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集国 終章 集国


    新見誠が日本中枢のトップに就任したのは、それから一週間後だった。
    就任式は簡素だった。派手にする理由がなかった。混乱はまだ続いていた。しかしパニックは、少しずつ収まりつつあった。
    誠は六つの自治区の代表者を、一人ずつ呼んだ。
    アレクセイ、アルマ、アンニン、エドワード、エアネスト。
    そして日本中枢の幹部たち。
    全員に、真実を話した。ノアのことを。水の壁のことを。日本が沈まなかった理由を。アメリカの計画を。全部。
    誰も喋らなかった。
    エアネストだけが、小さく頷いた。知っていた、という顔だった。
    アルマは下を向いていた。
    アレクセイは腕を組んで目を閉じた。
    アンニンは手元を見ていた。
    エドワードは窓の外を見ていた。
    誠は最後に言った。
    「真実を公開するかどうか、迷った。しかし公開しないことにした。民が知れば、水の壁への恐怖が広がる。ノアへの憎悪が生まれる。それが新たな戦争の火種になる」
    誰も反論しなかった。
    「その代わり、この部屋にいる全員で、これからの集国を作る。一人のトップが決めるのではなく、六つの地区が対等に話し合う。それが私の選択だ」
    エアネストが口を開いた。
    「ノアはどうする」
    誠は少し間を置いた。
    「動かし続ける」誠は言った。「止めれば水の壁が消える。今の技術では、その後に何が起きるかわからない。だから今は、動かし続ける。しかしいつか、止められる日が来たとき、その選択はこの部屋の全員でする」
    アルマが顔を上げた。
    「それは」アルマは言った。「嘉吉と同じ選択だ」
    「知っている」誠は答えた。「しかし私は、一人でしない」
    沈黙があった。
    アレクセイが、ゆっくり立ち上がった。
    全員の視線が集まった。
    アレクセイは誠の前に歩いてきた。大柄な体が、誠の正面に立った。誠は動かなかった。
    「嘉吉を殺した」アレクセイは言った。低い声だった。言い訳をする声ではなかった。「お前の父を」
    「知っている」
    「謝罪はしない」アレクセイは続けた。「謝罪で死んだ人間は戻らない。そんなことはお前が一番よく知っているだろう」
    誠は答えなかった。
    「ただ」アレクセイは大きな手を、テーブルに置いた。「この部屋でお前と話すことは、できる」
    誠はアレクセイを見た。
    外交官として十年。人を読む目だけは、誰にも負けない自信があった。
    この男は本気だ、と思った。謝罪より重い何かを、テーブルに置いた。
    誠はアレクセイだけに目を向けた。
    「約束は果たしましたよ」
    拉致された部屋で交わした約束。日本の秘密を探れ。誠は今、この部屋の全員に真実を話した。それが答えだった。
    アレクセイは無言で頷いた。
    「座ってください」誠は言った。「話はまだ終わっていない」
    アレクセイは頷いた。椅子に戻った。
    会議室が静かだった。
    窓の外に、水の壁が見えた。今日も青白く光っていた。
    誠はその光を見ながら、思った。
    父は一人で背負っていた。だから重かった。だから逃げたかった。
    私は一人でしない。それだけが、父との違いだ。
    それで十分だと思った。

    エピローグ
    水の壁は今日も、そこにある。
    沈んだ世界は戻らない。太平洋のどこかでは、今日もホープアイランドが漂っている。座標は誰も知らない。しかし見たという人間が、今もいる。夜に水の壁の近くに行くと、でかい影が動いていると。
    ドイツ自治区の地下室に、明かりがついた。
    老いた手が、設計図を広げた。
    手が震えていた。年老いた手だった。しかし動きは止まらなかった。長い時間をかけて、ここまで来た。壁に言葉を刻んだ。噂を撒いた。計画の欠片を世界中に残した。
    誰かが気づくことを、ずっと待っていた。
    誠が選んだ。
    継続を選んだ。
    ウィリアムはそれを、どこかで知っていた。感じていた。
    それでも手を止めなかった。
    選択は一度では終わらない。人間が生き続ける限り、選択は続く。それがウィリアムの信念だった。嘉吉の父と語り合った夜から、ずっと変わらない信念だった。
    図面の中央に、見覚えのある構造体が描かれていた。
    その下に、文字があった。
    NOAH II
    老いた手が、ゆっくりとペンを走らせた。
    震えていたが、止まらなかった。
    ——領域の選択、可能——
    明かりが揺れた。
    選択は、また始まる。

    杜明
    世界を旅して、長い年月が経った。
    最初は単純な動機だった。くだらない伝承を暴いてやろうと思っただけだった。日本は沈まない。神が守っている。そんな戯言を信じて毎日祈り続けた両親への、静かな復讐のつもりだった。
    しかし世界を歩くうちに、気づいたことがあった。
    同じ痕跡が、至る所にある。
    壁に刻まれた文字。流木に書かれた言葉。雨に滲んだ落書き。言語は違っても、内容は同じだった。
    ——希望の島は動いている——
    一人の人間が残した痕跡だと確信したのは、三年目のことだった。筆跡が同じだった。刻み方が同じだった。世界中を歩いて、同じ言葉を残し続けている人間がいる。
    その人間を探すのが、今の目的だった。
    しかし旅の途中で、おかしなことが起きていた。
    杜明が聞き込みをするたびに、噂が広がっていった。日本は沈まない。希望の島がある。杜明自身がそれを確かめようとしているのに、話を聞いた人間たちが勝手に広めていった。
    気づいたのは五年目のことだった。
    各地で、教団ができていた。
    日本は沈まないと信じる人間たちが集まり、祈り、杜明の名前を口にしていた。教祖。そう呼ばれていた。
    杜明は笑った。
    皮肉だった。神を否定するために旅に出た人間が、神を広めていた。
    しかし利用できると思った。
    教団の末端に接触した。情報を集めた。ウィリアムの痕跡を追うために、その立場を使った。イギリスで何か事件があったと噂で聞いたが、上層部のことは届かなかった。末端しか知らなかった。
    そしてやっと、日本に辿り着いた。
    ウィリアムの部屋は狭かった。
    地下だった。薄暗くて、古い機械の匂いがした。杜明は長い年月をかけて、ここに辿り着いた。
    老人は振り返らなかった。設計図に向かったまま、言った。
    「来たか」
    「あなたが撒いた言葉を、世界中で見てきた」杜明は言った。「希望の島は動いている。選べ。全部、あなたが刻んだものだ」
    「そうだ」
    「なぜ」
    ウィリアムはゆっくり振り返った。老いた目だった。しかし光があった。
    「人間に、選ばせたかった」ウィリアムは言った。「誰かが決めるのではなく。人間自身が、選ぶために」
    杜明は部屋を見渡した。
    設計図があった。機械の部品があった。壁に数式が書かれていた。
    そしてその中央に、巨大な構造体の設計図があった。
    NOAH II。
    杜明の目が、そこで止まった。
    これが全部の答えだった。神の正体だった。
    神は存在しなかった。あったのは機械だった。人間が作った、人間の機械だった。
    しかし。
    杜明の中で、何かが動いた。
    これを手に入れれば。
    この力を持てば。
    世界中に広まった教団が、自分を教祖と呼んでいた。噂を意図せず広めてきた。しかし今、本当の力を手にできるかもしれない。
    「どうした」ウィリアムは言った。「お前も選べ」
    杜明は老人を見た。
    設計図を見た。
    長い間、動かなかった。
    神を否定するために旅に出た。
    しかし今、神になれる力が目の前にある。
    杜明は、選んだ。

     
     
    小説を書いています。第一作「集国」note創作大賞2026応募中。

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