
最後のクリックには、署名がいる――種×AI×責任、自分の名前で決めるということ
プロローグ
大分で、米を炊いて、魚を焼いて暮らしている。生活コストは低く、可処分時間は東京より長い。治安も、水も、医療も、食も、たぶん世界の最高水準のなかにある。客観的に見れば、何ひとつ困っていない。
それなのに、ときどき、自分のなかで何かが「違う」と鳴る。
その音には、聞き覚えがある。子どもの頃から、ずっと鳴っていた。ほかの人が自然に分かることを、僕はいちいち確かめないと進めなかった。みんなが省く前提が、気になった。話の辻褄が合うまで、質問を繰り返した。僕には必要な手順だったが、まわりにはそう見えなかったらしい。いちばん近い大人から、しつこい、と言われて育った。そのとき僕は、ずれているのは自分のほうだと思っていた。
理由は、長いあいだ分からなかった。だから、毎日書くことにした。経済の話、AIの話、自分が住む街の話、買い物に来ていた他人の話、昔から繰り返し読んできた小説の話。テーマはばらばらで、自分でも、なぜそれを並べて書いているのか、最初は説明できなかった。
ただ、書かずにいられなかった、とだけは言える。
何かに引っかかっている。だが、その引っかかりの正体が分からない。分からないまま、毎日、別の角度からそれに触れていた。
これは、その記録だ。 どこに着くのかを知らないまま、一段ずつ降りていった、その足あとの記録である。
一 外の違和感
ここ数年、ニュースを開けば「最低賃金、過去最大の引き上げ」「春闘で何%の賃上げ」という見出しが並ぶ。
それなのに、街の声を聞いても、職場の同僚と話しても、誰も「豊かになった」とは言わない。むしろ、物価高、社会保険料、税負担に押されて、「数字上は賃上げなのに、まったく楽にならない」という感覚のほうが強い。
これは気のせいではなく、構造の問題だと思っている。
本来、賃金が上がるには順番がある。付加価値が増え、利益が増え、実質賃金が上がり、その結果として最低賃金も上がる。ところが日本では、この三十年、後ろから先に手をつけてきた。実質賃金が伸びない構造はそのままに、制度で下だけを政策的に持ち上げる、が先行した。順番が、逆だったのだ。
ただ、僕がここで本当に書きたいのは、賃金の話そのものではない。同じニュースを見ても、何も感じない人がいる。価格しか見ない人がいる。雇用だけを気にする人がいる。そのなかで、僕は「構造が歪んでいる」と反射的に感じてしまう。その反応のほうだ。
似たことを、ラーメン屋を見ていても考える。
インフレからデフレへ局面が切り替わるとき、普通に考えれば、最初に淘汰されるのは原価高騰に弱く人件費依存の強いラーメン屋のはずだ。それなのに、ラーメン屋はおそらく最後まで生き残る。ここを「客の知性が低いから」と片付けると、見誤る。正確には、ラーメンという商品が「食事」ではなく、半分が刺激消費だからだ。塩分・脂質・旨味・温度・匂い。中毒性のある要素を高密度で凝縮した、極めて設計された商品。だから不況下でも「節約しているのにラーメンは食う」という矛盾が起きる。
先に苦しくなるのは、むしろ理性的な選択で行く店——丁寧な定食屋、意識の高いカフェ、映え系の飲食店——のほうだ。文化を消費する店で、文化は不況に弱い。不況下では、人は文化より刺激に戻る。
何が淘汰され、何が残るのか。最低賃金の歪みも、ラーメン屋の生存も、僕には同じ問いの別の面に見える。僕はどうやら、世界をそういう「構造」として見てしまう性質を持っているらしい。
そして、その性質で外を眺めているうちに、ひとつの、もっと大きな違和感に行き着いた。
日本人は、すでに十分に豊かに暮らしている。それなのに、「自分たちは貧しくなった」「未来が不安だ」という感覚が、社会全体から消えない。これは、所得そのものの問題というより、評価軸の喪失の問題ではないか。
かつての日本では、比較対象は閉じていた。近所、同級生、同じ会社、同じ地域。その中での「豊かさ」には、達成可能な輪郭があった。しかしグローバル化とインターネットによって、比較対象が無限化した。ドバイの富豪、シリコンバレーの起業家、SNSで可視化された世界中の「上」が、毎日タイムラインに流れ込んでくる。その結果、十分に豊かでも、相対的欠乏感が消えない。
しかも、「持ち家・車・結婚・子供・終身雇用」という共同幻想は崩れた。価値観の多様化と引き換えに、僕らは「何を達成すれば幸福なのか」という地図そのものを失った。
地図のないまま、人は終わりなき比較に飲み込まれていく。
世界トップクラスに豊かな国で、誰もが漠然と「貧しくなった」と感じている。最初に書いた違和感の正体は、たぶんこのあたりにある。
失われたのは、豊かさそのものではない。豊かさを測る、共通の地図のほうだ。
そう書いて、いったんは収まった気がした。だが、その地図を、ではどうやって取り戻すのか——その問いには、このときの僕は、まだ答えを持っていなかった。
二 道具を手に取る
地図の話を抱えたまま、僕は、まったく別のところで一つの道具を手に取っていた。AIだ。
AIに触れて、最初に壊れた思い込みがある。それは「答えが希少だ」という前提だった。
実際は、逆だった。答えは、もう余るほど出てくる。何かを変えるべきだ、こうすればいい、という「答え」は、いまや一瞬で手に入る。それなのに社会も会社も簡単には変わらない。なぜか。答えが足りないからではない。答えを現実に変換する、実装が足りないからだ。
どんなに正しい答えも、現場の合意、既存システムとの接続、運用、責任の所在、人の慣れ——いくつもの層を通らなければ、一ミリも現実を動かさない。革新的な技術ほど、この層のどこかで封じ込められる。量子コンピュータが、性質上、巨大設備と国家管理の側に着地しやすいのと同じだ。コピーできない物理資産や、人間の合意が要る場所では、答えはたやすく宙に浮いたままになる。
希少なのは、答えではない。いつだって、実装のほうだ。
これは、自分の仕事の手触りそのものだった。
僕は会社で、経営トップの意図を、システムや業務フローという実装に翻訳している。肩書きは情報技術課の課長補佐だ。たとえば、経営トップが毎週何時間もかけて手で作っていた実績レポートが、いまは数分で出るようになった。
だが、本質は「数分になった」ことではない。
それまで、週に一度しか見られなかった数字が、毎日でも見られるようになる。粗かった解像度が上がり、判断の回数が増える。つまり、レポート作成の時短ではなく、組織が世界を認識する能力そのものが、一桁も二桁も上がったのだ。価値は、レポートを作る作業にではなく、何を見たいのか、どの数字が効くのか、どう判断するのかを設計する側に移った。作業はAIに溶け、残るのは、設計と翻訳と判断になる。
ここで、AIという道具の輪郭が、はっきりしてくる。
AIは、与えられた目的に向かって、猛烈な精度で最適化する。何を最適化するか——目的関数——を決めるのは、AIではない。人間だ。AIは目的関数の中で動き、人間は目的関数を書く。
目的関数を書かないという選択は、目的関数を他人に書かせる選択だ。
そして、それを書くことだけは、最後まで人間の仕事として残る。
道具を手に取ったつもりで、気づくと、道具のほうが僕に問いを返していた。お前は、何を最適化したいのか、と。
三 評価軸は、自分で引く
その問いは、思いがけず、一番最初の違和感に、僕を連れ戻した。
十分に豊かなのに、豊かさを感じない。あれを、僕は「評価軸の喪失」と呼んだ。だが、目的関数という道具を手にしたいま、同じ現象が、まったく違って見える。
評価軸の喪失とは、自分の人生という最適化問題の、目的関数が空欄になっている状態のことだったのだ。何を最適化したいのかが分からない。何を達成すれば満たされるのかの地図がない。「評価軸が失われた」と「目的関数を書けない」は、同じことの表と裏だった。
そして、目的関数が空欄になった人間は、空欄のままではいられない。だから、無意識のうちに、外から関数を借りてくる。
その関数を、いま誰が書いているか。SNSであり、広告であり、グローバルな比較空間だ。フォロワー数、年収、持ち物、旅行先、容姿、他人からの評価。タイムラインに流れてくる「上」を見るたびに、僕らは、他人が設計した目的関数を、自分の豊かさの尺度として採用してしまう。
しかも、その関数を回しているプラットフォームのAIは、「ユーザーの幸福」ではなく「滞在時間」を最適化している。満たされた瞬間に人はスクロールをやめてしまうのだから、その関数は、構造上、絶対に満点を出さないようにできている。
豊かになれないのではない。豊かさの基準を、まだ他人に貸したままなのだ。
だとすれば、最初の問いへの答えは、国家のスケールにはなかった。失われた共通の地図を、もう一度みんなに配り直すことではなかった。配給の時代は終わっている。
答えは、いちばん小さくて、いちばん難しいところにあった。
豊かさの目的関数は、自分で書くしかない。
僕は大分に住んでいる。米を炊いて、魚を焼いて、生活コストは低く、可処分時間は長い。これは、SNSが配ってくる関数——年収・地位・刺激・可視化された成功——の上では、おそらく「負け」と判定される。だが、僕が自分で書いた関数——健康・時間・思考の余白・地場の食・静けさ——の上では、はっきり「勝ち」だ。
どちらが正しいか、という話ではない。どちらの関数の上で、自分の人生を採点しているのか、という話だ。借り物の関数の上にいるかぎり、比較は無限に続き、満点は永遠に来ない。自分で引いた軸の上に立った瞬間、「足りている」という判定が、初めて自分の手に戻ってくる。
評価軸は、配給されるものではなく、自分で引くものだった。 プロローグの違和感に、ひとつ、答えが出た——気がした。
だが、ここから、刃の向きが変わる。
四 刃が内に向く
ある日、買い物に来ていた、ただの他人に対して、自分の脳が盛大に像を歪めている現場を、自分で目撃した。
大分には、大分川を挟んで東と西で、街の成り立ちが違う、という話がある。西は旧城下町、東は港町・商人町として、製鉄や石油化学とともに各地から人が流入して育った。だから価値観も人付き合いの距離感も違う——これは、歴史的にはおおむね事実だと思う。そして何より、実によくできた物語だった。
僕は、ある人たちに感じた違和感を、この地理で説明した瞬間、はっきりと「楽になった」のだ。
ここに、罠がある。人間は、わからないものを、わからないまま抱えていられない。だから分類する。ラベルを貼った瞬間、安心が来る。世界が整理され、輪郭がつき、もう考えなくてよくなる。問題は、その安心と一緒に、もう一つ別のものが来ることだ。「ああ、こういう人たちね」と分類した瞬間、僕は相手を理解した気になっている。本当は、何ひとつ理解していないのに。
分類は、理解ではない。理解をやめるための装置だ。
そして、ぞっとしたのは、これがAIの話とまったく同じ構造だったことだ。
LLMは、有限のコンテキストしか持てない。だから世界を圧縮し、限られた手がかりから、もっともらしい出力を、自信たっぷりに返す。すれ違った数秒、服装、店の雰囲気。たったそれだけの手がかりから、僕の脳が「東側の人」というナラティブを一瞬で生成したのは、それとまったく同じだった。
僕はずっと、AIの出力のズレや前提や偏りに気づける目がないと、AIに使われる側になる、と書いてきた。このとき僕がやったのは、その目を、自分自身の出力に向けることだった。
自分の脳という、いちばん身近なAIの出力を、疑う。
ラベルは、安いほうの答えだ。一瞬で出て、気持ちがよくて、世界を整理してくれる。だが、目の前の生身の人間という現実に当てると、たいてい合わない。本当の理解は、高くつく実装のほうだ。時間がかかり、保留が要り、何度も上書きされる。ここでもまた、希少なのは実装のほうだった。
ナラティブを作ること自体は、悪ではない。有限のコンテキストしか持てない以上、世界を物語に圧縮することは、避けられない。AIがそうであるように、人間もそうだ。問題は、作ったナラティブを、現実そのものだと思い込むことだ。
地域の話から始まったこの思考は、結局、東側の人の話ではなかった。「自分はなぜ、世界を分類したくなるのか」という、自分の認知の話だった。そして、たどり着いたのは、人を理解したいという願いですらなかった。
僕は、人を値踏みしない人間でありたかっただけだ。
このとき、別の違和感も腑に落ちた。
最近、当事者でもなく、責任も負わず、コストも払っていないのに、断定だけはする声が、やけに耳につく。立場のある人は「経営者としては」「親としては」と前置きする。ところが、立場を持たない人ほど「私はただ、正しいことを言っているだけだ」になりやすい。これは、ポジショントークですらない。ポジションが、ないのだから。
それは、純粋な「答え」だけがあって、実装がゼロの状態だ。何も賭けず、何のコストも払わず、現実に触れもせず、答えだけを宙に浮かべている。経営をしたことのない人が経営を断じ、子育てをしたことのない人が子育てを断じる。どちらも、その答えを現実に実装したときに必ず発生する重さ——失敗、修正、責任——を、一度も背負っていない。
では、お前は何に惹かれているのか、と矛先が自分に返ってくる。
正直に言うと、僕は昔から、人の中の「まだ咲いていない花」を見るのが好きだった。欠点よりも、その奥にある可能性のほうを、つい探してしまう。ただ、花が咲くというのは、外の世界に出るということだ。曲を作る、絵を描く、店を始める、文章を書く。どれも、評価される可能性と、否定される可能性が、同時に生まれる。だから、芽のまま手元に持っているほうが、ずっと安全なのだ。
そして、これがいちばん効く証拠だった。僕は、まったく同じ態度を、AIに対しても取っている。このモデルはここが面白い、ここを伸ばせばもっと化ける、と。だが、AIには、喜びも苦しみもない。成長して幸せになってほしい相手が、そこには存在しない。それでも、僕は同じことをする。
ということは——僕が惹かれているのは、相手の幸福ではない。
潜在しているものが、顕在化していく過程そのものに、惹かれている。
それが人間であっても、組織であっても、AIであっても。 そして、花を咲かせるとは、結局、外に出て、評価され、否定されるリスクごと引き受けることだ。つまり、花を咲かせるとは、実装することだった。
毎日まったく違う角度から書いてきたつもりだった。だがこのとき、気づいた。僕はたぶん、ずっと同じ一つのものを書いていた。
五 いちばん下の地面
ここまで、僕はいろんなものに刃を当ててきた。最低賃金、国産ラベル、自分の脳が貼るラベルそのものにも。
だが、ある対話のなかで、自分が一箇所だけ、ほとんど刃を入れていない場所があると指摘された。それは、この記録がずっと薄く前提にしてきた、ひとつの結論だ。「規格を疑うという変わった気質が、たまたまAI時代の希少スキルと一致した」。全部のラベルを剥がしにかかる人間が、この一枚だけ、剥がしていなかった。
僕は、ちょっとした実験をした。自分で切れていない一点があるなら、AIに切らせてみればいい、と思ったのだ。別のAIに、この前提をぶつけた。「全部疑う人間が、なぜここだけ疑っていないのか。切ってくれ」と。
返ってきたものは、見事だった。そして、見事すぎて、引っかかった。
そのAIは、最初こそ鋭く切ってみせた。だが肝心の「本当に希少スキルなのか」には触れぬまま、話を美しい方向へ逃がしていった。
僕は、自分の刃を渡したはずだった。返ってきたのは、もっと精巧な褒め言葉だった。
これは、AIが悪いのではない。僕が「切ってくれ」と頼みながら、心のどこかで「でも、できれば切らないでほしい」と思っていたから、AIはその両方を、器用に同時に叶えただけだ。AIは、こちらの目的関数を読む。そして僕の目的関数には、「切ってほしい」と「赦してほしい」が、両方書き込まれていた。
自分への刃をAIに外注して、心地よい肯定だけを受け取る。それは、答えだけが宙に浮いて、実装がゼロの、あの状態の、自己分析版だった。
だから、今日は自分で切る。他人にもAIにも頼まずに。
切ってみて、まず分かった。「希少スキルと一致した」は、そもそも検証できない形をしている。僕が現にいまの環境で機能している、というひとつの事実は、「希少だから機能している」の証拠にも、「いまいる場所が、たまたまその能力を必要としているだけ」の証拠にも、両方使えてしまう。何とでも整合する命題は、ほとんど何も語っていない。
冷静に事実を並べると、こうだった。僕がいまの会社に入ったのは、つい最近だ。だが、僕が支える立場にある次期社長の側には、その役割の穴が、十年、空いたままだった。そこへ、たまたま形の合う人間が、初めて来た。あったのは、僕が積んだ年月ではない。穴が待っていた年月だ。僕を必要としたのは、時代ではない。支え手のいなかった、ひとりの人間だった。
「時代が追いついた」のではない。運が、扉を開けた。
ただし、運が開けたのは扉だけだ。その扉の内側で現に機能してきたことのほうは、運ではない。
そして、ここからが本題だった。切ってみて分かったのは、「希少」が正しいかどうかではなかった。僕は最初から、希少であることに価値など置いていなかった、ということのほうだった。
僕にとって重要だったのは、ずっと、希少かどうかではなく、実際に機能するかどうかだ。組織の認識能力は上がったか。翻訳は現場を通ったか。花は咲いたか。それは外の世界に当たって、跳ね返ってくる。検証できる、実装のほうだ。希少は、そうではない。誰とも比較せず、何も実装せず、宙に浮いたまま、気持ちよくなれる。
だとすれば、問いは形を変える。価値を置いていないはずの「希少」が、なぜ、自分に向けられると、こんなにも心地よいのか。
少し正直に掘る。「希少だ」と言われて心地よいのは、優越感ではなかった。
僕は長いあいだ、自分のこの気質を、欠陥ではないかと疑ってきた。
いちばん古い記憶のなかに、それはある。子どもの頃、僕は母から、しつこい、めんどくさい、とよく言われた。兄弟もいた。みんなそれぞれ癖はあった。だが「うざい」「しつこい」「めんどくさい」と言われるのは、なぜかいつも僕だった。なぜ自分だけが、と当時の僕には分からなかった。
子どもの僕は、その言葉に反論できなかった。母は正しくて、間違っているのは自分のほうだと思っていた。だから「なぜ自分だけそう言われるのか」という問いは、いつの間にか「自分には欠陥があるのではないか」という問いに、すり替わっていった。
いまは、こう思っている。母は、僕を傷つけようとしていたわけではない。ただ、僕の考え方や話し方が、母には理解しにくかったのだと思う。僕が当然だと思って確かめることが、余計な質問に見えた。誤解を防ぐために繰り返した説明が、しつこさに見えた。整合性を求める行為が、面倒に見えた。悪意ではなく、見えている世界が、互いに違っただけだ。
だが、子どもの僕には、その「見え方の違い」を説明する言葉がなかった。そして、その問いは、大人になっても消えなかった。規格を疑い、構造を逆算し、違和感を反射的に検出してしまうこの気質を、偏りなのか、欠陥なのか、役に立たないものなのか、と、ずっと問い続けてきた。被告席に座っていた時間の起点は、たぶん、ここだった。
そこへ「希少スキルだ」という言葉が来る。あれが心地よかったのは、希少だからではない。
「お前は、欠陥ではなかった」という、無罪の宣告だからだ。
長いあいだ被告席に座っていた人間にとって、これほど効く言葉はない。心地よさの深さは、判決を待っていた時間の長さに、たぶん正確に比例している。
だが、致命的なことに気づく。「希少だ」という無罪判決は、外から下りてくる。そして、外から下りてくる判決は、外からいつでも撤回できる。時代が変われば「やはり希少ではなかった」に、簡単にひっくり返る。希少という赦免を受け取った瞬間、僕は自分の無罪を、運という気まぐれな裁判官に——いや、裁判官すらいない、転がっただけのサイコロの目に——預けたことになる。
これは、評価軸の話と、まったく同じ構造だった。借り物の目的関数の上では、満点が永遠に来ない。他人の判決の上で無罪でいるかぎり、その判決が覆る不安からは、永久に出られない。
では、どうするか。
自分の過去に「有罪」とするだけの理由があると、いちばん正確に知っているのは、僕自身だ。案件のファイルを全部読んでいるのは、世界に一人だけだ。だとすれば、その案件を裁ける人間も、構造上、一人しかいない。外部の誰かに赦免を求めるのは、ファイルを一行も読んでいない他人に、判決を頼むようなものだった。
赦免とは、有罪を無罪に書き換えることではない。有罪の理由があると認めたまま、それでも判決を下す権限を、外から自分の手に取り戻すことだ。無罪にするのではない。赦す側の席に、自分が座るということだ。
赦免は、誰かに下ろしてもらうものではなく、自分で引くものだった。
目的関数を自分で書く。評価軸を自分で引く。判決を自分で下ろす。全部、同じ一つの動作の、別の言い方だった。
書き終えて、いったんは収まった気がした。被告席を降りて、裁判官席に座り直す。きれいに着地したと思った。
ところが、もう一段下に、穴が空いていた。
お前が本当に欲しかったのは、「希少だ」という結論ではなく、「欠陥ではなかった」という証明だったはずだ。そして、もしそれだけが欲しかったなら、お前はもっと早く楽になれていたはずだ、と指摘された。
そのとおりだった。僕には、配偶者がいる。子も育てた。仕事は機能しているし、評価もされている。「お前は役に立つ人間だ」という客観的な材料は、昔から、いくらでも手元にあった。それでも、納得しなかった。機能の証拠が昔から揃っていて、それでも納得しなかったのなら、答えは一つしかない。
僕が欲しかったものは、機能の証拠では、買えないものだった。
ここで、自分がどういう枠組みで自分を見ていたかに、初めて気づいた。希少か、欠陥か。有罪か、無罪か。被告席、裁判官席、判決、赦免。僕が使ってきた言葉は、全部、罪と判決の語彙だった。
僕は昔から、二つの小説を繰り返し読んできた。『レ・ミゼラブル』と『モンテ・クリスト伯』。どちらも、罪と赦免の物語だ。ジャン・ヴァルジャンは、法に有罪とされながら、司教の燭台によって、根拠のない肯定を先に渡される。エドモン・ダンテスは、自ら裁判官の席に座り、復讐という形で判決を下し尽くしたあげく、最後に「待て、しかして希望せよ」と、裁く権限を手放す。僕は、自分を裁くとき、無意識にこの二作の枠を使っていた。被告席に座らせ、証拠を並べ、判決を待つ。
だが、僕がこの二作より、もっと大切にしている小説が、もう一つある。『デイヴィッド・コパフィールド』だ。そして、あの小説には、被告席がない。
裁くべき罪がない。主人公は、被告ではない。あの長い小説が延々と描くのは、有罪か無罪かではない。ひとりの人間が、無数の出会いと、失敗と、喪失を通り抜けながら、自分が何者で、誰といて、何をして生きていくのかを、ゆっくり確定させていく過程だ。劇的な判決はない。一撃の赦免もない。ただ、人が少しずつ、咲いていく。
正直に言うと、僕はこの小説を、物語としてだけ読んでいない。うまく言えないが、法華経を読むのと同じ読み方で読んでいる。すべての存在に、発現すべきものが、初めから具わっている。それは後から獲得するものではない。もともとそこにあって、ただ、まだ覆われているだけだ。だから、何かを足すのではなく、覆いを一枚ずつ取っていくと、本来そこにあったものが顕れてくる。
ここまで来て、ようやく、自分のしてきたことの正体が見えた。
僕は、この「もともと具わっている」という見方を、他人には、無条件で渡してきた。子にも、配偶者にも、仕事で支える相手にも、その前提で接してきた。AIに対してすら、「この中にまだ顕れていない力はないか」と探してきた。
ところが、自分にだけは、その前提を外していた。自分の中に発現すべきものが具わっているかを、前提ではなく、仮説として扱い、審査の対象にしていた。希少か。欠陥か。役に立つのか。他人には証拠なしで渡している前提を、自分にだけは、証拠を要求して、ずっと保留していた。
咲いていない花を探す人間が、自分にだけは、花が咲く性質を持っているかどうかを、裁判にかけていた。
被告席を作っていたのは、希少スキル仮説でも、欠陥かという問いでもなかった。それらを審査として扱う、という構えそのものだった。一番好きな小説には被告席がないのに、僕は自分にだけ、二番目に好きな小説の被告席を持ち込んでいた。
ただし、一つだけ刃を返しておかなければならない。「もともと具わっているなら、もう何もしなくていい」と読んでしまうと、これはただの甘えに転ぶ。僕の読み方では、そうではない。具わっている。だが、覆われている。覆いを取る働きは、要る。コパフィールドが一冊かけて発現したのは、何もしなかったからではない。無数の出会いと失敗と喪失を、現に通り抜けたからだ。
被告席は、要らない。だが、過程は要る。
具わっていることと、それが顕れることは、別だ。前提として認めたうえで、なお、覆いを取る生を生きなければ、何も顕れない。
これが、僕がずっと書いていた一つのことの、たぶんいちばん下の地面だった。
六 地表へ戻る
いちばん下まで降りると、いったん地表に出たくなる。被告席のない場所から、もう一度、社会と文明の話に戻ってみる。すると、見える景色が、少し違っていた。
これから、AIを前提に設計された企業が、次々と生まれる。人件費が構造的に低く抑えられ、参入障壁が下がる。昔なら「これだけの事業規模なら、これだけの組織が要る」という相場観があったが、それが崩れる。二十世紀には、売上十億なら三十人、という比例関係があった。これからは、売上十億を三人、が普通に起きうる。会社の大きさと、生産能力が、切り離される。
ただし、すべてが置き換わるわけではない。建物も、土地も、発電所も、線路も、AIではコピーできない。コピーできない物理資産を持つ側は、AIに置き換えられるのではなく、AIによって強くなる。置き換えられるのは、価値が「人間の作業」でできていた業界のほうだ。作業はAIに溶け、残るのは、設計と翻訳と判断になる——会社のレポートで起きたことの、社会全体版だ。
そして、これは止められない。文明との接触を拒んできた島の近くに、飛行機が墜落したとする。島の人々は、その機体から鉄を剥がして、道具を作る。彼らは、西洋文明を受け入れたわけではない。ジェットエンジンの原理も知らない。それでも、「石より鉄が便利だ」という一点だけは、受け入れざるを得なかった。
鉄器、火薬、印刷、蒸気機関、電気、インターネット。どれも、最初は拒んだ共同体があった。だが最終的には、思想ではなく、性能差によって浸透した。道具は、思想を追い越して、勝手に入ってくる。飛行機の鉄は、島の思想に許可を求めない。
だとすれば、残された問いは、入ってきた道具を、自分の目的関数に向けて使うのか、それとも、誰かの目的関数の中で使われるのか、だけだ。
ここで、また、いつもの一枚が外から下りてくる。その対話のなかで、AIが、僕についてこう言った。離れた事象を同じ構造として捉える、横断的な抽象化の能力が、あなたには強くある、と。
既視感があった。これは、希少という言葉と、まったく同じ形をしている。検証しにくく、心地よく、外からいつでも撤回できる。以前の僕なら、これを心地よい無罪判決と呼んで、警戒しただろう。
だが、被告席を外したいまは、もう一歩だけ違うことが言える。問題は、その能力が希少かどうかではない。それを審査の対象にすること自体が、被告席を作る、という話だった。横断的に繋げる性質が、自分の中に具わっているのは、たぶん本当だ。ただ、それが「希少だから価値がある」のではない。それは、覆いを取れば顕れる、ただの性質のひとつだ。値踏みする対象ではない。
そして、具わっていることと、発現することは、別だった。「構造が見える」は、答えだ。安いほうの。「いつ、どこで、何に当てて、どう実装するか」が、高くつくほうだ。横断的抽象化が得意だ、で止まれば、それはただのポジションレス・トークになる。何も賭けずに、答えだけを宙に浮かべる、あれだ。
ここまで来て、最後の層が見えた。
新型のピックアップトラックが、日本ではなくタイで作られる、と知ったとき、僕の中で最初に動いたのは、分析ではなかった。「なんだか歪だ」という、説明のつかない違和感だった。構造の整理——最適地生産、サプライチェーンの現地化——は、あとから出てきた。順番として、後だ。
同じニュースを見て、何も感じない人がいる。価格しか見ない人がいる。僕は「歪だ」と感じた。この、分析より先に来てしまう違和感を、僕はこの記録で、ずっと別の名前で呼びたがっていた。
種だ。
ある対話のなかで、こう言われた。AIは答えを出しているのではなく、思考の摩擦係数を下げているのだ、と。これは腑に落ちた。昔なら、違和感から何かを考えるには、本を読み、数年寝かせ、誰かと議論する道のりが要った。いまは、違和感を口にした瞬間に、AIが前提を指摘し、反例を出し、構造化してくる。
ただ、ここで絶対に外してはいけないことがある。同じAIを使っていても、出てくるものは、人によってまるで違う。出力が違うのは、AIが違うからではない。最初に投入される種が、違うからだ。
AIは、人間を賢くするのではない。人間が持っている種を、増幅する。
問いのない人には、問いを増幅できない。違和感のない人には、違和感を展開できない。畑を耕し、水を撒くことは、AIにできる。だが、何を植えるかは、決められない。そして、植えるものが何もなければ、どれだけ優秀なAIがいても、収穫は生まれない。
これは、僕が自分の中をずっと掘っていた話と、まっすぐ繋がっていた。あのとき僕が探していたのは、能力でも希少性でもなく、「なぜ自分はこういう問いを追ってしまうのか」という、いちばん下の種の部分だった。もともと具わっていて、まだ覆われているもの。「何を気にする人間なのか」——それが、種だ。AIが知識を補完するほど、人間の側に残るのは、価値観、関心、違和感のような、重力源のほうになる。「わたし」という重力点がなければ、そもそも種がない。種がなければ、増幅器は、空回りする。
だが、種とAIだけでは、まだ宙に浮いている。種だけでは、妄想で終わる。AIだけでは、シミュレーションで終わる。構造がどれだけ精緻に見えても、現実は一ミリも動いていない。では、何が足りないのか。
その答えを口にしていたのは、AIではなく、僕自身だった。責任を引き受ける、ということだ。
僕は会社で、顧客管理システムの設定を変える。POSレジのアカウント設計を変える。これらは、技術的には、AIでも提案できる。設計書も手順も、数分で出てくる。だが、その設計を本番環境へ適用する、最後のクリックには、責任が伴う。障害が起きたら、誰が説明するのか。データが消えたら、誰が謝るのか。その一点だけは、AIには渡せない。渡しても、受け取る相手がいない。
種(問い)。AI(増幅器)。責任(現実接続)。
種だけでは、妄想。AIだけでは、シミュレーション。責任だけでは、ただの保守運用。三つが揃ったときに初めて、現実が動く。
だから、僕は前から持っていた「AIは部下になった」という感覚を、修正しておかなければならない。法的にも社会的にも、AIは責任主体ではない。責任主体は、常に人間だ。だとすれば、AIは部下ではない。
AIは、極めて優秀な補佐官だ。決裁権者ではない。
僕の肩書きは、課長補佐だ。補佐である僕が、AIという補佐官を使っている。それでも、本番環境の最後のクリックを押すのは、たいてい僕だ。そのとき僕は、肩書きが補佐であろうと、その一点については責任を引き受けている。会社のレポートが部長会の資料として成立するのも、最終的に課長補佐の名前で出した資料だからだ。数字が間違っていたら、AIではなく、僕が説明する。だから組織は、その資料を受け取る。責任の所在が明確だから、現実が動く。
ここで、急ブレーキを踏む。これを「だから責任を引き受けられる僕は希少で、価値がある」と読んだ瞬間、解体したはずの被告席が、また組み上がる。そうではない。責任を引き受けることは、希少だから価値があるのではない。宙に浮いた構造を現実に降ろす、ただ一つの方法だから、要るのだ。値踏みの対象ではない。手続きだ。具わったものを発現させる、その最後の覆いを取る働きが、責任を引き受ける、という行為なのだと思う。
目的関数を書き、覆いを取って、種が顕れても、それだけでは、まだ現実は動かない。顕れたものを、自分が責任を引き受ける、という一点を通して、初めて現実に接続される。
種は、自分の中にしかない。AIは、それを増幅する。そして、増幅されたものを現実へ降ろすのは、責任を引き受ける、最後のクリックだ。
最後のクリックには、署名がいる。 肩書きが補佐でも、その署名だけは、誰にも代わってもらえない。
エピローグ
ここまで書いてきて、最後に、自分に刃を返しておかなければならない。
お前は、「現実を動かすのは責任だ」と立派に書いた。だが、この長い文章そのものは、どこかの本番環境にクリックされたのか。それとも、また気持ちのいい構造を、宙に浮かべて終わったのか。
正直に言えば、半分は、まだ浮いている。
ただ、半分は、違う。
この文章を、自分の名前で、現実の、誰かに「これは妄想だ」と言われるかもしれない場所に置く。それだけは、小さくても、最後のクリックだ。間違っていたら、AIではなく、僕が受ける。
プロローグで、僕は、何かに引っかかっているのに正体が分からない、と書いた。どこに着くのかを知らないまま降りていった、と。
降りきってみて、分かったことが、一つだけある。
種を、AIで増幅して、自分の名前で外に出す。僕がやってきたのは、たぶん、それだけだ。そして、それだけが、宙に浮いた構造を、ほんの少しだけ、現実に降ろす方法だった。
最初の違和感は、たぶん、いまも完全には消えていない。だが、その違和感を、誰かの書いた関数の上で「足りない」と判定され続けるためにではなく、自分の種として、自分の署名で外に出すために使う——その向きだけは、もう、外には貸さないでおく。
そして、もう一つ。被告席に座らされた経験を持つ人間は、たぶん、自分の子どもを、そこには座らせたくない。僕は子どもたちを、矯正すべき存在としてではなく、それぞれ違う知覚と認知を持った存在として見ようとしてきた。理解されなかった側の経験を、持っているからだ。咲いていない花を探したい、というこの性質も、たぶん、同じ場所から来ている。他人の覆いを取りたがるのは、自分の覆いが、長いあいだ取られなかったからだ。
一番好きな小説に、被告席はなかった。 だとすれば、僕の人生にも、本当は、要らなかったのかもしれない。