
失恋四重奏奇譚#4(終)
松本冬璃のこと
「僕ら、もう別れようか」
透明な声音が斜め上から降り注ぐ。顔を上げると、冬の冷たさに鼻を赤くした冬璃がこちらを向いていた。
彼のまつ毛に雪が触れて、消える瞬間だった。
「え?」
「もう限界なんだと思うよ」
何が? 駅に向かって進んでいた足が止まる。
後ろにいた人が不思議な顔をして振り返っているのが見えた。
言葉の暴力とはこのことだろうか。
簡単な意味なはずなのに、脳が理解することを拒んでいる。
「きっと、これから先ずっと一緒に居たって僕らは平行線だ。貴方もわかっていると思うけれど、僕は音楽を捨ててまで貴方を選べない」
彼はふわふわとした髪の毛を握り、戸惑いながら言葉を選んでいる。
隣にいるのに、全く目が合わなかった。
都合の悪いときに見せる癖だ。
「捨ててなんて、今まで一言も言ったことがないじゃない。納得できる理由を言ってちょうだい」
彼の唇が少し動いたけれど、私の耳に届いたのはノイズだった。
先ほどまで小さなスタジオで鳴り響いていたギターの音がまだ耳の奥に居座って、体の中で反響し続けて、少しも寒くない。
彼は深呼吸をした。後ろに背負ったギターの影が膨らんだ肺に合わせて上下に揺れる。
「ごめんね。今から酷いことを言う。
君といると普通の人間みたいになってしまって嫌になる。頭の中に音楽が鳴らない日々が続いているんだ。
アイディアが枯渇して、廃業しなければいけないと思う日さえある。
『捨てて』なんて言ってないけど、君は水で、僕の音楽は水面ギリギリに置かれた綿飴みたいで……
一度でも水に浸ってしまったら、そこから思考が、音が全てしゅわしゅわと消えていくみたいで怖い。
すごく他責的で酷い話だよね。でも、これが今の僕。
今の僕にとっては彩華を選ぶことと、音楽を捨てることが紙一重なんだよ。ごめんね」
言葉が散弾銃のように心を突き抜ける。
数ヶ月前にやっと手に入れたはずの彼の温もりが指先から冷えていく。
反論しようと用意していた言葉たちが、体中からすり抜けていく気がした。
(わかった、楽しかったよ。じゃあね)
せめてもの強がりの言葉さえ喉の奥底で引っかかる。
あの春も夏も秋も、私の気分次第で冷たく言い放てた言葉が出てこない。
ああ、執着ってこんな感覚なんだ。何があっても手放したくない。
視界の雪が白くぼやけてくる。
泣いちゃいけない。彼はそれを一番嫌うから。
静かに鼻を啜りながらポケットティッシュを探す。
「泣いてる?」
「泣いてないよ、寒さで鼻水が出ただけ」
鼻を思いきりかむふりをして、目頭にもティッシュを当てる。
一瞬で水滴が吸い取られて、視界が鮮明になると少しだけ自分を誤魔化せるような気がした。
深くため息をついて、彼の脇腹を軽く殴る。
「痛っ」
「痛いでしょうね。そうね、しょうがないね」
無理に口角を上げて笑ってみる。うまく笑えているだろうか。
「うん、しょうがない」
冬空に沈黙が溶ける。
オリオン座が普段よりも鮮明に見える気がする。上を向いたまま、私は彼の少し前を歩いた。
「気が済んだらさ、迎えに来てくれるの?」
「どうだろうね。待たなくていいよ」
「浮気はしないでね」
軽く吹き出した声が聞こえる。振り向かなくても、どんな表情をしているかわかる。私が一番好きだった表情だから。
「僕にできると思う?」
私は大きく首を振る。
大通りに抜けると、街が明るく照らされていた。目先には目的地の駅が見える。あの改札がきっと夢の終わりだ。
振り切れない未練が私の足を引っ張って、いつの間にか彼と再び並んで歩く。
彼のICカードが残高不足で通れなければいいのに、という願いは叶ってはくれない。
「じゃあね。寂しくなったら遊びにおいでよ。多分、いつも通りあの店で演奏しているから」
うんとも、ううんとも聞こえる声で返事をして、手を振った。
誰がいくか、馬鹿。
言葉に心が追いつけないまま、駅のホームに向かう。
電車の来るチャイムが聞こえたら、彼とのメッセージ履歴を削除しよう。