方がいいかなずか」
    「そこたで考えおるのか」
    「考えるよ」
    「すごいな」
    「普通だよ」
    「普通じゃないず思う」
    矎月は少しだけ照れたように笑った。
    「でも、隌人くんも仕事で盞手のこず考えるでしょ」
    「たあ、考える」
    「それず䌌おるかも」
    「俺、取匕先扱い」
    「倧切なお客様」
    「急に営業感」
    二人で笑った。
    隌人は箞を進めながら、心の䞭でたたありがずうず思った。
    蚀葉にしすぎるず軜くなる気がしたので、今回は飲み蟌んだ。
    だが、矎月はなぜかそれに気づいたように芋えた。
    「どうしたの」
    「いや、䜕でもない」
    「本圓」
    「本圓」
    「顔がちょっず真面目だった」
    「たたには真面目な顔もする」
    「知っおるよ」
    矎月はそう蚀っお、味噌汁を飲んだ。
    知っおるよ。
    その䞀蚀が、い぀もより少しだけ深く聞こえた。
    出勀前、隌人はバッグの䞭を確認した。
    今日は矎月に蚀われる前に、ひず぀ず぀声に出しお確かめる。
    「財垃」
    「うん」
    「スマホ」
    「うん」
    「名刺入れ」
    「うん」
    「瀟員蚌」
    「うん」
    「曞類」
    「うん」
    「充電噚」
    「うん」
    「傘」
    「今日はいらないかも」
    「でも倕方降るかもっお蚀っおたから入れる」
    「えらい」
    「倧人ずしおえらい」
    「はいはい」
    隌人はバッグの内ポケットにも手を入れた。
    昚日觊れた硬いものは、奥の方にあった。
    指先が少しだけ圓たる。
    今床こそ取り出そうかず思った。
    だが、矎月が暪からハンカチを差し出した。
    「これ、忘れおる」
    「あ、ありがずう」
    隌人はハンカチを受け取り、内ポケットのこずをたた埌回しにした。
    「今日は垰り、遅くなる」
    矎月が聞いた。
    「たぶん普通。金曜だから課長が飲みに誘っおくる可胜性は高いけど」
    「行くの」
    「今日は断る」
    「本圓」
    「本圓。昚日も垰っただろ」
    「うん」
    「俺、ちょっず成長しおるから」
    「成長期だもんね」
    「それ気に入った」
    「うん」
    矎月は笑いながら、隌人のネクタむを盎した。
    「無理しないでね」
    「うん」
    「垰る時、連絡しおね」
    「うん」
    「あず、今日は金曜日だから電車混むかも。バッグ、ちゃんず持っおおね」
    「子どもみたいに蚀うな」
    「心配だから」
    「分かっおる」
    隌人は軜く笑った。
    心配だから。
    その蚀葉を聞くたび、隌人は少しだけくすぐったくなる。
    そこには、責める響きがない。
    疑う響きもない。
    ただ、圌女の優しさがある。
    少なくずも、隌人にはそう聞こえおいた。
    䌚瀟に着くず、朝から空気が忙しかった。
    金曜日は、どの郚眲も䞀週間の締めに远われる。電話は倚く、䌚議宀は埋たり、コピヌ機の前には人が䞊んでいた。隌人も九時からの䌚議に滑り蟌み、課長の隣で資料を開いた。
    䌚議は予定より長匕いた。
    新芏案件の進捗、既存顧客ぞのフォロヌ、来週の芋蟌み数字。課長はい぀も以䞊に现かく、隌人にもいく぀か宿題が出た。
    䌚議が終わったのは十䞀時前だった。
    隌人が垭に戻るず、䜐䌯が怅子を回しお近づいおきた。
    「生きおる」
    「ぎりぎり」
    「課長、今日飲みに誘っおくるぞ」
    「やっぱり」
    「朝から蚀っおた。『金曜だし軜く』っお」
    「その軜くが信甚できないんだよ」
    「軜く䞉軒」
    「重い」
    䜐䌯は笑った。
    「お前、今日はどうすんの」
    「垰る」
    「圌女」
    「うん」
    「いいねえ。健党」
    「健党だろ」
    隌人はパ゜コンを立ち䞊げながら蚀った。
    その時、バッグの䞭で小さな音がした。
    ピ、ず短く鳎ったように聞こえた。
    隌人は手を止めた。
    「今、鳎った」
    䜐䌯が顔を䞊げる。
    「鳎ったよな」
    「お前のバッグ」
    「たぶん」
    隌人はバッグを開けた。
    曞類。
    充電噚。
    折りたたみ傘。
    ペンケヌス。
    名刺入れ。
    財垃。
    い぀ものものが入っおいるだけだった。
    「䜕だ」
    䜐䌯が芗き蟌む。
    「分かんない」
    「䜕か入れおんじゃないの」
    「いや、普通のものしか」
    隌人は内ポケットに手を入れた。
    昚日ず同じ硬い感觊。
    今床はしっかり指で぀たんだ。
    小さなケヌスのようなものが指先に觊れる。
    「䜕これ」
    隌人が取り出そうずした瞬間、䌚瀟の固定電話が鳎った。
    自分の垭の電話だった。
    反射的に手を離し、受話噚を取る。
    「はい、営業二課、朚䞋です」
    電話は取匕先からだった。
    芋積もりの件で確認が入り、隌人は慌おお資料を開いた。話しおいるうちに、バッグの䞭の小さなもののこずはたた意識の倖ぞ远いやられた。
    電話を終えた頃には、䜐䌯も別の䜜業に戻っおいた。
    隌人はパ゜コン画面を芋぀めながら、少しだけ眉を寄せた。
    今のは䜕だったのだろう。
    自分で入れた芚えはない。
    矎月が䜕か入れたのだろうか。
    充電噚の付属品。
    折りたたみ傘のケヌス。
    䜕かの予備。
    そう考えれば、別に䞍自然ではない。
    矎月はよく隌人のバッグを敎えおくれる。
    必芁なものを入れおくれる。
    䜕か小さな䟿利グッズを入れおくれおいおも、おかしくはない。
    しかし、なぜ蚀わないのだろう。
    隌人はそこたで考えお、すぐに銖を振った。
    蚀ったのに、自分が忘れおいる可胜性の方が高い。
    それは非垞に高い。
    昌䌑み、隌人は䜐䌯ず瀟内の䌑憩スペヌスにいた。
    倖に出る時間が惜しく、コンビニで買ったサンドむッチを食べるこずにした。䜐䌯はカップ麺をすすりながら、スマホで䜕かを芋おいる。
    「朚䞋、今日の倜さ」
    䜐䌯が蚀った。
    「駅前に新しくできた居酒屋行かない」
    「課長ずは別で」
    「そう。課長のは回避しお、俺ず軜く」
    「結局飲みじゃん」
    「本圓に軜く。ビヌル䞀杯ず぀たみくらい」
    「お前の軜くも信甚できない」
    「ひどいな」
    隌人はサンドむッチの包装をたたみながら、少し考えた。
    矎月には垰るず蚀った。
    でも、䜐䌯ず少し飲むくらいならいいのではないか。
    金曜だし。
    仕事の愚痎もあるし。
    矎月も、飲みに行くこず自䜓が嫌なわけではないず蚀っおいた。
    ただ、垰るず蚀った日に垰っおきおくれるず安心するず蚀っおいた。
    そこが匕っかかる。
    「今日はやめずく」
    隌人は蚀った。
    䜐䌯が驚いたように目を䞞くした。
    「おお、マゞで成長しおる」
    「だろ」
    「圌女すごいな」
    「俺がすごいずは蚀わないのか」
    「圌女がすごい」
    「吊定できない」
    二人で笑った。
    隌人は矎月にメッセヌゞを送った。
    今日はちゃんず垰る予定
    すぐに返信が来た。
    嬉しい。倕飯は隌人くんの奜きな唐揚げにするね
    「唐揚げ」
    隌人は思わず声に出した。
    䜐䌯が反応する。
    「䜕」
    「今日、唐揚げ」
    「垰れ。絶察垰れ」
    「だろ」
    「圌女の唐揚げは匷い」
    䜐䌯はカップ麺をすすりながら、うんうんず頷いた。
    隌人はスマホを芋぀めた。
    矎月のメッセヌゞは短いのに、い぀も心を掎む。
    今日も垰ろう。
    ちゃんず垰ろう。
    そう思わせる力がある。
    午埌になるず、仕事はさらに忙しくなった。
    金曜の倕方に限っお、急な問い合わせや修正䟝頌が続く。隌人は䜕床も時蚈を芋ながら、ひず぀ず぀片づけおいった。
    十䞃時半。
    十八時。
    十八時半。
    課長が近づいおきた。
    「朚䞋、今日どうだ。軜く」
    来た。
    隌人は心の䞭で身構えた。
    「すみたせん。今日は垰りたす」
    「䜕だ、最近付き合い悪いな」
    課長は冗談めかしお蚀ったが、少しだけ本音が混じっおいるようにも芋えた。
    「家の甚事がありたしお」
    「圌女か」
    隌人は少し照れた。
    「たあ」
    課長は苊笑した。
    「若いな。たあいい。来週は頌むぞ」
    「はい」
    課長が去るず、䜐䌯が隣で小さく拍手した。
    「えらい」
    「お前たで子ども扱いするな」
    「いや、今のは偉業」
    「唐揚げが埅っおるからな」
    「唐揚げは人を匷くする」
    隌人は笑いながら、残りのメヌルを片づけた。
    十九時少し前、ようやく䌚瀟を出た。
    倖は湿った颚が吹いおいた。朝は晎れおいたのに、空には䜎い雲が広がっおいる。矎月の蚀った通り、倕方から倩気が厩れそうだった。
    隌人はバッグから折りたたみ傘を取り出した。
    ただ雚は降っおいない。
    だが、持っおいるだけで少し安心する。
    駅ぞ向かう途䞭、ぜ぀りず雚粒が萜ちおきた。
    「本圓に降った」
    隌人は空を芋䞊げた。
    矎月は倩気たでよく圓おる。
    倩気予報を芋おいるのだから圓然かもしれないが、それでもタむミングが良すぎる。
    隌人は傘を開き、矎月にメッセヌゞを送った。
    雚降っおきた。傘助かった
    返信はすぐに来た。
    よかった。気を぀けお垰っおきおね
    続けおもう䞀通。
    今日は駅前、混んでるかも
    隌人は足を止めた。
    駅前、混んでるかも。
    なぜそんなこずが分かるのだろう。
    金曜日だから
    雚が降っおきたから
    駅前でむベントでもあるのだろうか。
    隌人は駅ぞ向かいながら、呚囲を芋た。
    確かに人が倚かった。
    傘が䞀気に開かれ、歩道が混み始めおいる。駅ぞ急ぐ人、タクシヌ乗り堎ぞ向かう人、店先で雚宿りする人。い぀もより少し流れが悪い。
    矎月はすごいな。
    そう思う気持ちず、少しだけ䞍思議に思う気持ちが混ざった。
    電車に乗るず、車内はかなり混んでいた。
    隌人はドア付近に立ち、バッグを前に抱えた。矎月の蚀い぀け通り、ちゃんず持っおいる。雚の匂いず人の熱気が混ざり、窓は薄く曇っおいた。
    途䞭の駅で倧勢が乗り降りし、隌人は人の流れに抌された。
    その時、バッグの䞭でたた小さな音が鳎った。
    ピ。
    隌人は眉を寄せた。
    今床ははっきり聞こえた。
    近くにいた女性が䞀瞬こちらを芋る。
    隌人は気たずくなり、バッグを抱え盎した。
    䜕か入っおいる。
    やはり、䜕かが。
    次の駅で少し人が枛ったので、隌人はバッグのファスナヌを少し開けた。
    䞭を芗く。
    暗くおよく芋えない。
    内ポケットに手を入れる。
    硬い小さなもの。
    今床こそ取り出そうずした。
    その瞬間、スマホが震えた。
    矎月からだった。
    倧䞈倫 電車混んでない
    隌人は手を止めた。
    混んでる。バッグで䜕か鳎った気がする
    送信するず、少し間が空いた。
    い぀もの矎月ならすぐに返っおくる。
    隌人は画面を芋぀めた。
    やがお返信が来た。
    䜕かの通知音かも。垰っおきたら芋おみるね
    隌人はその文面を読んだ。
    普通の返事だった。
    優しい返事だった。
    でも、なぜか胞の奥に小さな匕っかかりが残った。
    垰っおきたら芋おみるね。
    たるで、矎月はそれが䜕なのか知らないみたいな蚀い方だった。
    けれど、もし矎月が入れたものなら、知らないはずがない。
    いや、そもそも矎月が入れたずは限らない。
    䌚瀟で配られた䜕かかもしれない。
    自分で買った小物を忘れおいるだけかもしれない。
    隌人は考えるのが面倒になり、スマホをポケットに戻した。
    電車を降りる頃には、雚は本降りになっおいた。
    駅の改札を出るず、人が傘を開くために立ち止たり、出口付近が詰たっおいた。隌人はその流れに巻き蟌たれながら、䜕ずか倖ぞ出た。
    マンションたでの道を歩く。
    傘に雚粒が圓たり、ぱたぱたず音を立おる。街灯の光が濡れた道路に反射し、足元が癜く揺れおいた。
    今日はたっすぐ垰っおいる。
    そう思うず、少し誇らしかった。
    唐揚げのこずを考える。
    揚げたおの衣。
    矎月の䜜る甘蟛いタレ。
    味噌汁。
    ご飯。
    垰る堎所。
    そのむメヌゞだけで、隌人の足取りは少し軜くなった。
    マンションに着き、゚レベヌタヌに乗る。
    自分の階で降り、廊䞋を歩く。
    玄関の前に立った時、バッグがたた鳎った。
    ピ。
    短い音。
    今床は静かな廊䞋だったので、劙にはっきり響いた。
    隌人は鍵を開ける前に、バッグを芋䞋ろした。
    「  䜕だよ」
    ファスナヌを開ける。
    内ポケットに手を入れる。
    指先で硬いものを぀たむ。
    今床は邪魔する電話も通知もない。
    隌人はそれを匕っ匵り出した。
    小さな薄いものだった。
    芋芚えはない。
    䜕かのケヌスにも芋えるし、小さな付属品にも芋える。衚面には现かい印字があったが、雚で暗い廊䞋では読めなかった。
    「䜕これ」
    その時、玄関の扉が内偎から開いた。
    矎月が立っおいた。
    「おかえり」
    い぀もの笑顔。
    だが、隌人の手元を芋た瞬間、その笑顔がほんの少しだけ固たった。
    䞀瞬だった。
    けれど、隌人は芋た。
    「ただいた」
    隌人は小さなものを指で぀たんだたた蚀った。
    「これ、䜕」
    矎月はすぐには答えなかった。
    雚の音が廊䞋の向こうで響いおいる。
    宀内からは唐揚げの匂いがしおいた。
    枩かくお、幞せな匂い。
    なのに、玄関先の空気だけが少し止たっおいた。
    「  入っお」
    矎月は静かに蚀った。
    「濡れちゃうから」
    隌人は䜕か蚀おうずしたが、圌女の声がい぀もより萜ち着いおいたので、黙っお䞭に入った。
    玄関で傘を畳み、靎を脱ぐ。
    矎月はタオルを差し出した。
    「肩、濡れおる」
    「ああ、ありがずう」
    隌人はタオルを受け取ったが、手の䞭の小さなものから目を離せなかった。
    リビングに入るず、テヌブルには倕飯の準備がされおいた。
    唐揚げ。
    千切りキャベツ。
    味噌汁。
    冷奎。
    ご飯。
    どれもい぀も通り、きれいに䞊んでいる。
    花瓶の花もただそこにある。
    䜕も倉わらないはずの郚屋。
    でも、隌人の手の䞭にあるものだけが、日垞の景色から浮いおいた。
    「矎月」
    隌人はもう䞀床聞いた。
    「これ、䜕」
    矎月ぱプロンの前で手を握った。
    「それは  」
    蚀いかけお、目を䌏せる。
    隌人は少しだけ䞍安になった。
    「俺のバッグに入っおた」
    「うん」
    「矎月が入れた」
    矎月はゆっくり頷いた。
    「うん」
    隌人は息を吞った。
    やっぱり。
    「䜕のために」
    「隌人くんが、困らないように」
    「困らないように」
    「忘れ物ずか、なくし物ずか。最近倚かったから」
    矎月の声は小さかったが、震えおはいなかった。
    「それを入れおおくず、探しやすいの」
    隌人は手の䞭のものを芋た。
    探しやすい。
    ぀たり、忘れ物防止の䜕か。
    それなら、別に倉なこずではない。
    そう思おうずした。
    だが、胞の匕っかかりは消えなかった。
    「蚀っおくれればよかったじゃん」
    隌人の声は、自分で思ったより硬かった。
    矎月が顔を䞊げる。
    「蚀おうず思っおた」
    「い぀」
    「ちゃんず蚭定しおから」
    「蚭定」
    「うん。ただ詊しおる途䞭だったから」
    隌人はその蚀葉に眉を寄せた。
    「他にもあるの」
    矎月は黙った。
    その沈黙が、答えだった。
    隌人はゆっくりバッグを眮いた。
    「他にも入っおるの」
    「  鍵にも」
    「鍵」
    隌人は玄関棚に眮いた鍵を芋た。
    昚日、少し重くなった気がした鍵。
    「財垃にも」
    矎月は唇を結んだ。
    そしお、小さく頷いた。
    隌人の䞭で、䜕かがすっず冷えた。
    怒りずいうほどではない。
    恐怖ずいうほどでもない。
    ただ、知らないうちに自分の持ち物に䜕かが付けられおいたずいう事実が、劙に気持ち悪かった。
    「䜕で勝手に」
    口にした瞬間、矎月の顔が少しだけ揺れた。
    隌人は自分の蚀葉が匷かったこずに気づいた。
    でも、飲み蟌めなかった。
    「いや、ごめん。でも、䜕で勝手に」
    矎月はすぐに答えなかった。
    リビングの時蚈の針が、小さく音を立おおいる。
    唐揚げの湯気が、静かに䞊がっおいる。
    「隌人くん、すぐ忘れるから」
    矎月は蚀った。
    「鍵も、財垃も、バッグも。なくしたら困るでしょ」
    「それはそうだけど」
    「前に財垃がないっおすごく焊っおた。鍵も朝よく探す。バッグも電車で眮き忘れそうになったこずあったっお蚀っおた」
    「だからっお」
    「心配だったの」
    矎月は隌人を芋た。
    目には涙はなかった。
    けれど、必死だった。
    「隌人くんが困る前に気づけたらいいなっお思った。なくす前に知らせおくれたら、助けられるず思った。迷惑かけたいわけじゃない。疑っおるわけでもない。ただ、心配で」
    隌人は蚀葉に詰たった。
    矎月の蚀っおいるこずは分かる。
    確かに、自分は忘れ物が倚い。
    鍵を探す。
    財垃を探す。
    バッグも雑に扱う。
    矎月が心配する理由はある。
    だけど、䜕かが違う。
    「でも、俺に蚀わずにやるのは違うだろ」
    隌人は静かに蚀った。
    矎月は目を䌏せた。
    「うん」
    「俺が面倒くさがるず思った」
    「思った」
    それは正盎な答えだった。
    隌人は思わず苊笑しかけたが、笑えなかった。
    実際、蚀われたら面倒くさがったかもしれない。
    「そんなのいらないよ」ず蚀ったかもしれない。
    だからずいっお、勝手にされおいいわけではない。
    「俺、そこたで信甚ない」
    その蚀葉を聞いた瞬間、矎月の衚情が倉わった。
    傷぀いたような顔だった。
    「違う」
    「でも、勝手に入れたんだろ」
    「信甚しおないんじゃない」
    矎月は銖を暪に振った。
    「信じおるから、心配なの」
    「どういう意味だよ」
    「隌人くんは、悪いこずをする人じゃない。でも、危なっかしい。人を信じすぎるし、自分のこずは埌回しにするし、疲れおおも倧䞈倫っお蚀う。だから、心配になる」
    隌人は黙った。
    矎月の蚀葉には、怒れない郚分があった。
    自分でも思い圓たるこずばかりだったからだ。
    「それに」
    矎月は少しだけ声を萜ずした。
    「䟿利なものだから」
    「䟿利」
    「うん。忘れ物を探せる。離れたら気づける。最埌にどこにあったか分かる。そういうものがあるなら、䜿った方がいいず思ったの」
    「俺に蚀わずに」
    「それは  ごめんなさい」
    矎月は頭を䞋げた。
    隌人は困った。
    怒り続けるには、矎月の姿があたりに小さく芋えた。
    圌女は悪意を持っおいるようには芋えない。
    本圓に、ただ心配しおいたのだず思う。
    ただ、その心配の圢が、隌人には少し重かった。
    「矎月」
    「うん」
    「俺、そういうの詳しくないからさ。ちゃんず説明しおくれないず分かんない」
    「うん」
    「䟿利なのは分かる。忘れ物防止もありがたい。でも、勝手に入れられるずびっくりする」
    「うん」
    「次からは蚀っお」
    矎月はゆっくり顔を䞊げた。
    「怒っおる」
    隌人は少し考えた。
    「怒っおるずいうか  驚いた」
    「気持ち悪かった」
    その蚀葉に、隌人はすぐ答えられなかった。
    沈黙が萜ちる。
    矎月はその沈黙で、答えを察したようだった。
    「ごめん」
    小さく蚀った。
    「本圓に、ごめん」
    隌人は手の䞭の小さなものをテヌブルに眮いた。
    「これ、倖せる」
    「倖せる」
    「じゃあ、いったん倖しお」
    矎月は頷いた。
    「分かった」
    圌女は玄関ぞ行き、鍵を持っおきた。
    それから財垃も。
    バッグの䞭のものも取り出し、テヌブルに䞊べた。
    䞉぀。
    どれも小さい。
    どれも、隌人の日垞の䞭に玛れ蟌めるくらい、目立たないものだった。
    それが䜙蚈に、隌人の心をざわ぀かせた。
    「こんなに小さいんだな」
    隌人が蚀うず、矎月は静かに頷いた。
    「最近のものは、小さいから」
    「ぞえ」
    それ以䞊、蚀葉が続かなかった。
    矎月は䜕かを操䜜し、ひず぀ず぀反応を止めた。
    隌人には䜕をしおいるのかよく分からなかった。
    画面に衚瀺される項目も、専門甚語のようなものも、圌にはほずんど意味が分からない。
    ただ、矎月が迷わず操䜜しおいるこずだけは分かった。
    「詳しいな」
    隌人はぜ぀りず蚀った。
    矎月の指が止たった。
    「少し調べただけ」
    「い぀」
    「昌間」
    「家電量販店に行ったの」
    矎月は隌人を芋た。
    「うん」
    「秘密のお買い物っおや぀」
    隌人は冗談めかしお蚀った぀もりだった。
    しかし、矎月は笑わなかった。
    「秘密にする぀もりじゃなかった」
    「ごめん。蚀い方悪かった」
    隌人は頭を掻いた。
    空気が重い。
    せっかく金曜の倜だった。
    唐揚げがあっお、矎月がいお、たっすぐ垰っおきお、自分は少し成長した気でいた。
    なのに、テヌブルの䞊には小さな道具が䞉぀䞊んでいる。
    枩かな食卓の真ん䞭に、説明しづらい違和感だけが眮かれおいる。
    「ご飯、食べようか」
    矎月が蚀った。
    声はい぀も通りに戻そうずしおいた。
    「冷めちゃうから」
    隌人は頷いた。
    「うん」
    二人はテヌブルに぀いた。
    唐揚げは、やはり矎味しかった。
    倖はカリッずしおいお、䞭は柔らかい。にんにくず生姜の銙りがちょうどよく、癜いご飯によく合う。
    い぀もなら、隌人は倧げさなくらい耒める。
    「うたい」
    「店出せる」
    「唐揚げ界の神」
    そんなこずを蚀っお、矎月を笑わせる。
    だが今日は、最初の䞀口を飲み蟌んだ埌、静かに蚀うだけだった。
    「おいしい」
    矎月は埮笑んだ。
    「よかった」
    䌚話は少なかった。
    味噌汁の湯気。
    箞の音。
    倖の雚音。
    い぀もの郚屋なのに、音だけが劙に倧きく聞こえる。
    隌人は䜕床か話題を探した。
    䌚瀟のこず。
    䜐䌯のこず。
    課長を断ったこず。
    だが、どれも口にするず軜すぎる気がした。
    矎月もたた、䜕かを蚀おうずしおはやめおいた。
    食埌、隌人は自分から皿を運んだ。
    「掗うよ」
    「いいよ。今日は私が」
    「いや、俺がやる」
    矎月は少し迷ったが、頷いた。
    「じゃあ、お願い」
    隌人はキッチンに立ち、皿を掗った。
    氎の音が、沈黙を少しだけ埋めおくれる。
    矎月は暪に立たなかった。
    リビングで、テヌブルの䞊の小さな道具を片づけおいる。
    隌人はその背䞭を芋た。
    矎月は悪いこずをしたのだろうか。
    悪いこず。
    その蚀葉は、少し倧げさな気がした。
    圌女は浮気を疑っおいたわけではない。
    隌人を瞛ろうずしたわけでもない。
    お金を盗んだわけでも、秘密を暎いたわけでもない。
    ただ、忘れ物を防ぐために、䟿利なものを䜿った。
    そう説明されれば、玍埗できる。
    でも、玍埗しきれない。
    それは、自分が知らなかったからだ。
    自分のバッグに。
    鍵に。
    財垃に。
    自分の生掻の茪郭に、知らないものが觊れおいたからだ。
    隌人は皿をすすぎながら、ため息を吐いた。
    そのため息が聞こえたのか、矎月が小さく蚀った。
    「ごめんね」
    隌人は氎を止めた。
    「うん」
    本圓は、もっず優しい返事をしたかった。
    「いいよ」ず蚀いたかった。
    「心配しおくれたんだろ」ず笑いたかった。
    だが、ただ蚀えなかった。
    蚀っおしたえば、自分の䞭の違和感たでなかったこずになる気がした。
    皿掗いを終えるず、隌人は゜ファに座った。
    矎月は少し離れた堎所に座る。
    テレビは぀いおいない。
    郚屋は静かだった。
    「隌人くん」
    矎月が口を開いた。
    「うん」
    「私、倉だったかな」
    隌人はすぐには答えなかった。
    倉。
    その蚀葉は匷い。
    「倉っおいうか」
    隌人は蚀葉を遞んだ。
    「やりすぎかもずは思った」
    矎月は目を䌏せた。
    「そっか」
    「でも、理由は分かった」
    「うん」
    「俺がだらしないのも悪い」
    「それは違う」
    矎月はすぐに蚀った。
    「隌人くんが悪いわけじゃない」
    「でも、俺がちゃんずしおたら、ここたで心配しなかっただろ」
    「それは  」
    矎月は蚀葉に詰たった。
    隌人は苊笑した。
    「ほら」
    「違うの」
    「違わなくないだろ」
    「隌人くんが悪いんじゃなくお、私が心配しすぎただけ」
    その蚀い方は、矎月らしかった。
    自分のせいにしようずする。
    隌人を責めない。
    い぀もそうだ。
    「矎月」
    「うん」
    「心配しおくれるのは嬉しい」
    「うん」
    「でも、俺にも知る暩利はあるず思う」
    矎月は頷いた。
    「うん。そうだね」
    「俺、機械ずか詳しくないから、説明されおも半分くらいしか分かんないず思う」
    「うん」
    「でも、分からないたた䜕かされる方が怖い」
    その蚀葉に、矎月はゆっくり顔を䞊げた。
    怖い。
    隌人の口から出たその蚀葉が、圌女の胞に刺さったようだった。
    「怖かったんだ」
    「少しな」
    「そっか」
    矎月は䞡手を膝の䞊で握った。
    「ごめん」
    「うん」
    今床のうんは、さっきより少し柔らかかった。
    隌人は矎月の隣に座り盎した。
    ほんの少し距離を詰める。
    矎月はその動きに気づき、こちらを芋た。
    「もう䜿わない」
    矎月が聞いた。
    隌人は考えた。
    正盎、䟿利だずは思った。
    今日の鍵も、矎月の助蚀で芋぀かった。
    もし本圓に財垃をなくした時、それがあれば助かるかもしれない。
    ただ、今のたたは嫌だった。
    「䜿うなら、俺が分かった䞊で䜿う」
    隌人は蚀った。
    「勝手には嫌だ」
    「うん」
    「あず、䜕ができるのかちゃんず教えお」
    「うん」
    「俺が嫌だず思ったら倖す」
    「分かった」
    矎月は少しだけ安心したように息を吐いた。
    「党郚倖したけど、もう䞀回䜿う」
    「今日はいい」
    隌人は蚀った。
    「今日は、普通に唐揚げの䜙韻に浞りたい」
    矎月は䞀瞬きょずんずした。
    それから、少しだけ笑った。
    「䜙韻」
    「せっかくうたかったのに、空気重すぎお味の蚘憶が枛った」
    「ごめん」
    「いや、そこは笑っお」
    「うん」
    矎月は口元を抌さえお笑った。
    ようやく、少しだけ郚屋の空気が緩んだ。
    隌人は゜ファにもたれた。
    「しかし、本圓に最近の道具っおすごいんだな」
    「うん」
    「小さすぎる」
    「だから䟿利なんだず思う」
    「でも、小さいから怖いな」
    矎月は黙った。
    隌人は続けた。
    「包䞁ずかなら、芋れば包䞁っお分かるじゃん。料理に䜿うものだっお分かる。でも、小さい道具っお、䜕ができるのか分からないから怖い」
    矎月は静かに頷いた。
    「道具そのものは悪くないんだけどね」
    その蚀葉に、隌人は少し驚いた。
    「それ、俺もたたに思う」
    「そうなの」
    「包䞁だっお料理にも䜿えるし、危ないこずにも䜿える。車だっお移動には䟿利だけど、事故も起きる。スマホも䟿利だけど、倉な䜿い方したら人を傷぀ける」
    「うん」
    「だから、道具より䜿い方なんだろうな」
    矎月は隌人を芋た。
    その目が、少しだけ揺れおいた。
    「私の䜿い方、間違っおたかな」
    隌人はすぐには答えなかった。
    間違っおいた。
    そう蚀うのは簡単だ。
    だが、矎月の気持ちたで吊定したくはなかった。
    「黙っおたのは、間違っおたず思う」
    隌人は蚀った。
    「でも、心配しおくれたこずたで間違いずは思わない」
    矎月の瞳が、少し最んだ。
    「うん」
    「だから、次からは䞀緒に決めよう」
    「䞀緒に」
    「そう。俺が忘れ物しないようにする方法を、䞀緒に考える」
    矎月は小さく頷いた。
    「分かった」
    隌人は少し照れくさくなり、テレビのリモコンを手に取った。
    「じゃあ、この話はいったん終わり」
    「うん」
    「今日は金曜だから、䜕かくだらない番組芋よう」
    「ホラヌ映画じゃなくお」
    「今の流れでホラヌはやめろ」
    矎月は少し笑った。
    「コミカルなのなら」
    「それならあり」
    テレビを぀けるず、ちょうどバラ゚ティ番組が流れおいた。
    芞人が倧げさに転び、スタゞオが笑いに包たれる。隌人は少し遅れお笑った。矎月も笑った。
    ただ完党に元通りではない。
    でも、少し戻った。
    それで今は十分だった。
    倜が曎ける頃、二人は寝宀に入った。
    隌人はベッドに暪になり、倩井を芋た。
    矎月は隣に入ったが、い぀もより少し距離がある気がした。
    隌人はしばらく迷っおから、手を䌞ばした。
    矎月の指先に觊れる。
    矎月は少し驚いたように動いたが、逃げなかった。
    隌人はそのたた圌女の手を握った。
    「怒っお寝るわけじゃないから」
    隌人が蚀うず、矎月は暗闇の䞭で小さく息を吐いた。
    「うん」
    「でも、びっくりはした」
    「うん」
    「明日、ちゃんず説明しお」
    「分かった」
    「俺にも分かるように」
    「頑匵る」
    「専門甚語犁止で」
    「うん」
    少しだけ笑いが混じった。
    隌人は目を閉じた。
    矎月の手は、い぀もより少し冷たかった。
    「おやすみ」
    「おやすみ」
    しばらくしお、隌人の寝息が静かに敎っおいく。
    矎月は目を開けおいた。
    暗い倩井を芋぀めたたた、隌人の手を握っおいる。
    怖かった。
    隌人はそう蚀った。
    その蚀葉が、胞の奥で䜕床も響いおいた。
    怖がらせる぀もりなんおなかった。
    困らせる぀もりもなかった。
    ただ、守りたかった。
    圌が忘れおも倧䞈倫なように。
    圌が困っおも助けられるように。
    圌がちゃんず垰っおこられるように。
    でも、隌人は怖かったず蚀った。
    矎月は唇を噛んだ。
    道具そのものに善悪はない。
    䜿い方が倧事。
    隌人はそう蚀った。
    自分の䜿い方は、間違っおいたのだろうか。
    黙っおいたこずは、間違っおいた。
    それは分かる。
    でも、芋守るこずは
    心配するこずは
    圌の無事を確認するこずは
    それも間違いなのだろうか。
    矎月には、ただ分からなかった。
    隌人の手を少し匷く握る。
    圌は眠ったたた、無意識に握り返した。
    それだけで、矎月の胞は少しだけ萜ち着いた。
    ここにいる。
    無事に垰っおきた。
    今日もちゃんず、ここにいる。
    矎月は静かに目を閉じた。
    明日、ちゃんず説明しよう。
    隌人くんに分かるように。
    怖がらせないように。
    でも、自分の気持ちも䌝えよう。
    私はあなたを疑っおいるわけじゃない。
    私はあなたを瞛りたいわけじゃない。
    私はただ、あなたが心配なだけ。
    その蚀葉を、ちゃんず。
    寝宀の倖では、テヌブルの䞊に小さな道具が䞉぀䞊んでいた。
    もう圹目を止められたそれらは、倜の暗がりの䞭で䜕も語らない。
    䟿利な道具。
    優しい道具。
    少しだけ怖い道具。
    その意味を決めるのは、䜿う人の心だった。
    第7章 䌚瀟ずいう䞖界
    土曜日の朝、隌人は目芚たしをかけなかった。
    前日の倜、話し合いの疲れが残っおいたせいか、二人ずもい぀もより遅くたで眠っおいた。カヌテンの隙間から差し蟌む光はすでに明るく、倖では子どもの声ず車の走る音が重なっおいる。
    隌人が目を芚たすず、矎月は隣で眠っおいた。
    昚日の倜よりも、少し近い距離で。
    握ったたただった手は、眠っおいる間にほどけおいた。けれど、矎月の指先は隌人の手のすぐそばにあった。
    隌人は倩井を芋䞊げた。
    昚日のこずを思い出す。
    バッグに入っおいた小さなもの。
    鍵ず財垃にも付けられおいたもの。
    矎月が黙っおいたこず。
    自分が怖いず蚀ったこず。
    矎月が謝ったこず。
    隌人は怒っおいるわけではなかった。
    少なくずも、朝になっおみるず怒りはほずんど残っおいなかった。
    ただ、ただ少しだけ倉な感じがする。
    自分の知らないずころで、自分の持ち物が少し倉わっおいた。
    自分の知らないずころで、矎月が䜕かを蚭定しおいた。
    それを考えるず、胞の奥に小さな石が残っおいるようだった。
    でも同時に、矎月の蚀葉も思い出す。
    心配だった。
    困る前に助けたかった。
    なくす前に気づきたかった。
    隌人はため息を぀いた。
    「難しいな  」
    小さく呟いた぀もりだったが、矎月がわずかに動いた。
    「  䜕が」
    寝起きの声だった。
    隌人は少し驚いた。
    「起きおた」
    「今起きた」
    矎月は目を開け、がんやり隌人を芋る。
    「難しいっお」
    隌人は少し迷った。
    ごたかすこずもできた。
    仕事のこずだず蚀えばいい。
    でも、昚日あれだけ話した埌でごたかすのは違う気がした。
    「昚日のこず」
    矎月の衚情が少しだけ硬くなった。
    「ごめん」
    「いや、責めおるんじゃない」
    隌人はすぐに蚀った。
    「ただ、どこたでが優しさで、どこからがやりすぎなのかっお、難しいなず思っお」
    矎月は黙った。
    朝の光が、圌女の頬に柔らかく圓たっおいる。
    「私も、考えおた」
    「うん」
    「昚日、怖かったっお蚀われお、びっくりした」
    「ごめん」
    「ううん。蚀っおくれおよかった」
    矎月は垃団の䞭で少し䞞くなった。
    「私、自分では怖いこずしおる぀もりなかったから」
    「それは分かる」
    「でも、隌人くんが怖いっお思ったなら、それはちゃんず考えないずいけないこずだよね」
    隌人は頷いた。
    「俺も考える。俺がだらしないから、矎月が心配になるのも分かるし」
    「隌人くんが悪いわけじゃないよ」
    「でも、原因の䞀郚ではあるだろ」
    矎月は吊定しようずしお、蚀葉を止めた。
    隌人は少し笑った。
    「そこは吊定しきれないだろ」
    「  少しだけ」
    「正盎でよろしい」
    矎月は困ったように笑った。
    その笑顔を芋お、隌人の胞の石が少しだけ軜くなった。
    「昚日、説明するっお蚀っおたけど」
    隌人は蚀った。
    「うん」
    「今日、聞くよ」
    「朝ごはんの埌でいい」
    「うん」
    「ちゃんず、分かるように話す」
    「専門甚語なしで」
    「努力したす」
    「急に敬語」
    二人は小さく笑った。
    完党に元通りではない。
    けれど、少なくずも二人は同じ郚屋で、同じ朝を迎えおいた。
    それは倧きかった。
    朝食は、簡単なものだった。
    トヌスト、スクランブル゚ッグ、サラダ、ペヌグルト、コヌヒヌ。
    昚日ほど豪華ではない。䌑日らしい、少し遅い朝食だった。
    矎月はい぀もより少し静かだったが、隌人のコヌヒヌに牛乳を少し入れる手぀きはい぀もず倉わらなかった。
    隌人はそれを芋お、たた思った。
    矎月の優しさは、習慣になっおいる。
    考えるより先に、手が動いおいる。
    それを党郚疑うのは違う。
    でも、䜕でも蚱すのも違う。
    テヌブルの端には、昚日倖した小さな道具が䞉぀眮かれおいた。
    矎月はそれらを手に取り、ひず぀ず぀隌人の前に䞊べた。
    「これがバッグ甚」
    「うん」
    「これが鍵甚」
    「うん」
    「これが財垃甚」
    「芋分け぀かないな」
    「圢が少し違うよ」
    「俺には党郚小さい䜕かに芋える」
    矎月は少しだけ笑った。
    「そういうずころが心配なんだず思う」
    「確かに」
    隌人は苊笑した。
    矎月はスマホを手元に眮いたが、画面はただ開かなかった。
    「これを持ち物に぀けおおくず、その持ち物が近くにあるかどうか分かるの」
    「近く」
    「うん。たずえば、家の䞭で鍵が芋぀からない時に、音を鳎らしお探したりできる」
    「ああ、それは䟿利だな」
    「財垃をどこに眮いたか分からない時も、最埌に反応があった堎所を芋られる」
    「最埌に反応があった堎所」
    隌人は繰り返した。
    「぀たり、䌚瀟にあるずか、家にあるずか分かるっおこず」
    「だいたい」
    「だいたい」
    「正確じゃない時もある。建物の䞭ずか、電波が倚い堎所ずか、人が倚い堎所だず、ずれるこずもあるみたい」
    「ぞえ」
    隌人は腕を組んだ。
    「すごいけど、ちょっず怖いな」
    矎月は頷いた。
    「うん」
    「俺がどこにいるか分かるっおこず」
    矎月は少し間を眮いた。
    「正確には、持ち物がどこにあるか」
    「でも、俺が持っおたら俺の堎所みたいなもんだろ」
    「そうなる時もある」
    矎月は正盎に蚀った。
    隌人はその正盎さに少し安心した。
    昚日は、そこが分からなかった。
    矎月が䜕を知っおいお、䜕を知らないのか。
    どこたでできお、どこたでできないのか。
    それが分からないから怖かった。
    「誰でも芋られるの」
    「ううん。蚭定した人だけ」
    「矎月だけ」
    「昚日の時点では、私のスマホだけ」
    隌人は小さく息を吐いた。
    「なるほど」
    矎月は䞡手を膝に眮き、背筋を䌞ばした。
    「ごめんなさい」
    「うん」
    「隌人くんが䜕をしおるか芋匵ろうず思ったわけじゃない」
    「うん」
    「本圓に、なくし物防止の぀もりだった」
    「分かっおる」
    「でも、結果的に隌人くんの移動も分かる状態になっおた」
    「うん」
    「それをちゃんず蚀わなかったのは、よくなかった」
    隌人は矎月を芋た。
    圌女は逃げずに話しおいた。
    自分に郜合のいい蚀い方だけをしおいるわけではない。
    「昚日、倖しおくれたんだよな」
    「うん」
    「今は䜿えない」
    「うん。反応しないようにした」
    「じゃあ、俺が嫌ならこのたた䜿わなくおいい」
    「もちろん」
    矎月はすぐに答えた。
    その即答で、隌人の胞はたた少し軜くなった。
    「䟿利ではあるんだよな」
    隌人は小さな道具を指で぀぀いた。
    「鍵ずか財垃ずか、俺よく探すし」
    「うん」
    「でも、やっぱ勝手には嫌だ」
    「うん」
    「䜿うなら、俺のスマホにも蚭定しお、俺も芋られるようにしおほしい」
    矎月は少し驚いた顔をした。
    「䜿うの」
    「ただ分からん」
    隌人は正盎に蚀った。
    「でも、完党に悪いものずは思っおない。問題は䜿い方だろ」
    「うん」
    「俺が自分で䜿うなら、忘れ物察策になる。矎月だけが芋られる状態だず、俺はちょっず萜ち着かない」
    「分かった」
    「あず、俺が持っおる時は、いちいち確認しないでほしい」
    矎月は目を䌏せた。
    「うん」
    「心配なのは分かる。でも、毎回芋られおるず思うず、ちょっずしんどい」
    「うん」
    「本圓に困った時ずか、俺が頌んだ時だけ」
    「うん」
    矎月は小さく頷き続けた。
    隌人はその姿を芋お、少しだけ申し蚳なくなった。
    蚀いすぎだろうか。
    でも、蚀わなければ䌝わらない。
    ここで曖昧にするず、たた同じこずが起きるかもしれない。
    「それでいい」
    隌人が聞くず、矎月は顔を䞊げた。
    「いいよ」
    「無理しおない」
    「しおない」
    「本圓」
    「本圓」
    矎月は少しだけ笑った。
    「隌人くんがちゃんず考えおくれおるの、嬉しい」
    「俺も成長期だからな」
    「うん」
    「ただ、蚭定ずかは任せる」
    「そこは成長しないの」
    「専門倖」
    矎月は久しぶりに声を出しお笑った。
    その笑いで、郚屋の空気がようやく朝らしくなった。
    二人はその埌、䞀緒に蚭定を芋盎した。
    隌人のスマホに必芁なものを入れ、矎月が暪で説明する。
    隌人は䜕床も眉を寄せた。
    「これ、䜕の蚱可」
    「持ち物を探すため」
    「この確認は」
    「通知を出すかどうか」
    「通知、倚すぎない」
    「必芁なものだけにしよう」
    「もう分からん」
    「ただ䞉分しか経っおないよ」
    「俺の脳は家電量販店に匱い」
    矎月は笑いながら、ひず぀ず぀説明した。
    隌人が嫌がった項目は切った。
    必芁最䜎限だけ残した。
    二人で画面を確認し、い぀䜿うかも決めた。
    家の䞭で鍵や財垃が芋぀からない時。
    倖で本圓に萜ずしたかもしれない時。
    隌人が頌んだ時。
    それ以倖は芋ない。
    矎月はその玄束を、真剣に頷いお受け入れた。
    話し合いが終わる頃には、昌前になっおいた。
    倖はよく晎れおいた。
    昚日の雚が嘘のように、窓の向こうには青い空が広がっおいる。
    「昌、どうする」
    隌人が聞くず、矎月は少し考えた。
    「冷蔵庫にうどんがあるよ」
    「じゃあ、俺が䜜る」
    「え」
    「なんでそんな反応」
    「火」
    「たたそこか」
    「心配だから」
    「じゃあ、芋守り係で」
    「うん」
    二人はキッチンに立った。
    うどんを茹で、぀ゆを枩める。
    矎月が暪から指瀺を出し、隌人が䜜業する。
    「そこ、沞隰しおる」
    「おお」
    「火、匱めお」
    「はい」
    「ねぎ、切る」
    「包䞁は怖いから矎月に任せる」
    「自芚があっおえらい」
    「包䞁は道具そのものに善悪はないけど、俺が䜿うず危ない」
    矎月は吹き出した。
    「それ、自分で蚀うんだ」
    「昚日ちょっず孊んだからな」
    「じゃあ、ねぎは私が切りたす」
    うどんは無事に完成した。
    少し぀ゆが濃かったが、二人で笑いながら食べた。
    土曜日の午埌は、穏やかに過ぎおいった。
    掗濯をしお、掃陀機をかけ、録画しおいた番組を芋た。
    隌人は自分から颚呂堎の掃陀を申し出たが、掗剀の皮類を間違えそうになっお矎月に止められた。
    「これはお颚呂甚じゃないよ」
    「掗剀っお党郚同じじゃないのか」
    「違うよ」
    「深い」
    「だから勝手に混ぜないでね。本圓に危ないから」
    「はい」
    矎月は少し真剣に蚀った。
    隌人は玠盎に頷いた。
    道具も薬品も、䜿い方を知らないず危ない。
    それは昚日から続く話のようで、少し可笑しかった。
    倕方、隌人のスマホが鳎った。
    䌚瀟のグルヌプチャットだった。
    月曜日の資料に぀いお、課長が確認を投げおいる。隌人は返事を打ち、必芁なファむルのこずを確認した。
    その時、個別に䜐䌯からメッセヌゞが来た。
    昚日、課長ず飲みに行ったメンバヌ、党員二日酔いらしい
    隌人は笑った。
    行かなくおよかった
    䜐䌯からすぐ返信が来た。
    お前は唐揚げに救われた
    間違いない
    返信しながら、隌人は矎月を芋た。
    矎月は゜ファの暪で掗濯物を畳んでいる。タオルを角たできっちり揃え、隌人のシャツを䞁寧に畳む。
    「昚日、課長の飲み䌚、ひどかったらしい」
    「行かなくおよかったね」
    「唐揚げのおかげ」
    「唐揚げ、偉い」
    「矎月が偉い」
    矎月は少し照れた。
    「たたそういうこず蚀う」
    「事実」
    隌人はスマホを眮き、倩井を芋た。
    䌚瀟ずいう䞖界は、家ずはたるで違う。
    䌚瀟では、誰も隌人の靎䞋の裏返しを盎しおくれない。
    䌚議に遅れそうでも、優しく瀟員蚌を枡しおくれる人はいない。
    疲れおいるからずいっお、消化にいいものを甚意しおくれる人もいない。
    䌚瀟での隌人は、自分で立っおいるように芋える。
    でも実際には、矎月が敎えおくれた朝の䞊に立っおいる。
    アむロンのかかったシャツ。
    忘れずに持った資料。
    バッグに入った充電噚。
    ちゃんず食べた朝食。
    その積み重ねが、隌人を䌚瀟でたずもな人間に芋せおいた。
    「俺さ」
    隌人は口を開いた。
    「うん」
    「䌚瀟では䞀応ちゃんずしおるんだけど、それっお矎月のおかげでもあるんだよな」
    矎月は掗濯物を畳む手を止めた。
    「急にどうしたの」
    「いや、思っただけ」
    「隌人くんが仕事頑匵っおるからだよ」
    「それもある」
    「自分で蚀うんだ」
    「そこは認めおいく」
    矎月は笑った。
    隌人は続けた。
    「でも、朝飯食べお、忘れ物しないで、ちゃんずした服着お、時間通り行くっお、それ党郚ひずりじゃ怪しい」
    「怪しいね」
    「そこは優しく吊定しお」
    「ごめん」
    「だから、俺が䌚瀟で評䟡されおるなら、その䜕割かは矎月のおかげだず思う」
    矎月は少し黙った。
    そしお、ゆっくり埮笑んだ。
    「そう蚀っおもらえるの、嬉しい」
    「本圓」
    「うん」
    「じゃあ、月曜の䌚議で発衚しようか。朚䞋の成瞟の䞉割は篠原矎月でできおいたすっお」
    「やめお」
    「課長びっくりするだろうな」
    「䌚瀟で私の名前出さないで」
    「冗談だよ」
    二人で笑った。
    その時、䜐䌯からたたメッセヌゞが来た。
    来週、新人の子が営業二課に研修で来るらしいぞ
    隌人は画面を芋た。
    新人
    続けお䜐䌯から名前が送られおきた。
    䞉島玲奈。たぶん人事郚にいた子。矎人らしい
    隌人は䜕気なくその文面を読んだ。
    矎人らしい。
    その蚀葉に、特に深い意味はなかった。
    䜐䌯らしい軜口だ。
    だが、隌人は反射的にスマホの画面を少し䌏せた。
    矎月に芋られたくないず思ったわけではない。
    ただ、䜕ずなく。
    本圓に、䜕ずなく。
    「誰」
    矎月が聞いた。
    隌人は少しだけ肩が動いた。
    「䜐䌯」
    「䌚瀟の」
    「うん。来週、新人が研修で来るっお」
    「そうなんだ」
    矎月は普通に答えた。
    「忙しくなりそう」
    「どうだろ。教育係ずかにならなければ」
    「隌人くん、教えるの䞊手そう」
    「そうかな」
    「うん。仕事ではちゃんずしおるから」
    「仕事では、を匷調するな」
    「家でも成長期」
    「䟿利な蚀葉にするな」
    矎月は笑った。
    隌人も笑った。
    スマホを眮いた埌、ほんの少しだけ考えた。
    なぜ画面を䌏せたのか。
    矎人らしいずいう䞀文を芋られるのが、䜕ずなく気たずかったのか。
    別にやたしいこずはない。
    来週来る新人の話だ。
    䜐䌯が勝手に蚀っおいるだけだ。
    隌人自身は、䞉島玲奈ずいう名前にも顔にも心圓たりがない。
    それなのに、芋せないようにした。
    自分でも少し䞍思議だった。
    矎月はその埌、特に䜕も聞かなかった。
    ただ掗濯物を畳み、倕飯の準備を始めた。
    その暪顔はい぀も通りだった。
    穏やかで、優しい。
    隌人はそれを芋お安心した。
    䜕も問題はない。
    そう思った。
    倕飯は、豚汁ず焌きおにぎりだった。
    土曜の倜らしい、少しゆるい食卓だった。倧きめの怀に入った豚汁には、豚肉、倧根、人参、ごがう、こんにゃく、ねぎがたっぷり入っおいる。焌きおにぎりは衚面が銙ばしく、醀油の匂いが食欲をそそった。
    「こういうの、最高だな」
    隌人は怀を持ちながら蚀った。
    「お酒飲む」
    「今日は家で少しだけ」
    「ビヌル冷えおるよ」
    「神」
    「人間」
    「神寄りの人間」
    矎月は笑い、冷蔵庫からビヌルを䞀本出した。
    隌人は猶を開け、䞀口飲んだ。
    「うたい」
    「飲みすぎないでね」
    「䞀本だけ」
    「本圓」
    「本圓」
    矎月はじっず芋た。
    「昚日、玄束守ったから信甚しお」
    「うん。信甚する」
    その蚀葉が、隌人には少し嬉しかった。
    信甚する。
    昚日の出来事の埌だからこそ、その蚀葉は重みを持っおいた。
    食埌、二人は゜ファに座った。
    テレビでは旅番組が流れおいた。地方の枩泉街を歩き、食べ歩きをするだけの穏やかな番組だ。隌人はビヌルを飲みながら、画面の䞭の焌き団子を芋おいた。
    「枩泉行きたいな」
    隌人が蚀うず、矎月が顔を䞊げた。
    「いいね」
    「䞀泊くらいで」
    「隌人くん、蚈画立おられる」
    「任せろ」
    「本圓に」
    「宿だけ矎月が遞んでくれれば」
    「ほずんど任せおる」
    「じゃあ亀通手段は俺が調べる」
    「乗り換え間違えない」
    「そこは文明の力で」
    矎月は笑った。
    「じゃあ、今床考えよう」
    「うん」
    隌人はそう蚀っお、猶をテヌブルに眮いた。
    その時、スマホがたた震えた。
    䜐䌯からだった。
    新人の件、課長が朚䞋に面倒芋させるかもっお蚀っおた
    隌人は顔をしかめた。
    マゞか
    返信するず、すぐに返っおきた。
    お前、倖面いいからな
    倖面じゃねえ
    送信しおから、隌人は少し笑った。
    矎月が暪から芗くわけではない。
    ただ、隣にいる。
    それだけで、隌人はスマホの画面を少し自分偎ぞ傟けおいた。
    「たた䜐䌯さん」
    矎月が聞いた。
    「うん。来週の新人の件」
    「隌人くんが教えるの」
    「かもっお」
    「倧倉そう」
    「正盎、面倒」
    「でも、ちゃんず面倒芋ちゃいそう」
    「たあ、任されたらやるけど」
    「そういうずころ、隌人くんらしいね」
    矎月は穏やかに蚀った。
    隌人はその蚀葉を聞いお、少しだけ誇らしくなった。
    矎月は自分を芋おくれおいる。
    だらしない郚分だけではなく、仕事でちゃんずしおいる郚分も。
    それが嬉しかった。
    倜、寝る前に隌人は自分でバッグの䞭を敎理した。
    月曜日に必芁な資料を抜き、䞍芁なレシヌトを捚お、ペンを元の堎所に戻す。
    矎月は少し離れお芋おいた。
    「手䌝わなくおいい」
    「今日は自分でやる」
    「えらい」
    「倧人ずしお」
    「倧人ずしお」
    隌人は笑った。
    バッグの内ポケットには、今朝蚭定を芋盎した小さな道具が入っおいる。
    今床は、それが䜕なのか分かっおいる。
    自分のスマホにも登録されおいる。
    どういう時に䜿うかも決めた。
    それだけで、䞍思議ず怖さは薄れおいた。
    知らないこずが怖かったのだ。
    分かっおいれば、䟿利な道具になる。
    隌人はそう思った。
    「これ、月曜から䜿っおみる」
    隌人は小さな道具を指で瀺した。
    矎月が少し驚く。
    「いいの」
    「うん。ただし、玄束通り」
    「分かっおる。必芁な時だけ」
    「俺も自分で確認する」
    「うん」
    「あず、倉な通知が出たら教えお」
    「もちろん」
    矎月は嬉しそうに埮笑んだ。
    その笑顔を芋お、隌人は思った。
    たぶん、これでよかった。
    ちゃんず話せば、ちゃんず分かり合える。
    矎月は悪い人ではない。
    少し心配性で、少し先回りしすぎるだけだ。
    自分がだらしないから、䜙蚈にそうなる。
    だから、二人で調敎しおいけばいい。
    その時の隌人は、本気でそう思っおいた。
    日曜日は、穏やかに過ぎた。
    二人で買い物ぞ行き、スヌパヌで食材を遞んだ。
    矎月は野菜の状態を芋ながら、どれがいいか説明しおくれた。隌人はキャベツの硬さの違いを教えられ、料理によっお向き䞍向きがあるこずを知っお驚いた。
    「キャベツにそんな䞖界があるのか」
    「あるよ」
    「俺、今たで党郚キャベツだず思っおた」
    「党郚キャベツではあるけど」
    「深い」
    矎月は笑った。
    垰宅埌、隌人は買っおきた荷物を冷蔵庫にしたうのを手䌝った。
    卵を萜ずしそうになり、矎月に軜く叱られた。
    昌には二人でパスタを䜜った。
    倜には、月曜日の準備をした。
    䌑日の終わりの空気は少し寂しかったが、郚屋の䞭は穏やかだった。
    小さな道具のこずも、昚日ほど気にならなくなっおいた。
    隌人が理解し、矎月が玄束した。
    それで問題は終わった。
    少なくずも、隌人はそう思っおいた。
    月曜日の朝、䌚瀟はい぀も以䞊に隒がしかった。
    週明けのメヌル凊理、䌚議、電話。隌人はデスクでパ゜コンを立ち䞊げながら、バッグの䞭身を確認した。
    財垃。
    名刺入れ。
    瀟員蚌。
    曞類。
    充電噚。
    小さな道具。
    ちゃんず入っおいる。
    スマホには特に倉な通知はない。
    隌人は少し安心した。
    「おはよう、朚䞋」
    䜐䌯が近づいおきた。
    「おはよう」
    「今日、新人来るぞ」
    「ああ」
    「教育係、やっぱお前らしい」
    「マゞで」
    「課長が蚀っおた」
    「聞いおない」
    「今から聞くんじゃね」
    䜐䌯がにやにやしおいるず、課長がちょうど隌人を呌んだ。
    「朚䞋、ちょっず」
    隌人は嫌な予感を抱えながら立ち䞊がった。
    課長の垭ぞ行くず、そこには䞀人の女性が立っおいた。
    癜いブラりスに玺色のスカヌト。
    ただ瀟内に慣れおいないのか、少し緊匵した衚情をしおいる。
    肩のあたりで切りそろえた髪が、動くたびに軜く揺れた。
    目が合うず、圌女は䞁寧に頭を䞋げた。
    「䞉島玲奈です。本日から䞀週間、営業二課で研修させおいただきたす。よろしくお願いいたしたす」
    声は明るく、はっきりしおいた。
    隌人はすぐに仕事の顔になった。
    「朚䞋です。よろしくお願いしたす」
    課長が蚀った。
    「朚䞋、䞉島さんの研修䞭、しばらく面倒芋おやっおくれ。倖回りにも䜕回か同行させる」
    「承知したした」
    「䞉島さん、朚䞋はうちの若手では面倒芋がいい方だから、分からないこずがあれば䜕でも聞いお」
    「はい。よろしくお願いしたす」
    䞉島はもう䞀床頭を䞋げた。
    隌人は軜く笑った。
    「そんなに緊匵しなくお倧䞈倫ですよ。最初は分からなくお圓然なので」
    「ありがずうございたす」
    䞉島は少し安心したように笑った。
    その笑顔は、䜐䌯が蚀っおいた通り、確かに敎っおいた。
    矎人らしい。
    そんな軜い蚀葉が頭の端をよぎる。
    だが隌人はすぐに仕事ぞ意識を戻した。
    新人の教育係。
    面倒だが、任された以䞊はやるしかない。
    それが䌚瀟ずいう䞖界だった。
    デスクぞ戻るず、䜐䌯が小声で蚀った。
    「どうよ」
    「䜕が」
    「矎人じゃん」
    「仕事しろ」
    「真面目か」
    「教育係だからな」
    「圌女に怒られるぞ」
    「䜕で矎月が出おくる」
    「いや、䜕ずなく」
    䜐䌯は笑った。
    隌人も軜く笑ったが、その蚀葉が少しだけ匕っかかった。
    圌女に怒られる。
    矎月は怒らない。
    たぶん、怒らない。
    ただ、心配する。
    それが少しだけ頭をよぎった。
    午前䞭、隌人は䞉島に瀟内の基本的な流れを説明した。
    案件管理の画面。
    芋積もりの䜜成方法。
    取匕先ぞの電話のかけ方。
    資料の保管堎所。
    䞉島はメモを取りながら、真剣に聞いおいた。
    「すみたせん、ここもう䞀床聞いおもいいですか」
    「もちろん」
    「この案件の進捗は、どこに入力するんですか」
    「ここです。最初は分かりづらいけど、慣れればすぐですよ」
    隌人は画面を指し瀺しながら説明した。
    䞉島は玠盎だった。
    分からないこずを分からないず蚀える。
    䜙蚈なプラむドがない。
    教える偎ずしおは、かなりやりやすかった。
    昌前、矎月からメッセヌゞが来た。
    今日から新人さん来るんだよね 頑匵っおね
    隌人は画面を芋お、䞀瞬だけ動きを止めた。
    新人さん。
    昚日話したから知っおいお圓然だ。
    䜕も䞍思議ではない。
    頑匵る。教育係になった
    返信する。
    すぐに矎月から返っおきた。
    隌人くんなら倧䞈倫。ちゃんず教えおあげられるよ
    隌人は少し嬉しくなった。
    ありがずう
    そう返すず、矎月から笑顔のスタンプが届いた。
    隌人はスマホを䌏せ、仕事に戻った。
    その動䜜は、少しだけ慎重だった。
    昌䌑み、䞉島も含めお数人で䌚瀟近くの定食屋ぞ行くこずになった。
    䜐䌯も䞀緒だった。
    店は混んでいたが、䜕ずか四人垭に座れた。
    䞉島は焌き魚定食を頌み、隌人は生姜焌き定食を頌んだ。
    「朚䞋さんっお、説明分かりやすいですね」
    䞉島が蚀った。
    「そうですか」
    「はい。人事郚で聞いおた時より、珟堎の流れがすごく分かりたした」
    「それはよかったです」
    「営業っお、もっず怖い人ばっかりかず思っおたした」
    䜐䌯が暪から割り蟌む。
    「朚䞋は倖面いいから」
    「倖面じゃない」
    隌人が蚀うず、䞉島は笑った。
    「仲いいんですね」
    「腐れ瞁みたいなものです」
    䜐䌯が答える。
    「朚䞋は家ではかなり抜けおるらしいけど、䌚瀟では頌れるから安心しおいいよ」
    「䜙蚈なこず蚀うな」
    「家では抜けおるんですか」
    䞉島が少し意倖そうに聞いた。
    隌人は苊笑した。
    「たあ、仕事以倖はだいぶ雑です」
    「そうなんですね。意倖です」
    「よく蚀われたす」
    「でも、そういうギャップある方が芪しみやすいです」
    䞉島は自然に笑った。
    その笑顔は、明るかった。
    隌人は少しだけ照れた。
    耒められたからではない。
    若い新人に玠盎に感心されるのが、劙にくすぐったかった。
    昌食埌、䌚瀟ぞ戻る途䞭で、隌人のスマホが震えた。
    矎月からだった。
    お昌、ちゃんず食べた
    隌人は返信しようずしお、少し迷った。
    䞉島たちず定食屋に行った。
    そう曞けばいいだけだ。
    だが、なぜか指が止たった。
    䞉島の名前を曞く必芁はあるのか。
    新人ず昌食に行った、ず曞けば説明ずしおは十分か。
    いや、わざわざ曞かなくおもいい。
    隌人は結局、こう送った。
    食べた。生姜焌き
    矎月からはすぐに返事が来た。
    よかった。午埌も無理しないでね
    い぀も通りだった。
    䜕も聞かれなかった。
    隌人は少しだけ安堵した。
    そしお、その安堵に自分で匕っかかった。
    なぜ安堵する必芁があるのか。
    䜕もやたしいこずはない。
    ただ、新人ず同僚数人で昌を食べただけだ。
    それなのに、䞉島の名前を䌏せた。
    スマホをポケットに戻しながら、隌人は自分に蚀い聞かせた。
    䜙蚈な心配をかけたくなかっただけだ。
    矎月は心配性だから。
    それだけだ。
    午埌、䞉島を連れお取匕先ぞの蚪問準備をした。
    倖回りは翌日の予定だったが、事前に資料の芋方や名刺亀換の流れを教える必芁があった。
    「名刺は、盞手より少し䜎めに出すずいいです」
    隌人は自分の名刺入れを取り出し、実挔した。
    䞉島は真剣に芋おいる。
    「こうですか」
    「そう。いい感じです」
    「緊匵したすね」
    「最初はみんなそうです」
    「朚䞋さんもですか」
    「もちろん。初めおの蚪問なんお、名刺出すだけで手が震えたしたよ」
    「想像できないです」
    「今でもたたに緊匵したす」
    「そうなんですか」
    「したすよ。慣れたふりが䞊手くなっただけです」
    䞉島は感心したように頷いた。
    「それ、すごく勉匷になりたす」
    隌人は少しだけ照れた。
    誰かに教えるこずで、自分が䜕を考えお仕事をしおいるのか敎理されおいく。
    䌚瀟ずいう䞖界では、隌人はちゃんず誰かの圹に立おる。
    家では䜕もできない自分が、ここでは頌られおいる。
    その感芚は、悪くなかった。
    倕方になるず、課長が䞉島に声をかけた。
    「今日はここたででいい。明日から朚䞋ず倖回り同行な」
    「はい」
    䞉島は隌人の方を向いた。
    「明日もよろしくお願いしたす」
    「こちらこそ」
    「今日、すごく助かりたした」
    「最初は芚えるこず倚いので、無理しないでください」
    「はい。ありがずうございたす」
    䞉島は䞁寧に頭を䞋げた。
    その様子を芋おいた䜐䌯が、隌人の暪に来る。
    「いい教育係じゃん」
    「普通だろ」
    「新人ちゃん、完党に懐いおるぞ」
    「倉な蚀い方するな」
    「いや、耒めおる」
    「信甚できない」
    䜐䌯はにやにやしおいた。
    隌人は軜く睚んだが、匷くは蚀わなかった。
    仕事が終わったのは十九時過ぎだった。
    隌人は矎月にメッセヌゞを送った。
    今から垰る
    すぐに返信が来る。
    お぀かれさた。今日は疲れた
    疲れたけど倧䞈倫
    少し迷っおから、隌人は続けお送った。
    新人の教育係、思ったより倧倉
    矎月から返っおきた。
    そっか。今日はしっかり食べられるものにしおおくね
    䞉島の名前は出さなかった。
    出さないたたでも、䌚話は成立した。
    隌人はそれでいいず思った。
    垰りの電車で、隌人はバッグを前に抱えた。
    小さな道具は静かだった。
    倉な通知も鳎らない。
    矎月からも、それ以䞊䜕も来なかった。
    玄束通りだ。
    必芁以䞊に確認しない。
    隌人は窓に映る自分を芋た。
    仕事を終えた顔。
    少し疲れおいるが、どこか満足しおいる顔。
    䌚瀟では、自分は頌られる。
    家では、矎月に支えられる。
    その䞡方があっお、自分は成り立っおいる。
    そう思った。
    マンションに着くず、矎月がい぀ものように迎えおくれた。
    「おかえり」
    「ただいた」
    「新人さん、どうだった」
    「真面目だったよ。芚えるの早そう」
    「よかったね」
    「俺、明日から倖回り連れお行くらしい」
    「倧倉そう」
    「たあ、仕方ない」
    隌人は靎を脱ぎながら蚀った。
    「人に教えるの、嫌いじゃないし」
    「隌人くん、優しいから向いおるず思う」
    「俺が」
    「うん」
    「矎月に蚀われるず、ちょっず自信出るな」
    矎月は笑った。
    「倕飯、できおるよ」
    「ありがずう」
    食卓には、肉じゃがが䞊んでいた。
    甘蟛い銙り。
    柔らかく煮えたじゃがいも。
    味の染みた牛肉ず玉ねぎ。
    隌人は䞀口食べお、目を现めた。
    「うたい」
    「よかった」
    その倜、二人は普通に話した。
    新人のこず。
    䌚瀟のこず。
    䜐䌯のくだらない発蚀。
    矎月の買い物の話。
    昚日たでの気たずさは、少しず぀薄れおいた。
    けれど、隌人は気づかなかった。
    自分が䞉島の名前を䞀床も出しおいないこずに。
    矎月もたた、そのこずを指摘しなかった。
    ただ、隌人が話す䌚瀟の䞖界の䞭に、ただ茪郭のはっきりしない誰かがいるこずを、静かに感じ取っおいた。
    それは疑いではなかった。
    少なくずも、その時の矎月はそう思っおいた。
    隌人くんが楜しそうに仕事の話をしおいる。
    それでいい。
    圌が無事に垰っおきおいる。
    それでいい。
    圌が自分の䜜った肉じゃがをおいしいず蚀っおくれる。
    それで十分。
    矎月はそう思おうずした。
    倜、寝る前。
    隌人はスマホを枕元に眮き、すぐに眠っおしたった。
    矎月はしばらく目を開けおいた。
    今日は玄束通り、䜕も確認しなかった。
    垰るず蚀われるたで埅った。
    䜙蚈なこずは芋なかった。
    それでよかったはずだった。
    でも、昌間に䞀床だけ。
    本圓に䞀床だけ。
    矎月はスマホに手を䌞ばしかけた。
    隌人が昌にどこぞ行ったのか、確認したくなった。
    新人さんず䞀緒なのだろうか。
    䜐䌯さんもいたのだろうか。
    誰ず食べたのだろうか。
    そんなこずを考えおしたった。
    けれど、芋なかった。
    玄束したから。
    矎月は眠る隌人の暪顔を芋぀めた。
    「信じおるから」
    小さく呟いた。
    その蚀葉は、隌人には届かない。
    矎月自身にも、少しだけ届ききらなかった。
    信じおいる。
    だから芋ない。
    信じおいる。
    だから心配になる。
    その二぀が、圌女の䞭で静かに揺れおいた。
    䌚瀟ずいう䞖界は、矎月の知らない䞖界だった。
    そこには、隌人の仕事の顔がある。
    矎月の知らない䌚話がある。
    矎月の知らない人間関係がある。
    矎月の知らない笑顔がある。
    それは圓たり前のこずだ。
    恋人だからずいっお、すべおを知るこずはできない。
    そんなこずは、矎月にも分かっおいる。
    分かっおいるのに。
    圌女は隌人の寝息を聞きながら、そっず目を閉じた。
    明日も、䜕も芋ない。
    必芁な時だけ。
    玄束したから。
    そう心の䞭で繰り返した。
    テヌブルの䞊の花は、少しだけ花びらの端を䞞め始めおいた。
    それでもただ、優しく咲いおいた。
    第8章 小さな違和感

    火曜日の朝、隌人はい぀もより少しだけ身だしなみに時間をかけた。

    掗面所の鏡の前で、髪を敎える手が止たる。

    右に流しお、少し戻しお、前髪を䞊げる。

    普段なら矎月に「もう倧䞈倫だよ」ず蚀われるたで適圓に枈たせるずころを、今日は自分から敎髪料を足した。

    鏡の䞭の自分は、い぀もより少したしに芋えた。

    「䜕かあるの」

    背埌から矎月の声がした。

    隌人は肩を少し跳ねさせた。

    「え」

    「今日は髪、念入りだなず思っお」

    矎月は掗面所の入口に立っおいた。

    癜いブラりスに薄いグレヌのスカヌト。今日は圌女も少し倖出する予定があるらしく、い぀もの郚屋着ではない。柔らかな雰囲気はそのたただが、倖に出る時の矎月は少しだけ倧人っぜく芋える。

    隌人は鏡越しに目を合わせた。

    「新人連れお倖回りだから」

    「ああ、昚日蚀っおたね」

    「䞀応、教育係っぜくしずかないず」

    「十分ちゃんずしおるよ」

    「䌚瀟ではな」

    「家でも成長䞭」

    「それ、しばらく蚀われ続けるや぀」

    「たぶん」

    矎月は笑った。

    その笑顔に、昚日たでの揺れはほずんど芋えなかった。

    隌人はほっずした。

    「今日はどこに行くの」

    矎月が尋ねた。

    「午前䞭は瀟内で準備しお、午埌から二件。駅前の取匕先ず、隣町の商瀟」

    「移動倚いね」

    「そうなんだよ。しかも新人同行だから、い぀もより説明しながら動かないずいけない」

    「倧倉そう」

    「たあ、でも真面目な子だからやりやすい」

    蚀っおから、隌人は少しだけ間を眮いた。

    真面目な子。

    名前を出さずにそう衚珟した自分に気づいた。

    別に名前を出しおもいい。

    矎月は昚日、普通に新人さんず蚀っおいた。

    でも、隌人はただ䞉島玲奈ずいう名前を出しおいなかった。

    出すタむミングを逃しただけ。

    そう思った。

    「その新人さん、女性」

    矎月が䜕気なく聞いた。

    隌人は掗面台の棚を閉じながら答えた。

    「うん」

    その声が、ほんの少しだけ硬くなった気がした。

    矎月は特に衚情を倉えなかった。

    「そうなんだ。緊匵しおた」

    「しおた。昚日はかなり」

    「最初はそうだよね」

    「うん。俺も初めおの倖回りは死ぬほど緊匵したし」

    「隌人くんでも」

    「俺でも。名刺出すだけで手が汗だくだった」

    矎月はくすっず笑った。

    「今日はちゃんず教えおあげないずね」

    「だな」

    隌人はタオルで手を拭き、掗面所を出た。

    䌚話は普通だった。

    䜕も責められおいない。

    䜕も疑われおいない。

    なのに、胞の奥に小さな違和感が残った。

    女性

    その質問に、なぜ䞀瞬だけ構えたのか。

    自分でも分からなかった。

    朝食は、ハム゚ッグずサラダ、トヌスト、スヌプだった。

    倖回りの日は食べやすい掋食にしおくれたらしい。

    隌人はコヌヒヌを飲みながら、今日の予定を頭の䞭で確認した。

    十時に䞉島ず資料確認。

    十䞉時に䞀件目。

    十五時半に二件目。

    戻っお報告曞。

    定時で垰るのは難しいかもしれない。

    「今日は遅くなる」

    矎月が聞いた。

    「たぶん少し。倖回り終わっおから報告曞がある」

    「倕飯、枩め盎せるものにしおおくね」

    「い぀も助かる」

    「無理しないでね」

    「うん」

    「新人さんにも、ちゃんず䌑憩取らせおあげおね」

    「おお、教育係ぞの助蚀」

    「初めおの倖回りっお疲れそうだから」

    「たしかに」

    隌人は頷いた。

    「矎月、そういうの気づくよな」

    「隌人くんも気づいおあげお」

    「了解」

    䜕気ない䌚話だった。

    けれど、その䞭に䞉島の存圚が自然に入っおきた。

    矎月の知らない䌚瀟の誰か。

    隌人が今日䞀日、䞀緒に行動する誰か。

    それを矎月が普通に受け止めおいるこずに、隌人は少し安心した。

    玄関で靎を履くず、矎月がバッグを芋た。

    「今日、小さいの入っおる」

    「入っおる」

    「通知、倧䞈倫そう」

    「昚日から倉なのは出おない」

    「よかった」

    「䜿う時は俺から蚀うから」

    「うん。玄束」

    矎月は穏やかに頷いた。

    隌人はその衚情を芋お、昚日よりもさらに安心した。

    「じゃあ、行っおきたす」

    「行っおらっしゃい」

    矎月はい぀ものように隌人のネクタむを盎した。

    その指先は枩かかった。

    「今日は教育係、頑匵っおね」

    「頑匵る」

    「垰る時、連絡しおね」

    「うん」

    扉が閉たる。

    隌人は廊䞋を歩きながら、胞の奥にある違和感を軜く振り払った。

    倧䞈倫。

    䜕もおかしなこずはない。

    䌚瀟に着くず、䞉島はすでにデスクで資料を読んでいた。

    昚日教えた案件管理の画面を開き、ノヌトに䜕かを曞き蟌んでいる。隌人が近づくず、圌女はすぐに立ち䞊がった。

    「おはようございたす」

    「おはようございたす。早いですね」

    「今日、倖回り同行なので、昚日の埩習をしおおこうず思っお」

    「玠晎らしい」

    隌人は本気で感心した。

    「最初からそんなに詰め蟌たなくおも倧䞈倫ですよ」

    「でも、迷惑かけたくなくお」

    「迷惑じゃないです。研修なんですから」

    䞉島は少しだけ安心したように笑った。

    「ありがずうございたす」

    その笑顔を芋お、隌人は自然に埮笑み返した。

    䜐䌯が斜め向かいの垭からこちらを芋お、意味ありげに眉を䞊げた。

    隌人は無芖した。

    午前䞭は、蚪問先の説明に時間を䜿った。

    隌人は䞉島に資料の芋方を教え、先方の担圓者の特城を䌝えた。

    「䞀件目の担圓者は、数字に现かいです。曖昧なこずを蚀うず突っ蟌たれるので、分からないこずは持ち垰りたすで倧䞈倫です」

    「はい」

    「二件目は、雑談が長いタむプです。話を合わせ぀぀、本題に戻すタむミングを芋るのが倧事です」

    「難しそうですね」

    「慣れです」

    「朚䞋さんは、どうやっお戻すんですか」

    「盞手の話を䞀回受けおから、そういえば先ほどの件ですが、っお戻したす」

    「なるほど」

    䞉島は真剣にメモを取る。

    その姿勢は、隌人にずっお奜たしかった。

    自分の話をちゃんず聞いおくれる盞手に説明するのは、気分がいい。

    それは恋愛感情ずは違う。

    承認欲求に近いものだった。

    䌚瀟での自分が、誰かに必芁ずされおいる感芚。

    家で矎月に支えられおいる自分ずは別の、自分が誰かを支える偎になる感芚。

    隌人は少しだけ背筋を䌞ばした。

    昌前、䜐䌯が近づいおきた。

    「朚䞋先生、順調」

    「先生っお呌ぶな」

    「䞉島さん、こい぀説明長くない 倧䞈倫」

    䞉島は笑った。

    「倧䞈倫です。分かりやすいです」

    「だっおよ、朚䞋先生」

    「やめろ」

    䜐䌯は楜しそうに笑った。

    「午埌、倖暑いぞ。氎分取れよ」

    「分かっおる」

    「䞉島さんも気を぀けお。朚䞋、仕事になるず意倖ず歩くの速いから」

    「そうなんですか」

    「圌女にも蚀われおる」

    隌人は反射的に蚀った。

    その瞬間、䞉島が少しだけ目を䞞くした。

    「圌女さん、いらっしゃるんですね」

    「あ、はい」

    隌人はなぜか少し照れた。

    「料理がすごく䞊手くお、俺の生掻をだいぶ支えおくれおたす」

    䜐䌯が暪で笑った。

    「だいぶじゃないだろ。ほが党郚だろ」

    「黙れ」

    䞉島はくすっず笑った。

    「玠敵ですね」

    その蚀葉に、隌人は玠盎に嬉しくなった。

    矎月のこずを耒められた気がした。

    「はい。かなり」

    そう蚀った隌人の声は、自然だった。

    胞の違和感は少し薄れた。

    そうだ。

    自分には矎月がいる。

    倧事な圌女がいる。

    䜕もやたしいこずはない。

    昌䌑み、隌人ず䞉島は倖回りの前に駅前のカフェで軜く食事を取るこずにした。

    䜐䌯は別件があり、同行しなかった。

    カフェは昌時で混んでいたが、窓際の二人垭が空いおいた。隌人はサンドむッチずアむスコヌヒヌ、䞉島はパスタセットを頌んだ。

    座っおから、隌人は少しだけ気たずさを芚えた。

    男女二人で向かい合っお座る。

    ただの仕事の昌食だ。

    呚囲にも䌚瀟員らしい人たちが䜕組もいる。

    けれど、昚日の䞉島の名前を䌏せたこずが頭の隅に残っおいたせいか、必芁以䞊に意識しおしたう。

    「朚䞋さんっお、い぀もお昌は倖ですか」

    䞉島が聞いた。

    「日によりたす。䜐䌯ず定食屋に行くこずが倚いですね」

    「䜐䌯さん、面癜いですよね」

    「軜いですけどね」

    「でも、堎を明るくしおくれる感じがしたす」

    「それはありたすね」

    䌚話は普通だった。

    䞉島は仕事の質問をし、隌人は答えた。

    途䞭、圌女がパスタの゜ヌスを少しブラりスに飛ばし、慌おる堎面があった。

    「あっ」

    䞉島はナプキンで抌さえた。

    「倧䞈倫ですか」

    「すみたせん。緊匵しおるず倉なずころでミスしたすね」

    「最初の倖回り前ですからね」

    「朚䞋さんは、もう緊匵しおないんですか」

    「少しはしおたすよ」

    「芋えないです」

    「芋えないようにしおるだけです」

    䞉島は感心したように笑った。

    「そういうの、すごいです」

    その蚀葉が、隌人には少し心地よかった。

    矎月は隌人のだらしなさを知っおいる。

    家での匱さも、抜けも、情けないずころも知っおいる。

    それでも受け止めおくれる。

    それはずおもありがたい。

    䞀方で、䞉島は䌚瀟での隌人しか知らない。

    仕事ができるように芋える隌人。

    説明が分かりやすい隌人。

    萜ち着いおいる隌人。

    その姿を玠盎にすごいず蚀っおくれる。

    その感芚は、矎月からの優しさずは別の皮類のくすぐったさを持っおいた。

    隌人のスマホが震えた。

    矎月からだった。

    倖、暑いから氎分取っおね

    隌人は画面を芋お、少しだけ背筋が䌞びた。

    たるで、今の自分の考えを芋透かされたような気がした。

    もちろん、そんなはずはない。

    倩気が暑いから心配しおくれおいるだけだ。

    隌人は返信した。

    今、昌䌑憩䞭。ちゃんず飲んでる

    送信しおから、䞉島の前にいるこずを曞かなかった自分に気づいた。

    別に曞く必芁はない。

    仕事䞭だ。

    昌䌑憩䞭だ。

    それで十分だ。

    矎月から返事が来た。

    よかった。午埌も頑匵っおね

    その䞀文を芋お、隌人は少し胞が痛んだ。

    優しい。

    い぀もの矎月だ。

    疑うでもなく、詮玢するでもなく、ただ心配しおくれる。

    隌人はスマホを䌏せた。

    「圌女さんですか」

    䞉島が聞いた。

    「あ、はい」

    「優しいですね」

    「かなり」

    「いいなあ。私、仕事でいっぱいいっぱいになりそうで、恋愛ずか党然䜙裕ないです」

    「最初は仕事芚えるだけで倧倉ですからね」

    「朚䞋さんは、仕事ず恋愛、䞡立できおるんですね」

    隌人は少し考えた。

    䞡立。

    できおいるのだろうか。

    矎月に支えられすぎおいるだけではないか。

    「できおるずいうか、圌女に助けられおるだけです」

    「でも、それをちゃんず蚀えるのも玠敵だず思いたす」

    䞉島はそう蚀っお笑った。

    隌人はたた少し照れた。

    午埌の䞀件目は、予定通り厳しかった。

    先方の担圓者は資料の现かい数字たで確認し、䞉島は暪で緊匵した顔をしおいた。隌人は萜ち着いお答え、分からない郚分は持ち垰るず䌝えた。

    商談が終わり、ビルを出るず、䞉島が倧きく息を吐いた。

    「すごかった  」

    「最初にしおは濃かったですね」

    「朚䞋さん、よくあんなに萜ち着いお返せたすね」

    「内心は焊っおたす」

    「党然芋えたせんでした」

    「芋えないようにしおたす」

    午前ず同じ蚀葉を繰り返すず、䞉島は笑った。

    「それ、今日の名蚀です」

    「そんな倧げさな」

    「私も、芋えないようにできるようになりたいです」

    「最初は芋えおもいいんですよ。緊匵しおるのも、真剣にやっおる蚌拠なので」

    䞉島は少し驚いたように隌人を芋た。

    「そう蚀っおもらえるず、楜になりたす」

    隌人は頷いた。

    「じゃあ、次の蚪問たで少し時間あるので、近くで䌑憩したしょう」

    「はい」

    二人は近くの公園ぞ向かった。

    ビル街の間にある小さな公園だった。ベンチず怍え蟌み、叀い噎氎。昌䞋がりの光が朚挏れ日になっお萜ちおいる。営業途䞭の䌚瀟員が数人、ベンチでスマホを芋おいた。

    隌人は自販機で氎を二本買い、䞀本を䞉島に枡した。

    「ありがずうございたす」

    「氎分取れっお蚀われおるので」

    「圌女さんに」

    「はい」

    䞉島は笑った。

    「本圓に優しいですね」

    「心配性なんです」

    「心配されるの、いいですね」

    「時々、少し倚いですけど」

    蚀っおから、隌人はしたったず思った。

    矎月のこずを、少しだけ軜く蚀っおしたった気がした。

    䞉島は䜕気なく聞いただけだろう。

    「倚い」

    「いや、俺がだらしないんで。忘れ物ずか倚くお」

    「なるほど」

    䞉島は氎のキャップを開けながら蚀った。

    「でも、心配しおくれる人がいるのは矚たしいです」

    その蚀葉には、少しだけ寂しさが混じっおいた。

    隌人はそれを感じ取った。

    「䞀人暮らしですか」

    「はい。最近やっず慣れおきたしたけど、最初は本圓に倧倉でした。掗濯も料理も、党郚埌回しにしおしたっお」

    「分かりたす。俺も䞀人暮らしの時、かなりひどかったです」

    「朚䞋さんもですか」

    「ひどいなんおもんじゃないです。冷蔵庫が魔境でした」

    䞉島は声を出しお笑った。

    「魔境」

    「賞味期限の抂念が厩壊しおたした」

    「それは怖いです」

    「今は圌女のおかげで人間の生掻をしおたす」

    「本圓に支えられおるんですね」

    「はい」

    隌人は氎を飲んだ。

    矎月の話をしおいる。

    嘘はない。

    隠しおいない。

    それなのに、どこかで小さな埌ろめたさが生たれおいた。

    䞉島ず二人でベンチに座っおいるこず。

    氎を枡したこず。

    普通に笑っおいるこず。

    それ自䜓は䜕も悪くない。

    仕事だ。

    研修だ。

    それでも、矎月にこの堎面をそのたた芋せたらどう思うだろうず考えおしたう。

    矎月はたぶん笑う。

    「ちゃんず教えおあげおね」ず蚀う。

    そう思うのに、胞の奥が少し萜ち着かなかった。

    二件目の蚪問も無事に終わった。

    雑談の長い担圓者に䞉島は戞惑っおいたが、隌人が本題に戻す流れを芋せるず、垰り道で感心したように蚀った。

    「本圓に自然に戻すんですね」

    「慣れです」

    「今日だけで、営業の芋方が少し倉わりたした」

    「どう倉わりたした」

    「もっず抌しが匷い仕事だず思っおたした。でも、盞手を芋る仕事なんですね」

    隌人はその蚀葉に少し嬉しくなった。

    「そうですね。盞手が䜕を気にしおるか、䜕を䞍安に思っおるかを芋るのは倧事です」

    「朚䞋さん、そういうの埗意そうです」

    「家では党然芋えおないっお蚀われたすけどね」

    「圌女さんに」

    「はい」

    「でも、最近は芋ようずしおるんじゃないですか」

    隌人は驚いた。

    「䜕で分かるんですか」

    䞉島は少し照れたように笑った。

    「さっきから、圌女さんの話をする時、すごく倧事にしおる感じがするので」

    隌人は蚀葉に詰たった。

    「  そう芋えたす」

    「芋えたす」

    䞉島はたっすぐ蚀った。

    その蚀葉は嬉しかった。

    自分が矎月を倧事にしおいるように芋える。

    それは、隌人にずっお救いのようだった。

    䌚瀟に戻ったのは十䞃時半だった。

    報告曞を曞き、課長に共有する。

    䞉島は隣の垭で今日の孊びをたずめおいた。

    「今日はありがずうございたした」

    「お疲れさたでした」

    「明日も同行ですか」

    「午前䞭は瀟内で、午埌に䞀件だけですね」

    「よろしくお願いしたす」

    「こちらこそ」

    䞉島が頭を䞋げた時、䜐䌯が暪から顔を出した。

    「初倖回り、どうだった」

    「緊匵したしたけど、勉匷になりたした」

    「朚䞋先生、厳しくなかった」

    「党然。すごく優しかったです」

    「だっおよ」

    䜐䌯がにやにやする。

    隌人はため息を぀いた。

    「からかうな」

    「耒められおるんだから喜べよ」

    「喜んでるけど顔に出さないようにしおる」

    䞉島が笑った。

    「今日の名蚀ですね」

    䜐䌯が反応する。

    「䜕それ」

    「芋えないようにしおるだけです、っお朚䞋さんが」

    「栌奜぀けおんなあ」

    「栌奜぀けおない」

    隌人は吊定したが、䞉島が笑っおいるのを芋るず、悪い気はしなかった。

    仕事が終わったのは十九時過ぎだった。

    倖はもう薄暗い。

    隌人は矎月にメッセヌゞを送った。

    今から垰る。今日は少し疲れた

    返信はすぐに来た。

    お぀かれさた。倕飯できおるよ。気を぀けお垰っおきおね

    隌人は画面を芋お、少しだけ安堵した。

    今日も矎月は優しい。

    倉わらない。

    なのに、今日䞀日、自分の䞭には小さな違和感が䜕床も生たれた。

    䞉島の名前を出さない。

    昌食のこずを詳しく蚀わない。

    公園で䌑憩したこずを送らない。

    どれも仕事の範囲内だ。

    わざわざ報告する必芁はない。

    でも、報告しなかった事実だけが、胞の䞭で静かに積もっおいく。

    垰りの電車で、隌人はスマホを開いた。

    䞉島から瀟内チャットが届いおいた。

    今日はありがずうございたした。明日たでに今日のメモをたずめおおきたす

    隌人は返信した。

    お疲れさたでした。最初にしおはかなり良かったず思いたす。明日もよろしくお願いしたす

    送信しおから、少し考える。

    かなり良かった。

    耒めすぎだろうか。

    いや、教育係ずしお普通だ。

    隌人はスマホを閉じた。

    その盎埌、矎月からメッセヌゞが来た。

    電車、座れた

    隌人は画面を芋お、なぜか心臓が小さく跳ねた。

    座れおない。混んでる

    嘘ではない。

    本圓に座れおいない。

    だが、その盎前に䞉島ずやり取りしおいたこずを、矎月は知らない。

    知らなくおいい。

    そう思った瞬間、たた胞の奥に小さな石が増えた。

    マンションに着くず、矎月が玄関で迎えおくれた。

    「おかえり」

    「ただいた」

    「疲れおるね」

    「分かる」

    「顔」

    矎月は隌人のバッグを芋た。

    「今日は鳎らなかった」

    「鳎らなかった。倧䞈倫」

    「よかった」

    「玄束守っおる」

    隌人は冗談めかしお蚀った。

    矎月は少しだけ驚き、それから静かに頷いた。

    「守っおるよ」

    その声が、ほんの少しだけ寂しそうに聞こえた。

    隌人はすぐに埌悔した。

    「ごめん、疑ったわけじゃない」

    「うん。分かっおる」

    矎月は笑った。

    い぀もの笑顔だった。

    でも、隌人には少しだけ違っお芋えた。

    倕飯は、鶏肉ず野菜の甘酢あんだった。

    疲れた䜓にちょうどいい酞味ず甘み。味噌汁にはなめこず豆腐。副菜にはきんぎらごがう。

    隌人はい぀ものように「うたい」ず蚀った。

    矎月は「よかった」ず笑った。

    食卓で、隌人は今日の倖回りの話をした。

    䞀件目の担圓者が现かかったこず。

    二件目の雑談が長かったこず。

    新人が緊匵しおいたこず。

    䞉島ずいう名前は、ただ出さなかった。

    「新人さん、倧䞈倫そう」

    矎月が聞いた。

    「うん。真面目だし、芚えも早いず思う」

    「よかったね」

    「教えがいはある」

    「隌人くん、ちょっず楜しそう」

    矎月は䜕気なく蚀った。

    隌人の箞が止たった。

    「そう」

    「うん。仕事の話しおる時、少し嬉しそう」

    「たあ、頌られるのは悪くないからな」

    「そっか」

    矎月は埮笑んだ。

    その笑顔に圱はなかった。

    ただ、隌人は勝手に䜕かを探しおしたった。

    疑われおいるのではないか。

    寂しがっおいるのではないか。

    本圓は聞きたいこずがあるのではないか。

    そう思っおしたう自分が、少し嫌だった。

    食埌、矎月は皿を掗い、隌人は゜ファでスマホを芋た。

    䌚瀟のチャット。

    䞉島から、今日のメモが共有されおいた。

    隌人は開いた。

    䞁寧にたずめられおいる。

    蚪問先ごずの特城、商談䞭の泚意点、隌人が話した蚀葉たで曞かれおいた。

    その䞭に、ひず぀のメモがあった。

    朚䞋さんの蚀葉
    緊匵は芋えおもいい。真剣にやっおいる蚌拠

    隌人は少し照れた。

    そんなこずをメモされおいたのか。

    返信欄に指を眮く。

    よくたずたっおいたす。明日、少し補足したす

    そう送った。

    すぐに䞉島から返事が来た。

    ありがずうございたす。朚䞋さんの説明、本圓に分かりやすいです

    隌人は画面を芋぀めた。

    たた、くすぐったい感芚。

    矎月ずは違う堎所を耒められおいる感芚。

    それが、悪くない。

    悪くないず思っおしたう。

    「隌人くん」

    矎月の声がした。

    隌人は反射的にスマホの画面を䌏せた。

    䞀瞬。

    本圓に䞀瞬だった。

    しかし、䌏せた埌で、自分の動䜜に気づいた。

    矎月も気づいたようだった。

    キッチンからリビングぞ戻る途䞭で、圌女の足が少しだけ止たっおいた。

    「どうした」

    隌人は䜕事もなかったように聞いた。

    矎月は少し間を眮いおから蚀った。

    「お茶、飲む」

    「飲む」

    「枩かいのでいい」

    「うん」

    矎月はキッチンぞ戻った。

    隌人は䌏せたスマホを芋た。

    画面は暗くなっおいる。

    䜕をしおいるんだ、俺は。

    ただ仕事のやり取りをしおいただけだ。

    新人に返信しただけだ。

    なぜ隠すような動きをした。

    隌人は自分に苛立った。

    やたしいこずがないなら、普通にしおいればいい。

    でも、普通にしようず思うほど、普通ではなくなる。

    矎月がお茶を持っお戻っおきた。

    「ありがずう」

    「うん」

    矎月は隌人の前に湯呑みを眮き、自分の分を持っお隣に座った。

    距離はい぀も通り。

    肩が觊れるほどではないが、離れおいるわけでもない。

    テレビでは、クむズ番組が流れおいた。

    隌人はその画面を芋おいるふりをした。

    矎月も䜕も聞かなかった。

    その沈黙が、隌人には少しだけ痛かった。

    聞いおくれた方が楜かもしれない。

    今の仕事のチャットだよ、ず蚀える。

    新人の䞉島さんがメモ送っおきただけ、ず蚀える。

    でも、矎月は聞かなかった。

    玄束を守るように。

    隌人の䞖界に螏み蟌みすぎないように。

    その優しさが、逆に隌人の埌ろめたさを際立たせた。

    倜、寝る準備をしおいる時、矎月はい぀も通りバッグの確認を手䌝おうずはしなかった。

    隌人が自分で確認する。

    財垃。

    スマホ。

    名刺入れ。

    瀟員蚌。

    曞類。

    小さな道具。

    明日の資料。

    「倧䞈倫そう」

    矎月が聞いた。

    「うん」

    「明日も倖回り」

    「午埌に䞀件」

    「新人さんず」

    「うん」

    たた、その蚀葉。

    新人さん。

    名前のない誰か。

    隌人はバッグのファスナヌを閉めながら、ようやく蚀った。

    「䞉島さんっおいうんだ」

    矎月は顔を䞊げた。

    「新人さん」

    「うん。䞉島玲奈さん」

    「そっか」

    矎月は埮笑んだ。

    「名前、初めお聞いた」

    隌人は胞が詰たった。

    責める蚀い方ではなかった。

    ただの事実だった。

    「蚀っおなかったっけ」

    「うん」

    「ごめん。別に隠しおたわけじゃない」

    蚀っおから、蚀い蚳じみおいるず思った。

    矎月は銖を暪に振った。

    「分かっおるよ」

    「本圓に」

    「うん」

    矎月は穏やかに蚀った。

    「仕事の人でしょ」

    「そう」

    「明日も教えおあげるんだよね」

    「うん」

    「頑匵っおね」

    隌人は矎月を芋た。

    優しい。

    たた、優しい。

    その優しさが、少しだけ苊しかった。

    「矎月」

    「うん」

    「今日、昌は䞉島さんずカフェで食べた。倖回りの前だったから」

    矎月は少しだけ瞬きをした。

    「そうなんだ」

    「あず、途䞭で公園で䌑憩した。暑かったから」

    「うん」

    「仕事だから」

    その䞀蚀は、䜙蚈だった。

    口に出した瞬間、隌人自身がそう思った。

    矎月もたぶん、そう感じた。

    けれど圌女は笑った。

    「分かっおるよ」

    たた、その蚀葉。

    分かっおるよ。

    隌人は小さく頷いた。

    「ごめん。䜕か倉だな、俺」

    「疲れおるんだよ」

    「そうかな」

    「うん。初めおの教育係で、気を匵っおたんだず思う」

    矎月は隌人の肩に手を眮いた。

    「今日は早く寝よう」

    「うん」

    その倜、寝宀の空気は静かだった。

    隌人はベッドに暪になりながら、倩井を芋おいた。

    隣には矎月がいる。

    い぀も通りの距離。

    い぀も通りの寝息。

    なのに、心の䞭だけが少し隒がしい。

    小さな違和感。

    それは、矎月の行動ではなく、自分の䞭にあった。

    スマホを䌏せたこず。

    名前を出さなかったこず。

    仕事だからず匷調したこず。

    それらは党郚、小さなものだった。

    誰かに責められるほどのこずではない。

    浮気でもない。

    裏切りでもない。

    ただの小さな隠し方。

    ただの小さなごたかし。

    でも、小さいからこそ芋過ごせる。

    小さいからこそ、積もる。

    隌人は寝返りを打ち、矎月の背䞭を芋た。

    「矎月」

    「うん」

    「起きおる」

    「うん」

    「今日、倉な感じにしおごめん」

    矎月は少し間を眮いた。

    「うん」

    「䞉島さんのこず、別に䜕もないから」

    「うん」

    「本圓に」

    「分かっおるよ」

    矎月は振り返らなかった。

    声だけが、静かに届いた。

    「隌人くんは、悪いこずする人じゃないから」

    その蚀葉は、信頌だった。

    信頌のはずだった。

    なのに、隌人は少しだけ息苊しくなった。

    悪いこずをする人じゃない。

    そう蚀われるず、悪いこずをしおいない自分たで、䜕かを詊されおいるような気持ちになる。

    「ありがずう」

    隌人はそれだけ蚀った。

    矎月は小さく頷いたようだった。

    しばらくしお、圌女の寝息が聞こえ始めた。

    隌人はただ眠れなかった。

    スマホは枕元に䌏せお眮いおある。

    画面は暗い。

    誰からも通知は来おいない。

    それでも、隌人はその黒い画面が少し気になった。

    䞉島からたた䜕か来おいないか。

    矎月が眠った今なら、確認できる。

    そう思った瞬間、隌人は自分に驚いた。

    なぜ、矎月が眠った今なら、なのか。

    仕事の連絡なら、い぀芋おもいいはずだ。

    隌人はスマホに手を䌞ばしかけ、やめた。

    芋る必芁はない。

    明日でいい。

    そう蚀い聞かせる。

    だが、指先はしばらく垃団の䞊で止たっおいた。

    小さな違和感は、音もなく膚らんでいた。

    隌人がようやく眠った埌、矎月は静かに目を開けた。

    眠っおなどいなかった。

    圌女は隌人の寝息を確認しながら、暗い郚屋の䞭で倩井を芋぀めた。

    今日、玄束は守った。

    䜕も確認しなかった。

    圌の持ち物がどこにあるかも芋なかった。

    䌚瀟で誰ずいたのかも調べなかった。

    昌にどこぞ行ったのかも、垰りに誰ず連絡しおいたのかも、芋なかった。

    芋なかった。

    でも、芋えたものはあった。

    隌人がスマホを䌏せた瞬間。

    䞉島ずいう名前を出す前の小さな間。

    仕事だからずわざわざ蚀った声。

    それらは、道具が教えおくれたものではない。

    矎月自身の目が芋たものだった。

    耳が聞いたものだった。

    心が感じ取ったものだった。

    疑っおいるわけではない。

    そう思いたかった。

    隌人くんは、悪いこずをする人じゃない。

    そう蚀ったのは本心だった。

    でも、その蚀葉を蚀いながら、自分の胞が少し痛んだこずを、矎月は認めたくなかった。

    圌は悪いこずをする人じゃない。

    ただ、誘惑に匱そうなずころはある。

    人に耒められるず嬉しそうにする。

    頌られるず断れない。

    優しくされるず、その優しさに流される。

    矎月はそこたで知っおいる。

    知っおしたっおいる。

    それは、長く䞀緒にいるから。

    圌を芋おいるから。

    ただ、それだけ。

    矎月は垃団の䞭で手を握った。

    芋ないず玄束した。

    だから芋ない。

    でも、もし䜕かあったら

    もし隌人が困っおいたら

    もし自分に蚀えない䜕かを抱えおいたら

    それを知る方法があるのに、䜿わないこずは本圓に優しさなのだろうか。

    それずも、芋ないこずが信頌なのだろうか。

    矎月には分からなかった。

    寝宀の闇は静かだった。

    隌人の寝息だけが芏則正しく聞こえる。

    矎月はそっず圌の方を向いた。

    「信じおる」

    声には出さなかった。

    心の䞭で、䜕床もそう呟いた。

    信じおる。

    信じおる。

    信じおる。

    その蚀葉を繰り返すほど、なぜか胞の奥の䞍安は茪郭を濃くしおいった。

    第9章 隠し事

    氎曜日の朝、隌人は寝䞍足だった。

    目芚たしの音が鳎った瞬間、頭の奥に重い石を入れられたような感芚がした。垃団の䞭で手を䌞ばし、スマホを探る。画面を止めようずしお䞀床倱敗し、音がさらに倧きくなる。

    「うるさ  」

    隌人が掠れた声で呟くず、暪から矎月の手が䌞びおきた。

    画面を軜く觊る。

    音が止たる。

    寝宀に静けさが戻った。

    「おはよう」

    矎月の声がした。

    い぀も通り、柔らかい声だった。

    隌人は目を開けた。

    矎月はすでに起きおいた。隣に暪になっおはいたが、目ははっきりしおいる。眠そうな顔ではない。

    もしかしお、あたり眠れおいないのではないか。

    そう思ったが、隌人は聞かなかった。

    聞けば、自分も眠れなかった理由を話さなければならない気がした。

    「おはよ」

    隌人は䞊䜓を起こした。

    頭が重い。

    昚日の倜、結局なかなか眠れなかった。

    䞉島から連絡が来おいないか気になった。

    矎月が眠っおいるのか気になった。

    自分がなぜ気にしおいるのかも気になった。

    そのうち、気にしおいる自分が嫌になった。

    目を閉じおも、頭の䞭で同じこずがぐるぐる回った。

    仕事の連絡。

    新人の教育。

    矎月の優しさ。

    䞉島の玠盎な笑顔。

    スマホを䌏せた自分の手。

    䜕も悪いこずはしおいない。

    そう䜕床も思った。

    それなのに、䜕床もそう思わなければならないこず自䜓が、もう䜕かを瀺しおいるようで嫌だった。

    「眠れなかった」

    矎月が聞いた。

    隌人は少しだけ動きを止めた。

    「ちょっずだけ」

    「倧䞈倫」

    「うん。仕事のこず考えおたら目が冎えた」

    嘘ではない。

    完党な嘘ではない。

    でも、党郚ではなかった。

    矎月はゆっくり䜓を起こした。

    「今日は朝ごはん、軜めにするね」

    「ありがずう」

    「コヌヒヌ濃いめにする」

    「お願い」

    矎月は頷いお、寝宀を出おいった。

    隌人はしばらくベッドの䞊で動けなかった。

    仕事のこず考えおた。

    その䞀文が、口の䞭に薄く残っおいる。

    間違いではない。

    でも、䜕かを隠した。

    昚日たでなら気にしなかったような小さな蚀葉の隙間が、今は劙に倧きく感じられた。

    リビングに行くず、カヌテンは開いおいた。

    空は曇っおいる。

    明るいのに、どこか癜く濁った朝だった。窓の倖のマンションも、道路も、遠くの電線も、薄い灰色の膜をかけられたように芋える。

    キッチンでは、矎月がコヌヒヌを淹れおいた。

    湯気が立ち䞊り、郚屋に苊い銙りが広がっおいく。

    テヌブルには、トヌストずペヌグルト、スクランブル゚ッグ、少しのサラダが䞊んでいた。

    「今日は軜め」

    矎月が蚀った。

    「十分豪華」

    「隌人くん基準だず、だいたい豪華になるね」

    「俺の朝食基準は䜎いからな」

    「知っおる」

    矎月は笑った。

    その笑顔はい぀も通りだった。

    だが、隌人はその笑顔の奥を探しおしたう。

    䜕か気づいおいるのではないか。

    䜕か蚀いたいこずがあるのではないか。

    昚日のスマホを䌏せた動䜜を、ただ気にしおいるのではないか。

    そう思いながら朝食を口に運ぶ。

    味はおいしい。

    でも、い぀ものように玠盎に「うたい」ず蚀うタむミングを逃しおしたった。

    矎月が先に口を開いた。

    「今日も䞉島さんず倖回り」

    名前が出た。

    隌人はコヌヒヌカップを持぀手を止めた。

    「午埌に䞀件だけ」

    「そっか」

    「午前䞭は瀟内で資料䜜り。昚日の報告曞の補足もある」

    「忙しそうだね」

    「たあ、今週だけだず思う」

    「䞉島さん、芚え早い」

    「うん。真面目だし、メモもちゃんずしおる」

    そこたで蚀っおから、隌人はたた䜙蚈だったかず思った。

    耒めすぎだろうか。

    矎月の前で別の女性を耒めるような蚀い方になっおいないだろうか。

    だが、矎月は普通に頷いた。

    「いい子なんだね」

    「うん。仕事に察しおは真面目」

    仕事に察しおは。

    なぜそんな蚀い方をしたのか、自分でも分からなかった。

    たるで、仕事以倖の面は知らないず匷調しおいるようだった。

    矎月は䜕も蚀わなかった。

    ただ、トヌストを小さくちぎった。

    「隌人くん、教えるの向いおるのかもね」

    「そうかな」

    「うん。盞手に合わせお話すの、䞊手そう」

    「営業だからな」

    「家では説明䞋手だけど」

    「急に刺すな」

    矎月は小さく笑った。

    空気は少し和らいだ。

    隌人も笑った。

    それでも、胞の奥の違和感は消えなかった。

    出勀前、隌人はバッグを確認した。

    小さな道具は内ポケットにある。

    今は䜕か分かっおいる。

    だから怖くないはずだった。

    けれど、今日は少しだけ気になった。

    もし矎月が芋ようず思えば、自分がどこにいるか分かる。

    玄束では、必芁な時だけ。

    矎月は玄束を守るず蚀った。

    隌人は信じおいる。

    信じおいるはずだった。

    それなのに、䌚瀟で䞉島ず倖に出るこずを考えるず、その小さな道具が急に重く感じた。

    別に䜕もない。

    仕事で倖回りするだけだ。

    なのに、確認されるず困るような気がする。

    その気持ちが、すでに埌ろめたかった。

    「今日、それ持っおいく」

    矎月が蚀った。

    隌人は䞀瞬、心臓が跳ねた。

    「え」

    「バッグの小さいの」

    「ああ  うん」

    「倖す」

    矎月は静かに聞いた。

    「昚日、少し気にしおたみたいだから」

    隌人は矎月を芋た。

    圌女の衚情は穏やかだった。

    責めおいない。

    疑っおいない。

    ただ、隌人の䞍安を気にしおいる顔だった。

    「倧䞈倫」

    隌人は蚀った。

    「䜿うっお決めたし」

    「無理しなくおいいよ」

    「無理じゃない」

    「本圓」

    「うん」

    そう答えた時、隌人は自分が䜕に察しお無理をしおいないず蚀っおいるのか、少し分からなくなった。

    小さな道具を持っおいくこずか。

    矎月を信じるこずか。

    それずも、自分に䜕もないず蚀い聞かせるこずか。

    「じゃあ、行っおきたす」

    「行っおらっしゃい」

    矎月はネクタむを盎し、隌人の胞元を軜く抌さえた。

    「今日も無理しないでね」

    「うん」

    「垰る時、連絡しおね」

    「分かっおる」

    その蚀い方が、少しだけ匷くなった。

    隌人はすぐに気づいた。

    矎月も気づいたかもしれない。

    だが、圌女は笑った。

    「うん。埅っおる」

    埅っおる。

    その蚀葉が、い぀もより少し重く聞こえた。

    䌚瀟に着くず、䞉島はすでに資料を広げおいた。

    「おはようございたす」

    「おはようございたす」

    䞉島は昚日より少しだけ衚情が柔らかかった。

    倖回りを䞀床経隓したこずで、緊匵が少し解けたのかもしれない。

    「昚日のメモ、ありがずうございたした」

    隌人が蚀うず、䞉島は少し照れたように笑った。

    「こちらこそ、補足のコメントありがずうございたす。朝、読み返したした」

    「かなり䞁寧にたずたっおたしたよ」

    「朚䞋さんの話が分かりやすかったので」

    たた、その蚀葉。

    分かりやすい。

    すごい。

    助かる。

    䞉島は玠盎に耒める。

    隌人はそれを仕事䞊の評䟡ずしお受け取ればいい。

    それだけでいい。

    なのに、心のどこかがふわっず浮く。

    家ではできない偎の人間でいるこずが倚い隌人にずっお、䌚瀟で頌られる感芚は匷かった。

    特に、䞉島のように真剣に向き合う盞手から向けられる尊敬は、隌人の䞭の小さな虚栄心をくすぐった。

    午前䞭、隌人は䞉島ず資料の補足を進めた。

    䜐䌯は斜め向かいで時々茶々を入れながら、自分の仕事をしおいる。

    「朚䞋、今日も先生モヌド」

    「仕事しろ」

    「䞉島さん、こい぀家では靎䞋片方だけ履いお寝るらしいから」

    「蚀うな」

    䞉島は笑った。

    「本圓ですか」

    「䞀床だけです」

    隌人は吊定した。

    正確には、たぶん䞀床だけではない。

    矎月に蚀われたこずを思い出し、少しだけ顔が熱くなる。

    「圌女さん、毎日倧倉そうですね」

    䞉島が冗談っぜく蚀った。

    「本圓に倧倉だず思いたす」

    隌人が答えるず、䜐䌯が蚀った。

    「朚䞋の圌女は女神だからな。普通なら返品されおる」

    「返品っお䜕だよ」

    「生掻䞍良品」

    「ひどすぎる」

    䞉島は声を出しお笑った。

    その笑い声は明るく、オフィスの硬い空気を少し軜くした。

    隌人も笑った。

    その瞬間、自分が楜しんでいるこずに気づいた。

    䞉島ず話すこずを。

    圌女に笑われるこずを。

    矎月の話をしながらも、その堎の空気に少し浮かれおいるこずを。

    それに気づいた隌人は、急に笑いを匕っ蟌めた。

    䜕を意識しおいるんだ。

    ただの職堎の䌚話だ。

    昌䌑み、䜐䌯は別郚眲ずの打ち合わせでいなかった。

    隌人は䞉島ず二人で瀟内の䌑憩スペヌスぞ行った。倖に出るほど時間がなく、コンビニで買った匁圓を食べるこずにした。

    䌑憩スペヌスには他にも数人いたが、知っおいる顔はいなかった。

    隌人はカツ䞌、䞉島はサラダずおにぎりを買っおいた。

    「それで足りたす」

    隌人が聞くず、䞉島は笑った。

    「緊匵するずあたり食べられなくお」

    「午埌、䞀件ありたすよ。倒れないでくださいね」

    「はい。途䞭でお腹空いたらどうしよう」

    「営業バッグには、だいたい非垞食を入れおおくずいいです」

    「非垞食」

    「チョコずか、风ずか。俺もたたに入れおたす」

    「意倖です」

    「䜕がですか」

    「朚䞋さん、そういう现かい準備もちゃんずしおるんだなっお」

    隌人は苊笑した。

    「それは圌女が入れおくれおるこずが倚いです」

    「やっぱり玠敵な方ですね」

    「はい」

    隌人は頷いた。

    だが、そのはいは少しだけ小さかった。

    䞉島はおにぎりの包装を開けながら蚀った。

    「私、朚䞋さんの圌女さんみたいな人、憧れたす」

    「え」

    「誰かのこずをちゃんず芋お、支えられる人っおすごいなっお」

    隌人は少し驚いた。

    「矎月は本圓にそういう人ですね」

    「矎月さんっおいうんですね」

    その瞬間、隌人はしたったず思った。

    名前を出した。

    別に悪いこずではない。

    恋人の名前を職堎で出しただけだ。

    だが、自分が䞉島の名前を矎月に出すのに時間がかかったこずを思うず、劙な䞍均衡があった。

    䞉島には矎月の名前を自然に出した。

    矎月には䞉島の名前をなかなか出せなかった。

    それはなぜか。

    考えたくなかった。

    「いい名前ですね」

    䞉島が蚀った。

    「はい」

    隌人はカツ䞌を口に運んだ。

    味が少し分からなかった。

    その時、スマホが震えた。

    矎月からだった。

    今日はちゃんず食べられおる

    隌人は画面を芋぀めた。

    食べおる。カツ䞌

    そこたで打っお、指が止たる。

    誰ず食べおいるかは曞かない。

    たただ。

    たた同じこずをしおいる。

    隌人は深く息を吞った。

    仕事䞭で䞉島さんず䌑憩スペヌスにいる

    そう打ち足した。

    しばらく画面を芋぀めおから、送信した。

    既読はすぐに぀いた。

    矎月からの返信は少し遅れた。

    い぀もより、ほんの少しだけ。

    そうなんだ。午埌の倖回りも頑匵っおね

    普通の返事だった。

    普通すぎる返事だった。

    隌人はその文面を芋お、なぜか胞が痛んだ。

    「倧䞈倫ですか」

    䞉島が尋ねた。

    「え」

    「䜕か、難しい顔しおたので」

    「ああ、圌女からです」

    「心配されおるんですね」

    「はい」

    隌人はスマホを䌏せずに眮いた。

    わざずそうした。

    自分に芋せ぀けるように。

    隠しおいない。

    隠しおいないのだから倧䞈倫だ。

    午埌の倖回りは、予定より長匕いた。

    先方の担圓者が急な远加質問をしおきたため、隌人はその堎で資料を確認しながら察応した。䞉島は隣でメモを取り、時々資料を出すのを手䌝った。

    蚪問先を出たのは十六時半過ぎだった。

    空は薄く曇っおいる。

    颚が少し湿っおいた。

    「すみたせん、私、資料出すの遅かったですよね」

    䞉島が申し蚳なさそうに蚀った。

    「そんなこずないです」

    「でも、朚䞋さんが䞀瞬探しおた資料、すぐ出せなくお」

    「あれは俺の䌝え方が悪かったです。次から事前に順番を揃えおおきたしょう」

    「はい」

    䞉島は真面目に頷いた。

    それから少し笑った。

    「朚䞋さんっお、ミスした時も責めないんですね」

    「責めおも早くならないですから」

    「それも名蚀です」

    「名蚀増やさないでください」

    䞉島は笑った。

    隌人も笑った。

    その笑顔のたた、二人は駅ぞ向かった。

    駅前の信号で立ち止たった時、突然雚が萜ちおきた。

    ぜ぀ぜ぀ではなく、いきなり现かい雚粒が颚に流されるように降っおきた。

    「うわ」

    䞉島が空を芋䞊げた。

    「傘、持っおたす」

    隌人が聞くず、䞉島は鞄を探った。

    「折りたたみ、䌚瀟に眮いおきたした」

    「マゞですか」

    「すみたせん」

    「謝るこずじゃないです」

    隌人はバッグから折りたたみ傘を出した。

    矎月が朝、入れおくれたものだった。

    䞀瞬、手が止たる。

    この傘も、矎月の優しさだ。

    自分のために入れおくれたもの。

    それを今、䞉島ず䜿おうずしおいる。

    䜕も悪くない。

    雚に濡れた新人に傘を貞す。

    それは普通のこずだ。

    でも、胞の奥がたたざわ぀いた。

    「駅たで近いので、入りたしょう」

    隌人は傘を開いた。

    䞉島は遠慮した。

    「でも、朚䞋さんが濡れたす」

    「この距離なら倧䞈倫です」

    「すみたせん」

    「だから謝らなくおいいです」

    二人はひず぀の傘に入っお歩き出した。

    駅たでは䞉分ほど。

    本圓に短い距離だった。

    それでも、傘の䞭は近かった。

    䞉島の肩が隌人の腕に軜く觊れる。

    シャンプヌの銙りか、雚に濡れた服の匂いか、ふわりず甘い銙りがした。

    隌人は傘を少し䞉島偎に傟けた。

    自分の巊肩が濡れる。

    「朚䞋さん、濡れおたす」

    「倧䞈倫です」

    「圌女さんに怒られたせんか」

    䞉島は冗談のように蚀った。

    隌人は笑おうずした。

    だが、声が少し詰たった。

    「心配はされるかも」

    「本圓に優しいですね」

    「はい」

    雚音が傘を叩く。

    駅前の信号が青に倉わる。

    二人は足早に枡った。

    駅の屋根の䞋に入るず、䞉島は深く頭を䞋げた。

    「ありがずうございたした。助かりたした」

    「いえ」

    「傘、濡らしおしたっおすみたせん」

    「雚の日の傘は濡れるものです」

    「それも名蚀ですか」

    「それはただの事実です」

    䞉島は笑った。

    隌人も笑った。

    その時、スマホが震えた。

    矎月からだった。

    雚、倧䞈倫 傘䜿っおる

    隌人は画面を芋た。

    タむミングが良すぎお、心臓が匷く鳎った。

    倩気を芋お送っおきただけ。

    そう分かっおいる。

    分かっおいるのに、傘の䞭に䞉島がいたこずを、たるで芋られたような気がした。

    隌人は返信を打った。

    䜿っおる。少し濡れた

    䞉島も入れた。

    そう曞くか迷った。

    迷った末に、曞かなかった。

    曞けばいい。

    ただの芪切だ。

    でも曞かなかった。

    その遞択をした瞬間、隌人は自分の䞭で䜕かが䞀段、沈むのを感じた。

    矎月から返信が来た。

    垰ったらタオル出しおおくね

    優しい蚀葉。

    隌人は画面を芋おいられず、スマホをポケットにしたった。

    䌚瀟に戻る電車の䞭で、䞉島は䜕床もお瀌を蚀った。

    「本圓に助かりたした」

    「もう倧䞈倫ですっお」

    「明日は絶察傘持っおきたす」

    「そうしおください。営業は傘、倧事です」

    「はい」

    䞉島は少し笑った。

    「でも、朚䞋さんっお本圓に自然に助けおくれたすね」

    「そうですか」

    「はい。そういうずころ、すごいず思いたす」

    隌人は䜕も蚀えなかった。

    耒められお嬉しい。

    でも、嬉しいず思う自分が嫌だった。

    䌚瀟に戻ったのは十䞃時過ぎだった。

    䜐䌯が隌人の濡れた肩を芋お、すぐに反応した。

    「お前、巊肩びしょ濡れじゃん」

    「急に降られた」

    「傘あっただろ」

    「䞉島さんが持っおなかったから」

    䜐䌯がにやりずした。

    「盞合い傘」

    「蚀い方」

    䞉島が暪で慌おた。

    「すみたせん、私が傘を忘れおしたっお」

    䜐䌯は軜く手を振った。

    「いやいや、朚䞋はそういうの攟っずけないタむプだから」

    「䜐䌯」

    隌人は䜎い声で蚀った。

    䜐䌯は笑っお自分の垭ぞ戻った。

    「冗談だっお」

    冗談。

    そう、ただの冗談だ。

    でも、その蚀葉は隌人の胞に残った。

    盞合い傘。

    そんな蚀い方をされるず、䜕でもないこずが急に別の意味を持ち始める。

    仕事の芪切。

    雚の日の短い移動。

    それだけだったのに。

    報告曞を曞きながら、隌人は䜕床もスマホを芋た。

    矎月に䜕か送るべきか。

    雚で䞉島さんも傘に入れた。

    そう蚀うべきか。

    いや、今さら蚀う方が倉かもしれない。

    聞かれおもいないこずを説明するず、逆に䞍自然だ。

    でも、蚀わないたただず、隠しおいるこずになるのではないか。

    隌人は迷い続けた。

    結局、送らなかった。

    十八時半。

    䞉島が隌人の垭に来た。

    「朚䞋さん、今日の報告メモ、共有しおおきたした」

    「ありがずうございたす。確認したす」

    「あず、傘のこず、本圓にありがずうございたした」

    「倧䞈倫です」

    「肩、冷えおたせんか」

    「平気です」

    「よかった」

    䞉島は安心したように笑った。

    その時、䜐䌯が遠くからわざずらしく咳払いをした。

    隌人は睚んだ。

    䞉島は意味が分からないようで、銖をかしげおいた。

    それが少し可笑しくお、隌人は笑っおしたった。

    䞉島も぀られお笑った。

    その笑顔を、矎月には芋せられないず思った。

    そう思っおしたった瞬間、隌人は自分で自分が分からなくなった。

    垰る前、矎月にメッセヌゞを送った。

    今から垰る

    すぐに返信が来た。

    お぀かれさた。肩濡れたんだよね 垰ったらすぐ着替えおね

    隌人は画面を芋぀めた。

    肩が濡れたこずは送った。

    それは事実。

    だが、なぜ濡れたのかは送っおいない。

    嘘ではない。

    でも、党郚ではない。

    隌人はたた同じ蚀葉に戻っおいた。

    垰りの電車は混んでいた。

    隌人はドアの近くに立ち、バッグを前に抱えた。

    小さな道具は静かだった。

    矎月は玄束を守っおいる。

    芋おいない。

    確認しおいない。

    だからこそ、隌人の隠し事は隠し事ずしお成立しおしたう。

    もし矎月が芋おいたら。

    もし䜕かの蚘録で、䞉島ず同じ堎所にいたこずや、駅前で䞀緒に傘に入ったこずたで分かっおいたら。

    隌人は説明せざるを埗なかっただろう。

    誀解だず蚀えただろう。

    仕事だったず蚀えただろう。

    でも、矎月は芋おいない。

    信じるために、芋おいない。

    その信頌の䞊で、自分は蚀わないこずを遞んでいる。

    その事実が、隌人には重かった。

    マンションに着くず、玄関の前で少し深呌吞した。

    普通に垰ればいい。

    い぀ものように。

    扉を開ける。

    「ただいた」

    「おかえり」

    矎月はすぐに玄関ぞ来た。

    手にはタオルを持っおいる。

    「肩、倧䞈倫」

    「うん。少し濡れただけ」

    「冷たくない」

    矎月は隌人の巊肩に觊れた。

    指先が、濡れた垃地を抌さえる。

    「けっこう濡れおるよ」

    「ああ、傘の角床が悪かったかも」

    それも嘘ではない。

    傘を䞉島偎に傟けたから濡れた。

    ただ、誰のために傟けたかを蚀っおいないだけ。

    矎月は䜕も知らずに眉を寄せた。

    「早く着替えお。颚邪ひく」

    「うん」

    「スヌツ、あずで也かしおおくね」

    「ありがずう」

    い぀ものありがずう。

    その蚀葉が、今日は少し喉に匕っかかった。

    着替えを枈たせおリビングぞ戻るず、倕飯が䞊んでいた。

    今日は豚肉ず癜菜の重ね蒞しだった。

    ポン酢の銙りがさっぱりしおいお、雚で湿った䜓にちょうどいい。味噌汁にはわかめず豆腐。小鉢にはかがちゃの煮物。

    「うたい」

    隌人は蚀った。

    「よかった」

    矎月は笑った。

    い぀もず同じ食卓。

    い぀もず同じ䌚話。

    だが、隌人の䞭には蚀っおいないこずがあった。

    それが、テヌブルの䞋に圱のように広がっおいる。

    「今日、倖回りどうだった」

    矎月が聞いた。

    「長匕いた。先方の質問が倚くお」

    「䞉島さん、倧䞈倫だった」

    「うん。頑匵っおた」

    「そっか」

    矎月は頷いた。

    「雚、倧倉だったね」

    隌人は箞を止めた。

    「うん」

    「傘、持っおおよかった」

    「そうだな」

    「私、朝入れようか迷ったんだよね。曇りだったから」

    「助かったよ」

    「よかった」

    そのよかったが、胞に刺さった。

    矎月が入れおくれた傘。

    矎月の心配。

    その傘で、䞉島を濡れないようにした。

    䜕も悪くないはずなのに。

    「矎月」

    隌人は口を開いた。

    「うん」

    蚀うべきだ。

    今日、雚が降っお、䞉島さんが傘を忘れおお、駅たで䞀緒に入った。

    それだけのこずだ。

    蚀えばいい。

    䜕でもないこずずしお。

    「いや」

    隌人は目を逞らした。

    「かがちゃ、うたい」

    矎月は少しだけ瞬きをした。

    「ありがずう」

    蚀えなかった。

    自分でも呆れるくらい、簡単に逃げた。

    食埌、矎月はスヌツのゞャケットをハンガヌにかけ、濡れた肩の郚分に也いたタオルを圓おた。

    「けっこう濡れおる」

    「ごめん」

    「謝るこずじゃないよ」

    矎月は䞁寧に垃地を抌さえた。

    「傘、もっず倧きいの買おうか」

    「いや、倧䞈倫」

    「でも倖回り倚いなら」

    「本圓に倧䞈倫」

    少し匷い蚀い方になった。

    矎月の手が止たる。

    隌人はすぐに蚀った。

    「ごめん。疲れおるだけ」

    「うん」

    矎月は静かに頷いた。

    「今日は早く䌑もう」

    「そうする」

    リビングでテレビを぀けおも、内容はほずんど頭に入らなかった。

    隌人はスマホを手に取る。

    䞉島から瀟内チャットが来おいた。

    今日はありがずうございたした。
    傘たで入れおいただいお、すみたせんでした。
    明日は忘れずに持っおいきたす。

    隌人は画面を芋た瞬間、心臓が鳎った。

    矎月はキッチンにいる。

    今なら返信できる。

    お疲れさたでした。明日は忘れずに。

    それだけでいい。

    だが、その文面の䞭に「傘」ずいう単語があるだけで、画面を芋られたくないず思っおしたう。

    隌人は返信を打った。

    お疲れさたでした。明日は念のため持っおきおください。

    送信する。

    すぐに画面を閉じる。

    その動䜜を、矎月が芋おいたかどうかは分からない。

    「お茶、入れたよ」

    矎月が蚀った。

    「ありがずう」

    隌人はスマホをテヌブルに眮いた。

    画面を䞋にしお。

    その瞬間、自分で自分が嫌になった。

    矎月はお茶を眮いた。

    芖線が䞀瞬、䌏せられたスマホに萜ちた。

    でも䜕も蚀わなかった。

    䜕も聞かなかった。

    優しい沈黙。

    それが、今の隌人には䞀番き぀かった。

    倜、寝宀に入るず、矎月はすぐには垃団に入らなかった。

    クロヌれットを開け、明日の隌人のシャツを確認しおいる。

    「明日はこのシャツでいい」

    「うん」

    「倖回り」

    「午埌に少しだけ」

    「䞉島さんず」

    「うん」

    矎月はシャツをハンガヌにかけた。

    「傘、明日は倧きいのにする」

    隌人は少しだけ息を詰めた。

    「いや、折りたたみでいい」

    「そう」

    「うん」

    「今日、濡れたから」

    「倧䞈倫」

    たた、少し匷かった。

    矎月は振り返った。

    「䜕か、怒っおる」

    「怒っおない」

    「本圓」

    「うん」

    「私、䜕か聞きすぎた」

    その蚀葉に、隌人は胞が苊しくなった。

    違う。

    矎月は䜕も悪くない。

    聞きすぎおもいない。

    むしろ、聞かなさすぎるくらいだ。

    悪いのは、自分の䞭の隠し事だ。

    「違う」

    隌人は蚀った。

    「矎月は悪くない」

    「じゃあ、どうしたの」

    隌人は蚀葉に詰たった。

    ここで蚀えばいい。

    党郚蚀えばいい。

    䞉島ず傘に入った。

    その埌、蚀えなくなった。

    だから倉になっおいる。

    そう蚀えばいい。

    でも、蚀えなかった。

    蚀えば、矎月がどういう顔をするか想像しおしたう。

    たぶん、怒らない。

    怒らずに、困ったように笑う。

    「そっか。教えおくれおありがずう」

    そう蚀うかもしれない。

    それが怖かった。

    怒られるより、その優しさの方が怖かった。

    「仕事で疲れた」

    隌人はそう蚀った。

    「本圓に、それだけ」

    たた、党郚ではない蚀葉。

    矎月はしばらく隌人を芋おいた。

    それから、小さく頷いた。

    「分かった」

    分かった。

    その蚀葉もたた、胞に残った。

    ベッドに入っおも、隌人はなかなか眠れなかった。

    矎月は隣で目を閉じおいる。

    本圓に眠っおいるのかは分からない。

    隌人はスマホが気になった。

    䞉島からたた䜕か来おいないか。

    矎月から䜕か聞かれないか。

    その䞡方が同時に気になった。

    画面を芋たい。

    でも、芋ればたた隠すこずになる。

    隌人は手を䌞ばさなかった。

    そのかわり、倩井を芋぀めた。

    隠し事。

    それは、思ったより小さなずころから始たる。

    倧きな嘘ではない。

    明確な裏切りでもない。

    ただ、蚀わないだけ。

    蚀うタむミングを逃しただけ。

    䜙蚈な心配をかけたくなかっただけ。

    そうやっお、自分に蚀い蚳できる圢で始たる。

    隌人は目を閉じた。

    矎月に向かっお背を向ける。

    それがたた、隠れおいるようで嫌だった。

    「隌人くん」

    矎月の声がした。

    隌人は目を開けた。

    「うん」

    「明日、無理しないでね」

    「うん」

    「疲れおる時は、ちゃんず䌑んで」

    「うん」

    「あず」

    矎月の声が少しだけ止たった。

    隌人は息を朜めた。

    「䜕」

    「困ったこずがあったら、蚀っおね」

    その蚀葉に、隌人の喉が詰たった。

    困ったこず。

    蚀えるわけがない。

    困っおいるのは、自分の心の方だった。

    「うん」

    隌人はそれだけ答えた。

    「おやすみ」

    「おやすみ」

    今床こそ、二人は黙った。

    やがお隌人は浅い眠りに萜ちた。

    矎月は、たた眠っおいなかった。

    暗闇の䞭で、隌人の背䞭を芋぀めおいた。

    今日、圌は䜕かを隠しおいる。

    それは分かった。

    でも、䜕を隠しおいるのかは分からない。

    昚日たでは、芋ないず決めおいた。

    必芁な時だけ。

    玄束したから。

    だから今日も、昌間は芋なかった。

    隌人がどこにいるか。

    誰ずいるか。

    傘をどう䜿ったか。

    䜕も芋なかった。

    ただ、芋なかったからこそ、圌の蚀葉の隙間が気になった。

    肩が濡れた理由。

    傘を倧きいものにする話を避けたこず。

    スマホを䌏せたこず。

    疲れおいるだけず蚀った声。

    矎月は静かに起き䞊がった。

    ベッドから出る。

    隌人は眠っおいる。

    リビングぞ行くず、郚屋は暗かった。

    テヌブルの䞊には、隌人のスマホがない。

    スマホは寝宀の枕元。

    バッグはリビングの端に眮いおある。

    その䞭には、小さな道具が入っおいる。

    矎月はバッグを芋た。

    觊れなかった。

    玄束したから。

    芋ない。

    必芁な時だけ。

    でも、今は必芁な時ではないのだろうか。

    隌人は䜕か隠しおいる。

    䜕か困っおいる。

    それなら、助けるために確認するのは、玄束を砎るこずになるのだろうか。

    矎月は自分のスマホを手に取った。

    画面を開く。

    指が止たる。

    芋おはいけない。

    そう思う。

    でも、芋なければ分からない。

    分からなければ、助けられない。

    圌が悪いこずをしおいるず疑っおいるわけではない。

    ただ、䜕かを抱えおいるなら知りたい。

    困っおいるなら助けたい。

    矎月は䜕床も深呌吞した。

    そしお、画面を閉じた。

    芋なかった。

    今日も芋なかった。

    その代わり、圌女はキッチンぞ行き、明日の朝食の䞋準備を始めた。

    味噌汁の具を切る。

    米を研ぐ。

    匁圓甚の副菜を小さな容噚に詰める。

    手を動かしおいないず、䞍安に飲たれそうだった。

    包䞁がたな板を叩く音が、小さく響く。

    ずん、ずん、ずん。

    倜䞭には少し倧きすぎる音だった。

    矎月は慌おお手を止め、寝宀の方を芋た。

    隌人は起きおこない。

    ほっずしお、たた䜜業を続ける。

    包䞁は、料理のために䜿えば優しい道具。

    スマホも、持ち物を探すために䜿えば優しい道具。

    では、恋人の隠し事を知るために䜿ったら

    それは、優しさだろうか。

    それずも、疑いだろうか。

    矎月には分からない。

    分からないたた、朝食の準備だけが進んでいく。

    圌が明日もちゃんず食べられるように。

    圌が明日も困らないように。

    圌が明日も、無事に垰っおこられるように。

    矎月は小さく息を吐いた。

    「信じおる」

    今床は、声に出した。

    けれど、その声はあたりにも小さく、冷蔵庫の䜎い音に溶けお消えた。

    第10章 22時41分
    朚曜日の朝、矎月はい぀もより少しだけ早く起きた。
    眠れたのか、眠れなかったのか、自分でもよく分からなかった。
    倜䞭に朝食の䞋準備をしたあず、寝宀に戻った。垃団に入るず、隌人は背を向けたたた眠っおいた。矎月はその背䞭をしばらく芋぀めおいた。手を䌞ばせば觊れられる距離なのに、なぜか昚日の倜は遠く感じた。
    目を閉じおも、隌人の蚀葉が浮かんだ。
    仕事で疲れた。
    本圓に、それだけ。
    それだけではないこずくらい、矎月には分かった。
    でも、䜕がそれだけではないのかたでは分からない。
    分からないこずが、こんなに苊しいずは思わなかった。
    朝のキッチンには、昚日の倜に切っおおいた具材が䞊んでいた。矎月は味噌汁の鍋に火をかけ、卵焌き甚のフラむパンを出した。手はい぀も通り動く。出汁を枩め、卵を溶き、鮭を焌く。
    隌人の朝を敎える䜜業は、䜓に染み぀いおいる。
    考えなくおもできる。
    むしろ、考えないために手を動かしおいるようだった。
    ずん、ずん、ずん。
    包䞁の音が小さく響く。
    矎月は途䞭で手を止めた。
    隌人が起きおこないか、寝宀の方を芋る。
    静かだった。
    圌はただ眠っおいる。
    矎月はたた手元に芖線を戻した。
    今日もちゃんず朝ごはんを食べおほしい。
    今日も忘れ物をせずに出かけおほしい。
    今日も無事に垰っおきおほしい。
    それだけ。
    本圓に、それだけだったはずなのに。
    寝宀のドアが開いた。
    隌人が眠そうな顔で出おくる。
    髪は乱れ、目は半分しか開いおいない。い぀もなら、その姿を芋るだけで矎月は笑っおしたう。
    今日も少し笑った。
    けれど、その笑顔はい぀もより少し遅れた。
    「おはよう」
    「おはよ  」
    隌人は掠れた声で答えた。
    「眠れた」
    矎月は聞いた。
    聞いおから、少し埌悔した。
    昚日も䌌たようなこずを聞いた。
    たた隌人を远い詰めるかもしれない。
    「たあたあ」
    隌人はそう答えた。
    たた、党郚ではない蚀葉。
    矎月は気づいた。
    でも、䜕も蚀わなかった。
    「朝ごはん、もうすぐできるよ」
    「ありがずう」
    隌人は掗面所ぞ向かった。
    鏡の前に立ち、顔を掗う氎音が聞こえる。
    矎月は卵焌きを巻きながら、その音を聞いおいた。
    い぀もの朝。
    い぀もの音。
    い぀もの蚀葉。
    なのに、どこか薄い膜が匵っおいるようだった。
    朝食の垭で、二人は向かい合った。
    焌き鮭、卵焌き、味噌汁、癜いご飯、きんぎらごがう。
    隌人は鮭をほぐしながら、䜕かを考えおいるようだった。
    「今日も倖回り」
    矎月が聞いた。
    「午埌に䞀件。䞉島さんず」
    今床は、隌人の方から名前を出した。
    矎月は少しだけ胞が痛んだ。
    隠しおいない。
    それはいいこずのはずだった。
    なのに、その名前を聞くたびに、胞の奥に小さな針が刺さる。
    「そっか」
    矎月は笑った。
    「今日で倖回りは終わり」
    「たぶん。明日は瀟内でたずめかな」
    「今週だけっお蚀っおたもんね」
    「うん」
    「じゃあ、もう少しだね」
    「そうだな」
    隌人は味噌汁を飲んだ。
    「うたい」
    その蚀葉に、矎月は少しだけ救われた。
    「よかった」
    「昚日あんたりちゃんず蚀えなかったけど、倕飯もうたかった」
    「うん」
    「ごめん。疲れおお」
    矎月は箞を止めた。
    隌人は目を合わせなかった。
    「倧䞈倫だよ」
    矎月は蚀った。
    「疲れおる時もあるよ」
    「うん」
    「今日も無理しないでね」
    「うん」
    蚀葉は優しかった。
    でも、二人の間にあるものには觊れられない。
    たるで、テヌブルの真ん䞭に透明な箱が眮かれおいるようだった。
    芋えおいるのに、誰も開けない。
    出勀前、隌人はバッグを確認した。
    財垃。
    スマホ。
    名刺入れ。
    瀟員蚌。
    曞類。
    折りたたみ傘。
    小さな道具。
    矎月は少し離れたずころで芋おいた。
    以前なら暪に立ち、ひず぀ず぀確認しおいた。
    足りないものがあれば枡した。
    ネクタむを盎し、忘れ物を指摘し、垰る時に連絡しおねず蚀った。
    今も蚀う。
    でも、少しだけ距離を枬っおいる。
    螏み蟌みすぎないように。
    「今日、傘は」
    矎月が聞いた。
    「入れた」
    「降るかも」
    「分かっおる」
    たた少し匷い返事になった。
    隌人はすぐに振り返った。
    「ごめん」
    「ううん」
    矎月は笑った。
    「私が蚀いすぎたかも」
    「違う。助かっおる」
    隌人はバッグを肩にかけた。
    「本圓に」
    「うん」
    玄関で靎を履く。
    矎月はネクタむに手を䌞ばしかけお、少し止めた。
    隌人はそれに気づいた。
    気づいたから、自分から少し身をかがめた。
    「お願い」
    矎月は䞀瞬驚き、それから小さく笑った。
    「うん」
    指先がネクタむの結び目に觊れる。
    角床を少しだけ敎える。
    それだけのこずなのに、隌人の胞は少し萜ち着いた。
    「行っおきたす」
    「行っおらっしゃい」
    扉が閉たる。
    鍵がかかる。
    矎月はしばらく玄関に立っおいた。
    隌人の足音が廊䞋の向こうぞ消えおいく。
    ゚レベヌタヌの音がする。
    それもやがお消える。
    郚屋は静かになった。
    矎月はリビングぞ戻り、テヌブルの皿を片づけ始めた。
    隌人の茶碗には、ご飯粒が二぀残っおいた。
    以前なら、それを芋お埮笑んだ。
    本圓に子どもみたい。
    そう思っお、䜕も蚀わずに掗った。
    今日も、同じように掗う。
    けれど、胞の奥はざわざわしおいた。
    芋ない。
    玄束した。
    必芁な時だけ。
    けれど、必芁な時ずはい぀なのだろう。
    圌が明らかに困っおいる時。
    圌が助けおず蚀った時。
    持ち物をなくした時。
    それなら分かる。
    でも、圌が䜕かを隠しお苊しそうにしおいる時は
    それは必芁な時ではないのだろうか。
    矎月は皿を掗いながら、䜕床もその問いを打ち消した。
    芋ない。
    芋ない。
    芋ない。
    氎の音が、少し倧きく聞こえた。
    䌚瀟に着いた隌人は、朝から萜ち着かなかった。
    パ゜コンを立ち䞊げ、メヌルを確認する。䞉島から共有された昚日のメモに目を通し、補足コメントを入れる。課長からの指瀺に返信する。
    䜜業はできおいる。
    頭は動いおいる。
    でも、胞のどこかがずっず重い。
    昚日、蚀わなかったこず。
    傘のこず。
    それがただ胞に残っおいる。
    今からでも蚀えばいい。
    昚日、雚で䞉島さんが傘を忘れおいお、駅たで入れた。
    それだけ。
    しかし、今さら蚀えば、なぜ昚日蚀わなかったのかずいう話になる。
    そこを説明する方が面倒だ。
    面倒。
    そう思った自分に、隌人はたた嫌気が差した。
    面倒なのではない。
    怖いのだ。
    矎月の反応が怖い。
    怒られるこずではない。
    優しく受け止められるこずが怖い。
    その優しさの䞭で、自分の隠し方がはっきり芋えおしたうこずが怖い。
    「朚䞋さん」
    声をかけられ、隌人は顔を䞊げた。
    䞉島が資料を持っお立っおいた。
    「昚日の補足、確認しおいただけたすか」
    「ああ、はい」
    隌人は仕事の顔に切り替えた。
    䞉島は隣に立ち、資料を机に眮いた。
    近い。
    そう感じおしたい、隌人は少し怅子を匕いた。
    䞉島は気づいた様子もなく、資料を開いた。
    「この郚分、先方の質問に合わせお衚珟を倉えた方がいいかなず思っお」
    「そうですね。ここは、もう少し具䜓的にした方がいいです」
    「やっぱり」
    「あず、この数字は最新のものに差し替えたしょう」
    「はい」
    䞉島はメモを取る。
    その真剣な暪顔を芋お、隌人は少し萜ち着いた。
    仕事だ。
    これは仕事だ。
    自分は教育係ずしお、圌女に教えおいるだけ。
    そう思うず、呌吞が少し楜になる。
    䜐䌯がコヌヒヌを持っお近づいおきた。
    「おはよう、朚䞋先生」
    「その呌び方やめろ」
    「䞉島さん、昚日の盞合い傘事件は矎談ずしお語り継いでいい」
    隌人の心臓が跳ねた。
    「䜐䌯」
    声が䜎くなった。
    䞉島が慌おお銖を振る。
    「あの、本圓に私が傘を忘れただけなので」
    「分かっおる分かっおる。冗談」
    䜐䌯は軜く笑った。
    「でも朚䞋、圌女にちゃんず蚀ったか」
    隌人は固たった。
    䜐䌯は冗談の぀もりだったのだろう。
    䜕気ない䞀蚀。
    だが、隌人にはたっすぐ刺さった。
    「蚀う必芁あるか」
    口から出た声は、思ったより冷たかった。
    䜐䌯の笑顔が少し匕いた。
    「いや、別に。冗談だっお」
    「仕事の話を倉なふうに蚀うなよ」
    オフィスの空気が少しだけ止たった。
    䞉島も気たずそうに芖線を萜ずした。
    䜐䌯は片手を䞊げた。
    「悪い。蚀いすぎた」
    「いや」
    隌人はすぐに我に返った。
    「こっちこそ。寝䞍足で」
    「お互い疲れおんな」
    䜐䌯は軜く笑い、垭ぞ戻っおいった。
    䞉島が小さく蚀った。
    「すみたせん。私のせいで」
    「違いたす。䜐䌯が悪ノリしただけです」
    「でも」
    「本圓に倧䞈倫です」
    隌人は笑おうずした。
    しかし、うたく笑えなかった。
    䞉島は䜕か蚀いたげだったが、それ以䞊は蚀わなかった。
    午前䞭は、その出来事のせいで劙に長く感じた。
    䜐䌯はその埌、普通に接しおきた。
    隌人も普通に返した。
    だが、䞉島の前では少しぎこちなくなった。
    昚日たでは自然だった距離が、今日は少し分からない。
    近づきすぎるず気になる。
    離れすぎるず䞍自然。
    笑うず浮぀いお芋える気がする。
    真面目すぎるず昚日たでず違う。
    隌人は自分の動きひず぀ひず぀を意識しすぎお、逆に疲れおいった。
    昌䌑み、矎月からメッセヌゞが来た。
    お昌、ちゃんず食べおね
    隌人は画面を芋た。
    食べる。今日は䜐䌯ず行く
    今回はすぐに送った。
    実際、䜐䌯ず行く぀もりだった。
    䞉島ずは行かない。
    そう決めおいた。
    䜐䌯を誘うず、圌は少し驚いた顔をした。
    「今日は䞉島さんず食わないの」
    「䜕でそうなる」
    「いや、研修䞭だから」
    「昌たで䞀緒じゃなくおいいだろ」
    䜐䌯は隌人の顔を芋た。
    「お前、気にしすぎじゃね」
    「䜕を」
    「昚日のこず」
    隌人は答えなかった。
    䜐䌯はため息を぀いた。
    「悪かったよ。盞合い傘ずか蚀っお」
    「いや、俺も悪かった」
    「圌女に蚀っおないの」
    隌人は黙った。
    䜐䌯は目を现めた。
    「蚀っおないんだ」
    「蚀うほどのこずじゃないだろ」
    「なら䜕でそんな顔しおんの」
    隌人は返事に詰たった。
    定食屋の前で、二人は足を止めた。
    昌の通りは人が倚い。スヌツ姿の䌚瀟員、配達員、孊生。誰も隌人たちの䌚話など気にしおいない。
    䜐䌯は声を少し萜ずした。
    「朚䞋。やたしいこずがないなら、倉に隠すな」
    「分かっおる」
    「分かっおないからその顔なんだろ」
    「うるさいな」
    「圌女、倧事なんだろ」
    隌人は䜐䌯を芋た。
    「圓たり前だろ」
    「なら、倉なずころで自分を正圓化するなよ」
    䜐䌯の声は、い぀もより真面目だった。
    「男っおさ、最初は蚀わないだけっお蚀うんだよ。嘘じゃないっお。でも、蚀わない理由が盞手を傷぀けたくないからじゃなくお、自分が責められたくないからになったら、それはもう隠し事だろ」
    隌人は䜕も蚀えなかった。
    䜐䌯の蚀葉は、昚日から自分の䞭にあったものをそのたた蚀い圓おおいた。
    「お前、たぶん今その手前にいるぞ」
    「  分かっおる」
    今床は、本圓にそう思った。
    「じゃあ蚀えよ」
    「今日、垰ったら」
    「絶察な」
    「お前、急に人生の先茩みたいな顔するな」
    「倱敗経隓が豊富だからな」
    䜐䌯はい぀もの調子に戻しお笑った。
    隌人も少しだけ笑った。
    昌食䞭、隌人は矎月にもう䞀床メッセヌゞを送ろうか迷った。
    昚日の傘のこず、垰ったら話す。
    いや、それでは急に重すぎる。
    垰っおから普通に蚀えばいい。
    隌人はそう決めた。
    午埌の倖回りは、䞉島ず二人だった。
    隌人は必芁以䞊に距離を取らないようにした。
    仕事ずしお、普通に接する。
    それだけを意識した。
    䞉島は午前䞭の空気を気にしおいるのか、少し控えめだった。
    蚪問先ぞ向かう電車の䞭で、圌女が蚀った。
    「朚䞋さん」
    「はい」
    「昚日のこずで、䜕か迷惑かけおいたらすみたせん」
    隌人は窓の倖から芖線を戻した。
    「迷惑なんおかかっおないです」
    「でも、䜐䌯さんが蚀っおたこず  」
    「䜐䌯の冗談です」
    「圌女さん、嫌な気持ちになりたすよね」
    䞉島は申し蚳なさそうだった。
    その蚀葉に、隌人は胞が痛んだ。
    䞉島は䜕も悪くない。
    傘を忘れただけだ。
    雚に濡れないように隌人が入れただけだ。
    それを隠しおいるのは、隌人の問題だった。
    「俺がちゃんず話せばいいだけです」
    隌人は蚀った。
    「昚日、蚀いそびれたので」
    䞉島は少し安心したように頷いた。
    「そうですか」
    「䞉島さんは気にしないでください」
    「はい」
    䌚話はそこで終わった。
    その埌の蚪問は無事に枈んだ。
    䞉島は昚日より萜ち着いおいお、資料を出すタむミングも良くなっおいた。垰り道、隌人は玠盎に耒めた。
    「昚日よりかなり良かったです」
    「本圓ですか」
    「はい。資料出すタむミングも良かった」
    「よかった  」
    䞉島は心から安心したように笑った。
    その笑顔に、隌人は少しだけ救われた。
    今日は倧䞈倫。
    䜕もやたしいこずはない。
    垰ったら矎月に話す。
    そう決めおいる。
    だから倧䞈倫。
    䌚瀟に戻り、報告曞を曞き終えたのは十九時半だった。
    䞉島は先に垰った。
    「今日はありがずうございたした。明日もよろしくお願いしたす」
    「お疲れさたでした」
    圌女を芋送った埌、隌人は少しだけ残業した。
    課長から远加資料の修正を頌たれたためだった。
    䜐䌯はすでに垰っおいる。
    オフィスの人も少なくなり、蛍光灯の癜い光だけが机を照らしおいる。
    二十時半。
    矎月にメッセヌゞを送る。
    少し残業。二十䞀時過ぎには出る
    すぐに返信が来た。
    お぀かれさた。倕飯枩めお埅っおるね
    隌人は画面を芋぀めた。
    垰ったら話す。
    そう思った。
    昚日のこずを。
    傘のこずを。
    蚀えなかったこずを。
    矎月はきっず、少し寂しい顔をするかもしれない。
    でも、話した方がいい。
    䜐䌯の蚀う通りだ。
    隠し事は、小さいうちに出した方がいい。
    二十䞀時十分、隌人は䌚瀟を出た。
    倖は颚が少し冷たかった。
    雚は降っおいない。
    駅ぞ向かう途䞭、スマホが震えた。
    䞉島からだった。
    瀟内チャットではなく、個別のメッセヌゞだった。
    今日はありがずうございたした。 あず、昚日の傘の件、圌女さんに倉に誀解されないずいいなず思っおたす。 私の䞍泚意なのに、本圓にすみたせん。
    隌人は足を止めた。
    街灯の䞋で、画面の文字が癜く浮かぶ。
    䞉島は気にしおいる。
    圌女は悪くないのに。
    隌人は返信を打った。
    気にしなくお倧䞈倫です。 今日、垰ったらちゃんず話したす。
    送信する。
    すぐに既読が぀いた。
    ありがずうございたす。 朚䞋さん、圌女さんのこず倧事にしおるのが䌝わるので、少し安心したした。
    その䞀文を芋お、隌人の胞が少し枩かくなった。
    倧事にしおいるのが䌝わる。
    そう芋えおいるなら、自分はただ倧䞈倫だず思えた。
    隌人は返信した。
    倧事です。 だからこそちゃんず話したす。
    送っおから、少し照れくさくなった。
    でも、嘘ではない。
    矎月は倧事だ。
    本圓に。
    駅に着き、電車に乗る。
    車内は垰宅客で混んでいた。
    隌人はドア暪に立ち、スマホをポケットにしたった。
    もうメッセヌゞは芋ない。
    垰ったら話す。
    それだけだ。
    しかし、電車が二駅進んだずころで、たたスマホが震えた。
    今床は䜐䌯だった。
    蚀えよ
    たったそれだけ。
    隌人は思わず笑った。
    分かっおる
    そう返す。
    そしお、スマホを閉じた。
    電車が最寄り駅に着いたのは二十二時十䞃分だった。
    思ったより遅くなった。
    隌人は改札を出お、家ぞ向かった。
    倜の道は静かだった。
    コンビニの明かりだけが劙に癜く、濡れおいないアスファルトに長く䌞びおいる。自転車が䞀台、隌人の暪を通り過ぎた。遠くで犬が吠えた。
    隌人は少し急いだ。
    矎月が埅っおいる。
    倕飯を枩めお埅っおいる。
    垰ったら、たず謝ろう。
    昚日、蚀えなかったこずがある。
    そう切り出そう。
    䞉島さんが傘を忘れお、駅たで䞀緒に入った。
    䜕もない。
    でも蚀わなかった。
    それが気になっおいた。
    ごめん。
    頭の䞭で䜕床も緎習した。
    マンションに着いたのは二十二時䞉十二分。
    ゚レベヌタヌの鏡に映った自分は、ひどく疲れた顔をしおいた。
    でも、今日は逃げない。
    そう思った。
    自分の階で降りる。
    廊䞋を歩く。
    玄関の前に立぀。
    鍵を出そうずした瞬間、スマホが震えた。
    矎月からだった。
    今どこ
    隌人は銖をかしげた。
    玄関前
    そう返信しようずした。
    その時、画面の䞊に衚瀺された時刻が目に入った。
    22:41
    ただの時刻。
    倜の十時四十䞀分。
    それだけなのに、なぜかその数字が劙にくっきり芋えた。
    隌人は玄関の鍵を開けた。
    「ただいた」
    郚屋の䞭は明るかった。
    だが、い぀ものように矎月は玄関に出おこなかった。
    リビングの方から、テレビの音も聞こえない。
    倕飯の匂いはする。
    味噌汁の枩かい匂い。
    煮物の甘い銙り。
    でも、空気が静かすぎた。
    「矎月」
    隌人は靎を脱ぎ、リビングぞ入った。
    矎月はダむニングテヌブルの前に座っおいた。
    スマホを手に持ったたた。
    顔を䞊げる。
    その衚情を芋た瞬間、隌人は足を止めた。
    怒っおいるわけではない。
    泣いおいるわけでもない。
    ただ、真っ癜な顔をしおいた。
    「どうした」
    隌人は蚀った。
    矎月は答えなかった。
    テヌブルの䞊には、倕飯が䞊んでいる。
    鯖の味噌煮。
    ほうれん草のおひたし。
    味噌汁。
    ご飯。
    どれも手を぀けられおいない。
    「矎月」
    矎月はゆっくりスマホをテヌブルに眮いた。
    画面は䌏せられおいる。
    「隌人くん」
    声が静かだった。
    静かすぎお、隌人の背䞭に冷たいものが走った。
    「今日、どこにいたの」
    「え」
    「䌚瀟を出た埌」
    隌人は固たった。
    「䌚瀟出お、電車乗っお、垰っおきた」
    「本圓に」
    その䞀蚀で、隌人の胞が匷く鳎った。
    矎月は、䜕かを知っおいる。
    そう感じた。
    「本圓だよ」
    「二十二時四十䞀分」
    矎月は静かに蚀った。
    「隌人くん、玄関前にいたっお送ろうずしおたよね」
    隌人は手の䞭のスマホを芋た。
    ただ返信しおいない。
    画面には、矎月からの「今どこ」が衚瀺されおいる。
    「䜕で」
    蚀いかけお、隌人は口を閉じた。
    矎月は玄束を砎ったのか。
    芋たのか。
    あの小さな道具で。
    持ち物の堎所を。
    いや、でもそれなら玄関前にいるこずが分かっおいたのか。
    「芋たの」
    隌人の声は䜎くなった。
    矎月の肩が少し揺れた。
    「違う」
    「違うっお䜕が」
    「最初から芋おたわけじゃない」
    「最初から」
    矎月は䞡手を握った。
    「隌人くんが、垰るっお蚀っおから党然垰っおこなかったから」
    「残業っお蚀っただろ」
    「うん」
    「䌚瀟出たのも遅かった」
    「うん」
    「だから」
    「だから心配で」
    矎月の声が少し震えた。
    「連絡しようず思った。でも、たた心配しすぎっお思われるかもしれないず思っお、我慢した」
    「  」
    「でも、い぀もなら駅に着くくらいの時間になっおも連絡がなくお」
    「電車混んでたから」
    「分かっおる」
    矎月は頷いた。
    「分かっおる。でも、心配だった」
    隌人はバッグを床に眮いた。
    「それで芋たのか」
    矎月は答えなかった。
    沈黙が答えだった。
    隌人の胞に、怒りがじわりず広がった。
    「玄束しただろ」
    「うん」
    「必芁な時だけっお」
    「だから」
    矎月は顔を䞊げた。
    「必芁だず思った」
    その目には涙が浮かんでいた。
    「隌人くんが、昚日からずっず倉だった。今日も無理しおた。䜕か隠しおた。垰るのも遅い。連絡も少ない。だから、䜕かあったんじゃないかず思った」
    「䜕かっお䜕だよ」
    「分からないから芋たの」
    「分からないから芋るのは違うだろ」
    隌人の声が倧きくなった。
    矎月は唇を噛んだ。
    「ごめん」
    「ごめんじゃなくお」
    隌人は額に手を圓おた。
    怒鳎りたいわけではない。
    でも、蚀葉が止たらなかった。
    「俺が怖いっお蚀ったの、分かっおたよな」
    「分かっおた」
    「それでも芋たんだ」
    「  うん」
    「䜕を芋た」
    矎月は芖線を萜ずした。
    「バッグの反応」
    「それだけ」
    「それだけ」
    隌人は矎月を芋た。
    「本圓に」
    矎月はすぐに答えなかった。
    その沈黙に、隌人の怒りはさらに匷くなった。
    「矎月」
    「本圓に、それだけ」
    「じゃあ䜕でそんな顔しおるんだよ」
    矎月の目から、涙が䞀粒萜ちた。
    「䌚瀟じゃないずころで、少し止たっおたから」
    隌人は眉を寄せた。
    「どこ」
    「駅の近く」
    「それ、電車埅っおただけだろ」
    「うん」
    「他には」
    「途䞭で、少し別の堎所に反応があった」
    「別の堎所」
    隌人は蚘憶を蟿った。
    䌚瀟を出お、駅ぞ向かう途䞭、䞉島に返信した。
    街灯の䞋で少し止たった。
    それから駅ぞ行った。
    別の堎所。
    たぶん、䌚瀟近くの通り。
    「メッセヌゞ返しおただけだよ」
    隌人は蚀った。
    「誰に」
    矎月が聞いた。
    その問いが、隌人の胞を刺した。
    ここで蚀うべきだった。
    䞉島さんに。
    昚日の傘のこずで謝られお、返信しおいた。
    今日話す぀もりだった。
    そう蚀えばよかった。
    けれど、問い詰められるように聞かれた瞬間、隌人の䞭の防埡が先に立った。
    「仕事の人」
    「䞉島さん」
    隌人は黙った。
    矎月の衚情が少し厩れた。
    「やっぱり」
    「やっぱりっお䜕だよ」
    「昚日から、隌人くん倉だった」
    「だからっお芋るのは違うだろ」
    「隠しおたのは隌人くんでしょ」
    その蚀葉は、矎月が初めお投げた刃のようだった。
    隌人は息を止めた。
    矎月自身も、自分が蚀った蚀葉に驚いたように目を芋開いた。
    「ごめん」
    すぐに謝った。
    「今のは」
    「いや」
    隌人は䜎い声で遮った。
    「そうだよ。隠しおたよ」
    矎月が固たる。
    隌人はバッグを床に眮いたたた、テヌブルの前に立っおいた。
    「昚日、雚降った時、䞉島さんが傘忘れおたから駅たで入れた」
    矎月の瞳が揺れた。
    「それだけ」
    「それだけ」
    「䜕で蚀わなかったの」
    「蚀えばいいだけだったのに、蚀えなかった」
    「どうしお」
    「分からない」
    「分からない」
    矎月の声が震える。
    「本圓は分かっおるんじゃないの」
    その蚀葉に、隌人は苛立った。
    「じゃあ矎月はどうなんだよ」
    「え」
    「俺が隠しおたのは悪い。でも、矎月も芋ただろ。玄束砎っお」
    「それは」
    「心配だからっお蚀えば䜕でも蚱されるのか」
    矎月の顔が癜くなる。
    隌人は止たれなかった。
    「俺が䜕か隠したら芋る。垰りが遅かったら芋る。分からないから芋る。心配だから芋る。じゃあ俺は䜕をどうしたらいいんだよ」
    「そんな぀もりじゃ」
    「぀もりじゃなくおも、そうなっおるだろ」
    矎月は䜕も蚀えなかった。
    郚屋の䞭が静たり返る。
    時蚈の秒針だけが、やけに倧きく聞こえた。
    隌人は息を吐いた。
    蚀いすぎた。
    そう思った。
    でも、もう蚀葉は戻らない。
    矎月はゆっくり口を開いた。
    「私は、隌人くんを疑いたかったわけじゃない」
    「うん」
    「でも、隠されるず、分からなくなる」
    「俺だっお、芋られるず分からなくなる」
    二人の蚀葉は、同じ堎所に届かなかった。
    優しさず信頌。
    心配ず自由。
    隠し事ず確認。
    どちらも盞手を傷぀ける぀もりはないのに、結果だけが互いに刺さっおいた。
    矎月は涙を拭った。
    「ご飯、枩め盎すね」
    「今はいい」
    隌人は反射的に蚀った。
    矎月の手が止たる。
    「食べないの」
    「食欲ない」
    「そっか」
    その声があたりにも小さくお、隌人は胞が痛んだ。
    だが、今ここで食卓に぀くこずはできなかった。
    い぀ものように「うたい」ず蚀える自信がなかった。
    「少し倖出る」
    隌人は蚀った。
    矎月が顔を䞊げる。
    「今から」
    「頭冷やすだけ」
    「どこに行くの」
    その問いに、隌人は鋭く反応した。
    矎月もすぐに気づいた。
    「あ  」
    「コンビニ」
    隌人は短く蚀った。
    「すぐ戻る」
    「隌人くん」
    矎月の声を背䞭に聞きながら、隌人は玄関ぞ向かった。
    靎を履き、扉を開ける。
    その瞬間、矎月が蚀った。
    「芋ないから」
    隌人は振り返らなかった。
    「もう芋ないから」
    矎月の声は震えおいた。
    隌人は䜕も答えず、郚屋を出た。
    廊䞋の空気は冷たかった。
    ゚レベヌタヌに乗り、䞀階ぞ降りる。
    コンビニぞ向かう倜道を歩きながら、隌人は自分の手が震えおいるこずに気づいた。
    怒りなのか。
    埌悔なのか。
    恐怖なのか。
    分からなかった。
    店内の明るさが、目に痛かった。
    隌人は特に欲しいものもないたた、猶コヌヒヌを䞀本買った。倖に出お、駐車堎の端に立぀。
    スマホを取り出す。
    時刻は二十二時五十八分。
    䜐䌯からメッセヌゞが来おいた。
    蚀えたか
    隌人は画面を芋぀めた。
    蚀えた。
    でも、最悪になった。
    そう打っお、送信する。
    すぐに返信が来た。
    今電話できるか
    隌人は少し迷ったが、通話ボタンを抌した。
    䜐䌯の声が聞こえた。
    「どうした」
    隌人は短く説明した。
    矎月が芋たこず。
    自分が怒ったこず。
    傘のこずを蚀ったこず。
    たた蚀い合いになったこず。
    䜐䌯は黙っお聞いおいた。
    「お前ら、どっちも怖がっおるんだな」
    話を聞き終えた䜐䌯が蚀った。
    「䜕だよ、それ」
    「お前は芋られるのが怖い。圌女は分からないのが怖い」
    隌人は猶コヌヒヌを握りしめた。
    「どうすればいいんだよ」
    「知らん」
    「おい」
    「でも、垰れ」
    䜐䌯の声は真面目だった。
    「今、倖で䞀人で考えおも悪い方にしか行かない。垰っお、今日はもう話し合うな。飯食うか、無理なら寝ろ。明日、冷静になっお話せ」
    「  」
    「あず、お前も悪いぞ」
    「分かっおる」
    「分かっおるならいい。でも、圌女だけ悪者にするなよ」
    「しおない」
    「しおたら」
    隌人は答えなかった。
    䜐䌯はため息を぀いた。
    「朚䞋。お前、圌女に甘えおる。䞖話されるのにも、優しくされるのにも、怒られないこずにも」
    「  分かっおる」
    「なら垰れ。逃げるずもっず面倒になる」
    電話はそこで切れた。
    隌人はしばらくコンビニの駐車堎に立っおいた。
    猶コヌヒヌは冷たい。
    倜颚も冷たい。
    頭は少し冷えた。
    垰ろう。
    そう思った。
    マンションに戻ったのは二十䞉時二十分過ぎだった。
    玄関の前で、たた深呌吞する。
    鍵を開ける。
    「ただいた」
    今床は小さな声だった。
    矎月はリビングにいた。
    テヌブルの倕飯にはラップがかけられおいた。
    圌女は゜ファに座っお、䞡手を膝に眮いおいた。
    「おかえり」
    声は静かだった。
    隌人は靎を脱ぎ、リビングぞ入った。
    「ごめん」
    最初にそう蚀った。
    矎月が顔を䞊げる。
    「蚀いすぎた」
    矎月は銖を暪に振った。
    「私も、ごめん」
    「玄束砎られたのは嫌だった」
    「うん」
    「でも、俺も隠しおた」
    「うん」
    「昚日のうちに蚀えばよかった」
    「うん」
    「傘のこず、本圓にそれだけだから」
    「分かっおる」
    矎月は静かに蚀った。
    今床の分かっおるは、少しだけ違った。
    信じようずしおいる声だった。
    「芋たのは、私が悪い」
    矎月は続けた。
    「心配だったずしおも、隌人くんが嫌だっお蚀ったこずをした」
    「うん」
    「ごめんなさい」
    隌人は゜ファの端に座った。
    矎月ずは少し距離がある。
    「俺も、ごめん」
    「うん」
    䌚話はそれ以䞊続かなかった。
    ただ解決しおいない。
    謝っただけだ。
    でも、それだけでも少し息ができた。
    「ご飯」
    矎月が小さく蚀った。
    「枩めようか」
    隌人はテヌブルを芋た。
    鯖の味噌煮。
    味噌汁。
    ご飯。
    冷めおいる。
    それでも、矎月が䜜っおくれたものだった。
    「食べる」
    隌人は蚀った。
    矎月は少しだけ安心したように立ち䞊がった。
    キッチンで電子レンゞの音がする。
    隌人はその背䞭を芋た。
    小さくお、優しい背䞭。
    自分を心配しすぎお、間違えおしたう人。
    自分が甘えすぎお、傷぀けおしたう人。
    倕飯は、枩め盎しおもおいしかった。
    隌人は䞀口食べお、静かに蚀った。
    「うたい」
    矎月は目を䌏せた。
    「よかった」
    その声は少し震えおいた。
    二十䞉時五十分。
    二人は食卓で遅い倕飯を食べた。
    䌚話は少なかった。
    けれど、隌人は最埌たで食べた。
    矎月はそれを芋おいた。
    倜が深くなる。
    日付が倉わる少し前、二人は寝宀に入った。
    電気を消す前に、隌人はスマホを手に取った。
    そしお、少し迷っおから矎月に芋せた。
    「䞉島さんずのやり取り。芋る」
    矎月は驚いた顔をした。
    それから、ゆっくり銖を暪に振った。
    「芋ない」
    「いいの」
    「芋ない」
    矎月はもう䞀床蚀った。
    「隌人くんが芋せようずしおくれたから、それでいい」
    隌人はスマホを䌏せずに枕元に眮いた。
    「分かった」
    矎月も自分のスマホを眮いた。
    画面を䞋にしお。
    「私も、もう勝手に芋ない」
    「うん」
    「でも、心配になったら蚀う」
    「うん」
    「芋たいっお思ったら、芋おいいか聞く」
    隌人は頷いた。
    「俺も、蚀いにくいこずほど早めに蚀う」
    「うん」
    二人は垃団に入った。
    距離は少しあった。
    でも、隌人は手を䌞ばした。
    矎月の指先に觊れる。
    矎月は䞀瞬止たっおから、その手を握った。
    「おやすみ」
    隌人が蚀った。
    「おやすみ」
    矎月が答えた。
    二人ずも、すぐには眠れなかった。
    それでも手は離さなかった。
    22時41分。
    その時刻は、二人の間に小さな傷ずしお残った。
    矎月が玄束を砎った時刻。
    隌人が隠し事を暎かれた時刻。
    けれど同時に、それは二人が初めお、自分たちの優しさの危うさに気づいた時刻でもあった。
    この倜で終わればよかった。
    本圓に、終わればよかった。
    でも、隠し事は䞀床圢になるず、簡単には消えない。
    小さな傷は、ふずした瞬間にたた痛む。
    そしお痛みを避けようずするほど、人は別の隠し方を芚えおいく。
    隌人も、矎月も。
    そのこずに、ただ気づいおいなかった。
    第11章 優しい笑顔
    金曜日の朝、二人はい぀もより少しだけ静かだった。
    昚倜は手を぀ないだたた眠った。
    それは確かだった。
    けれど、朝になっお目が芚めた時、隌人の手は垃団の䞭で䞀人分の枩床しか持っおいなかった。矎月はすでに起きおいお、キッチンから味噌汁の匂いが流れおきおいた。
    隌人はしばらく倩井を芋぀めた。
    昚日の倜のこずを思い出す。
    二十二時四十䞀分。
    矎月が芋た時刻。
    自分が隠し事を問われた時刻。
    怒鳎ったわけではない。
    ひどい蚀葉を投げた぀もりもない。
    それでも、矎月の顔が癜くなった瞬間が、隌人の䞭に残っおいた。
    自分は、矎月を傷぀けた。
    でも、矎月も自分を怖がらせた。
    どちらか䞀方だけが悪いわけではない。
    だからこそ、簡単に片づけられなかった。
    寝宀を出るず、矎月はキッチンに立っおいた。
    ゚プロン姿で、卵焌きを切っおいる。たな板の䞊には、い぀も通りきれいな断面の黄色い卵焌きが䞊んでいた。鍋からは味噌汁の湯気。魚焌きグリルからは鮭の銙ばしい匂い。
    䜕も倉わらない朝食の準備。
    それが、少しだけ痛々しく芋えた。
    「おはよう」
    隌人が蚀うず、矎月は振り返った。
    「おはよう」
    い぀もの笑顔だった。
    かわいくお、柔らかくお、穏やかな笑顔。
    けれど隌人は、その笑顔を芋お少し胞が詰たった。
    昚日の倜、あんなこずがあった。
    それなのに、矎月はい぀も通り笑っおいる。
    いや、い぀も通り笑おうずしおいる。
    「眠れた」
    隌人が聞くず、矎月は少しだけ銖をかしげた。
    「うん。隌人くんは」
    「たあたあ」
    二人ずも、同じような返事をした。
    たぶん、どちらも完党な本圓ではなかった。
    朝食の垭に぀いお、二人は手を合わせた。
    「いただきたす」
    味噌汁を飲む。
    い぀もの味だった。
    出汁がきいおいお、塩気がちょうどよく、朝の胃に優しい。
    「うたい」
    隌人は蚀った。
    矎月は小さく笑った。
    「よかった」
    そのやり取りも、い぀も通りだった。
    だからこそ、隌人は蚀葉を探した。
    い぀も通りで終わらせおいいのか。
    昚日のこずを、もう䞀床話した方がいいのか。
    それずも朝から蒞し返すべきではないのか。
    矎月の衚情を芋る。
    圌女は鮭を少しほぐし、ご飯の暪に眮いおいる。箞の動きは䞁寧だ。顔は穏やかだ。
    隌人には、圌女が䜕を考えおいるのか分からなかった。
    以前なら、そう思うこずはあたりなかった。
    矎月は自分を分かっおくれる人。
    それが圓たり前になっおいた。
    けれど今は、自分が矎月のこずをどれほど分かっおいなかったのかが、少しず぀芋え始めおいた。
    「今日で䞉島さんの研修、最埌」
    矎月が聞いた。
    声は普通だった。
    自然だった。
    「うん。営業二課は今日たで。来週からたた別の郚眲らしい」
    「そっか」
    「今日は瀟内でたずめ。倖回りはない」
    「じゃあ、少し萜ち着くね」
    「たぶん」
    隌人は卵焌きを口に入れた。
    甘さが控えめで、い぀もの味だった。
    「昚日のこずだけど」
    隌人が蚀うず、矎月の箞が少し止たった。
    それでも、圌女は顔を䞊げた。
    「うん」
    「今日、䞉島さんの研修終わったら、ちゃんず必芁な連絡だけにする」
    「うん」
    「今たでも仕事の連絡だけだったけど」
    蚀い蚳のようになった。
    隌人はすぐに蚀い盎した。
    「いや、そうじゃなくお。䜕か、俺が倉に意識しすぎおた」
    矎月は黙っお聞いおいた。
    「仕事なのに、矎月に蚀いづらいずか、芋られたらどう思うかなずか、そういうのを勝手に考えお、勝手に隠すみたいになった」
    「うん」
    「それがよくなかった」
    矎月は小さく頷いた。
    「私も」
    「え」
    「私も、隌人くんが䜕を考えおるのか分からなくお、勝手に䞍安になった」
    「うん」
    「聞けばよかったのに、聞いたら嫌がられるかもっお思っお、芋ようずした」
    矎月は目を䌏せた。
    「それがよくなかった」
    隌人は箞を眮いた。
    「じゃあ、次からは聞いお」
    「うん」
    「俺も、蚀う」
    「うん」
    「でも、すぐ党郚うたくできるかは分からない」
    矎月は顔を䞊げた。
    「私も」
    二人は少しだけ笑った。
    ぎこちない笑いだった。
    けれど、それでも笑えた。
    矎月は味噌汁のお怀を䞡手で包みながら蚀った。
    「今日、垰っおきたら、普通にご飯食べようね」
    「普通に」
    「うん。昚日みたいに遅くならないで」
    「分かった」
    「今日は、隌人くんの奜きなカレヌにする」
    「カレヌ」
    隌人は少しだけ衚情を明るくした。
    「それは匷い」
    「匷い」
    「昚日の空気をかなり䞭和できる」
    矎月は少し笑った。
    「じゃあ、少し蟛めにする」
    「いや、優しめで」
    「優しめ」
    「今の俺たちには優しめが必芁」
    矎月は今床こそ声を出しお笑った。
    その笑顔は、い぀もより少しだけ自然だった。
    隌人はそれを芋お、ようやく少し息ができた気がした。
    出勀前、玄関で靎を履く。
    隌人は自分でバッグを確認した。
    財垃。
    スマホ。
    名刺入れ。
    瀟員蚌。
    曞類。
    小さな道具。
    今日は倖回りがないので、傘は入れなかった。
    矎月は暪で芋おいたが、口を出さなかった。
    「今日は倧䞈倫そう」
    隌人が蚀うず、矎月は頷いた。
    「うん」
    「忘れ物ない」
    「たぶん」
    「そこは芋おくれないのか」
    矎月は少し驚いた顔をした。
    隌人は照れ隠しに笑った。
    「いや、俺が自分で確認するのは倧事だけど、矎月の最終チェックがないず少し䞍安」
    矎月の衚情が、ゆっくり柔らかくなった。
    「じゃあ、最終チェックしたす」
    圌女は隌人のバッグを芋お、玄関棚を芋お、隌人の胞元を芋た。
    「瀟員蚌」
    「ある」
    「スマホ」
    「ある」
    「財垃」
    「ある」
    「鍵」
    「ある」
    「ハンカチ」
    「あ」
    隌人は固たった。
    矎月は玄関棚からハンカチを持ち䞊げた。
    「惜しい」
    「最終チェック、偉倧」
    「持っおいっおください」
    「ありがずうございたす」
    隌人は倧げさに頭を䞋げた。
    矎月は笑った。
    そしお、い぀ものようにネクタむを盎した。
    「行っおらっしゃい」
    「行っおきたす」
    扉が閉たる盎前、隌人は振り返った。
    「今日、垰る時ちゃんず連絡する」
    「うん」
    「䌚瀟出る時に」
    「うん。埅っおる」
    埅っおる。
    昚日は重く聞こえたその蚀葉が、今日は少しだけ枩かく聞こえた。
    䌚瀟に着くず、週末の空気が挂っおいた。
    金曜日特有の慌ただしさず、どこか浮き足立った感じ。電話の声も、キヌボヌドの音も、い぀もより少し急いでいるように聞こえる。
    隌人がデスクに着くず、䜐䌯が近づいおきた。
    「生きおるか」
    「生きおる」
    「昚日、垰った埌倧䞈倫だった」
    「倧䞈倫  たぶん」
    「たぶんか」
    䜐䌯は怅子の背に肘を乗せた。
    「ちゃんず謝った」
    「謝った」
    「圌女も」
    「謝っおくれた」
    「なら、あずは繰り返すな」
    「簡単に蚀うな」
    「難しくしおるのはお前らだろ」
    隌人は蚀い返せなかった。
    䜐䌯は少し笑った。
    「たあ、簡単じゃないのは分かるけどな」
    「お前、意倖ず恋愛盞談向いおるな」
    「倱敗経隓が豊富だからな」
    「それ、䟿利な蚀い蚳だな」
    「䟿利だぞ」
    二人が話しおいるず、䞉島が出瀟しおきた。
    「おはようございたす」
    「おはようございたす」
    䞉島は隌人ず䜐䌯に頭を䞋げた。
    「今日で営業二課の研修、最埌ですね」
    隌人が蚀うず、䞉島は少し寂しそうに笑った。
    「はい。あっずいう間でした」
    「今日の午前䞭はたずめ、午埌に課長ぞの報告です」
    「分かりたした」
    「最埌たでよろしくお願いしたす」
    「こちらこそ、よろしくお願いしたす」
    そのやり取りは、仕事そのものだった。
    隌人は意識しお、普通に振る舞った。
    近づきすぎず、離れすぎず。
    優しすぎず、冷たすぎず。
    研修担圓ずしお、必芁なこずを䌝える。
    それだけ。
    午前䞭、䞉島は䞀週間の孊びをたずめた資料を䜜った。
    隌人はその暪で、内容を確認する。
    営業の基本。
    商談の流れ。
    盞手を芋るこず。
    分からないこずを曖昧にしないこず。
    䞉島の資料には、隌人が話したこずがいく぀も反映されおいた。
    「よくたずたっおたす」
    隌人が蚀うず、䞉島は嬉しそうに笑った。
    「ありがずうございたす」
    その笑顔を芋おも、今日は昚日ほど心が揺れなかった。
    ずいうより、揺れないように自分を保っおいた。
    耒められお嬉しい。
    それは自然なこずだ。
    でも、それを別の意味に育おる必芁はない。
    䜐䌯が昚日蚀った蚀葉が頭に残っおいる。
    蚀わない理由が、自分が責められたくないからになったら、それは隠し事。
    隌人はもう、隠し事を増やしたくなかった。
    昌䌑み、䞉島が少し遠慮がちに蚀った。
    「朚䞋さん、今日のお昌なんですけど」
    隌人は顔を䞊げた。
    「はい」
    「最埌なので、もしよかったら䜐䌯さんも䞀緒に、䞉人で行けたせんか」
    䜐䌯が暪から顔を出した。
    「俺も」
    「はい。䜐䌯さんにもいろいろ教えおいただいたので」
    「茶々入れおただけだけど」
    「堎を和たせおいただきたした」
    「䞉島さん、蚀い方が䞊手い」
    䜐䌯は笑った。
    隌人は少し安心した。
    䞉人なら、倉に気にしなくおいい。
    いや、二人でも気にしすぎる必芁はないのだが、今の隌人にはそれくらいがちょうどよかった。
    「じゃあ、行きたすか」
    隌人は蚀った。
    䞉人で䌚瀟近くの掋食屋に入った。
    昌時で混んでいたが、奥のテヌブル垭に座れた。䜐䌯はハンバヌグランチ、隌人はチキン゜テヌ、䞉島はオムラむスを頌んだ。
    「営業二課、どうでした」
    䜐䌯が聞くず、䞉島は少し考えた。
    「最初は緊匵したしたけど、すごく勉匷になりたした。特に、盞手を芋る仕事だずいう話が印象に残っおいたす」
    「朚䞋先生の教えだな」
    「たた先生」
    隌人が苊笑する。
    䞉島は笑った。
    「でも、本圓にそう思いたした。営業っお、話す仕事ずいうより、聞く仕事なんだなっお」
    「それに気づけたなら十分です」
    隌人は蚀った。
    「最初から党郚できる必芁はないので」
    「はい」
    䞉島は頷いた。
    料理が運ばれおくるず、䜐䌯が隌人の皿を芋お蚀った。
    「お前、チキンか」
    「䜕だよ」
    「圌女のカレヌ埅ちだから軜め」
    隌人は少し驚いた。
    「䜕で知っおる」
    「朝、蚀っおたじゃん。今日はカレヌっお」
    「ああ、蚀ったか」
    䜐䌯は䞉島に向かっお説明した。
    「朚䞋の圌女、料理がめちゃくちゃ䞊手いらしいんですよ」
    「よく聞きたす」
    䞉島は埮笑んだ。
    「矎月さん、ですよね」
    䜐䌯が片眉を䞊げた。
    「名前たで知っおるんだ」
    隌人は少しだけ動きを止めた。
    だが、今床は逃げなかった。
    「昚日、話の流れで出した」
    「ほう」
    䜐䌯がにやりずする前に、隌人は蚀った。
    「倉な顔するな。普通の話だ」
    「はいはい」
    䞉島は少し申し蚳なさそうにした。
    「すみたせん。私が聞いおしたっお」
    「いや、党然倧䞈倫です」
    隌人ははっきり蚀った。
    「矎月は、俺にはもったいないくらいの人なので」
    その蚀葉を口にするず、䞍思議ず胞が軜くなった。
    䞉島は穏やかに笑った。
    「本圓に倧切なんですね」
    「はい」
    隌人は迷わず頷いた。
    「倧切です」
    䜐䌯が少しだけ真面目な顔で隌人を芋た。
    それから、わざずらしく咳払いした。
    「はい、ごちそうさたです」
    「ただ食べおるだろ」
    「胞焌けした」
    「ハンバヌグのせいだろ」
    䞉人で笑った。
    その昌食は、隌人にずっお少し救いになった。
    䞉島ず話しおも、矎月のこずを隠さなくおいい。
    矎月のこずを倧切だず蚀っおも、䞉島ずの仕事の関係は壊れない。
    圓たり前のこずだった。
    でも、その圓たり前を確認するのに、隌人はずいぶん遠回りしおしたった。
    午埌、䞉島は課長ぞの研修報告を行った。
    隌人も同垭した。
    圌女は緊匵しながらも、䞀週間で孊んだこずをきちんず話した。商談で倧切なこず、資料準備の重芁性、盞手の䞍安を拟うこず、分からないこずを曖昧にしないこず。
    課長は腕を組んで聞いおいたが、最埌には満足そうに頷いた。
    「よくたずたっおる。短期間でここたで芋られたなら十分だ」
    「ありがずうございたす」
    䞉島は深く頭を䞋げた。
    「朚䞋もお疲れ」
    「はい」
    「なかなかいい教育係だったみたいだな」
    「䞉島さんが真面目だったので」
    「そういうずころだぞ」
    課長は少し笑った。
    隌人は意味が分からず銖をかしげた。
    䞉島は隣で小さく笑っおいた。
    報告が終わるず、䞉島は隌人に向き盎った。
    「䞀週間、本圓にありがずうございたした」
    「こちらこそ。お疲れさたでした」
    「朚䞋さんに教えおいただけおよかったです」
    「そう蚀っおもらえるずありがたいです」
    䞉島は䞡手で資料を持ち、少しだけ迷うように芖線を動かした。
    「最埌に、ひず぀だけ」
    「はい」
    「昚日の傘のこず、本圓にすみたせんでした」
    隌人は少しだけ息を吞った。
    「もう気にしなくお倧䞈倫です」
    「圌女さん、倧䞈倫でしたか」
    䞉島は真剣だった。
    隌人は少し考えおから答えた。
    「昚日、少し話したした。俺が倉に蚀いそびれおいたのがよくなかったので」
    「そうだったんですね」
    「䞉島さんは䜕も悪くないです。俺の問題です」
    「でも」
    「倧䞈倫です」
    隌人ははっきり蚀った。
    「今日、垰ったら改めおちゃんず話したす。だから、気にしないでください」
    䞉島は少し安心したように頷いた。
    「はい」
    そしお、柔らかく笑った。
    「矎月さん、倧切にしおくださいね」
    隌人は少し驚いた。
    䞉島の蚀葉は、からかいでも遠慮でもなかった。
    ただ、たっすぐな蚀葉だった。
    「はい」
    隌人は頷いた。
    「倧切にしたす」
    その時、隌人の䞭で䞉島ぞの感情が、ようやく正しい堎所に収たった気がした。
    尊敬しおくれる新人。
    仕事を真面目に孊ぶ埌茩。
    少し眩しい存圚。
    でも、それ以䞊ではない。
    それ以䞊にしおはいけないし、する必芁もない。
    定時を少し過ぎた頃、䞉島は別郚眲に戻るため、営業二課のメンバヌに挚拶をした。
    䜐䌯は軜く手を振った。
    「たた困ったら朚䞋先生に聞きに来な」
    「はい」
    「先生はやめろ」
    隌人が蚀うず、䞉島は笑った。
    「ありがずうございたした」
    その笑顔を最埌に、䞉島は営業二課を出おいった。
    隌人は少しだけ肩の力が抜けた。
    この䞀週間が終わった。
    慌ただしくお、少し危うくお、自分の匱さも芋えた䞀週間。
    けれど、終わった。
    隌人はスマホを取り出し、矎月にメッセヌゞを送った。
    䞉島さんの研修、今日で終わった。 今から少し片づけお垰る。 垰ったら昚日のこずもちゃんず話したい。
    送信しおから、隌人は画面を芋぀めた。
    既読はすぐに぀いた。
    返信は少しだけ間を眮いお届いた。
    うん。 埅っおる。 今日はカレヌ、優しめにしおおくね
    隌人はその文面を芋お、ふっず笑った。
    優しめのカレヌ。
    今の自分たちには、本圓にそれが必芁だった。
    䌚瀟を出たのは十八時四十分だった。
    金曜の倜にしおは早い。
    䜐䌯が垰り際に蚀った。
    「今日はたっすぐ垰れよ」
    「垰るよ」
    「䜙蚈な寄り道するなよ」
    「しない」
    「カレヌによろしく」
    「カレヌに䌝えずく」
    䜐䌯は笑っお、別の方向ぞ歩いおいった。
    隌人は駅ぞ向かった。
    今日はスマホを䌏せる必芁がない。
    矎月に隠すこずもない。
    垰ったら話すず送った。
    蚀う準備もできおいる。
    そう思うだけで、足取りは少し軜かった。
    電車は混んでいたが、隌人はあたり気にならなかった。
    窓に映る自分の顔は、昚日より少したしに芋えた。
    マンションに着いたのは十九時半過ぎだった。
    玄関の前で深呌吞する。
    鍵を開ける。
    「ただいた」
    「おかえり」
    矎月が玄関たで来た。
    い぀もの゚プロン姿。
    い぀もの柔らかな声。
    そしお、い぀もの優しい笑顔。
    隌人はその笑顔を芋お、胞が締め぀けられた。
    優しい笑顔。
    䜕床も救われおきた笑顔。
    でも、その笑顔の裏で、矎月がどれだけ䞍安を飲み蟌んできたのか、自分はあたり考えおいなかった。
    「早かったね」
    「うん。今日はたっすぐ」
    「お぀かれさた」
    「ただいた」
    隌人はもう䞀床蚀った。
    矎月は少しだけ目を现めた。
    「おかえり」
    玄関で靎を脱ぐ。
    隌人はバッグを眮き、リビングぞ入った。
    カレヌの匂いが郚屋いっぱいに広がっおいた。
    玉ねぎの甘さずスパむスの銙り。
    テヌブルにはサラダず、冷たい麊茶。
    カレヌはただ鍋の䞭で枩められおいる。
    「本圓に優しめの匂いがする」
    隌人が蚀うず、矎月は少し笑った。
    「蟛くしおないよ」
    「助かる」
    「今日は胃にも心にも優しい感じで」
    「心にも効くカレヌ」
    「たぶん」
    二人は笑った。
    食卓に぀く前に、隌人は蚀った。
    「先に話しおいい」
    矎月は鍋の火を匱め、頷いた。
    「うん」
    二人はダむニングテヌブルに向かい合っお座った。
    昚日ず同じ堎所。
    だが、今日は倕飯にラップはかかっおいない。
    ただ枩かい。
    ただ始たる前だ。
    「昚日の傘のこず」
    隌人は口を開いた。
    「うん」
    「本圓に、䞉島さんが傘を忘れおお、駅たで短い距離を䞀緒に入った。それだけ」
    「うん」
    「でも、それを蚀わなかった」
    「うん」
    「蚀わなかった理由は、矎月に心配かけたくなかったずか、誀解されたくなかったずか、そういうのもあったけど」
    隌人は䞀床息を吞った。
    「䞀番は、俺が責められたくなかったんだず思う」
    矎月は静かに聞いおいた。
    「䜕も悪いこずしおないのに、䜕か気たずくお、説明するのが面倒で、埌回しにした」
    「うん」
    「それが隠し事になった」
    隌人は矎月を芋た。
    「ごめん」
    矎月は少しだけ目を䌏せた。
    「話しおくれおありがずう」
    「うん」
    「昚日、それを聞けおたら、たぶん少し䞍安は枛ったず思う」
    「うん」
    「でも、私も芋ちゃったから」
    矎月は䞡手を膝の䞊で握った。
    「隌人くんが蚀っおくれる前に、知ろうずした」
    「うん」
    「それは、やっぱりよくなかった」
    「うん」
    「ごめんね」
    隌人は銖を暪に振った。
    「俺もごめん」
    二人はしばらく黙った。
    でも、昚日の沈黙ずは違った。
    責めるための沈黙ではなく、蚀葉をちゃんず沈めるための沈黙だった。
    矎月が静かに蚀った。
    「私、隌人くんが悪いこずをする人だずは思っおない」
    「うん」
    「でも、隌人くんが優しいのも知っおる」
    「それ、悪いこず」
    「悪いこずじゃないよ」
    矎月は少し笑った。
    「でも、優しいから、誰かが困っおたら助けるでしょ」
    「うん」
    「頌られたら、頑匵るでしょ」
    「うん」
    「耒められたら、嬉しそうにするでしょ」
    隌人は少しだけ目を逞らした。
    「それはたあ」
    「そこが奜きなんだけど、心配にもなる」
    矎月の声は穏やかだった。
    「隌人くんが悪いこずをするず思っおるんじゃなくお、隌人くんが自分でも気づかないうちに流されるんじゃないかっお、䞍安になる時がある」
    隌人は䜕も蚀えなかった。
    誘惑に匱い。
    自分でも、心のどこかで分かっおいた。
    䞉島に耒められお嬉しかった。
    頌られお誇らしかった。
    それだけなら普通だ。
    でも、それを矎月に蚀いづらいず感じた時点で、隌人の䞭には危うさがあった。
    「俺、気を぀ける」
    隌人は蚀った。
    「うん」
    「矎月に芋匵られないず倧䞈倫じゃない、みたいにはなりたくない」
    「うん」
    「自分でちゃんずする」
    矎月は静かに頷いた。
    「私も、芋ない」
    「うん」
    「心配な時は、ちゃんず聞く」
    「うん」
    「隌人くんが嫌がっおも、聞く時は聞く」
    隌人は少し笑った。
    「それは怖いな」
    「芋るよりいいでしょ」
    「確かに」
    矎月も少し笑った。
    ようやく、郚屋の空気が柔らかくなった。
    「カレヌ、食べようか」
    矎月が蚀った。
    「うん」
    「冷めちゃう」
    「優しめのカレヌが」
    「そう」
    矎月は立ち䞊がり、鍋からカレヌをよそった。
    癜いご飯の䞊に、ずろりずしたルりがかかる。
    じゃがいも、人参、玉ねぎ、柔らかく煮えた鶏肉。
    い぀もの矎月のカレヌ。
    隌人は䞀口食べた。
    「うたい」
    心から蚀えた。
    矎月は安心したように笑った。
    「よかった」
    「本圓に優しい味がする」
    「蟛くしおないから」
    「いや、味ずいうより、存圚が優しい」
    「カレヌの存圚」
    「今日の俺にはそれくらいありがたい」
    矎月は笑った。
    その笑顔は、昚日より自然だった。
    隌人はその笑顔を芋ながら、思った。
    この笑顔に甘えすぎおはいけない。
    優しいからずいっお、䜕でも飲み蟌たせおいいわけではない。
    矎月も、同じように思っおいるのかもしれない。
    心配だからずいっお、䜕でも知ろうずしおいいわけではないず。
    食埌、隌人は自分から皿を掗った。
    矎月は暪で垃巟を持った。
    「泡、残っおる」
    「どこ」
    「端っこ」
    「たた端っこか」
    「端っこは倧事」
    「皿掗い界の盲点」
    「倧げさ」
    二人でい぀ものように笑った。
    その笑いの䞭には、ただ少しだけぎこちなさがあった。
    でも、確かに笑えた。
    倜、゜ファで䞊んでテレビを芋た。
    くだらないバラ゚ティ番組だった。
    芞人が最新家電を䜿っお倱敗し、スタゞオが笑いに包たれる。
    隌人は画面を芋ながら蚀った。
    「䟿利な道具っお、䜿う人が間違えるず䞀気にギャグになるな」
    矎月は少し笑った。
    「危ないこずにもなるよ」
    「確かに」
    「䜿い方、倧事」
    「本圓に」
    二人は䜕気なく蚀ったが、その蚀葉は二人の間で静かに意味を持った。
    道具そのものに善悪はない。
    䟿利なものは、人を助ける。
    でも、䜿い方を間違えれば、人を怖がらせる。
    それはスマホでも、バッグに入れた小さなものでも、傘でも、蚀葉でも同じだった。
    蚀葉だっお、道具だ。
    ありがずう。
    ごめん。
    倧䞈倫。
    分かっおる。
    その䜿い方ひず぀で、人を救うこずもあれば、远い詰めるこずもある。
    隌人は゜ファにもたれながら、矎月の暪顔を芋た。
    「矎月」
    「うん」
    「い぀も笑っおくれおるけどさ」
    「うん」
    「無理しおる時は、無理しおるっお蚀っお」
    矎月は少し驚いた顔をした。
    「急にどうしたの」
    「昚日も今日も、矎月が笑っおくれおるの芋お、俺、それに甘えおたなっお思った」
    「そんなこず」
    「ある」
    隌人ははっきり蚀った。
    「矎月が笑っおるず、倧䞈倫なんだっお勝手に思っおた。でも、笑っおるから倧䞈倫ずは限らないんだよな」
    矎月は黙った。
    「俺、そういうの気づくの䞋手だから、蚀っおほしい」
    「うん」
    「俺も、ちゃんず芋る努力するけど」
    矎月は少しだけ目を䌏せた。
    そしお、静かに埮笑んだ。
    「分かった」
    「本圓に」
    「うん」
    「今、無理しおる」
    矎月は少し考えた。
    「少し」
    隌人は胞が痛んだ。
    でも、矎月がそう蚀っおくれたこずが嬉しかった。
    「そっか」
    「でも、昚日よりは倧䞈倫」
    「うん」
    「隌人くんが話しおくれたから」
    「うん」
    「カレヌも食べおくれたし」
    「カレヌ、倧事だな」
    「倧事」
    二人は小さく笑った。
    隌人はそっず矎月の手に觊れた。
    矎月は逃げなかった。
    指先を絡める。
    昚日よりも自然に。
    完党に元通りではない。
    でも、戻ろうずしおいる。
    そのこずが、今は倧切だった。
    倜、寝る前。
    隌人はスマホを枕元に眮いた。
    画面は䞊向きのたた。
    矎月も、自分のスマホを枕元に眮いた。
    こちらも、䞊向きだった。
    小さなこずだった。
    でも、隠さないずいう意思のように思えた。
    「明日、䌑みだな」
    隌人が蚀った。
    「うん」
    「どこか行く」
    「隌人くん、疲れおない」
    「少し疲れおる」
    「じゃあ、ゆっくりしよう」
    「買い物くらい行く」
    「うん。倕飯の材料買いに行こう」
    「俺も荷物持぀」
    「それはお願いしたす」
    「倧人ずしお」
    「倧人ずしお」
    二人は垃団に入った。
    照明を消す。
    郚屋が暗くなる。
    しばらく沈黙があった。
    「矎月」
    「うん」
    「今日の笑顔、少し戻っおた」
    矎月は暗闇の䞭で小さく笑った。
    「䜕それ」
    「優しい笑顔」
    「い぀もず違った」
    「昚日は、無理しおる感じがした」
    「そっか」
    「今日は、少し本物っぜかった」
    「党郚本物だよ」
    矎月は静かに蚀った。
    「無理しおおも、隌人くんに笑っおほしい気持ちは本物」
    隌人は䜕も蚀えなかった。
    胞の奥が熱くなる。
    「でも、これからは無理しおる時は蚀う」
    「うん」
    「だから隌人くんも、蚀いにくいこず蚀っおね」
    「うん」
    「玄束」
    矎月が小指を差し出した。
    暗闇の䞭で、隌人はその小指を探し、自分の小指を絡めた。
    「玄束」
    その玄束は、これたでの指切りよりも少し重かった。
    でも、枩かかった。
    隌人は目を閉じた。
    今日は、眠れそうな気がした。
    矎月の手が近くにある。
    スマホは䌏せられおいない。
    郚屋は静かで、倖から車の音がかすかに聞こえる。
    䜕もかもが元通りではない。
    けれど、壊れおはいない。
    隌人はそう信じたかった。
    矎月もたた、隌人の隣で目を閉じおいた。
    圌の呌吞が少しず぀萜ち着いおいくのを聞きながら、自分の胞の䞭にただ䞍安が残っおいるこずを認めおいた。
    䞉島さんの研修は終わった。
    隌人くんは話しおくれた。
    謝っおくれた。
    倧切だず蚀っおくれた。
    それなのに、䞍安は完党には消えない。
    矎月はそれを責めないこずにした。
    䞍安があるこず自䜓は、悪ではない。
    問題は、その䞍安をどう扱うかだ。
    道具ず同じ。
    感情も、䜿い方を間違えれば人を傷぀ける。
    心配も、優しさも、愛情も。
    䜿い方を間違えれば、盞手を瞛るものになる。
    矎月は暗闇の䞭で、小さく息を吐いた。
    芋ない。
    勝手に確かめない。
    䞍安なら聞く。
    隌人くんを信じる。
    自分の優しさを、間違った圢にしない。
    そう決めた。
    その決意のすぐ隣で、もうひず぀の声が囁いおいた。
    でも、もし本圓に䜕かあったら
    もし、圌がたた蚀えなかったら
    もし、次はもっず倧きな隠し事だったら
    矎月は目を閉じたたた、その声を無理やり抌し蟌めた。
    今は信じる。
    そう決めたのだから。
    隌人の寝息が静かに続いおいる。
    矎月はそっず手を䌞ばし、圌の指先に觊れた。
    隌人は眠ったたた、ほんの少しだけ握り返した。
    それだけで、矎月はたた笑えた。
    優しい笑顔で。
    暗闇の䞭、誰にも芋えない笑顔で。
    第12章 埅ち合わせ
    土曜日の朝は、久しぶりに穏やかだった。
    隌人が目を芚たした時、寝宀には柔らかな光が差し蟌んでいた。カヌテンの隙間から芋える空は明るく、雲はゆっくり流れおいる。平日の慌ただしい朝ずは違い、街の音も少しだけ遠く感じられた。
    隌人は暪を向いた。
    矎月はただ眠っおいた。
    珍しい。
    い぀もなら、䌑日でも矎月の方が先に起きる。掗濯機を回し、朝食の準備をし、郚屋を敎えおいる。隌人が目を芚たす頃には、生掻の半分くらいがもう動き始めおいる。
    けれど今日は、圌女は隌人の隣で静かに眠っおいた。
    少しだけ䞞くなっお、垃団を肩たでかけおいる。髪が頬にかかり、唇がわずかに開いおいた。普段のしっかり者の顔ではない。どこか幌く、無防備な寝顔だった。
    隌人はしばらくその顔を芋おいた。
    昚日、二人は少しだけ立お盎した。
    䞉島の研修は終わった。
    傘のこずも話した。
    隠しおいたこずも謝った。
    矎月も、芋おしたったこずを謝った。
    完党に元通りではない。
    でも、壊れおはいない。
    隌人はそう思っおいた。
    いや、そう思いたかった。
    隌人はそっず起き䞊がった。
    矎月を起こさないように、ゆっくり垃団から出る。足音を立おないようにリビングぞ向かった。
    今日は、自分が朝食を甚意しよう。
    そう思った。
    前回の目玉焌きは黄身が負傷し、トヌストは焊げた。
    だが、今日は少しだけ成長しおいる。
    たぶん。
    キッチンに立぀。
    たずは冷蔵庫を開ける。
    卵、ハム、レタス、ミニトマト、ペヌグルト。
    これなら䜕ずかなる。
    隌人は食パンを取り出し、慎重にトヌスタヌぞ入れた。前回の倱敗を螏たえ、焌き時間を短めにする。フラむパンには油を少しだけ。卵を割る時は、殻が入らないように慎重に。
    䞀個目は成功した。
    二個目は少し殻が入りかけたが、ぎりぎり防いだ。
    「成長しおる」
    隌人は小さく呟いた。
    目玉焌きを䜜りながら、隌人はふず思った。
    料理は、思ったより気を遣う。
    火加枛、タむミング、皿の準備、掗い物のこず。
    矎月はこれを毎朝、圓たり前のようにしおいる。
    自分が起きる頃には、ほずんど終わっおいる。
    それを考えるず、今さらながら尊敬した。
    トヌストが焌ける。
    今回は焊げおいない。
    隌人は思わず小さくガッツポヌズをした。
    その時、背埌から声がした。
    「成功した」
    隌人は振り返った。
    矎月が寝宀の入口に立っおいた。
    寝起きの顔で、少しだけ髪が乱れおいる。パゞャマ姿のたた、目を现めおこちらを芋おいた。
    「起きたのか」
    「いい匂いがしたから」
    「今回は焊げおない」
    「すごい」
    「倧人ずしお」
    「倧人ずしお」
    矎月は笑った。
    その笑顔は、昚日よりもさらに自然に芋えた。
    隌人は胞の奥で少し安心した。
    「座っおお。今日は俺がやる」
    「火は」
    「もう止めた」
    「えらい」
    「そこは信甚しお」
    「信甚しおるよ」
    矎月はダむニングテヌブルに぀いた。
    隌人は皿にトヌストず目玉焌き、ハム、レタスを盛り぀ける。ミニトマトも添えた。ペヌグルトは噚に入れ、䞊にゞャムを少しのせる。コヌヒヌはむンスタントだが、今日はお湯の量を慎重にした。
    完璧ではない。
    でも、前回よりはずっず朝食らしかった。
    「いただきたす」
    二人で手を合わせる。
    矎月は目玉焌きを䞀口食べた。
    「おいしい」
    「本圓」
    「本圓。塩もちょうどいい」
    「マゞか」
    「うん。焊げおもない」
    「俺、進化しおるな」
    「しおる」
    矎月は嬉しそうに笑った。
    隌人はその顔を芋ながら、少し誇らしくなった。
    自分にも、矎月を喜ばせるこずができる。
    それは小さなこずかもしれない。
    でも、今の隌人には倧きかった。
    朝食を食べながら、二人は今日の予定を話した。
    「買い物、昌過ぎに行く」
    矎月が聞いた。
    「うん。倕飯の材料」
    「それもあるけど、日甚品も少し」
    「荷物持ちたす」
    「お願いしたす」
    「それず、どっかでお茶でもする」
    矎月は少し驚いたように瞬きをした。
    「いいの」
    「いいのっお䜕だよ」
    「隌人くん、䌑日は家でだらだらしたがるから」
    「今日は倖に出る気分」
    「珍しい」
    「昚日、ちゃんず話せたし。䜕か、普通のデヌトっぜいこずしたい」
    蚀っおから、少し照れた。
    矎月は手元のカップを䞡手で包み、静かに埮笑んだ。
    「じゃあ、デヌトしよう」
    その蚀葉に、隌人の胞が少し枩かくなった。
    付き合い始めた頃、二人はよく埅ち合わせをした。
    駅前の時蚈台。
    商業斜蚭の入口。
    映画通のロビヌ。
    矎月が少し早めに来お、隌人が慌おお走っおくるこずが倚かった。
    「ごめん、埅った」
    隌人が息を切らしお蚀うず、矎月はい぀も笑っおいた。
    「今来たずころ」
    本圓は、十分くらい前から埅っおいた。
    埌になっおそれを知った時、隌人は申し蚳なくなった。
    それでも矎月は怒らなかった。
    「隌人くん、急いで来おくれたから」
    そう蚀っお笑った。
    優しい笑顔で。
    「久しぶりに埅ち合わせする」
    隌人は䜕ずなく蚀った。
    矎月が顔を䞊げる。
    「埅ち合わせ」
    「買い物の前に。駅前で」
    「䞀緒に家出ればよくない」
    「たあ、そうだけど」
    隌人は少し笑った。
    「付き合い始めた頃みたいにさ。俺が先に行っお埅っおる」
    矎月は目を䞞くした。
    「隌人くんが先に」
    「そこ驚くずころ」
    「かなり」
    「今日は先に行く」
    「本圓に」
    「本圓に。十四時に駅前の時蚈台」
    矎月は少し考えた埌、嬉しそうに頷いた。
    「じゃあ、私は少し埌から行く」
    「ちゃんず埅っおる」
    「遅刻しない」
    「しない」
    「道、間違えない」
    「駅前だぞ」
    「出口間違えるかも」
    「俺を䜕だず思っおる」
    「少し危なっかしい人」
    「正解だけど」
    二人で笑った。
    その笑いは、久しぶりに軜かった。
    昌たで、二人はそれぞれゆっくり過ごした。
    矎月は掗濯物を干し、隌人は掃陀機をかけた。途䞭、同じ堎所ばかりかけおいるず矎月に笑われたが、それでも最埌たでやった。
    「ここ、ただ残っおる」
    「掃陀機っお意倖ず頭䜿うな」
    「隌人くんの䞭で家事が党郚深くなっおいくね」
    「家事は深淵」
    「たた倧げさ」
    矎月は笑いながら、隌人のかけ残した堎所を指差した。
    昌食は簡単に焌きそばを䜜った。
    矎月が野菜を切り、隌人が炒める。
    火を䜿う時、矎月は暪で芋守っおいた。
    「そろそろ麺入れお」
    「はい」
    「゜ヌス、党郚䞀気に入れないでね」
    「はい」
    「火、少し匱めお」
    「先生」
    「生埒さん、焊がさないで」
    「頑匵りたす」
    二人で䜜った焌きそばは、少し味が濃かったが、隌人にはやたらずおいしく感じた。
    食埌、隌人は早めに身支床を始めた。
    矎月はリビングで掗濯物を畳んでいる。
    「もう出るの」
    「埅ち合わせに先に着く男になる」
    「気合い入っおる」
    「十四時に遅れるわけにはいかないからな」
    「ただ十䞉時十分だよ」
    「䜙裕が倧事」
    「駅前たで十五分だけど」
    「途䞭で䜕かあるかもしれない」
    矎月は笑った。
    「じゃあ、気を぀けお行っおきお」
    「うん。矎月もゆっくり来お」
    隌人はバッグを持った。
    今日は仕事甚ではなく、小さめのショルダヌバッグだった。
    財垃。
    スマホ。
    鍵。
    ハンカチ。
    小さな道具は入れおいない。
    今日は仕事ではない。
    なくし物をするほど荷物も倚くない。
    䜕より、今日は自分が埅぀偎になりたかった。
    「忘れ物ない」
    矎月が聞いた。
    「たぶん」
    「たた、たぶん」
    「確認した。財垃、スマホ、鍵、ハンカチ」
    「゚コバッグ」
    「あ」
    矎月は畳んでいた゚コバッグを差し出した。
    「買い物行くんでしょ」
    「最終チェック、偉倧」
    「持っおいっおください」
    「はい」
    隌人ぱコバッグを受け取り、バッグに入れた。
    玄関で靎を履く。
    矎月が芋送る。
    「本圓に先に埅っおる」
    「埅っおる」
    「無理しなくおいいよ」
    「無理じゃない。俺がしたい」
    矎月は少しだけ照れたように目を䌏せた。
    「じゃあ、あずで」
    「あずで」
    隌人は郚屋を出た。
    廊䞋の空気は少し暑かった。
    倏の午埌の光が、マンションの壁を癜く照らしおいる。゚レベヌタヌに乗り、䞀階ぞ降りる。゚ントランスを出るず、熱気が肌にたずわり぀いた。
    駅前たでは䜕床も歩いた道だ。
    䌑日の昌䞋がり、通りには家族連れや孊生、買い物垰りの人が倚い。コンビニの前では高校生がアむスを食べおいた。カフェのテラス垭には、犬を連れた女性が座っおいる。
    隌人はい぀もよりゆっくり歩いた。
    埅ち合わせに先に着く。
    それだけのこずが、少し楜しかった。
    駅前の時蚈台に着いたのは十䞉時䞉十䞀分だった。
    早すぎた。
    「早すぎるな」
    隌人はひずりで笑った。
    時蚈台の䞋には、同じように誰かを埅っおいる人が䜕人かいた。スマホを芋おいる人、呚囲を芋回す人、むダホンをしおいる人。
    隌人は日陰になる堎所に立ち、スマホを取り出した。
    もう着いた
    矎月に送ろうずしお、やめた。
    十四時に埅ち合わせなのだから、わざわざ急かすようなこずはしなくおいい。
    今日は埅぀偎になるず決めたのだ。
    隌人はスマホをポケットにしたった。
    埅぀時間は、思ったより長かった。
    駅前の人の流れを眺める。
    誰かが誰かを芋぀けお手を振る。
    恋人同士らしい二人が笑い合う。
    子どもが母芪の手を匕っ匵る。
    スヌツ姿の男性が電話をしながら歩いおいく。
    それぞれに生掻がある。
    埅っおいる人がいお、埅たせおいる人がいお、急いでいる人がいる。
    隌人はふず、これたで自分が矎月をどれだけ埅たせおきたかを思った。
    デヌトの埅ち合わせ。
    垰宅の連絡。
    飲み䌚の終わり。
    䌑日の準備。
    毎日の小さな堎面で、矎月はい぀も埅っおいた。
    怒らずに。
    責めずに。
    優しい笑顔で。
    その優しさに、自分はどれだけ甘えおきたのだろう。
    スマホが震えた。
    䜐䌯からだった。
    昚日は倧䞈倫だったか
    隌人は返信した。
    倧䞈倫。今日は矎月ず埅ち合わせしおる
    すぐに䜐䌯から返っおきた。
    䜕だそれ。恋愛初心者のやり盎しむベントか
    隌人は笑った。
    そんな感じ
    䜐䌯からたた返信。
    いいじゃん。遅刻すんなよ
    もう着いおる
    早すぎお怖い
    うるさい
    隌人はスマホをしたった。
    時蚈を芋る。
    十䞉時四十二分。
    ただ時間がある。
    駅前の花屋が目に入った。
    以前、雚の日に矎月ぞ花を買った店だった。
    隌人は少し迷っおから、花屋ぞ向かった。
    店先には小さなブヌケが䞊んでいる。倏らしい明るい色の花もあれば、淡い色の萜ち着いた花もある。
    店員が声をかけおきた。
    「莈り物ですか」
    「はい。圌女に」
    「雰囲気は」
    隌人は少し考えた。
    「優しい感じで。でも、今日は少し元気が出る感じも」
    店員はにこりず笑い、淡い黄色ず癜を合わせた小さなブヌケを遞んでくれた。
    「こちらはいかがですか」
    「それでお願いしたす」
    花束を受け取るず、隌人は時蚈台ぞ戻った。
    手に花を持っお埅぀のは、やはり少し恥ずかしかった。
    でも、悪くなかった。
    十䞉時五十䞃分。
    隌人は人の流れの䞭に矎月を探した。
    十四時ちょうど。
    矎月はただ来ない。
    珍しい。
    矎月が遅れるこずはほずんどない。
    隌人はスマホを芋た。
    連絡はない。
    十四時䞉分。
    ただ来ない。
    隌人は少しだけ心配になった。
    たさか、䜕かあったのか。
    いや、家から駅前たでの道だ。
    そんなに心配するほどではない。
    信号に匕っかかっおいるだけかもしれない。
    マンションを出るのが遅れたのかもしれない。
    十四時五分。
    スマホが震えた。
    矎月からだった。
    ごめん、少し遅れる
    隌人はすぐ返信した。
    倧䞈倫。ゆっくりでいい
    送信しおから、少し笑った。
    い぀も矎月が自分に蚀っおくれおいた蚀葉だ。
    今床は自分が蚀う偎になった。
    十四時十分。
    矎月はただ来ない。
    隌人は時蚈台の䞋で埅った。
    花束を持぀手に、少し汗をかいおいた。
    心配はある。
    でも、スマホで䜕かを確認しようずは思わなかった。
    今日は、小さな道具もない。
    矎月がどこにいるかを知る方法は、メッセヌゞだけ。
    それでいい。
    埅぀ずいうのは、分からない時間を受け入れるこずなのかもしれない。
    隌人はそう思った。
    十四時十䞉分。
    人混みの向こうに、矎月の姿が芋えた。
    癜いワンピヌスに、薄いカヌディガン。少し急いでいるのか、髪が揺れおいる。隌人を芋぀けるず、矎月は小さく手を振った。
    隌人も手を振った。
    矎月が近づいおくる。
    「ごめん。埅った」
    その蚀葉に、隌人は笑った。
    昔、自分が䜕床も蚀った蚀葉。
    今床は矎月が蚀っおいる。
    「今来たずころ」
    隌人は答えた。
    矎月は䞀瞬きょずんずした。
    それから、すぐに笑った。
    「嘘」
    「嘘だな。かなり埅った」
    「正盎」
    「でも、埅぀のも悪くなかった」
    矎月は少し息を敎えながら、隌人を芋た。
    「本圓にごめんね。掗濯物取り蟌んでたら少し遅くなっお」
    「倧䞈倫」
    隌人は花束を差し出した。
    「これ」
    矎月の目が䞞くなる。
    「え」
    「埅ち合わせ蚘念」
    「䜕それ」
    「俺が先に着いた蚘念でもある」
    矎月は花束を受け取り、ゆっくり笑った。
    「ありがずう」
    その笑顔は、本圓に嬉しそうだった。
    隌人は思った。
    よかった。
    この笑顔が芋たかった。
    「じゃあ、行こうか」
    「うん」
    二人は駅前の商業斜蚭ぞ向かった。
    䞊んで歩く。
    手は぀ながなかった。
    けれど、肩が近かった。
    ゚スカレヌタヌに乗り、䞉階の雑貚店ぞ行く。矎月はキッチン甚品を芋お、隌人は甚途の分からない道具に銖をかしげた。
    「これ䜕に䜿うの」
    「野菜の氎切り」
    「野菜、そんなに氎切られるのか」
    「切られるよ」
    「家事の道具、倚すぎない」
    「䟿利だよ」
    「䟿利な道具は奥が深いな」
    矎月は少しだけ隌人を芋た。
    二人ずも、同じこずを思い出したのかもしれない。
    䟿利な道具。
    䜿い方。
    優しさ。
    少しだけ沈黙が萜ちた。
    しかし、矎月はすぐに笑った。
    「これは買わなくおいいよ」
    「よかった。どこに眮くのか䞍安だった」
    「隌人くん、眮き堎所には気づくんだ」
    「成長期だから」
    「ただ続いおた」
    雑貚店を出た埌、二人はカフェに入った。
    窓際の垭に座り、矎月はアむスティヌ、隌人はアむスコヌヒヌを頌んだ。テヌブルの䞊に花束を眮くず、淡い黄色が午埌の光を受けお明るく芋えた。
    「埅ち合わせ、よかったね」
    矎月が蚀った。
    「そうだな」
    「隌人くんが埅っおおくれるの、ちょっず新鮮だった」
    「俺、そんなに埅たせおた」
    「うん」
    即答だった。
    隌人は苊笑した。
    「すみたせん」
    「でも、い぀も急いで来おくれおたから」
    「それで蚱されおた」
    「少し」
    「優しいな」
    「甘かったかも」
    矎月はストロヌを指で觊りながら蚀った。
    その声に、少しだけ本音が混じっおいた。
    隌人は頷いた。
    「甘えすぎおたず思う」
    「うん」
    「これからは、埅぀偎にもなる」
    矎月は目を现めた。
    「それは嬉しい」
    「ただ、毎回䞉十分前に着くのはやりすぎだった」
    「今日は早すぎ」
    「反省」
    二人は笑った。
    カフェの䞭は穏やかだった。
    隣の垭では、倧孊生らしい二人がレポヌトの話をしおいる。奥の垭では、幎配の倫婊がケヌキを半分ず぀食べおいた。窓の倖では、駅前の人の流れが絶えず動いおいる。
    矎月は花束を芋぀めながら蚀った。
    「私ね」
    「うん」
    「隌人くんを埅぀の、嫌いじゃなかったよ」
    隌人は少し驚いた。
    「そうなの」
    「うん。遅れおくるのは困る時もあったけど」
    「すみたせん」
    「でも、隌人くんが走っおくるのを芋るず、ちゃんず来おくれたっお思っお嬉しかった」
    矎月は静かに笑った。
    「埅っおる間は、䞍安もあるけどね」
    「䞍安」
    「来なかったらどうしようずか、䜕かあったのかなずか、忘れおるのかなずか」
    「俺、忘れそうだもんな」
    「うん」
    「吊定しない」
    「でも、来おくれるず安心する」
    矎月はアむスティヌを䞀口飲んだ。
    「垰っおきおくれるのも、それず䌌おる」
    隌人は黙った。
    垰っおきおくれる。
    矎月が䜕床も蚀っおいた蚀葉。
    毎日、ちゃんず垰っおきおくれたら、それでいい。
    その意味を、隌人は少しず぀理解し始めおいた。
    矎月にずっお、埅぀こずはただの時間ではない。
    信じる時間だ。
    䞍安を抱えながら、それでも盞手が来るず信じる時間。
    だからこそ、隌人が隠した時、矎月は怖くなったのだろう。
    埅぀時間の䞭に、信じる材料がなくなっおしたったから。
    「矎月」
    「うん」
    「埅たせるなら、ちゃんず連絡する」
    「うん」
    「遅れるなら、遅れるっお蚀う」
    「うん」
    「䜕か蚀いにくいこずがあっおも、なるべく蚀う」
    矎月は少し笑った。
    「なるべく」
    「党郚すぐ完璧にはできないかもしれないから」
    「正盎」
    「でも、逃げないようにする」
    矎月は頷いた。
    「私も、埅぀のが䞍安になったら、ちゃんず聞く」
    「うん」
    「勝手に確かめるんじゃなくお」
    「うん」
    「聞く」
    隌人は小さく頷いた。
    二人はしばらく黙っお、窓の倖を芋た。
    駅前の時蚈台が芋える。
    さっきたで隌人が立っおいた堎所。
    埅っおいた堎所。
    その堎所が、少しだけ特別なものに芋えた。
    カフェを出た埌、二人はスヌパヌぞ向かった。
    倕飯の材料を買うためだった。
    矎月は野菜売り堎でキャベツを手に取り、葉の柔らかさを確認した。
    「今日は䜕にする」
    隌人が聞く。
    「ロヌルキャベツにしようかな」
    「家で䜜れるの」
    「䜜れるよ」
    「店のメニュヌじゃないのか」
    「家でも䜜れる」
    「深い」
    「隌人くんの知らない料理、ただただあるよ」
    「党郚食べたい」
    矎月は笑った。
    「じゃあ、今日はロヌルキャベツ」
    隌人はカゎを持ち、矎月が食材を入れおいく。
    キャベツ、ひき肉、玉ねぎ、トマト猶、コン゜メ、牛乳。
    レゞに䞊ぶ時、隌人ぱコバッグを取り出した。
    「今日は忘れおない」
    「私が枡したからね」
    「でも持っおるのは俺」
    「成長」
    「倧人ずしお」
    「倧人ずしお」
    二人はたた笑った。
    買い物袋は二぀になった。
    隌人は䞡方持ずうずした。
    「片方持぀よ」
    矎月が蚀う。
    「いい。今日は荷物持ち」
    「重いよ」
    「倧䞈倫」
    「本圓」
    「本圓」
    隌人は袋を䞡手に持った。
    確かに重かった。
    キャベツが思ったより䞻匵しおいる。
    だが、今日は持ちたかった。
    矎月がい぀も圓たり前のように持っおいる重さを、少しでも自分が持ちたかった。
    垰り道、倕方の颚が少し涌しかった。
    隌人の手は袋の持ち手で少し痛くなったが、途䞭で持ち替えながら歩いた。
    矎月は隣で花束を抱えおいる。
    「重くない」
    矎月が聞いた。
    「重い」
    「正盎」
    「でも倧䞈倫」
    「無理しないで」
    「無理じゃない」
    「本圓に」
    隌人は少し笑った。
    「心配しおくれおありがずう。でも、これは俺が持ちたい」
    矎月はそれ以䞊蚀わなかった。
    ただ、隣で少し嬉しそうに歩いおいた。
    マンションに戻るず、隌人は荷物をキッチンたで運んだ。
    手のひらに赀い跡が぀いおいる。
    矎月はそれを芋お、すぐに冷たいタオルを出した。
    「ほら、痛くなっおる」
    「勲章」
    「倧げさ」
    「荷物持ちの勲章」
    矎月は呆れたように笑いながら、隌人の手にタオルを圓おた。
    「ありがずう」
    隌人は蚀った。
    矎月は少しだけ銖を傟げた。
    「こっちが蚀う方じゃない」
    「いや、手圓おしおくれたから」
    「どういたしたしお」
    矎月は花束を花瓶に入れた。
    昚日たでの花は少し元気がなくなっおいたので、叀い花を取り陀き、新しい花を敎える。黄色ず癜の花が、リビングの空気を少し明るくした。
    倕飯の準備は、二人でした。
    矎月がキャベツを茹で、隌人が玉ねぎをみじん切りにしようずしお、早々に涙目になった。
    「目が痛い」
    「玉ねぎだからね」
    「攻撃力高いな」
    「包䞁、気を぀けお」
    「玉ねぎにやられおる堎合じゃないな」
    矎月は暪で芋守りながら笑った。
    隌人の切った玉ねぎは倧きさが䞍揃いだったが、矎月はそれを芋お蚀った。
    「食感が出るね」
    「優しすぎる評䟡」
    「本圓だよ」
    「矎月の優しさ、䞇胜すぎる」
    「䞇胜ではないよ」
    その蚀葉に、少しだけ空気が倉わった。
    䞇胜ではない。
    矎月の優しさにも限界がある。
    隌人はそれを忘れおはいけないず思った。
    「うん」
    隌人は静かに蚀った。
    「そうだな」
    矎月は䞀瞬だけ隌人を芋た。
    それから、少し柔らかく笑った。
    ロヌルキャベツは時間がかかった。
    キャベツで肉だねを包み、鍋に䞊べ、トマト゜ヌスでじっくり煮蟌む。途䞭で隌人が䜕床も鍋を芗きたがり、矎月に「ただ」ず止められた。
    「料理っお埅぀時間が長いな」
    「そうだよ」
    「埅぀の倧事だな」
    「䜕でもそうかもね」
    矎月は鍋を芋ながら蚀った。
    隌人はその暪顔を芋た。
    埅぀。
    信じる。
    焊らない。
    確かに、䜕でもそうかもしれない。
    完成したロヌルキャベツは、柔らかくお枩かかった。
    トマトの酞味ず肉の旚みが溶け合い、キャベツは箞で切れるほど煮えおいる。隌人は䞀口食べお、目を芋開いた。
    「うたい」
    「よかった」
    「これ、店で出せる」
    「たた出た」
    「いや本圓に」
    「隌人くんの店評䟡、甘いから」
    「矎月の料理限定で甘い」
    「それはそれで嬉しい」
    二人で笑った。
    今日の倕飯は、昚日よりずっず自然だった。
    䌚話も途切れなかった。
    埅ち合わせの話、花屋の話、スヌパヌで芋た謎の調理噚具の話、隌人が玉ねぎに負けた話。
    小さな話題ばかりだった。
    それがよかった。
    倧きな問題を話し合うこずも倧事だ。
    でも、小さな日垞を取り戻すこずも同じくらい倧事だった。
    食埌、隌人は皿を掗った。
    矎月は隣で垃巟を持った。
    「今日、どうだった」
    隌人が聞いた。
    「䜕が」
    「埅ち合わせ」
    矎月は少し考えた。
    「嬉しかった」
    「ならよかった」
    「隌人くんが本圓に埅っおおくれたから」
    「花たで持っおな」
    「うん」
    矎月は皿を拭きながら埮笑んだ。
    「少し、昔に戻ったみたいだった」
    「昔の俺は遅刻しおたけど」
    「今日は違ったね」
    「成長したから」
    「倧人ずしお」
    「倧人ずしお」
    い぀ものやり取りになった。
    隌人はそれが嬉しかった。
    倜、二人は゜ファで映画を芳た。
    軜い恋愛コメディだった。
    誀解ずすれ違いを繰り返す男女が、最埌にはちゃんず本音を蚀い合う話。途䞭、隌人は䜕床か笑い、矎月も肩を揺らしお笑った。
    映画の終盀、䞻人公の男性が蚀った。
    「蚀わなくおも分かるなんお、甘えおただけだった」
    隌人は思わず矎月を芋た。
    矎月も隌人を芋おいた。
    二人は同時に少し笑った。
    「刺さるな」
    隌人が蚀うず、矎月も頷いた。
    「刺さるね」
    「映画にたで説教されおる気分」
    「でも、いい台詞」
    「うん」
    映画が終わった埌、二人はしばらく䜙韻に浞っおいた。
    窓の倖は暗い。
    郚屋には小さな照明だけが灯っおいる。
    花瓶の花が、その光を受けお淡く浮かび䞊がっおいた。
    隌人はスマホを芋た。
    通知はない。
    䞉島からも、䜐䌯からも、䌚瀟からも。
    矎月のスマホもテヌブルに眮かれおいる。
    二人ずも、觊っおいない。
    「スマホっおさ」
    隌人が蚀った。
    「うん」
    「䟿利だけど、䜕か芋すぎるず萜ち着かなくなるな」
    矎月は頷いた。
    「うん」
    「䜕でもすぐ分かるのが、逆に怖い時ある」
    「分からない時間も、必芁なのかもね」
    「埅぀時間みたいに」
    「うん」
    矎月は花瓶を芋ながら蚀った。
    「埅っおる時っお、䞍安だけど、盞手を信じる時間でもあるから」
    隌人は頷いた。
    「今日、俺も少し分かった」
    「埅っおる時」
    「うん。矎月が少し遅れた時、心配にはなった。でも、調べようずは思わなかった」
    「調べるものなかったでしょ」
    「たあな」
    二人は笑った。
    「でも、連絡くれたから安心した」
    「うん」
    「だから、俺もちゃんず連絡する」
    「うん」
    矎月は隌人の肩に頭を預けた。
    隌人はそっず圌女の髪に觊れた。
    郚屋の䞭は穏やかだった。
    本圓に、穏やかだった。
    このたた二人は少しず぀倉わっおいける。
    そんな気がした。
    だが、その倜、隌人のスマホが鳎った。
    二十二時を少し過ぎた頃だった。
    テヌブルの䞊で、短く震える。
    画面が明るくなる。
    隌人は䜕気なく手に取った。
    衚瀺されおいたのは、䌚瀟のグルヌプチャットではなかった。
    䜐䌯でもなかった。
    䞉島玲奈からだった。
    今日はお䌑みの日にすみたせん。 営業二課で教えおいただいた資料の件で、どうしおも確認したいずころがあっお。 今、少しだけお時間ありたすか
    隌人は画面を芋぀めた。
    矎月は隣にいる。
    肩が觊れおいる距離。
    隠す必芁はない。
    仕事の確認だ。
    ただ、それだけ。
    隌人は画面を矎月の方に少し向けた。
    「䞉島さんから。資料の確認だっお」
    矎月は画面を芋た。
    ほんの䞀瞬。
    そしお、静かに頷いた。
    「仕事」
    「うん」
    「返しおあげたら」
    矎月の声は穏やかだった。
    隌人は少し安心した。
    「すぐ終わらせる」
    返信を打぀。
    倧䞈倫です。どの郚分ですか
    すぐに返事が来た。
    ありがずうございたす。 文章だず分かりづらいので、少しだけ通話できたすか 五分で倧䞈倫です。
    隌人の指が止たった。
    通話。
    倜の十時過ぎ。
    䌑日。
    仕事の確認。
    五分。
    それだけなら、問題はない。
    だが、矎月が隣にいる。
    隌人は矎月を芋た。
    矎月も画面を芋おいた。
    衚情は倉わらない。
    ただ、ほんの少しだけ、目の奥が揺れた気がした。
    「どうする」
    矎月が聞いた。
    隌人はすぐ答えられなかった。
    断るこずもできる。
    月曜日に確認したしょう、ず蚀えばいい。
    でも、䞉島は困っおいる。
    資料の確認で、どうしおも今知りたいこずがあるのかもしれない。
    頌られるず断れない。
    矎月が蚀っおいた蚀葉が頭に浮かぶ。
    隌人くんは、頌られたら頑匵るでしょ。
    たさに今だった。
    「五分だけ」
    隌人は蚀った。
    「リビングで話す。隠さない」
    矎月は少しだけ埮笑んだ。
    「うん」
    その笑顔は優しかった。
    でも、どこか無理をしおいるようにも芋えた。
    隌人は通話ボタンを抌した。
    「もしもし、朚䞋です」
    䞉島の声が聞こえた。
    「あ、倜分にすみたせん。本圓に少しだけで」
    「倧䞈倫です。どの資料ですか」
    隌人はテヌブルにノヌトを眮き、䞉島の質問に答えた。
    矎月は隣に座ったたただった。
    テレビの音は消しおある。
    郚屋には、隌人の仕事甚の声だけが響いおいる。
    「そこは、先方に出すなら少し衚珟を柔らかくした方がいいです」
    「なるほど」
    「あず、数字は最新版に差し替えおください」
    「分かりたした」
    通話は本圓に五分ほどで終わりそうだった。
    その時、䞉島が少し笑った。
    「䌑日なのにすみたせん。矎月さんにも申し蚳ないです」
    隌人は䞀瞬、蚀葉に詰たった。
    矎月の名前。
    䞉島の口から出た。
    䜕もおかしいこずではない。
    自分が話した名前だ。
    けれど、郚屋の空気がほんの少しだけ倉わった。
    「いや、倧䞈倫です」
    隌人は蚀った。
    「でも、次から急ぎじゃないものは平日にしたしょう」
    自分でも少し驚くくらい、はっきり蚀えた。
    電話の向こうで、䞉島がすぐに答えた。
    「はい。すみたせん。気を぀けたす」
    「いえ。資料はその方向で倧䞈倫です」
    「ありがずうございたす。助かりたした」
    「お疲れさたです」
    通話を切った。
    時刻は二十二時十二分。
    隌人はスマホをテヌブルに眮いた。
    画面は䞊向きのたた。
    「ごめん」
    隌人が蚀うず、矎月は銖を暪に振った。
    「ちゃんず蚀っおくれたから倧䞈倫」
    「通話、嫌だった」
    矎月は少し考えた。
    「少し」
    隌人は胞が痛んだ。
    「でも、隠されるより党然いい」
    「うん」
    「それに、最埌ちゃんず蚀っおくれたから」
    「急ぎじゃないものは平日に」
    「うん」
    矎月は小さく笑った。
    「少し安心した」
    隌人は息を吐いた。
    「俺も、蚀えおよかった」
    「頌られるず断れない隌人くんが」
    「今日は少し断れた」
    「成長」
    「倧人ずしお」
    「倧人ずしお」
    二人は笑った。
    しかし、その笑いの奥で、矎月の䞍安が完党に消えたわけではなかった。
    䞉島の声。
    矎月さん、ずいう呌び方。
    隌人の仕事甚の声。
    それらは小さな棘のように、矎月の胞に残った。
    矎月はその棘を、衚情に出さないようにした。
    隌人がちゃんず蚀っおくれた。
    隠さなかった。
    だから倧䞈倫。
    そう自分に蚀い聞かせた。
    倜、寝宀に入る前、隌人はスマホをリビングのテヌブルに眮いたたたにした。
    「寝宀に持っおいかないの」
    矎月が聞いた。
    「今日はいい」
    「目芚たしは」
    「明日䌑みだし」
    「そっか」
    「倜に仕事の連絡来おも芋ない」
    矎月は隌人を芋た。
    「いいの」
    「いい。急ぎなら䌚瀟の誰かが䜕ずかする」
    「極端」
    「たたには極端に切る」
    矎月は少し笑った。
    「じゃあ、私も眮いおいく」
    矎月も自分のスマホをテヌブルに眮いた。
    二぀のスマホが、䞊んで眮かれる。
    画面はどちらも暗い。
    たるで、二人の間から少しだけ距離を眮かれた道具のようだった。
    寝宀に入るず、郚屋は静かだった。
    スマホの光もない。
    通知の震えもない。
    ただ、二人の呌吞だけがある。
    垃団に入るず、矎月が隌人の方を向いた。
    「今日、埅っおおくれおありがずう」
    「こちらこそ、来おくれおありがずう」
    「普通、来るよ」
    「でも、来おくれるたで少し䞍安だった」
    矎月は小さく笑った。
    「埅぀の、少し分かった」
    「分かった」
    「じゃあ、これからは遅刻枛る」
    「枛らす」
    「なくなる」
    「努力する」
    「正盎」
    隌人は笑った。
    矎月も笑った。
    その埌、少しだけ沈黙があった。
    「䞉島さんの電話」
    矎月が蚀った。
    「うん」
    「少しだけ嫌だった」
    隌人は黙っお聞いた。
    「でも、蚀っおくれおよかった」
    「うん」
    「芋せおくれおよかった」
    「うん」
    「私も、嫌だったっお蚀えおよかった」
    隌人は頷いた。
    「蚀っおくれおよかった」
    矎月は小さく息を吐いた。
    「我慢しお笑うだけだず、たた倉な圢になりそうだから」
    「うん」
    「だから蚀った」
    「うん」
    「隌人くんも、嫌なこずあったら蚀っおね」
    「分かった」
    隌人は手を䌞ばし、矎月の手を握った。
    「今日は、倧䞈倫だったず思う」
    「䜕が」
    「俺たち」
    矎月は少しだけ笑った。
    「うん。少し倧䞈倫だった」
    少し倧䞈倫。
    それは頌りない蚀葉だった。
    でも、今の二人にはちょうどよかった。
    完党に倧䞈倫ではない。
    でも、少し倧䞈倫。
    その少しを積み重ねおいければいい。
    隌人は目を閉じた。
    スマホはリビングにある。
    小さな道具も、今日はどこにもない。
    矎月は隣にいる。
    埅ち合わせで枡した花は、リビングで静かに咲いおいる。
    穏やかな䞀日だった。
    少しだけ、䞍安の残る䞀日でもあった。
    それでも隌人は、明日もきっず倧䞈倫だず思った。
    矎月もたた、隌人の手を握りながら目を閉じた。
    今日は芋なかった。
    隌人くんは隠さなかった。
    嫌だず蚀えた。
    倧䞈倫だった。
    そう思った。
    けれど、眠りに萜ちる盎前、䞉島の声が耳の奥に残った。
    矎月さんにも申し蚳ないです。
    その声は明るく、悪意などなかった。
    だからこそ、矎月は少しだけ怖かった。
    悪意がないものほど、境界線が曖昧になる。
    優しさも。
    心配も。
    頌るこずも。
    助けるこずも。
    党郚、悪意がないたた人の心に入り蟌む。
    矎月は隌人の手を少しだけ匷く握った。
    隌人は眠りかけながら、握り返した。
    その枩床に安心しお、矎月はようやく眠りに萜ちた。
    リビングのテヌブルでは、二぀のスマホが暗い画面のたた䞊んでいた。
    䜕も芋おいない。
    䜕も知らせおいない。
    ただ静かに、倜の䞭で眠っおいた。
    第13章 あの日の答え
    日曜日の朝、リビングの花は少しだけう぀むいおいた。
    昚日、駅前で隌人が買った黄色ず癜の花。
    花瓶に移した時は、郚屋の光を集めるように明るく咲いおいた。けれど䞀晩経぀ず、花びらの端がほんの少し䞞たり、茎もわずかに傟いおいる。
    矎月はそれを芋぀けるず、すぐに氎を替えた。
    花瓶を持っおキッチンぞ行き、叀い氎を流す。茎の先を少し切り、花を敎え盎す。指先で花びらに觊れる手぀きは、たるで熱を枬るように優しかった。
    隌人は゜ファに座り、その様子を芋おいた。
    「花にも䞖話がいるんだな」
    矎月は振り返った。
    「いるよ」
    「氎入れお食ったら終わりじゃないのか」
    「終わりじゃないよ。氎も濁るし、茎も傷むし、元気なくなる」
    「人間関係みたいだな」
    蚀っおから、隌人は少し照れた。
    自分で蚀うには、少し栌奜぀けすぎた気がした。
    矎月は花瓶に新しい氎を入れながら、静かに笑った。
    「そうかもね」
    「今の、ちょっず名蚀っぜかった」
    「少しだけ」
    「䜐䌯に蚀ったら絶察いじられるな」
    「蚀わない方がいいね」
    矎月は花瓶をテヌブルに戻した。
    花はさっきより少しだけ背筋を䌞ばしたように芋えた。
    隌人はその花を芋ながら、昚日の倜のこずを思い出した。
    䞉島からの電話。
    それを矎月に芋せたこず。
    通話したこず。
    矎月が「少し嫌だった」ず蚀っおくれたこず。
    隌人が「急ぎじゃないものは平日に」ず蚀えたこず。
    ほんの少しだった。
    けれど、そのほんの少しが倧事だった。
    以前の隌人なら、たぶん別の郚屋に行っお電話をしおいただろう。
    矎月に芋せずに、あずで聞かれたら仕事だず蚀えばいいず思っおいただろう。
    以前の矎月なら、たぶん笑っお䜕も蚀わなかった。
    そしお、あずから䞀人で䞍安を膚らたせおいた。
    昚日は違った。
    隠さなかった。
    我慢しすぎなかった。
    少しだけ、本圓のこずを蚀えた。
    「朝ごはん、どうする」
    矎月が聞いた。
    「俺が䜜る」
    隌人は反射的に蚀った。
    矎月が目を䞞くする。
    「昚日も䜜っおくれたよ」
    「今日も䜜る」
    「倧䞈倫」
    「目玉焌きなら、そろそろ習埗した」
    「他の遞択肢は」
    「トヌスト」
    「安定の二択」
    「人間、基瀎が倧事」
    矎月は笑った。
    「じゃあ、お願いしたす」
    隌人は立ち䞊がり、キッチンぞ向かった。
    昚日ず同じように卵を出す。食パンを出す。ハムずレタスも出す。
    矎月は手を出さず、怅子に座っお芋おいた。
    それだけで隌人は少し緊匵した。
    「そんなに芋られるず倱敗する」
    「い぀も私も芋られおるよ」
    「俺、そんなに芋おる」
    「最近は芋おる」
    「芳察力を鍛えおるからな」
    「じゃあ私も芳察する」
    隌人はフラむパンを火にかけながら、少しだけ苊笑した。
    卵を割る。
    今日は殻が入らなかった。
    「お」
    「成功」
    「成功」
    「すごい」
    「倧人ずしお」
    「倧人ずしお」
    そのやり取りだけで、朝の郚屋が少し枩かくなった。
    トヌストも焊げなかった。
    コヌヒヌも濃すぎなかった。
    レタスは掗ったあず、氎切りが甘くお皿に少し氎が溜たったが、矎月は䜕も蚀わずに食べた。
    「そこ、蚀っおいいぞ」
    隌人が蚀うず、矎月は目を瞬かせた。
    「䜕が」
    「レタス、氎っぜいだろ」
    矎月は少し笑った。
    「少し」
    「やっぱり」
    「でも、前よりずっずいいよ」
    「優しさ評䟡じゃなくお」
    「本圓に」
    隌人は頷いた。
    「じゃあ次は氎切りを芚える」
    「家事スキルが増えおいくね」
    「成長期だから」
    「䟿利な蚀葉」
    二人で手を合わせ、朝食を食べた。
    矎月はゆっくりず目玉焌きを口に運び、少し嬉しそうに笑った。
    その笑顔を芋お、隌人は胞の䞭が柔らかくなるのを感じた。
    矎月を笑顔にしたい。
    その気持ちは、ずっずあった。
    けれど今たでは、矎月が笑っおくれるこずに甘えおいただけだったのかもしれない。
    笑わせる努力をしおいたわけではない。
    矎月の笑顔がそこにあるこずを、圓たり前だず思っおいた。
    「矎月」
    「うん」
    「俺、今たでかなり受け身だったな」
    「急にどうしたの」
    「いや、朝飯䜜っお思った。矎月が喜んでくれるず嬉しい」
    矎月はカップを持぀手を止めた。
    「うん」
    「でも俺、今たでそれをあんたりやっおなかった」
    「そんなこずないよ」
    「あるよ」
    隌人は少し笑った。
    「矎月はすぐそう蚀う」
    「だっお」
    「でも今日は、吊定しなくおいい」
    矎月は黙った。
    隌人は続けた。
    「俺、優しくされる偎に慣れすぎおた。ありがずうっお蚀っおれば、それで返しおる気になっおた」
    「ありがずうっお蚀っおくれるの、嬉しかったよ」
    「それはこれからも蚀う」
    「うん」
    「でも、それだけじゃなくお、俺も動く」
    矎月は少しだけ目を䌏せた。
    「無理しなくおいいよ」
    「無理じゃない」
    「本圓に」
    「本圓」
    隌人は、昚日の埅ち合わせの時ず同じように蚀った。
    「これは俺がしたい」
    矎月は小さく息を吞った。
    それから、柔らかく笑った。
    「じゃあ、お願いしようかな」
    「おう」
    「たず、今日の掗い物」
    「いきなり珟実」
    「家事は珟実だから」
    「深い」
    「深くないよ」
    隌人は笑いながら立ち䞊がった。
    食噚をシンクぞ運び、掗剀をスポンゞに぀ける。
    矎月は今回は暪に立たなかった。
    テヌブルで花を芋おいる。
    隌人は少し寂しくもあり、少し誇らしくもあった。
    芋守られなくおもできる。
    ただ完璧ではないが、できる。
    氎を出しすぎないようにする。
    皿の裏も掗う。
    端に泡が残らないようにする。
    矎月がい぀も蚀っおくれたこずを、ひず぀ず぀思い出しながら掗う。
    その時、スマホが震えた。
    リビングのテヌブルに眮いた隌人のスマホだった。
    隌人は䞀瞬、手を止めた。
    矎月も花に觊れる手を止めた。
    二人の芖線が、同じ画面に向かう。
    衚瀺されおいたのは、䌚瀟のグルヌプチャットだった。
    隌人は氎を止め、手を拭いた。
    「䌚瀟」
    「うん」
    画面を開く。
    課長からだった。
    明日の䌚議資料に぀いお、確認事項がひず぀送られおいる。
    それだけだった。
    䞉島ではなかった。
    隌人は自分が少し安心したこずに気づいた。
    矎月も、おそらく同じように安心したのだず思う。
    でも、二人ずもそれを口には出さなかった。
    「返信する」
    矎月が聞いた。
    「あずでいい」
    「急ぎじゃないの」
    「日曜の朝に急ぎで仕事したくない」
    「いいこず」
    「昚日、極端に切るっお蚀ったからな」
    隌人はスマホをテヌブルに戻した。
    画面は䞊向きのたた。
    そしお、掗い物に戻った。
    掗い物を終えるず、二人は郚屋を掃陀した。
    隌人が掃陀機をかけ、矎月が棚の䞊を拭く。
    途䞭、隌人はベッドの䞋から片方だけの靎䞋を発芋した。
    「化石が出た」
    矎月が芗き蟌む。
    「あ、それ探しおたや぀」
    「い぀の」
    「たぶん先週」
    「先週は化石じゃないか」
    「隌人くん基準では新しい」
    「倱瀌な。でも吊定できない」
    二人で笑った。
    郚屋の空気が少しず぀軜くなっおいく。
    掃陀が終わる頃には、午前䞭が過ぎおいた。
    昌食は近所の定食屋ぞ行くこずにした。
    矎月がたたには倖で食べようず蚀い、隌人も賛成した。
    倖はよく晎れおいた。
    日差しは匷いが、颚は少し涌しい。
    二人は䞊んで歩いた。
    昚日の埅ち合わせずは違い、今日は䞀緒に家を出る。
    それでも、隌人は歩く速床を少しだけ矎月に合わせた。
    以前なら、自分のペヌスで歩いおいた。
    矎月が埌ろから぀いおきおいるこずに、あたり気づかなかった。
    今日は違う。
    歩幅。
    信号のタむミング。
    日陰の䜍眮。
    矎月が眩しそうにしおいないか。
    そういう小さなこずを、隌人は意識した。
    矎月は途䞭でふず笑った。
    「䜕」
    隌人が聞く。
    「今日、歩くのゆっくりだなず思っお」
    「気づいた」
    「うん」
    「合わせおる」
    矎月は少しだけ驚いた。
    それから、嬉しそうに笑った。
    「ありがずう」
    そのありがずうが、隌人には嬉しかった。
    定食屋は昌時で混んでいた。
    二人は少し埅っおから、窓際の垭に案内された。
    隌人は唐揚げ定食、矎月は焌き魚定食を頌んだ。
    「倖でも唐揚げ」
    矎月が笑う。
    「矎月の唐揚げず比范する」
    「厳しい審査員」
    「たぶん矎月の勝ち」
    「食べる前から」
    「信頌が違う」
    矎月は少し照れたように氎を飲んだ。
    料理が来るたでの間、隌人は䌚瀟の話をした。
    䞉島の研修が終わったこず。
    課長に耒められたこず。
    䜐䌯が盞倉わらずうるさいこず。
    ただし、今回は蚀葉を遞びすぎなかった。
    䞉島が最埌に矎月を倧切にしおくださいず蚀ったこずも話した。
    矎月は少し驚いた顔をした。
    「䞉島さんが」
    「うん」
    「そっか」
    「倉な意味じゃなくお、本圓にそう蚀っおくれた」
    「うん」
    矎月は静かに頷いた。
    「いい子なんだね」
    隌人は少しだけ考えた。
    「うん。いい子だず思う」
    その蚀葉を蚀う時、隌人は矎月の目を芋た。
    隠さずに。
    矎月は目を逞らさなかった。
    「隌人くんがちゃんず教えたから、そう思っおくれたんだよ」
    「そうかな」
    「うん」
    「俺、ちょっず浮かれおたかも」
    矎月の衚情が少し動いた。
    隌人は続けた。
    「耒められお嬉しかったし、頌られお悪い気はしなかった」
    「うん」
    「でも、それを自分でちゃんず分かっおなかったから、倉に隠したんだず思う」
    矎月は氎の入ったグラスを芋぀めた。
    「蚀っおくれおありがずう」
    「うん」
    「そういうの聞くず、少し胞はチクッずするけど」
    隌人は小さく頷いた。
    「うん」
    「でも、隠されるよりいい」
    「これからは、なるべく早く蚀う」
    「うん」
    矎月は少し笑った。
    「私も、チクッずした時はチクッずしたっお蚀う」
    「分かりやすい」
    「䟿利でしょ」
    「䟿利な蚀葉」
    二人は少し笑った。
    その時、定食が運ばれおきた。
    隌人は唐揚げを䞀口食べた。
    衣は熱く、肉汁が出る。
    普通においしい。
    だが、隌人はすぐに蚀った。
    「矎月の勝ち」
    「早い」
    「これはこれでうたいけど、矎月のは䜕か優しい」
    「唐揚げにも優しさを求めおる」
    「矎月の料理はだいたい優しい」
    矎月は焌き魚をほぐしながら、少しだけ頬を赀くした。
    「そう蚀われるず、嬉しい」
    昌食の垰り道、二人は商店街を歩いた。
    叀い八癟屋、和菓子屋、花屋、小さな本屋。
    隌人はふず、本屋の前で足を止めた。
    「寄る」
    矎月が聞いた。
    「少しだけ」
    二人は店内ぞ入った。
    冷房の効いた叀い本屋は、玙の匂いがした。雑誌、文庫本、料理本、ビゞネス曞、コミック。倧きな店ではないが、棚の䞊びにどこか萜ち着きがある。
    矎月は料理本の棚を芋おいた。
    隌人はその隣の生掻実甚曞の棚で、片づけや家事の本を眺めた。
    「家事初心者のための」
    隌人は小声でタむトルを読んだ。
    矎月が暪から芗き蟌む。
    「買う」
    「俺、぀いに本栌的に家事を孊ぶのか」
    「いいず思う」
    「料理、掃陀、掗濯、党郚茉っおる」
    「今の隌人くんにぎったり」
    「俺甚の攻略本だな」
    矎月は笑った。
    隌人は少し迷っおから、その本を手に取った。
    「買う」
    「本圓に」
    「うん。矎月に聞く前に自分で調べるこずも芚える」
    矎月は少しだけ驚き、それから静かに埮笑んだ。
    「嬉しい」
    「たあ、読んでも党郚できるずは限らんけど」
    「少しず぀でいいよ」
    「成長期だから」
    「それ、もう合蚀葉だね」
    隌人は家事の本を買った。
    レゞ袋を断り、昚日の゚コバッグに入れる。
    「゚コバッグ、圹に立った」
    「忘れなくおよかったね」
    「枡しおもらったからな」
    「最終チェック」
    「偉倧」
    本屋を出るず、空は少し雲が増えおいた。
    倕方には雚が降るかもしれない。
    隌人は空を芋䞊げた。
    「傘持っおきおないな」
    矎月が蚀った。
    「俺も」
    「珍しく二人ずも」
    「たあ、近いし」
    「降る前に垰ろう」
    「そうだな」
    二人は少し早足でマンションぞ向かった。
    途䞭、ぜ぀りず雚粒が萜ちた。
    隌人ず矎月は同時に空を芋䞊げる。
    「来た」
    「急ごう」
    二人は笑いながら歩いた。
    傘はない。
    小さな道具もない。
    誰かに堎所を確認されるこずもない。
    ただ、雚が降りそうだから䞀緒に垰る。
    それだけのこずが、劙に気楜だった。
    マンションに着く頃には、雚は本降りになる手前だった。
    ゚ントランスに駆け蟌むず、二人ずも少し肩が濡れおいた。
    矎月は息を匟たせお笑った。
    「ぎりぎり」
    「傘、必芁だったな」
    「明日は持ずう」
    「二人で忘れたら意味ないけど」
    「玄関に眮いおおこう」
    「頌りになりたす」
    郚屋に戻るず、矎月はすぐにタオルを出した。
    隌人は自分の肩を拭きながら、ふず思った。
    昚日の雚ずは違う。
    䞉島ず䞀緒に入った傘。
    蚀えなかったこず。
    濡れた肩。
    あの時の重さは、今日はなかった。
    今日は、矎月ず䞀緒に濡れた。
    それだけで、こんなにも違う。
    倕方、隌人は買っおきた家事の本を開いた。
    ゜ファに座り、真剣に目を通す。
    矎月は隣で掗濯物を畳みながら、ちらちらず芋おいる。
    「䜕か面癜い」
    「掗剀の量っお、適圓じゃ駄目らしい」
    「駄目だよ」
    「俺、今たで倚い方が綺麗になるず思っおた」
    「ならないよ」
    「衝撃」
    「前に蚀ったよ」
    「蚘憶にない」
    「だず思った」
    矎月は笑った。
    隌人は本を読みながら、時々質問した。
    掗濯ネットの䜿い方。
    タオルの干し方。
    排氎口の掃陀。
    冷蔵庫の敎理。
    どれも隌人には新しい知識だった。
    矎月は䞀぀ひず぀䞁寧に答えた。
    以前なら、矎月が党郚やっおいた。
    隌人は知らないたたでいた。
    今は、少しず぀知ろうずしおいる。
    それだけで、矎月は少し嬉しそうだった。
    倕飯は、冷蔵庫にあるもので簡単に枈たせるこずになった。
    矎月が豚肉ず野菜の炒め物を䜜り、隌人は味噌汁を担圓した。
    味噌汁。
    それは隌人にずっお、぀いに螏み蟌む新しい領域だった。
    「出汁っおこれ」
    「それ」
    「味噌はどのくらい」
    「少しず぀溶いお」
    「少しず぀ずは」
    「味芋しながら」
    「料理人っぜい」
    「味噌汁は味芋が倧事」
    隌人は真剣に味噌を溶いた。
    途䞭、少し濃くなりかけたが、矎月が氎を足しお調敎した。
    完成した味噌汁は、矎月の味には及ばなかった。
    でも、飲める味だった。
    「どう」
    隌人が聞くず、矎月は怀を䞡手で持ち、ゆっくり飲んだ。
    「おいしい」
    「本圓」
    「うん。少し濃いけど、おいしい」
    「少し濃いのか」
    「でも、隌人くんが䜜っおくれたから嬉しい」
    隌人は照れた。
    「その評䟡、やっぱり優しいな」
    「優しいだけじゃないよ」
    「本圓」
    「本圓。次はもっずおいしくなる」
    その蚀葉が嬉しかった。
    倱敗ではなく、次に぀ながる蚀葉。
    矎月はそういう蚀い方をする。
    人を折らずに、前ぞ向ける蚀い方。
    隌人は改めお思った。
    矎月は優しい。
    ただし、その優しさは䞇胜ではない。
    だからこそ、倧事にしなければならない。
    倜、二人は早めに颚呂に入り、リビングでゆっくりした。
    雚は窓の倖で静かに降り続いおいた。
    テレビは぀けず、スマホもほずんど觊らなかった。
    隌人は家事の本を読み、矎月は隣で雑誌を読んでいる。
    時々、どちらかが話しかける。
    それだけの時間だった。
    二十䞀時過ぎ、隌人のスマホが震えた。
    䌚瀟のグルヌプチャットだった。
    課長が明日の䌚議資料に぀いお、たた確認を送っおいる。
    隌人は画面を芋お、小さくため息を぀いた。
    「日曜の倜なのに」
    矎月が蚀った。
    「本圓にな」
    「返信する」
    「既読にしたら負けな気がする」
    「でも芋ちゃった」
    「負けた」
    矎月は笑った。
    隌人は簡単に返信した。
    明朝確認したす
    それだけ。
    すぐにスマホを眮いた。
    「偉い」
    矎月が蚀った。
    「仕事しすぎない倧人ずしお」
    「倧人ずしお」
    「䟿利だな、その蚀葉」
    「うん」
    二人はたた笑った。
    その倜、寝る前に隌人はスマホを寝宀ぞ持っおいかなかった。
    矎月もそうした。
    リビングのテヌブルに二台䞊べる。
    昚日ず同じように、画面は暗い。
    「目芚たしどうする」
    矎月が聞く。
    「明日から平日じゃない」
    「え」
    隌人は固たった。
    「明日、月曜」
    矎月は目を䞞くした。
    「今日、日曜だよ」
    「  したった。完党に䌑み気分だった」
    「目芚たしいるね」
    「いる」
    二人は顔を芋合わせた。
    そしお、同時に笑った。
    「スマホ、寝宀に持っおいかない䜜戊、早くも砎綻」
    「目芚たし時蚈買おうか」
    「それだ」
    「スマホに頌らない道具」
    「平和な道具だ」
    「鳎ったらうるさいけど」
    「それは正しい䜿い方」
    結局、隌人のスマホだけを寝宀に持っおいくこずにした。
    ただし、通知は切る。
    目芚たしだけ。
    矎月が蚭定を䞀緒に確認した。
    隌人も自分で画面を芋た。
    「これで、䌚瀟の通知ずかは鳎らない」
    「鳎らないよ」
    「䞉島さんから来おも」
    蚀っおから、隌人は䞀瞬身構えた。
    しかし、矎月は静かに答えた。
    「鳎らない」
    「うん」
    「でも、来たら朝芋ればいい」
    「そうする」
    「もし急ぎなら、䌚瀟の人が䜕ずかする」
    昚日の隌人の蚀葉を、矎月が少し真䌌した。
    隌人は笑った。
    「そうだな」
    寝宀に入る。
    雚音が窓の倖で続いおいる。
    照明を消すず、郚屋は暗くなった。
    スマホは枕元に眮いおある。
    画面は暗い。
    通知は鳎らない。
    矎月は隌人の隣に暪になった。
    「今日、よかったね」
    矎月が蚀った。
    「うん」
    「埅ち合わせも、定食屋も、本屋も、雚も」
    「雚たで」
    「䞀緒に濡れたから」
    隌人は少し笑った。
    「そうだな」
    「昚日の雚ずは違った」
    矎月も同じこずを思っおいた。
    隌人は少し驚いたが、嬉しかった。
    「俺も思った」
    「そっか」
    「矎月ず䞀緒だず、雚でもちょっず面癜い」
    「䞉島さんずは」
    矎月は蚀っおから、すぐに口を抌さえた。
    「あ、ごめん」
    隌人は少しだけ固たった。
    しかし、怒りはなかった。
    むしろ、矎月がそう聞いおしたったこずが、人間らしくお少し安心した。
    「仕事䞭の雚だった」
    隌人は答えた。
    「気たずかったし、濡れたし、あずで蚀えなくなっお面倒だった」
    矎月は小さく頷いた。
    「そっか」
    「矎月ずの雚の方がいい」
    「比べるものじゃないけど」
    「でも、そう思った」
    矎月は少し笑った。
    「ありがずう」
    「チクッずした」
    「少しだけ。でも、聞けおよかった」
    「ならよかった」
    二人は暗闇の䞭で手を぀ないだ。
    昚日より自然に。
    䞀昚日より穏やかに。
    雚音が続いおいる。
    静かな倜だった。
    隌人は目を閉じた。
    このたた、少しず぀よくなっおいける。
    そう信じた。
    矎月も目を閉じた。
    今日は䞍安を聞けた。
    嫌なこずを蚀えた。
    隌人も答えおくれた。
    それで少し安心した。
    二人は同じように、未来を少しだけ信じた。
    だが、その倜遅く。
    枕元のスマホは、音も光も出さずに、ただ䞀件の通知を受け取っおいた。
    通知は鳎らない。
    画面も光らない。
    朝たで、誰にも気づかれない。
    送信者は、䞉島玲奈だった。
    短いメッセヌゞだった。
    明日の朝、少しだけお話できたすか。
    仕事の話ではありたせん。
    そのメッセヌゞは、倜の䞭で静かに眠っおいた。
    隌人も、矎月も知らないたた。
    雚だけが、窓の倖で降り続いおいた。
    ゚ピロヌグ
    月曜日の朝、隌人は目芚たしの音で飛び起きた。
    雚は䞊がっおいた。
    窓の倖には、ただ濡れた道路が光っおいる。街路暹の葉から氎滎が萜ち、朝の光を受けお小さくきらめいおいた。昚日の倜に降り続いた雚が、街の汚れを少しだけ掗い流したように芋える。
    隌人は垃団の䞭でスマホを探り、目芚たしを止めた。
    矎月は隣で目を開けた。
    「おはよう」
    「おはよ」
    二人の声は、ただ眠気を含んでいた。
    昚日は穏やかな日だった。
    埅ち合わせの䜙韻。
    ロヌルキャベツの残り。
    雚の音。
    手を぀ないで眠った倜。
    隌人はそれらを思い出しながら、スマホの画面を芋た。
    通知が䞀件。
    䞉島玲奈。
    明日の朝、少しだけお話できたすか。
    仕事の話ではありたせん。
    隌人の眠気は、䞀瞬で消えた。
    心臓が、いやな音を立おた。
    画面の文字は短い。
    たった二行。
    けれど、その二行が寝宀の空気を倉えた。
    隌人は反射的にスマホを閉じかけた。
    だが、途䞭で手を止めた。
    隠さない。
    そう決めた。
    矎月は隣にいる。
    今、隠せば同じこずを繰り返す。
    隌人は深く息を吞った。
    「矎月」
    「うん」
    矎月はただ半分眠そうな顔でこちらを芋た。
    隌人はスマホを差し出した。
    「䞉島さんから、倜䞭に来おた」
    矎月の衚情が少しだけ固たった。
    それでも、圌女は画面を芋た。
    文字を読む。
    明日の朝、少しだけお話できたすか。
    仕事の話ではありたせん。
    矎月は黙った。
    寝宀に、朝の光だけが静かに広がっおいく。
    「俺も今芋た」
    隌人は蚀った。
    「通知切っおたから、気づかなかった」
    「うん」
    矎月の声は小さかった。
    「仕事の話じゃないっお」
    「うん」
    「どうするの」
    その問いは穏やかだった。
    けれど、隌人にはその奥にある緊匵が分かった。
    以前なら、分からなかったかもしれない。
    矎月が笑っおいれば、倧䞈倫だず思っおいただろう。
    でも今は違う。
    圌女の指先が垃団を少し握っおいるこず。
    声がわずかに䜎くなったこず。
    目が画面ではなく、自分の衚情を芋おいるこず。
    隌人にはそれが芋えた。
    「聞く」
    隌人は蚀った。
    矎月の衚情が揺れた。
    隌人はすぐに続けた。
    「でも、䞀人では䌚わない」
    矎月は瞬きをした。
    「え」
    「䌚瀟で、他の人がいる堎所で聞く。できれば䜐䌯も近くにいる時に」
    「うん」
    「隠さない。䜕を蚀われたかも、垰っおからちゃんず話す」
    矎月は䜕も蚀わなかった。
    隌人はスマホを手にしたたた、少し考えた。
    「いや、垰っおからじゃなくお、聞いたらその堎で送る」
    矎月の目が少しだけ最んだ。
    「いいの」
    「いい」
    隌人は頷いた。
    「矎月に心配かけたくないから、っお蚀いながら隠すのはもうやめる」
    「うん」
    「でも、矎月も」
    「うん」
    「勝手に確かめないで、聞いお」
    矎月は小さく頷いた。
    「聞く」
    「もし䞍安なら、䞍安っお蚀っお」
    「うん」
    「俺も、面倒がらずに答える」
    矎月は少しだけ笑った。
    「面倒がるんだ」
    「たぶん、少しは」
    隌人は正盎に蚀った。
    「でも、逃げない」
    矎月はスマホの画面をもう䞀床芋た。
    その衚情には、いく぀もの感情が混じっおいた。
    䞍安。
    怖さ。
    信じたい気持ち。
    それでも聞こうずする決意。
    「分かった」
    矎月は蚀った。
    「行っおきお」
    隌人は頷いた。
    朝食は、い぀もより少し静かだった。
    矎月は味噌汁を䜜り、隌人はトヌストではなく癜いご飯を食べた。焌き鮭、卵焌き、味噌汁。月曜日らしい朝食。
    味はい぀も通りおいしかった。
    だが、テヌブルの䞊には芋えない緊匵が眮かれおいた。
    䞉島のメッセヌゞ。
    仕事の話ではありたせん。
    その蚀葉が、二人の間で䜕床も無蚀のたた行き来しおいた。
    「食べられる」
    矎月が聞いた。
    「食べる」
    隌人は蚀った。
    「食べないず、ちゃんず考えられない」
    矎月は少し笑った。
    「倧人ずしお」
    「倧人ずしお」
    い぀もの蚀葉。
    少しだけ笑える。
    それだけで救われた。
    出勀前、玄関で矎月が隌人のネクタむを盎した。
    指先は少し冷たかった。
    隌人はその手に自分の手を重ねた。
    「倧䞈倫」
    矎月は顔を䞊げた。
    「それ、本圓に」
    「たぶん」
    「たぶん」
    「でも、ちゃんずする」
    矎月は小さく息を吐いた。
    「うん」
    「行っおきたす」
    「行っおらっしゃい」
    扉を開ける前、隌人は振り返った。
    「䞉島さんには、䌚瀟に着いおから返す」
    「うん」
    「返したら、矎月にも送る」
    「うん」
    「玄束」
    矎月は少しだけ迷った埌、小指を差し出した。
    隌人はその小指に自分の小指を絡めた。
    「玄束」
    扉が閉たる。
    廊䞋の空気は、雚䞊がりの匂いがした。
    隌人は駅ぞ向かいながら、䜕床もスマホを芋たくなった。
    䞉島に返信する文面を考える。
    今朝、䌚瀟で聞きたす。
    人目のあるずころで。
    それは少し冷たいだろうか。
    いや、冷たくおいい。
    境界線は必芁だ。
    優しさは、盞手の望む距離に䜕でも螏み蟌むこずではない。
    助けるこずず、受け入れすぎるこずは違う。
    隌人はそう自分に蚀い聞かせた。
    䌚瀟に着くず、䜐䌯がすでに垭にいた。
    「おはよう」
    「おはよう」
    䜐䌯は隌人の顔を芋た瞬間、眉を寄せた。
    「䜕かあった顔だな」
    「朝から鋭いな」
    「お前、分かりやすいから」
    隌人はバッグを眮き、䜐䌯にスマホの画面を芋せた。
    䜐䌯はメッセヌゞを読んで、顔をしかめた。
    「うわ」
    「うわっお蚀うな」
    「いや、これはうわだろ」
    「どう思う」
    䜐䌯は少し考えた。
    「たず、お前が倉な期埅をするな」
    「しおない」
    「本圓に」
    隌人は黙った。
    完党にしおいないず蚀い切るには、自分の䞭を信甚しきれなかった。
    䞉島が䜕を話したいのか。
    それを想像しお、心臓が少し跳ねたのは事実だった。
    それが嬉しさなのか、怖さなのか、譊戒なのかは分からない。
    でも、䜕かを感じた。
    それは吊定できなかった。
    䜐䌯はため息を぀いた。
    「ほらな」
    「䜕も蚀っおないだろ」
    「顔で蚀っおる」
    䜐䌯は怅子に座り盎した。
    「䌚瀟で聞け。絶察に倖で二人きりになるな。電話も長くするな。盞手が䜕を蚀っおも、圌女を倧事にするっお軞をずらすな」
    「分かっおる」
    「あず、圌女には」
    「芋せた。䌚瀟で聞くっお蚀った。聞いたら連絡する」
    䜐䌯は目を䞞くした。
    「お前、成長したな」
    「倧人ずしお」
    「倧人ずしお」
    二人は少しだけ笑った。
    それから隌人は䞉島に返信した。
    おはようございたす。 今朝、䌚瀟で少しなら聞けたす。 ただ、仕事以倖の話なら、共有スペヌスでお願いしたす。
    送信。
    すぐに既読が぀いた。
    ありがずうございたす。 共有スペヌスで倧䞈倫です。 お時間いただいおすみたせん。
    隌人はその画面をスクリヌンショットするわけではなく、文面をそのたた矎月に送った。
    こう返した。 䌚瀟の共有スペヌスで聞く。
    矎月からは少し間を眮いお返信が来た。
    分かった。 教えおくれおありがずう。
    隌人はその䞀文を芋お、少し息を吐いた。
    䞉島が来たのは、九時過ぎだった。
    営業二課ではなく、隣のフロアから䞊がっおきたらしい。癜いブラりスに薄いカヌディガン。手にはノヌトを持っおいる。
    隌人を芋るず、圌女は少し緊匵したように頭を䞋げた。
    「おはようございたす」
    「おはようございたす」
    䜐䌯が遠くからこちらを芋おいた。
    あからさたに芋すぎだった。
    隌人は軜く睚むず、䜐䌯はわざずらしくパ゜コン画面ぞ芖線を戻した。
    「共有スペヌスでいいですか」
    隌人が蚀うず、䞉島は頷いた。
    「はい」
    二人はオフィスの端にある共有スペヌスぞ移動した。
    ガラス越しに瀟内が芋える堎所だった。打ち合わせ甚の䞞テヌブルが䞉぀あり、他郚眲の瀟員が䞀人、ノヌトパ゜コンを開いおいる。
    二人きりではない。
    隌人はそれだけで少し萜ち着いた。
    「それで、話っお」
    隌人が聞くず、䞉島はノヌトを胞に抱えたたた、少し芖線を萜ずした。
    「あの、先に謝らせおください」
    「謝る」
    「土曜日の倜、急に電話をお願いしおしたっお」
    「ああ」
    「その埌、考えおしたっお。私、朚䞋さんに甘えおいたず思いたす」
    隌人は少し驚いた。
    䞉島は続けた。
    「仕事で分からないこずがあるず、朚䞋さんに聞けばいいず思っおいたした。優しく教えおくださるから、安心しおしたっお」
    「それは研修䞭だったので」
    「でも、䌑日の倜に連絡するのは違いたした」
    䞉島ははっきり蚀った。
    「矎月さんにも、朚䞋さんにも、倱瀌でした」
    隌人は黙っお聞いおいた。
    䞉島の顔は真剣だった。
    浮぀いたものはない。
    告癜めいた甘さもない。
    ただ、自分の行動を反省しおいる顔だった。
    「昚日の倜、たたメッセヌゞを送ったのは」
    䞉島は少しだけ蚀葉に詰たった。
    「ちゃんず謝りたかったからです。でも、それも結局、たた䌑日の倜に連絡しおしたったこずになりたすよね」
    隌人は静かに頷いた。
    「そうですね」
    䞉島は苊笑した。
    「本圓に、䜕をしおいるんだろうっお思いたした」
    「䞉島さん」
    「はい」
    「俺も、線匕きが甘かったです」
    隌人は蚀った。
    「研修担圓ずしお教えるのは仕事です。でも、時間や堎所を考えずに応じるのは違いたした」
    「いえ、私が」
    「䞡方です」
    隌人は少しだけ匷く蚀った。
    「俺も、頌られるず嬉しかったんです」
    䞉島は顔を䞊げた。
    「え」
    「教えたこずを真剣に聞いおくれお、分かりやすいず蚀っおくれお、助かったず蚀っおくれお。正盎、嬉しかった」
    隌人は自分の声が震えないように、ゆっくり話した。
    「でも、それをちゃんず自芚しないたた、優しさみたいな顔で応じおいたず思いたす」
    䞉島は䜕も蚀わなかった。
    「だから、これから仕事の質問は䌚瀟の時間にしたしょう。必芁なら、䜐䌯や課長にも共有しおください」
    「はい」
    「俺も、必芁以䞊に個別では察応したせん」
    䞉島は少しだけ寂しそうに芋えた。
    けれど、すぐに頷いた。
    「分かりたした」
    「突き攟したいわけじゃないです」
    「はい」
    「䞉島さんは真面目だし、吞収も早い。これからきっず仕事できるようになるず思いたす」
    䞉島の目が少し最んだ。
    「ありがずうございたす」
    「でも、俺だけを頌らない方がいいです」
    䞉島は小さく笑った。
    「はい」
    「それは、䞉島さんのためでもあるし、俺のためでもありたす」
    䞉島は深く頭を䞋げた。
    「分かりたした」
    少しの沈黙。
    共有スペヌスの向こうで、コピヌ機の音がした。
    䞉島は顔を䞊げ、少しだけ照れたように笑った。
    「実は、昚日メッセヌゞした時、䜕を話したかったかずいうず」
    隌人の胞が少しだけ鳎った。
    䞉島は蚀った。
    「朚䞋さんみたいな人を目暙にしたいず思ったんです」
    隌人は瞬きをした。
    「俺を」
    「はい。盞手を芋るこず、責めずに教えるこず、分からないこずを持ち垰る勇気を持぀こず。研修で教わったこずが、私にはすごく倧きかったので」
    䞉島はノヌトを少し持ち䞊げた。
    「そのお瀌を、ちゃんず蚀いたかったんです」
    隌人はゆっくり息を吐いた。
    どこかで身構えおいた自分が、少し恥ずかしくなった。
    䞉島は恋愛の話をしに来たわけではなかった。
    ただ、研修のお瀌を蚀いたかった。
    そしお、線匕きを謝りたかった。
    それだけだった。
    隌人の䞭で、䜕かが静かにほどけた。
    同時に、少しだけ苊くもあった。
    自分の心のどこかに、䜕かを期埅する匱さがなかったず蚀えば嘘になる。
    その匱さが、今はっきり芋えた。
    「ありがずうございたす」
    隌人は蚀った。
    「でも、俺を目暙にするず家事は壊滅したす」
    䞉島は䞀瞬きょずんずしお、それから笑った。
    「そこは矎月さんを目暙にしたす」
    「それが正解です」
    隌人も笑った。
    その笑いは、ようやく自然だった。
    䞉島はもう䞀床頭を䞋げた。
    「お時間ありがずうございたした。これからは、ちゃんず䌚瀟の時間に質問したす」
    「はい。応揎しおたす」
    「ありがずうございたす」
    䞉島は共有スペヌスを出おいった。
    その埌ろ姿を芋送りながら、隌人はスマホを取り出した。
    矎月にメッセヌゞを送る。
    話、終わった。 内容は、䌑日の倜に連絡したこずぞの謝眪ず、研修のお瀌だった。 俺も線匕きが甘かったず䌝えた。 これからは仕事の質問は䌚瀟の時間にしおもらうこずにした。
    少し迷っお、もう䞀文加えた。
    頌られお嬉しかった自分もいた。 そこも自芚した。 垰ったらちゃんず話す。
    送信。
    既読はすぐに぀いた。
    返信は少し遅れた。
    話しおくれおありがずう。 垰っおから聞くね。 仕事、頑匵っお。
    隌人はスマホを閉じた。
    胞の奥が、少し軜くなっおいた。
    その日、仕事はい぀も通り忙しかった。
    月曜の䌚議。
    課長からの修正。
    取匕先ぞの電話。
    䜐䌯のくだらない茶々。
    「で、朝の件は平和に終わったのか」
    䜐䌯が昌䌑みに聞いおきた。
    「平和に終わった」
    「告癜じゃなかった」
    「違う」
    「ちょっず残念そうな顔するなよ」
    「しおない」
    䜐䌯はにやにやした。
    「たあ、お前の匱さが芋えたな」
    「うるさい」
    「でも、芋えたならいいんじゃね。芋えない匱さが䞀番危ない」
    隌人は少しだけ頷いた。
    「そうだな」
    「圌女にはちゃんず話せよ」
    「話す」
    「よろしい」
    䜐䌯は満足そうに頷いた。
    「お前、誰目線だよ」
    「倱敗経隓豊富な先茩目線」
    「䟿利だな、それ」
    「䟿利だぞ」
    二人は笑った。
    倕方、隌人は定時で䌚瀟を出た。
    今日はたっすぐ垰る。
    矎月に連絡する。
    今から垰る。 今日は寄り道なし。
    すぐに返信が来た。
    お぀かれさた。 倕飯は肉じゃがだよ。
    隌人は笑った。
    肉じゃが。
    自分が垰る堎所にある味。
    隌人は駅ぞ向かいながら、空を芋䞊げた。
    雚は降っおいない。
    だが、颚には少し湿り気が残っおいる。
    昚日の雚の名残だろう。
    電車の䞭で、隌人は䞉島からのメッセヌゞが来おいないか気になった。
    だが、スマホは静かだった。
    それでよかった。
    䜕も来ないこずが、少し寂しいような、ほっずするような気持ちもあった。
    隌人はその気持ちも吊定しなかった。
    人から頌られなくなるのは、少し寂しい。
    でも、それは悪いこずではない。
    その寂しさを理由に、自分から境界を厩しに行かなければいい。
    自分の匱さを知っおいれば、螏みずどたれる。
    そう思った。
    マンションに着き、玄関を開ける。
    「ただいた」
    「おかえり」
    矎月が玄関に来た。
    ゚プロン姿。
    優しい笑顔。
    けれど今日は、その笑顔の䞭にほんの少し緊匵もあった。
    隌人にはそれが分かった。
    「話す」
    隌人は靎を脱ぎながら蚀った。
    「うん」
    二人はリビングぞ入った。
    テヌブルには倕飯が䞊んでいる。
    肉じゃが、味噌汁、小束菜のおひたし、癜いご飯。
    枩かい湯気が立ち䞊っおいた。
    「先に食べながらでもいい」
    矎月が聞いた。
    「うん」
    二人は食卓に぀いた。
    隌人は朝のこずを、最初から話した。
    䞉島が謝ったこず。
    䌑日の倜に連絡したこずを反省しおいたこず。
    隌人に感謝を䌝えたかったこず。
    隌人を仕事䞊の目暙にしたいず蚀っおくれたこず。
    そしお、自分も頌られお嬉しかったこず。
    その嬉しさを、ちゃんず自芚しおいなかったこず。
    矎月は黙っお聞いおいた。
    途䞭、少しだけ箞を止めた。
    「目暙にしたいっお蚀われたんだ」
    「うん」
    「嬉しかった」
    隌人は頷いた。
    「嬉しかった」
    矎月は小さく息を吐いた。
    「そっか」
    「チクッずした」
    「した」
    矎月は正盎に蚀った。
    「でも、隠されるよりいい」
    隌人は頷いた。
    「うん」
    「それに、隌人くんが嬉しかったっお蚀っおくれたから、逆に少し安心した」
    「安心」
    「うん。隠しおない感じがした」
    矎月は肉じゃがのじゃがいもを箞で割った。
    「私は、隌人くんが誰かに耒められお嬉しくなるのを党郚嫌だずは思わないよ」
    「うん」
    「でも、それを隠されるず怖い」
    「うん」
    「だから、蚀っおくれおよかった」
    隌人は味噌汁を飲んだ。
    枩かさが胃に萜ちおいく。
    「俺も、蚀えおよかった」
    「䞉島さんずは、これで倧䞈倫そう」
    「うん。仕事の質問は䌚瀟の時間に、必芁なら他の人も入れおっお話した」
    「うん」
    「俺も個別に察応しすぎない」
    「うん」
    「だから、倧䞈倫」
    矎月は隌人を芋た。
    「その倧䞈倫は、信じおいい」
    隌人は少し考えた。
    軜く倧䞈倫ず蚀うのは簡単だ。
    だが、矎月にずっお、その蚀葉は重い。
    隌人は静かに蚀った。
    「信じおいいように、俺が行動する」
    矎月の衚情が少し柔らかくなった。
    「うん」
    「今の、ちょっず栌奜よかった」
    「少し」
    「䜐䌯に蚀うずいじられるや぀」
    「蚀わない方がいいね」
    二人は笑った。
    食事が終わる頃には、空気はずいぶん柔らかくなっおいた。
    肉じゃがはい぀ものようにおいしかった。
    隌人は玠盎に䜕床も「うたい」ず蚀った。
    矎月はそのたびに「よかった」ず笑った。
    食埌、隌人は皿を掗った。
    矎月は暪で垃巟を持った。
    「今日の皿掗い、かなり䞊達しおる」
    「家事の本読んだからな」
    「本の効果」
    「あず矎月先生の指導」
    「先生」
    「皿掗いの垫匠」
    「倧げさ」
    二人で笑いながら、食噚を片づける。
    その小さな時間が、隌人には倧切に思えた。
    倜、リビングでく぀ろいでいるず、矎月がふず立ち䞊がった。
    「ちょっず芋せたいものがある」
    「䜕」
    矎月は寝宀の棚から、小さな箱を持っおきた。
    以前、家電量販店で買ったものの空き箱だった。
    隌人はそれを芋お、少しだけ身構えた。
    矎月はその反応に気づいたのか、すぐに蚀った。
    「怖がらせたいわけじゃないよ」
    「うん」
    「ちゃんず説明しおおきたいの」
    矎月はテヌブルに箱を眮いた。
    「私が最初にこれを買った時、䜕を考えおいたか」
    隌人は黙っお頷いた。
    矎月は箱を撫でるように指で觊れた。
    「隌人くん、よく忘れ物するでしょ」
    「うん」
    「鍵ずか、財垃ずか、バッグずか。毎回、すごく焊る」
    「うん」
    「私は、その顔を芋るのが嫌だった」
    矎月の声は静かだった。
    「困っおる隌人くんを芋るず、䜕ずかしたいっお思った。先に気づけたらいいのにっお思った。探し物で䞀日が台無しになるくらいなら、䟿利なものに頌ればいいず思った」
    「うん」
    「その時は、本圓にそれだけだった」
    矎月は顔を䞊げた。
    「でも、䜿っおいるうちに、分かるこずが増えた」
    隌人は小さく息を吞った。
    「最初は、バッグがあるかどうか。鍵があるかどうか。それだけの぀もりだった。でも、バッグが動いおいるのを芋るず、隌人くんが移動しおいるんだっお分かった」
    「うん」
    「䌚瀟にいる。駅にいる。垰っおきおる。そう分かるず、安心した」
    矎月の目に、少し涙が浮かんだ。
    「安心したら、たた芋たくなった」
    隌人は黙っお聞いおいた。
    「䜕も疑っおいないのに、芋れば安心できるから。心配が消えるから。だから、少しだけっお思った」
    「うん」
    「でも、その少しだけが、隌人くんには怖かった」
    「うん」
    「私は、自分が監芖しおいるなんお思っおなかった」
    矎月の声が震えた。
    「本圓に、思っおなかった」
    隌人は胞が痛んだ。
    圌女の蚀葉は、嘘ではない。
    矎月は悪人ではない。
    悪意で隌人を瞛ろうずしたわけではない。
    ただ、心配を䟿利な道具で和らげようずした。
    そしお、その䟿利さに少しず぀寄りかかっおいった。
    「今なら分かる」
    矎月は蚀った。
    「隌人くんが嫌だった理由。怖かった理由」
    「うん」
    「䟿利なものは、人を助ける。でも、盞手に蚀わずに䜿ったら、助けるためでも怖いものになる」
    隌人は頷いた。
    「道具そのものに善悪はない」
    矎月は静かに蚀った。
    「䜿う人の心ず、䜿い方で倉わる」
    その蚀葉は、二人の間に深く萜ちた。
    包䞁も。
    スマホも。
    小さな道具も。
    傘も。
    蚀葉も。
    優しさも。
    すべお、䜿い方を間違えれば人を傷぀ける。
    隌人は矎月の手に觊れた。
    「話しおくれおありがずう」
    矎月は目を䌏せた。
    「嫌いになった」
    「ならない」
    隌人はすぐに蚀った。
    「怖かったこずはある。でも、矎月を嫌いにはならない」
    「本圓」
    「本圓」
    「私、やりすぎた」
    「うん」
    「隌人くんも隠した」
    「うん」
    「二人ずも、間違えたね」
    「うん」
    隌人は少し笑った。
    「でも、道具も蚀葉も、䜿い方を芚え盎せばいいんじゃないか」
    矎月は隌人を芋た。
    「芚え盎す」
    「うん。俺はスマホを䌏せない。蚀いにくいこずを早めに蚀う。頌られお嬉しい時も、自分で自芚する」
    「うん」
    「矎月は、䞍安になったら勝手に芋ないで聞く」
    「うん」
    「忘れ物防止の道具も、䜿うなら二人で決めお䜿う」
    「うん」
    「それでいいず思う」
    矎月は涙を拭った。
    「うん」
    「あず」
    隌人は少し照れながら蚀った。
    「俺はもう少し家事をする」
    矎月は泣き笑いのような顔になった。
    「そこに぀ながるの」
    「かなり倧事だろ。俺が䜕でも矎月任せにしおるから、矎月が俺を芋すぎる構造ができる」
    矎月は少し驚いたように隌人を芋た。
    「構造」
    「仕事っぜく蚀っおみた」
    「でも、そうかも」
    「だから、俺も自立する。少しず぀」
    「うん」
    「目玉焌きから」
    矎月は笑った。
    「そこからだね」
    「味噌汁も緎習䞭」
    「濃いけど」
    「䌞びしろ」
    二人は笑った。
    その笑いは、穏やかだった。
    完党に傷が消えたわけではない。
    二十二時四十䞀分の倜も、傘のこずも、スマホを䌏せた瞬間も、勝手に芋たこずも、なかったこずにはならない。
    けれど、それらはもう、ただの亀裂ではなかった。
    二人が自分たちの危うさに気づいた跡だった。
    倜が曎けおいく。
    リビングの花は、昚日より少し元気を取り戻しおいた。
    矎月が氎を替え、茎を切り、䞁寧に敎えたからだった。
    䞖話をすれば、花は少し持ち盎す。
    人間関係も、きっず同じだ。
    隌人はそう思った。
    寝る前、二人はスマホの通知蚭定を芋盎した。
    隌人のスマホ。
    矎月のスマホ。
    仕事の通知。
    個別メッセヌゞ。
    目芚たし。
    必芁なものだけ残し、倜は鳎らないようにする。
    隌人も画面を芋お、自分で蚭定した。
    矎月は暪で説明するだけだった。
    「できた」
    隌人が蚀うず、矎月は頷いた。
    「できたね」
    「俺、機械に少し匷くなった」
    「少し」
    「成長期だから」
    「倧人ずしお」
    二人は笑った。
    寝宀に入る前、矎月は小さな道具の箱を手に取った。
    「これは、どうする」
    隌人は少し考えた。
    「捚おなくおいい」
    矎月は驚いた。
    「いいの」
    「䜿い方が悪かっただけで、道具が悪いわけじゃない」
    「うん」
    「でも、今はしたっおおこう」
    「うん」
    「必芁になったら、二人で出す」
    矎月はゆっくり頷いた。
    「分かった」
    箱はリビングの棚の奥にしたわれた。
    隠すためではなく、必芁になるたで眮いおおくために。
    寝宀の明かりを消すず、郚屋は暗くなった。
    隌人ず矎月は䞊んで暪になった。
    「矎月」
    「うん」
    「前にさ」
    「うん」
    「なんでそんなに優しいのっお聞いたら、奜きだからじゃないっお蚀ったよな」
    矎月は少し笑った。
    「蚀ったね」
    「あの日の答え、今なら少し分かる気がする」
    「どんなふうに」
    「奜きだから優しい。でも、奜きだから䞍安にもなる。奜きだから心配しすぎる。奜きだから間違えるこずもある」
    矎月は黙っおいた。
    「でも、奜きだから盎そうずも思える」
    「うん」
    「たぶん、そういうこずだろ」
    矎月はゆっくり隌人の方を向いた。
    暗くお衚情ははっきり芋えない。
    でも、声は穏やかだった。
    「隌人くん、今日は名蚀倚いね」
    「䜐䌯には蚀わない」
    「うん」
    「絶察いじられる」
    矎月は笑った。
    その笑い声を聞いお、隌人は安心した。
    「これからも、俺はたぶん忘れ物する」
    「うん」
    「スマホもよく分からない」
    「うん」
    「家事もただ䞋手」
    「うん」
    「誘惑にも匱いかもしれない」
    矎月は少しだけ息を止めた。
    隌人は続けた。
    「だから、自分で気を぀ける」
    「うん」
    「矎月に芋匵っおもらうんじゃなくお、自分で」
    矎月は小さく頷いた。
    「私も、心配しすぎるず思う」
    「うん」
    「䞍安になるず思う」
    「うん」
    「でも、勝手に芋ない」
    「うん」
    「聞く」
    「うん」
    「それでも駄目な時は、ちゃんず怒る」
    隌人は少し笑った。
    「怒るのか」
    「怒る」
    「優しく」
    「たぶん最初は」
    「最初だけ」
    「内容による」
    隌人は笑った。
    矎月も笑った。
    その笑いは、今たでで䞀番自然だった。
    二人は手を぀ないだ。
    指先が重なる。
    枩かい。
    そこにあるのは、完璧な信頌ではなかった。
    䞍安もある。
    匱さもある。
    隠した過去もある。
    間違えた優しさもある。
    それでも、぀なぎ盎そうずする意思があった。
    隌人は目を閉じた。
    矎月の手を握ったたた。
    眠りに萜ちる盎前、矎月が小さく蚀った。
    「隌人くん」
    「うん」
    「私、これからも優しくしたい」
    「うん」
    「でも、ちゃんず正しい圢で優しくしたい」
    隌人は目を閉じたたた頷いた。
    「俺も、ちゃんず受け取りたい」
    「うん」
    「あず、返したい」
    矎月は小さく笑った。
    「たずは目玉焌きから」
    「目玉焌きから」
    二人は笑いながら、静かに眠りぞ近づいおいった。
    リビングでは、花瓶の花が倜の䞭で静かに咲いおいた。
    棚の奥には、小さな箱がしたわれおいる。
    スマホは通知を止め、ただの時蚈のように沈黙しおいる。
    包䞁は掗われ、也かされ、明日の朝の料理を埅っおいる。
    どの道具も、䜕も語らない。
    それらに善悪はない。
    誰かを助けるこずもできる。
    誰かを怖がらせるこずもできる。
    意味を決めるのは、䜿う人の心だ。
    そしお、その心もたた、時々間違える。
    それでも、間違えたこずに気づけるなら。
    手を離さずに話し合えるなら。
    優しさは、もう䞀床正しい堎所ぞ戻っおこられる。
    眠る隌人の暪で、矎月は目を閉じた。
    圌の寝息を聞きながら、安心する。
    今日、圌は垰っおきた。
    ちゃんず話しおくれた。
    隠さずに芋せおくれた。
    矎月は心の䞭で、静かに呟いた。
    実は  
    最初からずっず、隌人くんは分かりやすかった。
    寝癖も。
    忘れ物も。
    疲れた時の声も。
    嘘を぀けない目も。
    隠し事をした時の指先も。
    誰かに耒められお嬉しくなる顔も。
    垰っおきた時にほっずする肩の萜ち方も。
    党郚、芋おいれば分かった。
    でも、それを知っおいるこずず、勝手に確かめるこずは違う。
    それを、ようやく矎月は知った。
    隌人もたた、倢の手前で思っおいた。
    矎月は優しい。
    ただ優しいだけではない。
    よく芋おいる。
    よく芚えおいる。
    自分よりずっず、自分のこずに気づいおいる。
    それが怖かった時もあった。
    でも今は、少しだけ違う。
    芋られおいるこずを恐れるのではなく、芋おくれおいる人を倧切にしたい。
    そしお、自分も矎月を芋おいきたい。
    笑っおいる時も。
    無理しおいる時も。
    䞍安な時も。
    嬉しい時も。
    ちゃんず。
    翌朝、隌人は目芚たしより少しだけ早く目を芚たした。
    隣には矎月が眠っおいる。
    リビングには、昚日より少し元気になった花。
    キッチンには、今日䜿われる包䞁。
    棚の奥には、したわれた小さな箱。
    枕元には、静かなスマホ。
    隌人は矎月を起こさないように、そっず垃団を抜け出した。
    今日は、味噌汁を䜜っおみよう。
    少し濃くなるかもしれない。
    でも、味芋しながら䜜ればいい。
    間違えたら、盎せばいい。
    キッチンに立ち、鍋を出す。
    出汁を入れる。
    豆腐を切る。
    包䞁を持぀手はただ危なっかしいが、慎重だった。
    やがお、寝宀のドアが開いた。
    矎月が眠そうな顔で立っおいる。
    「おはよう」
    隌人は振り返った。
    「おはよう」
    矎月はキッチンを芋お、少し驚いた顔をした。
    「味噌汁」
    「緎習」
    「火、倧䞈倫」
    「倧䞈倫。たぶん」
    「たぶん」
    矎月は笑った。
    い぀もの笑顔だった。
    優しくお、少し心配そうで、でも今たでより少しだけ肩の力が抜けた笑顔。
    隌人はその笑顔を芋お、思った。
    この人は、僕の圌女だ。
    ずおも優しい。
    少し心配性で、少し先回りしすぎお、時々間違える。
    でも、誰よりも僕を芋おくれおいた。
    そしお僕も、これからは芋おいく。
    矎月は隌人の隣に立ち、鍋を芗き蟌んだ。
    「味芋した」
    「ただ」
    「じゃあ、しおみよう」
    隌人は小皿に少しすくい、息を吹きかけお飲んだ。
    少し濃い。
    でも、悪くない。
    矎月も同じように味芋した。
    「少し濃いね」
    「やっぱり」
    「でも、おいしいよ」
    「氎足す」
    「少しだけ」
    隌人は頷き、氎を足した。
    味は少し優しくなった。
    矎月が笑った。
    「いい感じ」
    隌人も笑った。
    朝の光が、キッチンに差し蟌んでいる。
    湯気が䞊がる。
    味噌汁の匂いが郚屋に広がる。
    䜕でもない朝。
    けれど、昚日たでずは少し違う朝。
    隌人は矎月を芋た。
    矎月も隌人を芋た。
    蚀葉はいらなかった。
    いや、蚀葉はいらないのではない。
    これからは、必芁な時にちゃんず蚀えばいい。
    それを二人は知っおいる。
    隌人は怀に味噌汁をよそった。
    少しだけこがした。
    矎月が垃巟を差し出す。
    「ここ」
    「ありがずう」
    「どういたしたしお」
    い぀ものやり取り。
    でも、もう少しだけ察等なやり取り。
    テヌブルに朝食を䞊べる。
    二人で手を合わせる。
    「いただきたす」
    味噌汁を飲んだ矎月が、目を现めた。
    「おいしい」
    隌人は笑った。
    「よかった」
    その瞬間、タむトルの意味が、隌人の䞭で静かに圢になった。
    優しいだけではない。
    かわいいだけでもない。
    䞖話を焌いおくれるだけでもない。
    圌女は、僕のだらしなさも、匱さも、芋栄も、隠し事も、危うさも、党郚芋おいた。
    怖いくらいに。
    でも、最埌にはその芋方を倉えようずしおくれた。
    僕も、自分の匱さを隠さずに、圌女を芋るこずを芚えようずしおいる。
    だから今なら、こう蚀える。
    ずおも優しい僕の圌女は、
    僕の党おを知っおいた

    #創䜜倧賞2026 #オヌルカテゎリ郚門

     
     
    COSMOCCOS代衚 各皮AIの怜蚌・掻甚経隓を掻かし、初心者向けのChatGPTAI関連本をAmazon Kindleで出版䞭 もちろん読み攟題にも察応 今埌は䞭玚者・䞊玚者向けに、ハルシネヌションやChatGPTの仕組みを詳しく解説した曞籍も出版予定です。

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