
【創作大賞2026応募作】砂に沈んだ世界の深秘録
あらすじ
世界は砂に沈み、人間はほとんど姿を消していた。
砂の城で暮らすソフィーは、ある日砂の上に倒れていた少女・水葉を見つける。
目を覚ました水葉は、失われた日常と、親友・彩音の行方を探し始める。
砂に埋もれた学校。
教室に残された名前。
言葉を持たない小さな砂兵。
忘れていた過去の先で、水葉が見つけるのは、親友が残した小さな願いだった。
終わった世界で、それでも誰かを忘れないための物語。
第一話 人の形を保った者
枯れた木々、萎れた花、腐った果物。
土に還るだけの、無価値なもの。
そんな世界で、ただ一つだけ生き物のように蠢くものがあった。
砂嵐だ。
黄ばんだ視界に手を覆うと、いつの間にか砂たちが動き出し、一軒のお城が出来上がっていく。茶色のきらびやかな玄関、単色の旗がてっぺんに立っている。
「…ふう」
私は一人、
砂状のお城に足を踏み入れる。
さらさらと、足に砂の感触。
この城で声を返してくれる者は、ほとんどいない。
それでも私は、いつものように玉座へ向かった。
長く、変わり映えのない廊下。間隔を空け、砂で作られた単調な柱。見慣れた空間だが、思わずあくびが出てしまう。
少しくらい、鏡でも入れた方がよさそうだ。
そんなことを考えながら、私は玉座に向かった。
黒い砂で作られた玉座に座る人に微笑む。
「王様、お久しぶりです」
「…ソフィーか」
目を閉じ、部屋中を響く声を出す王様。
私以外で、唯一口を開く存在。
そして、唯一の王。
本名なんか、当の昔に消え去った。
私も、その一人。
「今回見てきた範囲では、生存者の一人もいなかったです」
ため息まじりに伝える。
最後に見たのは、いつだろうか。
私と同じ、人の形を保った者は。
「そうか…で、どうするのだ、ソフィー」
体一つ動かさず、淡々と話す王様。
「私と同じ…人間でも拾ってきます」
この城に少しでも、活気が欲しい。
──つまらない世界の一つ、楽しまないと。
「…また、あの物達のようにするのか?」
肩をすくめ、王に歯を見せる。
「ならない可能性を探っているのです、王様」
砂兵達が、脳裏によぎる。
──動けない王も、哀れなものだ。
「…私のようにはしないでくれ」
「善処します」
一礼を済ませた後、王様に背を向けて玉座を去る。
実際、どうすればいいのだろうか。
砂の城で、人間を住まわせる方法は。
砂の廊下から、兵達をよそに城を出る。
外は変わらず、砂嵐が吹き荒れている。
何か変わるとすれば、私の足跡が砂漠に植え付けられるだけ。
──この景色も、見慣れたものだ。
後ろでは、砂の城が輪郭を崩さず私についてきていた。
「うっ…こ、ここどこ?」
不意に、人間の声が耳に届く。
懐かしく、甲高い声。
口元が緩み、私は声のする方へ向かった。
「っ…はあ、はあ」
妙に荒い息遣い。
このままでは、砂を吸って死ぬ。
──死んでしまっては、面白くないか。
砂の城に手を触れる。
城はぼろぼろと崩れ、あたりの砂嵐だけが空へほどけていった。
静まり返った砂地。
その中に一人、砂に倒れ、肩で息をつく少女がいた。
白い肌。
それを包む、見慣れない黒い服。首元には細い布が結ばれ、砂に汚れてなお、どこか作り物めいていた。
「…あの」
呼びかけても、反応はない。
肩を揺らしても、彼女は目を閉じたままだった。
黒い髪に、細かな砂がへばりついている。
まだ、息がある。
再び、砂の城を呼び出す。
砂嵐と共に城が作り上げられていく。
彼女の体を持ち上げる。
──重い。
顔をしかめながら、砂の城の中に入る。
「兵。彼女をベッドに運んで」
近くの兵達が、とことこと私の方へ近寄る。
かわいいものだ、私の兵。
──元人間達は。
数人がかりで彼女の体を運び、無言で寝室に向かった。
城の中に入り、寝室に足を運ぶ。
外には、足跡も、星一つもない夜の砂漠。
いつもだったら、ベッドでふて寝でも済ませることだろう。
しかし、寝室に寝かせたあの人間が脳裏に浮かぶ。
「起きたかな…」
首元の細い布、
白い肌。
昔の私も、綺麗な肌だったのだろうか。
鏡で一つ、確認してみたい。
と、その時。
「は、離れてよ!」
寝室から、震えた声が聞こえる。
王様以外の、生の声。
気づけば、砂を勢いよく踏みながら寝室に顔を出してしまった。
部屋を覗くと、砂のベッドから離れていた彼女がいた。
ベッドの端に一つ、砂が欠けた跡。
目の前には、砂の兵達が彼女にじりじりと迫っている。
一人は彼女の膝に。
もう一人は、空の砂皿を片手に彼女の方へ差し出す。
──思ったより、馴染んでる。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないでしょ!な、何この人達!」
視線を上げ、声を張り上げる彼女。
彼女の丸く、光の入った瞳。
開いた口が塞がらない。
「私の兵です…そんなことより」
「流さないでよ!」
額に青い線が浮かび上がる彼女。
私が失った、生の一つ。
後ろの兵に、手で促す。
兵が頷いた後、とことこと他の兵達に手を小さく上げる。
意思伝達の一つ、覚えさせて良かった。
「え…何?」
兵達が、彼女の方へじりじりと距離を詰める。
音も立てず、一斉に。
兵達が通り、床の砂が沈む。
目の光が消え、肩を微かに震わせる彼女。
これで、話を聞いてくれそうだ。
口元に手を当て、寝室に声を響かせる。
「聞かせてください、あなたの全てを」
私の声に、目を逸らす彼女。
さっきまでの威勢も、見る影もなくなっていた。
──間違えたのか。
肩をすくめ、彼女に微笑みかける。
「怖がらせるつもりはなかったんです」
逃げられても、暴れられても困るだけだったのに。
兵より、繊細に扱う必要があるらしい。
彼女は膝を抱えたまま、唇をきつく結んでいる。
仕方ない。
「下がって」
彼女を囲む兵達に告げる。
私の言葉に、兵達は一斉に後ろに下がった。
さらさらと床を削る音だけが、寝室に残る。
彼女の肩が、わずかに落ちた。
「…あなた、誰なの?」
か弱く、確かに生きた声だった。
「ソフィー」
「ソフィー…その響き、外国人?」
国。そんな区切りも、もう砂に埋まった。
「ずいぶん古い記憶を持っていますね」
「はあ?」
素っ頓狂な声を出す彼女。
こんなにも、
熱のある声はいつぶりだろうか。
「では聞きますが、あなたはどこの国を知っていますか?」
一瞬、怯む彼女だったが。
目を見開き、手をベッドに勢いよく叩く。
叩いた箇所が、砂として床に吸われていく。
後で直せばいいだろう。
「に、日本よ!アメリカとか、イギリス、エジプト…」
指を一つ一つ、確かめるように立てていく彼女。
「…全て、砂に埋もれましたよ」
事実を伝えてあげる。
ただ、嘘を言う理由もなかった。
消えたと言うより、本当に埋もれのだから。
息を飲み、青ざめた彼女に微笑んでみる。
「嘘…よね。ねえ、嘘って言ってよ!」
嘘なんかついても、世界は戻らない。視線を下げた彼女の黒い髪が、顔を覆う。
「…学校の友達は?」
「友達?」
聞きなれない単語だ。
近くの兵に目を向ける。
「この兵達のことですか?だとしたら、あなたの友達も…」
「違う!」
跳ねていた兵が、ぴたっと止まる。
伏せられていた目に、火が戻っていた。
さっきまで怯えていたはずなのに。
何が、彼女をそこまで動かしたのだろう。
「友達は、どこにいるかって聞いてるの!」
「兵じゃない…?」
私の声に、彼女の目が少し。
火が消えかかっていたような。
だとしたら。
探そうじゃないか、友達のことを。
「それじゃあ、手伝います。あなたの友人探しを」
すると。
今度は、目を細めて声を発する彼女。
「…本当、ですか?」
本当かどうか。
無言で頷いて見せる。
人を探すついでだ。
「あ、ありがとうございます…クラスの子も、お母さんも、お父さんも、いますよね?」
震えながら、ぽつぽつと話す彼女。
──そんなに上手く行くとは思えないが。
いずれにせよ、あの条件を満たしていないとだめだ。
「では、その方々が生きてる条件を三つ」
彼女のように手を一つ一つ、確かめるように動かしてみる。
「一つ、あの世界戦争で生き延びた人」
「二つ、この環境…砂の大地で何もせずに生きられる人」
「え…」
二つしか話してないのに。
その場で崩れ去り、目を手で覆う。
それに構わず、最後の一つを話す。
「三つ…体の全てを、砂にすること」
彼女は、口を閉ざしたままだった。
仕方ない。
視線を下げる彼女に、淡々と伝えることにする。
「…さて。あなたのご友人の方々は、この条件を満たしていますか?だとすれば、一緒に探しましょう」
彼女に一歩踏み出した途端。
「…あんた、何なの?」
「ソフィーです」
一応自分の名前を口に出すと、突然立ち上がり、腕を上げる彼女。
「そんなこと…聞いてるんじゃないのっ!」
手はゆっくりと、私の顔に向かう。
彼女の手が、周囲に漂う砂を切り裂いて迫る。
翻し、かわすこともできたけど。
熱のある彼女の一撃を、どうしても受けたかった。
でも。
「っ…!あ、あんた、やっぱり…」
彼女の手は、私の右頬に触れた瞬間、そのまま左へ抜けていった。
頬は砂となって流れる。
熱も、痛みも、何も感じない。
寝室の天井に、私の砂が散っただけだ。
「…一つ、提案があります」
表情を崩さず、彼女に問いかける。
「私になりますか?」
今回こそ。
成功できれば、私にも。
そして、彼女にも有益なはずだ。
彼女はゆっくりと、首を横に振る。
どうしてだろう。
彼女も、分かっているはずだ。
「…熱があるのはいい。でも、あなたも気づいてますよね」
あの体では、持って数日だ。
生にしがみつくことの何がいけない。
「っ…」
目を逸らす彼女。
「お母さんに会えないなんて…意味、ないじゃん」
少しだけ、時間を渡そう。
「…いつでもいいですが、早い方がいいですよ」
背を向け、寝室から立ち去る。
彼女の言葉は、何一つなかった。
──私も、仲間が欲しいものだ。
第二話 もし、ここが夢だったら
朝の眩しい日差し。
いつも通り、私の目覚まし時計になってくれる。
体を起こす。
砂じゃないふかふかのベッドに白いシーツ、近くには体温を残したくまさんぬいぐるみが目につく。机の上には昨日の夜手をつけなかった英語の教科書が、開かれたまま放置されていた。
──なんでだろう。
全部、いつも通りのはずなのに。
喉の奥だけが、ざらついていた。
まばたきの裏に、茶色い景色が滲む。
砂のベッド。
表情一つ変えない、砂の人形たち。
「夢かな」
額から、汗が流れる。
洗面所で顔を洗おう。
悪夢の一つ、お母さんにでも話してみようか。
そう思って、部屋のドアを開く。
さら、さら。
「…?」
家のどこかから、微かな音が聞こえる。
──気のせいだ。
お母さんに会いたい。
リビングまで、一気に駆け出す。
どたどたっ、どたどた。
木の床で作られた廊下で、私の足音が響き渡る。
リビングに辿り着くと、キッチンで料理をしているお母さんの姿が目に入る。フライパンを持っているのに、片手だけで危なっかしくフライパンを揺らし、背中一つ動かさないまま作業を続けていた。
寝ぼけているのだろう。
意を決して、お母さんに声を荒げる。
「お母さんっ!何やってるの!」
すると。
私の声に、ゆっくりと後ろを振り返るお母さん。
──だったもの。
あの城で見た兵達と、何一つ変わらない。
エプロンも、手足も、持ってるフライパンも。
全部、
全部、砂で作り上げたもの。
砂の兵達と、見分けがつかないお母さん。
「あ…」
気づけば、その場でへたれ込んでしまった。
それなのに。
私の方へ、じりじりと迫るお母さん。
お母さんが手に持ってるフライパンも、床の砂の一部になる。
だめだ。
まだ、夢を見ているんだ。
さら、と。
お母さんの足元が崩れるみたいに、一歩、こちらへ寄った。
「っ…」
その場で立ち上がり、洗面所に駆け出す。
さら、さら。
私の足音が、まるで響かない。
洗面所に入り、迷わず蛇口をきゅっとひねる。
懐かしい音がした。
銀色の蛇口。
白い洗面台。
私が知ってる、見慣れたもの。
大丈夫。
ここは、私の家なんだから。
蛇口の前で、両手を差し出す。
でも、落ちてきたのは水ではなかった。
「や、やだ…」
さらさら。
細い砂が、私の手のひらに積もっていく。
手を振っても、砂は落ちない。
こんなの、もう。
「やだっ!」
「…はっ!」
不意に、目が覚める。
制服が、汗でびっしょりと濡れていた。
小さく鳴るお腹の音に、焼けるように乾いた喉。腕をつまんでも、景色一つ変わってくれない。
──ここが、現実なんだ。
あたりを見渡すが、砂で埋め尽くされた薄暗い寝室。
私の近くで、小さく飛ぶ砂兵が一人。
「…何なのよ、あんた」
表情なんてないはずなのに。
じっと見られている気がした。
あの女。
ソフィーが、この兵を通して私を見ているみたいだった。
「…あれ」
ふとあたりを見渡すが、肝心のソフィーの姿がない。
ここを動いていいのだろうか。
小さな兵に目を配るが、
何も変わらず、跳ねまわるだけ。
──ここにいるよりは、動いた方がいいだろう。
空気のまずく、何もない部屋なんかより。
ベッドから立ち上がり、足を動かす。
すると、あたりにいた兵とは別に。
後ろから、小さな兵がちょこちょこと足音を立ててついてきた。
「あんたも来るの?」
引きつった顔で問う。
私の声に反応したのか、
足の周りをとことこと歩く兵。
こいつにも、意思があるのだろうか。
ため息が漏れる。
「じゃあ行くよ、ソルト…あれ、サンドだったっけ?」
砂の英語が、頭から飛んでしまった。
サンドだったような、ソルトだったような。
名前なんて、どうせ仮だし。
とにかく、寝室から出てみることにした。
寝室を出ると、真っ先に赤いカーペットが目に入る。
「は…?砂だけじゃないの?」
思わず、足元のソルトに聞いてみる。
もちろん、返事は返ってこない。
赤砂で出来上がったものなのかな。
それとも。
──やめよう。
首を振り、カーペットを避けて歩く。
ソルトは気にも留めず、カーペットをとことこ歩いていく。
しばらく歩いていると、食堂らしきものが見えた。
入口に、看板が立てられている。
それも、アルファベットの文字で。
動詞だけ何とかわかるのに、
所々、単語だけが抜け落ちたかのように情報が落とされていく。
──英語の勉強、しとけばよかったな。
不意に、お母さんの言葉が脳内で流れる。
「水葉、また勉強さぼって…海外に行くとき困るでしょ」
「行かないし。日本が一番だもんねー」
腰に手を当て、呆れた表情だったお母さん。
そんなお母さんは、もう。
口をぎゅっと結び、目の前が微かに潤んでしまった。後悔が、水のように流れていく。
でも。
足元のソルトが、首をかしげている。
「…行かないと」
ソルトに微笑む。
口の端が、微かに震えたとしても。
食堂の中。
思わず、その場から立ち去りたくなる。
ソルトより大きく、
私と同じ背丈の砂兵たちが歩き回っている。
砂の椅子に座り、机を挟んで手を動かす子。
遠くのキッチンで、空の皿を忙しなく並べ替える子。
──空の皿なのに、何をやってるんだろ。
「…ソルト、いつもこんな感じ?」
肩をすくめ、ソルトに聞いてみる。
返事なんてあるはずがない。
──なんて、思っていたのに。
不意に、足元のソルトが動き出す。
近くの兵の方へ、とことこと近寄った。
キッチンで作業をしている大きな兵に腕を上げる。
大きな兵も、ソルトと同じ仕草。
あの子達の、コミュニケーションでもしているのだろう。
口を挟まず、様子を見てみる。
大きな兵が、ほかの兵から空の皿を受け取る。
ソルトはその横で、小さな片手を振って何かを促していた。
やがて大きな兵が皿を慎重に砂の机へ置くと、
ソルトが震える腕のまま、とことことこちらへ戻ってくる。
もしかして。
思わず、開いた口が塞がらなくなった。
目の前のソルトが、空の皿を差し出してくれた。
砂が薄く積もっただけの、空っぽの皿。
「私に、これを?」
引きつった笑顔を浮かべるが、
ソルトはぐいっと皿を見せつけてきた。
第三話 乾パンひとつ分の希望
目の前に差し出された、空の皿。
「…何?」
ソルトは何も言わない。
ただ、私の前に皿を支えたまま見上げてくるだけだ。
顔も口も、鼻一つないはずなのに。
まるで、幼い子供に見えてしまう。もし本当に子供だったら、きっと笑顔を向けていたはずだ。皿をそっと持ち、片手で子供の頭でも撫でて、「ありがとう」って言ってたはずだ。
「…無理よ」
口元が歪む。
お腹の音が、私の中で響き渡る。
ここにご飯でもあれば、
ソルトが、子供だったら。
はにかんだ笑顔を浮かべ、食堂を指さす。
再びぐいっと皿を差し出すソルトに、首を横に振る。「要らないよ」。出かかった言葉を喉に押し込み、大きな砂兵に目を向ける。
「ごめんね、返してほしいな」
私の言葉が届いたのか、ゆっくりと皿を下げるソルト。
下げる時、腕の砂がぽろぽろと音を立てずに床に落ちていく。
とことこと、キッチンに向かうソルト。
小さな背中を見送る。
すると。
「探しましたよ」
背後から、無機質な声が聞こえる。
砂の城を作り、私を中に入れた物。この世界を少しでも知ってる何か。
ソフィーが、後ろで影を作る。
これだけだったら、人間だったのに。
後ろを振り返る。
ソルト達のような、砂兵とは違う。
乾いた琥珀色のような、黄土色の瞳。砂の顔に線を刻んだような、私と同じ高い鼻。こぼれ落ちては、新しく生まれる白砂で作られた服。
やはり、
彼女だけは、何かを抱えているのだろうか。
目を細め、腰に手を当てながら口を開くことにする。
「…あんな場所、息苦しい」
「そうですか」
表情一つ変えず、淡々と呟くソフィー。
口を開くと、彼女の砂がぽろぽろとこぼれ落ちる。
指摘する気にもなれない。
ソフィーは再び、口を開く。
「そうだ。あなたのお名前、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「…水葉」
私の名前。
今だけでも、心に刻もう。
「水葉…水葉ですね。私はソフィー。ソフィーですよ」
何度も、自分と私の名前を口にするソフィー。
こびりつくほど聞いた名前なのに、どうして。
無意識に、肩が震えあがってしまう。
気のせいか、ソフィーの口角が微かに上がる。
「ふふっ、あなたは水葉ですね」
「ひっ…」
一歩だけ後ずさり、腰の手が後ろで結ばれる。
すると、首をかしげるソフィー。
「…?どうしましたか?」
彼女のことなんか、理解もしたくない。でも、少しでも理解しないと。
このままじゃ、私の心が持たないじゃないか。
首を横に振り、乾いた咳を済ませる。
「こほっ…それで、要件は?」
「要件?」
首をかしげたまま聞くソフィー。
「…用事、あったんでしょ」
「用事、ですか」
歯切れの悪いソフィー。
──何のために来たんだ。
何もわかってない顔のソフィーを見ていると、無意識にこめかみがぴくぴくと動く。いっそのこと、私が要件でも話そうか。
「あのさ…ないとは思うけど、一応聞くよ」
「はい」
「この城に、水か食料はある?」
もしなかったら。
背筋から、汗が沸き上がる。
「食料…砂ありなら腐るほどあります」
「違う!」
私の声が、食堂に響き渡る。
自分の腕を、赤くなるほど引っ掻く。
やっぱりもう、ないのかもしれない。
「水葉でも食べられる物…あ」
突然手を叩き、すたすたと私の前から去るソフィー。
期待しても、いいのだろうか。
──まだだ。
緩みかけた頬を軽く叩く。
その時、後ろからソルトがとことこと近寄ってきた。思えば、さっきから何をしていたのだろう。聞いてみたいけど、話さないソルト。
引きつった顔でソルトを見下ろしていると、
さらさら、ざりざりと、妙に速い足音が近づいてくる。
まるで、城中が揺れているような。
胸の底から、不気味さを感じてしまった。
「水葉、これはどうですか?」
右腕を上げ、笑顔を浮かべず私に見せつけるソフィー。
右手に掴まれていたもの。
それは、砂に汚れた乾パンの缶詰だった。元の世界ならどこにでもあった、ただの缶詰。でも、喉から手が出るほどそれが欲しい。
「そ、それ!お願い、私に頂戴!」
思わず、腕を勢いよく伸ばしてしまった。
それなのに。
「…そんなに欲しいんですか?」
私の指先が触れる直前、すっと腕を引く。
──おちょくってるのか。
「ふざけないでよ!」
声を荒げると、ソフィーはきょとんとした顔で缶詰をがっしり掴む。
「水葉、中々面白いですね…ふふっ、こんな反応、いつぶりでしょうか」
「いいから渡しなさ──え?」
再び、ソフィーの缶詰を取ろうとした瞬間。
「はい」
不意に、私の頭の上にポンと置くソフィー。怒りと感謝の気持ちが、同時に争い始める。どうして私をおちょくったんだ、でも私に缶詰を持ってきたのはソフィーじゃないか。
握り拳が震える。
──でも。
「…あ、ありがとう」
今の私には、この言葉しか出せなかった。
「どういたしまして…で、いいですか、水葉」
「…ふん」
缶詰を力強く掴み、ソフィーから視線を外す。
とにかく、食料も貰ったことだ。
ソフィーに外のことでも話してみよう。
「…あんたは来なくていいけどさ」
一つ区切り、ソフィーの様子を見る。
口を大きく開き、ソフィーは固まっていた。
彼女の態度に、ある意味尊敬する。
「外に行く。何か、あるかもしれないし」
数日は持つはずだ。
私のような人間も、いるかもしれないじゃないか。ソフィーのような、砂人間じゃない。元の世界の、よくいる一人くらい。
胸が、ちくっと痛む。
そんな中。
「えっ、私も行きます。一緒に行くって約束でしたよね」
いつ約束したんだ。
ため息が漏れるが、ソフィーは満足気に頷く。
「…わかったけど」
いないよりはまし。
自分に言い聞かせ、ソフィーと一緒に外に出ることにした。
邪魔をしなければ何でもいい。
「ありがとうございます水葉。お友達、見つかるといいですね。もしいなくても気にしないでください」
最後の言葉に、こめかみが微かに動く。
──反論の一つ、言葉にできない自分が嫌になる。
その時。
私の足を、つんつんとつつくソルトが目に入る。
「?」
ぼんやりとソルトを見つめていると、
ソフィーが淡々と呟く。
「あー、その子も連れていきましょうか」
──また一人、変な子がついて来る。
ソフィーよりは、害はないはずだ。
自分の中で納得する。
不安で押しつぶされそうになる。
でも。
もしかしたら、生き残りの一人でもいるかもしれない。
固唾を飲み、城の外に目を向ける。
砂嵐が舞う外へ、足を踏み出す。
「そうだ、水も持ってきました。缶詰の横にありましたが、話す機会がなかったです」
後ろのソフィーの言葉には、反応しないことにした。
第四話 砂に慣れない少女
もう一度、砂嵐へ足を踏み出す。
相変わらず、砂城の輪郭が砂地を滑ってついて来る。
景色一つ変わらず、風に吹かれた細かな砂が顔につく。手で払おうにも、また顔につく。
そのたび、私の顔に同化していく砂。
振り払うことも、意味がない。
でも、水葉はそうもいかないらしい。
「ううっ…何なのよ」
顔をしかめ、必死に手で砂を振り払う。時々目を瞑っては、再び目を開く。彼女の顔、服、足などの全身に打ち付けられ、いずれ私のようになる予兆が見えた。
──そのままじゃ、生きられないかもしれないが。
口を閉じ、彼女の前に立つことにする。
「…え」
背中から、とぼけた声が耳に届く。
「水葉、壊れますよ」
「壊れるって何よ…大丈夫だから、気にしないで」
呆れまじりに呟く水葉。
大丈夫。
だったら、心配することでもないだろう。
水葉の前から離れ、砂嵐をぼんやりと見つめる。
「えっ。ちょ…なんで離れるのよ!」
足を止め、水葉を見る。
両腕で顔を庇いながら、こちらを睨んでいる。けれど、頬や髪には細かな砂がへばりついていた。
「大丈夫とは聞きました。でも、砂がついています」
──そういうことか。
「水葉。砂がついてもいいってことですね」
「違うに決まってるでしょ!」
鋭い目つき、微かに膨らむほっぺ、片手がピクリとも動かない。
「あんた…っ」
そこから先の言葉は、砂嵐に削られたのか、怒りに詰まったのか、聞こえなかった。
ざー、ざー。
…ぽす、ぽす。
聞きなれない音。
目元を緩め、視線を下に向ける水葉。そこには、一人の小さな兵が水葉の足を小さくつついていた。
「…はいはい」
ソルトだったか、サンドだったか。
私には向けない、緩んだ顔を兵に見せている。あれが本来の彼女だろうか。
心の底に、小さな疑問が芽生える。
──大したことでもないのか。
人間というのは、不思議なものだ。
「ソフィー。前に立って」
顔を上げ、目を細める水葉。
兵もまた、彼女から一歩離れた場所で懸命に足を動かしている。
ぽす、ぽす。
「ふむ…」
一つ、違和感が残る。
私達の膝にも届かない小さな兵。どうして、この砂を歩けるのだろうか。
砂と同化しないのか。砂嵐に吹かれ、形一つ残らないんじゃないか。
それなのに。
「は、早く立ってよ」
低い声を出す水葉。
後で考えるとしようか。
頷き、彼女の前に立つ。
それから、どれだけ時間が経ったのだろう。
砂嵐の音、小さな兵の足音、水葉の足音が耳に残る。
ざざ、ざざ。ぽす、ぽす。さら、さら。
音だけは、今までより少し多い。
それでも、世界は何も変わらなかった。
水葉がいれば、私では見落としたものに気づくと思っていたのに。
肩を落とし、口を開こうとした瞬間。
「ううっ…何も、ないじゃない」
くたびれた声を出す水葉。
「…水葉がいれば、何かがあると思ったんですけどね」
とんだ期待外れだ。
「…私のせいにしたでしょ」
「はい」
「はいじゃない!」
砂嵐の音をかき消す、一筋の大きな声。
また一つ、新しい音が聞こえた。
目を逸らし、彼女に問いかける。
「仕方ないですね。では…お話、しましょうか」
「はぐらかさないで」
背を向け、足を動かすことにする。
砂嵐の音が、私を守ってくれた。
背を向け、足を動かす。
砂嵐の音が、私を守ってくれた。
「そういえば、なぜここにいるんですか?」
「…私が聞きたい」
「…?」
自分から、この地に来たのではないのか。
──違う。
首を横に振り、出会ったばかりの水葉が脳裏に浮かび上がる。
世界が砂で埋め尽くされたことも、砂人間じゃないと生きられないのも、何も知らなかった彼女。
私には、答えが出せない。
「…起きたら、ここにいた」
「起きたら?ここで寝ると、砂の養分になりますよ」
「だから!砂がなかった世界で過ごしてたの!昨日まで、本当に…」
途切れ途切れの彼女の言葉。
「友達と話して、お母さんと話して…こんな場所、知らない」
友達。お母さん。砂のない世界。
この世界に、そんなものは残っていない。
砂兵以外、生きられないはずなのに。
「もう一度聞きます」
「友達というのはなんですか?」
「お母さんとは?」
そして、一番聞きたいこと。
「どうして、まだ生きていられるのですか…?」
その瞬間、背中の砂が空に舞った。
熱も、痛みも感じない。
それなのに、手がすり抜けた場所だけが、妙に重かった。
「…次、同じ質問をしてみなさい」
喉から言葉が出かける。
でも。
──今聞いたらまずい。
本能が、頭に訴えてくる。
息を飲み、喉の言葉を噛みしめる。もう二度と、聞かないことにしよう。
「…すみません」
私の言葉に、水葉の声は返ってこなかった。
再び、騒音が私達を支配する。
何か、あればいいのに。
──その時。
「水葉っ!」
思わず、声を張り上げてしまった。目を擦るが形一つ変えない。砂の幻想でも、見間違いでもない。
「…何?」
冷たい声にも構わず、水葉の前から身をどかす。
あれを、水葉にも見せなければ。
私の体なんか、邪魔でしかない。
「は?どこ行くの…え」
水葉も見えたのか、小さく口を開いた。
顔の砂を振り払うことも忘れ、それを凝視している。
「…行きましょう、水葉!」
砂地を駆け出し、それに近づく。
胸の高鳴りが、止められない。
「もうっ、分かったってば!…ソルト、私の手に乗って」
呆れながらも、後ろでさらさらと音を立てる水葉。
水葉には、後で謝らないと。
だんだんと、それがはっきりと私の前に現れる。
その建物は堂々としていた。
砂の城が霞んで見えるほど、大きく、確かな形を保ったまま、そこに建っている。
赤砂だけで作り上げられた、空にそびえ立つ両端の古びた柱。柱の周りを砂の柵で囲み、まるで何かを拒むような玄関。植物のようなものを、砂だけで作り上げた花壇。
地面の砂と、同化することもなかった。
目の前の建物が、はっきりと視界に映る。
赤砂の柱が、私と水葉の前に建っていた。
いつからここにあったのだろう。
後で考えよう。
首を横に振り、柵を開く。玄関には扉がなく、白砂だけが撒かれていた。
壁には、どこかで見た文字が残っている。
けれど、私には線の集まりにしか見えなかった。
私の城よりも、豪華なものがあるかもしれない。
目を細めていると、後ろから荒い息遣いが耳に届く。
「はあ、はあ…ま、待ってよ」
そういえばいた。
いや、忘れていたわけではない。たぶん。
水葉の足音が消えると、少しだけ静かすぎる気がした。
後ろを振り向き、水葉に声をかける。
「すみません、水葉。お詫びと言っては何ですが…」
一つ区切り、水葉の様子を伺う。
ぼさついた髪の毛、右手に小さな兵を抱えながら私を睨む水葉。
彼女の髪には、細かな砂がついていた。
砂嵐のせいかもしれない。
でも、もう一つだけ心当たりがある。
─言わない方が、彼女のためだろう。
「ぼーっとしてました」
「はあ」
ため息を流し、本題を話すことにする。
「さてと、一緒に探索しましょう。お互い、有益な情報を得られると私は思うわけです」
水葉がいなくても、探索はできる。
人間の痕跡を探し、城に持ち帰るだけだ。
それなのに。
砂嵐の中で水葉と歩いていた時、少しだけ心が軽かった。
「そんなわけで、行きましょう水──」
「嫌」
こめかみ一つ動かさない水葉。
「…?」
言ってる意味が理解できない。
意味は分かる。でもなんで。
それに構わず、水葉はあたりをきょろきょろしながら言う。壁を傍目で見ては口元に手を置き、額に汗が光っている。
この場所のこと、知っているのかもしれない。
壁に手をつき、口を開こうとした瞬間。
「私、左の廊下見てくる。あんたは来ないで」
上ずった声を残し、小さな兵を連れて駆け出していった。
「どうして、ですか」
掠れた声が、廊下に響き渡る。
でも、誰も反応してくれなかった。前までは、これが普通だった。ずっと一人で、砂兵だけが私と話してくれて。
──人間のことは、わからない。
「はあ…もういい」
左の廊下から背を向ける。
とにかく、右の廊下を探索することにしよう。
さらさらと、私だけの砂を踏む音が響く。時々、赤い砂にはぽっかりと穴が空いていた。
試しに、穴に腕を入れてみる。ちょっとした好奇心だった。
「ん…?」
すると、さらさらした感触が手に伝わる。
砂よりも冷たく、手でぎゅっと掴める物。
首をかしげながら、腕を引っ込めてみると。
「あ、紙だ…大事なもの、かな」
くしゃくしゃの白い紙。
城にも、似たような紙を束ねている。いつか使うかもしれない。誰かが読めるかもしれない。これもまた、淡い期待かもしれないけど。
紙には、この建物と同じ文字が綴られていた。
声なら分かる。
でも、書かれたものは線の集まりにしか見えない。
「滅んだのも当然ね」
英語で統一すればいいものの、面倒な世界だった。
──これだけは、埋めてくれて助かった。
「ふふっ」
私の声が、廊下に小さく響く。
ここに水葉がいたら、どんな言葉を返してくれるのだろうか。「ばか」とでもいうのか、呆れてため息をつくのか。
隣を見るが、水葉がいない。前を向いても、後ろを向いても。
返事がひとつ、ほしかった。
遠くに階段が見えた。
まだ、人の生きていた証は残っているのかもしれない。
でも、もし水葉が私の前から消えたら。
「…嫌」
その瞬間、無意識に左の廊下に体を向ける。
「嫌」とは言われた。でも、ちょっとくらい無視してもいいはず。
頷き、足を動かそうとしたその時。
「いやっ!」
水葉の張り裂ける声が廊下に響く。
──水葉が。
無意識に、砂の廊下を駆け出していた。
持っている紙がしわくちゃになるが、それどころではない。
砂に埋もれかけた水葉が、脳裏によぎる。
そんなこと、あるはずがない。
左の廊下も、右と同じ赤砂でできていた。
けれど、壁に並ぶ扉の間隔だけが妙に整っている。
水葉を探していると、一つの部屋が目に入った。
机と椅子が大量に並び、奥には文字の書かれた緑の壁がある。
そんな中。
部屋の隅に肩を震わせ、顔を埋める水葉が見えた。
近くには、小さな兵がちょこんと水葉の様子を見てくれていた。
大丈夫、生きている。
息をつき、水葉に声をかける。
「水葉、大丈夫ですか」
声をかけても、顔を上げない水葉。
私の渡した乾パンの缶詰が近くに転がっている。一応、食べてくれたんだ。
水葉に笑顔を向け、手を差し出す。
私がいれば、落ち着いてくれるはず。
でも。
「来るなって言ったよね。なんで来たの?私の言うこと、わからないの?」
震えた声でまくし立ててくる。
「…化け物のくせに」
私が化け物。
本当にそうなのか。
「声がしたから来ました。化け物というのは違います」
自分の声が、思ったより響いた。
顔を上げ、真っ赤な目で私を睨む水葉。何が彼女をこんな目に遭わせた。私のせいなのか、心の底から疑問が沸き上がる。
何かあるはず。
この部屋にあるもの、探してみようか。
「水葉、少しだけ時間をください」
再び顔を埋める水葉。
机を一つ一つ調べる。
細かな砂が入っているだけで、どれも空だった。
書かれた文字も、今の私には読めない。
部屋の奥にある緑の壁。
ここも変わらず、白い文字が綴られている。中央に大きく書かれているものもあれば、端に細かく書かれてある文字も。
いずれにせよ、この文字がわからないとだめだ。
腕を組み、細かな文字の意味を考えることに。
上の文字は、真ん中の線から左右へ水が跳ねたような形をしていた。
下の文字は、もっと複雑だった。草のような線が上に乗り、その下でいくつもの線が絡み合っている。
「どういうこと?」
この線は、何を意味するのだろう。
中央から線ということは、砂を押し出す何かが──
「それね…わ、私の…」
はっと後ろを振り返ると、水葉が俯いて私の真後ろに立っていた。
そうだ、水葉だったらわかるかもしれない。
文字に指をさし、意味を聞く。
「教えてください」
口をもごもごさせては、目を瞑る水葉。手を後ろに結ぼうとしては、机にとんと音を立てて置く。
水葉の様子に、どこか胸騒ぎを覚える。
少しの間部屋の音がぴたっと止まり、息苦しさを覚える中。
吐き出すように、口を大きく開く水葉。
「それ…私の、名前なんだけど」
私には、何もわからない。
でも。
水葉が苦しんでいることだけは、辛うじて伝わった。
第五話 砂の名前が残る教室
水葉の名前が、緑の壁に書かれてある。
砂に混じった細かい文字。
元々、水葉がここにいたのか。
それとも、彼女の名前を知る誰かが書いたのか。
今まで声を発しても、誰も答えてくれなかった。
それでも、水葉は友達を探していた。
なら、この情報は悪いものではないはずだ。
「…ね、水葉」
俯き、青ざめた顔の水葉に声をかける。
それなのに、何一つ反応してくれない。口を閉ざし、私を視界に入れてくれない。
とりあえず意見を話すことにした。
「あなたの名前があるということは、この建物に友達がいるかもしれません」
顔を上げてくれるはずなのに、体一つ動かさない水葉。
言葉を続けようとしたその時。
「…やめて」
息の混じった彼女の声が、空間に響く。
「え?」
「友達って、言わないで」
視線を上げる水葉。頑なに緑の壁を見ようともせず、私のことだけを必死に睨んでいる。
まるで、友達がいることを認めないかのように。
「ですが、可能性はあるでしょう。水葉も探してたんじゃ…」
「少しくらい考えなさいよ!」
水葉の声が、自分の胸に響く。
もう一度考えてみようと、腕を組む。
水葉は、友達が私の兵のようになっていると考えたのかもしれない。
だから、友達という言葉を嫌がったのだろうか。
床で飛び跳ねる小さな砂兵。
水葉の周りを回っては、近くの机の中へ入り込もうとする。
この子のことが怖かったのなら、やることは一つ。
「…なるほど」
震えた水葉をよそに、しゃがみこんで小さな砂兵を片手で持ち上げる。
形を崩さず、床の一部にならないように。
慌てて私の方を向き、ぱたぱたと足を動かす砂兵。
「ごめんなさい、この子を戻してきます…」
「違う!」
間髪入れず、水葉の口が動く。
持ち上げられた砂兵も、ぴたっと動きを止めた。
「その子のこと、巻き込まないで」
「ですが…」
言葉を続けようとした。
けれど、砂兵が私の手をはたいた。
はたかれた箇所から、砂がぽとぽとと床に落ちる。
思わず、砂兵を解放してしまった。
こんなこと、今までなかったのに。
床にぽとんと落ちた砂兵は、すぐさま水葉の元へ駆け寄っていく。
軽く倒れたことも、まるで気にしてない様子だ。
「ソルト、大丈夫?」
柔らかい水葉の声。
再び飛び跳ね、机の方へとことこと歩いていく砂兵。
頬を緩ませて見送っていた水葉だったが、私を見る目は鋭い。
「理解しろとは言わない。でもさ…ソルトのことは、巻き込まないで」
その子を作ったのは、私だ。
でも、それを口にすれば水葉は黙って離れていく気がした。
「すみません。では、この話題はやめます」
そう言うと、水葉は答えてくれなかった。
ただ、砂兵だけがとことこと机の間を歩いていく。
その足取りに、迷いはなかった。
「…ソルト?」
水葉の声にも振り向かない。
ここまで自主的に動いたことはあったのだろうか。
水葉が後ろから追いかける。机の合間を追う時、口元が歪んでいた。
その時、砂兵が奥の机へ大きく跳ねて乗った。
水葉もまた、ソルトの机の元へ向かった瞬間。
足を止め、目を見開いた。
机を凝視しては、指で机を擦り始める。しばらくして、掠れた声で呟く。
「…やっぱり、私の席」
指先に残った砂を見つめながら、水葉は机の中へ手を伸ばした。
でも、彼女の鋭い視線が脳裏に浮かぶ。
口を挟まない方が賢明だろう。
それに構わず、水葉は机の中を必死に探る。
中に溜まっていた砂を払い、取り出したのは、しわくちゃになりながらも綴じられた紙の束だった。
私が集めた紙切れより、よほど丁寧にまとめられている。
「っ…」
紙をぺらぺらとめくり、ソルトに問いかける水葉。
「…ソルト。この文字、読める?」
紙の束をソルトに見せる。
私には読めない。ソルトにも読めないはずだった。
けれど、砂兵は小さく跳ねた。
「え?」
無意識に、気の抜けた声を出してしまった。
水葉もまた、目を見開く。
どうして、あの砂兵は読めるのだろうか。
「あんた、まさか…」
水葉の声に構わず、砂兵は机の砂に小さな指をつける。
砂兵は紙の束を一枚ずつ覗き込み、何かを探すように首を傾ける。
そして、見つけた文字だけを拾うように、机の砂へ写していった。
さら、さら。
机に擦りつける音が、空間に響く。
すると、不意に砂兵が動きを止める。水葉の方にとことこと近寄り、机の上で腰を下ろした。
砂兵が書いたものが、どうしても気になる。
水葉達の元に向かい、机の上の文字を観察する。
でも。
机の文字は、私でも分かる言葉で書いてくれた。
みずは あやね
どうして、すぐにわかったのか。
そんなことはどうでもいい。腕を組み、意味を考える。
水葉の名前はわかる。
でも、あやねとは何だろう。
みずはと似た響きの、誰かの名前なのだろうか。
水葉に聞こうと口を開いたが、彼女もまた、手を震わせてその場で立ち尽くす。
水葉の指先から、紙の束が滑り落ちた。
けれど彼女は拾おうともしない。
ただ、机に書かれた「あやね」の三文字を見つめていた。
あの様子だと、意味が分かるんじゃないか。
「あやねについて、心当たりがありますか?」
腕組みを崩さず、水葉に疑問を投げる。
でも、口を閉ざしたままの水葉。
もう一度聞こうと、口を開きかけた。
でも、さっきの水葉の鋭い目。
理解はできない。でも、今は話さない方が、水葉を怒らせずに済むのではないだろうか。
首を縦に振り、落ち着いた声をかけることにした。
「後で聞きましょう」
水葉は答えなかった。
ただ、机の上の文字から目を離さない。
「…それより」
一つ区切り、近くの転がった缶詰を拾う。
「今更ですが、乾パンを食べましょう」
何かを食べると元気になる。
胸の内にある温かい記憶が、微かに蘇った気がした。
水葉の前に差し出し、受け取るまで待つ。
「…ん」
水葉は缶詰を受け取り、乾パンを口に入れていく。
食べるたび、少しだけ表情が緩んだ。
乾パンというものは、美味しいのだろうか。
首をかしげていると、顔を背けて言う。
「…いる?」
「はい」
乾パンを一つ貰い、口に入れる。
けれど、噛む前に砂に混じって消えていく。
味も香りもしない。水葉のように、深く味わうこともできない。
でも。
「美味しいです。水葉」
砂の合間にある温もりだけは、何とか味わうことができた。
水葉は眉を寄せていたが、それはそれだ。
水葉が乾パンを食べる間、私は黙って見ていた。
机に座ったままの砂兵もまた、肩を落として水葉を見続けている。
やはり、この砂兵は水葉の友達なのだろうか。それとも、紙に書かれ文字だけを読み取っただけか。
もう少し、考えることにしよう。
水葉の友達を探すため。
第六話 砂の席に残された名前
乾パンは思ったより硬かった。
口の中で割れるたび、ぱさぱさした欠片が喉に張りつく。水を飲み込んでも、胸の奥に引っかかったものだけは流れてくれない。
机の上にはまだ文字が残っていた。
みずは あやね
砂で書かれただけの、頼りない文字。
触れたらすぐ崩れそうなのに、目を逸らしても消えない。
「…なんで」
自分の声が、教室の中に小さく落ちた。
ソルトは机の端に座ったまま、肩を落としていた。小さく跳ねることもなく、先生に叱られたかのように動いてくれない。
聞けば、全部わかる。
あんたは彩音なのか。
どうして、私のことがわかる。
どうして、私の席を覚えている。
でも、どれも言葉にできない。
もしこれで頷いたら。
私は、きっと耐えられない。
「水葉」
ソフィーの声。
いつも通り、乾いていて、少しも揺れていない。
「…今だったら、いいですか?」
「ごめん」
思ったより、低い声が出た。
今はまだ、考えたくない。
ソフィーは一度だけ口を開きかけて、それから閉じた。唇の端からこぼれた砂が、さらさらと床に落ちる。
「わかりました」
その言葉に、私は少しだけ目を上げた。
感情を殺した目。でも、心なしか視線を揺らしているようにも見える。
少し、胸がずきっと痛んだ。
─でも。
「行くよ、ソフィー…ソルト」
震えた声が、教室中に響く。
息を飲むソフィーだったが、すぐに頷く。
私は、机の端で座り込むソルトに目を向けた。
もしこの子が彩音だったとしても、今はソルトだ。
そう思わないと、手を伸ばすことすらできなかった。
最初目覚めた時、城の食堂で皿を差し出してくれた時が、脳裏に過る。
目の前に手を差し出し、ふにゃっとした笑顔を見せる。
最初こそ、差し出した手に目を逸らすソルトだったが。
「…言うことを聞きなさい、ソルト」
無機質な声を出すソフィー。
この子の名前を、初めて呼んでくれた。
ソルトは、すぐには動かなかった。
私の顔を見て、それからソフィーを見上げる。
迷うみたいに、小さな足が机の上を擦った。
それから、ようやく私の手に乗った。
「ありがと」
ほっぺを緩ませ、ソルトに笑いかける。
久しぶりに、ソルトも小さく跳ねてくれた。
そんな中、ソフィーは問いかける。
「…水葉、少しいいですか?」
ソフィーが、どこか真剣そうな顔で言った。
まだ、何かあるのだろうか。
ソフィーは目元を擦った。指先から砂がぽろぽろと床に落ちる。
それから、掠れた声で言った。
「…眠たいです」
一瞬、何を言われたかわからなかった。
ソフィーは当たり前のように言うと、その場で砂の床に腰を下ろした。
まさか、ここで寝るつもりなのか。
ソフィーの目が砂の中に同化するかのように、表情が消えていく。
「…その子と探索してきてください」
「ちょ、ソフィー?何言ってんの?」
無意識に、素っ頓狂な声を出してしまった。
「この体、あまり動かすと形を保つのが面倒なのです」
理屈はわかったような、そうでもないような。
いくら何でも、自由すぎる。
「少し寝たら…動きます。それまでは…ふぁ」
その言葉と同時に、
ソフィーの口から寝息が漏れる。
本当に寝た。
「自由すぎでしょ…はあ」
しょうがない。
腰を上げ、ソルトと一緒にこの教室を探索することにした。
まず、見つけたノートを改めて調べる。
私の名前。
そして、彩音の名前が書かれたノート。
もう一度ソルトに見せると、動きをぴたっと止める。
─やっぱり、ソルトは読めるんだ。
もう少し、ページをめくってみることにした。
最初は砂のせいで文字一つ見えなかった。指で擦っても、シャーペンの跡がなくなっている。
読めないページを、一枚ずつめくっていく。
最後のページにめくっていた手が止まる。
唯一、砂の侵食が少ないページ。中には、うさぎの絵が描かれていた。
「…これって」
線ががたがたの、不格好なうさぎの絵。
その時、頭の中で彩音の声が小さく流れる。
はにかんで笑いながら、遠慮がちの声。
「うさぎさんって、描きたくなるよね…別に、描いてるってわけじゃないけど」
指をもじもじしながら、ノートを必死に隠していた彩音。嘘なのか本当なのか、あの時は半分からかっていた。そのたびに、いつもほっぺを真っ赤にしていた彩音。
でも、本当だったんだ。
思わず、ソルトの方にうさぎの絵を見せていた。
「あんた、これ…描いたの?」
ソルトは、うさぎの絵をじっと見つめた。
それから小さな手を伸ばし、
絵の耳をなぞるようにして、机の砂へ線を引き始める。
さら、さら。
しばらくして、うさぎの隣にもう一羽。
線ががたがたのうさぎが、仲良く隣に座っていた。
やっぱり、この子はただの砂兵じゃない。
「こ、こんな絵、描けるんだ。凄いじゃん」
逃げた言葉に、嫌気がさす。
それに構わず、ソルトは小さく跳ねるだけ。
─もう少し、別の場所を調べよう。
次に、黒板に残った文字を探すことにした。
私の名前はある。
何度見ても、日直の下に水葉という文字は消えてくれない。
出かけたため息を堪え、黒板の前を歩きながら調べていく。
昨日までは、ここにみんながいた。
先生に呼ばれて、彩音が真面目に板書していて、私は少しだけ面倒くさがっていた。
それだけの日常が、今はどこにもない。
何気ない、ただの日常。
でも今は、人っ子一人いない。
いるのは、砂の床ですやすやと眠るソフィーと、教壇でぼんやりと座っているソルトだけ。
「…みんな」
私の声も、誰一人拾ってくれない。
いや、ソルトだけが微かに肩を震わせた。
息をつき、再び黒板に目を向ける。
ぼんやり左端まで歩くと、黒板の端っこに小さな文字があった。
目を凝らし、文字を読む。
体育委員会からのお知らせ
熱中症対策のため、屋内で行います。
体育館集合です。 日月彩音
体育館集合。
その言葉だけが、妙に新しかった。
まるで今でも、誰かがそこで待っているみたいに。
「体育館、か」
まだ、この建物に残されているのだろうか。
もし残されていたら、何かわかるはずだ。学校に何かあったのか。どうして、この地に私が通っていた学校が残されていたのか。
教壇で座り込むソルトに目を向ける。
どこまで知っているのか。そして、この子は彩音なのか。
─もう、見ないふりはできない。
唇を震わせながら、ソルトに言う。
「彩音だったら…ここに乗って」
目を瞑り、ソルトに手を差し出す。
差し出した手が、情けないくらい震えていた。
さら、さら。
小さな足音が近づいて来る。
でも、私の手には何も乗らない。
逃げたのかもしれない。
違ったのかもしれない。
そう思った瞬間。
ぽす、と。
小さな重みが、手のひらに落ちた。
ゆっくり目を開けると、ソルト。
いや、彩音が手のひらで跳ねている。この子は嬉しいのか。それとも、ごめんの意味で跳ねているのか。
─言葉なんて、いらないかもしれない。
「そっか」
口元を緩ませ、彩音の頭を軽く撫でる。
形を崩さないように、あの時のように優しくしながら。
放課後、二人で通学路を歩いていた頃。何気なく褒めてからかい半分で頭を撫でた時、夕日より赤いほっぺを見せてくれた彩音。
今はもう、何も見せてくれない。
「っ…」
目元が熱くなる。
でも。
自分のほっぺを無理やり持ち上げ、彩音に笑いかける。
私だけでも、笑顔を見せないと。彩音の眉が、八の字になってしまう。
そんな気がした。
「…行くよ、彩音」
震えた声を出し、教室を出る。
手のひらにいた彩音は、小さく跳ねてくれた。
第七話 知らなくていいこともある
手のひらが少し重かった。
砂で出来た小さな体。
触れれば崩れてしまいそうで、それでも確かに手のひらに存在する。
「…彩音」
名前を呼ぶだけで、喉の奥が痛くなる。
昨日までなら振り返ってくれた。
困ったように笑いながら、「どうしたの、水葉ちゃん」とでも声をかけてくれたのに。
今は、ぽす、と音を立てて跳ねるだけ。
「返事、かな」
冗談っぽく言い、苦笑してしまう。
でも、声は震えたままだった。
静かすぎる廊下を見ていると、昨日までの放課後が頭に浮かんだ。
夕焼け空が広がる放課後の廊下。二人でこつこつと足音を立て、彩音がふにゃっと笑顔を浮かべる。お互い声を出さずとも、どこか居心地のいい時間だった。
─今も、形だけだったら似てる。
私の手の上に彩音がいて。
私は、彩音と一緒に廊下を歩いている。
それだけなら、昨日と何も変わらないはずなのに。
胸がずきっと痛む。
「…体育館、行こ」
黒板の端に残っていた文字。
体育館集合です。
その言葉だけが、頭の中で何度も揺れていた。
こつ、こつ。
変わり映えのない景色を歩く。
ふと振り返っても、ソフィーはいない。
いつもなら苛立つ声も、今だけは恋しかった。
その時、廊下の先がふいに開けているのが見えた。体育館にあるはずのねずみ色の扉が跡形もなく消えており、思わず目を擦ってしまった。
遠いせいで、細かなところまでは見えない。
でも。
手のひらの彩音がその場で歩き回り、私の方を向いて肩を落とす。もしかして、体育館の現状を知っているかもしれない。
自分が知らない景色を、この子は見ていたんだ。
─胸騒ぎを覚える。
空いた手を胸に添え、ゆっくりと深呼吸。
「…大丈夫だよ、彩音」
今度は、震えた声が出なかった。
そうして、体育館まで足を早める。
体育館の前。
目を逸らさず、木の床に一歩足を踏み入れる。なぜかわからないが、床には砂の量が少なく感じた。
だだっ広い空間。自分の足音だけが響く中、あたりの景色を見渡す。
あったはずのバスケットゴールや、床に引かれた白色のテープ。でも、今は全てなくなっている。まるで、元々なかったかのように。
「…なんで」
呟きは体育館の奥まで転がって、何にもぶつからず消えた。
「彩音、一体何が─」
手のひらに乗った彼女に聞こうとした。
しかし、全身を震わせて私の手にしがみつく彩音。
小さな体なのに、止めようとしても止まらない。
私の知らない何かを、この子だけが覚えている。それも、彩音が震えるような出来事が。
彩音の頭を、崩れないように撫でていく。
砂になっても、彩音は彩音だ。
そう思わないと、私の方が崩れてしまいそうだった。
とにかく、奥のステージに向かう。
ステージだけは、砂が全くない。この場所だけ、日常から切り取られたような感覚に陥る。
久しぶりに、砂から逃れられたはず。
それなのに、彩音の震えは止まらない。
私の手のひらから、微かな振動を感じるほどだ。
「ど、どうしたの?」
そっと崩れないように彩音のことをステージに降ろす。久しぶりに、砂のない床に立たせたかった。
すると、彩音の震えがぴたっと止まった。
落ち着いた、のではなかった。
止められたみたいに、彩音は動かなくなっていた。
本当に大丈夫なのかは、わからない。
それでも、震えが止まったことに縋りたい。彩音を置いてステージを調べることにした。
置物が一つもなく、掃除されたかのようなステージ。しゃがんで床を観察するが、目ぼしいものも特にない。
─おかしい。
ふと、彩音の方を見つめる。相変わらず、石のように固まった彼女。でも、あれだけ体育館の中で震えていた。
「彩音?」
呼びかけても、返事の代わりの小さな跳ねもない。
いつもなら、ぽす、と床を蹴ってくれるはずなのに。
砂と関係してるのは確かだ。ステージ上には砂がないから、足を止めているかもしれない。
それとも、ステージで何かがあった。彼女が固まるような惨劇だろうか。
彩音に近寄り、そっと持ち上げる。
すると、再び体を震わせていた。ステージに上がる前と同じように。
「…ごめんね」
彩音のことを、ステージ下にそっと置く。何が正解かなんてわからない。でも、これ以上震えてほしくなかった。
再びステージに上がる。まだ見ていない場所が、一つだけあった。
ステージ裏だ。
ステージ裏に入った瞬間、空気が変わった。
表のステージには砂が一粒もなかった。なのに、裏側には砂が積もっていた。床も、椅子も、机も。何かを隠すように、ぎっしりと。
「何なの、さっきから…」
暗い空間を、手探りで歩き続ける。
その時、砂の中にある何かを踏んづけてしまう。みしりと鈍い音が部屋中に響き渡り、全身から寒気を感じてしまった。
砂に埋もれた何かを見たい。なのに、自分の足は下がっていくばかり。
「み、見ないとだめ、だよね」
掠れた声がステージ裏に響く。息をつき、胸に手を当てた後、自分で踏んだ砂をゆっくりと取り払う。
ざら、ざら。
滑らかな砂の中に、小さく鋭い粒が混ざっている。
指先に触れるたび、ちくりと痛んだ。
その中に、赤い小石があった。
一つだけじゃない。
いくつも。
石にしては、色が濃すぎた。
目を背けたい反面、がむしゃらに手を動かしていた。
その時。
不意に、固い何かが手に当たった。ぱちっと音を立てる。それと同時に、額から汗がびっしりと沸き上がる。
今触ったもの。
勢いよく砂をどかし、正体を全貌に出す。
「…嘘」
最初、何を見たのかわからなかった。いや、信じたくない自分がいた。私の右腕をちらっと見て、もう一度、砂から出たそれを確認する。
腐食していても、曲がっていても。
砂から出てきたものは、私の腕と同じ。
指があった。
手首があった。
形だけなら、どう見ても人間の腕だった。
「っ…」
言葉が出てこない。
悲鳴なんて、そんな便利なものは出てこなかった。
ただ、喉の奥が焼けるように熱くなって、胃の中の乾パンが一気に重くなる。
─まさか、彩音はこの場所で。
考えに至ったと同時に、あたりの砂を必死に取り払う。
砂の中で、指先に布の感触が引っかかった。慌ててそれを確認すると、一枚の服が落ちていた。真っ白だったはずの布。ズボンは青く、数本の線が引かれていた物。
学校の、体育服と同じだ。
「誰の?」
聞く相手なんて、ここにはいない。
それでも、声は勝手に漏れていた。
胸元を探せば、名前があるかもしれない。
けれど、指が動かない。
見れば、誰かになってしまう。
ただの腕でも、ただの布でもなくなってしまう。
昨日まで廊下ですれ違っていた誰か。
体育の授業で、同じ床を走っていた誰か。
先生に怒られて、笑って、汗を拭いていた誰か。
そんな誰かの名前が、そこにあったら。
「…やだ」
自分の声が、幼く聞こえた。
見たくない。
でも、見なかったら。
このまま砂を戻してしまったら。
ここで何があったのか、何一つわからないままだ。
震える指で、体育服の胸元をめくる。
砂がぱらぱらと落ちた。
布は破れ、ところどころ黒ずんでいる。
その奥に、小さな白い布が縫いつけられていた。
そこに書かれた文字は、半分以上が擦れていた。
砂に削られたのか、時間に溶けたのか。
苗字も、名前も、まともには読めない。
ただ、一文字だけ。
かすれた青い線が、まだ残っていた。
「…桜」
─そんなわけない。
桜なんて苗字、腐るほどある。
私なわけないじゃないか。
クラスメイト達の苗字を思い出そう。きっといるはずだ。
さ行の名簿を、頭の中でなぞる。
坂井、坂上、佐久間、佐藤。
その次が、私。
桜水葉。
それ以外に、桜なんていなかった。
「どういう、ことなの?」
意味が分からない。
分かりたくもない。
だって、私はここにいる。
息をして、汗をかいて、指先を震わせている。
それなのに。
砂の中には、私の名前があった。
私の腕と同じものがあった。
じゃあ、ここにいる私は何なの。
「ねえ、答えて…誰でも、いいから」
こんな場所、認めたくない。
ステージ裏から飛び出し、体育館の隅で震え続けている彩音のところまで駆け寄る。
どたどたと立った足音も、今はどうでもいい。
「彩音、早く出よ。こ、こんな場所、もういいよ」
私の声に、彩音は固まってしまった。彩音は何を知っているのか。この場所で何かあったのか。そんなこと、どうでもいいんじゃないか。
彩音を乱暴に持ち上げ、体育館から出る。
知らなくていいこともある。
必死に言い聞かせ、寝てるソフィーの元へ戻ることにした。
第八話 親友を救うため、少女は砂になった
いつの時代だろうか。
生き生きとした人間達が、私の前に立ちはだかっていた。彼ら、彼女達は、どうして、あんな鋭い目で私を見ていたのか。
当時こそ、欠片も理解できない自分がいた。
そんな彼らも、今となっては砂兵の一部。これでよかったはずだ。現に、拒否した者達は揃いも揃って砂の一部になってしまった。
─でも。
たった一人だけ、私を穏やかな目で見る人間がいた。
足が震えているものの、ほかの人間よりも怯えてない。
「へえー。あなた、イグノランスって名前なの…ひどい親もいるなあ」
声は軽かった。
けれど、膝は小さく震えていた。
それでも彼女は、私から目を逸らさなかった。
「ええ。それで、あなたは?」
顎に手を置き、微笑みながら口を開く彼女。
「彩音。日月彩音…わかるかな、イグノさん」
「はい。でも、イグノさんとは?」
「長いじゃん、イグノランスさんって」
それはそうだが、名前を短くされるのも困る。
大体、今から砂兵の一人にするのに、どうして名前を呼んでくれるんだろう。
あと二人。
目の前の彼女と、横で呑気そうに寝ているもう一人の彼女だけを砂兵にすれば、それでおしまいだ。
「…そろそろ、いいですか」
私の問いに、彼女は思いっきり首を横に振る。
「だめ。お願い…この子のことだけでも、どうにかして」
微かに目を潤ませる彼女。
でも。
どうにかできるなら、最初から砂兵にしない。
あたりを見渡し、彼女に聞く。
窓から砂が叩きつける。この建物が壊れるのも、時間の問題だろう。
「あなた方は、この砂を耐えられるのですか?」
「そ、それは…」
口をもごもごと動かし、目を逸らしている。
「では、二人とも砂兵に─」
言い切ろうとした瞬間、彼女はきりっと私のことを睨みつける。
「水葉ちゃんだけでも、助けてあげてよ!」
寝ている彼女に目を向ける。
幸せそうに口をむにゃむにゃと動かしている彼女。そのまま砂になっても、苦しむこともないのではないか。
外から聞こえる砂の音が、より一層激しくなっていく。
「何にもわからないまま、砂になるなんて…!ひどいよ」
「ひどいと言われましても…」
言葉に詰まる中。
一つだけ、面白い案を思いついた。
彼女の言い分。知らないうちに砂になるのがひどいと言うならば、意識を取り戻してから聞けばいいのではないか。
「ではこうしましょう。あなた、寝ている彼女の養分になってください」
「え?」
きょとんとしている彼女に構わず、言葉を急かせる。
砂を打ち付ける音が、そろそろ限界を迎えそうだった。
「説明している時間も惜しいので、あなたのことを砂兵にします」
「え、待ってよ!」
彼女の頭に手を置こうとした時、慌てて一歩下がってしまった。
「養分って…私は、どうなるの?」
「簡単です。彼女が目覚めるまで、砂兵になっても不自由ながらも生きるのです」
ある程度、生前の生活を続けられる砂兵達。
でも。
もし、彼女の記憶を全て抜き取ったら?
見たところ、彼女達は知り合いのはず。だったら、彼女の中にある記憶は十分な養分になるだろう。それで、彼女が目覚めた瞬間に記憶を戻した時。
寝ている彼女は、じっくりと砂兵に変わることだろう。
「…あなた方が共に過ごした時間を、寝ている彼女にエネルギ―として取り入れる」
一つ区切り、人差し指を上に立てながら話を続ける。
「彼女がこの地で目覚めた時、あなたを思い出すまでは人の形を保つようにします」
「…どういうこと?」
息を飲み、彼女は問いかけた。
噛み砕くならば、この言葉が正しいのだろう。
「あなたの自由を引き換えに、彼女は生き永らえるというわけです」
開いた口が塞がらない彼女。
それだけ、寝ている彼女の存在を大事にしているのか。
「…水葉ちゃん、私を思い出したらどうなるの?」
「少しずつ、砂兵に変わっていきます」
「思い出さない方が、いいのかな…」
肯定したい気持ちを抑え、静かに微笑む。
そこまでして、彼女のことを生かしたいのか。
今の私には、どうしてもわからなかった。
その時。
不意に、口を小さく開く彼女。
「イグノさん…水葉ちゃんに会ったら、二つだけ伝えてくれる?」
「?構いませんよ」
突き刺すように私を見つめる彼女。穏やかな視線も、全て消え去ってしまった。
手をぎゅっと握り、胸に手を置いた後。
泣きそうな笑みを浮かべ、大きく口を開く。
「勝手なことして、ごめん。水葉ちゃん、今まで楽しかったよって…お願い、イグノさん」
目を潤ませる彼女だったが、私にはわからない。
泣くのなら、一緒の砂兵になればいいのに。
でも、最後のお願いだ。
「わかりました」
頷いた後、ようやく彼女を砂兵に変えることにした。
彼女の腕に、私の砂をぱらぱらとまとわせていく。痛みを感じさせないように。
少しずつ、眠らせるみたいに。下半身から、じっくりと砂に移り変わる時。
不意に、穏やかな目のまま言葉を振り絞る。
「…そうだ…私が言うのもなんだけど」
「?」
「イグノランス…なんて、ひどい名前だよ…無知って、意味なんだ」
昔から、時々言われてきた。「無知な奴」だとか「教養がない」だとか。
でも、どうしようもないじゃないか。
今となってはもう、教養も何もなくなってしまった。
私の砂が首元まで浸食していた彼女だったが、振り絞るように言葉を出そうとしていた。
「勝手だけどさ…ソフィー…いいんじゃ、ないかな?意味は…」
黙って言葉を待っていたが、
彼女もまた、一人の砂兵へと移り変わっていった。
「ソフィー」
口に出してみる。
意味は、わからない。
けれど、イグノランスよりは、少しだけ軽かった。
─微かに、足音が聞こえる。
だんだんと響く音。
ゆっくりと体を起こし、あたりを見渡す。
教室と呼ばれた一つの空間。緑の壁には、水葉と書かれた場所もある。
「夢…?」
手で頭を押さえる。
そうだ。
彩音が、水葉のことを生かしてくれた。水葉は、彩音に生かされている。
そして、彼女のことを思い出したのなら。
頭の中で結論が出かけた時、勢いよく教室から入って来る人が現れた。
勢いよく教室に飛び込んできた水葉は、片手で彩音を握りしめていた。
その指先が、白くなるほど強く。
「ソフィー、早く出るよ!こんな…こんなところ、知らない!」
「水葉」
水葉の青ざめた顔。微かに、細かな砂が張り付いている。
胸が痛むが、それよりも。
水葉の手で震える小さな砂兵ソルト。
いや、彩音に目を奪われてしまった。
どれだけ昔の過去だったのか、今はわからない。でも、彼女の伝言を忘れていた自分がひどく気持ち悪かった。
今話してもいいのだろうか。それとも、やめた方がいいのか。
「…何?」
黙りこくってしまうと、水葉が鋭い目で睨む。
「早く出るってわからないの?ねえ、お願いだからさ…」
「ごめんなさい、水葉」
「え?」
水葉の顔から、更に色が消えた。
「彩音から、伝言を預かっています」
「や、やめて…」
その一言で、私は口を閉ざしてしまった。
いずれ話さないと、彩音が浮かばれない。いや、水葉が砂兵になるのもどうなのか。
─わからない。
とにかく、時間が欲しい。
「…一度、戻りましょう」
私の提案に、水葉は廊下を思いっきり駆け出していった。
私と、彩音を置いて。
それに気づいたのは、彼女の足音が遠ざかってからだった。
机の端に置かれた彩音に目を向ける。彼女もまた、私のことを見上げる。
「ごめんなさい…今まで、忘れてしまって」
彼女は何も動かない。
声も発さず、机の端に座っているだけだった。
とりあえず、今は彼女を連れて行くしかない。
片手を差し出し、彼女が乗るのを待つ。彩音は、私のことを覚えていたのだろうか。彼女を、ただの砂兵の一人だと思っていた。
その事実が、胸の奥でざらついた。
そんな中。
私の手にちょこんと乗り、小さく跳ねる彩音。
許したかわからないけど。
「行きましょう」
私の言葉に、手のひらで跳ねてくれた。
第九話 砂になった少女の伝言
どこまで走ったかわからなかった。
ただ、足を止めた瞬間に全部が追いついてくる気がして、私は廊下を走り続けていた。
体育館の裏。砂に埋もれた腕。
掠れた文字に刻まれていた名前、桜。
「違う」
声に出した途端、喉が焼けるように痛んだ。
口の中に、砂の味が広がる。砂の粒を噛みしめても、苦味一つ感じない自分がいた。
私は生きている。
心臓も動く、汗もかく。
胸の底から沸き上がる熱も、全身からひしひしと感じる。
なのに、指先から細かな粒達が生まれていく。
ほっぺを触ると、それが微かにこびりついてしまった。
「…いや」
ばちんと音を立て、ほっぺの砂を振り落とす。
それなのに、砂は落ちない。まるで、最初から体の一部だったみたいに。
その時、ようやく気付いた。
私の手のひらに彩音がいない。いつもぽすぽすと音を立てて飛び跳ねてくれた彩音。
教室に戻らないと彩音と会えない。
でもあの砂の女を思い出し、顔が歪んでしまう。
「ソフィーに会うのは…嫌」
ソフィーが預かっているという「彩音の伝言」が、こだまのように頭の中で響いている。
私は、どうすればいいのだろう。
砂になった親友の伝言を聞くことか。それとも、このまま逃げ続けて一人野垂れ死ぬのか。開けた廊下の奥から、微かに砂が入り込む。遅かれ早かれ、私は砂になる。だったらこのままでもいいのではないだろうか。
後ろを振り返っても、ソフィー達は来てくれない。
「…いいや」
戻らないと。
そう思ったのに、足は少しも動いてくれなかった。
戻れば、彩音の声を聞くことになる。
戻れば、私が何なのかを知ることになる。
それでも、彩音を、置いていくことだけはできなかった。
たん、たん…ぽす。
いるはずのない音が、耳の奥で鳴った気がした。
砂を踏むたび、自分の体まで少しずつ崩れていく気がして嫌気が差した。
空いた手をぶらぶらさせていると、ソフィー達がいるはずの教室に辿り着いた。
扉のない教室に入る。そこには、口を開けて呆然としているソフィー。そして、ソフィーの手にちょこんと乗った彩音がいた。
彩音が、ぽす、と小さく跳ねる。
ただそれだけで、戻ってきてよかったと思ってしまった。
「み、水葉。どうして、ここに?」
「親友に、用があるの」
一歩踏み出す。
彩音はぴたっと止まり、近くの机で腰を下ろす。
「…そうですか」
彩音を机に降ろしたソフィーは、何かを察したように教室から出て行く。私に目も合わせず、近くの柱に背中を預けて腕を組む。彼女なりに気を遣ってくれたのだろうか。
心の中で、こっそり感謝することにした。
そして、机に座った彩音に声をかける。しゃがみ込み、あるはずのない目を見るように。
何から言えばいいのか、分からなかった。
彩音と呼ぶだけで、喉の奥が痛くなる。
それでも、最初に言わなきゃいけない言葉だけは決まっていた。
「置いていってしまって、ごめん」
私の声に、彩音はぽす、と跳ねるだけ。
もし人間だったら、「いいよ」というか、腰に手を当てて「反省してよ」とでも叱ってくれるのだろうか。
「どっちなの、彩音」
無意識のうちに呟いてしまった言葉。
自分の声なのに情けなく聞こえた。
すると、机の上をとことこと歩き始める彩音。彼女の歩いた足跡が、形を持って記されている。一度止まり、少し離れた場所へ跳ねてもう一度歩く。
そうして出来上がったのは、がたがたの文字だった。
「…い?」
綺麗な形ではなかった。
けれど、確かにそこには「い」と読める跡が残っていた。
何を言おうとしたのか、すぐには分からなかった。
でも、彩音はそこで止まらない。
もう一度、小さな足を砂の上に下ろす。
同じように、歩いて止まって跳ねる。
机には、がたがたの文字が三文字並べられていた。
「い、い、よ」
口に出すと、彩音が大きく跳ねる。
いいよ。
一文字書くことさえ、きっと必死だったはずなのに。
それでも彩音は、置いていった私に、そんな言葉をくれるのか。
「…ほんと、ごめん」
気づけば、彩音に深く頭を下げていた。
それなのに、彩音は再び机に何かを描こうとする。
小さな体を精一杯動かして、ぽすぽすと音を立てる。
その姿がいたたまれなくて、思わず手で制止した。指先から落ちる砂から目を逸らしながら。
「それ以上、書かなくていいから」
私の言葉に、彩音はその場で固まる。
こうして向き合える時間も、僅かしかないのだろう。
しゃがみ込み、彼女のさらさらとした砂の頭を触れようとした。
すると、廊下で腕を組んでいたソフィーが、静かに教室へ入って来る。
「そろそろいいですか?」
「…うん」
彩音の伝言。
砂兵になる前、彼女は何を伝え、なぜ私と会えたのだろうか。
息を飲み込み、ソフィーの言葉を待つ。
ソフィーは少しだけ目を伏せた。
「伝言を話す前に、あなたに知っておいてほしいことがあります」
「…何?」
「水葉。あなたは、彩音の記憶によって生かされています」
「…生かす?」
記憶によって、生かす。
全くと言っていいほど想像ができない。
それでも、一つだけわかることがある。体育館で見てしまった腐敗した腕、私の苗字が記されていた体育服。
「やっぱり…私は、もう」
「普通では、生きられない体になっています」
普通では、生きられない体。
「彩音みたいに、なっちゃうのかな…」
彩音と同じ、砂兵の一人になる。
いいことなのか、悪いことなのか。私なんかが、判断できることじゃない。
私の呟きに、ソフィーは表情がこわばるだけだった。
どうせ、砂兵になるのなら聞いてみよう。
体育館にあった腐敗した腕について。
「ソフィー、体育館裏にあった腕…あったんだけど」
「近くに、あなたの名前は?」
「…ある」
そして、首を縦に振ってしまうソフィー。
やっぱりあの死体は、私だったんだ。
眉一つ動かさないソフィーが恨めしい反面、変にぼかさない態度にほんの少し感謝の心が芽生えてしまった。
そんな私に構わず、ソフィーは口を開く。
「本来、あなたの体は死んでいました。私が砂で形を繋ぎ、彩音の記憶であなたを保たせていたのです」
原理はわからない。
理解しようとしても、頭が追い付かない。
それでも、一つだけわかることがある。
机の上で俯く彩音。どんな形であれ、彼女が私を守ってくれた。
思わず彼女に手を伸ばしかけたが、気づけば腕が止まってしまった。
ぽす、と力なく飛び跳ねる彩音に、目を逸らしてしまった。
「水葉…そろそろ、いいですか?」
「…」
「彩音から、伝言を預かっています」
もう一度、ソフィーの口から発せられる単語。
彩音の伝言。
聞きたくない自分が、胸の内でのたうち回る。
砂のついた手が震えてしまうが、机で座る彩音が目に入る。
彼女が、人間だった頃の言葉。
もし逃げ続けて、私が砂になったら?
それこそ、彩音を裏切る行為だ。
「…教えて、ソフィー」
自然と、胸の底から声が出た。
ソフィーはほんの少しだけ目元を緩め、彩音は俯いた顔をはっと上げる。
彩音の方に、ふにゃっとした笑顔を返して見せた。
「わかりました」
ソフィーもまた、彩音に視線を向ける。
彼女も、人間だった頃の彩音と話したのだろう。
「勝手なことして、ごめん」
「っ…」
わかってる。
ソフィーの無機質な声だ。決して、彩音の声じゃない。
「今まで、楽しかったよ」
「あ…」
息が詰まる。
彩音の方を見ようとしても、自然と目が逸れてしまう。
私に伝えたかった伝言。最後まで、私のことを考えていた。
今すぐにでも、溢れんばかりの言葉が出て来るのに、唇が震えるだけ。
「…伝えましたよ」
誰に言うでもなく、その場で呟くソフィー。
ソフィーの言葉に、彩音はぽす、と跳ねるだけだった。
「彩音…私も、楽しかった」
こんな、砂で埋もれた世界でも。
私以外、生身の人間がいなくても。
どんな形でも、彩音と話すことができた。
それだけで、今は十分だった。
「水葉」
そんな私に、感情を殺した声を発するソフィー。
「な、何?」
「隠していたつもりはありません。けれど、あなたに会わせていない人がいます」
「え?」
私に、会わせてない人。
そもそも人がいたのか、じゃあなんで話さなかったのか。
いくらソフィーでも、そんな人がいるなら先に話すはずなのに。
「…人というより、これからのあなたと言った方が正確ですが」
これからの、私?
「一度、私の城に戻るとしましょう」
「うん…」
もう、思い残すこともない。
少しずつ、砂の体へ変わっていく時間を待つだけだと思っていたのに。
ソフィーは何を伝え、何を見せるのだろうか。
─手に彩音を乗せても、考えがまとまらなかった。
第十話 砂になる前に、選んだこと
砂の城へ戻るのは、ずいぶん久しぶりに感じた。
数時間ほど城を空けることは珍しくない。けれど、半日近く戻らないとなると、砂兵達の様子が気になった。
彼らにも、彼らなりのやり取りがある。
顎に手を置きあたりを見渡してみると、相も変わらず、砂の廊下に並んで私達を迎えてくれた。
柱より背が高い兵、大きな兵の肩までの身長、彩音のような小さな兵まで多種多様だ。
そんな彼らに、いつも通り声をかける。
「ただいま」
私の言葉に、兵達は跪く。
「…何も言わないから」
後ろで細々とした声を出す水葉。
「以前までは、彩音もここの一部に混じっていました」
水葉を見つける前、欠損した部分をこっそり治した記憶が蘇る。
「…やめて」
水葉の声が、背中に落ちた。
最後だけでも、失言は控えたかったのに。
「ごめんなさい、水葉」
「…」
さらさらと音を立てながら、二人であの場所へ向かう。
外に出た時、毎回報告を済ませる玉座の元へ。
水葉が寝ていた時にこっそり報告したものの、まるで信用してくれなかった方。
会わせる機会もないまま、結局、あの方と同じ運命を辿ろうとしている。
どうして、私はいつも形だけを保ってしまうのだろう。
こんな世界に、都合いい話など求める方がおかしいのだろうか。
ぼんやりとしたまま歩いていると、
後ろから水葉がこそこそと声を発する。
「…いつまで歩くの?」
強がるような声だった。けれど、足音だけは私の後ろから離れなかった。
「もうすぐです」
そして、長く変わり映えのない廊下の先。
黒い砂がこびりつき、中心で鎮座し続ける王様がうっすらと見える。
水葉も気づいたのか、手に持っている彩音を落とさないようにそっと包む。
久しいようで、見慣れた方。
目を閉じた王様に、声をかけることにした。
「王様、お久しぶりです」
「…ソフィーか」
纏っていたであろう鎧、光を失った王冠、黄土色のマント。それらはすべて、砂の影響で単色に移り変わってしまった。
王様の目は、もう誰かの姿を映さない。だから、私が言葉にしなければならなかった。
「水葉という人間を、ここに連れてきました」
「…何?」
僅かに目を開く王様。
砂を纏った目の中央に、濁った翡翠色を光らせていた。
「こ、こんにちは…」
弱々しい水葉の声。
それに構わず、王様は唯一動く口で水葉に伝える。
「まだ、人の形をしているのか」
「人の形…」
水葉は言葉を飲み込み、目を凝らして王様の姿を観察している。
口を挟んでいいのだろうか。
二人の様子に腕を組んで考えた後、口を閉ざす。
私が出すより、二人で話した方がお互い納得できるはずだ。
「…もうすぐで、私もあの子達と同じになる」
水葉のきっぱりした声に王様は、ほんの少しだけ沈黙した。
「そうか」
王様は、懐かしむように息を落とした。
「あなたも、ソフィーに変えられたの?」
「…あの者達とは、違う形でな」
─そうだ。
私の中で、あの時の記憶がうっすらと蘇る。
最初に砂兵にしようとして、最初に失敗した記憶が。
「世界戦争があったことは、知っておるか?」
「…うん」
「あの時、私は必死だった…逃げ惑う兵に構わず、自分さえ生き残れば、再築できる。そう信じてやまなかった」
周りが、人間だった頃。
太陽の日差しが差し込んだお城の中で、私の前に立ちはだかった兵達は、腕を振るだけで形を崩し、やがて砂の存在に変わっていった。
長い廊下を歩いていると、奥で騒ぎ立てる男が血眼になりながらあたりの兵に指さしていた。
「え…?ということは、あなた、まさか」
口を開く水葉に対し、深いため息をつきながら言葉を発する。
「…私も元は、この地を治めていた」
「…」
周りと同じように砂兵へ変えようとした途端、王様は玉座から転げ落ちるように跪いた。
あの時こそ、その執着だけが他の者達とは違って見えて、人間のまま生き永らえようと努力はした。
でも、実際はこのありさまだ。
腕さえもまともに動かない王様に、心のどこかで罪悪感が芽生える。
「…あなたとは、違う」
その時、水葉が手に持つ彩音を大事に抱えた。
「彩音は、私を助けようとした。自分じゃなくて、私を」
水葉の言葉に、彩音はその場で跳ねる。
まるで、その通りだと言うように。
しばらく、砂を踏む音さえ聞こえなかった。
「…水葉と、言ったか」
「はい」
「私は、生きることだけを望んだ」
「…うん」
「だが、残ったものはない。民も、国も、名も」
「…」
「お前は、何を残したい?」
何を残すのか。
こんな私だが、水葉の答えを聞いてもいいのだろうか。
でも。
「…聞いていいよ」
泣きそうなくせに、水葉は笑っていた。
その笑顔を見ていると、心のどこかでほっとする自分がいた。
「私は……」
胸が跳ねた。
私に心臓なんて、あるはずもないのに。
それでも、固唾を飲むように水葉を見守っていた。
「…人として、生きる」
─え?
どういう、ことだろう。
「それも、一つの道か」
王様の淡々とした声も、頭からするっと抜け落ちる。
彩音もまた、水葉の手で身動き一つ取らなかった。
「水葉?」
水葉の目に水が溜まり、彩音をそっと廊下に降ろす。
どうして、彩音を降ろす。
どうして、私に寂しげな目を向ける。
「彩音がくれた時間を、私が使う」
丸い背中を見せる水葉。
背中にも、微かな砂粒がついていた。
「砂になっても、忘れない。だから…私は、人間として生きる」
だめ。
今まで、一緒に過ごしていたじゃないか。
初めて砂のベッドで目を覚ました時。
砂嵐の中、一緒に建物を探した時。
建物の中で、別々の廊下を歩いた時。
それでも、水葉は戻ってきたじゃないか。
砂兵になっても、一緒に過ごすことはだめなのか。
「水葉!」
自分でも、驚くほど声を張り上げていた。
それなのに、床に置かれた彩音は私の足を力なくつまむ。
「え…?」
水葉が、廊下から遠ざかっていく。
今まで一緒にいた水葉が。
私は、ただ仲間が。
─いや、言葉を交わせる人間が、ほしかっただけなのに。
どうして、どうして。
「っ…」
私は、また一人になる?
水葉と会う前と同じように、誰もいない砂嵐の中歩き続けるだけ?
もし何か一つでも違っていたら。もしこの地が砂に埋もれてなかったら。
膝から崩れ落ち、その場で倒れてしまう。
冷たい砂も、私と同じ一部。
─その時。
遠ざかっていたはずの足音が、いつの間にか戻っていた。
「…忘れてた」
「あ…」
温もりのある声。
水葉の声が、頭上から降りてきた。
何を、忘れていたのだろうか。
「あんたといると、ほんっとうに疲れた」
「…」
「私の気持ちも考えず、ずたずたと無神経なことばっかり言ってさ…」
本当に、そうだ。
いつもいつも、水葉を怒らせては、理解できなかった私。
「…でも、嫌いじゃなかった」
「水、葉…」
自分でもおかしいほど、声が途切れる。
「あんたと歩いた時間も、私がもらった時間だから」
「だから…忘れないで、私と過ごした時間」
水葉と過ごした時間。
半日もなかった。
それでも、水葉は砂に沈んだ感情を呼び起こした。
「はい。水葉…忘れない、から」
言葉に出すと、こんなにも。
こんなにも、胸が温かくなるのか。
私の言葉を最後に、
今度こそ、水葉の足音は遠ざかっていく。
しばらくの間、廊下で突っ伏していた。
最初こそ肩一つ動かなかったのに、だんだんと体が震え始める。
思い出すたび、目が熱い。
でも、出てくるものは白い砂だけ。
「…水葉」
彼女が覚えていなくても、私だけでも記そう。
こうしてはいられない。
体を起こし、近くでうろうろしていた彩音に手を差し出す。
「…どこに行くのだ」
王様の淡々とした声。
「少し、記そうと思います…しばらくの間、顔を出せないので」
私達も、玉座から去る。
砂世界に足を踏み出した、水葉に想いを馳せて。
エピローグ 人間と旅した記憶
「…ふう」
一通りまとまった。
手に持つ羽付きペンを机に置き、近くで座る彩音に紙を見せてみる。
一日一文字ずつ、彩音に教えてもらった。
彩音に教えてもらった「ひらがな」だけで書ききる。
水葉にとっても、きっと嬉しいことだろう。
彩音もまた、机の上でぴょんぴょん跳ねている。多分満足しているはずだ。
─かと思ったら、最後の文を目にしてぴたっと動きを止める。
そして、文字の「わ」の上を必死に踏んづける。
「あ…「は」でしたか」
慌てて書き直した後、今度こそ完成した。
「…では、読ませていただきます」
文字が見づらい彩音のため、
私の文字を、ゆっくりと言葉に出すことにした。
わたしは すなだけのせかいを ひとりであるいていました。
だれもいない。いるのはうごけないおうさまだけ。
なにもないひびをすごしていると すなのうえにひとりのしょうじょ みずはがねていました。
みずはをしろにつれて わたしはうれしかった。
そのご、みずはといっしょにおしろをでて すなせかいをたびし あかいすなでつくられたたてものをみつけました。
途中まで区切ると、彩音がその場でぴたっと動きを止める。
そうだ。
あの場所は、彩音にとっても苦しい場所だった。
「…続き、読んでもいいですか?」
微笑みながら聞き、続きの文を読み上げることにした。
たてもののなかにはいろうとしたが みずはは ひとりでうごきたがりました。
そのころのわたしはひらがなをよめない どうすればいいかこまっていると みずはのひめいがきこえました。
すぐにいきたかった。からだがかってにうごいていた。
いまおもえば みずはをまもりたかった。
みずはのきょうしつにむかうと みどりいろのかべにみずはのなまえがありました。
はじめてしりました。このたてものは がっこうというみずはたちにとってだいじなばしょであることを。
そるとだったあやねもきょうしつでしょうたいをおしえてくれました。
あやねはいまでも ここにいます。
やさしくて だいじで
みずはの しんゆうです。
「…」
この箇所は、彩音が必死に飛び跳ねて一緒に書いた。
水葉は、人間だった頃の彩音と日々過ごしていた。
今思えば、お互いが羨ましくて仕方がない。もし、私も混ざれるのなら。
「…今さら、ですね」
微笑みながら、続きを読み上げる。
そのあと わたしはつかれてねむってしまいました。すなのかたちをたもつのは めんどうであるといまもおもっています。
ねているあいだ
わたしは むかしのことをおもいだしました。
あやねと みずはと わたしが
はなしたときのことです。
みずはをまもるため、あやねたちがすごしたじかんをもとに からだだけでもいじすることにしました。
いまおもえば よくもこのじだいまでからだを たもてたものです。
しかも わたしのもとのなまえ いぐのらんす から そふぃー というあたらしいなまえをもらいました。
いぐのらんすはむちとおしえてもらいましたが そふぃーのいみはいまだにわかりません。
あやねにききましたが なぜかつくえにもじをかいてくれません。
「いい加減、教えてください」
彩音はただ跳ねるだけ。
イグノランスは無知なのは、嫌でも叩きこまれてきた。それなのに、ソフィーの意味がわからないのはもやもやする。
「…逆の意味、でしょうか」
そうなると、「知恵?」
飛躍しすぎか。
とにかく、続きを読む。
ゆめからさめると
みずはが まっさおなかおで もどってきました。
わたしだけでなく
あやねまでおいて はしっていきました。 あんなみずは さいしょでさいごです。
でも もどってきてくれました。みずははつよいです。
わたしはきょうしつからでて ふたりのはなしをだまってきいていました。
みずははもちろん あやねのくるしさ みずはをおもうきもちがひしひしとかんじました。
わたしはなにもいいませんでしたが にんげんのかんじょうが かすかによみとれたしゅんかんです。 くるしいことが ふたりにとってただしいみちであったかのようにおもいます。
わたしもきょうしつにはいったあと あやねからあずかったでんごんをはなしました。
めをうるませたあやねは
たしかに たのしかった とつたえてくれました。
あやねがもういちどくちをひらいたら かのじょはなにをはなすのでしょうか
「…ね、彩音」
水葉のように、言葉を発することができない彩音。
それでも。
今まで跳ねて、体を震わせて、机に文字を書こうとしてくれた。
今思えば、話さなくても伝わるものがあったかもしれない。
さいごに みずはには わたしがさいしょにてをつけたおうさまにあわせました。
かれのまつろをつたえたい そのうえで みずははなにをえらぶのかをみたい。ただ しりたかっただけでした。
みずはが なにをえらぶのかを。
みずはは にんげんとしていきる。 あやねのじかんをつかう。 すなになってもわすれない。
いまおもえば あのときのみずははかっこよく あやねのきもちをそんちょうしていました。
しかし あのときのわたしはぜつぼうしていました。
せっかくなかまが ことばをかわせるにんげんがほしかっただけなのに。
ひとりになる だれもいないすなあらしをあるきつづけるだけ。
しかし みずははこえをかけてくれました
あんたとすごしたじかんも わたしがもらったじかん
いまでもおもいます なにがあっても どんなことがあっても
わたしは みずはとすごしたじかんをわすれることはないでしょう
ここにしるしておけば たとえきおくからぬけおちても ふりかえることができる わたしはしんじています
「…おわり」
その途端、彩音はぴょんぴょん跳ねてくれた。
声に出すと、思ったよりも疲れるものだ。
彩音が、紙の端を小さく踏んだ。
まるで、そこに水葉がいるかのように。
私はその紙を、そっと束の一番上に置いた。
外では、今日も砂嵐が吹いている。
けれど、その音はもう、前ほど静かではなかった。