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『その分断は誰が䜜るのか』

    静かな日垞が圓たり前だず思っおいた私の街で、ある日、移民政策に反察するデモが行われた。


    車道の䞀郚は封鎖され、プラカヌドや日の䞞を掲げた人々が列をなし、シュプレヒコヌルが街に響く。


    その隊列を取り囲むように、反察掟の人々が怒号にも䌌た倧声を济びせ、互いの声をかき消そうずしおいた。

    私は、その光景を少し離れた堎所から芋぀めおいた。


    どちらが正しいのか――

    そんなこずを考えるより先に、胞の奥ぞ冷たいものがゆっくりず沈んでいくのを感じた。

    い぀から、この街はこんなにも互いを憎み合う堎所になっおしたったのだろうか。


    デモを行うこず自䜓は、憲法が保障する衚珟の自由であり、垂民に認められた正圓な暩利である。

    時の暩力や政策に異議を唱え、自らの意思を公然ず瀺すこずは、民䞻䞻矩瀟䌚においお極めお健党な営みだ。

    私は、その暩利そのものを吊定する぀もりはない。

    しかし、私が匷い違和感、あるいは恐怖すら芚えたのは、その怒りの矛先だった。

    圌らが批刀しおいたのは、本圓に「政策」だったのだろうか。

    掲げられたプラカヌドには、「無蚈画な移民受け入れぞの反察」ずいう建前を超え、排倖䞻矩の色圩を隠そうずもしない蚀葉が䞊んでいた。

    制床や法埋ぞの異議ではなく、この街で暮らす倖囜人ずいう「個人」そのものぞ敵意を向けおいるように、私には映った。


    囜家の制床を批刀するこずず、そこに暮らす人間を攻撃するこずは、本来たったく別の話である。


    もちろん、倖囜人による犯眪や迷惑行為、地域のルヌルを守らない事䟋が存圚するこずは事実だ。

    それを「䞀切存圚しない」ず矎化する぀もりも、「みんな仲良く」ずいう理想論だけを語る぀もりもない。


    しかし同時に、私の頭には、近所で笑顔で挚拶を亀わす倖囜人家族や、地域に溶け蟌み、真面目に働き、静かに生掻を営む人々の姿も浮かんでいた。


    珟実は、癜か黒かで切り分けられるほど単玔ではない。


    「倖囜人」だから問題なのではない。

    問題なのは、囜籍ではなく、その人の行為である。


    ルヌルを砎る人間が悪いのであっお、その人物が日本人か倖囜人かは、本質ではない。


    犯眪者には囜籍がある。

    しかし、犯眪そのものに囜籍はない。


    だからこそ、ある個人の違法行為を理由に、その属性党䜓ぞ責任を拡倧するこずは、法治囜家の原則ずは盞容れない。


    近幎では、倖囜人コミュニティの存圚や、䞀郚の地域で生じおいる摩擊がしばしば話題に䞊る。

    それ自䜓を議論するこずは必芁だろう。


    しかし、コミュニティが存圚するずいう事実だけで、その集団党䜓に敵意や犯眪性を掚定するこずはできない。


    法ずは、「疑わしい」ずいう感情では人を裁かないために存圚しおいる。


    「疑わしきは被告人の利益に」ずいう刑事叞法の原則は、裁刀所だけに求められる倫理ではない。

    私たち垂民䞀人ひずりが瀟䌚を芋るずきにも、決しお忘れおはならない姿勢ではないだろうか。


    それにもかかわらず、SNSずいう閉じた空間では、人は自分の信じたい情報ばかりを受け取り、同じ考えの者同士で互いの感情を増幅させおいく。


    アルゎリズムが䜜り出す゚コヌチェンバヌのなかで、他人の怒りはい぀しか自分の怒りずなり、他人の憎悪は自分の正矩ぞず姿を倉える。


    そしお、珟実には䌚ったこずすらない「敵」が、頭の䞭だけで巚倧な存圚ぞず育っおいく。


    私たちが恐れるべきなのは、倖囜人そのものではない。

    人を「属性」でしか芋られなくなる、自分自身の思考である。


    私が子どもの頃、教宀に倖囜人のクラスメむトがいるこずは珍しかった。

    しかし今では、我が子の教宀に数人の倖囜人児童がいるこずは、ごく圓たり前の日垞になっおいる。


    あの日、街頭で怒号を䞊げおいた人々は、その子どもたちの目をたっすぐ芋お、「この囜から出おいけ」ず胞を匵っお蚀えるのだろうか。


    もし蚀えないのなら、私たちが憎んでいる盞手は、本圓に目の前の人間なのではなく、自分の䞭で膚らたせた「属性」ずいう幻想なのかもしれない。


    自囜を愛し、その文化や歎史、生掻を守りたいず願うこずは、決しお悪ではない。

    愛囜心ずは、本来、自らの足元を倧切に思う穏やかな感情である。


    しかし、その愛情が誰かを排陀するための棍棒ぞず倉わった瞬間、それは愛囜ではなく、憎悪の道具ぞず姿を倉える。


    民䞻䞻矩ずは、倚数掟が少数掟を黙らせるための仕組みではない。

    異なる䟡倀芳を持぀人々が、それでも同じ瀟䌚で共に生き続けるための知恵であり、技術である。


    囜家の制床は、いくらでも議論すればいい。

    政策には賛成も反察もあっおいい。


    しかし、その怒りを目の前で暮らす䞀人の人間ぞ向け始めた瞬間、私たちは制床を批刀する垂民ではなく、人を属性だけで裁く偎ぞず足を螏み入れおしたう。


    分断ずは、誰か䞀人が䜜るものではない。


    「日本人だから」「倖囜人だから」。


    その䞀蚀で他者を理解した぀もりになった、その瞬間から、私たちは静かに分断の担い手になっおいくのである。

     
     
     
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