見出し画像

データは「運命の恋」を作れるか?

一言で言うと: データとアルゴリズムだけでは「運命の相手」を見つけられない理由を、思考実験を通じて論じるコラム。AIによる完全なマッチングが実現しても、人はその「正解」に完全には屈しない。

マッチングは、もう「アルゴリズムの仕事」になった

スマートフォンを開けば、恋愛は数字になっている。年齢、職業、趣味、価値観診断のスコア。マッチングアプリは、私たちの人間性をパラメータに分解し、それを他者のパラメータと突き合わせて「相性」という一つの数値に圧縮する。この十数年で、出会いは「偶然の産物」から「アルゴリズムによる提案」へと静かに、しかし決定的に地殻変動を起こした。

そして当然、こう考える人が出てくる。AIやビッグデータがここまで進化した現代、「自分と最も相性の良い運命の相手」は、もはやロマンチックな奇跡ではなく、アルゴリズムによる「計算」で導き出せるのではないか。データが十分にあれば、感覚に頼らずとも、論理だけで最適な伴侶にたどり着けるのではないか、と。

この問いに対する最初の答えは、極めて現実的な「ノー」である。だが、その「ノー」の中身をきちんと解剖してみると、実は単なる技術的な限界の話では終わらない。むしろ、人間という生き物の設計そのものに関わる、もっと根深い理由が見えてくる。

第一の壁:データはそもそも「不完全」である

まず最初にぶつかるのは、単純な事実だ。現在のマッチングアプリ等が保持しているデータは、社会の一部を切り取ったものに過ぎず、全人類のライフスタイルを網羅しているわけではない。

アプリに登録していない人、登録していても本音を書いていない人、そもそも「自分の好み」を言語化できていない人。プロフィール欄の「趣味:読書」という一文の裏には、どんな本を、どんな気分の夜に、どんな体勢で読むのが好きなのかという、無限に細かい情報が畳み込まれている。データベースが記録できるのは、その圧縮された断面でしかない。

さらに厄介なのは、人間は自分自身についてすら、正確なデータを提供できないという点だ。「理想のタイプ」を尋ねられて答える内容と、実際に心を動かされる相手は、しばしば一致しない。行動経済学がずっと指摘してきた通り、人は自分の選好を正確に自己申告できる生き物ではない。だとすれば、そもそも入力の時点で、データはノイズだらけなのだ。

「データが不完全である以上、誰もが必ず運命の人に出会えるわけではない」という、ある意味で身も蓋もない事実がここに立ちはだかる。これは技術がいつか解決する種類の問題に見えるかもしれない。センサーが増え、行動ログが精緻になり、生体データまで組み込まれれば、いずれ埋まる溝だと。

では、その先を考えてみよう。

思考実験:もし完璧なデータが揃ったら

ここで一つ、思考実験をしてみたい。もし「全人類の完璧なデータが揃った超・国営マッチングシステム」が完成したとしたらどうだろうか。趣味嗜好はもちろん、声のトーンへの好み、笑うタイミングの周波数、ストレス下での意思決定パターン、遺伝的な相性まで、ありとあらゆる変数が網羅され、演算されているとする。

データ上100%相性が合う相手を、目の前に連れてこられたら、人は迷わず恋に落ちるのだろうか。

もちろん、これが機能すれば日本の少子化問題すら解決に向かうかもしれない、という社会的な大義はある。婚活市場のミスマッチという非効率が解消され、誰もが最短距離で「最適なパートナー」にたどり着ける世界。効率の観点だけで見れば、これは間違いなく進歩だ。

しかし、ここでも人間はシステムに完全には屈しない。目の前に「あなたの100%マッチです」と提示された相手を見て、多くの人が最初に感じるのは、感動よりもむしろ、かすかな居心地の悪さではないだろうか。「なぜこの人だと分かるのか」「本当にこれで合っているのか」という、説明のつかない違和感。

なぜこんなことが起きるのか。それは、人間が「99%の論理と、1%の感覚(非論理的な部分)」でできている生き物だからだ。

「1%の感覚」の正体を分解する

この「1%」を、もう少し具体的に分解してみたい。単なる「なんとなく」で片付けるのは簡単だが、それでは思考実験として不十分だ。この1%を構成していると思われる要素は、少なくとも次の三つに分けられる。

一つ目は、偶然性だ。 データによるマッチングは、常に「今この瞬間の最適解」を提示する。しかし人間の記憶に残る出会いの多くは、待ち合わせに遅刻した、電車で偶然隣に座った、探していた本が売り切れていて代わりに手に取った別の本がきっかけだった、というような、設計されていない偶然の連鎖の中で起きる。アルゴリズムが「最適」を計算した瞬間、そこから偶然性は排除される。皮肉なことに、私たちが「運命的だ」と感じる出来事の多くは、まさにその「計算されていなさ」にこそ価値を見出している。

二つ目は、身体性だ。 データは言語化・数値化できる情報の集合だが、恋愛の決定的瞬間の多くは、言語化される前の身体感覚として立ち上がる。声を聞いた瞬間の心拍数の変化、手が触れたときの温度、沈黙が気まずくない相手だという皮膚感覚。これらは事後的に言葉にすることはできても、事前にプロフィール欄へ入力しておくことはできない。つまり、身体を介した「その場で起きる化学反応」は、原理的に入力データの外側にある。

三つ目は、変化し続ける自己という問題だ。 マッチングシステムは、ある時点での「あなた」のデータを基に計算を行う。しかし人間は、関係性の中で変わっていく生き物だ。出会った瞬間の「理想のタイプ」と、5年後、10年後に大切だと感じる価値観は、同じ人間の中でも別物になっていることが珍しくない。恋愛とは、固定された自分同士の最適マッチングというより、互いに影響を与えながら変化していくプロセスそのものだ。だとすれば、「出会った瞬間の相性データ」だけで運命を判定すること自体に、そもそも無理がある。

前回のテーマで「人間は個性を守るために、あえてAIにすべてを任せない」という結論が出たように、恋愛においてもやはり同じことが言える。データ上がどれほど完璧な「正解」であっても、その残りの1%の「なんか違う」「理屈じゃないんだよな」という感覚がノイズとなる。だからこそ、「システムが弾き出した運命なんて信じない」と、完璧な論理に抗う少数派が必ず現れるのだ。

「運命じゃなかった人」と「運命だった人」の分岐点

ここで一つ、想像してみてほしい。マッチングアプリで「相性98%」と表示された相手と出会う場面と、友人の結婚式の二次会でたまたま隣の席になっただけの相手と出会う場面。二つのシナリオで、まったく同じ会話を、まったく同じ言葉で交わしたとする。それでも多くの人は、後者のほうを「運命っぽい」と感じるのではないだろうか。

これは単なる思い込みや非合理性の話では片付けられない。むしろ、「相性98%」という数字が提示された瞬間、私たちは無意識のうちに、その出会いを自分の選択の結果ではなく、システムの提案の結果として処理し始めてしまう。数字が先に「正解」を宣言してしまうと、その後にどれだけ心が動いても、その感情のどこまでが「自分自身の発見」で、どこからが「そう思わされている」ものなのか、区別がつかなくなる。

一方、偶然の出会いには、そうした先回りの答え合わせが存在しない。だからこそ、そこで芽生えた感情は、誰の後押しもなく自分だけで見つけ出したものだという確信を持てる。皮肉なことに、マッチングの精度を上げれば上げるほど、「これは本当に自分の気持ちなのか、それともアルゴリズムに誘導された気持ちなのか」という疑念がつきまとうようになる。データの精度と、体験の純度は、必ずしも比例しない。むしろ、ある一線を越えると反比例し始めるのではないか、というのが、この思考実験から見えてくる逆説だ。

それでも、マッチングという技術には価値がある

ここまで「データでは運命を作れない」という側面を掘り下げてきたが、誤解しないでほしいのは、これはマッチングアプリやレコメンドアルゴリズムそのものを否定する話ではない、という点だ。

むしろ実務的に考えれば、マッチング技術がもたらす価値は明確だ。従来、出会いの機会は、住んでいる場所、通っている学校や職場、参加しているコミュニティといった、極めて限られた物理的・社会的範囲に閉じ込められていた。その範囲の中に「相性の良い相手」がいなければ、そもそも出会いのチャンス自体が生まれない。マッチング技術は、この物理的な制約を取り払い、出会いの母数そのものを爆発的に増やした。これは紛れもない進歩であり、「出会えたはずなのに出会えなかった」という機会損失を減らすという意味では、社会的にも大きな意義がある。

問題は、技術の「使い方」の設計にある。マッチング技術を、「答えを出す装置」として設計するか、「候補を広げる装置」として設計するかで、その先の体験はまったく違うものになる。前者の設計では、システムが「これがあなたの正解です」と断言し、ユーザーはその答えに従うか反発するかの二択を迫られる。後者の設計では、システムはあくまで「こういう人もいますよ」という選択肢の提示にとどまり、そこから先の「選ぶ」という行為の主導権は、最後まで人間の側に残される。

AIとの付き合い方をどう設計するか

この区別は、恋愛マッチングに限った話ではない。仕事の意思決定支援でも、日々の情報のレコメンドでも、AIがどこまで「答え」を提示し、どこから先を人間の判断に委ねるかという線引きは、これからますます重要になっていくテーマだろう。

理想的な設計は、おそらく次のような形だ。データとアルゴリズムには、選択肢を広げ、見落としを減らし、判断材料を整理するという「99%の論理」の部分を、思う存分やってもらう。効率化できる部分を人間がわざわざ非効率にやる必要はない。しかし、最後の「これだ」と決める瞬間、つまり「1%の感覚」が担うべき領域にまで、システムが先回りして答えを出してしまわないようにする。

これは、AIの性能が足りないから人間の判断を残すべきだ、という消極的な理由ではない。たとえAIの精度がどれだけ向上したとしても、「選んだ」という感覚、そして「選び続けている」という実感は、外部から与えられるものではなく、自分自身の内側で立ち上げるしかないものだからだ。ここに、技術がどれだけ進歩しても埋まらない、人間の側の役割が残り続ける。

反論の検討:「AIが感覚まで学習したら?」

ここで、もう一段先の反論を検討しておきたい。技術決定論的な立場からは、こう返されるかもしれない。「偶然性も身体性も、結局はまだ計測されていないだけの変数に過ぎない。ウェアラブルデバイスが心拍数を、マイクが声のトーンを、カメラが微表情を捉えるようになれば、その1%もいずれデータに取り込まれる」と。

これは半分正しい。技術的には、心拍数や発汗、瞳孔の開き方といった生理反応を測定し、「相性が良いときに人体がどう反応するか」のパターンを学習することは、そう遠くない未来に可能になるだろう。

しかし、ここで重要な区別がある。相関を予測することと、その瞬間を「意味あるもの」として経験することは、まったく別の階層の話だ。 AIが「この二人が出会ったとき、心拍数がこう変化する確率が92%です」と予測できたとしても、その予測が当たった瞬間に本人たちが感じる高揚感そのものは、予測の対象であって、予測の主体ではない。恋に落ちるという体験は、三人称的に観測・記述できる現象である前に、一人称的に生きられる経験だ。どれだけ精緻な地図を描いても、地図は旅そのものにはならない。

さらに言えば、仮にAIが「あなたが恋に落ちる確率が99%です」と正確に予言できたとしても、多くの人間はむしろその予言に反発したくなるだろう。誰かに「あなたはこの人を好きになるようにできている」と断言されることは、選んだという実感を奪う。人は、正しい答えを与えられることよりも、不確かな中で自分で選び取ったという物語を欲しがる生き物なのだ。

運命とは、データの外側にある「選び直す意志」ではないか

ここまでの議論を踏まえると、「運命の恋」という言葉の意味そのものを、少し捉え直す必要が出てくる。

私たちはつい、「運命の相手」を、あらかじめどこかに存在する唯一の正解であるかのように語ってしまう。まるで宇宙のどこかに答え合わせ用の正解データがあって、それを見つけ出す作業が恋愛であるかのように。だが、思考実験を通じて見えてきたのは、むしろ逆の姿だ。運命とは、あらかじめ確定された答えではなく、不完全な情報しかない中で、それでもこの人を選ぶという意志を、繰り返し更新し続けるプロセスそのものではないか。

データによるマッチングは、出会いの「候補」を効率的に提示することはできる。実際、これは恋愛における非効率――出会えたはずの人と出会えないという機会損失――を減らす、極めて実用的な技術だ。母数を増やすという点において、アルゴリズムは人類にとって明確な進歩である。

しかし、その候補が「運命」に変わる瞬間は、データが計算した確率が現実になった瞬間ではない。むしろ、100%の確証などどこにもない状態で、それでも「この人でいい」ではなく「この人がいい」と、繰り返し選び続けることを引き受けた瞬間だ。運命とは発見されるものではなく、選び直され続けることによって、事後的に「運命だった」と物語化されるものなのかもしれない。

「運命だった」という物語は、後からしか語れない

もう一つ、この思考実験が教えてくれることがある。それは、私たちが「運命の相手だった」と語るとき、その言葉はほとんど常に過去形で使われる、という事実だ。出会う前に「この人が運命の相手になる」と確信できる人はほとんどいない。むしろ、いくつもの選択を重ね、困難を乗り越え、あるいはただ何気ない日常を積み重ねた末に、振り返って初めて「あれが運命だったのかもしれない」と気づく。

これは、運命が最初から存在していたことの証明ではなく、運命という物語が「事後的に編集されて作られるもの」であることの証明ではないか。データによるマッチングが原理的に苦手なのは、まさにこの「事後的な物語化」の部分だ。アルゴリズムは出会いの瞬間のスコアリングは得意でも、その後10年、20年と積み重ねられていく関係の中で、無数の小さな選択がどう物語として編み上げられていくかまでは、予測のしようがない。運命とは、出会った瞬間に確定するものではなく、その後の関係の中で、繰り返し「これでよかった」と選び直されることによって、少しずつ確からしさを増していくものなのだ。

だとすれば、「データが運命の相手を教えてくれるか」という問いの立て方自体が、少しずれているのかもしれない。データが教えてくれるのは、せいぜい「出会う価値のありそうな候補」までだ。その候補を「運命」に変えていく作業――関係を続ける中での無数の選択、譲歩、再発見、そして時には衝突を乗り越えること――は、最後まで人間にしかできない。AIが得意なのは出会いの「入口」を整備することであり、そこから先の「物語」を紡ぐ作業までを肩代わりすることはできない。

まとめ:1%の不合理さの中にこそ

どれだけテクノロジーが「運命」を効率化し、完璧な正解を突きつけてこようとも、私たちは最後の最後で、自分の中にある「1%の不合理な感覚」を信じたい生き物なのだ。

それは非効率で、説明がつかなくて、時に間違った選択にすら見える。だが、その1%のノイズにこそ、人間らしさと恋愛の本当の面白さが詰まっているのかもしれない。AIが提示する99%の論理的な最適解を土台にしながら、最後の1%だけは自分の手で選び取る。そんな関わり方こそが、データの時代における「運命」との、もっとも誠実な付き合い方なのだと思う。

いいなと思ったら応援しよう!