
水やりの音
ひとりで何をしていてもいいなら、わりと機嫌よく待っていられるほうだと思う。
待ち時間3時間越えの総合病院とか、道に迷っても困らないくらい余裕のある待ち合わせとか。適当にカバンに放り込んできた本のページをめくったり、左耳で音楽を聴きながら周りにいる人を眺めたり。
それなのに見守ることになると、好きで嫌いで、いくつになっても苦手なまま。
花や野菜なら、前もって水やりの頻度や量を調べておける。その日の天気や気温、葉っぱの色や土の乾き具合を確認して、言葉がなくても毎日少しずつ調整できる。
でも、人相手だと、そうはいかない。
目の前に置いたコップの水を飲むのか、飲まないのか、あとで飲むのか。
見守っている間にも、頭の中では物語が枝分かれして増えていく。
飲みたい気持ちが少しでも透けて見えれば、今ならまだ間に合うかもしれないと、胸の奥に細波が立つ。
器を替える、温める、一旦下げてみる。
どれも正しいようで、どれも違う。
「ほんの少しでも口に含んでくれたら」
思いやっているつもりで、押しつけていたりしてね。
そしてようやく、立ち止まる。
ここから先は相手の領分。
「見守ることしかできない」
なんて不自由な言葉なんだろうと思う。
凪いでいるように見えて、そこに行き着くまでも、その後も、ずっと騒がしい。
「水が嫌ならジュースは?」
「牛乳なら?」
「早く飲みなさい」
喉まで出かかった言葉を呑み込むこと。
あせらせない、おびやかさないこと。
「水を飲むべき」
その前提条件は本当に正しいの?
いま必要なのは水分か、時間か。
考えれば考えるほど水は濁って、コップの向こう側を隠してしまう。
それでも本当に危険なときには、迷わず手を伸ばしたいし、相手の望むような結果にならなかったときは、許されるならそっと背中に手を当てたい。
見守る苦しさは、何もできないからではない。
水やりするほうも、生きものだから。
不安を早く安心にひっくり返したくて、水をやりすぎてしまう日がある。
自分のしんどさが勝って、水の入ったコップを少し乱暴に、テーブルの上に置いてしまう日だってある。
「もうこれ以上は」と引いた後も、枝分かれは休むことなく続く。
「これでいい」という感覚が、うまく形を保てないまま揺れる。
誰のために必死になっているの?
期待を手放したふりはできても、気にかけることだけはやめられない。
いつでも適切な選択肢だけをさりげなく並べて、相手が選んだ道の先の先まで、一緒に眺めておもしろがれたらいいのに。
たとえば子どもの足音が主旋律なら、それに合う音を重ねているのか、ただ好きな音を鳴らしているだけなのか、途中からよくわからなくなってくる。
うまくいきそうな日はメジャーコード。
そうじゃない日はマイナーコード。
そんな風に分けきれない音ばかり。
見守る中、選んだ道の先で、派手に転んでしまうこともある。その傷は目には見えないのに、なぜかこちらまで痛む。
「もう、待つことしかできない」
時間が経てば経つほど言い切れない。
これまで重ねてきた音たちはそれなりに響き合っているようで、近づいてみると、どれも不協和音に感じてしまう。
心地よく感じた音も、あとから聴いてみれば偶然だったようにも思えるし、耳障りに感じた音こそ不可欠だったと、胸を張りたくなることもある。
マイナーコードに惹かれるくせにどうして笑顔ばかり願ってしまうんだろう。
今も絶えず鳴り響いている音が不協和音かどうかなんて誰にもわからない。
タイトルだって、最後につけられるんだろう。
それまでは耳を澄ましながら。
水やりは、続く。