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鍵を開けると、メダカが光る

    父がいなくなった。

    その七か月後、母もいなくなった。

    二人がいたころ、私は何度も想像していた。

    もし、父がいなくなったら。

    そのあと、母がいなくなったら。

    想像するたび、胸の奥が一瞬だけ冷たくなった。

    けれど、そのあとには必ず、まだ二人がいてくれる現実があった。

    玄関を開ければ、父がいる。

    台所には、母がいる。

    電話をすれば、どちらかが出る。

    その「まだいてくれる」が、私の世界だった。

    私は医療と介護の仕事をしている。

    人が老いていく姿も、病を抱える姿も、最期に近づいていく時間も、何度も見てきた。

    だから、どこかで思っていたのだと思う。

    私は分かっている。

    人が亡くなるということを。

    家族が見送るということを。

    心の準備も、少しはできているのだと。

    けれど、二人が本当にいなくなった今、思う。

    あれは、何の準備にもなっていなかった。

    知っていることと、その身で味わうことは、まるで違った。

    人の家族を支えることと、自分が娘として遺されることは、まったく別のことだった。

    父と母を見送って初めて、私は知った。

    人を支える側にいた私も、親の前では、ただの娘でしかなかったのだと。


    「パパ、その薬を始めたら、もう目が覚めないかもしれないよ」

    主治医が鎮静剤の説明をし、父が「はい、お願いします」と答えたあとだった。

    病室で二人きりになった私は、どうしても父に確かめずにはいられなかった。

    「もう、私と話せなくなるよ」

    鎮静剤を増やすということは、そういうことだった。

    痛みは和らぐ。

    けれど、そのまま眠りに入り、二度と私たちと言葉を交わさないまま逝くかもしれない。

    それを承知で、父は薬を選んだ。

    「もう十分やろ」

    父は、静かにそう言った。

    私も分かっていた。

    父が望んでいることも、もう身体が限界に近いことも、これ以上引き止めることが、父のためではないことも。

    分かっているのに、涙が止まらなかった。

    何か、まだ伝えていないことがある気がした。

    一生分のありがとうを、まだ言い切れていない気がした。

    言葉を探している私に、父は言った。

    「全部は言わんでいい」

    そして、私の頭をぽんぽんと撫でた。

    「お前の気持ちは分かってる。今まで、ようやってくれた」

    その手は、思っていたよりも温かかった。

    私は娘であると同時に、頭のどこかで、いつもの仕事のように手順を考えていた。

    痛み止めの量。
    親戚や知人に連絡する順番。
    今、何をすべきか。

    けれど、父の前では、何の役にも立たなかった。

    父はその夜、いつものように新聞を読んでいた。
    しばらくして、「アイスが食べたい」と言った。
    医学的には、もう食べられる状態ではなかった。
    それでも父は、ガリガリとおいしそうにアイスを頬張った。

    その姿を見ながら、私は不思議な時間の中にいるような気がした。

    生きている父と、もうすぐいなくなる父が、同じ病室にいる。

    そのとき最後に介護されたのは、父ではなく、私の方だったのかもしれない。

    父の手のひらの感触が、その後の自分を支えることになるなんて、あの夜の私は知らなかった。

    七か月後に、今度は母を見送ることになるとも、まだ知らなかった。


    父は、下半身が動かなくなってからも、よく笑う人だった。

    車椅子で囲碁サロンに通い、ある日は私の事務所に連れてきて、長椅子で寝て待ってもらったこともある。

    子連れ出勤ならぬ、介護出勤だった。

    仕事が一段落した夜、ビジネス街の居酒屋に連れて行くと、父は車椅子を横に置き、うまそうにビールを飲んだ。行き交う人を眺めながら、ぽつりと言った。

    「経済が戻ってきたな」

    そういうところが、父だった。

    歩けなくなっても、父は世界から降りなかった。
    自分のいる場所から、世の中を見ていた。

    ある日、夢の中で歩けたと言って、嬉しそうに話してくれた。

    「あの夢は良かったな。実に、良い夢やった」

    歩けない現実を嘆くのではなく、夢の中で歩けたことを喜ぶ。

    父は、そういう人だった。

    三年前、医師からはっきり言われていた。

    「次に胸の大動脈瘤が裂けたときは、痛みは取り除きます。けれど、これ以上の治療はできません」

    父は八十を過ぎていた。
    心筋梗塞を二度起こし、胸と腹の大動脈瘤の手術を、それぞれ二回ずつ受けてきた身体だった。

    次に発作が来たら、それが最期になる。

    本人も、私も、医師も、分かっていた。

    だから救急車の中で、激痛が一瞬遠のいたとき、父は言った。

    「ルミ子、これは本物やな」

    私は頷くしかなかった。

    痛む場所を、父は必死に押さえていた。
    私も覆いかぶさるように体重をかけ、その痛みを抑えた。

    揺れる車内で、私たちは覚悟を決めた。

    本来なら、そのまま出血して逝くはずだった。

    けれど裂けた箇所に偶然かさぶたができ、出血が止まった。

    翌朝、父は新聞を読んでいた。

    主治医も驚いた。

    ただ、それは奇跡というより、おまけの時間だった。

    かさぶたは、いつか取れる。

    それも全員が分かっていた。

    その時間の終わりに、父は鎮静を選んだ。

    「もう十分やろ」は、この三年の果ての言葉だった。

    痛みが頻繁に出るようになっていた。

    やるべきことは、もうやり切ったのだろう。

    もう一日、もう二日、話せる時間があったかもしれない。

    それでも父は、自分でその道を選んだ。

    私は、嫌だと言えなかった。

    父は、最期まで人任せにしなかった。
    痛みに追われて、なし崩しに終わるのではなく、自分の手で区切りをつけた。

    「ここだ」と。

    私には、父が自分で扉を開け、こちらを振り返って、「じゃあ、行ってくるぞ」と言ったように見えた。

    それが、父の去り方だった。


    父を見送って七か月。

    今度は母だった。

    母のがんが見つかったのは、父がまだ生きていたころだった。
    母は、自分の身体に爆弾を抱えながら、父の介護をしていた。
    父が父らしく、囲碁に通い、家で過ごし、最期まで自分のままでいられたのは、母が支えていたからだ。

    その母が、父を見送ってまもなく、自分の番を迎えることになった。

    母は、よく生きた。

    死に向かいながら、これほど生きた人を、私は知らない。

    がんが全身に転移していると分かってから、母はむしろ忙しくなった。

    まず母がしたのは、私たちへの思いを、公正証書にしたためることだった。
    自ら出向き、あっという間に進めてしまった。
    書類の末尾には、私たち家族への感謝の言葉を綴っていた。

    それから、ふるさとの鳥取へ一人で旅をし、名古屋へ日帰りで友人に会いに行き、私たちと海外へも出かけた。

    「いつまで動けるんやろう」

    「私、ほんまに病気なんかな。どこも痛くないで」

    母は、母なりに時間を測っていたのだと思う。

    ベトナムへ行ったときのこと。

    リゾートのプールで、私の泳ぎは母にまったくかなわなかった。
    クロールで惨敗し、見かねた母にバタフライを教わるという、おかしな逆転まで起きた。
    ひとしきり笑ったあと、私は水の中で、母にそっと抱きついた。

    「元気でいてね」

    口にした瞬間、それは願いではなく、祈りなのだと分かった。

    母は、あわてるでもなく、やわらかく言った。

    「そうね。分かっているよ。良い思い出だね」

    母は、どこへ行っても「いちばん食欲があるのは私」と笑う人だった。

    その明るさの下で、自分に残された時間が限られていることを、誰よりも静かに受け止めていた。

    母が初めて箸を落としたとき、私はふざけているのかと思った。

    よりによって、苛立った。

    「何ふざけてるの」

    そう言ってしまった。

    母は、けろりとしていた。

    「時々、こうなるんよ」

    母も私も、医療にかかわる仕事をしてきた。他人の親のことなら、箸を落とすという小さな変化が何のサインか、私はすぐに気づけたはずだった。それなのに、自分の母のこととなると、まさか脳への転移だとは思いもしなかった。

    進みは、恐ろしく速かったのだ。

    ある日、出かける約束をして、私は母を迎えに行かず、待ち合わせにした。
    電話をしても出ない。
    一度だけ出て、あとはかけ直しても出なかった。

    私は、無視されたのだと思った。

    でも違った。

    母は、もう携帯電話を持てなくなっていた。
    鳴っていることは分かっていた。
    でも、手が思い通りに動かず、電話をつかめなかった。

    たった数日の変化だった。

    私はそのときも、母に苛立った。

    今思うと、それがたまらない。

    それでも私たちは、予定していたクルージングの旅へ出かけた。

    出発前、主治医に症状を相談した。

    「気になるなら、頭のCTを撮りますよ」

    母は断った。

    「この程度の理解でいいです」

    全部を知る必要はなかったのだろう。

    そして母は、船の上で倒れた。

    救急ヘリで運ばれ、主治医の病院へたどり着いたとき、先生は「あのとき僕が検査をしていれば」と悔やんだ。

    でも私は、はっきり言えた。

    「先生、あのとき検査をしなくて良かったんです」

    「もし検査をして、脳腫瘍だと分かっていたら、先生は母の旅行を許可してくれましたか」

    先生は言った。

    「できなかっただろうなぁ」

    だったら、同じ限られた時間だ。

    母は、その時間を旅に使えた。
    船の上で、好きなものを食べ、はしゃぎ、海を見た。
    倒れるまでの三日間、母は、確かに楽しんだ。

    病室に戻ってからも、母は何度も言った。

    「本当に楽しかった。行って良かった」

    それが、何よりだった。

    あのとき検査を断った母は、薄々分かっていたのかもしれない。

    自分の身体に何が起きているのかを。

    分かっていて、なお、知らないことを選んだ。

    母もまた、自分の時間を、自分で選んだ人だった。

    食事のとき、母の箸がうまく食べ物をつかめなくなった。

    何度も挑戦する母の前で、私は自分の箸を左手に持ち替えた。

    利き手ではない手は、思い通りに動かない。

    母が食べそこねる。

    私も同じように食べそこねる。

    いや、私の方がずっと下手だった。

    「あら、あんたまで下手くそやないの」

    母が笑った。

    私も笑った。

    母は、自分の思い通りにならない手を見て言った。

    「昔は白魚のような、きれいな手だと褒められたのに」

    私は言った。

    「じゃあ人生、帳尻が合って、プラスマイナスゼロやね」

    母は、声をあげて笑った。

    こんなふうにして、私たちは残された時間を生きた。

    深刻にならないように、ではない。

    深刻なことを、深刻なまま抱えながら、それでも笑っていた。

    それが、母と私のやり方だった。


    弱っていく自分を持て余すように、母がふと漏らしたことがある。

    「お母さん、死ぬのが怖いわ。死ぬって、しんどいんかなぁ」

    そんなことないよ、とは言えなかった。

    母は、本当に死に向かっていたからだ。

    嘘で慰めることは、母に失礼な気がした。

    だから私は言った。

    「パパが、見せてくれたやん」

    母は、少し間を置いて言った。

    「パパ、しんどそうやったなぁ」

    「うん。少しは、しんどかったかもしれない。でも、パパが先にやってみせてくれたから。ママもできるよ」

    母は黙って聞いていた。

    私は、もう一つ言った。

    「先にパパが待ってるから、大丈夫やで」

    そのとき、母の表情が、ふっとやわらいだ。

    先に待っている人がいる。

    そう思えることが、これほど人を支えるのだと、私はそのとき知った。

    母は、しみじみと言った。

    「パパは、すごいわ」

    父は、自分が逝くことで、母に道を見せていたのかもしれない。

    生き方だけではなく、逝き方まで、あとに残る人を支えるのだと、父は知らないうちに教えていた。


    母は生前、何度か私に言った。

    「自分がいなくなっても、この家を維持してね」

    そう言われるたび、私は現実的なことを口にした。

    「どうやろ。私も別に住んでるし、無理やと思うで」

    妹は、もとより無理だと分かっている。

    母は、たぶん私に頼みたかったのだ。

    けれど私は、できる保証のないことを「やる」とは言えなかった。

    嘘をつくのが嫌だった。

    その会話を横で聞いていた父が、あるとき言った。

    「いなくなったら、全部壊してまえ」

    私たちの気を楽にしようとしたのだと思う。

    父らしい、突き放し方の優しさだった。

    すると母が、すぐに父をたしなめた。

    「もう、そんなこと言わんといてよ」

    今になって思えば、あれは父も母もまだいたころの、家族の風景だった。

    現実を言う娘。
    気を楽にしようとする父。
    それでも家を思う母。

    三人に、遠慮はなかった。

    月日が流れ、母の病が進み、終わりが近づいたころ、母はもう「家を維持して」とは言わなくなった。

    望みは、もっと小さく、具体的になっていた。

    部屋を見渡して、こう言った。

    「この欄間だけでも、大事に残しててくれへん」

    そのとき私は、ただ頷いた。

    「うん」

    そして、何度も、何度も首を縦にふった。

    否定する気など、もう少しもなかった。

    今、私は毎週、実家に帰っている。
    鍵を開け、庭を手入れし、部屋を掃除する。
    母があんなに「世話が大変」とこぼしていたメダカの水を換えている。

    母が望んだことを、私は今、やっている。

    なのに、どうしてあのとき言えなかったのだろう。

    最初に母が「維持してね」と言ったとき、なぜ「うん」と頷いてあげられなかったのだろう。

    それだけで、母はどれほど安心しただろう。

    もし今の私を母が見たら、きっと笑う。

    「もうちょっと早くから、やってほしかったわ」

    そう言って、笑うに決まっている。

    私が見誤ったのは、母との時間が変わった瞬間だった。

    それまでの私は、母との関わりを、それなりに細く長く続くものだと思っていた。

    けれど本当は、太く短く、急速にそばにいるべき時期に入っていた。

    その切り替わりの境目に、私は気づかなかった。

    近しい人ほど、見えない。
    見たくない。

    頭の中の母は、いつまでも「それなりに元気な人」のままで、現実だけが先に進んでいた。

    気づいたときには、母はもう向こう側にいた。

    あのとき、ああしていれば。

    そう思わない日は、いまもない。

    悔いるほどの人がいた。

    戻りたいと思う時間があった。

    もっと何かできたはずだと思えるほど、深く関わった人がいた。

    だから後悔は、なくならないのだと思う。

    そして、なくならなくてもいいのだと思う。


    父と母は、逝き方がまるで違った。

    父は、自分の足で峠を越えていった人だった。

    母は、そうではなかった。

    死にたくない、と最後までもがいていた。

    まるで激しい濁流の中で、流されまいと必死だった。

    私はその濁流に手を伸ばし、母の手を掴んでいた。

    離すものか。

    離してなるものか。

    そう思っていた。

    それなのに、最後の瞬間、母の手は私の手のひらから、するりと抜けていった。

    掴みそこねたのではない。

    引き戻せなかったのでもない。

    ただ、するりと抜けていった。

    まるで、もう抗わなくていいのだと、母自身が流れに身をあずけたように。

    その手の感触が消えたとき、私は不思議とこう思った。

    ああ、ママも峠を越えたんだな。

    パパと同じだ、と思った。

    歩いて越えた父。

    流されて越えた母。

    越え方は正反対だった。

    それでも二人は、同じ峠の向こう側へ行った。

    「パパ、ママを頼むよ」

    私は、心の中でそう言った。


     私の家には、毎年の恒例行事があった。

    一月一日に、家族が集まる。

    母の強いこだわりだった。

    母の作る黒豆や煮物に、注文したお節を並べ、テーブルを整える。

    妹の家族も集まり、毎年、同じようににぎやかな元旦を迎えてきた。

    二〇二五年の正月も、私たちはそれをやった。

    変わったことは二つ。

    父が、もういないこと。
    そして、母のベッドを囲んでの正月だったこと。

    それでも私は、いつもの正月を、いつものようにやろうと決めた。

    母の大好きな家で。
    母の大好きな家族と。
    いつもと変わらない正月を迎える。

    シャンパンを母の頬にあてて、話しかけた。
    家族は、いつものように遠慮なく騒いだ。
    途中で来られた訪問看護師さんが、驚いたように、でも微笑ましそうに見ていた。

    「お母さん、喜んでるかも。この数日で一番いい血圧です」

    母に、届いていたのだと思う。
    いつもの正月が、ちゃんと母に届いていた。

    一月一日の夜から、母の血圧は下がりはじめた。

    そして翌、一月二日。

    家族みんなが見守るなかで、私たちは母を見送った。

    母は、毎年の正月を家族とやり終えて、その翌日に逝った。

    父が、私の出張からの帰りを待って逝ったように、母もまた、いちばん大切なものを見届けてから、向こうへ行った。

    正直、母を見送ったあと、私は次の正月を迎えるのが怖かった。

    母のいない正月。

    現実として分かっていても、想像できなかった。
    いや、したくなかった。

    そんなとき、姪からLINEが来た。

    「正月、いつやる?」

    その一言に、私は救われた。

    姪は、わけあって十年以上、私の両親と一緒に暮らしていた。

    あの子にとって、「正月、いつやる?」は、ふいに出た言葉ではなかった。
    母が毎年続けてきた当たり前が、あの子の中に根を張っていたのだ。

    今年も、私たちは正月をやった。

    母がいなくても、やれた。

    そのとき、ようやく分かった。

    母が遺したかったのは、料理でも、家でも、欄間でも、メダカでもなかった。
    家族が集まるという当たり前。

    それが、いつのまにか、姪へ渡っていた。

    父が私の頭を撫でた手。
    母が守り続けた正月。
    私が今、毎週通っている実家。
    姪から届いた、たった一通のLINE。

    ああ、これだったのか。

    父は、姪の結婚式に車椅子で出た。
    そのとき姪のおなかには、新しい命がいた。
    けれど父は、その子の顔を見る前に逝った。

    母は、その子を抱くことができた。
    本当に嬉しそうだった。

    そして、母も見ることのなかった二人目の女の子が、今年の春に生まれた。

    父が見られなかったものを、母が見た。
    母が見られなかったものを、私が見ている。

    私は今も、毎週、母のいない実家へ通っている。
    メダカの水を換え、庭を手入れし、部屋の空気を入れ替える。

    それは家を守っているようで、ほんとうは、二人の気配に触れに行っているのかもしれない。

    玄関を開けるたび、父が寝転んでいたリビングが見える。
    「ただいま」と言いながら、母が自慢にしていた庭が目に止まる。
    欄間を見上げる。

    そこに二人はいない。

    けれど、いなくなったからこそ見えるものがある。

    父から、母へ。

    母から、私へ。

    そして、私から、その先へ。

    手渡されたものは、そのときには分からない。

    けれど私は今も、遅れて届いたものに、何度も出会い直している。

    私は今日も、母のいない家の鍵を開ける。

    水を換えたメダカが、小さく光って泳いでいる。



    #創作大賞2026 #エッセイ部門


     
     
    Care styles consulting代表/介護と医療を同時に取り扱う専門家 ◆経営・運営・インナーコミュニケーション ◆保健師・看護師・助産師・認定社会福祉士・介護支援専門員 他 ◆現場の健全な組織づくり・地域連携/https://lit.link/RumikoInoue

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