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自分を卑下する必要なんてない

 社会に出るまでは、自分がこんなに自信をなくすとは思っていなかった。

 学生時代はもう少し無邪気な人間だったように思う。なんにだってなれると思っていたし、努力さえすれば、だいたいのことはどうにかなると信じていた。そこに根拠なんてなかったのだけれど、根拠がないことを気にするほど大人でもなかった。

 将来について聞かれれば、それらしい夢を答えたし、自分にはまだ見つかっていない才能がいくつも眠っているような気さえしていた。

 若さというものは、ずいぶん親切だ。知らないというだけで、自分の可能性を信じさせてくれる。

 ところが、社会に出た途端、世の中にはすごい人がたくさんいるという事実を知った。

 仕事が速い人。初対面でも相手の懐にすっと入っていく人。自分より若いのに、もうずっと先を歩いているように見える人。

 それまで自分のなかにあった「まあなんとかなるだろう」という気持ちは、そういう人たちに出会うたび、少しずつ小さくなった。

 比べるつもりなんてなかったのに、つい比べてしまう。自分より上手な文章を読めば落ち込んだし、自分より大きな仕事をしている人を見れば、同じ場所で地団駄を踏み続けている自分に嫌気が差した。

 それでも仕事を依頼してくださる人はいて、文章を書いたり、編んだりしたりしながら生きていた。

 原稿を褒めてもらうこともあったし、別の依頼をいただくこともあったのに、自信だけはなぜか増えなかった。むしろ経験を重ねるほど、自分のできなさばかりが見えるようになった。文章を仕事にしている、と人に言うことさえ、少し居心地が悪い時期があった。

 ある日、友人と喫茶店にいた。大学生の頃からときどき一緒に行っている店だった。駅からすぐの古い喫茶店で、入口のベルは鳴るたびに少し頼りない音がする。

 ライターとして活動し始めたての頃、世間に公開するつもりで書いた文章を、その友人にも読んでもらったことがあった。

 何を書いたのか、いまではほとんど覚えていないのだけれど、友人が読み終えた後、「ここ、ええやん」と言って、スマホを指でタッチしたことだけは覚えている。

 ぼくは照れくさくて、「そこは適当に書いた」と答えた。すると友人は、「素直に受け取れよ」と言って笑った。そのときは友人の言葉の真意がわからなかった。

 あれから何年も経って、同じ店で友人とまた似たような話をする機会があった。今回は窓際の席だった。夕方の光がガラス越しにテーブルへ差し込んでいた。コーヒーはもう半分ほど冷めていて、ぼくは話しながら、意味もなくスプーンでカップの縁を触っていた。

「自分の文章にどうしても自信が持てないんだよね」

 そう言って、少し笑った。深刻に聞こえないようにしたかったのだと思う。

 友人はすぐには答えなかった。角砂糖の包み紙を細く折りながらしばらく黙っていた。昔から友人は考え事をするときに紙を触る癖がある。学生のころも、ファミレスの紙ナプキンを小さく折りながら、くだらない話を何時間もしていた。

「でも、お前の文章を好きやと言ってくれる人がおるんやろ? あと仕事を頼んでくれる人もおるんやし、自信がないって言うのは、その人たちに失礼とちゃうんか」

 ぼくはスプーンを置いた。

 友人は折り終えた包み紙をテーブルの端に置いて、

「お前、ずっと変わらんよな」と言った。

「何が?」

「覚えてへんのか? 最初にお前の文章読んだとき。俺がええやんって言ったら照れ隠しかなんか知らんけど、素直に受け取らんかったやん」

 覚えていた。いや、急にはっきりと思い出した。

 スマホの中に並ぶ文字と、まだいまよりずっと若かった友人の指。

「褒められたらすぐ逃げるんは悪い癖やで」

 そう言って、友人は少し笑った。

「自信家になれとは言わんし、そうなったらお前は調子に乗って勝手に潰れるやろ? でも、自分を卑下する必要はないと思うねん」

 その言葉が、思っていたより深く残った。

 たぶん、初めて言われた言葉ではなかったのだ。

 ずっと昔からぼくは同じことをしていた。誰かが差し出してくれた好意を、受け取るのが怖くて、小さくして返していた。

 自分を低く見積もることを、謙虚さだと思っていたのかもしれない。

 ぼくなんてまだまだです。全然たいしたことありません。たまたま運がよかっただけです。

 そんなふうに言える人間のほうが、感じがいいと思っていた。

 それに自分を小さくしておけば安全だった。期待されすぎなくて済むし、失敗したとしても、「だから言ったでしょう、ぼくなんてたいしたことないんです」と逃げられる。

 傷つかないために、あらかじめ自分を低い場所へ置いていたのだと思う。でも、自分を卑下することは、自分ひとりの問題ではない。

 自分の書いた文章を評価してくださる人たちがいるのに、「ぼくの文章なんてたいしたことないですよ」と言い続けることは、その人たちの気持ちや判断まで否定することになってしまう。

 自分を信用できないからといって、自分を信用してくれた人まで信用しない理由にはならない。そのことに気づいてから、自分に対する言葉を少しだけ変えようと思った。

 もちろん、急に自信家になれたわけではない。いまでも人の文章を読んで落ち込むし、どうしてこんな言葉が書けるのだろう、と羨ましくなる。

 そして、その感覚を完全になくしたいかと聞かれると、少し迷う。ここで満足してしまったら、すべてが終わるような気がするからだ。自分に満足した瞬間から見えなくなるものがある気がする。

 もっといい文章を書きたいし、いままで書けなかったものを書けるようになりたい。

 自信を持てないということは、ただ自分を嫌っているということではなく、まだ上を見ているということでもあるのかもしれない。

 ここ最近は満足することと、立ち止まることは、たぶん同じではないと思うようになった。

 いまの自分を認めたら成長できなくなる、と考えていたけれど、本当はそんなことはないのだろう。

 ここまで来た自分を認めながらもっと先へ行きたいと思ってもいいし、いま書ける文章を大切にしながらもっといい文章を書きたいと願ってもいい。上を目指すために、いまの自分を卑下する必要なんてないのだと思う。

 成長するというのは、昨日の自分を置き去りにすることではなく、昨日の自分を連れて、もう少し先へ行くことなのだと思う。そして、自信がないことと、自分には価値がないと思うことも、まったく別の話だ。

 ぼくの文章には、まだ足りないところがたくさんある。でも、それはこれまで書いてきた文章に意味がなかったということではない。

 たくさんの人が読んでくれたことやまたお願いしますと言ってもらえたことは、もう起きた事実だ。

 事実まで謙遜する必要はない。

 世の中には、自信に満ちた人がいる。自分の仕事を堂々と語り、自分の能力を疑わず、次々と新しい場所へ進んでいく人を見ると、いまだに少し羨ましくなる。

 ぼくもあんなふうになれたら人生はもう少し楽なのだろうかと思う。でも実際は、これからも新しい仕事を始めるたびに不安になるし、原稿を送る前には何度も読み返す。自分より上手な人を見つけては、勝手に落ち込むたびに、もう少し上手くなりたいと思う。

 もっと上手くなりたい、という気持ちのために、いまの自分を傷つける必要はもうない。

 いつかまた、自分の文章に自信が持てない夜が来ると思う。

 きっと何度も来るのかもしれないけれど、そのときはあの喫茶店の出来事を思い出したい。

 夕方の光と、冷めたコーヒーと、友人が細く折った角砂糖の包み紙。そして、ずっと昔に「ここ、ええやん」と、ぼくの文章の一行を指で叩いてくれたことを。

 自信家にはなれなくても、誰かが好きだと言ってくれたものを、自分まで嫌う必要はない。その代わりに、自分を雑に扱わないことはできる。いまの自分に必要なのは、自信よりもそちらなのだと思う。

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