
見えすぎる世界と、見える私の範疇。
ちょっと前に、人しかいない、人だらけの原宿を歩いた。人間観察をするのが好きなのに、この街は観察どころではないし、気張ってしまうし、すれ違った人の顔はぼやぼやで、当分歩きたくないとすら思った。
次の日はぼやけた顔の人たちに圧倒されたのか昼過ぎまで眠り続けてしまい、アラーム無し早起きの連続記録のストップ。
それから数日後、太陽のひかりが私に届く雨の日は遠回りして駅まで歩いている。
川沿いの道には大人用の傘をさしている小学生がひとり、川を見ながら歩いていた。後ろ振り返ってみたけど、買い物帰りや学校帰り、走ってる人も犬もいない。
目に入るものは、ぼやぼやしている。それは私の視力が悪いからで、見たものはちゃんと残っていく。見たいものはちゃんと見てるし、感じられる。
桜が散り始めた頃、わがままに、でも責任はそのまま持って過ごすようになった。自分のことだけ見てるし、感じてる。
情報の正しさを信じ、正義のぶつかり合いには思考を巡らせ、中に入らず頭だけ参加する。はぁ、懐かしい日々。
今は自分の範疇を超えたものは放っておく。訳のわからないことには手をださない。
だめなんだろうか?
「嫌なものは嫌なの」とか「ダメなものはダメなの」っていうのは。正しさより素直さが良くすること、ある気がする。まだ言葉にできないんだけど、あるはず。自分のなかではわかってるんだけど、上手くでてこない。
言葉っていい加減で適当なものかもね。
自分のことだけ見つめる今は、からだと心に優しくなれた。食べるものも変わったし、からだの余計な部分も取れてきた。自分のことばっか見ているようで、周りも見えている。
見えすぎるものと、見えるものは違う。
人間観察どころではなかった。あの人の量は私の範疇を越えていた。
だから原宿は楽しくなかったんだ。住んでいる町のほどよさが私には合っているみたい。
そこでは、色んな人を見て想像を繰り返すことがでる。
幸せをお裾分けしてもらったり。着ている服装から、その人の今日を感じ取ったり。苛立ちながら歩いている若者には心の中でエールを。
そういえば、たまに思い出して考えていることがある。フォックス型のサングラスにTシャツ姿の男の人。胸に縦に書かれていた「勝利は敵だ」の意味が、掴めそうで掴めない。
勝者になることが目的になると、自分より勝利を見るから敵なの?
勝利したらそこで終わるからトップに立つなってこと?
勝ち負けの二元論への警鐘?
もしかして、ただの負け惜しみ?
どういうことなんだろう。