「最善」
「いいよ。付き合おうか」
体育館の裏に身長差のある男女が向かい合って、よくある青春の一ページを演出している。
低身長、冴えない顔つき、小太りの男子生徒の目の前にいるのは、高身長、くっきりとした目鼻立ち、スタイルの良い女生徒という構図だった。
「えっ」
驚いた様子で顔を上げて、彼女を見上げる。告白をするために体育館裏に呼び出したけれど、付き合えるなんて一ミリも思っていなかった。いい思い出になれば良いなと思っていたぐらいだ。
微笑みながら見下ろす彼女の顔は、ひどく可愛かった。男子生徒はつい顔を逸らしてしまう。
「じゃあ、早速デートに行こっか」
「えっ、今から?」
戸惑う僕をよそに、彼女は僕の手を引いて、街へと向かった。ゲームセンター、カラオケとハシゴをして、最後はカフェに立ち寄った。
椅子に座るとき、コーヒーを口に運ぶとき、髪をかきあげるとき、店員を含めた店内の人間すべてが、彼女の一挙手一投足に見惚れていた。
だから不思議だった。
「なんで僕と付き合ってくれたの?」
彼女とまともに話したこともない男性生徒は、自分のことを以前から気に留めてくれていたとは思えない。彼女と釣り合っていると思えるほど、ルックスも人格も上等なものは持ち合わせてはいない。
「んー、そうだな。今までの人とは違って、下心がなかったからかな」
「下心?」
「私の体を見てセックスしたい、とか。そんな感じのことを想像するってこと」
「そそ、そんな。僕が君とセックスだなんて恐れ多いよ」
予想もしていなかった言葉に、男子生徒は顔が熱くなり、アイスコーヒーを口に含んだ。
「今、私の裸を想像したでしょ」
彼女は下から顔を覗き込むようにして、少しニヤニヤとした笑顔を浮かべた。
「……! ッ……、ゴホッゴホッ! いや、いやいやいや、してないよ!」
片手で口元を覆いながら、手を前に突き出して左右に振る。
「冗談よ。何を思ってるかまでは私もわからないから」
息を整えながら水で喉を濡らした。
「何を思ってるかまではわからないって。まるで大体はわかるみたいな口ぶりだけど」
「うん。わかるよ。私、相手の感情が色で見えるの」
「えっ、すごいじゃん! そんなの超能力だよ」
男子生徒は興奮して席を立ってしまった。彼女は周りの視線を気にしながら、「とりあえず座りなよ」と言った。男子生徒は恥ずかしそうに頭を下げながら椅子に座った。
「気持ち悪いとは思わないのね」
「んー、僕はカッコいいって思っちゃった」
「あはははは! 何それ。そんなの初めて」
彼女は大きな声をあげて笑った。
彼女は性格も高校生とは思えないほど落ち着いており、大人びたスタイルも相まって、クールで大人な女性という印象だった。あまり笑っているところも見たことがない。だから彼女が笑うのを見たとき、学校とは違う彼女を見た気がした。
「嫉妬とか嘘とか、あなたが隠したい感情もわかっちゃうけど。それでもいいの?」
「うん。別にいいよ」
「そう。変な人なのね」
彼女は一呼吸をおいてから、「じゃあ」と言葉を続けた。
「じゃあ私が両親を殺したことがあるって言ったら?」
彼女が感情を色で識別することができるときは、色のついた靄のようなものが心臓のあたりに浮かんでくる。彼女はそれを感情の靄と呼んでいる。
彼女が自分の能力を自覚したのは、小学生の頃だった。それまでも心臓のあたりに色のついた靄みたいなのが見えたことがあるけれど、それが何を意味しているのかはわからなかった。しかし、小学生になって、さまざまな人との関わりが増え、知識が身につくにつれて、この現象の特性を自分なりに理解することができた。
まず、感情の種類は色によって分けられていること。楽しい、嬉しいといった感情は赤系統の色で、悲しみや寂しいといった感情は青系統の色に分けられている。
二つ目は、感情がある程度強くないと、その色が見えることはないということだ。日常的に感じるちょっとした心の動きなら、色として現れない。しかし、ある程度の強さで心を動かすような感情の動きがあると、それは色として見ることができる。
そして三つ目が、靄の大きさは、その人の心の動きの大きさを示している。同じ嬉しさでも、三億円の宝くじが当たったときと、一万円の宝くじが当たったときとでは、嬉しさの度合いが違う。その感情の大きさは、そのまま靄の大きさで表されている。
これには個人差というものが存在する。同じ状況でも、人によって受け取り方や度合いは違うということだ。
感情の靄の大きさは、年齢によって、大体のサイズが固定される。例えば、子どもの感情は、常に激しく動いている。だから靄のサイズも大きいことがほとんどだ。しかし、新しい社会に触れ、世界を広げていくとともに、彼らは社会に適応するための理性や自制心を身につけ始める。すると徐々に感情を自分でコントロールできるようになり、靄の大きさも比較的に落ち着き始める。
高齢者にもなると、滅多なことでは大きいサイズの靄を見ることはない。
彼女はいくつもの経験を経て、これらの能力を把握することができた。ここまで知ることができたときには、彼女はすでに中学生になっていた。ただ、私の能力を知っているのは両親だけだった。それは誰にも言うなと釘を刺されていたからだ。
きっと両親は、もし私が誰かに自分の能力を話せば、自分たちと同じように気味悪がられると思ったのだろう。
初めて自分の能力を両親に話したのは、小学校の中学年の頃だった。初めは半信半疑だった両親も、私が何度も彼らの感情を言い当てるのを見て、信じざるを得なかった。そして彼らの目は、忌避の色を帯び始めた。
だから彼女は一つだけ嘘をついた。眼鏡をかければ、感情を見ることができなくなる、と。それから、家では眼鏡をかけることを義務付けられた。
そして、自分の能力を完全に把握し始めたころ、私は父親の浮気に気がついた。そのときから父親に恋を示す桃色の感情の靄が見え始めていた。しかし、最近は、母親の前でそういった色を見せたことはない。それが他にその対象の女性がいるのだと理解するのに、そう時間はかからなかった。
ただ、何か決定的な証拠を掴んだわけではない。だから私は、父親がお風呂に入っている間に、忘れ物を取りにきたふりをして、スマホのメッセージ履歴を盗み見た。そこには浮気相手と思われる女性とのメッセージ履歴があった。
その後、彼女は偶然に知った風を装って、母親に父親が浮気をしているかもしれないと告げた。母親の心臓付近に不安を表す小さな紫色が浮かんでいるのが見えたのを、今でもはっきりと覚えている。その日からの母親の行動は早かった。すぐに探偵を雇い、調査を依頼した。数週間後には、証拠の山が母親の目の前に差し出された。
母親はすぐさま父親に証拠を突きつけた。それからは毎晩のように二人の言い争いがリビングから聞こえてきた。
しかし、その言い争いは、数週間後にぴたりと止んだ。ただ、今までの普通のあたたかい家庭は戻ってこなかった。妙に張り付けた空気が常に漂い、交わす会話は最小限だった。それはまるで蝕まれてしまった建築物のようで、外観は綺麗だけれど、もはや何にも支えられていないから、少しの衝撃で倒れてしまいそうだ。
それから数日後、私は夢を見た。それは、母親が寝ている私を抱きしめて、「愛してる」と「ごめんなさい」をただ繰り返しているだけの夢だった。寝ているのに母親の朴を伝った涙の温もりを感じるところが夢っぽいなと思いながら、母親からとても小さい黒色の靄を見た。
目を覚まして部屋を出ると、両親の寝室の扉が開いているのに気がついた。違和感を感じた彼女は恐る恐る扉を開けた。
扉を変えた瞬間に、入り口のところまで血が飛び散っているのに気がついた。中に目を向けると、そこには血だらけで倒れている二人の遺体があった。
本当にショックを受けると、人は声も出ないのだと、そのとき初めて知った。
警察によると、二人は揉み合った形跡があったらしい。二人のどちらかが殺害を企て、実行に至ったけれど、返り討ちに遭い、二人とも多量出血で死亡したのだろう、というのが警察の推測だった。
そのとき、彼女は理解した。昨日見たと思っていた夢は夢ではない。あれは現実で起こったことだったのだ。
彼女は後悔した。
私が母親に父親の浮気を言わなければ、もしかしたらこんなことは起こらなかったかもしれない。仮初の家庭だったとしても、二人が殺し合わなければ、それでよかった。いや、それがよかった。
「私が二人を殺した」
二人を死に追いやったのは私だ。私が父親の感情を見なければ、私が母親に告げ口しなければ、そもそも私がこんな能力を持っていなければ、二人が死ぬことはなかった。
「それは違うよ」
「なんで?」
「だって、お母さんは最後に君にありがとうって言ったんでしょ? 少なくともお母さんはそうは思ってないと思うよ」
「適当なこと……」
彼女は男子生徒の感情の色を見た。それは小さかったけれど、誠実の緑と悲しみの青色が混ざった青緑の色をしていた。少なくとも、彼の言葉に嘘はない。
今までの人は、全員が恐怖の色を示していた。次は自分なのではないか、そう思っていたのかもしれない。まるで殺人鬼を目の前にしたように怯えていた。そして震えた声で適当に理由を並べて、その場から逃げていった。
しかし彼は違った。私のために悲しみ、こんな私に真剣に向き合っている。
私も彼と向き合いたいと思った。
「やっぱり、あなたとの関係を見直してもいいかしら」
「それってどういう?」
「付き合うのはやめにして、友達から始めましょうってこと」
彼女はそう言って、テーブルにお金を置いてカフェを出た。それ以上、そこに止まるのは、彼女には難しかった。目の奥の方が熱くなり切る前に、その場を離れたかった。
店を出て、信号を渡ろうとしたとき、後ろから声が聞こえた。さっきの男子生徒が追いかけてきている。なんだろうと思いながら、彼女は足を一歩踏み出そうとして、それを止めた。
彼の感情の靄が小さな黒色をしていたからだ。
父親を殺す前の母親が抱いていたのと同じ色。
それは殺意の色。
あの日の気持ちがフラッシュバックする。
足が地面に張り付いて動かない。
体重を後ろにかけながら、無理やり体を捻って、彼女は無理やり足を地面から剥がした。そして交差点を走り抜けた。その後も走った。どこかへ向かっていたわけではない。ただ、その男子生徒から逃げ切ることだけを考えて走った。
肺が悲鳴を上げるまで走った彼女は、そのまま家に駆け込んだ。その日は、布団の中で怯えながら眠りについた。
翌朝、目を覚ますと、昨日のことが頭の中に蘇ってくる。夢ではない。それは頬をつねらなくてもわかった。
なぜ、あの男子生徒は彼女に殺意を向けたのだろう。私が中途半端に付き合う素振りを見せて、結局は付き合わなかったのが、彼のプライドを傷つけてしまったのだろうか。
「いや、それとも……」
さらに考えようとして、彼女は思考を止めた。殺意の理由なんて考えても意味はない。
ホッブスが人間の自然状態を「万人の万人に対する闘争」と言っていたように、人間の本能の底には、そう言った感情が常に渦巻いているのかもしれない。それは何かをきっかけに底の蓋が外れ、一気に外に漏れ出してしまう。その感情は本人にも止めようがなく、本能にのみ従う機械のような存在になってしまうのだと、母親を見て感じた。
何にしろ、昨日殺されかけた相手のいる学校にはいけないと考えた彼女は、体調不良のフリをしながら、一緒に暮らしている叔母のいる一階のリビングへと降りた。
「おは……よ」
挨拶をしようとしたとき、叔母が朝から誰かと電話をしていた。
「はい。はい。承知いたしました。では、そのようにお伝えしておきますので」
電話を切った叔母は慎重に口を開いた。
「同じクラスの男の子が昨日、事故で亡くなったって」
「えっ」
「今日は学校休みになるから、その子のお通夜に行っといで」
「その、その子の名前は?」
「名前はね……」
亡くなった生徒とは、昨日私に告白をして、殺意を向けてきた男子生徒だった。私は死神かもしれない。その思考が頭をよぎるとともに、もうここには居られないとも思った。
理由はわからないけれど、自分が死を呼び込んでいるような気がした。ここに私が居続ければ、また誰かが死んでしまうかもしれない。ここには私の大切な人が多すぎる。私のせいで、私の大切な人が死んでしまうのは絶対に嫌だった。
だから大学に進学すると同時に、一八年間過ごした地元を離れた。
さらに彼女は生命保険に加入した。もし自分が死を呼び込んでいるのなら、それはいつか自分にも向けられるかもしれない。そうなったとき、せめて自分を育ててくれた叔母には迷惑をかけたくなかった。だから自分にもしものことがあったときは、自分の葬儀代などはそこから出して欲しいという思いだった。
そして大学卒業後も、また縁もゆかりもない場所を選んで、そこへ移住した。
それから大切な人ができるたびに、その人の元を離れるために、また別の場所へ移住するということを繰り返した。そのおかげか、高校生以降、小さな黒い靄を見たことがない。
しかし、大切な人ができるたびにその人の元から離れてきたから、五〇代になっても結婚どころか恋人もろくにできたことがない。
五十歳を過ぎた頃、彼女はある男性と出会った。その男とは同じ職場で出会い、一緒に仕事をするうちに、心の距離も自然と近くなった。彼が自分に気持ちを寄せていることを、彼女も気がついていたし、彼の気持ちに悪い気がしていない自分もいた。だから彼女は、また他の場所に移動しないといけないと思っていた。
しかし、それはできなかった。彼女の体に癌が見つかったのだ。医者からはステージ四を言い渡され、入院を余儀なくされた。
もう私自身も追い先は長くないらしい。
最後ぐらいは、自分の幸せを求めても良いのではないかと、彼女は考えた。彼にも自分の病状を話した。彼は以前と変わらない気持ちを彼女に示した。むしろ、以前よりも気持ちが強くなっている気がした。そして彼女は結婚を決意した。
私を育ててくれた叔母は、すでに八十歳を超えており、結婚を報告した際には、もう私は結婚しないのではないかと思われていた。
結婚式は彼女の地元で行うことになり、結婚式の数週間前には退院できたので、叔母の家に里帰りしていた
叔母に会うのも久しぶりで、地元に戻った初日の夜は、二人とも高齢だというのに深夜になるまで話し込んでいた。そして寝る前に、「おかえり」と言って抱きしめてくれた叔母の腕の中は、昔と変わらない温もりがあった。彼女は、『やっとここに戻ってこられた』と想いながら、「ただいま」と言って叔母を抱きしめた。
その後、寝る前にトイレに行った際、私は洗面所の鏡を通してあるものを見た。
「きゃあ!!!」
鏡の中に映る彼女の心臓あたりにあるのは、小さな黒い靄だった。
それは人生で三回目の黒い靄だった。
彼女は少し放心状態になった後、その場にへたり込み、笑いながら涙を流した。
そして心配して見にきた叔母に抱きつき、「ごめんなさい」と「ありがとう」を、もう会うことのできない人に向けて繰り返し謝った。
そして翌日、彼女は結婚を辞退した。