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その課題は確かにある。で、それ誰が金払うの?

私は、いろんなフェーズの起業家や起業を目指す人のメンタリングをするのが仕事(の一つ)である。
そのお相手は、高校生や大学生のアイデア段階から、創業したばかりの人、上場企業の新規事業起案者、もちろんすでに事業を動かしているスタートアップまで、本当にいろいろだ。

そこで、ものすごくよく出会う問題がある。

本人が一生懸命、解決したい課題を説明してくれる。
「こういう人たちが困っています」
うんうん。

「今はこんな問題があって、既存のサービスでは解決できていません」
なるほど。確かにそれは困る。

「だから、こういうサービスを作ろうと思っています」
ほうほう。

そして私は聞く。
「で、それ誰が金払うの?」

身も蓋もない。
せっかく本人が、社会をよくしたいという熱い思いを語っているのに、いきなり金の話である。
我ながら、もう少し言い方があるだろうと思う。
でも、ここはものすごく大事なのだ。
なぜなら、課題があることと、事業機会があることは、同じではないからだ。

困っている。確かに困っている。で?

特に社会課題をテーマにした事業案では、ここが混ざっていることが多い。

こんな人が困っている。
これだけ多くの人が困っている。
こんなに深刻な問題がある。
解決できたら、こんなに社会がよくなる。
全部その通りかもしれない。

私もメンタリングしながら「うん、それは確かに課題だよね」と思うことはたくさんある。

でも、そこで一回止める。
その課題は確かにある。

で?

その人は、その課題を解決するためにお金を払うのか。払うとしたら、いくら払うのか。そして何より、あなたが考えたその解決策は、その人がお金を払いたくなるほど素敵なものになっているのか。

ここは、課題の大きさとは別の話だ。困っている人が100万人いることは、あなたの商品が100万人に売れることを意味しない。社会的に重要な問題であることも、あなたのサービスの商品価値を保証してくれるわけではない。
ちょっと厳しい言い方をすると、課題の深刻さは、あなたの商品価値ではない。

「こんなに困っている人がいるんです」
うん。いる。
でもそれは、あなたの商品が売れる理由には、まだなっていない。
ここでつまずく人は本当に多い。

「課題がある」ことまでは、とてもよく見えている。
でも、その課題を抱えている人が
「解決できたらうれしい」
と思うことと
「その金額を払ってでも解決したい」
と思うことは、全然違う。

さらに言えば「お金を払ってでも解決したい」と思ったとしても、あなたの解決策に払いたいとは限らない。

ここまで来ると、だいぶ厳しい。
でも事業というのは、だいたいこの厳しいところから始まる。

じゃあNPOにしようかな

そして、ここで意外とよく出てくる展開がある。
「なるほど……たしかに当事者からそんなにお金は取れないかもしれません」
うん。
「じゃあ、NPOにしたほうがいいですかね?」

待て待て待て。
NPOにしたら、お金が空から降ってくるわけではない。

もちろんNPOという形そのものが悪いわけではない。受益者本人から十分な対価を取ることが難しい社会課題に対して、寄付や助成金、企業・行政との連携など、別の方法で資金を集めることができる。だからNPOという選択自体には、きちんと意味がある。

でも「顧客がお金を払わない」という問題にぶつかったから「じゃあNPO」では、お金の問題は解決していない。お金を払う人が変わっただけだ。

受益者本人が払わないなら、
行政が払うのか。
企業が払うのか。
財団が払うのか。
寄付者が払うのか。
会員が払うのか。

結局
「それ誰が金払うの?」
は追いかけてくる。

法人格を変えても逃げられない。
かなりしつこい問いなのである。

むしろ社会課題系の事業では、受益者と支払者が違うことはよくある。
だからこそ
誰が困っているか
だけではなく、
誰にとって、何にお金を払う価値があるのか
を考えなければならない。

子どもが困っているなら、親が払うのか。
学校が払うのか。
自治体が払うのか。
企業が福利厚生として払うのか。
社会全体にメリットがあるなら、行政予算になるのか。

受益者と支払者が違うなら、その二者をつなぐロジックが必要になる。
ここをすっ飛ばして「社会的に必要だから、誰かが支援してくれるはず」と考えると、事業の話は急にふわっとする。

私も昔、かなり雑に同じことを考えていた

とはいえ、私はMBAでこういうことを体系的に勉強したわけではない。
むしろ、MBAを持っていないことは今だから言うが実は一時期かなりコンプレックスだった。
ちゃんと経営を学んだ人たちは、私の知らないフレームワークや専門用語をたくさん知っている。
私は起業して、失敗したり、資金調達したり、会社を売ったり、また起業したりしてきただけだ。
なので長いこと、
「私は経営を体系的に学んだ人ではない」
という感覚があった。

ところが最近、自分が昔やっていたことを振り返っていて、「あれ?」と思うことが増えた。名前は知らなかったけれど、要は現場で結局同じことを考えていたのである。

前の記事で、息子が小さかった頃、友人たちと母子でシンガポールに数週間滞在して子どもたちを現地のサマースクールに通わせていた話を書いた。
そこで私「こんなめんどくさいこと、他人の子相手にやってられるかー!」と思って、事業化しなかったと書いた。

前回は仕組みにして消せるめんどくささと、人間が何度でも引き受け続けるしかないめんどくささがある という話の例として、この出来事を使った。

でも、私があの事業をやらなかった理由は、それだけではない。
もう一つ、当時かなり強く思っていたことがある。
「で、これ、いくら取れるの?」
である。

夢がない。
本当に申し訳ない。

周囲からは何度も「これ、事業にしたら?」と言われた。確かにサービスとして切り出せそうな要素はかなり揃っていた。
働く母親は仕事を止めなくていい。
子どもは海外で夏休みを過ごせる。
海外の学校探しや申し込み、滞在先の手配には、それなりのハードルがある。
私は英語もできて、自分で実際に何年も運用していた。
ニーズはある。
そこは私も疑っていなかった。

でも私の頭は
「ニーズがある!」
から、
「じゃあ事業化しよう!」
には進まなかった。

間に「……で、それに誰がいくら払うの?」が挟まっていた。

これに何十万円も払う人、そんなにいる?

私自身が全部できてしまうから、というのもあったと思う。
学校を探す。
英語で問い合わせる。
申し込む。
滞在先を探す。
現地の交通を調べる。
必要なら学校に連絡する。

もちろん手間はかかる。でも、私にとってはどれも、「できないほど難しい作業」ではなかった。だから思った。これを代わりにやることに対して、人はいくら払うんだろう?

そもそもサマースクール代がかかる。
航空券もかかる。
数週間分の滞在費もかかる。
食費も現地交通費もかかる。
すでにかなりお金を使っている。

そこにさらに「全部手配して現地でもサポートします」というサービスに、何十万円も上乗せして払う人がどれくらいいるのか。
もちろん、いるとは思った。お金に余裕があり「自分で全部やるのは嫌だから、お金を払って任せたい」という人。
でも同時に、相当ニッチじゃない?とも思った。そして、おそらく私はその次のめんどくささまで直感的に見ていた。そのニッチな人たちを、どうやって見つけるの?

大枚を払ってくれる珍しい人を探すという仕事

仮に、全部任せられるなら高額でも払いたいという人がいるとする。
よかった。
高単価サービス成立!
……ではない。
その人は、どこにいるのだ。
そこを探さなければならない。

当時は今ほどSNS広告もコンテンツマーケティングも成熟していなかった。
そもそも「子どもを海外のサマースクールへ」という選択肢自体を知らない人も多い。

まず「海外にはこういうサマースクールがあります」から説明する。
働きながらでもできます。
母子で滞在できます。
こんなメリットがあります。
安全面はこうです。
英語ができなくても大丈夫です。
↓
問い合わせが来る。
説明する。
不安を聞く。
個別事情に答える。
検討してもらう。
↓
また質問が来る。
ようやく一人申し込む。
そしてサービスが始まったら、今度は現地対応である。

……めんどくさい。
はてしなくめんどくさい。

たぶん当時の私は、CACなんて言葉も知らなかった。
Willingness to Payなんて言葉も使っていない。
ユニットエコノミクスなんて言われても、「何それ」だったと思う。

私が考えていたことは、もっと雑だった。

「そんなに払う人、少なくない?」
「その珍しい人たち探すの、大変じゃない?」
「見つけた後も、めちゃくちゃ手かからない?」

そして結論。
「ワリに合わなくない?」

今になってこの一言を分解してみると、意外といろんなものが入っている。

高い金額を払える顧客がどれくらいいるのか。
その顧客をどれだけのコストで見つけられるのか。
一件受注したあと、どれだけ人的工数がかかるのか。
顧客数が増えたとき、その工数も同じように増えるのか。
利益率はどれくらい残るのか。
そして、その全部を背負ったうえで、自分は本当にこの事業をやりたいのか。

頭の中でそんな表を作った記憶はない。
たぶん作っていない。

でも全部まとめて
「ワリに合わない」
で処理していた。

雑である。

中身だけ見るとかなりいろいろ考えているのに、出力される日本語が雑すぎる。まさしく「ざんねんな生き物」たる起業家そのものである。

課題がある。でも「市場がある」とはまだ言っていない

メンタリングをしていると、この話を何度も思い出す。

「課題があります」
うん。

「実際に困っている人もいます」
うん。

「インタビューでも欲しいと言われました」
うん。

でも、「欲しい」と「買う」は違う。
さらに、「買う人がいる」と「事業として成立する」も違う。

たとえば、10人に聞いて全員が「それいいですね」と言ってくれたとしても、価格を出した瞬間に誰も買わないかもしれない。あるいは一人だけ買うかもしれない。でも、その一人を見つけるために広告費が10万円かかり、その顧客への提供に20時間かかり、売上が5万円だったら?

売れたという事実はある。
でも事業としてはかなり苦しい。

つまり、
課題がある。
ニーズがある。
お金を払う人がいる。
その金額で提供できる。
顧客を獲得できる。
利益が残る。
継続的に提供できる。
これらは全部、少しずつ違うのだ。
どれか一個だけ成立しても、事業にはならない。

逆に言えば、メンタリングで私が聞きたいのは「そのアイデアは正しいか」
ではない。どこまで事業としてつながっているかなのだと思う。

「いいですね」は、無料だから言える

これも、よくある。
アイデアを人に話す。
↓
「いいですね!」と言ってもらう。
↓
「私も使いたいです!」と言ってもらう。
↓
「絶対ニーズあると思います!」と言ってもらう。
↓
そして少し安心する。

わかる。
私も何度も経験してきた。
でも、ここで値段が出ると世界が変わる。

「月500円なら?」
「月5,000円なら?」
「10万円なら?」
「50万円なら?」

金額が入った瞬間に、その人が感じている価値の大きさが急に具体的になる。

無料なら欲しい。
1,000円なら欲しい。
1万円なら考える。
10万円ならいらない。
全部違う。

だから、事業の検証で本当に知りたいのは「欲しいですか?」だけではない。「いくらなら本当に買いますか?」である。
しかも、本当はそこからさらに一段進んで「では今、買いますか?」まで行かないとわからない。

口で「欲しい」というのと、クレジットカードを出すのは、別の行動だ。
たぶん私は、この違いを現場で何度も見てきた。だから今、メンタリングで「お客さんから好評です」と言われるとつい聞いてしまう。

「買ってくれた?」

またしても身も蓋もないコメントである。
でもこれが大事なんだってば。

その売上は、何人分の「めんどくさい」でできているのか

さらに私は、売上の裏側にある工数もかなり気になる。これはたぶん、前の記事で書いた「めんどくさい」ともつながっている。

売上が増える。
いいことだ。
でも、その売上を作るために、
誰かが毎回説明して、
誰かが個別調整して、
誰かが例外対応して、
誰かが感情のケアをして、
誰かが忘れ物を探しているなら、
その人件費も当然、事業の一部だ。

だから今、事業を見るときに時々考える。
その売上は、何人分の人間の「めんどくさい」でできているのか。

売上が2倍になったら、利益もきれいに増えるのか。
それとも、
問い合わせも2倍。
説明も2倍。
調整も2倍。
トラブル対応も2倍。
になるのか。

後者なら、売上が伸びても会社がどんどんしんどくなることがある。そして、そのめんどくささを減らすために人を雇えば、当然コストが増える。そのコストを価格に乗せれば、また最初の問いに戻る。

「で、その金額、誰が払うの?」

本当にしつこい。
逃げ切ることなど不可能な問いなのである。

その後、本当に市場はできた

面白いのは、その後だ。
子どもの海外留学やサマースクールを支援するサービスは、実際に増えた。
つまり「そんなものにお金を払う人なんていない」と私が考えていたのなら、それは間違いだったことになる。
ちゃんと市場はあった。お金を払う人もいた。だから「あのとき私が先にやっていたのに!」と悔しがってもよさそうなものだ。

でも私は、不思議なくらい一度も思ったことがない。やっておけばよかった、と。
本当にない。

今見ても「へえ、やっぱり市場あったんだ」とは思う。
でも、その次に出てくる感想は「でも私はやらなくてよかった」である。

なぜなら、市場が存在したことと、私がその市場を取りに行くべきだったことは、別だからだ。

市場がある。
顧客がお金を払う。
自分に提供能力がある。
利益が出る。
スケールする。
そして、自分がそれを何百回もやりたい。
これは全部、別の問いなのだ。

たぶん昔の私は「この市場は存在しない」と断定していたわけではない。もっと感覚的に「仮に存在しても、そこを取りに行く労力まで含めると、私はやりたくない」と思っていたのだと思う。
それは今になってみれば、かなり妥当な判断だった。

少なくとも「市場があった=やるべきだった」ではない。
この二つを混同しないことは、今の私にとってかなり大事な判断基準になっている。

「何をやるか」より「何をやらないか」の方が難しいこともある

起業の話をしていると、
何を始めるか。
どんなアイデアを選ぶか。
どの市場に入るか。
という話はたくさん出てくる。

でも、長くやっていると、
何をやらないか
の判断も同じくらい大事だと思う。

特に、自分にできることは危ない。
できるからこそ、「これも事業になるかも」と思えてしまう。

英語ができる。
人脈がある。
運営ができる。
顧客の課題もわかる。
頼まれれば提供もできる。
だからやろう。
となりやすい。

でも、できることと、やるべきことは違う。

まして、できることと、儲かることも違う。

さらに、儲かることと、自分が長くやりたいことも違う。

この辺りを全部まとめて判断しなければならない。

当時の私はそれをきれいな経営用語ではなく、
「ワリに合わなくない?」
で処理していた。

雑である。

後から名前を知った

こういうことを今の私は、起業家に話している。
でも考えてみれば、私はこれをMBAで習ったわけではない。
シンガポールで実際に人と子どもと学校と滞在先を動かしながら、「これでいくら取れるんだ?」と思っていただけである。

その後、自分で事業を作った。
資金調達もした。
会社も売った。
また起業した。
たくさんの起業家の事業を見るようになった。

その過程で、
Willingness to Pay
CAC
Unit Economics
Scalability
そんな言葉を知った。

そして時々思う。
あ、それ知ってるわ。名前は知らんかったけど。

私は一時期、MBAを持っていないことがかなりコンプレックスだった。体系的に経営を学んだ人を見ると、自分には何か大事なものが欠けているような気がしていた。今でも、体系的に学ぶことには大きな価値があると思う。知っていれば、もっと早く理解できたこともあるだろう。無駄に痛い目を見なくて済んだことも、きっとある。でも最近、自分が長年やってきたことを掘り返していると、少し見え方が変わってきた。

私は何も学んでこなかったわけではなかった。
ただ、
先に現場で踏んで、後から名前を知った
という、順序の逆転が起きていただけだった。

教科書を読んでから現場に行ったのではなく、現場で何度も転んで、「あの転び方には実は名前があります」と後から教えてもらっただけである。

なんと効率が悪いのだ。
「ざんねんな生き物」たる起業家そのものである。

結局、最初の問いに戻る

だから今も、誰かの事業案を聞いて、
すごく大きな社会課題があって、
素晴らしい志があって、
魅力的なプレゼンを聞いたとしても、
私は最後にどうしても考えてしまう。

その課題は確かにある。
解決できたら素晴らしい。
うんうん。

で、それ誰が金払うの?

たぶん私はこれからも、この問いを何度もすると思う。
課題の価値を疑っているわけではない。社会的意義を軽く見ているわけでもない。むしろ、本当に解決したいなら、お金がどう回るかを避けて通れない と思っている。

事業であれ、NPOであれ、行政連携であれ、誰かが資源を出さなければ続かない。続かなければ、どれだけ意義のある解決策でも届かなくなる。
だから、「誰が払うの?」は意地悪な質問ではなく、その解決策を現実の世界に着地させるための質問なのだと思う。

……と、今ならずいぶん立派に説明できる。
でも昔の私は、そんなことは言っていなかった。

ただ一言、
「これ、ワリに合わなくない?」
だった。

中身を展開すると、意外とちゃんとした経営判断だったらしい。
なのに脳内ログが雑すぎる。
どうやら私は昔から、そこそこ真面目に経営を考えていた。
言い方だけが、ずっと残念だった。

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