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Photo bykgamj25961358

いつだって言語化は自分のためだよ

     三十代を迎えて間もないころ、「いつだって言語化は自分のためだよ」と言われたことがある。その言葉を聞いたとき、返事をするまでに少し時間がかかった。反論したかったわけではない。どこかでずっとわかっていたことをあまりにも簡単に言われてしまった気がしたのだ。

    「自分のためだよ」

     その人は何気ない顔をしてそう言った。テーブルの上には飲みかけの珈琲があった。砂糖の袋は破られないまま、白い陶器の皿の端に置かれていた。窓の外では夕方になりきれない午後の光が、ビルの壁に薄く貼りついていた。

     ずいぶん長いあいだ、その言葉を理解したふりをしていた気がする。

     言語化とは誰かのためというより、自分の中にあるモヤモヤをはっきりさせるためのものだと思っていた。自分の気持ちを自分で見える場所に置く。曖昧なものに名前をつけて、輪郭を確かめる行為に近い。

     たしかに、それは間違っていない。

     人は言葉を使わなければ、自分の中で起きていることさえ、うまく掴めないことがある。けれど、自分のために言葉にしているはずなのに、どこかで誰かの頷きを待っていた。わかるよと言われることで、ようやく自分の感情が正しかったと思えるようなところがあった。

     けれど、言葉にしたからといって、必ず届くわけではない。丁寧に話したつもりなのに全然違う意味で受け取られることがある。自分にとっては大切な一文でも相手にとっては通りすがりの看板みたいなものだったりする。そのたびに、自分の伝え方が悪かったのだろうと反省した。

     言語化すれば、いつか誰かに正しく届くはずだとどこかで信じていたのだと思う。自分のためだと言いながら、ほんとうは誰かの理解を欲しがっていた。

     でも、それは言葉に期待しすぎていただけだ。言葉は万能ではない。渡した瞬間から、もう自分だけのものではなくなる。相手の記憶や機嫌、経験やその日の疲れに触れて、別の形になってしまう。こちらがそっと置いたつもりの言葉が、相手には責められたように聞こえることもある。

     言葉の行き先は、いつも少しだけ他人任せだ。

     だからこそ、言語化はまず自分のためでいいのだと思う。

     誰かに正しく届ける前に、自分の気持ちを見失わないためにする。自分の中で、何が小さく壊れたのか。それを確かめるために、胸の中で絡まった糸を一本ずつほどいていくように、言葉にしていく。

     それは他人に見せるための作業ではなく、夜の道をひとりで歩くことに似ている。誰に褒められるわけでもない。けれど、歩いているうちに、さっきまで見えなかった感情の輪郭が、街灯の下で少しだけ浮かび上がることがある。

     言語化とは、その輪郭を見つけることなのかもしれない。

     その証拠にぼくは自分の感情をあとから知る。その場では笑っていたのに、帰りの電車で窓に映った自分の顔を見た瞬間、急に虚しさに襲われることがある。ああ、もっと別の言い方をすれば良かったと遅れて気づく。感情はいつも忘れものを届けに来た人みたいに、何食わぬ顔で夜の途中に現れる。

     それをそのままにしておくと、自分が何に傷ついたのかわからないまま、人に優しくできなくなる。だから、自分のために言語化する。

     あれは平気なふりをしただけだった。そうやって名前をつけると、自分の輪郭が少し戻ってくる。虚しさに襲われた自分もみっともないわけではなかったのだと思える。うまく扱えなかっただけで、そこにはちゃんと理由があったのだと知ることができる。

     言語化は、自分を責めるためにあるのではない。それは自分の中で起きたことを、なかったことにしないためにある。世界中の誰にも伝わらなかったとしても、自分だけは知っている。それは思っているよりも大切なことだ。

     ただ、すべてを言葉にすればいいわけではない。心の中にも開けないままでいい部屋がある。開けるなら、せめて自分のタイミングで開けるべきだ。誰かに無理やりこじ開けられるものではないし、疲れている夜に開けていいものではない。

     言語化は自分のためだからこそ、自分を壊すために使ってはいけない。

     人の感情は、たいてい矛盾しているものだ。

     好きだった。でも、傷ついた。

     それぐらいの粒度で、ずいぶん楽になることがある。自分の中に同時に存在しているものを、同時に存在していていいと認められるからだ。やさしさの中に寂しさが混ざっていることがある。それを無理にきれいな色に塗り直さなくてもいい。

     誰かにわかってもらえたとき、胸の奥が少しあたたかくなる。自分だけではなかったのだと思える。そういう瞬間に何度も救われてきた。でも、それは結果であって、目的ではないのかもしれない。

     まずは自分が自分にわかるようにする。自分の中でどこが揺れたのかを見に行く。怖くても、面倒でも、見に行く。誰も一緒に来てくれなくても、自分だけはそこへ戻る。

     いつだって言語化は自分のためだよ。

     あのとき聞いた言葉が今になって少しわかる。それは自己中心的でいいという意味ではなく、その逆なのだと思う。自分の気持ちを自分で引き受けられないまま他人に差し出すと、その言葉はどこかで相手を刺してしまう。自分の寂しさを知らない人は寂しさを埋めるために、誰かにしがみついてしまう。

     自分のために言葉にすることは、結果的に他人を雑に扱わないためでもある。だから今日も自分の中にあるものを少しずつ言葉にしていきたい。誰かに見せるためではなく、立派な結論を出すためでもない、自分が自分を置き去りにしないために言葉にするのだ。

     もちろん言葉にしたところで、何も変わらない日もある。過去が戻るわけではないのだけれど、自分が何を感じたのかぐらいは知ることができる。途中で消した言葉も、誰かに見せることのなかった言葉も、声にならなかった言葉も、自分の中で一度だけ灯ったのなら、それだけで役割を果たしているのだと思う。

     言葉は誰かに渡すものになる前に、帰り道を照らす小さな明かりなのだと思う。だから、その明かりを頼りに自分の輪郭を取り戻せばいい。

     
     
     
    フリーランスの編集者・ライター|企業の採用広報・インタビュー記事・社内報・取材など、組織の言葉を整える仕事をしています。noteでは毎日更新を続け、日常のわずかな揺れや感情の影をすくい取るエッセイを書いています。

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