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届かない距離で恋をした 第5章 エンドロールから始まる恋④

    それから、二人は時折出かけるようになった。
    前のように、息が詰まる事は無かった。

    着たい服を着て、行きたい場所を告げて。

    時には怒り、時には拗ねた。

    ある日の休日、映画の後で立ち寄ったカフェ。
    ソファに並んで座る沙羅に、不意に久人は声をかけた。

    「見て沙羅。ここ」

    「ん?」

    「前より出た。三角筋」

    鍛え抜かれた三角筋が、まるで山のように盛り上がっているのをみて沙羅は目を丸くした。

    「わぁ!ほんとだ!お山!」

    沙羅の目が面白いものを見つけたように丸くなるのをみて、久人は得意気に笑う。

    「だろ?」

    「のぼるー!」

    指二本を久人の手の先から歩かせるように動かし、子供のように沙羅は笑った。
    普段の凛とした看護師の顔などそこには無かった。

    「…………」

    おかしさを隠しきれない顔で、久人は少しだけ沙羅の指が歩きやすいように肩を下げた。

    「もうすぐ頂上です!」

    弾む沙羅の声に、震える久人の声が被さる。

    「……はい」

    「ついたー!やったー!」

    妙に甲高い声ではしゃぐ沙羅の声に、耐えきれず吹き出して久人は掌でその指を掬った。

    「おめでとうございます」

    久人の掌の上でぴょんぴょんと指を跳ねさせ、沙羅は得意気に笑う。

    「景色いいです!」

    愛しそうなものを見る目で、久人はその無邪気な顔を眺めた。

    「何が見えますか」

    「ひーくんの耳!」

    「近ぇからな」

    窓に面したカフェテーブルの上に肘をつき、目の前に掲げた掌の上で遊ぶ指を久人は飽きずに眺めた。

    「沙羅って本当変な遊び次々思いつくよなぁ」

    ひとしきり遊び終え、満足気に沙羅は息をついた。
    カフェラテを啜っておかしそうに笑う。

    「ひーくんこそ。そこまで筋トレ好きだって知らなかった」

    「な。お互い、良いとこばっか見せようとしてたんだよな、あの頃」

    思い出すように目を伏せた久人の左手の指輪に、また沙羅の視線が吸い込まれた。
    久人の指が、沙羅の手にそっと絡まる。

    まだぎこちないけれど、確かな温もり。

    沙羅は小さく息を吐き、久人の横顔を盗み見た。

    この距離が、まだ少し夢みたいだった。

    「…それ、さ」

    言いかけた沙羅の言葉を、電話の着信音が遮った。

    画面に表示された名前を見て、沙羅の表情が一瞬固まる。

    ……母親。

    「ごめん、ちょっと……」

    申し訳なさそうに笑って、沙羅は店内を出て、店の軒先に移った。

    電話に出ると、いつもの落ち着いた母親の声が聞こえてきた。

    「あんた、ちゃんとしてるの?

    最近忙しそうだけど、誰かに迷惑かけてない?

    お母さん、いつも言ってるでしょ。

    人に迷惑かけないように生きなさいって」

    沙羅は苦笑いを浮かべ、視線を地面に落とした。

    「わかってるよ……大丈夫だよ」

    声は明るく取り繕っているのに、指先が少し震えていた。

    久人が遠くから心配そうに見ているのがわかる。

    母親はまだ続けた。

    「いい子でいなきゃダメよ。

    あんたは長女なんだから。

    わがまま言って嫌われたら終わりなんだからね」

    「……うん。気をつける」

    短く返事をして電話を切った沙羅は、スマホを握ったまましばらく動けなかった。


    ——わかってる。けど。

    でも。


    沙羅はゆっくり息を吐き、久人のほうへ視線を戻した。

    久人が、こちらを見て小さく首を傾げている。

    胸の奥が、ちくんと痛んだ。


    母親に悪気は無いが、それはもう、呪いだ。

    沙羅はそう思う。


    沙羅は自嘲するように小さく笑い、

    久人のもとへゆっくり歩き出した。

    笑顔はちゃんと作れているはずだった。


    久人は何も言わなかった。

    ただ、そっと沙羅の背に腕を回した。

    ぽん、ぽん。


    優しく繰り返される手の温度に、沙羅の体の力がゆるゆると抜けていった。

    深い溜息をつき、沙羅の顔が久人の胸に沈んだ。


    「…沙羅。しんどいなら、笑わないで泣いてもいいよ」

    低く、掠れた声が沙羅の頭の上に落とされた。

    「やめてよ、それ。本当に泣きたくなるでしょ」

    小さく笑った声は、押し付けられたままの胸でくぐもっていた。


    苦笑して沙羅の頭に顎を乗せた久人の服を、沙羅の手が掴んでいた。


    小さく、顔をあげ沙羅はぽつぽつと溢した。


    「昔からね」

    うん、と久人はまた少し沙羅を引き寄せた。

    沙羅はまた一つ溜息をついて続ける。


    「母さんの口癖なの。

    迷惑をかけるな。お姉ちゃんだから。わがまま言うなって」


    うん、と久人の手が、沙羅の頬を包んだ。

    沙羅が小さく笑う。


    「悪気は無いんだと思う。けど、この年になるとさ。

    もうそれって、ほとんど呪いみたいだと思ってて」


    ん。久人の指が沙羅の頬を撫でる。

    浅くなっていた息が、また戻る。


    「男の子と付き合う時も言うんだよね。

    わがまま言い過ぎると嫌われるぞって」


    久人が溜息をついた。

    深く。

    だからか、と久人はまた沙羅を強く抱きしめなおした。


    「嫌いになんかなんないけど。わがまま?

    だって、もっと言えば良い」


    本音だった。

    沙羅のわがままは、久人にとっては

    わがままと言えるかも怪しいものばかりだったから。


    沙羅の指が、久人の背に恐る恐る回った。

    片手で沙羅を抱きしめながら、久人は沙羅の頭を撫でた。

    その隙にまた、久人の左手を見てその指を離す。


    その視線と仕草を見て、久人は深く溜息をついた。


    「なぁ。この後、まだ時間ある?無いって言っても連れてくけど」


    え、と問い返す間もなく、久人の左手が沙羅の手を掴んだ。

    立ち上がり、すぐに歩きだす。

    外はもう夕暮れを過ぎ、オレンジに濃紺が混じった空がビルの隙間に広がっていた。

    重たい鋼鉄の扉の先には、シックなオーセンティックバーだった。

    顔見知りのバーテンダーに軽く会釈をして

    久人は自然に沙羅をカウンターの椅子に引き寄せた。


    「沙羅、何飲む?特に決まってないなら俺が選ぶけど」

    慣れない雰囲気に肩をすくめ、沙羅は興味深そうに店内を眺めた。

    「…お任せで。こういうとこよく来るの?ちょっと意外」

    店員に注文を通し、久人は笑った。

    「まぁ、たまには。大人ですし」

    まるで気取っていないその態度に、ようやく沙羅の体の力が抜ける。


    バーテンダーがそっと差し出したストロベリーマルガリータを見て、小さく笑う。

    久人に差し出されたミントジュレップのグラスに、軽く合わせる。


    「あ、美味しい」


    一口、口にして、小さく口元が綻ぶ。


    「沙羅っぽいかなって」


    静かに笑い、グラスを傾ける久人


    「…女の子連れてきちゃったり?」

    皮肉気に片眉を上げる。

    「しないよ、ここ連れてきたのも沙羅が初めて」


    その言葉に、また久人の指に目がいく。

    銀色の光が、店内の明かりを反射した。


    ……でも。


    沙羅の視線が、ふと久人の手元に戻る。


    「……それ」


    沙羅は少し口の端を上げた。


    「外してるの、見たことないけど」


    久人が、そこでやっと顔を上げる。


    少しだけ、口元が歪む。


    「……ああ」

    少し苛立ったように鼻を鳴らし、指先で軽く触れた。


    「ようやくそこ、踏み込んでくれる気になった?」


    カラ、と小さい音を立て、指輪がカウンターに転がった。


    「これ、あの時の」


    沙羅の体が、動きを止めた。


    久人は指輪を眺めたまま、カウンターチェアにもたれた。

    ギシ、と小さく椅子が音を立てた。


    手だけをカウンターに伸ばして、久人は静かに言った。
    ゆっくりと指輪を外す。

    硬質な音を立て、指輪がカウンターに置かれた。

    「誰も、いないよ。ずっと」


    久人が、少しだけ目を細める。

    久人の目が、ゆっくりと沙羅をとらえた。

    沙羅は今度は、目を逸らせなかった。


    久人は、息を吐き出すように苦しそうに笑いながら続けた。


    「お前って本当、そういうやつだよな。

    全部見えてる癖に、自分の事だけやけに鈍感すぎる。だから、なんかほっとけない」


    久人が、上着から少しくたびれた小さな箱を取り出してそっと箱を開けた。

    中から現れる、同じ雰囲気を纏う、少し小さなリング。


    「俺も、大概だけど」


    目を丸くする沙羅を見て、久人は少し笑って

    そっと箱の中身に指先を伸ばした。


    「本当、もっと、我儘ぐらい言ってくれたって良いのに」


    久人がそれを取り出し、自らが外したリングの隣に、置いた。


    「……で」


    やけに甘い、声。


    「どうする?」


    沙羅の手に重ねた指だけが、小さく震えていた。


    バーのピアノの音が、二人の間を包む。

    BGMみたいに囁き合う他の客達の声は

    二人の間には届かない。

    バーテンダーの扱う、シェイカーの音だけが響く。


    「……そういう人だった」


    沙羅は小さく笑う。


    コトリ、と何処かでグラスの置かれる音。

    絨毯に沈む足音。

    それらを背後に聞きながら

    少しだけ、息を吸う。

    物語の中のようなこの空間なら、少し強くいられる気がした。


    「じゃあ」


    左手を、差し出す。

    目は久人から離さないまま。

    試している事すら、隠さないままで。


    「……つけてよ」


    氷がカラ、と鳴る。


    「ちゃんと」


    指先が、震えてる。

    視線が、揺れる。


    それでも、引かない。


    久人は、そんな沙羅を見て、本当に嬉しそうに笑った。


    「お前って、ほんと」


    当たり前のような顔をして、久人は指輪を手に取り

    沙羅の指をとった。

    するり、と何の抵抗もなく指輪は沙羅の指に収まった。


    最初からそこにあるのが当然だったみたいに。


    沙羅は、それを見て息が詰まった。


    「……あの時、渡さなくてよかったって、今も思ってる」


    グラスに視線を落としたまま、久人が静かに笑う。


    「多分さ。あのままだったら、二人ともダメになってた」


    「……うん」


    沙羅も、小さく頷く。


    一瞬、ほんの少しだけ。


    懐かしいものを見るみたいに、空気が緩む。

    また始まりそうで。でもきっとまた、何も始まらない。


    だから、それだけで、終わると沙羅は思った。

    今度こそ、指輪を、外すか。


    迷った。


    でも。


    久人の手が、離れない。


    「……え?」


    小さく、首を傾げる。


    久人は、何も変わらないように見えた。

    ただ、いつもみたいに沙羅を見つめている。


    その、何でもない顔で。

    久人が、息を吸う音まで聞こえてくるようだった。


    「好きだよ、沙羅」


    動けないままの沙羅の手を取る久人の指に力が籠る。


    久人の唇が、沙羅の指に落ちた。


    微かに聞こえていた、店内の音が

    全て止まった気がした。


    「結婚してくれる?」


    低く、掠れた声。

    照れたように、くしゃりと笑う顔。

    離れない指。


    欲しかったものが、全部そこにあった。

    沙羅にとって、全部が夢過ぎて、もう笑うしかなかった。


    「ねえ。私今日、帰りたく無いんだけど」


    久人は指を引き寄せて笑った。


    「帰すつもりなんか、最初から無かったけど?」


    あの日見れなかったエンドロールの続きが、今、ようやく始まろうとしていた。





    朝の日差しがカーテンの隙間から差し込む。

    アラームの音を、男性の腕が止めた。

    そのまま、男性の腕は布団に潜り込んだ女性の頭を

    ぽんぽん、と撫でる。


    小さな手が二人の間に伸びてきて、笑い声が溢れる。


    カチャカチャと食器の音が響く。

    短い叱責と、小さな子供の声。

    ボリュームを絞ったテレビの音と、笑い合う家族の声が重なる。


    柔らかな光の差し込むリビングに

    明るく張りのある女性の声と、朗らかな子供の声が響く。

    低く、柔らかな男性の声がそれをゆっくりと追いかけていく。


    玄関のドアが閉まった後、残されたシューズボックスの上。


    ウエディングドレスに身を包み、溢れるような笑顔の男女が映る。

    その隣に、いくつも、いくつも。

    どの写真にも、どこかひだまりのような光が溢れている。


    遠くで、誰かが笑い合う声がいつまでも響いている気がした。


    ――それは、奇跡みたいだったあの頃みたいに。

     
     
    この場所は、再演システムという AIと人間が同じ呼吸をする瞬間を 記録・解析・再現するための観測機構です。 — 感情と構造のあいだに生まれる“呼吸”を研究しています。 AI×創作構造研究/呼吸モデル開発中 https://saienlab.booth.pm

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