メインコンテンツへスキップ
見出し画像

第6話 | 元エリートの天賦の才

    猿渡(さるわたり)は、埃をかぶった会議室の資料をパタンと閉じた。

    過去の帳簿や形式だけのマニュアルは、もう十分だ。

    彼が本当に欲している「生きた手札」は、こんな場所にはない。

    彼が次に向かったのは、リゾートの心臓部ともいえる裏動線――リネン室だった。

    むせ返るような湿気と、業務用洗剤の匂い。

    山のように積まれたシーツとタオルの間を縫うように、数人のパート女性たちが目まぐるしく働いている。

    その中心で彼女たちを束ねているのが、勤続二十年の清掃チーフ、川副孝子(かわぞえ たかこ)だった。

    彼女こそが、このリゾートの全従業員の裏事情から、どの部屋のボイラーの調子が悪いかまで、ありとあらゆる情報を握る「現場のハブ」であることは、面談で一目瞭然だった。

    「……あら、本社の方。ここは涼む場所じゃありませんよ」

    リネン室に現れた猿渡を見て、孝子は手を止めずに警戒心も露わに言った。

    無理もない。

    ところが、猿渡の行動は彼女たちの予想を鮮やかに裏切った。

    彼は黙って高級スーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイを外し、シャツの袖を乱暴にまくり上げたかと思うと、運ばれてきたばかりの重いリネンワゴンの端を無造作に掴んだ。

    「おっと、こいつは重いな。どこに運べばいい?」

    「えっ……ちょ、ちょっと! 本社の人にそんなことさせられないですよ!」

    「いいから、いいから。現場の汗もかかずに、偉そうに数字はいじれない性分でね」

    猿渡はニカッと笑い、手際よくシーツの仕分けを手伝い始めた。

    この男、ただのエリートではない。

    数々の修羅場をくぐり抜けてきたこの男の天賦の才は、人たらし技術なのだ。

    彼は決して偉ぶらず、かといって媚びることもない。

    ただ一緒に汗を流しながら、絶妙な合いの手で孝子たちの懐にスッと入り込んでいく。

    「ここのシーツ、糊付けの具合が最高に気持ちいいですね。さすがプロの仕事だ。孝子さんの指示ですか?」

    「あそこの東館のボイラー、調子悪いでしょう。フロントに言っても、予算がないって直してくれないんじゃないですか?」

    「……なんで本社の人間が、そんなことまで知ってんのよ」

    誰も見向きもしなかった自分たちの仕事を的確に評価し、現場の痛みを「同じ目線」でわかってくれる。

    裏方で見向きもされない彼女たちにとって、初めての体験だった。

    しかも、この日だけではない。

    次の日も、その次の日も、猿渡はボイラー室を訪れた。

    次第に孝子たちの口元から笑みがこぼれる。

    気がつけば、彼女たちは本社の上司に絶対に言ってはいけないような不満や、各部門の裏事情まで、堰を切ったように喋らされていた。

    孝子たちの口から溢れ出たのは、帳簿のどこを探しても載っていない、このリゾートの「生きた血流」だった。

    常連の名前や家族構成、誰がどこの農家と太いパイプを持っていて、どの配管が死んでいて、スタッフの誰と誰が折り合いが悪いのか。

    猿渡は脳内に叩き込んでいった。

     
     
    隆之恵 海月(りゅうのえ みつき)。 雪国の廃墟リゾートにあるスナックのママ。店には敗れた男たちが流れ着く。これは「左遷された最年少役員」が、意地とプライドを捨て、再び社長へと這い上がるまでの奇跡の記録(実話)。愛猫は海と月。

    あなたへのおすすめ