
【小説】アルゴリズムの際 - 便利なのに、空虚。(29)
全社向けのミーティングが朝十時に設定されたのは、前日の夜遅かった。
カレンダーの件名は「重要なお知らせ」だった。
会議室に入ったとき、すでに半分ほど席が埋まっていた。薫は中ほどに座った。
藤村マネージャーが隣に来た。「なんだと思います?」と小声で言った。
「わからない」と薫は言った。
十時になった。モニターが映った。
代表が話し始めた。
三分ほど話した。HBグループという社名が出た。欧州の企業だった。薫には聞き覚えがない。十月をめどに、とも言った。
隣でペンがテーブルに置かれた。音が小さく響いた。
「え」と藤村マネージャーが言った。低い声だった。
後ろの席から「マジか」という声がした。
薫は前を向いていた。
モニターにはまだ代表の顔が映り、英語の字幕が出ていた。
隣で誰かがスマートフォンを出した。手が少し速かった。
薫はノートを見ていた。自分の手が、何も書かないまま止まっていた。
ミーティングが終わった。廊下に人が出た。
薫はドアを出てから少し歩いて、止まった。
廊下の先で、何人かが固まっていた。藤村マネージャーと、隣のチームの人間と、薫は名前を知らない人が一人。スマートフォンを見ながら話していた。
「外資ってことは、評価が変わりますよね」と誰かが言った。
「部署どうなるんですかね」と別の声がした。
「十月って急ですよね、せめて年内か」
薫はその輪の外を通り過ぎた。
「宮本さん」と中村が後ろから来た。「どうなるんですかね」
「わからない」と薫は言った。
「不安じゃないですか」と中村が聞いた。
薫は少し間を置いた。「わからない」
中村が「そうですよね」と言って、スマートフォンを見た。
薫はデスクに向かった。
デスクに戻って画面を開いた。
メールが届いていた。何通か。件名に「HBグループ」の文字が入ったものが二通、社内の別のチームからだった。代表からの全社メールが一通。あとは通常の業務メールが数通。
画面の右上に通知のバッジが出ていて、Slackにも何件か来ていた。
薫は窓の外を少し見た。
ビルが並んでいる。その向こうに、空がある。今日は薄く雲がかかっていて、青いのか白いのか、判断がつかない色だった。屋上に換気扇のような機械が見える。ゆっくり回っていた。
手がキーボードの上に乗った。スプレッドシートのショートカットを押しかけて、止まった。
通常業務のメールから開いた。
昼過ぎ、Slackに松田からメッセージが来た。「今日のランチどうしますか」と書いてあった。薫は少し間を置いてから「今日は一人にする」と返した。
一人でビルを出た。どこに行くか決めないまま歩いた。空が少し明るくなっていた。
コンビニの前を通り過ぎた。弁当屋の前を通り過ぎた。路地に入ると、小さな公園があった。ベンチが一つ。薫はそこに座った。スマートフォンを出さなかった。
しばらく、空を見ていた。
夕方、翌週のアジェンダを確認しようとして、止まった。
メールの通知バッジがまだあった。HBグループの件名のものが、まだ開いていなかった。
帰り道、駅のホームに降りたら、次の電車まで八分あった。
改札の方向に引き返した。一度出た。
駅前にコンビニ、居酒屋の看板、花屋。夕方の人が多い時間だった。
少し歩いた。居酒屋の前を通った。暖簾が出ていた。
知らない店だった。
路地に入ると、静かになった。どこかのアパートの郵便受けが並んでいた。植木鉢が一つ、玄関先に出ていた。
しばらくして、知っている通りに出て、駅があるはずの方向に歩いた。
次の電車まで三分あった。
ホームの先を見ていた。電車が来る方向だった。
光が見えた。