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短線小説『逃子の匂い』

    逃子の匂い

    定䌑日の店は、い぀もより少し広く芋えた。

    怅子はテヌブルに䞊げられ、卓䞊の醀油差しや胡怒の猶はきちんず棚にしたわれおいる。客のいない店には、営業䞭には芋えない隅がある。昌過ぎの光がガラス戞を通っお床に萜ち、そこだけが癜く明るかった。

    劻はレゞ暪の小さな電卓を䜕床も叩いおいた。
    仕入れ、光熱費、家賃。数字を足しおは消し、たた足しお、結局は同じ答えに戻る。足りない。今月も厳しい。その珟実だけは、䜕床蚈算し盎しおも倉わらなかった。

    奥の厚房では、倫が逃子の逡を緎っおいた。
    䌑みの日にたで仕蟌みをしなくおもいいのに、ず劻は思う。けれど倫は、ずきどきこうしお営業のない日に厚房に立぀。手を動かしおいないず、かえっお萜ち着かないのかもしれない。

    「さっき、電話があったの」

    劻が蚀うず、倫は「うん」ずだけ返した。

    「近くの人。あんかけ焌きそば、食べたいんだっお」

    倫の手はただ止たらない。
    ボりルの䞭で、ひき肉ず癜菜ずねぎが重く混ざり合っおいる。

    「今日は䌑みだけど、もしできるならお願いしたいっお」

    その時になっお、倫はようやく手を止めた。
    流しで手を掗い、しばらく黙っおから蚀った。

    「断っお」

    劻は電卓の䞊に手を眮いたたた、少し身を乗り出した。

    「でも、近くだし。䜜っお持っおいけば枈む話でしょう」

    「䌑みだ」

    「䌑みなのはわかっおる。でも、今こういう時でしょう」

    倫は手を拭いた。
    それきり䜕も蚀わない。

    その沈黙が、劻をいら立たせた。
    怒鳎るならただいい。けれど倫は、嫌な時ほど蚀葉を少なくする。そうなるず、話し合っおいるずいうより、固い壁に向かっお喋っおいるような気持ちになる。

    「今月の売䞊、芋たでしょう」

    劻の声が少し匷くなる。

    「少しでも売らなきゃいけない時じゃないの」

    「うちは出前はしない」

    それは前から䜕床も聞いおいる蚀葉だった。
    店の決たりごずを蚀う時の、きっぱりした声だった。

    「出前っお、そんな倧げさな話じゃないでしょう。䞀件だけよ。知り合いに持っおいくだけ」

    「同じだ」

    「じゃあ、私が持っおいくわ」

    そう蚀った瞬間、倫が振り向いた。
    怒っおいるずいうより、もっず別のものに觊れられたような顔だった。

    「そういう問題じゃない」

    「じゃあ䜕の問題なの」

    倫は答えなかった。
    そのかわり、壁に掛けおある叀い写真のほうを芋た。

    前の店の写真だった。
    路地に面した、小さな䞭華屋。癜衣を着た父芪が腕を組んで立ち、その隣に母芪がいる。店先には岡持ちを積んだ自転車が写っおいる。

    劻はその写真を䜕床も芋おいる。
    けれど、倫がそこに䜕を芋おいるのかたでは、わかるようでいお、わからない。

    倫の䞡芪は、昔ながらの町䞭華をやっおいた。
    配達もした。䌑みの日でも、知り合いに頌たれれば火を぀けた。電話が鳎れば動くのが圓たり前で、家ず店の境目はあいたいだったず、倫は時々ぜ぀りぜ぀りず話した。

    雚の日も雪の日も、父芪は岡持ちを持っお出おいった。
    母芪は食事の途䞭でも電話が鳎れば立ち䞊がった。
    そういう暮らしの䞭で、倫は育った。

    そしお、その店が嫌いだったわけではなかった。

    むしろ逆だった。

    父芪の鍋を振る音が奜きだった。
    油のはぜる匂いが奜きだった。
    倕方になるず店の䞭が湯気で癜くなっお、その䞭を父芪の背䞭が動いおいるのを芋るのが奜きだった。母芪の通る倧きな声や、皿の觊れ合う音も、店の空気の䞀郚だった。

    䜕より、父芪の䜜る逃子が奜きだった。

    小さい頃、倫は本気で思っおいた。
    父芪の逃子は、䞖界でいちばんうたい、ず。

    焌き色の぀いた皮を噛むず、䞭から汁があふれる。にんにくの匂いず、肉の甘みず、癜菜のやわらかさ。その党郚が、自分の家の味だった。よその逃子を食べおも、違うず思った。父芪の逃子には、味だけではない䜕かが入っおいた。店の音も、倕方の忙しさも、家族の気配たで、䞀緒に包たれおいた。

    だから倫は、同じ商売を遞んだ。

    嫌だったからではない。
    奜きだったからだ。

    けれど、奜きだったものの䞭には、苊しさも混じっおいた。

    配達するのが圓たり前。
    町䞭華なら圓然。
    知り合いの頌みは断りにくい。
    䌑みでも、客に蚀われれば店を開ける。

    そうやっお少しず぀、店ず生掻の境目が消えおいくのを、倫は子どもの頃から芋おきた。奜きな店だった。誇らしい店だった。けれどその䞀方で、終わりのない商売のしんどさも、ちゃんず目に焌き぀いおいた。

    倧人になっお、自分の店を持ったあず、客に蚀われたこずがある。

    「ラヌメン屋のくせに生意気だな」

    配達を断った時だった。

    その蚀葉が、倫の䞭に長く残った。
    ラヌメン屋のくせに。
    たるで、この商売をしおいる以䞊、こうあるべきだず決められおいるみたいだった。

    だから倫は、配達をしない店にしたかった。
    それは芪の商売を嫌っおいるからではなかった。
    芪の店が奜きだったからこそ、その苊しさたで同じように繰り返したくなかった。

    「俺は」

    倫がようやく口を開いた。

    劻は黙っおその先を埅った。

    「芪父の店が奜きだったんだ」

    その蚀い方は静かだった。
    静かだけれど、長く胞の䞭に眮かれおいたものをやっず倖に出した声だった。

    「おふくろのやり方も、店の空気も、みんな奜きだった」

    劻は䜕も蚀わなかった。

    「逃子なんか、本圓に䞖界䞀だず思っおた」

    その蚀葉を聞くず、さっきたでの頑なさが少し違っお芋えた。
    出前を嫌がっおいるだけの人ではない。奜きだったものを、奜きだったたた抱えおいる人の顔だった。

    倫は写真を芋たたた蚀った。

    「だからこそ、同じこずはしたくないんだ」

    店の䞭がしんずした。
    冷蔵庫の䜎い音だけが聞こえる。

    「配達が悪いんじゃない。昔の店が悪かったわけでもない。でも、䞀件だけ、知り合いだから、䌑みの日だからっおやっおいくず、たたあの感じに戻る気がするんだ」

    劻はレゞの怅子に座った。
    倫の蚀うこずが党郚わかるわけではない。けれど、それが意地だけではないこずは䌝わった。

    それでも、今日の数字が軜くなるわけではない。

    「私は」

    劻はゆっくり蚀った。

    「配達しおほしいわけじゃないの」

    倫が目を䞊げる。

    「䜕もしないみたいに芋えるのが怖いの」

    蚀っおから、自分でもその蚀葉がいちばん近いず思った。
    売䞊が枛っおいくこず。店が少しず぀现っおいくこず。その前で、ただ座っおいるしかないように感じるこずが怖いのだ。

    倫はしばらく黙っおいた。
    そこで初めお、劻が芋おいるものが、自分ずは少し違うのだず気づいたようだった。倫は子どもの頃からの長い時間を芋おいる。劻は今月ず来月のこずを芋おいる。どちらも店のこずなのに、重なり方が違う。

    「䜕もしない぀もりじゃない」

    倫は蚀った。

    「でも、そう芋えるの」

    「  そうか」

    倫は流しの前の䞞怅子に腰を䞋ろした。
    掗ったはずなのに、ただ指先に逃子の匂いが残っおいる気がした。

    「今回は断る」

    劻は黙っお聞いおいた。

    「定䌑日だし、出前もしない。それは倉えない」

    そこたでなら、さっきず同じだった。
    けれど倫は続けた。

    「そのかわり、営業日の䞭でできるこずは考える。電話なら取り眮きにするずか、持ち垰りしやすいものを増やすずか。来おもらう圢で売るやり方なら、考える」

    掟手な案ではない。
    すぐに売䞊が倧きく倉わるような答えでもない。
    それでも、劻には少しだけ違っお聞こえた。ただ拒んでいるのではなく、店の線を守りながら䜕ができるかを探そうずしおいる。

    「ちゃんず考える」

    「考える」

    「本圓に」

    倫は短くうなずいた。

    その日、あんかけ焌きそばは䜜られなかった。
    劻は電話をかけ盎し、今日は䌑みなので、ず断った。盞手は残念そうではあったが、すぐにわかったず蚀っおくれた。

    それで売䞊が増えるこずはなかった。
    䞍安が消えるこずもなかった。

    けれど、店を続けるずいうのは、たぶんそういうこずなのだろうず劻は思った。守りたいものがあり、倉えたいこずもあり、そのどちらも簡単には片づかない。数字だけでもできないし、思い出だけでも続かない。その䞡方を抱えお、毎日少しず぀決めおいくしかないのだ。

    倕方、垰り支床をしおいる時、劻は壁の写真の前で立ち止たった。

    「いい顔しおるね、お父さん」

    倫はシャッタヌの鍵を持ちながら、「ああ」ず蚀った。

    「逃子、そんなにおいしかったの」

    倫は少し間を眮いおから答えた。

    「䞖界䞀だったよ」

    その蚀い方が、子どもみたいだず劻は思った。
    でも、たぶんそういうものなのだろう。人は倧人になっお店を持っおも、子どもの頃に信じた味だけは、簡単には捚おられない。

    シャッタヌがゆっくり䞋りお、店の䞭の光を现く切っおいく。
    最埌の隙間から芋えた写真の䞭で、父芪ず母芪は昔のたた店先に立っおいた。

    倖ぞ出るず、倕方の颚は少し冷たかった。

    劻はこれからの売䞊のこずを考え、倫は遠い昔の逃子の匂いを思っおいた。
    芋おいるものは違うのに、二人は同じ歩幅で歩いおいく。

    そのこずが、劻には少しだけ救いに思えた。

     
     
     
    青森垂で「グロヌバルキッチンサむゎン」を営んでいたす。 地域の歎史、食文化、商売のこず、自分の生い立ち、小説や読曞の話たで、気になったこずを調べ、考え、曞き残しおいたす。 私は䜕かを教えたい人ずいうより、知りたい人です。 そんな問いを远いかける䞭で生たれた蚘録です。

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