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右頬黶女

    〈あらすじ〉

    右頬に性感なホクロのある三十歳の彼女は、国内大手通運会社の課長として充実した日々を送っていた。だが、同棲していた婚約者に裏切られ、深い傷を隠すように眠っていた父性に抗うと、出張先で台風に遭い、停車した新幹線の駅に迎えに来てくれた支社の部長と、誤解を招いたまま一夜を過ごして、互いの想いが交錯したまま別れたのだった。好色な上司により彼女は次第に体調を崩し、何とか復調したものの、今度は若い女と仲良さそうにする部長を目撃する。上司の不可解な事故に遭遇すると、怒り狂った上司の妻は、彼女を不倫相手と勘違いして会社に乗り込み、公然と彼女を平手打ちするのだった。たえず見守る七艶洞とは一体…。



                                                             〈1〉


     1303号室の女はすでに冷たくなり始めていた。七艶洞からは統一された見解はなく、客観的に述べれば彼女は不幸だったのかも知れない。
     同棲も二年を過ぎて、いよいよ結婚も視界に入りだした頃、混沌としてふたりの方向性を分けさせた新婚旅行のプランが痛かった。彼女は正式なプロポーズ後、南国のビーチに飛び立ちたいと思っていたのだが、相手の方は今すぐ旅に出よう、ツアー会社にアクセスして旅行チケットを確保だ、と息巻く始末。彼女は大学時代からどこかズレを感じずにはいられなかった。暑い夏の食堂で、皆が冷やし中華の列に並んでいる時、彼は麻婆拉麺を大汗を垂らしながら食したり、別に体調やあえての選択を考慮する行動を否定するつもりもない、真冬の寒空の下、冷たい缶珈琲を差しだされる了見を得ていないこちら側の問題と言われてしまえばそれまでなのだけれど、かじかんだ手を温める事も出来ない虚しさは、ハンサムな顔と人一倍優しい人柄で埋めるしかなかったのだから。ひとりで朝を迎えて、テーブルの紙片を読むと、カウンターパンチを浴びて何とかナインカウントで立ち上がり、もう一度文面を目で追った。〈ちょっと下見してくる〉彼女は急いで新婚旅行、下見と検索した。冷静に画面をスクロールして、決してありえない行動ではないと思いつつも、ふたりで初めて見る景色や文化を共有する感動はどこかへ行ってしまうのではないか、いや百歩譲ってそれを元にして素敵な新婚旅行のプランを構築してくれたとしても、いったいどこにそんなお金があるというのだ。ふと、彼女は箪笥の引き出しを開けて貴重品の箱が不自然な事に気づいたのだ。ちょっと、ちょっとちょっと、現金で百万はあった封筒が見つからない。彼女は慌てて彼に電話を掛けた。話し中だった。七艶洞としては、ここからの彼女の反撃に期待したいところだったが、剥がれたメッキはさらに加速して、落ちた通帳が残高をめくって見てと囁く幻聴さえ漂い始めた。嘘、嘘でしょ、その後は怒涛の展開が急ピッチで構築された。数人の警察関係者が訪れて、結婚詐欺の疑いで相手が指名手配された事、同様の被害女性が自分以外にも何人かいる事を知らされた彼女は、完全にノックアウトされ文机に突っ伏したのだった。ここからは脳漿を通過しただけで、まともな記憶は彼女によって廃棄され、すべて思い出したくもない遺産として、触れてはいけない人生の汚点として、家族、親戚、会社の社内掲示板に至るまで、公に取り立たされるのをあらゆる方法で排除した、奮闘の記録でもあるのだ。国内屈指の大手通運会社で本部勤務の課長といえど、これまでの貯金を持ち逃げされてまで、経済的な余力は残酷なまでに厳しいのである。地方にいる母への仕送り、見栄を張って住んでいるマンションの家賃、その他主に酒代に支払うとこれは危機的な状況と言えるのではないか。彼女と同期で未だ平社員の男によれば、失恋して仕事をミスするような女ではない、むしろ公私の切替が抜群に長けている印象すら覚える。極端な話、出退勤や昼食、休憩時間に多々話していた時だって、普段と何ら変化は見られなかった。目を赤く染める事も無ければ、携帯を気にする素振りも見せない、深酒もせずにむくんだ顔で職場に姿を見せた事など一度もなかった、と彼女の徹底抗戦によって、この件に関しては収束したかに見えた。鉄の女と化した彼女は一年後、新たなタスクフォースチームで恵まれない上司のもと、内心苛立っていたのだった。事あるごとに、彼女の提案事項を我が物顔でプレゼンする男は、社内でも五本の指に入るぐらいに好色で、悩ましく生理的に拒否反応すら示してしまう。彼女は上司のデスクに呼びつけられる度、上から下まで観察されている事を黙認している。せめてもの抵抗はスカートを穿かない事と、香水をつけない事だった。小言よりも、繁殖期で雌を探し回る雄のような全方位の飛びだした眼球は、彼女の私生活さえも脅かす力を放ち、内心ナゼ今まで彼の悪行に気づかなかったのか、仕事以外は甘えた猫のように主人の足元にすりすりして、自分を見失うぐらいに愛に溺れていたとしか考えられない、と言った上司の発言が今にも語られそうで、徐々に鉄の鎧にも陰りが見え始めた。何としても過去の醜態を悟られぬように、手柄を横取りされようが視姦めいたハラスメントを受けようが、上司を失墜させるだけの材料が彼女の手元には完全に揃わずに、悶々とする日々だけが過ぎようとしていたのだ。ただ、彼女がいくら上司の目から逃れようとしても、好色の猛者でもある卑猥な目からは、彼女のパンツスタイルや、透けそうなシャツで充分に満たされるのだった。豊満な乳房や臀部は隠しようもなく、細いウエストと相まって彼女はスタイルが非常に良く、上司にとってはそれで充分だったのだ。さらに言うと、艶めかしい顔立ちに加えて、右頬にあるホクロが上司にとってはこの上ない喜びと性感のターゲットになっているのだ。つまり、美人な部下を虐めて楽しんでいる変態野郎であり、七艶洞としても彼女の男運の引きは、科学的に証明出来ない事象に発展せざるを得ないか、何らかのベクトルによる変換点でも訪れなければ、精神衛生上酒量は勿論、若い肉体をいつまでも既婚で性悪変態上司の目に晒させておく道理はないのだから。未だ逃走中の元彼と、最悪の上司によるクズ男の共演は、メンタルの崩壊における序曲のような彼女にしか聞こえない周波数で、地方出張の新幹線に考えられない停電を引き起こし、支社の部長が下車した駅まで迎えに来てくれたのだから。部長のプライベートな車は上質な空間を演出して、公共交通機関に慣れている彼女はふたりだけの密室空間に緊張し、柄にもなく声も裏返って、えっ、部長の家にですか? 停電の原因は大雨と落雷。市内全域は真暗で、足止めされた駅では多くの乗客で大混乱に陥り、代替のバスを待つロータリやタクシー乗り場は長蛇の列、近隣の宿泊施設は停電と一部に浸水被害も起きて、泊まれる見込みは望み薄の為、彼女は緊急連絡先に電話を試みたのだった。繋がって、念が通じたのか手短に状況を伝えると、すぐに向かうとだけ伝えられて切れてしまった。駅構内に浸水が始まり、駅員たちが土のう袋を正面入り口に積み上げ終わった頃、彼女は携帯が機能していない事に気がついた。通信障害だという声があちこちから聞こえ、彼女は焦った。いったいどうやって部長は自分を探すのだろうか、連絡手段がなくなった今、探し合える外見上のヒント。多くの帰宅困難者で埋め尽くされた駅構内、彼女は階段に座りこむ大勢の群れの端に残された道を駆け上り、大きな窓ガラスからロータリを見下ろした。大雨の中、動かないバスやタクシー、屋根の下で身を寄せ合う人々、カオスな光景を目にして、絶望の淵に足を載せてしまった事に不安が押し寄せ肩を掴まれた。お待たせ、花火大会でもここまで混まない。ペアルック、会社の作業服を部長も着ていた。いつもキャリーバックのなかで出番もなく眠っていた少し大きめの上衣。蒸れる構内では暑いぐらいだったが、彼女は青地に背中の大きなロゴが特徴的で、ごわごわとした袖を捲りあげながら、少しだけ涙ぐんだ自分の目を擦った。部長は何も言わずに彼女のキャリーバックを持ち、心もとない手を握ってくれた。はぐれないように、という事以外に不思議と疾しい気持ちにはならずに、彼女は久しくなかった男の感覚を指先で感じつつも、部長の手を強く握った。よく見ると、彼は長靴を履き、会社の作業ズボンという出で立ちだった。どこか現場にでも行っていたのだろうか、近づくと汗と煙草が混じった匂いがした。決して嫌ではない、どこか懐かしささえ覚え、いきなり立ち止まった部長の背中に抱きついてしまった。裏側に面したロータリの先、ハザードの車列の真ん中あたりに部長の車はあった。登り勾配のせいか、いくぶん足元に大きな水たまりのような行き場のない液体が溜まっていた。彼女は部長の視線が自分のパンプスに向けられているのを、愛想笑いで返すしかなった、お姫様だっこよりはいいか、はい? 彼女は次の瞬間、幼少期に父親におんぶされた以来の体勢でしがみつくしかなかったのだった。あの、部長、私重いですよ、せめてキャリーバックだけでも。動かないでしっかり掴まって、大雨に濡れながら部長はバシャバシャと車列の脇を勇猛に進み、荒い息遣いだけがピタリと重なった身体に伝わる。まさしく七艶洞にしてみればこの上ないシチュエーションなのだが、これは運気が好転したとは言えない切実な悩みの種がひとつ増え、より一層彼女にとっては辛く悲しい現実の追加オプションの類でしかなかったのである。部長の家にですか? 高台への道中、思わず声が裏返った。家族用の社宅で部屋が余っているから、部長はハンドルを握りながら淡々と答えたのだった。いくつもの不安が積み重なり、目的地の平屋に着いた時には夜の九時を過ぎていた。玄関ではなく車庫の勝手口から招かれると、部長は発電機を動かして、室内にキャンドルを灯してまわった。シャワー使えるから、部屋はここ、非常事態という事案は時として秘密裏に遂行され、互いの暗黙の了解のもとに成り立っているのではなかろうか。父性が強く根幹の恋愛意識に作用している彼女にとって、部長のような男性はまさに大事故の起因に通ずる不明瞭なメタファーとでもいおうか、七艶洞としてもまさかこのふたりが今夜の出来事で互いを意識せずにはいられなくなろうとは、落雷の場所を特定する事よりも愚かな考えだった。男女とはまさに、いついかなるタイミングで惹かれ合うなどという事は、真水のシャワーを浴びるよりもたやすいのだから。もはやこうなると神のいたずらとしか言えない事象の流れと、部長への彼女のこれまでにない男性に対する不確定要素が崩壊に向かって、イレギュラー条項を発動した鉄の女の新たなフェーズに突入する。極論、すべての好意を否定し続けることは彼女にとって朝飯前であると共に、非常時で済まされる事でない事も部長は重々承知なのだ。ならば、あの駅構内で酸欠になりながら朝まで眠れずに過ごすのが、賢い独身女の選択かと言われれば、必ずしもその答えは彼女のなかで揺るぎない正解ではなかったのだ。彼女はクズ男を引き寄せてしまう女である以上、口が裂けても言えない感情が奥底から這い上がって来るのを感じたのだ。部長には上司のようなギラついた眼差しはなく、婚約者だった男のような若くて甘いマスクこそないが、悪天候のなか自分のような立場の人間の為に、わざわざ迎えに来てくれるのだから、もし彼女が逆の立場だったら、若い男性社員を自らの部屋に泊めるだろうか。それこそ誰とでも寝る女上司として次々と若い男性社員に言い寄られ、その噂を聞いたモテない女性社員が社内掲示板に投稿して大炎上し、査問委員会にすらかからずに解雇されるのが終着駅であることは明白だ。であるのであれば、部長にその兆候が見え隠れしそうな場合は自分が何とかして止めなければいけないのではないかと、その件に関しては七艶洞も同調する方向で一致したのだった。シャワー空いたよ、上裸の部長がバスタオルで髪をゴシゴシしながらいった。メシまだでしょ、適当に作るけど嫌いなものとかある? 部長は冷蔵庫から缶ビールを取りだしていった。彼女は思った、フリーズして思ったのだ。違和感、そう、部長が自分に対しておよそ恋人のような立ち振る舞いと会話に、違和感を感じずにはいられなかったのだ。あ、あの部長、彼女は嚥下して再び脳漿を高速化する、もしや女として見てないのか、であるならばすべてが頷ける。もしや部長はそっちの、今までの経験上あまり関わったことがないカテゴライズに彼女は、着替えを持ってバスルームに消えたのだった。この時、彼女は知るはずもなかった、上司が部長に対して内々にして嘘をついた、彼女が同性愛者であるという共有しなくても何ら問題のない個人情報を、電話口で椅子に仰け反りながら言い終えたのだった。部長は当初、何とか女性の部下のアパートにでも彼女を泊めるつもりで、大雨のなか駅に向かっていたのだが、ふとそういう事ならば彼女も意識するという考えは、この由々しき事態に関しては懸念する可能性は低いと判断したのだった。まあだからと言って、彼の方からどうこうしようなどという気はさらさらないのだが。とにもかくにも、七艶洞がふたりの思惑に対して公的機関としての助言や世界線の修正を非協力な意思として、上司の悪態に振り回される事だけは避けなければならない。あくまでも彼女自身の意志を尊重せねば、到底成り立たない世界なのだから。とりあえず乾杯、彼女と部長はダイニングテーブルに向かい合って椅子に座り、ビールを飲んだ。頭をタオルでターバン巻きにして、悩んだ末のシルクパジャマな彼女は、熱いシャワーを浴びている間、この状況がもう二度とないケースとして慎重に思案した結果、なるようにしかならないという、非常に抽象的で曖昧な結論に達したのだった。なぜなら、空腹とアルコールの欠如に始まり、脳が思考を放棄したのだから。美味しい、具材たっぷりの焼きビーフンをひと口食べた彼女がいう。小麦粉が食べれないからさ、ゴメンね。部長は二本目の缶ビールをグラスに注いで、雨は止んだみたいだ。天井を見ながらいう。きれいにされてるんですね、週末に奥様とかいらっしゃるんですか? もうすぐ引越すから物が少ないだけだよ、それに元妻は家事に向いてなかったみたいだ。あっという間に平らげた部長は、吸っていい? あっ、どうぞ。彼女は痛恨のミスをした。すきっ腹に勢いよくビールを流し込んで彼女も二本目を半分ほど空けると、奥様、元妻という単語に引っ掛かった。建前上のカモフラージュ婚、まさかそこまで徹底しているのか、しばし焦りの感情が三本目を欲しがる。紫煙がゆったりと宙に漂いだして、ふと心地良い安堵感が両肩から出現して焦る。この状況を歓迎しているもうひとりの自分が、何やら良からぬ事でもしでかさないか、不安感も負けじと存在をアピールしてくるではないか、いったいどうしたんだ、彼女は思わず、焼酎はアリますか? と訊いてしまった後に、安堵感が勝ち誇ったようにニヤける。ええ、と答えた部長は冷蔵庫から緑壜をふたつ掴み、ダイニングテーブルの中央に置いた。ショットグラスに注ぎ、もういちど乾杯した。何に対しての乾杯かは重要ではない、男性とサシで飲む事を、これほどまでに無抵抗で行える自分に酔いそうで、彼女は徐々に気持ちの箍が外れ不安感が優勢になりつつあるのだった。ほろ酔いから要注意な領域に向かいつつある彼女は、だんだんと部長の顔が初恋の男の子に似ているのではないかと、眉間に皺を寄せてまじまじと見てしまうのだった。小学三年の時に転校して来た、〈横浜賢太〉都会っ子全開で地方の片田舎にやってきた彼は、背も高くあっという間に男子の中心的存在になり、かっこよすぎる顔と運動神経の良さで、女子たちの憧れの的となったのだ。ハマケンは、あっ、当時みんなはヨコハマと呼んでいたのだが、彼女だけはハマケンと呼んでいた。それは彼が当時流行っていたコメディアンと同じような響きが許せず、不注意にもハマケンと呼んだ子は、男子なら給食の牛乳を黙って献上し、女子なら帰りの駄菓子屋で棒ジュースを奢らなければいけなかったのだ。ナゼ彼女だけが許されたのかというと、彼女が住んでいた公団に彼が夏休み中に越して来て、しかも同じ棟の同じ階で、お父さんとお母さんに連れられて挨拶に来てくれた時、お嬢ちゃん、ハマケンの事よろしく頼むね。と面と向かって言われ、彼女も当時はイケイケの小学生だったので、よろしくハマケン、といって互いの両親が微妙な雰囲気になったのだった。しかし残念ながら、お母さんが御用聞きの酒屋の息子と不倫してしまい、冬休み前にはよその学校に転校してしまった。風のうわさではその後、ハマケンは両親の離婚によって親戚の家々をたらいまわしにされたとか。どう考えても目のまえにいるのはハマケンではなく、高校時代に隣に住んでいたヤンキー桐島の方に似ているのではなかろうか。公団から郊外の貸家に移った頃、地元で名を轟かす年上の男子がいたのだ。小中高と学校では番長を務めて、向かうところ敵ナシだった彼は、卒業すると日雇いの仕事をしながら唯一の肉親であるおばあさんの為にふたり暮らしを始めたのだった。パンチパーマに薄茶色のサングラス、ニッカポッカに原付で現場に通い、仕事はいたって真面目で、おばあさんはウチの孫がやっと改心してくれたと喜んでいたのだ。だが、梅雨の終わりに黒塗りの高級車が何台も停まり、いかにもヤクザといった人たちが家のまえたむろしていたのだ。お父さんとお母さんは、とうとう迎えが来た、スカウトされたんだ、などといってカーテンの隙間からおどおどしながら見守り、彼女は二階に上がって窓ガラスからヤンキー桐島の部屋を見たのだ。彼はいかつい肩パットが入った仕立ての良いスーツを着て、白髪のひとに頭を下げていた。まもなくしてヤンキー桐島は、おばあちゃんに現金で帯封五つを渡し別れを告げたのだった。とび職から本職に鞍替えを果たし、最後に見た時には、パンチパーマからアイパーに変わっていた。高校生の自分にはさほど違いは理解できなかったけれど、サングラスを外して、じゃあな、といわれた最後の挨拶に、震えるほどの貫禄とヒットマンのような眼が、近所の人たちをも震え上がらせ、実はハンサムだという事がバレたのだった。そう考えると自分は硬派でどこか危険な香りのする男に惹かれる生物上の懸念がありそうだ。しかしそれは、何ら成就しない実しやかな空想と思いこみの負の連鎖であり、甘いマスクの好青年やイケメンと称される男子の方が遥かに素敵で、理想であることは否定できない根幹であり、言うなれば、無理やり半ばこじつけでそう思いこんでしまうマインドに誘導されつつあるのか、だとしたらこの状況は非常に危うい時間帯ではあるのでなかろうか。七艶洞としても彼女は結構な酒量を体内に供給し、頬は僅かに赤みを帯びて、胸元がだいぶ開いて来たような感じすら覚える。彼女はいつもならインナー姿になって最後の追い込みに掛かる所だが、あいにく自分の部屋でもないのに通常ルーティンに持ち込むには、流石に理性が効くと思いきや、両手をクロスしてパジャマを脱いだのだ。たわわな乳房が揺れ、彼女は豪快に焼酎のグラスを煽り、煙草一本もらえます? と谷間に上目遣いの悩殺ポーズで部長に訊いたのだ。本来であれば大抵の男どもはここで理性を失い、明日のわが身も考えずに欲望の赴くままに突っ走るはずなのだが、如何せんこの部長は、彼女の上司が放ったひと言に寄って、まったく気にせず箱ごと彼女に渡したのだった。こうなると七艶洞としても新たな分岐点を設けなければ、この一連の無効試合を正常な状態に修正するのは、再び彼女にパジャマを着させるよりも難題といっていいだろう。鉄の女がここまで乱れてしまった要因としては、普段からあまりにも上司による無差別的な性への執着を防御するあまり、初対面ではあるが父性フェチと今夜の非日常な出来事が、本来の防御シールドを発動できずに、つもりに積もったバイアス調整が幸福方向に本人の意志とは無関係な事象を誘発したと考える他なかった。こうなってしまうと、彼女の独壇場と化した真夜中に、部長には気の毒だが最後までつきあってもらう他あるまい、というのが七艶洞としての総意でもあるのだった。ライタで火をつけ、細い煙を吐いた彼女は、部長は恋人とかいらっしゃるんですか? いえ、今は特に。あのー、相手の方は男性でらっしゃるんですか? 静寂。えっ? あー、オレは違います。あっでも別に良いと思いますよ、今の世のなか多様性でしたっけ、課長がその同性の方と仲良く過ごされるのは、何ら仕事に問題がある訳でもないし、プライベートに関してどうこう口をだす社会構造も違うと思うし、まあ、ここだけの話、彼も何でオレにウチの部下は同性愛者だから、と言ったのか。正直理解出来ないんだ。普通、上司だったら言わないと思うんだけど、本人が言わない限りは、んっ、あれ、どうしたの? 彼女の脳内で、何かが壊れた瞬間だった。あらゆるシュミレーションは機能せず、ただ一点の疑いだけがダイニングテーブルの上で踊りだす。彼女は震える声で切りだした、私がレズだと言ったんですか彼は? 部長は無言で肯き、ではお聞きしますが、部長は男性に興味がおありなんですよね? 部長は無言で頸を左右に何度も振った。刹那、彼女は絶叫した。真夜中にこだまする行き場のない魂の咆哮。とめどなく涙があふれて泣き崩れた。
     某日、泣きはらした顔で迎えた部長との朝が、互いを意識しすぎて事務的な会話でよそよそしくしく支社までの車中を過ごさざるしかなく、もはや彼女にとってお詫びのしようもない空気感と、部長が上司によって誤解を吹きこまれた二次災害の被災者という、これまた情報漏洩の観点からしても、断固として上司に天誅を下さなければならず、部長がどっちにつくか見極める必要もありそうなのだった。彼女は部長に昨夜の一連の行動と言動に関してはお互いに秘密保持契約を口頭で合意し、対上司について一時的な共闘をする事で概ね利害が一致した。二日間の現地調査では別行動になり、部長とはそれっきり連絡は途絶えたのだった。休日を返上して月曜日の開口一番に修羅場とさせるべく、あらゆる手段を用いて上司を追い込んでやろうという気構えでいたのだが、前夜に後輩からのメールで何やら不穏な空気が漂い始めたのだった。上司と若い女が白昼堂々とホテルから出るところを目撃したというのだった。あんな男に抱かれる女が存在すること自体、彼女にとってはコンテナに木箱ひとつ積むこと以上にナンセンスで、相手は相当な醜女であったに違いないと思ったのだ。若いという表現はいささか誤解を招きやすく、美人かそうでないか、スタイルはグラマーなのかそれともモデル体型だったのか、これは詳しく聞く必要があると、彼女は作戦を変更する事にした。だが、監査室にはいつでもホットラインで繋げられるようにしておかなければ、上司の暴君ぶりを止めることは出来ないのだから。ここで七艶洞はある推測を申告しない訳にはいかなかった、ある種の癖が上司には兼ね備えられているとして、想像するだけでも気持ち悪いのは、彼女を散々イメージして若い女の顔など部屋を暗くすれば済む事なのだ、であれば上司は彼女を抱いているような行為を繰り返し代替の若い女に重ね合わせて求め、最低最悪のクズ行為を平然とやってのけている、犯罪レヴェルの好色男なのではあるまいか。もしそうなのであれば、彼女は若い女のフィルターを通して、上司の果てた余韻に恥辱のモデルとして君臨している事になるのだ。部長には同性愛を告げ、自分の私物化した部下に近づかれぬように釘を打ったと考えると、もはやこのような男が平然と大企業の主力部門で指揮系統を采配している表の顔自体、待ったなしの一級案件ではなかろうか。見た感じですか? んー太ってなんかいないですよ、ミニスカート何か穿いちゃって結構胸もあったし、髪の毛も今流行の、そうそうあんな感じであれ? フロアのカフェスペースで彼女と後輩が始業前に喋っていると、後輩の視線がデスクの方を向いたまま、さらに驚くべき言葉が飛びだしたのだった。えっ、ヤダ、ちょっと待ってくださいよ、派遣の彼女と何か似ている感じが、あれ、先輩、先輩どうしました。後輩の指摘は間違いないだろう、後ろ姿は自分とそっくりで、他の社員からも誤解される事が多々ある人物なのだ。上司の姑息さも、ここまで来ると匠や職人の領域になりつつあるなと、彼女は派遣の子の真意を聞かない限りは、浅はかに実行すべきでないXデーの延長を検討段階に引き下げた。いつものように上司の舐めまわすような視線を、叱責に耐えながらようやく席に戻ると、内線が鳴った。外部から彼女をお願いしますという女性からだというので、はい、お電話代わりました、というと、相手はおもむろに訊いた。主人と不倫なさってるとか? 不意打ちとはまさにこの事か、背中から胃から心の奥底から、小さい頃悪ふざけして窓ガラスを割ってしまったような罪の意識が全身を駆けめぐったが、冷静に考えて自分である筈がないのだから。私じゃありません、もっと若い子です。電話の相手は少しあいだを空けて、彼女の名前を口にした。だとしても私じゃない、彼女は周到に仕組まれた上司の偽装工作に苛立ったが、どうする事も出来ずに、仕事中ですので、直接本人に訊いてください、失礼します。といって受話器を置いた。上司と派遣の子を見比べ、これ以上余計な重荷は足かせ以外の何ものでもない。気分を変えて、後輩とランチに出かけた。ビル群の谷間、街路樹が両サイドにあり、飲食店が建ち並ぶ一角の食堂は、意外に混んでいた。彼女は後輩とテーブル席で米粉冷麺を啜りながら、キムチに箸を伸ばして、引越の予約、パンクしてるわ。個人は受けないハズじゃ? 法人だけだと利益が見込めないって、自分で発言しておいて対策はこっちなんだから、現場からクレーム凄いわ、とにかく人が足りないのよ。また応援に? 後輩はレンゲをうまく使いミニ冷麺を完成させて、そのまえに上が何ていうか。仕事の出来ない上司を持つと苦労しますね、後輩はパクリと頬張り、水をひと口飲んだ。あっ先輩、そういえばこないだの出張どうだったんですか、確か台風で停電したとか? ああ、途中で新幹線が停まっちゃって、バスでホテルに。大変だったわ。彼女は麺を平らげてナプキンで口元を拭った。そうなんですか、先輩に似た人がおんぶされている駅の様子が、ニュースで流れたって。ホラ、これなんですけどね。後輩が端末を彼女に向けて、テレビ映像を撮ったと思われる画像をパラパラと見せてくれた。そこには紛れもない青の社服を着た女が、同じ社服の男におんぶされて大雨のロータリからハザードの車列群に向かって、バシャバシャと浅瀬と化した道なき道を進む様子が鮮明に写っていた。幸い正面入り口からの後方を捉えた映像であった為、男女の顔は分からない。十万人近くいる従業員から特定する事は困難と思われ、似てるかなー? こんなに脚長くないよ私。そうですか? 確かにもう少し明るければ良かったんでしょうけど、暗すぎますよねこれじゃあ。後輩は端末をテーブルに置いて、またレンゲにミニ冷麺を作ろうとしていた。彼女は居住まいを正して、ねえ、これって社内掲示板には、勿論ソッコーで上がってましたよ、そこから引っぱって来たんですから、後輩はレンゲから完成した創作を頬張った。確かに自分でない事を否定する分には誤魔化しも効きそうだが、問題は部長の方だった。しっかりと目を凝らして見ると、部長のロマンスグレイである事が分からなくもなかったのだ。勿論白髪の中年男などごまんといるが、こればかりは協定どおり黙秘か完全なる否定を期待するしかないのだった。更にいうのであれば、上司がこのネタをゆすりの対象として実行に移したとしても、動揺せずに対処する必要があるのだ。これ以上攻撃されるといくら鉄の要塞といえど、装甲を破られてしまう事はもう一杯米粉冷麺を食べる事よりも辛すぎるのだから。さて、七艶洞はもとより流れから見ても、彼女を不幸な女に仕立て上げるなどと、サイコパスな気質でヤスメルつもりすら毛頭ないのだ。彼女に対する上司のハラスメント行為にも、そろそろ何らかの処罰が待ったなしに迫る気運さえも感じずにはいられず、ここまで女性が最悪の変態鬼畜上司に虐められ、放置されている日常自体、由々しき問題であるのは季節が過ぎてゆく過程で分かりきっていた行為であり、七艶洞も本腰を入れて解決に尽力する気構えだけはアピールしたいところだが、上司の巧妙なやり口を暴露するXデーの到来を、大人しく見守るのが自然の流れといった胆の小ささよ。彼女を差し置いて摂理に反するのは必ずしも正義の使者とはいえず、因果応報の到来を待ちたいものだ。彼女はランチを終えて、後輩とエレヴェータを待っていた。扉が開き、何人かと乗り込むと、扉が閉まりそうなタイミングで上司と派遣の子が手を伸ばして、乗りまーすといった。一瞬目が合ったかどうかは定かではなかったが、彼女は隣の後輩と黒子に徹した。心中では大波の如く今すぐにでも上司の奥さんにこれが現実です、私ではありません、見てくださいあの上司の破顔した、生まれたての赤ちゃんのようなあどけない表情、今はきっと能面のような鉄壁のガードでさぞ背中の目で、こちらを気にしているに違いないのだ。課長、今度のプロジェクトに彼女も参加してもらう、資料を渡しておいてくれ。エレヴェータが中層階に着くと、上司の言っている意味が分かった。派遣の子は上司の後ろ姿を見ながら彼女にいった。正社員になったんです、これからもよろしくお願いしますね、先輩。絶対あのスケベ上司と寝たからですよ! 彼女と後輩はトイレの鏡のまえで事の成り行きを精査した。人事まで手を出すなんて、侮ってたわ。という事は逆もあるって、これって脅し? えっ? だから、その気になればどうにでも出来るって意味よ。何ですソレ、じゃあこのまま私たちはあの男に舐めまわされ続けて、毎日いやらしい爬虫類みたいな目から監視され続けるってことですか。しまいには若い女と不倫までして、いったい会社は何をしているんですか? 課長、もうこれ以上耐えられません、正社員になったという事は、私と変わらないじゃないですか。むしろあっちが気に入られている分、すぐに代理とかなったら流石に発狂しちゃいそうです。仕事ではなく、人間関係で悩む時間ほど非効率なものはない。彼女は力量不足の自分をいったん保留して、後輩の肩を優しく叩き、もうすぐ人事異動があるわ、それまで頑張ろう。本心ではなかったが、午後の仕事に戻った。万年部長が上司にとって最良のポジションだとは思えないが、今はプロジェクトで精いっぱいなのが現状だ。結局彼女は半月あまり現場とデポを往復して繁忙期を過ごしたのだった。先行で各家庭を訪問して家財の物量を計算し、当日の作業リスト作りを余儀なくされ、早朝から深夜まで忙殺されたのだから。会社用の端末を両耳に挟んで、モニターを見ながらキーボードの指先をせわしなく動かし、コンビニのおにぎりをかじりながら冷めた緑茶を啜るしかない日々、久しぶりに帰ったマンションの部屋は空気が重かった。窓を開けて空気を入れ替え、溜まった衣類を洗濯機に掛けた。熱いシャワーを浴び、ゆっくりと湯船にも浸かった。冷えたビールを風呂上りに流しこんで、充実感が眠気を誘うと、空腹がそれを許さずに焼きビーフンを作った。スーパーで百円の、ニラと人参とキャベツともやしが入った洗わなくても加熱するだけ、がウリの袋と若鶏のハツを塩コショウで味付けしたものだ。ふとあの夜が終わったと知らせる洗濯機のブザーと重なった。サンルームでハンガーを触りながら立ちすくむ。現段階でもっとも意識的に想う人は彼なのではないだろうか。この負の連鎖から救いだしてくれるのは、ドラッグストアの栄養ドリンクでもなく、海外のアイドルグループでもない、ましてや虎視眈々と犬や猫の類を、ペット不可のマンションで無断で飼おうなどと企てることでもない。いや、この思考は危険をはらんでいるのかも知れない、彼女はすべての洗濯物を裏側にして干しているなどという事は、一切知るはずもなかったのだから。ベットに倒れこみ、彼女は深い眠りに落ちた。テーブルには飲みかけのグラスときれいに平らげた皿が置かれ、ふたつの焼酎の壜はビニール袋に入ったまま、椅子に置かれていた。彼女の目から無調整のひかる何かを確認できたのは、紛れもない七艶洞ただのひとりなのだから。今はその束の間の休息をそっと見守るだけだった。翌日、昼近くに起きた彼女は遮光カーテンと窓を開け、焼酎を煽ったのだった。休日における自堕落なスタートを華麗に決めた彼女は、前日の洗い物を済ませて二本目の焼酎の壜を開け、グラスに注いだ。冷凍していた白米をレンジで戻して、塩おむすびをふたつ作り、レトルトのみそ汁に沸かしておいたお湯を入れ、再び焼酎のグラスを傾ける。テレビをつけて昼のニュース番組から始まり、トーク番組、バラエティ、情報番組、園芸、野球中継とチャンネルを次々と変えてゆくと、〈深夜の新幹線陸送 熱き男たちに密着 再〉 ローカル番組だったが、自分の勤める会社の制服が映ったので手が止まったのだった。新幹線の製造所から車両基地までの道のりを、深夜にトレーラなどを使って運ぶ。部門は違えど焼酎を嗜み、白米を頬張りながら見ていたら、見覚えのある顔がアップで映った。部長だ、ヘルメットに反射ベスト、裾をキュッと絞ったズボンに、足元はつま先に鉄板が入ったブーツタイプの安全靴だった。五六十人を指揮する輸送責任者として、インカムでドライバーや作業員、交通整理の誘導員などと連携を図りながら、夜明けまえには無事到着した。最後に、成し遂げた部長のオフショット的な映像と共に番組は終わった。仲間たちとヘルメットを脱いで煙草をけだるそうに吸い、ジュースを飲み、男性の声で、あのおんぶした女のひと誰だったんですか? 部長の困惑した顔、テロップ、この番組はご覧のスポンサーの提供でお送りしました。彼女の手からおにぎりが落ちた瞬間だった。最悪、最悪、最悪、最悪、最悪だー! 特定されているし、ナゼ最後の最後で赤子でもわかるような大きな声で、ハッキリと。最高のスタートを切っていた休日は瞬く間に青天の霹靂に次ぐ懸案事項の対抗馬として、焼酎の壜を傾けたのだが、空だった。彼女は立ち上がり冷蔵庫を開けたが、見事なまでに何もなかった。気が収まらない彼女は、部屋着のまま財布だけを持ってアパートを出た。近所のスーパーに行き、六缶入りのビールをひとパックカゴに入れ、ついでだからと適当に買い出しをした。レジに並ぶと欲が湧いてアイスが食べたくなり、男性客とすれ違った。まさか、いやそんな筈はない、再びレジの列に戻った時、男性客は会計を終えて袋詰めの最中だった。大きな背中とロマンスグレイな髪は、ラフな格好と相まって話しかけづらい雰囲気で、彼女は熱視線を送る。すると入口から男性客の名前をくんづけする女の声がした。近くに来るなり親し気に接する女、男性客も慣れた様子で相槌をうち、ふたりは外へ出て行った。氷使いますか? はい? アイスに氷は使いますか? いえ、大丈夫です。会計三千九百三十九円になります。彼女は支払いを手早く済ませ、適当にビニール袋に買った商品をつめこみ、ダッシュで店を飛びだした。左は商店街、右は大通り、正面は彼女も住むマンションがある地域、何度か人影を確認して勝負に出る。四五百メートルほど走り、六缶パックのビールが仇になって右手が悲鳴をあげると、ふたりを発見した。まるで恋人同士のような女の笑顔が息を切らした彼女には残酷すぎて、男性の顔を電柱のかげから追う。あの日の夜のように、優しくも男らしい立ち振る舞いが遠くからでも伝わる。マンションの入口へと消えたふたりを、心の整理が追いつかずに、飲んだ焼酎がせりあがり、気持ち悪い、吐きそう。彼が隣のマンションで幸せそうに暮らす事へなのか、ひとりで舞い上がっていた自分に対してなのかは分からないが、彼女は自宅に戻って嘔吐した。トイレの便座にしがみついて、とめどなく涙が流れた。顔がぐちゃぐちゃになって息が苦しくなる。肺が押し潰されそうだ、頭がグルグル回る、視界が揺れ、もう一度吐いた、が何も出なかった。唾が口元から垂れ、水洗レバーを押し、洗面所で手洗いとうがいを必要以上に繰り返して、冷水で顔を洗った。ソファーに寝転ぶと、目を閉じ、右手を額にあて、左手に携帯電話を握りしめていた。突如、彼女は意味不明な笑い声を上げ、激しく咳込んだ。こうなってしまっては七艶洞としてもどうしようもない。健全な精神をもってしても、ひとりの力ではどうしようもない出来事なのだから。夕方までぐっすりと昼寝をしていると、震えで目覚めた。母からだった、ヨボセヨ? ヨボセヨ、どうしたの元気ないわね、セクシーボクロちゃん、 用がないなら掛けて来ないで、お父さんの七回忌、来月だからね。分かってるわよそれぐらい、おんぶしてくれた人も一緒に連れて来れば、お父さんも喜ぶと思うわよ。沈黙、ヨボセヨ、ヨボセヨ、 セクシーボクロちゃん聞いてる? 八百屋の娘のりっちゃんが、見たんだって台風の日、駅で。りっちゃんというのは彼女の高校時代の同級生で、今はお婿さんと一緒に実家を継ぎ、五歳になる男の子がひとりいる。セクシーボクロちゃんの会社の社服目立つでしょう、声掛けようと思ったらしいんだけど、りっちゃんも子供が泣いて大変だったし、旦那さんを探さなきゃいけないしで、諦めたらしいんだけど。次の日の朝ニュースで何度も女の人ががおんぶされてる映像が流れてね、アレ? って思って携帯で撮った写真を行きつけのパーマ屋で見せて貰ったら、間違いなくアンタだったのよ。ちょっと暗いけど、間違いなくセクシーボクロちゃんよ。で、その男の人とはどういう関係なの? お母さんがしっかり判断してあげるから、ねっ、連れて来るのよ。彼女は生爪、生皮を剥がされている気分だった。この超監視社会は麻酔もナシで年頃の女体を何だとお思いか、メンタル云々ではない、明らかにベクトルが狂っているとしか思えず、七回忌には行くから、とだけ伝えて電話を切った。彼女は泡風呂に浸かっていた。自殺を試みている訳ではない。人生に悲観し、あらゆることが面倒になり、思いのほか自己中心的な考えに陥り、客観的に俯瞰して見れば、何ら大したことでもない、言うならば、過敏に公私の脆い部分が何らかの作用によって痛い女に成り下がり、ここはひとつ行動に移す方が手っ取り早いのではなかろうかと、長い脚を浴槽から出して彼女はニヤつくのだった。それからの彼女は柔軟にコントロールするファクター対応で、週に何回かはプールで泳いで気分転換したり、就寝前には海外小説の単行本を読んだりして、考え込む時間を減らし、週末の夜にはチキンとビールでひとり時間を楽しむ事も忘れなかった。会社にはそれまで封印していたスカートと香水も解禁して、上司も驚いていた。同僚や後輩たちからは以前にもまして、美人だ、キレイだ、羨ましい、などと会うたびに言われ、彼女は鉄の女から見事に転身を図ったのだった。シルクブラウスにタイトスカートを穿いた彼女は、後輩の部下とイタリアンレストランにいた。休日対応が早く終わり、ランチでも食べて帰ろうとなったのだった。大人のランチコースをふたつ注文した。何が大人かは訊かないのが大人だと思いながら、先輩、シャンパンとかどうですか? 後輩が目を輝かせながらいう。そうね、と答えてお手洗いに立った。鏡のまえに立つと、個室から出てきた女性が隣で手を洗い、メイクを直し始めた。ウェーブした髪、大きく胸元が開いたシャツ、サテンのパンツにヒール。目の下にそばかすがあって高級そうな香水を漂わせていた。間違いない、スーパーで彼の名前を呼んだ女性だった。思わずバックから社員証が落ちる。あっ、ごめんなさい。いいえ。あら、同じ会社何ですね。えっ? あの坂の上のビルですよね。ええ。ご夫婦何ですか、一度お見かけしたので。彼女はスーパーの名前をいい、自分が隣のマンションの住人であることも明かした。すると女性は、意味深な笑みを浮かべてスッと右手で名刺を差し出し、ファーストネーム呼びに心中穏かではないって顔に書いてある。また会いましょう、彼抜きで。じゃあ、といって女性は化粧室から颯爽と出て行ってしまった。〈フリーライタ アン イェジ〉 彼女は思った。三角関係勃発か? 彼が自分に好意がある前提の話だが、少なくともアン・イェジは競争相手として認めたという事かしら。テーブルに戻ると、後輩はひとりでシャンパンのグラスを空にして、ウェイタを呼んでいる最中だった。食事中も帰りのバスも、新たなフェーズに突入した感のある現実が、彼との対話を余儀なくされているみたいで、帰宅すると、携帯で彼の番号を表示した。情けないが全くもってして通話ボタンを押す気にはなれない。余りにも時間が経ち過ぎて、そもそもお互いに恋愛に発展させる理由が本当にあるのか、あの夜が特別過ぎて、ひとり歩きしているのではなかろうか。いよいよ七艶洞としても、彼女の周囲がにわかに騒がしくなりだして、恋の進展や愛憎の修羅場を期待したくなりそうなのだが、彼女の精神状態や肉体的な疲労度を考えると、のっぴきならない事象は残り一回ぐらいではなかろうかと勝手に判断してしまうのだった。ここまでの彼女は実は本当の彼女自身ではなく、彼女を演じている彼女であり、ここからもっと生々しい彼女をお伝えしたく、もっと近くで彼女を感じる事とにしよう。

     サンルームの窓から夜風が舞い込み、洗い髪と遊びだした。ソファーに座り缶ビールを啜って、携帯画面を見つめる。彼女はポテチをつまみ、東南アジアで買ったシルクのホットパンツに指先を擦る。携帯で呼び出し音を鳴らしたのはそのすぐ後だった。相手はすぐには出なかった、一度切り、もう一度掛けようとすると、相手から掛かって来た。明日逢えませんか、場所は、十一時に噴水公園はどうですか、分かった、じゃあ、といって電話を切った。あれほど悩んだ決断がわずか十秒足らずで終わってしまったのだ。不思議なぐいにあっけなく、彼の声を懐かしむ暇さえなかった。協定維持の確認なのか、互いの想いが満たされるのかさえ分からないまま、彼女は浅い眠りに落ちた。

     近くの野外ステージでは、ラジオの公開収録が行われていた。女性のラジオDJが、曲紹介のときだけネイティブな英語の発音になるので、ゲストの若手ピン芸人が何度もツッコミを入れ、聴衆からの反感を買っていた。可哀そうだよ、本当は全部英語でしゃべりたいんだよ、あんたがゲストだからだ、別に良いじゃないか、何度もいじるなよ、ブッキングがおかしい、彼女に謝れ、もうリズム芸なんて誰もやってないぞ、最前列の親衛隊みたいなひとたちは、今にもステージに上がりそうな勢いで、数人しかいないスタッフが慌てて制止する場面もあった。女性のラジオDJは大人の対応を心得ていて、笑顔を魅せながら、ありがとう、みんな。でもこれはお約束みたいなものだから、私を美味しく料理してくれているんですよ、ゲストのピン芸人はすでに戦意喪失になりながら相槌をうち、責任者みたいな男性から二言三言耳打ちされると、完全に顔が青ざめていたのだった。それでは最後の曲に参りましょう、女性のラジオDJはやはりネイティブな発音で言い終え、語尾の巻き舌に多少の剣があったのを彼女は聞き逃さなかった。おもむろに腕時計を見ると、十一時十分まえだった。気が焦ってかなり早くに到着していたのだ。辺りを見回し、彼を探す。家族連れ、カップル、ランニングする人、清掃員、浮浪者、彼女に向かって近づいて来るチョイ悪オヤジ。えっ? 彼は部長なのか、サングラスにロマンスグレイ、白いシャツにガウチョ的なパンツ、足元は動きやすい流行のスニーカーだった。素敵だ、部長はサングラスを頭にのせ、緊張するね、と言った。そうですね、細いジーンズにノースリーブ、ジャケットは袖を通さずに羽織るだけの恰好をした彼女は、ふたりで園内にあるカフェに移動し、日陰のテラス席に涼を求めて座ると、て驚くほどの沈黙がただ流れるばかりの再会になった。彼女はストローを親指と人差し指で挟みながらアイスコーヒーを啜り、時折上目遣いで彼の顔を眺めてては耳を赤くさせ、部長にいたってはその外見とは対照的に、レモンスカッシュを一定のペースで消費する、ゼンマイ式玩具のようなチャーミングさを見せて、さながら膠着状態で水入りかと思われた。少し痩せた? 部長が食器を落とした店員の、失礼致しました、に続けて言った。色々あって、これでも戻ったのいくらかは。理由を訊いても? 彼女は氷だけになったグラスをテーブルに置き、曖昧な関係だから、といった。彼は少し考えてから、オレと課長が、と訊き返した。職場の延長だと思ってたけど、その、つまりそうなる事を望んでいる? 部長は脚を組みながら手のひらを自分と彼女の間で前後させた。違うの? いくつ離れていると思う、年齢のせいにするの? 大事な事だ思うけど、子供は好きじゃないの、本当いうと。若い男にもトラウマがあって、正直安心感を求めているのかも、絶対的な父性。実は海外赴任の打診をされてる。どこに? 欧州、いつから、まだ分からない、何年ぐらい行くの? 最低三年、支社長としてだ。彼女は溶けた氷をストローの先で弄ぶ。彼女と行くの? 誰? アンとかいうライターのよ。あなたと隣のマンションに入るのを見たし、レストランの化粧室で名刺も頂いたわ。彼は笑った。ひとつハッキリしているのは、今猛烈に煙草が吸いたいという事だけだよ。できればアルコールも。答えて、彼女はあなたの何なの。ふたりで話せば、アンにもそう言われたけど、スーパーでも親し気にしてたし、ファーストネームにくんづけだもの、そういう関係でしょ。 彼女がそう言ったのか? 彼女は頸を左右に振る。さっきの言葉を借りれば、曖昧な関係としか答えられない。怒らせたいの?少し歩かないか? あなたの口から今ここで訊きたいの、答えて。硬い声でいった彼女に、周りの客たちの視線が集まる。ふたりが見つめ合い、しばらくすると何事もなかったかのように周りはそれぞれの相手と語りだした。男女の関係はない。これからそうなるかも知れないし、ならないかもしれない。広報の取材でひと月まえに知り合って、何度か食事したり映画を観たり、ああ、買い物したり。支払いは部長が済ませた。近くの喫煙所で煙草を一本抜いた部長に向かって彼女は、さぞ美味しいでしょうね、若い女ふたりがあなたを奪い合う事になるんですから、私にも一本頂戴。いや、あの、そんなつもりは。火、彼女は細い煙を吐いた。あっという間に短くなった吸殻を灰皿に捨てると、子供じみた考えを伝えずにはいられず、ズルくないですか、イェジとも協定を結びます。えっ? だって、キスしたり寝たりしても片方に嘘ついて両方を食い物にする事だって出来るわけじゃないですか。だったら私とイェジで情報共有すれば、部長はどっちか本気の方にしか手が出せない。彼女は言い終えると二本目を寄こすように手ぶりで伝えた。ちょっと待ってよ、考えが破綻してない? 何が破綻しているっていうの? ふたりで情報共有するのはインサイダー取引のような物じゃないか、インサイダーも何も、そうなっちゃたんだから仕方がないでしょう、イェジだってふたりで話しましょうっていったのは、相手として私を認めたからよ。その相手と仲良くしてどこが悪いのかしら。部長は深く吸いこんで、本妻と不倫相手は犬猿の仲でなければ男は困るんだ、妾や二号さんとは違うんだよ。だったら三人で住めばいいんじゃない?結婚もパートナも全部取っ払って、末永く三人で暮らしましょ。オレは性欲マシーン何かじゃない、ええ、そうね少し言い過ぎたわ、ごめんなさい。男が階段を上って来る。危ない! 部長が彼女の手を引いて、猛スピードでスポーツタイプの自転車が走り抜ける。男は自転車に勢いよく跳ね飛ばされて、階段を転げ落ちた。黒づくめのサイクリストは何かを拾い上げて、そのまま茂みのサイクリングコースに走り降りてしまった。倒れた男に彼女と部長が駆け寄ると、ぴくりとも動かない男の顔を見て驚愕した。あの気色悪い眼球は鳴りを潜めていたが、間違いなく彼女の上司だった。全身暗めのトレーニングウェアではあるものの、上司が休日にウォーキングだなんて聞いた事もない。事態を察した職員や来園者たちが集まりだして、彼女は彼と共にその場を後にしたのだった。心のどこかで今までの罰が下されたのではなかろうかと考える一方で、部長が不思議な事を口にした。自転車ではなく上司から守るために叫んだのだと。ナゼ? と訊き返しても、上司から殺気めいた雰囲気を感じ取ったとしか言わなかったのだ。じゃあ、自転車は偶然? いやそれは分からない。彼女は後味の悪い昼下がりで、これ以上部長と過ごす気力も余力もなかった。部長が気を利かせて、本日はこれでお開きになったのだった。

     男性の新しい派遣社員に後輩がうっとりしている。他の女性社員も何人かは、連日のように可愛いブラウスだったり、好意的なシャンプーの香を漂わせて、フロアの雰囲気も和やかだ、ひとつの空席を除いて。上司は植物状態で、たくさんの管がつながれたまま病院のベッドで眠っているらしい。会社から、見舞いは遠慮するようにと社内掲示板に記載されていた。その真意は分からないが、どうやら上司の奥さんが関係しているらしいとの事だった。もうひとつ、派遣から正社員になった上司の不倫相手も、無断欠勤が続いていたのだ。後輩はカフェオレを飲みながら、えー、見たかったなー、アイツが飛ぶところー。まあ、これでチャラかな。爬虫類のような不倫クズ上司の終焉は、女性社員にとって安寧の職場環境にこの上ない貢献であるのは確かなのだけれど、早めに後任を決めてもらわないと、上長承認が溜まるばかりだ。悲鳴が聞こえたのはその時だった、何、何? 一斉にエレヴェータホールから社員たちが逃げ出す。〈イ・ジウォン!〉 フロアに響く女の声。正気ではない、発狂した人間の手には刃物のようなひかりと、もう片方に焼酎の壜が握られていた。髪を振り乱し、凶器をちらつかせて、もう一度女が叫ぼうとすると、後輩が、もしかして上司の奥さん、えっ? 〈イ・ジウォン! 〉 大勢が距離をとって見守る中、彼女は女に近づいて行く。アンタがジウォン? はい。女が凶器を横に投げ捨て、一同がどよめく。来な、こっちに来なよ。はい。女がまじまじと彼女の身体を見る。今日の彼女はサテンのワイドパンツにヒール、白のシルクボウタイブラウスで、胸元は大きく開き、豊満な胸は綺麗なカーヴで艶めかしい。男が好きそうな恰好ね、この泥棒猫が! 女は彼女の頬を叩いた。ねえ、叩く、ねえ、叩く、彼女の左頬が赤くなる。女は彼女の後ろ髪を引っぱり、言いかい、アンタにはきっちり慰謝料払ってもらうからね、覚悟しな! 女は握っていた彼女の髪を乱暴に離して焼酎の壜を煽った。こっちです、あの女です、数人の警備員が駆け付けて女を拘束し連れ去った。先輩! 課長! 大丈夫ですか? 医務室へ早く。両側を支えられて彼女はエレヴェータに乗り込んだ。放心状態だった。何も考えられず、誰の声も耳に届かなかった。

     警察が静養中の彼女のマンションを訪れたのは、二日後の雨の日だった。スーツを着た男と女の刑事が、一時間ほどの事情聴取を終えて帰ったのだが、彼女の名前を使用した不倫相手の特定には至っていないらしい。彼女は洗面所の鏡を見つめ、まだ腫れが残る顔を鮮明に焼きつけた。あの女も、語った女もすべては嫉妬から、だとすればこれは最高の勲章なのではないか。衝動的に男が欲しくなるのを不憫に思った、部長の声が聞きたくなる、非対称性な心の不安定さがアルコールを欲しがる。冷蔵庫から焼酎の壜を取りだして、グラスに注いだ。口元まで持って行くが、それでは何の解決にもならないと思い始めてシンクに置いた。ふざけてる、社会が、世の中が、クズ男のせいで復讐を企てることさえ煩わしい。彼女はすべてを洗い流すべくバスルームへ向かい、シャワーを浴びた。湯上りにペットボトルの水を半分ほど飲み、髪を乾かした。疲れたのか、バスローブのままベットにダイヴして、携帯を掴んだ。雨音が心地良い。彼女は目を閉じ、身体の向きを変える。胎児のように丸まり、指先から力が抜けた。部長とイェジに明日電話しよう。お母さんからはきっと確認の電話が来る頃だ。もう何も考えられない、右頬のホクロが濡れる。

     七艶洞は見慣れない女の傍で、マジックペンを取りだし、最後の眠りにつく、もうひとりの彼女を眺めた。

     
     
    真夜中なプラスティック、

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