『均衡の崩れた天秤 』
「平等」という言葉を口にするとき、私たちは本当に同じ天秤を見つめているのだろうか。
その必要性を信じれば信じるほど、今の議論の進み方に、拭いきれない喉のつかえを感じてしまう。
男女平等を巡る議論は、止まる気配を見せない。
SNSを開けば、日々どこかで火花が散っている。
飛び交う意見はどれももっともらしく、それでいて強い感情を帯びている。
だが、その喧騒の中で私は一つの違和感を覚える。
「女性の権利向上」という具体的な政策目標が、いつの間にか「男女平等」という理念そのものと完全に同一視されてはいないか、という違和感だ。
もちろん、歴史的に女性が構造的な不利益を被ってきた事実は否定できない。
その是正は現代社会において不可欠なプロセスである。
問題は、その方法にある。
社会の資源や機会が有限である以上、制度設計を誤れば、ある集団への配慮が別の集団への圧迫として機能してしまう可能性は常に存在する。
これは感情論ではなく、設計の問題だ。
確かに、社会の資源や機会は、制度次第である程度の拡張は可能だ。
だが、重要なのは「誰かから奪うこと」ではなく、「全体をどう設計し直すか」という視点である。
たとえば、理系大学における「女子枠」。
もし、性別による無意識の抑圧が存在し、それが才能の芽を摘んでいるのなら、制度による後押しは大きな意味を持つ。
女子枠という「この分野は君を歓迎している」という明確なメッセージは、進路選択における心理的障壁を下げるからだ。
その生まれ持った性質で、進路を制限される社会は健全ではない。
だが一方で、その制度が理系志望者の母数を増やす努力を伴わず、単に既存の座席を性別で再配分するだけならばどうだろうか。
それは才能の発掘というボトムアップではなく、限られた椅子の再配置にとどまる可能性がある。
選抜基準の透明性が保たれなければ、制度そのものへの信頼を損ないかねない。
それは救済ではなく、新たな差別の再生産に他ならない。
差別を構造として容認する社会を、私は許すことができない。
善意による傾斜が、別の場所で新たな不公平を生んでいないだろうか。
制度は常に検証され続けるべきだ。
もう一つ、現在のジェンダー議論であまり語られない現実がある。
犯罪被害の総数という観点で見ると、被害者は男性の方が多い傾向にあるという事実だ。
もちろん、犯罪類型によってはその傾向は大きく異なる。
殺人や暴行などの暴力犯罪では男性被害が多く、性犯罪やDVでは女性被害が多い傾向があるが、総数で言えば被害者は男性が多い。
重要なのは優劣の話ではない。
どの痛みも可視化されるべきだという点である。
男性が犯罪の被害に遭った場合、それが社会的に大きく問題化されにくい現実がある。
「男は強い」「男は耐えるものだ」という旧来の規範が、皮肉にも男性の被害を見えにくくしている。
例えばサービス業の現場で、男性店員が理不尽な暴力や罵声を受ける光景は珍しくない。
しかしそれはしばしば「運が悪かったね」で片付けられる。
被害に対する正当な訴えをすれば、「男のくせに」と嘲笑されてしまう。
被害者の性別によって、社会の反応に大きな差が生まれていないだろうか。
ここにあるのは、女性優遇の問題というより、ジェンダー規範の固定化という構造の問題である。
真の男女平等とは、女性の権利を拡張すること「だけ」を意味しない。
男性もまた、理不尽な暴力に晒されうる存在であり、痛みを感じる一人の人間である。
その声に“同じだけの重み”を与えること。
それもまた平等の一部だ。
もし、どちらかを一方的に押し上げる運動が、もう一方の沈黙や忍耐を前提にしてしまうなら、そこには歪みが生まれる。
平等とは、どちらかの皿に重りを積み上げ続けることではない。
傾きを直すために、反対側を沈めることでもない。
天秤そのものを点検し、その軸の歪みを見逃さないことだ。
社会というブレーカーが落ちるのは、負荷がかかった瞬間ではない。
配線の不具合を直さずに通電を続けたときだ。
均衡とは一方的な勝利ではない。
互いの痛みを、同じ明るさで照らし続けることだ。
